想いを乗せて花は咲く

9日目 3


 拠点に残してきた仕事があるからと、スービエは帰っていった。
 彼の言いなりになるのは癪だが、見込みがない調査をするほど暇でないのは事実だ。関係を進めて、装置に挑まなければならない。
 ワグナスは花畑で摘んだフィネアの花を手土産に、帰宅した。
「ただいま」
 声をかけると、ボクオーンが振り返った。
 今日は見慣れた黒いローブ姿で、顔にメイクだけは施している。
「お、お帰りなさい」
 その声は低い、ボクオーンの地声だ。
 七英雄の拠点よりももっと距離が近い、穏やかなこの空間に帰ってくると、安らぎを感じる。
「綺麗に咲いていたので、君に……やはりこの花は、君に似ている気がする」
 室内に差す夕日に当てられて、ボクオーンの白い頬に赤みがさす。上目遣いに見上げる瞳が潤んでおり、陽の光を浴びてキラキラと揺らめいていた。
 その表情はまるで恋をする乙女のようである。そう思えてしまうのは、ワグナスに下心があるからなのか。
 フィネアの花束を恭しく差し出す。
 指同士がかすかに触れた。ボクオーンの肩が揺れる。それに釣られるように、ワグナスは反射的に手を引っ込めた。
 花を渡した勢いのまま抱きしめてみるつもりだった。だが距離を開けてしまった今、どうすれば良いのだろうか。
「スービエは?」
 従兄弟の名前を出されて、唾を飲み込んだ。頭の中のスービエが次の段階に進めと急かしてくる。
 彼が帰ったことを伝えながら、不自然に宙に浮いていた拳を下ろした。
 そして、意を決して尋ねる。
「君に触れても良いだろうか?」
 金色の瞳が見開かれ、その言葉を反芻するかのように、ゆっくりと瞬かれた。
 いつものボクオーンなら「はいどうぞ」と、手を広げて見せただろう。それなのに、今の彼は心底戸惑っているようだった。
 心臓が早鐘のように打ち始めた。
 拒まれるかと不安になった時、ボクオーンが静かに頷いた。
 震える手を彼の肩に添えて、そっと引き寄せる。
 体を硬くしながらも、抵抗せずに身を任せてくれるのが健気に感じられた。胸に熱が灯る。
 きつく抱きしめてみると、やはり肩幅や骨格は男のそれなのだと分かった。任務のための恋人役の少女。そんな人物は存在せず、目の前にいるのは七英雄ボクオーンである。――ちゃんと、分かっているのだ。
 肩を押されて、距離が開いた。
「花が萎れてしまうので、入れ物を探してきます」
 そう言い残して、ボクオーンは視線を合わせないまま寝室に消えてしまった。
 心臓はずっと騒ぎ立てている。
 胸に手を当てて、ワグナスはそっと息を吐いた。
 この気持ちの昂りは、役に入り込んでいるからなのか。それとも――
 ふと、テーブルの上の日記の存在に気付く。昨日は感情がついてこなくて綴ることができなかったが、ボクオーンは書いてくれたのだろうか。
 ページをめくってみて、目を瞠った。
 書いた記憶がない、ワグナスからの日記が綴られている。
 しかも、この内容はまるで恋文ではないか。
 卒倒しそうになるのを堪えた。
「スービエ……」
 呪いを吐くように、低い声で従兄弟の名を呟く。
 わざわざ筆跡までワグナスそっくりに似せており、ボクオーンを騙すつもりでやっている。――子供の頃に同じ手本で手習をしていたので、筆跡自体が似ているのだ。彼は普段雑に書くので、誰も気付いていないだろうが。
 拠点でやることがあるからと帰って行ったが、これを仕込んでいたから逃げたのだ。
 スービエへの怒りが先立っていたが、不意にワグナスは気付いた。これをボクオーンは読んでしまったのだろうか。
 全身から血の気が引いていった。
 先ほどの不自然な反応は、これが原因ではないのか。
 ワグナスは慌てて寝室へ入った。
「ち、違うんだっ! これは私が書いた物ではないんだっ。愛してない!」
 必死で弁解をする。
 ボクオーンのことを好ましく思う気持ちはある。だが、それはまだ愛ではないし、愛なんて強い感情を持っていい相手ではないことは理解しているのだ。だから、こんな勘違いをされてしまっては困る。
 ふるりとボクオーンの瞼が震えた。
「書いたのはスービエだ。先ほど君を抱きしめたのも、恋人として手を繋ぐことの次の段階は抱擁だと言うから……」
 と早口で説明をしているさなか、ぽつりとこぼれたボクオーンの声が耳朶を打った。
「……愛してないのですか」
 ワグナスは言葉を止め、ごくりと唾を飲み込んだ。
 真っ直ぐにワグナスを見つめるボクオーンの顔に、落胆の色が浮かぶ。その頼りなげな金色の瞳から、涙が一粒頬をつたった。
 衝撃が走った。胸が張り裂けそうなほどに痛みを放ち、同時に抱きしめたい衝動に駆られた。どうして良いのか分からずに、立ち尽くす。
 ボクオーンはため息をついて、手の甲で頬を拭った。
 ワグナスは慌てた。
「そうではなくてっ。スービエの書いた内容が違うというだけで、君のことは好きなんだっ」
 と告げて。何を言っているんだと自分を非難する。
 否定の言葉が出かかったが、ぐっと飲み込む。もう一度否定をしたら、彼を傷つけるかもしれない。だが、伝えるにしてもこんなついでのように告げるつもりなどなかった。いや、違う。そうではなく――。自分でも訳がわからなくなって、「あー」と無意味な言葉を放って天井を仰いだ。
 
 結局、ボクオーンは感情を押し込めて、静かに部屋から出ていった。
 部屋に取り残されたワグナスはベッドに腰を下ろし、頭を抱えた。

 ボクオーンのことを愛そうと思った。それは遺跡の調査のためだけであったはずだ。
 しかし、他人の目からも明らかなほどに、本物の気持ちになりつつあることは、もう認めざるをえなくなっていた。
 

 
 
 夕方の気まずい空気は夜も継続していた。
 情報の共有の後、もう少し古代文字の調査をするというボクオーンに夜更かしをしないようにと告げて、ワグナスは寝室に逃げた。
 ナイトテーブルには赤いフィネアの花が飾られている。
 ボクオーンを思い出しながらワグナスは花に触れた。遺跡の転移装置を起動させるための恋心だったはずだ。それが真に迫っていることは、本来喜ぶべきことなのだろう。だが――
 長い指先で優しく赤色を撫でながら考えてみても、言い訳しか出てこない。そもそも、何に対しての結論を出したいというのか。
 花瓶の隣に置いた蝋燭にそっと息を吹きかけ、ワグナスはベッドに横になった。

 ――夢を見た。意識が泥沼に引き摺り込まれるように、ズブズブと沈んでいく。

 高台の上に突き刺さる磔台。
 それを目にした瞬間、全身の血液が凍りつき、心臓が嫌な音を立てて軋みを上げた。
 冷たい汗がじわりと滲み出し、全身の毛穴という毛穴が恐怖で逆立った。
 吐き気を催すほどの忌まわしさに、思わず目を逸らす。
 ここはアラバカンの丘。かつて、英雄と呼ばれたワグナスが、王殺しの罪をなすり付けられて、磔刑に処された場所。そして七英雄が異世界に追放された、忌まわしい場所だ。
「私があなたを愛しているわけがない」
 背後から、ぞっとするほど冷たい声が響いた。聞き慣れた、しかしいつもとは異なり、胸を抉るような鋭い響き。ボクオーンの声だ。
 恐る恐る振り向くと、黒いローブを身に纏った、男――常の姿をしたボクオーンがいた。
 目を細めて、顎を上げて見下ろしている表情は、蔑みと怒りが宿っていた。
「……絶対に認めない」
 主語が何かは分からない。
 だが、この場で糾弾されるものがあるとすれば、己の不甲斐なさだろう。ここで一人、朽ち果てればよかったのだ。そうすれば、皆はそれぞれ幸せな、光り輝く道を歩んでいただろう。それなのに皆を巻き込み、流刑の憂き目に合わせ、終わりの見えない復讐の旅を背負わせてしまった。
「あなたが愚かだったから、皆が巻き込まれたのです」
 ボクオーンの声は容赦なく、ワグナスの罪を告げる。
「……すまない」
 絞り出すように謝罪を口にする。その声は掠れて弱々しく、彼に届かない。
 恨みは、初めこそ自分を陥れた大神官に向いていた。感謝の言葉が欲しかったわけではないが、恩を仇で返した民衆を呪った。だが時が経つにつれて、もう少しやりようがあったのではないかと、自責の念が強くなった。
 ボクオーンの背後には、闇に溶け込むよう、暗い表情でワグナスを責める他の仲間達の影もあった。
「他に行く宛がないから、あなたに従っているだけです。私はあなたをリーダーだなんて認めない。――復讐を忘れて、恋愛ごっこにうつつを抜かすなど、愚かな」
 これを夢だと切り捨てるには、あまりにも生々しく、鮮明だった。
 
 甘い香りが、ほのかに漂う。
 視界の片隅で赤い影が揺れた。フィネアの花のような、鮮やかな赤。
 憎悪のこもった、粘りつくような視線が、心の奥底に秘められた、魂の最も弱い場所を抉る。
 それはあの遺跡で感じた――

「ワグナス殿っ!」
 名を呼ぶ声で、ワグナスの意識は底なし沼から引きずり出された。
 冷たい汗が全身に張り付き、肌にまとわりつく。心臓は激しく脈打ち、その音は耳の奥で轟いていた。
 ぼやけた視界の中に心配そうなボクオーンの顔があった。
 蝋燭の火が揺れる度に、ボクオーンの顔に影が差す。
「うなされていましたが、大丈夫ですか」
 ワグナスは体を起こし、片手で顔を覆って大きく息を吐いた。体が鉛のように重い。体内に蓄えられた魔力が空っぽになったような、そんな種類の倦怠感に襲われる。
 ボクオーンの手のひらが、労るようにワグナスの背中を撫でた。
 落ち着かなければと、深呼吸をした。
 悪夢の残り香が全身にまとわりつく中、控えめに漂う清涼な香りがそれを打ち消してくれるようだった。――何の香りだろう。ボクオーンだろうか。
「……私に謝っていたようですが、どのような夢を?」
 言おうか言うまいか、躊躇う。
 常であれば弱っている姿は絶対に晒せない。リーダーとして、どんな時も毅然としていなければならないから。
 だが、向けられる瞳がとても優しくて、それに縋り付きたくなった。
 夢の内容を断片的に、しかし偽りなく伝える。
「私が巻き込まなければ、今頃皆はそれぞれの幸せな道を歩んでいたかもしれない」
 甲高い音が響く。
 ボクオーンが両側から挟むようにワグナスの頬を叩いた音だ。
「我々は自ら望んであなたに従っているのです。皆、自分の道くらい自分で切り拓けます。みくびらないでいただきたい」
 呆然とするワグナスに、ボクオーンは苦笑を浮かべた。その指が優しく頬を撫でる。
 たかだか夢だと言うのに、胸は抉られ、心が氷のように凍えている。風化しかけていた悲痛と後悔とが鮮やかに蘇り、心を蝕んでいた。
 しかしボクオーンの手のひらから伝わる温かさが、じんわりと胸に沁みて、光の方へ誘ってくれる。
 ボクオーンはワグナスの額にそっと唇を落とし、そして優しく微笑んだ。
「私も、あなたのことが好きですよ。どこまでもお供いたします」
 ボクオーンはワグナスの頭を抱えるようにして、抱きしめた。
 凍えかけた心を溶かすように。愛情を注ぐように。
 ワグナスは目を伏せ、その心地よい温もりに身を委ねた。その瞳から涙が溢れる。
 全身を包み込む安堵感に浸りながら、ワグナスは穏やかに眠りに落ちていった。

 
 小鳥の囀りが、外から聞こえてくる。
 窓から差し込む朝日が眩しくて、ワグナスは目を覚ました。
 腕の中の温もりが心地よく、離したくなくて、自然と抱きしめる力が強まる。
 ――抱きしめる?
 目を凝らすと、目の前にはすやすやといとけない表情で眠るボクオーンの姿があった。
 同じベッドの上。自分の腕の中に。
 ワグナスは咄嗟に自分の寝巻きが乱れていないことを確認した。そしてボクオーンの方も問題がないことを確かめて、ほっと息を吐く。
 昨晩の喪失感は消えていた。
 たかだか夢で、みっともない姿を見せたと反省しているうちに、視界の片隅にナイトテーブルが映った。
 ぞくり、と、肌が粟立つ。
 燭台の隣。
 そこには、昨晩ボクオーンが飾っていた赤いフィネアの花が、今は紫色の花びらを鮮やかに開いて、佇んでいた。
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