ノーマル
息が、熱くて、苦しくて、汗で濡れたTシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。
横には、子供のように無防備な寝顔の伊吹がいる。
いつもの光景なのにどうしても、いつもみたいな心地よさを感じられなかった。
夢の中の伊吹は、女性と結婚していた。
白い服を着た彼女の横で伊吹が笑っていた。
その腕の中にまだ小さな子供がいた。
女の子だった。
もう一つの世界で、伊吹はちゃんと幸せになっていた。
「…ん、志摩?」
低く掠れた声が、地獄の夢から引き戻す。
長い腕が伸びてきて、おれの背中をそっと撫でた。
「どしたの志摩、汗すごい…変な夢でも見た?」
「…ああ、うん。ちょっと」
「どんな夢?」
「…わすれた」
本当は嫌というほど全部覚えてる。
自分では叶えてあげられない光景。
「志摩?」
「起こしてごめん、シャワー浴びてくる」
そう言って、視線を合わせないままベッドを抜けた。
冷たい水を浴びながら歯を食いしばり、ただの夢だとそう言い聞かせた。
だけど無駄だった。
全く切り替えられないままシャワーを終えて脱衣所の扉を引くと、リビングに灯がついている。
伊吹は再び眠りについているはずだったので、思わず眉を寄せた。
「伊吹、起きてたのか?」
「うん。目、覚めちゃってさ」
「そうか」
「乾かさせて?」
「自分でやるから」
「俺がやりたいだけ」
諦めたのか、志摩はそれ以上の拒否を飲み込んだ。
俺は背後に回って、志摩の手から奪い取ったドライヤーに電源を入れた。
「…頼りになんないかな、俺」
ぼそりとこぼれ落ちたその声は、ドライヤーの唸る音にかき消されて志摩には届かなかった。
それからしばらくして、音を止める。
「おしまい」
「ありがと」
「で、どんな夢だったの?」
スイッチを逃したくなくて、俺は改めて聞いた。
志摩は小さく息を吐いて、やっぱり黙ったままだったけれど、俺が譲らないこともわかっているのか、しばらく間を置いてからぽつりとこぼす。
「…おまえが、幸せな夢」
「俺が幸せだと、志摩は苦しい?」
「おまえは、可愛い奥さんと…子供がいて…穏やかで、普通で…幸せに生きるんだと思う」
目を伏せながら話すその声は苦しくて溺れてしまいそうだった。
志摩は立ち上がり、無理矢理笑う。
「…もう寝よう。ごめん、起こして」
誤魔化すみたいにさっさとリビングの明かりを落としてしまった。
よく知っている痛みを、上手にしまうみたいに。
「志摩」
呼びかけても止まらない。
そのまま寝室に入ってしまったけれど、せめてベッドに潜り込むのは阻止するために手首を掴んだ。
やっと振り返ってくれた志摩は、唇を噛んで堪えようとしているけれど、感情が溢れてきてしまっていた。
今にも崩れてしまいそうで、俺まで苦しくなった。
「…志摩、どうしたらいい?」
ベッドに座って、泣く寸前の顔をした志摩の手を引き自分の膝の上へとそっと抱き上げる。
そっと親指を目尻にあてながら、ゆっくりと続けた。
「俺ね、志摩のことしか見えてないの」
「……」
「志摩が難しいこと考えちゃうのは知ってる、知ってるんだけど、」
言葉にするのは難しくて、いつもみたいに志摩に翻訳してほしい。
でも伝えたい相手がその志摩である以上、俺がどうにか言葉にしなければいけない。
「俺の中に志摩以外の選択がないからさ、なんて言ったらいいかわかんないけど」
志摩は何も言わずに聞いてくれた。
どんなに取り留めがなくても、遮らずに、いつもみたいに。
「夢の中の俺がどんなに幸せでも、現実の俺は、志摩じゃなきゃ幸せになれないんだよ」
そう言うと、志摩は俺の胸に額を押しつけてほんの小さく嗚咽を漏らした。
どれくらいそうしていたか、小さな声が耳を掠める。
「…ほんとは、今日だけじゃない…おまえが、誰かと幸せになってるの、何回も想像したことあった…」
すっぽりと腕の中に収まった身体を小さく揺らしてやる。
まるで子どもをあやすみたいに。
「でもさ、それ俺じゃないんだよ」
きっと志摩はそんなことわかっているから、うつむいたまま小さく頷いてくれた。
わかっているけど、わからない。
「志摩が好きだよ、これからも相棒としていっぱい間に合わせて、定年迎えたらメロンパン屋かうどん屋か…何もしないでのんびり暮らすのもいいな…でも、ぜんぶ志摩とだよ」
熱を持っている背中をゆっくりと撫でる。
時計はもうほとんど朝を示していた。
「眠いねぇ志摩、寝ていいよ」
最後に聞こえたのはそんな言葉だった。
目を覚ました時、いつもの布団に自分はいなくて、いつも隣で起きてくれるはずの伊吹の顔は、自分の直ぐ近くにあった。
愛おしい体温に、呼吸に、おれは“夢みたいだ”と思った。
でもそれは夢じゃなくて、好きな人がほかの誰でもないおれのもとで目を覚ましてくれる甘い現実だった。
