re-
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ある建物の窓に備え付けられた面格子、その奥にある白い障子の前を大小ふたつの人影が横切った。
大きい影が、隣を歩く小さな影にのんびりとした口調で話しかける。
「僕さぁ、カレーには林檎と蜂蜜をたっぷり入れたい派なんだよね」
前触れもなく始まったカレー談議。
テーマはカレーの味付けについて、といったところだろうか。
「ほら、僕甘党でしょ。だからカレーも甘いやつが好きなの」
ほら、とは言うが、自身の好みを知った体で話を振られても困る。
何ならいま知ったばかりだ。
しかしまあ、思い返してみれば、車内で提供された菓子の山がどこへ消えたかというと、それは五条悟の胃袋だし、そこを踏まえれば彼が甘党だという点には納得がいく。
でもまさか、カレーにまで甘さを求めてくるとは誰も思わないだろう。
これは・・・どう反応するのが正解だろう、そもそも正解はあるのか。
悩んだ末にイサミは、はあ、と最も無難そうな相槌を打つだけに留めた。
「でもたまにあるんだよね、甘くない林檎。あれ惜しいよねぇ。こっちはカレーを甘くするために買ってきたっていうのに、あれじゃあ、何のために摩り下ろしてるのか分かんないよ」
当時の事を思い出してか、五条はうんざりといった風に、わざとらしく溜息を吐いてみせた。
「イサミはどう?こういう経験ない?」
続いて放たれた言葉にイサミは「あ、これは相手をするしかないやつだな」と、早々に諦めの境地に入った。
この男からの絡みをかわすことはなかなかに難しいと、ここ数時間で学んだ結果である。
それにしても、明らかに乗り気でない反応を前にしても挫けず、会話を続けようとするこの強かさは一体どこからくるのだろう。
声に出さずとも、雰囲気で返事を催促してくる男に応えるため、イサミは重い腰を上げると、ポケットに仕舞っていたスマートフォンに手を伸ばした。
すると、その様子を見ていた五条が「そうだ」と何か思いついたように、ポン、と手を叩いた。
「ちょうどいいや。食堂に着くまでの間、語彙を絞って会話といこうか」
「え」
「え、じゃなくて。もしかして、卒業するまでなんにも喋らずに生活するつもりだったの?フツーに考えて無理でしょ」
死人じゃあるまいし、と五条は笑う。
ぐ、とイサミは言葉に詰まった。
くやしいが、至極真っ当な意見だ。
五条の言う通り、何も喋らずにいることは不可能だ。
イサミが転入前に所属していた高校は通信制。
授業は自室、クラスメートとの接触もほぼ無い。
外出先でのやりとりだって、メモひとつあればこなせる。
だが、学校という場においては話が別だ。
それにここは呪術の学舎、いつでもどこでも暢気に筆談できる場所ではない。
だからこそ、語彙を絞ってでもコミュニケーションが求められる。
「語彙を絞る。この行為自体が自分を含め、周りの人間を守ることに繋がる。そこんところは、イサミももう分かってるよね」
軽やかな口調で ”五条先生” は言う。
そして確認事項を兼ねて、イサミに三つの制約を課した。
その一、呪力をコントロールできるようになるまで、特定の人物以外との会話は控えること。
その二、会話が必要な場合は筆談、又は、無難な単語のみ使用可とする。
その三、人間を相手に、攻撃的な言葉は扱わないこと。
「まずはこんなところかな。最終目標は完全に語彙を絞ることだけど、いまのイサミがそんなことをしたら、ストレスで死んじゃいそうだしね」
「・・・あの」
イサミはそろりと手を挙げた。
「質問かな。いいよ、なんでも訊いて。まずはメアド交換からいっちゃう?」
「・・・・・・。その、特定の人物というのは、もしかして・・・」
「お察しの通り、この僕だよ」
後半の内容は無視して、語彙を選びながら慎重に尋ねたイサミに五条は、べーん、とでも効果音がついていそうな、なんとも軽い調子で自身を指差した。
大丈夫だろうか、いろいろな面で。
イサミの顔に、”心配” の二文字が浮かんだ。
あと、ちょいちょい挟んでくる冗談は何なんだろう。
反応に困るのでやめて欲しいが、これがなかなか言い出せない。
「あとはそうだな、夜蛾学長と七海・・・・・・教師レベルの奴が相手なら、問題ないか。あ、でも硝子の前では勘弁してあげてね。立場上、呪力の浪費は避けたいし、何かあったら大変なことになるから」
思いつくだけの人物を指折り数えていく五条。
折り曲げた指が四本目に差し掛かった時、不安そうな顔つきでいる教え子の様子に気づいた彼は、いつものように口角を上げた。
「大丈夫。僕、最強だから」
――意外かもしれないけど、僕、こういうのに詳しいんだよね。だから信頼してくれていいよ。
はたと、イサミは居酒屋で聞いた言葉を思い出した。
五条がこうして会話を許可してくれるのも、きっと、彼なら ”何か起こっても対処できる自信があるから” なのだろう。
「・・・全然、答えになってないんですけど」
「えー、これ以上の答えってないでしょ。このGTGが言うんだから」
「何の略ですか、それ」
「グレートティーチャー五条悟」
完全に不安がなくなったわけじゃない。
でも彼のおかげで、イサミの心が少しだけ軽くなったのは本当だ。
「ところで、さっきの続きなんだけど――」
そしてここで何故か、会話は振り出しに戻る。
完全にカレーの流れを断てたと思いきや、そうは問屋が卸されなかった。
どうしてこのタイミングで、またこのネタを引っ張り出してくるのか。
イサミは静かに息を吐いた。
いつもより少し長い溜息だった。
質問内容自体はシンプルなもので、難しい言葉を使わなくても答えられる範囲ではある。
それに、語彙を絞る練習と言われてしまっては、断る理由がなかった。
「・・・・・・そもそも、カレーに林檎は入れないです」
「ふーん」
普通に会話ができたなら、あっという間に回答できるところを、イサミは通常よりも時間をかけて声に出した。
手短に意思を伝えられ、かつ相手に影響を与えない、無難な単語。
己の意思表示ひとつにおいても語彙を絞らなければならない会話は、いつだってストレスだ。
適当な単語ひとつで意思疎通ができた父親には感謝しかない。
そんなイサミの心境を他所に、五条は次の質問を投げかけた。
「じゃあ、バナナ。それとも柿かな?僕は入れないけど」
「どれも入れません・・・・・・ていうか、なんで果物ばっかり」
「だったら蜂蜜!これならいけるでしょ」
何故だろう、ルーを甘くするものにしか焦点が当たっていないのは、絶対気のせいじゃない。
世代に関係なく、誰もが一度は話題にするかもしれない、味付けについての意見交換。
この手の味付けに関しては人それぞれとしか言いようがない。
ルーの辛さは大まかに分けて、甘口・中辛・辛口の3ランク。
数字にして、1~5段階までの辛さまである。
これとまた別に、大辛というランクもあるようだが、一般的な感覚としてはこんなところだろう。
ちなみに甘いカレーが ”1” で、辛いカレーは ”5” だ。
つまるところ、五条向けの辛味順位は ”1” ということになる。
イサミの場合、メーカーにもよるが、3や4の中辛を好んで選ぶことが多い。
片や甘党、片や辛党。
お互いの意見が交わることはなさそうだ。
これ以上、似たようなやりとりが続いても不毛なので、会話をぶった切るようで悪いがイサミは本音を口にすることにした。
「うちではいつも中辛なんです」
「うそだろ」
カレーに甘い物は入れないことをイサミが遠まわしに伝えれば、五条は見るからにショックを受けたといった表情をした。
そして数秒、間を置いたあとで、真面目な声色で五条は尋ねる。
「もしかして、甘いもの好きじゃない」
「はい」
「マジか。しかも即答」
どうりで駄菓子への食いつきが悪いわけだ。
五条は納得のいった様子で頬を掻いた。
「ま。イサミが何党であれ、食堂のカレーは気に入ると思うよ。コクがあって肉もたくさん入ってるし、僕も学生だった時分はよくお世話になったもんだ」
やけにカレーネタを引っ張ってくるな・・・。
イサミは訝しげに五条を盗み見た。
大の大人を相手に、譲歩という形で得た、本日のランチであるカレー定食を食べる権利。
最初こそ魚の口だったイサミも、いまではカレーの口になっている。
だからもしここで五条が「やっぱりカレーがいい」と駄々をごねたとしても、イサミはこの権利を譲るつもりはない。
どうかこのまま食堂に着きますように――イサミは内心、願った。
ところが、事態は彼女の予想斜め上をいく。
上着のポケットに両手を突っ込んだまま歩を進めていた五条が、懐かしそうな表情を浮かべて廊下の天井を見上げた。
そうして少しだけ間を置いてから、すっと真顔になり。
「それが今となっちゃ、逆に物足りなくなるとはね」
ぽつり、独り言のように呟いた。
雑談の片手間、家入から処方された薬袋を指先でぶらつかせていたイサミの手が、ピタリと止まる。
ほんの数ミリ程度しかない違和感。
五条の話を表面的に捉えれば、彼の好みが変わってしまったがために、食堂のカレーでは満足できない口になってしまった、という意味に聞こえる。
だが、それにしてはニュアンスがずれているような気がして。
考えるより先に、名が口をついて出ていた。
「五条さ――」
「てなワケで、今日は魚定食の気分なんだよね。はい到着!」
「・・・・・・・・・」
だが空しくも、イサミの声は成人男性の朗らかな声に上書きされて消えた。
”食堂” と書かれたネームプレートがぶら下がった引き戸、その前に立ち止まった五条よりも数歩手前で、イサミは足を止めた。
そうだ、五条悟はこういう男だった。
場の空気の入れ替えが空気洗浄機以上に激しいせいで、その周囲にいる人間の対応が追いつかないほどの、この切り替えの早さ。
恨めしい視線を向けるなと言われるほうが、よっぽど無理な話だ。
「あれ、いま何か言おうと」
「・・・してないです」
少しでも心配した自分が馬鹿らしくて、イサミは半ば強引に会話を打ち切った。
何度見上げたか分からない五条の顔。
イサミが同じように見上げれば、その時にはもう、先ほどのようなアンニュイな雰囲気は鳴りを潜めていて、いつもの軽薄な表情だけがそこにあった。
そう?と首を傾げる五条に、イサミはまたしても気抜けした。
そして、改めて思う。
五条悟という人間は、煙のように、ゆらゆらと掴みどころのない男だと。
「いつまで駄弁ってんだ悟、もう飯冷めてんぞ」
突如として食堂の引き戸が開かれ、中から丸眼鏡をかけた女子生徒が顔を出した。
それと同時に、色んな食材が混じった調理場の香りがふわりと漂ってきて、イサミの空っぽの胃袋を刺激した。
「お疲れサマンサー!真希、さっきはありがとね」
「人に頼んどいて、来るのが遅っせぇんだよ。あと出入り口で固まるな、邪魔になる」
噛みつくように話しかける女子生徒こと真希に、五条は「メンゴ!」と片手を上げた。
目を細め、ちっとは反省しろや、と真希が呟く。
そんな彼女を、イサミは五条の影からそっと覗き見た。
長めの髪を後頭部の高い位置で結んだ、いわゆるポニーテール姿の彼女こそが、今回の定食を確保してくれた恩人らしい。
まずはお礼をといきたいところだが、それは目の前の二人の会話が終わってからでも遅くないだろう。
「今日の実習はどうだった?」
「問題ない。ったく、あとで諒子サンにも礼を言っとけよな。あの人だって暇じゃないんだから」
で、と真希は腕を組んだ。
「そこで縮こまってるのが、今日来るって話してた転入生?」
「そう。新入生の、秋山イサミクンです。詳しい自己紹介はあとでちゃんとさせるから、楽しみにしててよ」
「べつに楽しみにしちゃいねーし。他は知らねぇけど」
不機嫌そうに話していた真希の視線が五条から、その影に立つイサミへ、ついと流れた。
力強い瞳と視線がかち合い、イサミは思わず身を硬くする。
同い年なのだから、そこまで気負わなくてもいいはずなのに、初対面のせいかどうしても緊張が勝った。
「転入初日から顔面に怪我かよ」
転入生の全容を確認しようと、腕を組んだまま軽く覗き込むように身体を傾けた真希は、その右頬に貼られた湿布を見つけるなり、呆れたといった表情を浮かべた。
「悟、こいつに何やらせた」
「学長の呪骸と、ちょっとね」
「いきなり面談とか鬼か、しかもよく通ったな。つーか、オマエも隠れてないで、顔くらいちゃんと見せ――・・・」
真希の声が、語尾が近づくにつれて尻すぼみになっていく。
「マジかよ」
あるモノに目を留め、ぎょっとする真希の視線の先にあるもの――。
イサミは、はっとし、左側の頬へ咄嗟に手をやって ”それ” を隠した。
――完全に失念していた。
あまり人に見せたくないものをそのまま晒していたことに、いまさら気がつくとは。
夜蛾との一件により、使い物にならなくなったマスクは、家入の治療を受ける際に他のゴミと一緒に処分してしまった。
そこから先も、五条の相手でいっぱいいっぱいで、マスクにまで気が回らずにいた結果がこれだ。
替えのマスクは手荷物の中。
今さら医務室へ分けて貰いに戻ったところで遅い。
居心地の悪さに拍車がかかり、イサミは真希から顔を逸らしてしまう。
だが、それを見逃してやれるほど親切な真希ではなかった。
「オマエ、呪言師か」
「・・・ジュ、ゴンシ?」
真希から確信めいた口調で尋ねられるも、ジュゴンシが何を指すのか分からないイサミは片言の発音でオウム返しをするしかない。
「は?なんで片言だよ」
何も分かっていないと言わんばかりの様子に、真希は片眉を上げ、探るような視線をイサミに向けた。
何を問われているのか理解できていないイサミの様相に、真希の瞳が次第に細くなっていく。
二人の間に気まずい沈黙が落ちること数秒後。
「黙ってるってことは、やっぱ ”そう” か。遊びで入れた刺青にしちゃ、似すぎてるもんな」
暫くして、合点がいったらしい真希は問い詰める姿勢を緩めた。
そこへ様子見をしていた五条が間に割って入る。
「まーき。立ち話も何だし、通せんぼしてないで、そろそろ中へ入れてよ」
「してねぇし。そもそも、悟がコイツに何の説明もしてなかったのが悪い」
「だって僕、忙しいし」
「どうだか」
真希は引き戸から離れると、ほら、と入室を促した。
「大丈夫だよ、真希も分かってるから」
「うっせ。過保護かよ」
「僕はいつだって生徒思いのナイスガイだからね」
「ったく・・・。おい」
食堂へ入るなり、おっつー!と先客へ声をかける五条を横目で見送りながら、真希は、根っこが生えたようにその場から動かないでいるイサミに声をかける。
「べつに取って食いやしねぇから、オマエも早く入れ。さっきから後ろのパンダが落ち着かなくてうぜぇ」
「・・・パンダ?」
イサミは小首を傾げた。
気のせいか、いま、真希の口からパンダと聞こえたような・・・・・・半田、それとも飯田の聞き間違いだろうか。
不思議に思いながらも、イサミは促されるままに食堂へと足を踏み入れた、その途端。
目に飛び込んできた光景に、イサミは目を丸くした。
「パンダがカレー食べてる・・・・・・」
「パンダがカレー食べちゃだめか?」
まごうことなき、どこからどう見てもパンダにしか見えない生き物が、人と同じようにテーブルにつき、一人前と思しきカレーを食べているだなんて、誰が想像できただろう。
脳の処理が追いつかず、呆然と呟いたイサミに、五条が笑いを堪える気配がした。
大きい影が、隣を歩く小さな影にのんびりとした口調で話しかける。
「僕さぁ、カレーには林檎と蜂蜜をたっぷり入れたい派なんだよね」
前触れもなく始まったカレー談議。
テーマはカレーの味付けについて、といったところだろうか。
「ほら、僕甘党でしょ。だからカレーも甘いやつが好きなの」
ほら、とは言うが、自身の好みを知った体で話を振られても困る。
何ならいま知ったばかりだ。
しかしまあ、思い返してみれば、車内で提供された菓子の山がどこへ消えたかというと、それは五条悟の胃袋だし、そこを踏まえれば彼が甘党だという点には納得がいく。
でもまさか、カレーにまで甘さを求めてくるとは誰も思わないだろう。
これは・・・どう反応するのが正解だろう、そもそも正解はあるのか。
悩んだ末にイサミは、はあ、と最も無難そうな相槌を打つだけに留めた。
「でもたまにあるんだよね、甘くない林檎。あれ惜しいよねぇ。こっちはカレーを甘くするために買ってきたっていうのに、あれじゃあ、何のために摩り下ろしてるのか分かんないよ」
当時の事を思い出してか、五条はうんざりといった風に、わざとらしく溜息を吐いてみせた。
「イサミはどう?こういう経験ない?」
続いて放たれた言葉にイサミは「あ、これは相手をするしかないやつだな」と、早々に諦めの境地に入った。
この男からの絡みをかわすことはなかなかに難しいと、ここ数時間で学んだ結果である。
それにしても、明らかに乗り気でない反応を前にしても挫けず、会話を続けようとするこの強かさは一体どこからくるのだろう。
声に出さずとも、雰囲気で返事を催促してくる男に応えるため、イサミは重い腰を上げると、ポケットに仕舞っていたスマートフォンに手を伸ばした。
すると、その様子を見ていた五条が「そうだ」と何か思いついたように、ポン、と手を叩いた。
「ちょうどいいや。食堂に着くまでの間、語彙を絞って会話といこうか」
「え」
「え、じゃなくて。もしかして、卒業するまでなんにも喋らずに生活するつもりだったの?フツーに考えて無理でしょ」
死人じゃあるまいし、と五条は笑う。
ぐ、とイサミは言葉に詰まった。
くやしいが、至極真っ当な意見だ。
五条の言う通り、何も喋らずにいることは不可能だ。
イサミが転入前に所属していた高校は通信制。
授業は自室、クラスメートとの接触もほぼ無い。
外出先でのやりとりだって、メモひとつあればこなせる。
だが、学校という場においては話が別だ。
それにここは呪術の学舎、いつでもどこでも暢気に筆談できる場所ではない。
だからこそ、語彙を絞ってでもコミュニケーションが求められる。
「語彙を絞る。この行為自体が自分を含め、周りの人間を守ることに繋がる。そこんところは、イサミももう分かってるよね」
軽やかな口調で ”五条先生” は言う。
そして確認事項を兼ねて、イサミに三つの制約を課した。
その一、呪力をコントロールできるようになるまで、特定の人物以外との会話は控えること。
その二、会話が必要な場合は筆談、又は、無難な単語のみ使用可とする。
その三、人間を相手に、攻撃的な言葉は扱わないこと。
「まずはこんなところかな。最終目標は完全に語彙を絞ることだけど、いまのイサミがそんなことをしたら、ストレスで死んじゃいそうだしね」
「・・・あの」
イサミはそろりと手を挙げた。
「質問かな。いいよ、なんでも訊いて。まずはメアド交換からいっちゃう?」
「・・・・・・。その、特定の人物というのは、もしかして・・・」
「お察しの通り、この僕だよ」
後半の内容は無視して、語彙を選びながら慎重に尋ねたイサミに五条は、べーん、とでも効果音がついていそうな、なんとも軽い調子で自身を指差した。
大丈夫だろうか、いろいろな面で。
イサミの顔に、”心配” の二文字が浮かんだ。
あと、ちょいちょい挟んでくる冗談は何なんだろう。
反応に困るのでやめて欲しいが、これがなかなか言い出せない。
「あとはそうだな、夜蛾学長と七海・・・・・・教師レベルの奴が相手なら、問題ないか。あ、でも硝子の前では勘弁してあげてね。立場上、呪力の浪費は避けたいし、何かあったら大変なことになるから」
思いつくだけの人物を指折り数えていく五条。
折り曲げた指が四本目に差し掛かった時、不安そうな顔つきでいる教え子の様子に気づいた彼は、いつものように口角を上げた。
「大丈夫。僕、最強だから」
――意外かもしれないけど、僕、こういうのに詳しいんだよね。だから信頼してくれていいよ。
はたと、イサミは居酒屋で聞いた言葉を思い出した。
五条がこうして会話を許可してくれるのも、きっと、彼なら ”何か起こっても対処できる自信があるから” なのだろう。
「・・・全然、答えになってないんですけど」
「えー、これ以上の答えってないでしょ。このGTGが言うんだから」
「何の略ですか、それ」
「グレートティーチャー五条悟」
完全に不安がなくなったわけじゃない。
でも彼のおかげで、イサミの心が少しだけ軽くなったのは本当だ。
「ところで、さっきの続きなんだけど――」
そしてここで何故か、会話は振り出しに戻る。
完全にカレーの流れを断てたと思いきや、そうは問屋が卸されなかった。
どうしてこのタイミングで、またこのネタを引っ張り出してくるのか。
イサミは静かに息を吐いた。
いつもより少し長い溜息だった。
質問内容自体はシンプルなもので、難しい言葉を使わなくても答えられる範囲ではある。
それに、語彙を絞る練習と言われてしまっては、断る理由がなかった。
「・・・・・・そもそも、カレーに林檎は入れないです」
「ふーん」
普通に会話ができたなら、あっという間に回答できるところを、イサミは通常よりも時間をかけて声に出した。
手短に意思を伝えられ、かつ相手に影響を与えない、無難な単語。
己の意思表示ひとつにおいても語彙を絞らなければならない会話は、いつだってストレスだ。
適当な単語ひとつで意思疎通ができた父親には感謝しかない。
そんなイサミの心境を他所に、五条は次の質問を投げかけた。
「じゃあ、バナナ。それとも柿かな?僕は入れないけど」
「どれも入れません・・・・・・ていうか、なんで果物ばっかり」
「だったら蜂蜜!これならいけるでしょ」
何故だろう、ルーを甘くするものにしか焦点が当たっていないのは、絶対気のせいじゃない。
世代に関係なく、誰もが一度は話題にするかもしれない、味付けについての意見交換。
この手の味付けに関しては人それぞれとしか言いようがない。
ルーの辛さは大まかに分けて、甘口・中辛・辛口の3ランク。
数字にして、1~5段階までの辛さまである。
これとまた別に、大辛というランクもあるようだが、一般的な感覚としてはこんなところだろう。
ちなみに甘いカレーが ”1” で、辛いカレーは ”5” だ。
つまるところ、五条向けの辛味順位は ”1” ということになる。
イサミの場合、メーカーにもよるが、3や4の中辛を好んで選ぶことが多い。
片や甘党、片や辛党。
お互いの意見が交わることはなさそうだ。
これ以上、似たようなやりとりが続いても不毛なので、会話をぶった切るようで悪いがイサミは本音を口にすることにした。
「うちではいつも中辛なんです」
「うそだろ」
カレーに甘い物は入れないことをイサミが遠まわしに伝えれば、五条は見るからにショックを受けたといった表情をした。
そして数秒、間を置いたあとで、真面目な声色で五条は尋ねる。
「もしかして、甘いもの好きじゃない」
「はい」
「マジか。しかも即答」
どうりで駄菓子への食いつきが悪いわけだ。
五条は納得のいった様子で頬を掻いた。
「ま。イサミが何党であれ、食堂のカレーは気に入ると思うよ。コクがあって肉もたくさん入ってるし、僕も学生だった時分はよくお世話になったもんだ」
やけにカレーネタを引っ張ってくるな・・・。
イサミは訝しげに五条を盗み見た。
大の大人を相手に、譲歩という形で得た、本日のランチであるカレー定食を食べる権利。
最初こそ魚の口だったイサミも、いまではカレーの口になっている。
だからもしここで五条が「やっぱりカレーがいい」と駄々をごねたとしても、イサミはこの権利を譲るつもりはない。
どうかこのまま食堂に着きますように――イサミは内心、願った。
ところが、事態は彼女の予想斜め上をいく。
上着のポケットに両手を突っ込んだまま歩を進めていた五条が、懐かしそうな表情を浮かべて廊下の天井を見上げた。
そうして少しだけ間を置いてから、すっと真顔になり。
「それが今となっちゃ、逆に物足りなくなるとはね」
ぽつり、独り言のように呟いた。
雑談の片手間、家入から処方された薬袋を指先でぶらつかせていたイサミの手が、ピタリと止まる。
ほんの数ミリ程度しかない違和感。
五条の話を表面的に捉えれば、彼の好みが変わってしまったがために、食堂のカレーでは満足できない口になってしまった、という意味に聞こえる。
だが、それにしてはニュアンスがずれているような気がして。
考えるより先に、名が口をついて出ていた。
「五条さ――」
「てなワケで、今日は魚定食の気分なんだよね。はい到着!」
「・・・・・・・・・」
だが空しくも、イサミの声は成人男性の朗らかな声に上書きされて消えた。
”食堂” と書かれたネームプレートがぶら下がった引き戸、その前に立ち止まった五条よりも数歩手前で、イサミは足を止めた。
そうだ、五条悟はこういう男だった。
場の空気の入れ替えが空気洗浄機以上に激しいせいで、その周囲にいる人間の対応が追いつかないほどの、この切り替えの早さ。
恨めしい視線を向けるなと言われるほうが、よっぽど無理な話だ。
「あれ、いま何か言おうと」
「・・・してないです」
少しでも心配した自分が馬鹿らしくて、イサミは半ば強引に会話を打ち切った。
何度見上げたか分からない五条の顔。
イサミが同じように見上げれば、その時にはもう、先ほどのようなアンニュイな雰囲気は鳴りを潜めていて、いつもの軽薄な表情だけがそこにあった。
そう?と首を傾げる五条に、イサミはまたしても気抜けした。
そして、改めて思う。
五条悟という人間は、煙のように、ゆらゆらと掴みどころのない男だと。
「いつまで駄弁ってんだ悟、もう飯冷めてんぞ」
突如として食堂の引き戸が開かれ、中から丸眼鏡をかけた女子生徒が顔を出した。
それと同時に、色んな食材が混じった調理場の香りがふわりと漂ってきて、イサミの空っぽの胃袋を刺激した。
「お疲れサマンサー!真希、さっきはありがとね」
「人に頼んどいて、来るのが遅っせぇんだよ。あと出入り口で固まるな、邪魔になる」
噛みつくように話しかける女子生徒こと真希に、五条は「メンゴ!」と片手を上げた。
目を細め、ちっとは反省しろや、と真希が呟く。
そんな彼女を、イサミは五条の影からそっと覗き見た。
長めの髪を後頭部の高い位置で結んだ、いわゆるポニーテール姿の彼女こそが、今回の定食を確保してくれた恩人らしい。
まずはお礼をといきたいところだが、それは目の前の二人の会話が終わってからでも遅くないだろう。
「今日の実習はどうだった?」
「問題ない。ったく、あとで諒子サンにも礼を言っとけよな。あの人だって暇じゃないんだから」
で、と真希は腕を組んだ。
「そこで縮こまってるのが、今日来るって話してた転入生?」
「そう。新入生の、秋山イサミクンです。詳しい自己紹介はあとでちゃんとさせるから、楽しみにしててよ」
「べつに楽しみにしちゃいねーし。他は知らねぇけど」
不機嫌そうに話していた真希の視線が五条から、その影に立つイサミへ、ついと流れた。
力強い瞳と視線がかち合い、イサミは思わず身を硬くする。
同い年なのだから、そこまで気負わなくてもいいはずなのに、初対面のせいかどうしても緊張が勝った。
「転入初日から顔面に怪我かよ」
転入生の全容を確認しようと、腕を組んだまま軽く覗き込むように身体を傾けた真希は、その右頬に貼られた湿布を見つけるなり、呆れたといった表情を浮かべた。
「悟、こいつに何やらせた」
「学長の呪骸と、ちょっとね」
「いきなり面談とか鬼か、しかもよく通ったな。つーか、オマエも隠れてないで、顔くらいちゃんと見せ――・・・」
真希の声が、語尾が近づくにつれて尻すぼみになっていく。
「マジかよ」
あるモノに目を留め、ぎょっとする真希の視線の先にあるもの――。
イサミは、はっとし、左側の頬へ咄嗟に手をやって ”それ” を隠した。
――完全に失念していた。
あまり人に見せたくないものをそのまま晒していたことに、いまさら気がつくとは。
夜蛾との一件により、使い物にならなくなったマスクは、家入の治療を受ける際に他のゴミと一緒に処分してしまった。
そこから先も、五条の相手でいっぱいいっぱいで、マスクにまで気が回らずにいた結果がこれだ。
替えのマスクは手荷物の中。
今さら医務室へ分けて貰いに戻ったところで遅い。
居心地の悪さに拍車がかかり、イサミは真希から顔を逸らしてしまう。
だが、それを見逃してやれるほど親切な真希ではなかった。
「オマエ、呪言師か」
「・・・ジュ、ゴンシ?」
真希から確信めいた口調で尋ねられるも、ジュゴンシが何を指すのか分からないイサミは片言の発音でオウム返しをするしかない。
「は?なんで片言だよ」
何も分かっていないと言わんばかりの様子に、真希は片眉を上げ、探るような視線をイサミに向けた。
何を問われているのか理解できていないイサミの様相に、真希の瞳が次第に細くなっていく。
二人の間に気まずい沈黙が落ちること数秒後。
「黙ってるってことは、やっぱ ”そう” か。遊びで入れた刺青にしちゃ、似すぎてるもんな」
暫くして、合点がいったらしい真希は問い詰める姿勢を緩めた。
そこへ様子見をしていた五条が間に割って入る。
「まーき。立ち話も何だし、通せんぼしてないで、そろそろ中へ入れてよ」
「してねぇし。そもそも、悟がコイツに何の説明もしてなかったのが悪い」
「だって僕、忙しいし」
「どうだか」
真希は引き戸から離れると、ほら、と入室を促した。
「大丈夫だよ、真希も分かってるから」
「うっせ。過保護かよ」
「僕はいつだって生徒思いのナイスガイだからね」
「ったく・・・。おい」
食堂へ入るなり、おっつー!と先客へ声をかける五条を横目で見送りながら、真希は、根っこが生えたようにその場から動かないでいるイサミに声をかける。
「べつに取って食いやしねぇから、オマエも早く入れ。さっきから後ろのパンダが落ち着かなくてうぜぇ」
「・・・パンダ?」
イサミは小首を傾げた。
気のせいか、いま、真希の口からパンダと聞こえたような・・・・・・半田、それとも飯田の聞き間違いだろうか。
不思議に思いながらも、イサミは促されるままに食堂へと足を踏み入れた、その途端。
目に飛び込んできた光景に、イサミは目を丸くした。
「パンダがカレー食べてる・・・・・・」
「パンダがカレー食べちゃだめか?」
まごうことなき、どこからどう見てもパンダにしか見えない生き物が、人と同じようにテーブルにつき、一人前と思しきカレーを食べているだなんて、誰が想像できただろう。
脳の処理が追いつかず、呆然と呟いたイサミに、五条が笑いを堪える気配がした。