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言霊、或いは言魂という言葉がある。
古代日本では、言葉には霊力が宿っていて、発した言葉通りの結果を表す力があると信じられていた。
現代でもその思想は受け継がれており、身近なものだと神社でお祓いに用いられる祝詞がそれにあたる。
良い言葉を発すれば良いことが、悪い言葉を発すれば、悪いことが現実に成る。
この体質になって初めて、イサミは言霊の意味を調べた。
人気のない図書館。
ぶ厚い背表紙に糊付けされた紙の束。
手垢と経年劣化のせいで変色した用紙に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた文字列から探し当てた二文字を、震える指先で一文字ずつなぞった。
あの日を境に、言葉はイサミにとって刃物も同然になった。
「いッ・・・た!」
突然の出来事だった。
イサミが手に持っていたスマートフォンを、小さな何かが弾き飛ばした。
宙を舞うスマホと、弾かれた反動で痛む右手首。
それらに注意が逸れたせいで、死角から迫る影にイサミの反応が遅れた。
直後、ピントがぼやけるほどの近い距離にそいつは現れた。
「は?」
パンダ?
間抜けな声がイサミの口から漏れた。
ビキニトップスだけ着せられた、全長30センチ程の大きさしかない白黒パンダのぬいぐるみ。
確か、夜蛾学長手作りのぬいぐるみの山にいた・・・・・・。
・・・嫌な予感がしないわけがない。
「この子の名前はコパンダ。私の呪いが篭もった人形、呪骸だ」
ぬいぐるみはただのぬいぐるみに非ず。
術式により、仮初の命と躯を得た呪い。
自身の呪いが新入生へ踊りかからんとする光景を見据える夜蛾の瞳は鋭い。
「窮地にこそ人間の本音は出るものだ。納得のいく答えが聞けるまで、攻撃は続くぞ」
距離を置きたいのに、突然のことで身体の反応が追いつかない。
目と鼻の先にいるそいつは、困惑して固まるイサミを嘲笑うように、細い目をさらに細めて、柔らかそうな左腕を振りかぶろうとしていた。
遠くで、スマホが大理石の上を滑り転がる音がした。
「ぅぐッ」
呪骸のまあるい手がイサミの右頬へと叩きつけられた。
布切れと綿で仕立てられたぬいぐるみが繰り出したとは到底思えない、重い一撃。
殴られた反動でイサミの身体がぐらついて、足元が不安定になる。
白いマスクの表面に、じんわりと赤い色が滲んでいるのを五条の目は捉えた。
鼻血、もしくは唇が切れたか。
――さて、どうする?
痛々しい、しかしそれ以上に、自分の生徒がこの窮地をどう切り抜けるかのほうが、五条は楽しみだった。
「君はこの社会を甘く見積もりすぎている。家族と普通に暮らしたいだけなら、これまでの生活で事足りているはずだ」
この場でイサミの負傷を案ずる者は一人としていない。
もし彼女が一般人であったなら、五条がすぐさま間に割って入っただろうし、はなから学校へ連れてくるような真似はしない。
これの意味するところは、イサミが一般の枠に当てはまらない立ち位置にいることへの証明であると同時に、この程度で根を上げる人間ではないという確信を得た結果でもある。
そしてこれは、イサミの本質を見出すための試験でもある。
だからこそ夜蛾は、あえて冷厳にイサミに接する。
「呪術師は常に死と隣り合わせ。自分の死だけではない。呪いに殺された人を横目に、呪いの肉を裂かねばならんこともある。不快な仕事だ。遺体を回収できず、家族の元へ帰れなかった者も少なくはない」
この間にもイサミに向けて、容赦のない二発目の拳が繰り出されようとしていた。
たった一発であの威力。
痛みに耐えるのが精一杯で、どうしても隙ができてしまう。
できることならもう喰らいたくないのに、体勢を立て直す前にしかけられてはかわす余地がない。
「い゛っ・・・ツッ!」
ガードも遅れ、二回目の打撃をモロに横腹に喰らったイサミは、痛みから歯を食い縛る。
冷や汗が眉間を伝い、鼻筋へと流れて、不繊維の生地に染みを作った。
ぬいぐるみが動く現象なんていうのは、テレビの胡散臭い心霊番組でしか拝むことはないと思っていた。
それが現実になって、こうして一方的に痛めつけられている。
こうなってくると、イサミとしては地元の山でひとり、”アレ” と追いかけっこをした時のほうが、まだマシに思えてくるくらいだ。
切れた唇から出血した血液が、肌やマスクにこびりついていて気持ちが悪い。
それよりもっと不愉快なのが、あのぬいぐるみだ。
血糊で頬に接着したマスクを引き剥がして、イサミは、自分よりも遥かに背丈が小さい人形を睨みつけた。
これが普通のぬいぐるみであったなら、イサミだってそれなりに大切に扱っただろう。
だがこいつは違う。
敵意しかない上に、可愛い見た目をしていながら、やることがえげつないときた。
こんなものに温情を抱いてやれるほど、心の広いイサミではない。
とはいえ、応戦したいのはやまやまでも、残念なことに、殴る蹴るといった技量をイサミは持ち合わせていない。
イサミは歯噛みした。
こういうとき にこそ頼りになる相棒を、実家の神棚に置いてきたことが悔やまれる。
あれさえあれば、容易く現状を打開できただろうに。
動くに動けないイサミと、攻撃を仕掛けてくる様子がないコパンダ。
一人と一匹の睨み合いは続く。
「さっき君は、普通の生活を送りたいと答えていたが・・・」
こう着状態に陥ったかと思いきや、どうやら術師によって意図的に作り出された状態だったらしい。
こんな状況とはいえ、無視をするわけにもいかず、イサミは夜蛾の話に耳を傾けることにした。
気になるコパンダはというと、主人の周りでオリジナルダンスを踊っていた。
なんというか、陽気な奴である。
いっそのこと、そのままでいてくれたらいいのに、この会話が終われば、きっとまた襲ってくるのだろう。
「そんなものは呪いに関係なく、ある日突然崩れ去るものだ。事件、事故、病気、理由は様々だ。君は――」
一呼吸置き、夜蛾はより一層厳しい口調でイサミに語りかけた。
「自分が呪いで凄惨な最期を迎えた時、自らの死で”家族の普通” を壊してしまうことを考えたことはないのか」
「あ・・・」
イサミは言葉に詰まった。
夜蛾の瞳はサングラスに阻まれて窺えない。
それでも射抜くような視線を感じて、つい視線を逸らしてしまう。
例えるなら、心の柔らかいところを鋭い針で刺されたような、そんな感じの気分だった。
なにか言わなきゃいけないのに、考えがまとまらない。
言葉が、うまく出てこない。
「死に際の心の在り様を想像するのは難しい。だがこれだけは断言できる。呪術師に悔いのない死などない」
――死。
そう遠くない過去、一筋の煙がたゆたう、独特の香りがする仏間。
そこでぽつんと座り込む父親の後姿がまぶたに浮かんで、イサミはまた胸がつかえた。
伴侶の死とは、どれほどの痛みを伴うのだろう。
たまたま見かけたテレビドラマでは、身を引き裂かれるような痛みがすると、主人公らしき女性が話していた。
イサミにはまだ分からない痛みなのかもしれない。
そんな痛みの中にいる父親を置いて、唯一の肉親が、知らない土地で急逝してしまったら?
どうなるんだろう・・・・・・・・・分からない・・・。
分からなくて当然だ。
自分が死ぬ瞬間にどう思うかさえ想像がつかない、そんな人間に、他人の心情など推し量れるはずがないのだから。
そもそも、悔いのない死って何なんだろう。
伏し目がちになり、イサミはぼんやりと思案する。
ぐしゃぐしゃにこんがらがった毛糸を、一本ずつ地道に解いていくように。
これまでにイサミが目にしたことのある死は、片手で数えられるほどしかない。
けれど、どれも後悔の色が濃かったように思う。
病気で亡くなった人。事故で亡くなった人。
どの人も、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔を口にしていた。
だから、後悔の念に駆られない最期を迎えられたなら、それはきっと幸福なことなのだろうとイサミは考える。
じゃあ、生きている間、後悔しきりでいる人生は?
自分の気持ちに蓋をして、やりたいことを我慢して、声を殺して息を潜めて。
そうやって生きた先、最期の瞬間が訪れた時に、これで良かったと満足のいく死を迎えられるだろうか?
「・・・・・・人生は、」
ふと、口をついて出た言葉の続きが脳裏を掠めて、イサミは目を見開いた。
そうして、おもてを上げたイサミが纏う空気は、先ほどまでと少し変わっていた。
どうやら答えが出たらしい。
それを察して、夜蛾も動く。
「今一度問う。君は何しに呪術高専に来た」
これを合図に、ダンスから華麗にフットワークへと切り替えた呪骸が、再び牙を剥いた。
宙へ躍り出た小さな体躯が、今度こそイサミに容赦のない一撃を与えようと迫る。
目前まで迫り来るそれを見据えて、イサミは、マスクのノーズフィット部分に細い指をかけると、そのままするりと顎まで下げてみせた。
さて、ようやくお披露目だ。
五条は目隠しのように巻いた包帯を少しだけずらし、イサミの口元を盗み見た。
どれだけお願いされようと、とにかく人目に曝すことを拒んできた、少女が意地でも隠したかった秘密。
青空のような瞳が、彼女の秘密を映し出して狐を描く。
つ、とイサミの唇が薄く開き、何かを呟いた。
途端、宙吊りにされたマリオネットが糸をぷつりと切られてくたびれるように、コパンダの勢いがガクンと落ちた。
次に夜蛾が瞬きをした時には、彼の呪骸は、イサミの足元で文字通り崩れ落ちていた。
手足、胴、頭部と、綺麗にバラバラにされたそれらからは、先ほどまでの勢いが失われている。
ただひとつ、核のある胴体だけがひっくり返された亀のように、起き上がろうとして、うごうごと小刻みに揺れていた。
生きた物ではないから体液などの成分はないが、分断された部分からはみ出る綿やら糸くずやらも相まって、薄暗い空間で見る光景にしては少々気味が悪いものがある。
やっと大人しくなった呪骸。
その様子に気が抜けたイサミだったが、すぐさま喉に違和感を感じ、けほけほとその場で小さく咳き込んだ。
風邪を引いた時のような、ざらついた不快感が喉奥に貼り付いている。
できればもう喋りたくないし、早く休んでしまいたかった。
でも、これだけは伝えなくちゃいけない。
「かぞくが悲しむ道を選ぶのが、けほっ。平気なわけじゃ、ない。死ぬのだって、こわいです」
――人生は一度きりだから、後悔のない道を選びなさい。
伴侶を亡くしたその夜、父親が独り言のように発した言葉だ。
もしかすると、娘に気づかせないようにしていただけで、父なりに、後悔の多い人生を過ごしてきたのかもしれない。
それでも、仲睦まじく笑う両親の姿をイサミは知っている。
誰が何と言おうと、これだけは揺るぎない事実だ。
何一つ後悔しない人生を過ごすことは難しいかもしれない。
けれど、後悔を一つでも減らすことならできるかもしれない。
「でも、もう自分に嘘を吐きたくない。力に振り回されて、自分に怯えながら生きるんじゃなくて・・・。いつか、胸を張って歩けるようになりたい。だから、ここで引き返すわけにいか、ないんです」
イサミの声は酷く掠れていた。
そして、自分が出した ”答え” を伝えきったあとに、小さくまた咳き込んだ。
元々あった喉の渇きと、力の反動によるダメージが思いのほか辛い。
鞄の中に喉飴は入れてきただろうか・・・・・・。
普段のイサミであれば、もしもの時のために常備しているところだが、今回は急な出立だったために、手荷物の内容に自信がない。
喉の負傷は私生活に響く。
早くて2日、遅くても3日で治ることを祈るしかない。
それはさておき、肝心の合否がどうなったかというと。
「悟、先に硝子のところへ連れて行ってやれ。寮の案内と、諸々の警備の説明も忘れずにな」
「じゃあ警備については、飯行ってからってことで。寮もそのあとでいいでしょ」
結論から言うと、イサミは合格だった。
しかし、当人を置いて進められる話に、疲弊した脳がついていけるはずがなく。
寮と警備の話が出たということは、そういうことでいいのだろうけれど、素直に喜ぶにはまだ早い気がした。
それに、硝子とは。
「イサミ、聞いてる?」
「・・・あ?はい、聞いてます」
二人のやりとりをぼうっと聞いていたところを、突然、五条に横から覗き込まれて、イサミは我に返った。
「安心しろ、合格だ。ようこそ呪術高専へ」
「ごうかく・・・」
夜蛾が差し出した逞しい手を、イサミはそっと握り返した。
握り返した手が、温かくて、ごつごつした手にすっぽりと収まる。
と、ここでイサミは、ある過ちに気がついた。
質問をする時のように左手を上げて「あの」と、恐る恐る口を開いて彼女は尋ねる。
「さっきから普通に喋ってるんですけど・・・。この判断に、私の力が作用してしまったなんてことは・・・」
「何を思いつめているのかと思えば、そんなことか」
「僕達は呪言対策バッチリだから、何の影響も受けてないよ。面談はちゃんとはなまる、不正もナシ!」
「だが、今後は語彙を絞る練習をするように。危ないからな」
「ウッ」
ビシリと親指を立てて、ニッコニコに答える五条の隣で、至って真顔の夜蛾が、落ち着き払った声でイサミに釘を刺した。
これにはイサミも自覚があるので、素直に頷くしかない。
かくして、入学の許しを得ることに成功したイサミは、明日よりこの学び舎で仲間と共に、呪いを退ける術を学んでいくこととなる。
第一にして、最大の難関を乗り越えたあとの脱力感は凄まじく、ここでようやくイサミも肩の力を抜くことができた。
その肩に手をやり、「じゃ、飯行こっか!」とテンションが常にジェットコースターのような男に声をかけられるまでは。
古代日本では、言葉には霊力が宿っていて、発した言葉通りの結果を表す力があると信じられていた。
現代でもその思想は受け継がれており、身近なものだと神社でお祓いに用いられる祝詞がそれにあたる。
良い言葉を発すれば良いことが、悪い言葉を発すれば、悪いことが現実に成る。
この体質になって初めて、イサミは言霊の意味を調べた。
人気のない図書館。
ぶ厚い背表紙に糊付けされた紙の束。
手垢と経年劣化のせいで変色した用紙に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた文字列から探し当てた二文字を、震える指先で一文字ずつなぞった。
あの日を境に、言葉はイサミにとって刃物も同然になった。
「いッ・・・た!」
突然の出来事だった。
イサミが手に持っていたスマートフォンを、小さな何かが弾き飛ばした。
宙を舞うスマホと、弾かれた反動で痛む右手首。
それらに注意が逸れたせいで、死角から迫る影にイサミの反応が遅れた。
直後、ピントがぼやけるほどの近い距離にそいつは現れた。
「は?」
パンダ?
間抜けな声がイサミの口から漏れた。
ビキニトップスだけ着せられた、全長30センチ程の大きさしかない白黒パンダのぬいぐるみ。
確か、夜蛾学長手作りのぬいぐるみの山にいた・・・・・・。
・・・嫌な予感がしないわけがない。
「この子の名前はコパンダ。私の呪いが篭もった人形、呪骸だ」
ぬいぐるみはただのぬいぐるみに非ず。
術式により、仮初の命と躯を得た呪い。
自身の呪いが新入生へ踊りかからんとする光景を見据える夜蛾の瞳は鋭い。
「窮地にこそ人間の本音は出るものだ。納得のいく答えが聞けるまで、攻撃は続くぞ」
距離を置きたいのに、突然のことで身体の反応が追いつかない。
目と鼻の先にいるそいつは、困惑して固まるイサミを嘲笑うように、細い目をさらに細めて、柔らかそうな左腕を振りかぶろうとしていた。
遠くで、スマホが大理石の上を滑り転がる音がした。
「ぅぐッ」
呪骸のまあるい手がイサミの右頬へと叩きつけられた。
布切れと綿で仕立てられたぬいぐるみが繰り出したとは到底思えない、重い一撃。
殴られた反動でイサミの身体がぐらついて、足元が不安定になる。
白いマスクの表面に、じんわりと赤い色が滲んでいるのを五条の目は捉えた。
鼻血、もしくは唇が切れたか。
――さて、どうする?
痛々しい、しかしそれ以上に、自分の生徒がこの窮地をどう切り抜けるかのほうが、五条は楽しみだった。
「君はこの社会を甘く見積もりすぎている。家族と普通に暮らしたいだけなら、これまでの生活で事足りているはずだ」
この場でイサミの負傷を案ずる者は一人としていない。
もし彼女が一般人であったなら、五条がすぐさま間に割って入っただろうし、はなから学校へ連れてくるような真似はしない。
これの意味するところは、イサミが一般の枠に当てはまらない立ち位置にいることへの証明であると同時に、この程度で根を上げる人間ではないという確信を得た結果でもある。
そしてこれは、イサミの本質を見出すための試験でもある。
だからこそ夜蛾は、あえて冷厳にイサミに接する。
「呪術師は常に死と隣り合わせ。自分の死だけではない。呪いに殺された人を横目に、呪いの肉を裂かねばならんこともある。不快な仕事だ。遺体を回収できず、家族の元へ帰れなかった者も少なくはない」
この間にもイサミに向けて、容赦のない二発目の拳が繰り出されようとしていた。
たった一発であの威力。
痛みに耐えるのが精一杯で、どうしても隙ができてしまう。
できることならもう喰らいたくないのに、体勢を立て直す前にしかけられてはかわす余地がない。
「い゛っ・・・ツッ!」
ガードも遅れ、二回目の打撃をモロに横腹に喰らったイサミは、痛みから歯を食い縛る。
冷や汗が眉間を伝い、鼻筋へと流れて、不繊維の生地に染みを作った。
ぬいぐるみが動く現象なんていうのは、テレビの胡散臭い心霊番組でしか拝むことはないと思っていた。
それが現実になって、こうして一方的に痛めつけられている。
こうなってくると、イサミとしては地元の山でひとり、”アレ” と追いかけっこをした時のほうが、まだマシに思えてくるくらいだ。
切れた唇から出血した血液が、肌やマスクにこびりついていて気持ちが悪い。
それよりもっと不愉快なのが、あのぬいぐるみだ。
血糊で頬に接着したマスクを引き剥がして、イサミは、自分よりも遥かに背丈が小さい人形を睨みつけた。
これが普通のぬいぐるみであったなら、イサミだってそれなりに大切に扱っただろう。
だがこいつは違う。
敵意しかない上に、可愛い見た目をしていながら、やることがえげつないときた。
こんなものに温情を抱いてやれるほど、心の広いイサミではない。
とはいえ、応戦したいのはやまやまでも、残念なことに、殴る蹴るといった技量をイサミは持ち合わせていない。
イサミは歯噛みした。
あれさえあれば、容易く現状を打開できただろうに。
動くに動けないイサミと、攻撃を仕掛けてくる様子がないコパンダ。
一人と一匹の睨み合いは続く。
「さっき君は、普通の生活を送りたいと答えていたが・・・」
こう着状態に陥ったかと思いきや、どうやら術師によって意図的に作り出された状態だったらしい。
こんな状況とはいえ、無視をするわけにもいかず、イサミは夜蛾の話に耳を傾けることにした。
気になるコパンダはというと、主人の周りでオリジナルダンスを踊っていた。
なんというか、陽気な奴である。
いっそのこと、そのままでいてくれたらいいのに、この会話が終われば、きっとまた襲ってくるのだろう。
「そんなものは呪いに関係なく、ある日突然崩れ去るものだ。事件、事故、病気、理由は様々だ。君は――」
一呼吸置き、夜蛾はより一層厳しい口調でイサミに語りかけた。
「自分が呪いで凄惨な最期を迎えた時、自らの死で”家族の普通” を壊してしまうことを考えたことはないのか」
「あ・・・」
イサミは言葉に詰まった。
夜蛾の瞳はサングラスに阻まれて窺えない。
それでも射抜くような視線を感じて、つい視線を逸らしてしまう。
例えるなら、心の柔らかいところを鋭い針で刺されたような、そんな感じの気分だった。
なにか言わなきゃいけないのに、考えがまとまらない。
言葉が、うまく出てこない。
「死に際の心の在り様を想像するのは難しい。だがこれだけは断言できる。呪術師に悔いのない死などない」
――死。
そう遠くない過去、一筋の煙がたゆたう、独特の香りがする仏間。
そこでぽつんと座り込む父親の後姿がまぶたに浮かんで、イサミはまた胸がつかえた。
伴侶の死とは、どれほどの痛みを伴うのだろう。
たまたま見かけたテレビドラマでは、身を引き裂かれるような痛みがすると、主人公らしき女性が話していた。
イサミにはまだ分からない痛みなのかもしれない。
そんな痛みの中にいる父親を置いて、唯一の肉親が、知らない土地で急逝してしまったら?
どうなるんだろう・・・・・・・・・分からない・・・。
分からなくて当然だ。
自分が死ぬ瞬間にどう思うかさえ想像がつかない、そんな人間に、他人の心情など推し量れるはずがないのだから。
そもそも、悔いのない死って何なんだろう。
伏し目がちになり、イサミはぼんやりと思案する。
ぐしゃぐしゃにこんがらがった毛糸を、一本ずつ地道に解いていくように。
これまでにイサミが目にしたことのある死は、片手で数えられるほどしかない。
けれど、どれも後悔の色が濃かったように思う。
病気で亡くなった人。事故で亡くなった人。
どの人も、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔を口にしていた。
だから、後悔の念に駆られない最期を迎えられたなら、それはきっと幸福なことなのだろうとイサミは考える。
じゃあ、生きている間、後悔しきりでいる人生は?
自分の気持ちに蓋をして、やりたいことを我慢して、声を殺して息を潜めて。
そうやって生きた先、最期の瞬間が訪れた時に、これで良かったと満足のいく死を迎えられるだろうか?
「・・・・・・人生は、」
ふと、口をついて出た言葉の続きが脳裏を掠めて、イサミは目を見開いた。
そうして、おもてを上げたイサミが纏う空気は、先ほどまでと少し変わっていた。
どうやら答えが出たらしい。
それを察して、夜蛾も動く。
「今一度問う。君は何しに呪術高専に来た」
これを合図に、ダンスから華麗にフットワークへと切り替えた呪骸が、再び牙を剥いた。
宙へ躍り出た小さな体躯が、今度こそイサミに容赦のない一撃を与えようと迫る。
目前まで迫り来るそれを見据えて、イサミは、マスクのノーズフィット部分に細い指をかけると、そのままするりと顎まで下げてみせた。
さて、ようやくお披露目だ。
五条は目隠しのように巻いた包帯を少しだけずらし、イサミの口元を盗み見た。
どれだけお願いされようと、とにかく人目に曝すことを拒んできた、少女が意地でも隠したかった秘密。
青空のような瞳が、彼女の秘密を映し出して狐を描く。
つ、とイサミの唇が薄く開き、何かを呟いた。
途端、宙吊りにされたマリオネットが糸をぷつりと切られてくたびれるように、コパンダの勢いがガクンと落ちた。
次に夜蛾が瞬きをした時には、彼の呪骸は、イサミの足元で文字通り崩れ落ちていた。
手足、胴、頭部と、綺麗にバラバラにされたそれらからは、先ほどまでの勢いが失われている。
ただひとつ、核のある胴体だけがひっくり返された亀のように、起き上がろうとして、うごうごと小刻みに揺れていた。
生きた物ではないから体液などの成分はないが、分断された部分からはみ出る綿やら糸くずやらも相まって、薄暗い空間で見る光景にしては少々気味が悪いものがある。
やっと大人しくなった呪骸。
その様子に気が抜けたイサミだったが、すぐさま喉に違和感を感じ、けほけほとその場で小さく咳き込んだ。
風邪を引いた時のような、ざらついた不快感が喉奥に貼り付いている。
できればもう喋りたくないし、早く休んでしまいたかった。
でも、これだけは伝えなくちゃいけない。
「かぞくが悲しむ道を選ぶのが、けほっ。平気なわけじゃ、ない。死ぬのだって、こわいです」
――人生は一度きりだから、後悔のない道を選びなさい。
伴侶を亡くしたその夜、父親が独り言のように発した言葉だ。
もしかすると、娘に気づかせないようにしていただけで、父なりに、後悔の多い人生を過ごしてきたのかもしれない。
それでも、仲睦まじく笑う両親の姿をイサミは知っている。
誰が何と言おうと、これだけは揺るぎない事実だ。
何一つ後悔しない人生を過ごすことは難しいかもしれない。
けれど、後悔を一つでも減らすことならできるかもしれない。
「でも、もう自分に嘘を吐きたくない。力に振り回されて、自分に怯えながら生きるんじゃなくて・・・。いつか、胸を張って歩けるようになりたい。だから、ここで引き返すわけにいか、ないんです」
イサミの声は酷く掠れていた。
そして、自分が出した ”答え” を伝えきったあとに、小さくまた咳き込んだ。
元々あった喉の渇きと、力の反動によるダメージが思いのほか辛い。
鞄の中に喉飴は入れてきただろうか・・・・・・。
普段のイサミであれば、もしもの時のために常備しているところだが、今回は急な出立だったために、手荷物の内容に自信がない。
喉の負傷は私生活に響く。
早くて2日、遅くても3日で治ることを祈るしかない。
それはさておき、肝心の合否がどうなったかというと。
「悟、先に硝子のところへ連れて行ってやれ。寮の案内と、諸々の警備の説明も忘れずにな」
「じゃあ警備については、飯行ってからってことで。寮もそのあとでいいでしょ」
結論から言うと、イサミは合格だった。
しかし、当人を置いて進められる話に、疲弊した脳がついていけるはずがなく。
寮と警備の話が出たということは、そういうことでいいのだろうけれど、素直に喜ぶにはまだ早い気がした。
それに、硝子とは。
「イサミ、聞いてる?」
「・・・あ?はい、聞いてます」
二人のやりとりをぼうっと聞いていたところを、突然、五条に横から覗き込まれて、イサミは我に返った。
「安心しろ、合格だ。ようこそ呪術高専へ」
「ごうかく・・・」
夜蛾が差し出した逞しい手を、イサミはそっと握り返した。
握り返した手が、温かくて、ごつごつした手にすっぽりと収まる。
と、ここでイサミは、ある過ちに気がついた。
質問をする時のように左手を上げて「あの」と、恐る恐る口を開いて彼女は尋ねる。
「さっきから普通に喋ってるんですけど・・・。この判断に、私の力が作用してしまったなんてことは・・・」
「何を思いつめているのかと思えば、そんなことか」
「僕達は呪言対策バッチリだから、何の影響も受けてないよ。面談はちゃんとはなまる、不正もナシ!」
「だが、今後は語彙を絞る練習をするように。危ないからな」
「ウッ」
ビシリと親指を立てて、ニッコニコに答える五条の隣で、至って真顔の夜蛾が、落ち着き払った声でイサミに釘を刺した。
これにはイサミも自覚があるので、素直に頷くしかない。
かくして、入学の許しを得ることに成功したイサミは、明日よりこの学び舎で仲間と共に、呪いを退ける術を学んでいくこととなる。
第一にして、最大の難関を乗り越えたあとの脱力感は凄まじく、ここでようやくイサミも肩の力を抜くことができた。
その肩に手をやり、「じゃ、飯行こっか!」とテンションが常にジェットコースターのような男に声をかけられるまでは。