ほか
官舎の廊下はいつも静まりかえっていた。
人付き合いは得意ではないし、必要とも思わない。
勤務を終えて食事も風呂も済ませたら、ぼんやりと本を眺める。
官舎に引っ越してきてからも、隣に誰が住んでいるのか、顔も名前も知らないままでいた。
そんなある日の夜。
当番明けで帰ってきて、ポケットから鍵を取り出しドアに差し込んだそのときだった。
「あ!お隣さん!」
すぐ近くから降ってきた声に驚いて振り返れば、自分より頭ひとつ大きい男。
目元の鋭さを和らげるような柔らかい笑みのその人も、どうやら同じく今帰ってきたところらしかった。
「あー、えっと、隣に住んでます!伊吹藍です!」
「…ああ、志摩です」
自己紹介されては、名乗り返すしかないだろう。
官舎にいるってことはこんななりでも警察官だろうし、危険ではないはずだと自分に言い聞かせる。
「志摩さん、よろしくね」
そう言って伊吹と名乗った男は、さらにぱっと笑う。
しかし、それきり特別な会話はなく各々が自室へ戻るのだった。
それからしばらくは、何もなかった。
だが、ある晩。
シャワーを浴びて髪を拭いていると、不意にチャイムが鳴った。
時計を見ると夜の十時過ぎ。
こんな時間に訪ねてくる者など思い当たらず、警戒心が先に立ちつつ、そろりと覗き穴を覗けば、そこには見覚えのある顔。
「志摩さん!これ、作りすぎちゃって」
何の用かと訝しみながらドアを開ければ、伊吹さんは手に大きなタッパーを持って立っていた。
差し出されるそれには、煮物のようなものが詰められている。
「…いらない?」
「いや、もらう」
捨てられた子犬みたいな声を出すものだから、思わず受け取ってしまった。
満足したのか、伊吹さんはすぐに自分の部屋へ戻っていった。
台所に置いてふたを開ければ、丁寧に煮含められた大根や鶏肉。
整えられた彩りと、ふわりと香るだし。
無意識に手を伸ばして一口含めた瞬間、じんわりと染み込んだ旨味が広がった。
「…うま」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
そして、この日を皮切りに伊吹さんは不定期にやってくるようになった。
「炊き込みご飯炊きすぎちゃって」
「豚汁作りすぎちゃって」
「唐揚げ揚げすぎちゃって」
量や頻度を見るに、最初からおれのぶんも用意していることは明らかだった。
それでも特に言及することなく、受け取った。
美味しいのは事実だったし、断る理由も見つけられなかった。
「…なんで、おれなんだ」
しかし、ある夜とうとう問いかけた。
不意を突かれたように目を瞬かせている伊吹さんの顔が目に入る。
「ん?」
「なんで、おれんとこ来るの」
拒否ではなくただの疑問。
改めて小さく問うと、伊吹さんは少し考えるように目を伏せてから笑った。
「志摩さんのフインキいいなって思って」
「…雰囲気?」
「うん。俺あんまり人付き合い得意じゃないんだけど、志摩さんはなんか俺のこと見てくれるっていうか、それに声とかなんかピシッとしてるのにフワーって感じだし、なんかホカホカするからもっと話したくて」
そう言って、照れくさそうに笑う伊吹さん。
後半の擬音語が全く理解できないのに、不思議と嫌ではなかった。
それどころか、気づくと自分でも驚くような言葉を口にしていた。
「…入ってけば」
いつもなら、玄関先で受け取るだけで終わっていた。
ドアの内側に踏み込ませるなんて自分には考えられなかったはずなのに、何故か今夜はそのまま去られるのが惜しかった。
「いいの!?」
花が咲いたように顔を綻ばせるものだから、なんだか照れくさくなってしまう。
おれはそっぽを向きながらキッチンへ向かった。
「わー志摩さんぽい部屋」
「なんだおれっぽいって」
「んふふ、はい」
そう言って、手にしていた紙袋から今夜の“作りすぎた”分を取り出し、勝手に並べはじめる。
煮物、出汁巻き卵、小鉢の酢の物。
どれもこれも二人分どころか三人分はある量だ。
「…こんなに誰が食うんだよ」
「志摩さんと俺ー」
あまりにも屈託なく笑うから、なんでもよくなってきてしまう。
呆れてため息混じりに食器棚からお茶碗を二つ取り出した。
「米はある」
「やった」
飯の支度をしている間、伊吹さんは興味津々に部屋の中を見回していた。
壁に掛けられた時計、本棚の背表紙、テレビの横に置かれた古びた小さなオーディオ。
物色しては色々聞いてくるけれど、直接触ることはしなかった。
見かけに反して常識はあるらしく、その気遣いが心地よい。
それから、準備が整うと声をかけ二人並んで食卓についた。
いただきますの声が重なるのなんて何年ぶりだろうか。
「…うまいな、これ」
「ほんと?良かった」
ぽつりと零した言葉に、ぱっと明るくなる伊吹さん。
感情がそのまま顔に出るらしい。
「…前も思ったけど、おまえ料理上手い」
「そうかな。志摩さんに食べてもらうの、好き」
他意のない言葉だと理解しているのに、こんなに真っ直ぐ好意を伝えてもらう機会などほとんどないので動揺してしまう。
けれど、やはりそれも不思議と嫌悪感はなくて、そんな気持ちを誤魔化すように話題を変える。
「…出汁、何使ってるんだ」
「教えてあげるから今度志摩さんも一緒に作ろうよ」
「…おれは、食うほうがいい」
「んふ、そっか。じゃあ、もっと作るからいっぱい食べてよ」
そう話す声は本当に楽しそうで、胸の奥にまた小さな灯りがともった。
それからというもの、ふたりでごはんを食べる夜がちらほらと増えていった。
最初は「作りすぎた」「余った」という言い訳に誘われていたけれど、いつの間にかそれも形だけになった。
自然と「志摩ちゃんてカレー何辛」と声をかけられることもあれば、おれの方から「今日は魚が食いたい」なんて口にする日も出てきた。
それでも、ただの“隣人”で“たまに一緒に飯を食う相手”良くて“友人”。
伊吹はよく喋るし、よく笑う。
1人の静けさが好きだったはずなのに、自分でも気づかないうちに、その隣の温度を求めるようになっていた。
誰かと過ごす食事が、こんなに良いものだったなんて知らなかった。
そんな、ある晩。
食卓には炊きたての白いごはんとふっくら焼かれた鮭、それから湯気の立つ味噌汁。
良い匂いが部屋を満たす中、伊吹がふいに言った。
「ねぇねぇ“あなたの味噌汁が毎日飲みたい”ってさ、プロポーズの言葉だったって知ってた?」
その言葉は、冗談めいたものではなく穏やかだった。
おれは箸を止めずに素気なく答える。
「ん」
「俺さ、志摩ちゃんに毎日作りたいなって思うんだけどどう?」
この文脈だとそういうことにしか聞こえないが、そんなわけないだろう。
告白のような緊張感も恥じらいも情熱さもない。
暑いから明日は素麺にしようなんて提案をしてきた時と同じトーンだ。
薬味は何がいいかななんてどうでもいい会話と同じ。
「こうやってさ、志摩ちゃんと一緒にご飯食べるのが当たり前になったらいいのになって…朝も夜もそうならいいなって」
わざわざ箸を置いておれを見つめる視線があまりにも真っ直ぐでいたたまれない。
おれは今、告白されているのだろうか。
ただの隣人に。しかも男に。
「毎日これだったら、俺たぶんすごく幸せだなって」
毎日、伊吹が味噌汁を作る。
毎日、おれがそれを飲む。
「…バカか」
俯きがちに呟いて、味噌汁に口をつける。
けれど、正直そんな未来も不思議と悪くないと思ってしまった。
湯気の向こうには、そんなおれの心情を見透かしたように優しく目を細めている伊吹がいた。
