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ノーマル


気分転換のつもりで屋上の扉を押したその瞬間、ふと気配に気づいて足を止めた。
薄暗い非常灯の灯りの下、屋上の隅にふたつの影。

それが誰かを認識するまでに、そう時間はかからなかった。
声をかけるべきか、逡巡する。
普段から相棒というには妙に距離が近い二人だが、今そこにいる二人はいつもの軽口を叩き合う空気ともまた違う。
誰にも見せたことのない確かな甘さが滲んでいた。

邪魔してはいけないと踵を返し扉を閉めかけた手を、ふと止める。
覗き見なんてと思う一方で、あの静けさと寄り添う空気の続きを、ほんの少しだけ知りたくなってしまった。
自分の行為を戒めながらも、静かに扉の影に身を潜める。

「疲れた?」

伊吹がいつもの騒がしさとは裏腹に、小さく囁くように問いかける。
志摩が伊吹の肩に寄りかかり、伊吹がその頭を撫でる動作は、見ているこちらが息をするのもためらうほど静かで優しかった。

「…ん」

甘えたような声だった。
志摩はこういうとき、本当に年相応に見えなくなる。
誰よりも冷静で口数少ない男が、今は子供のようだ。

「今日俺んとこ来る?」
「…いく」

その返事の甘さに、思わず息を呑む。
志摩は、薄暗い中でもわかるほど目を潤ませて伊吹を見上げている。
これは、完全にアウトだ。
相棒とか同僚とか、そんな肩書きの範疇じゃない。
誰がどう見ても、恋人。

「じゃあそのまま泊まってきなよ、朝は志摩の好きなやつ作る」
「…あさ、おきれない」
「知ってる、でも寝ぼけた志摩ちゃん超きゅるい」

ふっと笑って、その細い肩をさらに抱き寄せると、志摩は照れたように目を伏せ、伊吹の胸に顔を埋めた。
耳まで赤くなっているのが、遠目からでもわかる。
伊吹はその後頭部に鼻先を寄せ、髪の匂いを吸い込むように静かに目を閉じた。

私はそっと扉を引く。
ふたりの休憩時間に誰も入り込んではいけないと、改めて思い知った。

それから数日経って、何ごともないようにすれ違う廊下。
伊吹は相変わらずテンション高く志摩に喋りかけているし、絡まれている志摩は鬱陶しそうにしている。
しかし、志摩がどこか楽しそうに見えるのはこの間見てしまったゆえのバイアスなのか。

「お疲れ」
「お疲れさまです」
「おつかれさまー」

いつもの調子で挨拶を返されて何故かホッとした自分がいる。
それなのに、すぐにぱたぱたと靴音が近づいて戻ってきたのは伊吹だった。

「…何のご用?」

伊吹はニコニコと、いつもと変わらない笑顔を浮かべたまま。
しかし、その笑みの奥に何かひどく鋭いものが潜んでいるように感じる。

「見てたでしょ、屋上」
「あらやだ。バレてた?」
「うん。志摩は気づいてないけど、俺は最初から」

笑顔のままなのに、どこか棘のある温度が混じる。
こういうところが野犬と呼ばれる理由だろう。

「志摩は俺のなんで」

そんな宣言をするものだから、一瞬言葉を詰まらせる。
その声は静かだったけれど、誰がどう見ても私のことを敵視していた。

「何それ、牽制のつもり?私と陣馬さんのほうがあんたより歴長いんだからね」

つい、らしくもないマウントに参加してしまった。
別に本当に悔しいわけではない。
いや、ちょっと悔しい。
あの事件からもずっと目をかけていたのは私達なのに、と。

「そ、れはそうだけど!でも、だって、今の志摩ちゃんは俺のだもん」

さっきまでの勢いはどうしたのか、萎れた耳が見えるような気がしてきた。
まったくもって私の部下はみんな可愛い。

「伊吹、幸せになんなさい」
「え、あ、うん!幸せにするから安心して!」
「馬鹿ね、あんたも幸せになんのよ」

そう言うと、伊吹は笑ったまま小さく肩を竦めた。

「ありがと、たいちょー」

照れくさそうな顔をして、私にくるりと背を向ける。
すっかり消えかけた背中を見送りながら、ひとりごちた。

「良かったね、志摩」

私達ではどうしようもなかったのだ。
伊吹のおかげで志摩はやっと前を向き、甘えることさえできるようになった。
どこか嫁に行かせてしまうような寂しさも感じながら、幸せになれと強く願った。
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