短編

バレンタイン


 兵舎でノエル達と打ち合わせをしてから、ワグナスの屋敷に向けて歩いていた時のこと。
 ボクオーンが通りを歩いていると、頻繁に通っている店の女性店員に呼び止められて、緑色の紙で包まれた何かを差し出された。これが何かを問えば、チョコレートだと返される。
 今日はバレンタインデーだ。
 一般的には恋人たちが贈り物をする日であるが、近年では想いを寄せる女性から男性へチョコレートを贈る日という扱いにもなっている。
 目の前の女性がボクオーンにチョコレートを渡したいということは、つまりは、そういうことなのだろう。思い返せば、共通の話題があったのでそれなりに親しく会話をしていたような気もする。
 包みを持つ指先を震えさせて、頬を染めて俯いている様が、健気というよりも哀れに思えた。
 自分には恋人がいるので気持ちに応えられない旨を告げたが、それでもチョコレートだけは受け取って欲しいと食い下がられた。
 以前のボクオーンならば、無言で踵を返して立ち去っただろう。
 だけど今はその恋心というものが少しは分かるようになってしまっていたから。自分も大切な人に送るためのチョコレートを鞄に忍ばせていたから。哀れな女性の差し出すそれに手を伸ばした。
 彼女の想いは成就しなかったというのに、嬉しそうに微笑む姿が本当に滑稽で、とても不憫であると思ったのだった。

 ワグナスの屋敷にある執務室を訪れる。
 本日のワグナスは終日屋敷にいるようだ。ボクオーンも一緒に作業をしたり次なる作戦を練ったり、時間があれば兵舎にある訓練場に行って汗を流してもいいかもしれないと思っていた。
 部屋に入ると、日当たりのいい執務机に座ったままのワグナスが笑顔で迎えてくれる。柔らかい陽光に照らされて白い衣服が眩しいくらいだ。今日も神々しくて麗しいなと、彼の信者のように胸中で称えた。
 挨拶をしてから、ボクオーン用にあつらえた机に荷物を乗せる。
 鞄の中からワグナスに提出しようとしていた書類の束を出した時、一緒に緑色の包みも転がり落ちていった。
「それは?」
 床に転がるそれに手を伸ばしたとき、ワグナスが問うて来た。
「ああ、ここへくる道すがら、渡されたのです。今日はバレンタインデーらしいですよ」
 包みを拾って手にしたままの状態で、返事をする。
 ワグナスからの相槌がないことを怪訝に思い、そちらへと視線をやれば腕を組んで不機嫌そうに顰めっ面をしたワグナスがいた。
 うわぁ、面倒なやつだとボクオーンは内心ため息をついた。何が彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか。
「どうしましたか?」
 ワグナスは無言で自身の顎を撫でていた。ボクオーンの問いかけを無視している雰囲気ではない。言葉を選ぼうと苦心している様子だ。
「君は、その……。その女性と付き合いたいと思っているのか」
「……。どういう意味ですか?」
「いや、チョコレートを受け取ったから」
 ボクオーンの怒気が伝わったのか、しどろもどろと言葉を紡ぐワグナス。
 はぁと大きく息を吐いて、ボクオーンは道中でのやり取りを丁寧に伝えた。その上で、問いかけてみる。
「ワグナス殿だってチョコレートくらい貰うのでは?」
 だからつべこべ言うなの意を含めて。
 しかしワグナスは首を振った。曰く、義理であろうと本命であろうと全てを断って受け取っていないと。真面目で融通が効かないところがあるとは思っていたが、これはなかなか筋金入りだな、という感想を受けた。よくよく考えれば、身分も地位もある彼の立場上、チョコレートに限らず、おいそれと贈り物を受け取れないという事情もあるのかもしれない。
「私から気持ちを返せない以上、相手の想いが込められている物を受け取るべきでないと思う」
 それがおそらくワグナスの優しさなのだろう。そうだな、確かに誠実であると思う。
「それでは、いかなる理由があろうともチョコレートは受け取らないと?」
「ああ」
「親友の妹という近い存在であっても?」
「……断っているよ。例外を作っては公平ではないからな。正直断るのも心が痛むし、迷惑なイベントだと思っているよ」
 さすがはワグナス様だ。親しい仲なら良いのではとか、見つからなければいいのではとか思ってしまうボクオーンではこうはいかないので、素直に尊敬する。
 ただ、こっそりと鞄の中に忍ばせた、ワグナスのために用意したチョコレートの存在まで否定されている気持ちになって、暗澹とした気持ちになる。ボクオーンは『ワグナスが気持ちを返せる』唯一の例外だということは理解はしている。しかし送り主の思いが込められているは同じであるし、所詮はただのチョコレートだ。何の違いがあるというのだ。
 ましてや、そのたかがチョコレートを受け取っただけで、心変わりを疑われるのか。
 どろりとした黒い感情が胸の内で渦を巻く。それらをうまく制御できずに、手にする緑色の包みに視線を落として押し黙った。
 二人の間に沈黙が落ちた。
 苛立っているのはボクオーンだけではない。ワグナスも同様であった。
「君こそ、なぜそれほど気にかけるのだ。君にとって、そのチョコレートには意味があるというのか」
 あるわけがないだろうと胸中で吐き捨てたボクオーンの口から、チッ、と舌打ちが漏れる。
 ワグナスの体が震え、姿勢が正される。彼は驚いたように瞳を見開いて、ボクオーンを見つめていた。
 ボクオーンは緑色の包みを鞄にしまい、白い包装に黄緑色のリボンが結ばれている箱を取り出した。ワグナスに提出する予定だった書類の束の上にそれを載せて、ワグナスの執務机を挟んで彼の前に立つ。
「今日はもう帰ります」
 抑揚のない低い声で告げて、机の上に書類ごとチョコレートを叩きつけた。


 その後、どのようにしてワグナスの部屋を辞したのかはあまり覚えていない。
 怒りに我を忘れるとは、軍師失格だ。常に冷静であれ。感情に揺り動かされるな。日頃からそうあろうと心がけているのに、とんだ失態だ。
 ワグナスと共にあると、良くも悪くも感情が揺さぶられる。普段はそれも人間らしくて良いかと思えるが、今回のは自分の未熟さが引き起こした結果だ、反省点しかない。
 ワグナスのもとで実施する予定だった書類仕事は図書館で行うことにした。自分の部屋や兵舎ではワグナスが訪れてくるかもしれないので、できるだけその可能性を排除したかった。
 ――追いかけてくることは疑わないか、と自身の思考に思わず舌打ちをして歯を食いしばった。
 甘えている。己の感情を制御できずに腹をたて、自ら彼の元を去ったというのに、ワグナスの方が折れて迎えにくるのが当然と思うなど、なんという傲慢か。
 そうだ。いつだって彼はボクオーンを甘やかす。
 ことあるごとにボクオーンを賛辞し、心からの愛の言葉を述べて、大きな愛で包み込んでくれる。
 それに対して自分はどうだ。愛を享受するだけで、どれだけワグナスに返せているというのだ。言葉で愛を伝えることもしていない。これでは心変わりを疑われても怒る権利などないではないか。日頃の自分の怠慢が招いた事態だ。
 深呼吸をして、目の前に展開した地図と次の作戦の草案をまとめた紙へと視線を落とす。
 自分の役割は皆を勝利へと導くことだ。私情など交ぜてはいけない。感情など切り捨てて、合理的に、かつ効果的に軍を動かさなければならない。仲間たちはもちろん、自分すらも、場合によってはリーダーであるワグナスですらも駒にして、勝利を掴み取る必要がある。そのためにボクオーンはこの軍に参加したのだ。自らの力を試すため。自分を蔑ろにしてきた世間を見返すため。そして、あの人が見せてくれた光を――彼の夢と望みを叶えるために。
 その目的を第一に考えるのであれば、無駄な感情に振り回される要因なんて切り捨てるべきではないか。こんな重たい愛などなくても、彼のために尽くすことはできるのではないか。
 これまでだって不要な物は切り捨てて生きてきた。同じようにすればいいだけだ。
 しかし、その可能性を考えるだけで、胸が重くなる。
 乱れる感情の波を無理矢理に平静にさせて、考える。
 そしてやはり彼の傍にいたいのだと再認識をする。無辜の民のために心を痛める慈悲深さも、それらを救うために自己犠牲を厭わない献身も、皆を救いたいなんて夢物語を叶えようとする愚かしさも、純粋さも。全てが愛おしくて、彼の傍で見届けたいと強く思う。志を同じなんて意味では他の仲間たちには敵わないから、ならばせめて別の形でワグナスの特別になりたい願う自分がいる。
 ――ワグナスを切り捨てるなんて、考えるだけ無駄だったなと結論づけて、ため息をついた。
 どの面を下げて戻ってきたと言われるのを覚悟で謝罪をしに戻るかと、荷物をまとめようとしたところ、
「ボクオーン」
 と名前を呼ばれる。
 声の方を向くと、そこには息を切らせたワグナスが立っていた。髪を乱し、額に汗を浮かべて、懸命にボクオーンのことを探していたのだろう。険しい顔でボクオーンのことを見下ろしていた。
 探しにくることは予想はしていたが、あっさり見つかったことと、想像以上の必死さに安堵する自分がいた。我ながら、性格が悪いことに。
「少し話す時間をくれないか」
「ええ。私も、話したいと思っていました」
 流石に図書館では話すことができないので、ここから近い場所にあるボクオーンが借りている部屋へ移動をした。
 道中の会話はなかった。
 ワグナスは始終難しい顔をしていたし、移動中に込み入った話しをするのも憚られたからだ。おそらく、ボクオーンの表情とて似たようなものだろう。
 ボクオーンの部屋につくなり、ワグナスは頭を下げてきた。ほぼ直角だ。長くて美しい髪が床につきそうなほどに頭を下げている。
「すまなかった」
 その角度に面食らっているうちに、先に謝罪を受けることになってしまった。
「今回のは全面的に私が悪い。自らの意見を押し付けて勝手に嫉妬をしただけだ。あげく、君の気持ちに疑いを持つような言葉を放ってしまった。言い訳になるが、本心から疑っていたわけではないのだ。少し、拗ねて、意地悪な言い方をしてしまった。その結果、君を不快にさせてしまった。本当に、申し訳なかった」
「……。いいえ。私も悪いのです。ワグナス殿がそういう考えで、不快に思うのならばチョコを返すなりすればよかっただけです。そもそも、不要なものをあなたの目に触れさせたのは私の落ち度です。申し訳ありません」
 ボクオーンの方はごくごく普通の角度で頭を下げる。
 ほぼ同時に頭を上げた。視線が合うと、謝罪を受け入れれられて安堵したのか、ワグナスの表情が緩んで柔らかい微笑みを浮かべる。
 どきん、と鼓動が高鳴る。
 彼の好きなところはたくさんあるが、この微笑みが好きなのだ。自分とて容姿は良い部類だとは思うが、目の前の男は別格だな、と思う。
「私は君に甘えすぎているようだ。本当にすまない」
「そう……でしょうか?」
 いまいちピンとこなくて首を傾げると、ワグナスは腕を組みながらゆっくりと頷いた。
「我儘を言っても、文句は言いつつも苦笑しながら許容してくれる。それに胡座をかいていたな。本当にすまない」
 苦笑しながら許容……そんなことがあったかなと考え、思いついてぼそりと呟いた。
「リーダーだから後ろに下がっていろといっているのに前に出てきたり、人が立てた作戦を無視して動いたり……」
「そ、それは。すまないとは思っているが、現場判断で……」
「その場のノリで気楽に、事前に綿密に立てた作戦を台無しにしますよね。ワグナス殿に限ったことではありませんが。その後のリカバリープランを即座に考えことにどれだけ苦心をしているか……ああ、思い出したら腹が立ってきました。あれは許容しているのではありません。そうせざるを得ないだけです」
 目に見えて狼狽えるワグナス。
 ふっ、とついつい笑みが溢れる。そんな様子を見るのが好きな自分の性格の悪さに呆れつつも、つま先立ちになってワグナスの首に腕を回して抱きついた。ワグナスの方からもきつく抱きしめられる。
 その温もりに心底安堵をすると、今まで胸に詰まっていたドロドロしたものがスッと浄化されていくのを感じた。
 全くもって厄介なものだ。愛という感情は。
「正直、私は感情を揺さぶられるのが大嫌いです。感情を切り離さなければ、合理的な思考ができないからです。ですが、あなたと一緒にいると思いもよらぬ方向から心が乱されます。振れ幅がとてつもなく激しくて、持て余しそうになります。そんなものは全て切り捨ててやろうかと考えました」
 ワグナスの体が緊張で固くなる。
 ここで言葉を止める自分は、本当に意地が悪いと内心呆れながらも腕に力を入れて、彼の肩に額を押し付けた。
「でも、無理でした。自分で思う以上に、私はあなたに執着しているようです。……好きですよ」
「ああ……ありがとう。私もだ。愛している」
 ワグナスの指が頬に優しく添えられる。上を向かされたのでそれに従い、唇を重ねる。二度、三度と触れるだけの戯れのような口付けを交わして、だんだんと気分も盛り上がってきた。
 ちょうど自分の部屋であるし近くにベッドもある。このまま雪崩れ込むかとワグナスの衣服に手をかけたとき、ことりと何かが床に落ちた。
 視線を落とすと、そこには黄緑色のリボンがついた白い包装の箱がひとつ。
 ワグナスが屈んでそれを拾い上げる。大切そうに胸に抱く姿を見とめて、少しだけ気恥ずかしくなって視線を逸らせた。
「これは、私がもらってもいいのだろうか」
「はい。あなたはチョコレートなどいらないかもしれませんが」
「そんな意地の悪い言い方をしないでくれ。君からのチョコレートは、心底嬉しいと思うよ」
 ふわりと微笑むその顔が視界の片隅に映り、気恥ずかしさで頬を染める。それを気取らせたくなくて踵を返して部屋の中へと入った。
「走り回っていたみたいですし、喉も乾いたでしょう。お茶を淹れるので、茶請けにしてください」
 ワグナスがテーブルへと移動する。
 破かないように丁寧に慎重に包装を解くさまを眺めながら、茶の準備をする。
 しかし自分の目の前で開けさせるか……と考え、ますます頬が熱を持つのを感じた。
 そういえば、あれを買う時は自分も少しテンションが上がっていた。美味しそうな小粒のものや、デザインが凝ったものが鎮座する中で、自分の愛の大きさはこのくらいかと特大のハートの形を選んでしまったのだから。――よくよく考えると浮かれすぎでは?
「あぁ!」
 何やら悲鳴が聞こえ、どうしたのかと顔を上げる。
 椅子に座っているワグナスは箱を手にして小気味に震えていた。
 何か不備でもあったのだろうかと近寄って箱の中を覗き込んでみると、特大のハートは中央付近で真っ二つに割れていた。
「ああ。思い切り叩きつけましたからね」
「その前の舌打ちも含めて、あれは迫力があったな……」
 と告げて、ワグナスはうな垂れる。あまりな落ち込みぶりに呆れ交じりの息を吐いて、よしよしと宥めるように頭を撫でてやった。
「執務室ではチョコレートなんて迷惑だ、なんて言っていたくせに」
「それは悪かったと謝っている。君からのチョコレートは別に決まっているだろうっ」
 勝手だなぁと思いながら、ボクオーンは割れた片方のチョコレートをさらに細かく割ってワグナスの口の前に差し出した。素直に口が開かれたので、その中に放り込んでやる。
「食べてしまえば形なんて関係ありません。つべこべいわずに、私からの愛を余すことなくお食べなさい」
 次なる一欠片を差し出すと、指ごと食われた。
 目を細めて、悪戯が成功した子供のように微笑むワグナスを見て、ボクオーンはやれやれと苦笑を返したのだった。
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