想いを乗せて花は咲く
9日目 1
九日目。
『心を重ね、互いを映せ
意志を共鳴させし時
縁の導き、門を開く
同時に触れよ』
ワグナスとスービエが遺跡に向かっている間、ボクオーンは寝室にこもって古代文字の翻訳をした。
スービエが土産に持ってきた書物は、同じ言語で書かれた手記と絵本、この地方の歴史書などだ。手記には現在の言葉でのメモも残っており、これが翻訳作業の大きな助けになった。
言語が特定できれば解読も捗る。
「同時に触れよ」
その言葉を口にして、考える。
上に書いてある細かい条件を無しにして考えると、同じタイミングで触れれば良いだけになる。ならば、装置が複数あって、それを同時に操作する可能性はあるだろうか。
他の部屋を調査したが、それらしき装置はなかった。
ただし、遺跡の本殿とは別の場所で、青い壁の部屋が発見されている。そこにもう一つの装置があったかもしれない。だがおそらく、あの部屋が破壊されたのは、財宝を持ち帰った成金息子の親の代よりずっと前だ。
背もたれに寄りかかり、天井を仰ぐ。
先日のワグナスとの会話を思い出す。崩れていた部屋の水晶は、物取りに盗まれているとボクオーンは予想している。
一方、本殿は綺麗な状態で保管され、内部には動く物の気配はない。
「何かいるかもしれませんね……」
付近の動物や魔物が忌避するような、上位の存在が――。
鋭い西陽が目を刺す。
眩しさに目を細めながら、窓の外を眺めてみた。世界は夕焼け色に染まっている。
作業を進めたいが、ワグナス達が帰ってくるので夕飯の支度をしなければならない。自分ひとりであれば食事を抜くが、同居人がいるのでそちらを優先しなければ。と、席を立ったところで、手をついたところにある絵本が目に留まった。
絵本には翼の生えた人が描かれていた。かつてこの地に有翼人がいて栄華を築き、やがて滅んだという話だ。
有翼人、浮遊島、風の神様――それらの言葉が頭に浮かぶ。地を這う人にとって、大空を駆ける有翼人は信仰の対象となりうるだろう。と、ついつい考察が始まりかけて、慌てて頭を振った。
「夕飯、夕飯」
強引に思考を切り替えて、夕飯のメニューについて考える。時間も惜しいので、パンを齧るだけで良いのではないかと思いついたが、食事を楽しみにしていると言っていたワグナスを思い浮かべて、思いとどまった。
居間に入ったところで、ふと、テーブルの上に置かれている日記に視線が吸い寄せられた。
昨日分の日記はなかったので、今朝ワグナスが書いたのだろうか。
昨日の気まずい空気は朝も継続しており、彼とは全く視線が合わなかった。調査をしたいこともあり、ボクオーンは朝食後すぐ、逃げるように寝室へ移動した。
その後、出かけるまでの間に書いたのだろうか。
日記を開くと、新しいページに流麗なワグナスの筆跡で文字が綴られていた。
【拝啓 風薫る季節、緑も一段と深まりゆくこの頃。
君の健やかな日々を祈る。
今朝方の夢で君に会った。
君はフィネアの花冠を乗せていた。
こちらを振り返って微笑む顔が光輝いて、とても眩しかった。
目が覚めた後もしばらく心が熱を帯びていた。
昨日は変な態度をとってしまったことを、詫びたい。
今の関係は、調査のための偽りの物だと頭では理解している。
だが、君にそれを肯定された時、驚くくらいに衝撃を受けた。
感情が制御出来ないことに、自分でも戸惑った。
互いに与えられた役割を果たす中で、私はいつしかその境界を忘れつつある。
今なら、偽りの恋人という建前で、君に触れることを許してくれるだろうか。
この穏やかで幸せな日々が終わる時に、この感情もまた、消えるのかもしれない。
それが約束であるはずなのに、とても惜しいと思う気持ちが、日々膨れあがっている。
私はどうすれば良いのか。
君は同じ気持ちでいてくれるだろうか。
この、君を愛おしく思う気持ちと――
敬具
ワグナス
】
「はぁ!?」
思わず声をあげて、ボクオーンは勢いよく日記を閉じた。
早鐘を打つように胸が騒ぎ出す。全力疾走をしたように体全体が熱くなり、汗が吹き出し、息苦しくて呼吸がままならない。
これは交換日記というよりは、恋文だ。
「恋文?」
恐る恐るその単語を口にして、体が跳ねた。
鼓動がうるさすぎて、耳にまで響いている。
今までの日記でも、感情が偽りの関係に引っ張られていることはあった。自分を偽れないワグナスだから気にしていなかったが、今回のは明らかに違う。はっきりと恋心を自覚をした上で、ボクオーンに触れたいと、この気持ちを忘れたくないと綴っていた。
最後の一文、『君は同じ気持ちでいてくれるだろうか』。もしもそれを直接問われた時、ボクオーンはどう返事をするのだろうか。
今のワグナスとの関係は仮初めの恋人に過ぎない。
ワグナスがあまりにも初心で恋愛経験がないから、真剣に向き合って、徐々に心を通わせるふりをしているだけなのだ。
ワグナスの気持ちが本気になることも、可能性の一つとして考慮には入れていた。しかしそんな事態となっても、ワグナスはそれを表には出さないと思っていた。だからこの調査が終わればいつか消えるという確証はあった。
なぜなら、ワグナスが心を寄せるのは、ボクオーン自身ではない。メイクで顔の雰囲気が柔らかく、穏やかで人当たりがよく気立もいい、偽りの人間なのだから――
かちゃりと音を立てて玄関の扉が開く。
「ただいま」
穏やかな声が聞こえてきた。
ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。心を揺さぶり、胸を締め付ける。それは恋の香りのような――。
振り向くと、いつもの白を基調とした服を身に纏うワグナスが立っていた。
背後から鋭い夕陽を受けて、ワグナスの姿の輪郭が溶けた。その中で、フィネアの花だけは、茜色の光を浴びて鮮やかな朱に染まっている。
「お、お帰りなさい」
迎える声が掠れた。
ワグナスが歩くたび、床が軋みを上げる。
ボクオーンには日記への動揺がまだ残っていたから、戸惑って、一歩後ずさった。まだ思考の整理ができていない。もう少し時間が欲しかった。
背後のテーブルに背中が当たり、逃げ道を失う。
「綺麗に咲いていたので、君に……やはりこの花は、君に似ている気がする」
差し出された花束を受け取る。その拍子に指先が微かに触れ合い、肩が跳ねた。
ワグナスもまた指が震え、慌てて手が離された。動揺するかのように視線を彷徨わせて、引いた手をどうすれば良いのか迷うように、握ったり開いたりを繰り返している。
「スービエは?」
「ん? 拠点でやり残したことがあるからと、帰って行ったよ。君の依頼の結果は私が聞いてきたから、問題はない」
見上げると、グレーの瞳と視線がぶつかった。
目が離せなくなって、二度、三度と瞬きをする。
胸の鼓動は高鳴ったまま。どうすることもできずに立ち尽くす。
「君に触れても良いだろうか」
脳裏に日記の一文が蘇った。
息を吸い込む。ひゅっと音が鳴った。
いつもはよく回る頭が、固まって動かなくなる。
ワグナスの硬い表情の中で、その瞳が優しく細められた。ボクオーンは視線を逸らすように俯いた。
それを肯定と取ったのか、ワグナスの長い指が震えながら、そっとボクオーンの肩に触れた。優しく引き寄せられて、彼の胸に顔を埋める。
外気を浴びて冷えた、滑らかで吸い付くような布の質感を頬に感じる。だが、ボクオーンの火照った顔を冷却するには至らなかった。
ドクン、ドクン、と。心臓の音が激しく打つ。
こんなに大きな音ではワグナスに聞こえてしまう。身を引こうとしたが、それより先にワグナスの腕が背中にまわり、強く抱きしめられた。
そして気付く。
今感じている鼓動は、ワグナスのものだと。
震えるワグナスの腕。身体中で感じる熱。それらに誘われるように、ボクオーンの胸の奥深くの、蓋をして閉じ込めていた場所から熱い感情が溢れ出してくる。
彼を愛おしく感じる気持ちが――
それに気付いた時、体が震えた。
――違う。
ボクオーンは否定をした。
自由になる指先に力を込めて、フィネアの花を握りしめる。
――認めない。絶対に認めない。
軍師たる自分が、理論的に物事を考える役割の自分が、感情なんかに流されてはいけない。
これは全て偽りの気持ちなのだ。
自分は誰も愛さない。心を寄せたりしない。七英雄の仲間に対しては長い付き合いなので愛着はあるし、それなりの信頼感はある。だが、常に線を引いて接するようにはしているのだ。
彼らのために知恵を振るうことは本懐だ。命をかけることは厭わない。
だが、心の底から信じてしまっては、心を寄せてしまってはだめなのだ。
感情を切り離した判断ができなくなるから。
――あの時のように、判断を誤ってしまうから。
そう思うのに、感情がついてこない。
胸がぎゅっと締め付けられる。
苦しさに耐えられず、ボクオーンはワグナスの胸を押し返した。
「花が萎れてしまうので、入れ物を探してきます」
俯いたまま告げた言葉は掠れていた。
ボクオーンは逃げるように寝室に入り、ベッドにへたり込んだ。
紅潮した顔も、潤んだ瞳も、騒ぎ立てる鼓動も。ワグナスに気付かれていないと良い。
――認めない。
今は初心なワグナスにつられて、役に入り込んでいるだけだと、必死に言い訳をする。
――ワグナスのことなんて、愛おしいと思っていない。愛してなんかいない。
気持ちを落ち着けようと深呼吸をする。
バタンっ、と音を立てて扉が開いた。
突然のことにボクオーンは飛び上がった。
先ほどまでとは別の意味で鼓動が跳ねる。
「ち、違うんだっ!」
かつてないほどの必死な形相でワグナスが叫ぶ。
「これは私が書いた物ではないんだっ。愛してない!」
交換日記を掲げられて、ボクオーンはぼんやりとそれを見上げた。
愛という強い言葉への驚きと、懸命に否定をするワグナスにショックを受ける気持ちが混ぜこぜになる。
「書いたのはスービエだ。先ほど君を抱きしめたのも、恋人として手を繋ぐことの次の段階は抱擁だと言うから……」
「……愛してない、のですか」
衝撃から立ち直ることができずに、ポツリとこぼす。ワグナスは言葉を止め、喉を鳴らした。
混乱する頭で、ぼんやりとワグナスを見つめたまま、瞬きをする。その金色の瞳から、ぽろりと、涙が一粒こぼれた。
ワグナスの目が驚愕に見開かれる。
ボクオーンはため息をついて、手の甲で目元を拭った。
先ほどの感情の昂りで目に涙が溜まっていたので、そのせいだろう。ワグナスから否定をされたことが、悲しかったわけではない。
「そうではなくてっ。スービエが書いた内容が違うというだけで、君のことは好きなんだっ」
「す、好き!?」
ひゅっと息を呑む。
一度は落ち着いた胸の内が再び荒ぶる。
ボクオーンの反応から、ワグナスは自らの発言を顧みたのか、口元を押さえて頬を染める。
そして「あー」と彼らしくなく声をあげて、両手で顔を覆って天井を仰いだ。
ボクオーンの情緒は崩壊寸前だった。
「少し落ち着きましょう。二十秒ください」
ワグナスからは返事はなかったが、ボクオーンは手で顔を覆い隠して蹲った。深呼吸を繰り返すこと数回。
宣言通りの二十秒後に、感情を無理矢理平坦にしたボクオーンは立ち上がった。
この村で付けていた仮面を剥ぎ取り、鋭い眼差しをワグナスへ向ける。
「醜態を晒して申し訳ありません。夕食の支度をしてきますので、ワグナス殿はお休みください」
「あ、ああ……」
ボクオーンはキリリと表情を引き締めて、口元に余裕を持った笑みを浮かべた。
戸惑いの表情を浮かべるワグナスの横を抜けて、ボクオーンは居間へと移動する。
そして、手桶に水をすくい、誰かが訪ねてくるかもしれないからと施していた、仮初めの自分を象徴するメイクを落とした。