ノーマル
八月が始まると、志摩の呼吸が少しずつ変わっていくのを感じ取っていた。
不自然なほど笑う日もあれば、やたらと資料の山に没頭する日もある。
そのどれもが、ただの日常に見えるふりをした志摩なりのやり方だった。
「志摩のせいじゃないよ」
そう口にするのは簡単だったけど、俺はもう言わなかった。
香坂ちゃんが自殺じゃなかったことが事実でも、最後まで刑事だったとしても、だからといって志摩が完全に救われることはない。
むしろ、その言葉は志摩を置いていってしまうような気さえした。
俺は、崩れそうな志摩の隣にただいた。
そんな日々のなかでおとずれた休日。
ふいに背中にひとつの重みが寄りかかった。
「朝からきゅるきゅるしてるのは志摩ちゃん?」
今日がタコの日だとわかっていて、わざと明るい声で呼びかける。
志摩はなにも言わない。
俺の背中に額を押し当て、深くゆっくりと呼吸を繰り返していた。
黙って背中を預けたまま、ソファに移って二人で静かに座る。
テレビもつけない静寂の中、蝉の声だけが遠く聞こえていた。
それだけで、午前が過ぎていった。
「おなかすいたねぇ」
志摩はやっぱり何も言わなかった。
食べることなんて考えられないことはわかっていたけれど、食べなければ人は死ぬ。
「うどんにしよっか。冷たいやつ、つるっていけるかも」
相変わらず返事はないけれど、立ち上がりキッチンに向かった。
志摩はその間もずっと背後にいて、悲しみのないただの甘えだったならどれだけ可愛かっただろうと思う。
「志摩ちゃん、お湯使うからちょっと危ないかもだから俺の服の裾、持っててくれる?」
志摩は一瞬きょとんとした顔をして、腰から腕を外す代わりにTシャツの裾を握った。
それは、たわいないやり取りだったけれど、さっきまで何の反応もなかった志摩に自分の声が届いたようで嬉しかった。
「いただきます」
「…」
手だけを合わせて、ゆっくり食べはじめる志摩。
自分の分を食べ終えたとき、志摩の器にはつゆを少し吸ったうどんがまだ残っていた。
志摩は箸を置いたまま、じっとそれを見つめている。
食べきれなかったことに対する罪悪感がにじんでいた。
「志摩ちゃんのもらうねぇ」
軽い口調でなんでもない風を装った。
きっと志摩にはバレているだろうけれど、その肩がふっと緩んだように見えた。
二つの食器が空になったあと、俺は少しだけ息を吸い込んでから言った。
「志摩、お墓参り行こっか」
不意を突かれて戸惑うように、視線を落としていたまなざしがゆっくりと俺を見た。
その瞳の奥が、驚きと戸惑いで静かに揺れている。
「香坂ちゃんのとこ、俺も連れてってくれる?」
志摩は一瞬、唇を噛んだけれど静かに頷いた。
部屋のなかには、いつものデート前とは違う重い空気が漂っていた。
けれどそれは、逃げようのない苦しさではない。
背負いながら進もうとする、静かな決意の重さだった。
「志摩ちゃん、準備おっけー?」
「…うん」
志摩は絶対に過去を忘れないし、ずっとブーメランを喰らう。
今日という日を、生きるために。
でもそれならば、一緒に背負いたいと思う。
これから先も、ふたりで生きるために。
玄関の扉を開けると、夏の陽差しがやけにまぶしかった。
