ノーマル
夏の夜は、まだ少し明るかった。
湿った空気が肌にまとわりつくような気温の中、志摩はベランダに出ている。
そして少しうつむきながら腕をぼりぼり掻いていた。
「…かゆ」
ぽそりとこぼれる声もどこか眠たげで、休日ならではのゆるい空気を纏っている。
痒さ伴う小さな腫れは、まぎれもなく蚊に刺された痕だった。
「…は?」
そこへ、缶ビール片手に伊吹がやってきて低い声を出す。
目を細めているのも相まっていつにも増してガラが悪い雰囲気である。
「何それ、蚊?」
「ん、刺された」
「跡になったらどうすんの」
伊吹は、掻き続けていたおれの手を押さえる。
強くはなく、それ以上掻かせないようにとだけ軽く押さえられたその手の感触が優しかった。
「…ずりぃ」
不意に隣から低く唸るような声が落ちた。
触れる手とは別物の、どこか怒りを感じるような音。
それが伊吹のものだと気づき、顔を上げる。
「蚊のくせに志摩の肌に触って…しかも血ぃ吸ったんだよな」
その言葉を理解するには時間がかかった。
何を言っているのかわからず、ただ瞬きをする。
「しかもしかもだよ?血ぃ吸ったってことは、噛みついたってことでしょ?キスマークと変わんなくない?」
「は?」
「ずるいよな、俺だって志摩にキスマーク駄目って言われてんのに…俺だって血吸ったことないのに」
「あのなぁ、、」
どうしようもなく面倒な彼氏に、苦笑いするしかない。
不満そうに呟く様は拗ねた子どもみたいなのに、その奥には独占欲が滲んでいた。
「俺だって志摩に印つけたいのに我慢してんだよ?しかもこいつ腫れさせてんじゃん、マーキングしてんじゃん」
「蚊だからな」
「蚊でも駄目」
そう言っておれの腕を掴み、蚊に刺された箇所に唇を押し当てた。
キスマークなんて濃いものではなく、一瞬だけ感じる伊吹の熱と可愛いリップ音。
「とりあえず上書き」
その顔はまだ、少し拗ねたままだった。
わざとらしく唇を尖らせて、それでも隠しきれないほどの甘ったるい視線を向けてくるからいたたまれない。
「ばかなのか」
「志摩ちゃんのことになるとばかになっちゃうの」
目を合わせるのもなんだか恥ずかしくて、視線を逸らす代わりに、そっと頭を伊吹の肩に預ける。
すると、また腕に唇を落とそうとする気配を感じたので素早く手のひらで制した。
「それ以上は駄目だ」
「ちぇー…」
マーキングなんてしなくても、おれの全てを開け渡しているというのに蚊にさえ嫉妬するなんて。
どうしたらお前のものだと理解してもらえるだろう。
そんなことを考えるあたり、伊吹のことになるとおれも大概ばかになるなと笑ってしまった。
