短編

幻影のワグナスとボクオーン

君を想う追憶の場所で


 目覚めた時、ワグナスはアラバカンの丘の磔台の前に立っていた。手には胡蝶の剣。
 侵入者を迎えるように、丘の頂へと登る道の方を向いて。
 乾いた風が草木の香りを運び、磔台の丸木を軋ませる。風が止むと、草木の息吹も動物の気配も希薄な静寂が、丘を包んだ。
 
 自分が何者なのかはひどく曖昧だ。だが、七英雄としてタームと戦った記憶も、それ以前の細やかな感情も、確かに残っている。
 ただ、なぜ自分がここにいるのか。それが分からない。
 そして、自分が本物のワグナスではなく、何者かに作られた存在であることは感覚的に分かっていた。
 近くにクイーンの気配を感じるので、それと関係あるのだろうか。 
 自分の存在理由が判明したのは、皇帝を名乗るものが目の前に現れたときだ。彼の覚悟を試し、自分の能力と愛剣と世界の行く末を、今を生きる者に託すことが、自らの役割だったのだろう。
 役割を終えたワグナスは、このまま消えるものと思っていた。
 しかし、クイーンの気配が消えて以降も、状況は変わらなかった。
 ワグナスは侵入者を迎えるため、磔台の前に立つ日々を送った。

 そんな時、彼が現れた。

「ご無沙汰しております、ワグナス殿」
 黒いローブを身に纏った赤髪の男が、麓の方から歩いてくる。
「ボクオーン!」
 予想外の来訪者に、ワグナスは喜びに顔を輝かせて、彼へと駆け寄った。
 普段は鋭く光る瞳が、今は穏やかに細められている。七英雄がひとりボクオーンは笑みを浮かべた。
 かつて、彼はワグナスにとって最愛のひとであった。
 今の自分には使命があったので、彼のことを考えないようにしていた。だが、彼を前にすると心に熱が灯り、愛おしさが全身を駆け巡る。
「会いたかった」
 告げて、抱きしめた。
 抱擁をするのも久しぶりだ。彼の温もりと匂いは、記憶の中と寸分も違わない。懐かしさと一緒に涙が込み上がってきたが、流すことは耐えた。嬉し涙とはいえ、人に見せるのは気恥ずかしい。
 腕の中のボクオーンが身を強張らせる。彼も久しぶりで緊張しているのだろう。そう、気安く考えてしまった。
「熱烈ですね。……他の仲間には会いましたか?」
「誰も訪ねてこなかったな」
「自分から行けば良ろしかったのに。私は自分のいた場所から近い順に皆の所を回って、あなたのところで最後です。皆は相変わらず元気すぎる様子でした」
 皆も無事だと聞いて、より一層嬉しくなる。
 自分がそうであるように、彼らにも同様の使命が課せられていると思っていたので、動かなかった。そもそも、ここから出られる発想がなかった。
 そう答えると、「ワグナス殿らしい」と言って、ボクオーンは笑った。
 彼は辺りの景色をぐるりと見渡し、不思議そうに尋ねてきた。
「この場所……生活の気配がありませんね。寝食はどうされていたのですか?」
「物を食べずとも腹は減らぬし、寝る必要もない体のようだ」
 だからずっとこの場に立っていたと返せば、ボクオーンは呆れたような顔をする。
「たまにはベッドでゆっくりと休むのが良いでしょう。食事も用意します。私の街にお越しください」
 場所の移動の仕方を教えて、ボクオーンは去っていった。
 ワグナスは浮かれる気持ちを抑えながら、彼が見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。

 彼の家に呼ばれてしまった。
 顔は平静を装っていたが、心は弾んでいた。久しぶりに二人だけの濃厚な時間を過ごすことができる。
 早速準備を整えることにした。
 とはいえ、この丘には磔台以外に何もない。
 丘を下ったところに水場があることは確認済みだったので、そこで水浴びをして体を清めた。
 水辺に咲く赤や黄色の小さな花が、可愛らしく風にそよいでいた。ボクオーンの髪と瞳の色と同じだなと、表情を和らげながら愛でるように花びらに触れる。
 他に手土産もない。だからワグナスは、そっとその花を摘んで、ボクオーンへの贈り物にすることにした。


 ボクオーンに教わった通りの手順で進むと、一瞬で景色が変わった。
 そこは夜の街だった。見慣れた街並みに、懐かしさでいっぱいになる。
 スキップしたくなるほど弾む気持ちを押し込め、ワグナスはいつも以上に眉間に皺を寄せて、早足で進んだ。夜の街角に灯るランプが、影を揺らめかせる。
 通りの先に二階建ての、平凡な作りの宿があった。そこがボクオーンが寝泊まりをしている場所だ。
 入り口の戸を叩くと、ボクオーンが現れた。
「招いてもらい、感謝をする。この花を、君に」
 野花を差し出すと、彼はきょとんと目を瞬かせた。しかしすぐに取り繕うように微笑みを浮かべる。花を口元に近づけて、そっと息を吸った。
「土と花の蜜の、優しい香りです。この辺りは市街地なので、植物の芳しさがとても心地よいです。ありがとうございます」
 喜んでもらえたようで何よりだ。
 ワグナスも目元を和らげ、案内されるがままに食堂へと入った。
 食堂には長机が二つ並んでおり、その片方に懐かしい顔が揃っていた。
「お、ワグナス、遅かったな」
「ワグナス様! お会いしたかったですわっ」
「久しぶりだな。息災のようで、よかった」
「よぉ。元気そうじゃねぇか。今日は飲もうぜ」
 スービエ、ロックブーケ、ノエル、ダンターグと。立て続けに声をかけてくる。
 久しく会っていなかった仲間達の元気な姿に、ワグナスの表情も自然と緩んだ。
「皆も元気そうで何よりだ。再会できたことを、心より嬉しく思う」
 賑やかに再会を喜び合う中、一度退出して花を花瓶に飾っていたボクオーンが戻ってきた。
 その姿を見たワグナスは、今更ながら気付く。
 ボクオーンが自宅に招いたのは、ワグナスだけでなかったことに――。
 今日くらいは皆と再会できた喜びを噛み締めるべきだ。そう頭では理解はしている。しかし胸に若干の引っ掛かりが残る。彼を求めるのは、ワグナスばかりだったのではないか、と。
 ワグナスはかぶりを振った。
 今日は仲間との再会を祝う日だ。夜は長い。恋人としての再会を喜び合うのは、後でもいい。
 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
 スービエが意味ありげなニヤニヤ顔をこちらに向けていたが、ワグナスはあえて視線を逸らした。
 ボクオーンが突っ立ったままのワグナスに気付いて、声をかけてきた。
「手荷物などがあるようでしたら、先に寝室へ案内をしましょうか。スービエと同室で構いませんね?」
「いや、構うが……ん?」
 違和感を感じた。
 宿で部屋を分ける時、恋人同士であるワグナスとボクオーンが同室になることは当たり前であった。それを分ける意味とはなんだろう。
 まさか、怒っているのだろうか。彼は表情には出さず、回りくどいやり方で怒りを示すことがある。
 戸惑いに、返す言葉に迷って、呆然と立ち尽くした。
 ぶっ、と、緊迫した室内に場違いな音が響いた。スービエが笑いだす。
「おい、ボクオーン。ワグナスが泣きそうになってるぞ。ワグナスがお前を探しに来なかったからって、拗ねるなよ」
「何を言っているのですか?」
 今度はボクオーンの方が戸惑いに瞳を揺らした。
 スービエの笑い声が止まる。彼も違和感に気付いたようで、ワグナスへと視線を向けた。何かおかしくないか、とその表情が告げている。
「お前ら、いつも同室だったじゃねぇか」
 笑いながらダンターグが言う。
「そうでしたか? ……ああ、確かに、そうだったかもしれませんね。あれ、そういえばなぜでしょう?」
「君とワグナスは、恋人同士だからだ。覚えていないのか?」
 ノエルの声は静かだった。しかし不安そうに眉を寄せていた。
「ノエル殿が冗談を言うとは、珍しいですね。私を驚かせようとしているのでしょうか」
 場の空気が凍る。ワグナスも他の仲間等も、皆が強張った顔をしていた。
 ボクオーンは苦笑しながら一同を見渡し、その動きを止めた。
「え?」
 数度瞬きをしたボクオーンもまた、険しい顔になる。
「どういうことでしょうか?」
 それはそのまま、ワグナスの気持ちでもあった。

 ボクオーンの記憶の照会を行った結果、彼の記憶に一部だけ欠落があることが確認された。
 それはワグナスと恋人関係にあったという点だ。
 ワグナスは机の上に肘をついて、組んだ手に顔を埋めていた。彼の周りの空気はどんよりと沈んでいた。
「ワグナス様のことは覚えているのですわよね?」
「はい。ですが、恋人であったという記憶はありません。何かの間違いではないですか?」
 ワグナスの隣に座るボクオーンは、居心地が悪そうに身を縮めていた。
「俺たちは、お前とワグナスがラブラブだったことを覚えている」
「ラブラブ……ですか」
「鬱陶しいほどベタベタしてたなぁ。俺は無視してたけど、スービエはよくからかってたぜ」
「自分ごとながら、信じられないのですが……」
 話を聞いているボクオーンの顔が青ざめていく。
 さすがに聞いていられなくなって、ワグナスは思わず声をあげた。
「そこまでではなかっただろう。きちんと節度を持った交際をしていたはずだが」
 ふっとスービエに鼻で笑われた。ダンターグも大声で笑いながら酒を煽っている。
 ノエルへ縋るような視線を向けたが、彼はうろうろと視線を彷徨わせて、目を伏せた。
「我々は何者かに作られた存在だ。何らかの不具合か、もしくはボクオーン側の感情は読み取りにくかったのか……」
「それは私の感情が、分かり易いとも取れる発言なのだが」
 ノエルは沈黙したまま、腕を組んでいた。
 なぜだろう。この件に関しては、皆の態度が辛辣な気がする。
 傍のボクオーンを見ると、彼はこの世の終わりのような顔をしていた。記憶にはない自分の行いが、彼の自尊心を激しく傷つけているようだ。
 自分のせいなのか、と、ワグナスは本気で落ち込んできた。
 その時、ボクオーンの頭上に影が差した。
 何であるかを判断するより先に、ワグナスはボクオーンに飛びかかる。彼を抱きしめながら、その場から離脱するように転がった。
「なんですかっ⁉︎」
 ズドン、っと。重い衝撃と共に、何かがひしゃげるような音が部屋に響く。
 ワグナスは剣に手をかけながら顔を上げた。最初に目に入ったのは無惨にもバラバラになった椅子。そして、大きな拳をそこに叩きつけているダンターグの姿だ。
「何のつもりだ」
 ワグナスは素早く体を起こし、腕の中のボクオーンを守るように、抱きしめる腕に力を込める。
 今度は何だ。ダンターグが殺人衝動に駆られて、七英雄殺人事件でも始まるのか。
 ダンターグは指を鳴らしながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「記憶喪失っていたら、頭に衝撃を与えりゃ直るってのが、定石ってもんだ」
 なるほどと言わんばかりに、ノエルとスービエが頷く。納得しないで欲しいとワグナスは思った。
 ダンターグの後ろに立つノエルとスービエ。参戦する気、満々である。
「あなた達の一撃を受けたら、私の頭が潰れますっ」
「手加減するさ。まあ、試してみようぜ」
 近づいてくる三人。
 ワグナスは背中にボクオーンを庇いながら、冷や汗を流した。この三人を相手にして、勝てる気がしない。
 その時。両者の間に、水色の髪をふわりと靡かせながら、ロックブーケが割り入った。
 彼女は背中にワグナス達を庇って、両手を広げる。
「そんな野蛮な手段を使わなくても大丈夫。私に考えがあります」
 彼女の訴えを聞いて、三人はひとまず矛先を納めてくれたようだ。
 安堵の息を吐きながら、ワグナスは感謝の気持ちを込めてロックブーケを見つめた。彼女は宝石のように輝く瞳をワグナスへ向けて、胸の前で手を組んだ。
「安心してください、ワグナス様。ロックブーケに妙案がありますの」
「ロックブーケ、ありがとう。助かる」
 ワグナスに頼られ、彼女は頬を染めながら、どこか夢見心地なふうに言葉を続けた。
「このような困難は、王子様のキスで解決すると思いますの」
 その言葉に沈黙が落ちた。
 突飛な意見に、ワグナスはどう返して良いのか言葉に詰まる。
 王子様のキス? これは御伽の国の話だったか? ツッコミに慣れていないので、言うべき言葉に迷う。
 ボクオーンは頬を引き攣らせているし、ダンターグも渋い顔をしていた。
 一方、スービエが腹を抱えて笑い出した。
「そうだな。その意見、一理ある」
「お前は面白がっているだけではないのか。どの辺に道理があるのか、聞きたいのくらいなのだが……」
「冗談ではありませんっ! なぜ私がそんな……」
 ボクオーンが異議を唱える。
 ワグナスは助けを求めるようにノエルを見た。しかし同時にロックブーケからの視線も受けた彼は、気まずそうな顔をしてワグナスから顔を背けた。
「手荒い真似がダメなのであれば、それもありかと思う」
 ノエルが困惑しながら、言葉を紡いでいく。
 どう考えてもないと思う、とワグナスは思った。
 誰か彼女を止めてくれ。とワグナスは内心で叫んだが、救いの手が差し出されることはなかった。

 奇妙な空気が場を支配する。
 拳を握る者、手を組んで瞳を輝かせる者、困惑に腕を組む者、真剣なのかふざけているのか判別がつかない者。ボクオーンは拒否する姿勢を見せるが、何かしらの方法を選択しなければならない圧がかかっていた。
 他に案も出ず、結局穏便な方を選択せざるを得ない状況となった。

 食堂のテーブルの横で、ワグナスとボクオーンは向かい合っていた。
「なぜ私がこんな真似を……」
 とボクオーンは文句を言っているが、皆で決めたことだからと、受け入れるところは彼らしい。
 一方、ワグナスの気持ちは落ち着かなかった。
 久しぶりの口付けだから、というのはもちろんある。
 だがそれ以上に、ほんのりと頬を染めて、落ち着きなく視線を彷徨わせるボクオーンが可愛いくて仕方がない。
 ワグナスは気持ちを沈めるように、深呼吸をした。
 そっとボクオーンの肩に手を添える。
 びくりと、ボクオーンの肩が揺れた。
 記憶の中のボクオーンは、こんな初々しい反応を示したことはなかった。だから、純真さにこちらまで緊張してしまう。鼓動が高鳴るのを感じる。
「その、するぞ?」
 困ったように眉根を下げていたボクオーンだが、意を決したようで、ぎゅっと力を込めて瞼を閉じた。
 ワグナスは瞳を閉じて、ゆっくりと顔を近づけた。
 彼の吐息を感じるほどに近づいて、唇が触れ合う直前――
 ごきっ。
 突然視界がぐるりと回る。無理矢理横を向かされ、両腕が上へ持ち上がって万歳の体勢を取らされる。
 驚いて目を開くと、耳まで赤く染めたボクオーンの右手から伸びた魔力の糸が、ワグナスに絡み付いていた。
 照れ隠しで、味方にマリオネットをかけないでほしい。ワグナスは眉間に皺を刻んで、渋面になった。
「視線が……」
 横を向くと、皆が興味津々の表情で注目をしていた。
「見せ物ではありませんっ」
「別に良いだろう。減るもんじゃないし、初めてでもないだろ?」
「だとしても、あなた達に見せる理由にはなりません」
 震える声で告げて、ボクオーンは首を振る。ひとたび否定の言葉を口にしたら、感情が溢れるのを止められなくなったのか、矢継ぎ早に捲し立てた。
「というか、無理です。ワグナス殿のことはリーダーとして、人として好ましく思っています。ですが、恋愛感情を向けたことがない、仲間としか思っていない相手と、キスをするだなんて……無理です」
 仲間としか思っていない、か。その言葉を噛み締めて、ワグナスは口元に無理矢理笑みを浮かべた。
「いや、お前はそういうキャラじゃなかっただろう。目的のためならキスの一つや二つ顔色を変えずにするやつだ」
「キスで記憶が戻るはずがないでしょう」
「だったら、殴っとく?」
 隣で繰り広げられるスービエとボクオーンの口論が、ワグナスの耳には奇妙なほど遠く、現実感を伴わない音として響いた。呼吸をするのも苦しいほどの重みが、心臓を潰そうとする。
 ふう、と息を吐いて。
 ワグナスはこちらを見守る仲間へと、視線を向けた。
「ついてくるな」
 一言告げて。
 ワグナスは衝動のままにボクオーンの腕を掴み、廊下へ出た。一つ部屋を挟んだその隣の部屋。中に引き入れるように入って扉を閉めると、灯りのない部屋は闇に閉ざされた。
 ボクオーンの動揺が、繋がれた腕から伝わってくる。
 ワグナスはボクオーンの頭の横に手をつき、その顔を覗き込んだ。
「ワグ……」
 何かを言いかけたボクオーンの唇を塞いだ。
 一瞬だけ唇同士が触れ合う。
 ワグナスは顔を少しだけ離して様子を伺った。
 ボクオーンはローブの袖で口元を抑えて、俯いてしまう。
「何か思い出したか?」
 無言で首を振るのを見て、ワグナスは「そうか」と小さく呟いた。
「不快な思いをさせてすまなかった。無理強いは良くないと、皆にも伝えよう」
 食堂に戻ろうと廊下に出ると、背中に制止の声がかけられた。
「……申し訳ありません」
「君が謝ることはない。……大丈夫だから」
 ワグナスは微笑んでそう言った。うまく、笑えていただろうか。

 食堂に戻ると、仲間達は椅子に座って話をしていた。
 ワグナスの表情を見て、記憶の改善が見られなかったことを察したらしい。それぞれに思うところはあったのだろうが表情には出さず、団欒に戻る。ワグナスもそれに混ざった。ボクオーンも隣に座る。
 だが自ら話をする気にはなれず、皆の話を聞くだけになった。
「あ、そうだ。実は気になっていたことがあったんだが」
 おもむろにスービエが挙手をする。
 一同をぐるりと見回したスービエが、神妙な顔で告げた。
「七英雄。ひとり、足りなくね?」
 この場にいる七英雄は六人だ。確かに一人足りない。
「俺は気付いてた」
「いなくても良いですわっ」
「……俺も気付いてはいたが、誰も話題にしないので、触れてはいけないのかと……」
 ワグナスは最後に来たので、クジンシーはどこかで休んでいるのだと思っていた。忘れていたわけではない。
「私が皆に声をかけたのは、自然の中で生活をしていたからです。クジンシーの居場所は街中で、衣食住は確保されていました。それに、彼と会ったのは最初で、その時点ではここに人を招く気はなかったため、声をかけていません」
「全部ボクオーンのせいじゃねぇか」
「別に良いではないですのっ。煩しいですしっ。お兄様やワグナス様に付き纏われるのが不快ですわっ」
 唇を尖らせてロックブーケが異議を唱えるが、ノエルに嗜められた。
「迎えに行こう」
 ノエルの提案で、ワグナスとボクオーン以外でクジンシーを迎えに行くことになった。
 気を使わせているな、とワグナスは思ったが、指摘をするより先に彼らは消えてしまった。
 
 正直、今はボクオーンとは少し距離を置きたいくらいだった。仲間の距離感で接しなければならないのに、気持ちの整理がまだできていない。
 そんな内心がボクオーンには筒抜けだったのか、彼の方も気まずそうな顔をしている。
「……お茶でもいかがですか?」
「そうだな。もらえるか」
 頷くと、ボクオーンは席を立った。
 彼は意外と、料理や茶を人に振る舞うことが好きだ。気分転換になっているのか、楽しそうに準備を始める。
 茶葉を蒸らす時間、二人は無言で、砂時計を見つめていた。
 ティーカップは白地で、植物の模様が描かれている。彼が好きそうな柄だ。
 砂が全て落ちると、ボクオーンは紅茶を注いだ。
 スプーンで掬った蜂蜜を落としてかき混ぜる。ボクオーンの瞳に似た黄金色は紅色の液体に溶けて、甘い匂いを漂わせた。
 流れるようなその動作に、ワグナスは目を瞠った。
 ふと、回していたスプーンが、ボクオーンの手の中で静止する。
「あれ? どうして蜂蜜を入れてしまったのでしょう。ワグナス殿はいつも砂糖ですよね」
 その理由をワグナスは知っていた。
 蜂蜜入りの紅茶は、かつて二人きりの時、仕事で疲れていたり落ち込んでいた自分に、ボクオーンが淹れてくれていたものだった。
 懐かしさに胸が締め付けられる。ワグナスへの恋心がなくなったボクオーンは、自分の知っている彼ではないような気がしていた。だけど、やはり彼はボクオーンだった。ワグナスが愛した彼は、確かにここにいる。
「そのままで大丈夫だ。……いや、それが欲しい」
 紅茶を淹れ直そうと、こちらに背を向けていたボクオーンを背中から抱きしめた。きつく。縋り付くように。
「すまない。今だけ、許してほしい……」
 謝罪の言葉は掠れていた。
 身を強張らせたボクオーンだったが、しばらくして、ワグナスの手に自分のそれを添えた。指先から感じる温もりが胸を熱くする。
 ボクオーンは何も言わず、ワグナスの気が済むまで、ただその身を委ねてくれた。

 抱擁が終わってから、ワグナスとボクオーンはゆっくりとお茶を飲みながら他愛ない話をした。
 蜂蜜入りの甘い紅茶は、ワグナスの心を優しく温め、慰めてくれた。自然と頬が緩む。昔を懐かしみながら味わっているその顔を、静かにボクオーンは見つめていた。

 お茶会を終え、夕食の支度に取り掛かった。
 ボクオーンが皆のためにと用意している献立は、よく見ればワグナスの好物ばかりだった。彼はこれを自覚なしにやっているのだろうか。なんという皮肉だろう。その痛ましさとは裏腹に、胸の奥には確かな温もりが灯った。
 トントンと、リズムに乗った心地よい包丁の音が響く。
 ふと音が途切れた。
 ボクオーンは悩むように視線を落とし、眉間に皺を寄せていた。やがて、ワグナスの方へ体を向けて、告げてきた。
「ワグナス殿。夜、お部屋にお邪魔しても良いでしょうか?」
「え?」
 驚愕に固まる。それは何を意味するのだろうか。恋人としての時間を想像してしまったが、そうではないと自身の思考を否定する。仲間としての立ち位置で考えなければいけないと。
 ボクオーンはワグナスの勘違いに気付いたようで、赤面しながら慌てて訂正をした。
「申し訳ありませんが、深い関係になりたいという話ではありません。ただ、少し、あなたの話を聞かせて欲しいのです。あなたのボクオーンの話を」
「それは構わないが……」
 言葉に迷い、ワグナスは唇を引き結んだ。
 じっとこちらを見つめる金色の瞳。
 彼は歩み寄ろうとしてくれている。ならば、それに応えても良いだろうか。
「私の記憶の中の君も、目の前にいる君も、一緒だ。私はどちらの君も愛しているよ」
 ボクオーンはその告白に驚いたように目を見開いた。ワグナスの瞳を直視して、その言葉を噛み締めるように飲み込み、やがて頷いた。
「ありがとうございます」
 否定されなかったことに安堵して、ワグナスの表情は自然と緩み、柔らかな笑みを浮かべた。
 
 この先、どうなるのかはわからない。
 ボクオーンの記憶が戻るのか。別々の道を歩むことになるのか。
 だが、どちらでも構わないとワグナスは思った。
 もう一度彼と、そして仲間達と過ごすことができる幸運に恵まれたのだから、その時間を大切にしたいと思った。
 いつか装置が止まり、自分たちが消えるかもしれないけれど、その日が来るまでは。
 ――もう一度、君に恋をしよう。
 たとえ、記憶が戻らなくても、同じ気持ちを返してくれなくても。
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