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■■県■町にあるド田舎の小さな町。
蒸し暑い湿気を含んだ風に揺れ、秋の豊穣を待ちわびる田園風景を拝みながら、街頭がほとんどない脇道をひとつの人影が横切った。
秋山イサミ、15歳。
今年の春に中学校を卒業したばかりのその人物は、生を謳歌する虫の音に風流さなど感じ入る様子はなく、お気に入りのヘッドホンからシャカシャカと漏れる音楽に夢中らしい。
イサミにとって虫や蛙の鳴き声なんてものは、とうに日常の一部と化していた。
買い物帰りだろうか、年相応に華奢な左手には買い物袋が握りしめられていて、イサミの歩幅に合わせて揺れるたびに、中身の缶詰や調味料が擦れ合って音を立てた。
ささっと、イサミのすぐ足元を何かが這って通りすぎていった。
しかし、本人は特段気にすることなく足を進める。
彼女は何も見ていないし、何も聞いていない。
「ふう・・・」
古めかしい外観、よくある日本家屋の前でイサミは一旦、荷物を地面へ下ろした。
どうやら目的地に辿り着いたらしい。
イサミの背丈とそう変わらない位置にぶら下げられている赤い提灯は柔い光を灯しており、彼女の頬を柔らかく照らす。
力強い毛筆で『居酒屋 火花』と店名が書かれた暖簾を潜り、少々立て付けの悪くなった引き戸を慣れた手付きで開けると、イサミはそのレールをゆったりと跨いだ。
「ただいま」
室内から漏れる光によってイサミの姿がより鮮明になっていく。
白いTシャツに七分の黒いズボンとサンダル、そして季節外れの白いマスク。
風邪を引いているわけでもなし、とっくに初夏だというのに暑さを我慢してまで顔を隠す彼女のことを、事情を知らない者が傍目から見れば奇妙に映るだろう。
それでも、彼女が人前でこのマスクを外そうとすることはない。
「イサミ、お前っちゅー奴は…。お客さんが来とるのに、表から入ってくる奴があるか。こういう時にこそ裏口から入って来い」
入室するなり、出迎えの言葉の代わりに飛んできたのは厳つい男の叱責だった。
「天ぷら~」
「少しは反省せんか・・・」
イサミの適当な返事に父親が言い返すことはなく、代わりに、すみませんねお客さん、急に賑やかになっちまって、とカウンターに腰かけて寛いでいる客に話しかけた。
近年よくある、お一人様というやつだ。
「いいよいいよ、賑やかであるに越したことはない。なんたって、ここは居酒屋なんだから」
酒に酔っているのか、それとも元々こういう気質なのだろうか。
田舎ではあまり見ない風変わりなその客はよほど機嫌が良いらしく、ケラケラという擬音が似合いそうな口調で、今夜は無礼講だ~~!と付け足した。
完全に酔ってるな、こいつ。
イサミは確信した。
無礼講もなにも、自分一人しかいないのに、こうも騒ぐのは酔っぱらいくらいしかいないだろう。
店の奥、作業台の上で頼まれた買い出しその他自分用のおやつを袋から取り出しながら、イサミは考える。
いつもの客層と比べればかなり若い部類に入るし、もしかして観光客だろうか。
こんな奇抜な人間がいること自体、田舎の奥方にとっては一種のイベントみたいなものだ、彼女達の好奇心を刺激しないわけがない。
明日の昼にはたちまち井戸端会議の話題をかっさらい、数日後には根も葉もない噂に転じていることだろう。
暫くは人目を避けて行動した方がいいかもしれない、あれらに捕まって良いことがあった試しがないのだから。
と、ここで壁掛け時計がボーン、ボーンとありきたりな音を奏でた。
現在の時刻は23時ちょうど、営業時間も終わりに近い。
そろそろ店仕舞いの段取りを・・・・・・と、いきたいのは山々なのだが。
「このヤキトリ美味しいね。やっぱ秘伝のタレとかある感じ?」
「鶏皮の唐揚げも軟骨も最高だね!極めつけはこの惣菜、つまみとして一品だ」
「ヤキトリおかわりー!」
「焼きイカもうんま~い!」
「この一杯のために生きてる」
食べる、喋る、食べる、喋る、喋る、それに合わせてコロコロと変わる表情。
最後に決め台詞のようなものを言う時なんかは、誰も見ていないのにキメ顔をしていた。
合間に父親が一言二言の返事を返しているが、それでも終わりは見えず、話題も坂道を転がるように次々と変化していく。
・・・・・・早く帰ってくんないかな・・・。
イサミは年甲斐もなくハイテンションな大人の異様な様子に引きつつ、呆れた視線を静かに送った。
それに、異様なのは言動だけではない。
イサミが入室した際、位置的に男の背面にいたため気づかなかったが、正面に回ってみてその客の異様さに初めて気づく。
まるで目隠しのようにぐるぐると何重にも巻き付けられた包帯は、どう見ても男の視界を遮断している。
はずなのに、空になったジョッキをテーブルに置き損ねることも、ヤキトリの串や、箸休めの小鉢から惣菜を掴み損ねることもしない。
ありえないことだとは思うものの、彼には目の前の光景が見えているようにしか思えず、不気味さにますます拍車がかかるばかりだ。
これはまた珍客を迎えてしまったと、イサミは当人の目の前で頭を抱えたくさえなった。
しかし客は客だ、騒ぎを起こしたわけでもなし、無理矢理追い返しても後味が悪くなるだけだ。
ここはあと少しの辛抱だと自分に言い聞かせて、イサミも父親の手伝いをする段取りについた。
珍客といえば、イサミが気がついていないだけで実はもう一人、見慣れない客が隠れていた。
手洗いの方から近づいてくる新たな足音と、脈絡のない単語をイサミの耳が拾うのはほぼ同時だった。
「高菜」
「おかえり、棘」
イサミが帰宅するタイミングの少し前に手洗いで席を外していた珍客その二は、ゆるゆるとした歩みで目隠し男の隣にある椅子を引いて腰かけると、突然の登場に驚いて大将の影に隠れたイサミに気づくなり、ツナマヨ、と声をかけた。
しかしイサミが、は?といった風の表情を浮かべるのを見て、ツナマヨ少年はそれ以上言葉を続けることはせず、視線を膝へと落とし、手持ちのスマホをいじり始めた。
対するイサミはというと、前者はともかく後者はありません、と返したい気持ちでいた。
しかし、なにも言わずに聞き流している父親の様子からして、入店した時点でこの少年はこんな感じなのだろうなと、なんとなしに察し、気に留めないことにする。
少年の歳はイサミと近いぐらいだろうか。
その辺のオシャレ女子より色白で、けれど背はそれほど高くはない、まだ成長期真っ只中といった感じだ。
それにしても色素が薄い髪だ、とイサミは思う。
隣に座る成人男性も似たような髪質をしているし、生まれつきの地毛かもしれなければ、都会ではこういうのが流行っているのかもしれないと思い至り、こちらもまた深く追求することはやめにした。
井の中の蛙、大海を知らず。
人によっては理解できない世界など探せばいくらでもある、それだけ世界は広いのだから。
思春期真っ只中の少年が季節はずれのネックウォーマーを身につけている理由だって、きっと彼にしか理解できない理由があるのだろう。
深淵を覗かないに越したことはない。
「伊地知との合流時間まで少し余裕があるけど、他に食べたいものはある?」
「おかか」
「そ。じゃ、あんまし長居するのも何だし、そろそろお会計お願いしちゃおっかな」
ようやっと満足したご様子の成人男性は、長い時間同じ姿勢でいたために凝り固まった筋肉を解きほぐすべく、軽くのけぞり、天井へ向けて組んだ両手をぐっと伸ばして大あくびをした。
普段から変わった客ばかり相手にしている父親はこういうことに慣れていて、咎める素振りもなく満面の笑みで言う。
「あいよ!イサミ、頼んでいいか」
「ん」
以上で8550円になります!と今夜最後の売り上げを元気よく告げる父親に、これまた機嫌よく返事をする目隠し男の相手をするため、ハイハイ、酔っぱらいははよ帰って寝ろ、と内心で送り返しながらイサミは簡易レジの前に立った。
「ここって電子マネー使えないの?」
「すいやせん、生憎、うちは現金のみなんですわ」
「時代が時代なんだし、対応しといた方がいいと思うけどな」
「すじこ」
「ダーイジョブだって、ちゃんと現金も持ち歩いてるから。はい、お会計」
「・・・・・・」
イサミは目隠し男からピン札の諭吉を無言で受け取るなり、金額入力、品名インショクダイ、小計、合計とレジのボタンを押していき、税込みレシートの作成にとりかかった。
釣銭を用意する片手間、薄っぺらいペラペラの紙に印字されていく支払い金額に改めて、二人前にしては結構いったな、とイサミは思った。
「・・・ところで、さっきからずっと気になってるんだけど、君、ちっとも喋んないね?マスクしてるし、風邪気味?それとも僕と口きくのが嫌なだけとか?」
「・・・・・・」
それは自分の連れもだろうという意味を込め、イサミは目隠し男の目――があると思われる位置――をじと目で見返した。
ついでに釣銭も手渡しておく。
やれやれ、これでやっとこさ嵐が過ぎ去ってくれると安堵したのも束の間で。
「ひょっとして機嫌を損ねちゃったかな?」
大きめの口でにんまりと狐を描き、白い歯をチラつかせた目隠し男は一人で笑む。
「ダンナ、うちの子は思春期ってやつでして、人様に顔を見られるのが恥ずかしいんですよ。自分の声も好きじゃないみたいで・・・。それくらいで勘弁してやってください」
「でもさっき喋ってたよね、天ぷら~って」
見ていられないと、すかさず入った父親のフォローをほぼ無視する形で言葉を続けた男は、追撃の手を緩める気配がない。
「・・・おかか」
「やだなあ棘、弱いものいじめなんかじゃないってば。これも、れっきとしたコミュニケーションってやつだよ」
棘という少年に注意するような眼差しで見つめられて初めて、男は一旦言葉を切った。
保護者、それとも兄弟だろうか、それなりに仲の良い間柄ではあるらしいが、この二人の関係性が見えてこない。
「分かったから、そんな責めるような目で見るのはやめよう。先生としてのプライドが傷いちゃう・・・なんてね、うっそピョ~ン!」
「すじこ・・・」
教師が生徒を真夜中の居酒屋に連れてくるなよ!
イサミは内心、強くツッコミを入れた。
目隠し男はどうやら教職(自称)に就いているらしい。
人目を引く見た目をしているだけに、まったくそんなイメージが湧いてこない。
人は見かけに寄らないという諺が服を着て歩いているようなものだ。
『ヴーーッ、ヴーーッ』
会話の合間にできた隙間を見計らったかのように、くぐもったバイブレーションの音が物静かな居酒屋に響いた。
「伊地知からの連絡だ。迎えも来たことだし、今度こそ帰ろうか」
着信音の根源は目隠し男のポケットにあった。
男は自身のポケットから取り出したスマホの画面を数回、指で撫ぜたあと、棘をつれて出入り口の引き戸へと足を向けた。
「それじゃ、また明日ね。秋山イサミクン」
店からの去り際に、こんな言葉を添えて。
「・・・・・・上客になりそうだが、出禁にした方がいいか?」
「・・・やきとり」
「あの様子じゃあ明日、本当に来るぞ」
はああ、とイサミは大きく溜息を吐いた。
父親の心遣いは有難いし、実際本気で出禁にして欲しいなとは思っているくらいだ。
けれど、これも家計のためだ、自分の我侭で赤字など叩き出したくはない。
ここはひとつ我慢比べといこう。
「えだまめ・・・」
「そうか。今夜は遅くなったし、明日は休んでもいいからな」
その後、このことについてお互いに掘り下げることはせず、父の手伝いで出来る範囲の後片付けをし終えたイサミは、また月が昇るのを億劫に思いながら早々に床へ就いた。
蒸し暑い湿気を含んだ風に揺れ、秋の豊穣を待ちわびる田園風景を拝みながら、街頭がほとんどない脇道をひとつの人影が横切った。
秋山イサミ、15歳。
今年の春に中学校を卒業したばかりのその人物は、生を謳歌する虫の音に風流さなど感じ入る様子はなく、お気に入りのヘッドホンからシャカシャカと漏れる音楽に夢中らしい。
イサミにとって虫や蛙の鳴き声なんてものは、とうに日常の一部と化していた。
買い物帰りだろうか、年相応に華奢な左手には買い物袋が握りしめられていて、イサミの歩幅に合わせて揺れるたびに、中身の缶詰や調味料が擦れ合って音を立てた。
ささっと、イサミのすぐ足元を何かが這って通りすぎていった。
しかし、本人は特段気にすることなく足を進める。
彼女は何も見ていないし、何も聞いていない。
「ふう・・・」
古めかしい外観、よくある日本家屋の前でイサミは一旦、荷物を地面へ下ろした。
どうやら目的地に辿り着いたらしい。
イサミの背丈とそう変わらない位置にぶら下げられている赤い提灯は柔い光を灯しており、彼女の頬を柔らかく照らす。
力強い毛筆で『居酒屋 火花』と店名が書かれた暖簾を潜り、少々立て付けの悪くなった引き戸を慣れた手付きで開けると、イサミはそのレールをゆったりと跨いだ。
「ただいま」
室内から漏れる光によってイサミの姿がより鮮明になっていく。
白いTシャツに七分の黒いズボンとサンダル、そして季節外れの白いマスク。
風邪を引いているわけでもなし、とっくに初夏だというのに暑さを我慢してまで顔を隠す彼女のことを、事情を知らない者が傍目から見れば奇妙に映るだろう。
それでも、彼女が人前でこのマスクを外そうとすることはない。
「イサミ、お前っちゅー奴は…。お客さんが来とるのに、表から入ってくる奴があるか。こういう時にこそ裏口から入って来い」
入室するなり、出迎えの言葉の代わりに飛んできたのは厳つい男の叱責だった。
「天ぷら~」
「少しは反省せんか・・・」
イサミの適当な返事に父親が言い返すことはなく、代わりに、すみませんねお客さん、急に賑やかになっちまって、とカウンターに腰かけて寛いでいる客に話しかけた。
近年よくある、お一人様というやつだ。
「いいよいいよ、賑やかであるに越したことはない。なんたって、ここは居酒屋なんだから」
酒に酔っているのか、それとも元々こういう気質なのだろうか。
田舎ではあまり見ない風変わりなその客はよほど機嫌が良いらしく、ケラケラという擬音が似合いそうな口調で、今夜は無礼講だ~~!と付け足した。
完全に酔ってるな、こいつ。
イサミは確信した。
無礼講もなにも、自分一人しかいないのに、こうも騒ぐのは酔っぱらいくらいしかいないだろう。
店の奥、作業台の上で頼まれた買い出しその他自分用のおやつを袋から取り出しながら、イサミは考える。
いつもの客層と比べればかなり若い部類に入るし、もしかして観光客だろうか。
こんな奇抜な人間がいること自体、田舎の奥方にとっては一種のイベントみたいなものだ、彼女達の好奇心を刺激しないわけがない。
明日の昼にはたちまち井戸端会議の話題をかっさらい、数日後には根も葉もない噂に転じていることだろう。
暫くは人目を避けて行動した方がいいかもしれない、あれらに捕まって良いことがあった試しがないのだから。
と、ここで壁掛け時計がボーン、ボーンとありきたりな音を奏でた。
現在の時刻は23時ちょうど、営業時間も終わりに近い。
そろそろ店仕舞いの段取りを・・・・・・と、いきたいのは山々なのだが。
「このヤキトリ美味しいね。やっぱ秘伝のタレとかある感じ?」
「鶏皮の唐揚げも軟骨も最高だね!極めつけはこの惣菜、つまみとして一品だ」
「ヤキトリおかわりー!」
「焼きイカもうんま~い!」
「この一杯のために生きてる」
食べる、喋る、食べる、喋る、喋る、それに合わせてコロコロと変わる表情。
最後に決め台詞のようなものを言う時なんかは、誰も見ていないのにキメ顔をしていた。
合間に父親が一言二言の返事を返しているが、それでも終わりは見えず、話題も坂道を転がるように次々と変化していく。
・・・・・・早く帰ってくんないかな・・・。
イサミは年甲斐もなくハイテンションな大人の異様な様子に引きつつ、呆れた視線を静かに送った。
それに、異様なのは言動だけではない。
イサミが入室した際、位置的に男の背面にいたため気づかなかったが、正面に回ってみてその客の異様さに初めて気づく。
まるで目隠しのようにぐるぐると何重にも巻き付けられた包帯は、どう見ても男の視界を遮断している。
はずなのに、空になったジョッキをテーブルに置き損ねることも、ヤキトリの串や、箸休めの小鉢から惣菜を掴み損ねることもしない。
ありえないことだとは思うものの、彼には目の前の光景が見えているようにしか思えず、不気味さにますます拍車がかかるばかりだ。
これはまた珍客を迎えてしまったと、イサミは当人の目の前で頭を抱えたくさえなった。
しかし客は客だ、騒ぎを起こしたわけでもなし、無理矢理追い返しても後味が悪くなるだけだ。
ここはあと少しの辛抱だと自分に言い聞かせて、イサミも父親の手伝いをする段取りについた。
珍客といえば、イサミが気がついていないだけで実はもう一人、見慣れない客が隠れていた。
手洗いの方から近づいてくる新たな足音と、脈絡のない単語をイサミの耳が拾うのはほぼ同時だった。
「高菜」
「おかえり、棘」
イサミが帰宅するタイミングの少し前に手洗いで席を外していた珍客その二は、ゆるゆるとした歩みで目隠し男の隣にある椅子を引いて腰かけると、突然の登場に驚いて大将の影に隠れたイサミに気づくなり、ツナマヨ、と声をかけた。
しかしイサミが、は?といった風の表情を浮かべるのを見て、ツナマヨ少年はそれ以上言葉を続けることはせず、視線を膝へと落とし、手持ちのスマホをいじり始めた。
対するイサミはというと、前者はともかく後者はありません、と返したい気持ちでいた。
しかし、なにも言わずに聞き流している父親の様子からして、入店した時点でこの少年はこんな感じなのだろうなと、なんとなしに察し、気に留めないことにする。
少年の歳はイサミと近いぐらいだろうか。
その辺のオシャレ女子より色白で、けれど背はそれほど高くはない、まだ成長期真っ只中といった感じだ。
それにしても色素が薄い髪だ、とイサミは思う。
隣に座る成人男性も似たような髪質をしているし、生まれつきの地毛かもしれなければ、都会ではこういうのが流行っているのかもしれないと思い至り、こちらもまた深く追求することはやめにした。
井の中の蛙、大海を知らず。
人によっては理解できない世界など探せばいくらでもある、それだけ世界は広いのだから。
思春期真っ只中の少年が季節はずれのネックウォーマーを身につけている理由だって、きっと彼にしか理解できない理由があるのだろう。
深淵を覗かないに越したことはない。
「伊地知との合流時間まで少し余裕があるけど、他に食べたいものはある?」
「おかか」
「そ。じゃ、あんまし長居するのも何だし、そろそろお会計お願いしちゃおっかな」
ようやっと満足したご様子の成人男性は、長い時間同じ姿勢でいたために凝り固まった筋肉を解きほぐすべく、軽くのけぞり、天井へ向けて組んだ両手をぐっと伸ばして大あくびをした。
普段から変わった客ばかり相手にしている父親はこういうことに慣れていて、咎める素振りもなく満面の笑みで言う。
「あいよ!イサミ、頼んでいいか」
「ん」
以上で8550円になります!と今夜最後の売り上げを元気よく告げる父親に、これまた機嫌よく返事をする目隠し男の相手をするため、ハイハイ、酔っぱらいははよ帰って寝ろ、と内心で送り返しながらイサミは簡易レジの前に立った。
「ここって電子マネー使えないの?」
「すいやせん、生憎、うちは現金のみなんですわ」
「時代が時代なんだし、対応しといた方がいいと思うけどな」
「すじこ」
「ダーイジョブだって、ちゃんと現金も持ち歩いてるから。はい、お会計」
「・・・・・・」
イサミは目隠し男からピン札の諭吉を無言で受け取るなり、金額入力、品名インショクダイ、小計、合計とレジのボタンを押していき、税込みレシートの作成にとりかかった。
釣銭を用意する片手間、薄っぺらいペラペラの紙に印字されていく支払い金額に改めて、二人前にしては結構いったな、とイサミは思った。
「・・・ところで、さっきからずっと気になってるんだけど、君、ちっとも喋んないね?マスクしてるし、風邪気味?それとも僕と口きくのが嫌なだけとか?」
「・・・・・・」
それは自分の連れもだろうという意味を込め、イサミは目隠し男の目――があると思われる位置――をじと目で見返した。
ついでに釣銭も手渡しておく。
やれやれ、これでやっとこさ嵐が過ぎ去ってくれると安堵したのも束の間で。
「ひょっとして機嫌を損ねちゃったかな?」
大きめの口でにんまりと狐を描き、白い歯をチラつかせた目隠し男は一人で笑む。
「ダンナ、うちの子は思春期ってやつでして、人様に顔を見られるのが恥ずかしいんですよ。自分の声も好きじゃないみたいで・・・。それくらいで勘弁してやってください」
「でもさっき喋ってたよね、天ぷら~って」
見ていられないと、すかさず入った父親のフォローをほぼ無視する形で言葉を続けた男は、追撃の手を緩める気配がない。
「・・・おかか」
「やだなあ棘、弱いものいじめなんかじゃないってば。これも、れっきとしたコミュニケーションってやつだよ」
棘という少年に注意するような眼差しで見つめられて初めて、男は一旦言葉を切った。
保護者、それとも兄弟だろうか、それなりに仲の良い間柄ではあるらしいが、この二人の関係性が見えてこない。
「分かったから、そんな責めるような目で見るのはやめよう。先生としてのプライドが傷いちゃう・・・なんてね、うっそピョ~ン!」
「すじこ・・・」
教師が生徒を真夜中の居酒屋に連れてくるなよ!
イサミは内心、強くツッコミを入れた。
目隠し男はどうやら教職(自称)に就いているらしい。
人目を引く見た目をしているだけに、まったくそんなイメージが湧いてこない。
人は見かけに寄らないという諺が服を着て歩いているようなものだ。
『ヴーーッ、ヴーーッ』
会話の合間にできた隙間を見計らったかのように、くぐもったバイブレーションの音が物静かな居酒屋に響いた。
「伊地知からの連絡だ。迎えも来たことだし、今度こそ帰ろうか」
着信音の根源は目隠し男のポケットにあった。
男は自身のポケットから取り出したスマホの画面を数回、指で撫ぜたあと、棘をつれて出入り口の引き戸へと足を向けた。
「それじゃ、また明日ね。秋山イサミクン」
店からの去り際に、こんな言葉を添えて。
「・・・・・・上客になりそうだが、出禁にした方がいいか?」
「・・・やきとり」
「あの様子じゃあ明日、本当に来るぞ」
はああ、とイサミは大きく溜息を吐いた。
父親の心遣いは有難いし、実際本気で出禁にして欲しいなとは思っているくらいだ。
けれど、これも家計のためだ、自分の我侭で赤字など叩き出したくはない。
ここはひとつ我慢比べといこう。
「えだまめ・・・」
「そうか。今夜は遅くなったし、明日は休んでもいいからな」
その後、このことについてお互いに掘り下げることはせず、父の手伝いで出来る範囲の後片付けをし終えたイサミは、また月が昇るのを億劫に思いながら早々に床へ就いた。
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