薔薇色愛憎鮮血舞踏 1.脳裏に焼かれた崩壊の日
【薔薇色愛憎鮮血舞踏 1.脳裏に焼かれた崩壊の日】
例え同性という壁があれどもこの人とならば後悔はしない、そんな夢を打ち砕かれて早十数日、熱斗は自分がおかしくなっていくのを感じながらもそれを止める術を持たず、ただただ精神の余裕を消耗するだけの日々を送っていた。
これは、そんな日々の中の一幕である。
時刻は午前二時を過ぎ、PETの中のロックマンですらスリープモードというネットナビのとっての眠りに落ちていた時の事。
本来ならばそれと同じようにベッドの中で眠りに落ちている事が普通であるはずの小学生の少年、光 熱斗は、服装こそパジャマになっているもののベッドの中には入らず、普段からパソコンや勉強道具を置きっぱなしにしている机の前にある椅子に座っていた。
机についた肘の先の腕と手の甲が支えるのは同じ身体から生える頭のその額で、体重を支える事を腕に任せた頭の、その顔にある二つの目は目下の白い机を凝視するかのように見開かれている。
その目に眠気の色は無い。
放心を示す虚ろの色も無い。
しかし、それならば熱斗の視線の先にある物は使い慣れた白い机で正解なのか、熱斗はその机を凝視してるのか、と問われると、それは違うと答えなければいけないだろう。
何かを凝視するように見開いたその目で、熱斗は、つい数日前の出来事覗いていた。
まだ陽の落ちぬ午後四時頃、通い慣れた科学省の指令室、そこで自分――熱斗と“彼”と“彼女”しか居なくなった時の事だ。
数秒前までそこにいた大人達――熱斗の父であり科学省のトップでもある光 祐一朗と、科学者なのか警察なのかよく分からないが正義の味方の一員ではある事だけは確かであろう名人は、必要なデータの入ったディスクを机に忘れたから取りに行ってくると行って指令室を出て行っていた。
社会の為、世界の為に働く大人達が一時的に去り、子供から見ると分かる大人特融のどこか堅苦しい空気が薄れた部屋の中で、熱斗は、大人達が帰ってくるにはまだ時間がかかりそうだな、などと考えて、それまでどうしていようかを少し悩み、退屈そうな表情で目の前の巨大モニターをなんとなく見つめる。
ふと、白黒の髪と赤いベストが特徴的な“彼――伊集院 炎山”から、少し緊張した様な声が投げけかけられたのはそんな時だった。
「熱斗、少し話が――」
いつも通り落ち着いた声に混ざる緊張と、普段なら呼ばれはしないであろう状況、タイミングで呼ばれた自分の名前。
それは何か妙に改まったような堅苦しさを伴っていたが、その時の熱斗はそれに不安や恐れは抱かず、むしろちょっとした期待すら感じていた。
いつもならIPCの副社長室やそれぞれの自宅以外では友人程度のそぶりしか見せない炎山が、こんな時にこんな場所で自分から進んで俺を呼んでくれるなんて珍しい、という少しの驚きと喜び、そして期待を込めて、熱斗は炎山が全てを言い切る前に笑顔になり、
「なんだよ?」
と訊き返しながら振り向いた。
しかし、振り向き終えて、その光景を目の中に映して、それを脳が理解した瞬間、熱斗はその笑顔と言葉を失い、一瞬にして凍りついた。
熱斗の視界に映る炎山の左手が、その隣にいる少女、“彼女――桜井 メイル”の右手と組み合わさっている。
そして二人の頬の色は、この指令室からでは見る事が出来ないが外には広がっているであろう夕暮れの始まりような薄い赤に染まっていて、熱斗は自分の顔から頭から手足から、一気に血の気が退いて行くのを感じた。
何故? なんで? どうして? という疑問形の言葉達が頭の中を埋め尽くし、マトモな思考が回らなくなっていく。
あまりの衝撃と混乱で怒りという興奮すら湧かせずに立ち尽くし、薄っすらと青ざめた気すらする驚愕の表情で固まる熱斗へ、熱斗とは反対に頬を赤らめてメイルの手を決して離さぬように握る炎山が、何かの決意を抱えた為に酷く緊張した顔で、熱斗が最も聴きたくない言葉を告げる。
「熱斗……俺と、別れてほしいんだ。」
そう言った炎山は、申し訳ないと言いたげな苦みの滲む表情をしていた。
その時の炎山は、お前には悪いと思っている、ということを表情や態度、言葉で表現する事が熱斗にとって救いになるかと思っていたのかもしれない、誠心誠意真っ直ぐに伝えたつもりだったのかもしれない、が、しかし、熱斗にとってそれは余計に傷口を広げるだけでしか無かった。
本来の恋人――熱斗以外の人間と恋人のように手を繋ぎ合い、頬をほんのりと赤く染めた状態でそんな、それこそ申し訳程度の申し訳なさを滲まされたところで、本当に申し訳なく思っているとは到底感じられない。――少なくとも、熱斗には。
そして熱斗は後にこの時の炎山を、純粋純情のフリをした裏切り者、と認識するようになる。
ともかく、この時の熱斗には、炎山が何を言っているのか理解しきれなかった。
別れてくれという言葉の意味、つまり、恋人関係を解消したいと言っているという事だけはなんとか理解できたのだが、その他の事は全くと言っていい程理解できず、少しの言葉も出ないままで目だけを忙しく動かし、炎山、メイル、その間で繋がれる二人の両手を順番に視界の中心に捕らえるだけで精一杯になってしまっていた。
どうして自分は別れを告げられたのか、どうして炎山はメイルと手を繋いでいるのか、炎山もメイルも何を想って二人仲良く同じように頬の色を赤く染めているのか、理由が全く分からない、理解できない。
いや、本当は理解しているのかもしれない、この状況が指す物などそう多いものではない、つまり――。
本当に理解できない部分と本当は理解している部分をパズルのように組み合わせて、昔あったらしいPETの代わり――携帯電話のように予測変換を出してはそれを否定して削除をする、そのように例えられるかもしれない混乱に突き落とされていく熱斗に、それら全ての答えを与えたのは、恋人ではなく幼馴染の方だった。
「ごめんなさい、熱斗……私、炎山と付き合ってるの……。」
そう言ったメイルの声は炎山と同様に申し訳ないと言いたげな雰囲気を含んでいて、多少弱く重苦しいものであった。
しかし、ごめんなさい、と言った時のメイルが、炎山の左手と繋いだ自分の右手に力を込めていた事を、熱斗は見逃してはいない。
だから熱斗には、その申し訳なさそうな態度をせめてもの贖罪だとして受け止める事は出来なかった。
申し訳なさは勝利宣言に、後ろめたさは勝利者からの哀れみに、そして繋がれた手と手はまるでそれらを見せつけてくるようで、炎山にとっては普通の別れ話だったかもしれないそれは、メイルにとっては普通の状況説明だったかもしれないそれは、熱斗にとっては恋人と幼馴染の両者からの裏切りに“等しく”なる。
もしもこれが、炎山がただ単に熱斗の存在に冷めて切り出した別れ話だったなら、熱斗はよくある大衆向け恋愛ドラマの中にいる低俗な女共のように炎山へ泣いて縋って別れの取り消しを求めたかもしれない。
勿論、冷められた時点で冷め返す可能性も無くはないし、冷めるどころかそれ以上のものを抱える可能性も無くはない、しかしその一方で、どうせ隣を空席にするぐらいなら、本当に新しい誰かが現れるまでは時間をください、と思う可能性も否定はできない。
しかし今この現実にはメイルという存在が“既に”居て、炎山が例え惰性や哀れみでも自分を選ぶ可能性は無い。
誰がどう取り繕ったとしても、熱斗が捨てられた事が“確実”である事を否定はできないだろう。
そんな状況で、地を這いずるように縋りついてまで相手を求める必要などあるのだろうか?
答えは、否だ。
そして、
「本当に、本当に悪いとは思っている! しかし、これ以上自分に嘘を吐く事は」
自分は炎山に捨てられたのだと薄々思い始めていた所に投げかけられた言い訳じみた言葉が、それまで抱えてきた炎山への友情、恋情、愛情といった好意全てを黒く塗りつぶし、一つの新しい想いに変える。
脳から心臓から胴体から四肢から指先から、湧水のように勢い良く湧きだし、しかし明らかに有害なヘドロのように濁った色でドロドロとしたその感情は、熱斗が今までこの世で一番忌避してきたものだった。
「できなくて、だから」
相変わらず言い訳めいた炎山の必死そうな声がする。
思案はおろか混乱すら通り越した熱斗は、ほぼ反射的に炎山の言葉を遮った。
「あぁ、わかった。」
少しうつむき加減で立っている熱斗から向けられたその言葉に、炎山とメイルは一瞬自分の耳を疑い、戸惑いの隠せていない表情でお互いの顔を見合わせる。
正直なところ、先ほどから酷く言い訳臭い言葉ばかりの炎山も、その横で炎山の手を強く握る事しかできていないメイルも、これが熱斗に対する裏切りに“似ている”自覚は持っていて、それに対して熱斗が酷いショックと怒りを覚えるであろう事はある程度予想していた。
おそらく熱斗は自分たちを認めはしないだろう、絶叫にも似た怒声、罵声を浴びせられるか、全てに絶望した様な泣き声をあげられるのだろう、そう思っていた。
だからこそ二人にとって、分かった、という返事は非常に予想外のものであり、一体何がわかったというのか、熱斗は何を思ってわかったと答えたのかが全く分からないのだ。
それでも、わかった、ということは、一応は自分たちを認めてくれるのだろうか? 怒らないでいてくれるのだろうか? これからも自分たちと関わってくれるのだろうか? という期待を二人が持ち始めた、正にその時、
「この、裏切り者。」
その期待を打ち砕くように吐き捨てられたそれは、正義の味方のものとは感じられないほどに怨嗟の満ちた威圧感のある声で、今度は炎山とメイルが共に血の気を退かせる番であることを告げていた。
もしも声に色があるとしたら、この時の熱斗の声は、いくら他の色を足しても簡単には変わる事の無い、深すぎる黒だっただろう。
炎山へ向けた友情と恋情と愛情、ならびにメイルに向けていた友情は今、絶望の中で温かな色を失い、他の全てを凌駕する程濃い黒色の憎悪に変化していたのだ。
そして二人は、ゆっくりと顔をあげて自分たちを視界におさめた熱斗のその表情を見て、怯えたように凍りつくこととなる。
過去には犯罪者にすら慈愛を向ける事もあって、太陽のように温かで元気な笑顔の似合う目は今、熱斗自身が今までに慈愛を向けてきた犯罪者達よりも暗い怒りを宿し、全てを焼き尽くすような激しさと、全てを凍結させるような冷たさを両立させていた。
そして、普段よりも大きく見開かれたその目は、炎山にもメイルにも、絶対に逃がさない、このまま視界から消える事は許さない、とでも告げているようだった。
熱斗が自分達を許してくれないであろう事は想定していたが、まさかここまで強く深い憎悪を燃やされる事は全くの予想外だった、そんな二人は少しでも“誤解”を解こうと、恐怖と焦燥のなかで必死の弁解を試みる。
「ち、違うんだ熱斗! 俺はお前を裏切ろうなんて、嫌いになったとかそういう訳では」
「熱斗、落ち着いて!? ね!? 炎山もこう言ってるし私だって熱斗は友達だと思って」
「何、馬鹿な言い訳してるんだよ。」
熱斗に落ち着くように言ったメイルの方が酷く焦っているのは明らかで、熱斗は呆れすら混ざってきた冷静な声でそれらの雑音を遮断した。
熱斗が混乱している事を前提に弁解を試みていた炎山とメイルはそれに虚を衝かれたのか、一瞬で黙りこむ。
それでもまだ何か言い訳をしたそうな二人を見て、熱斗の怒り――憎悪は更に深さを増していく。
暗い怒りを宿したままの目を向けて、熱斗は淡々と、炎山とメイルの言い訳を砕き壊し始めた。
「炎山、それな、浮気人間の最も見苦しい言い訳のテンプレートの一つだから。嫌いになった訳じゃないから、なんだよ? 嫌いになった訳じゃないなら、なんで別れてほしい訳? なんでメイルちゃんを恋人にしてる訳?」
「あ、と……それは……。」
至極真っ当な反論に炎山は言葉を詰まらせ、酷く傷付けられたような顔を見せるが、熱斗はそれを見下すような冷たい視線で睨み付けただけだった。
その視線が炎山に告げるのは一つ、加害者の癖に被害者のような顔をするな、という事だけ。
「確かに、炎山は俺を嫌ってはないのかもしれないな、友達程度には思ってくれてるのかもしれないな。……けど、俺達ってさ、同性ではあるけど、恋人やってたんだよな? 今だって“別れてほしい”って言ってたもんな?」
もはや何も言えないまま徐々に表情を引き攣らせるだけの炎山に、熱斗は止めを刺す。
「別れてほしいって事は、恋心とか、愛情とか、それはもう無くなったんだろ? ……それなのに何? 嫌いになった訳じゃないから、何? お前は、友達としての俺は捨ててないのかもしれない。だけどな……恋人として、愛する相手としての俺を捨てたのは確かなんだよ!!」
今にも殺しにかかるかのような剣幕で結論を叫ぶと、炎山はそれに怯えて「ひっ!?」という短い悲鳴をあげて後ずさった。
それにつられて、もしくは同じように恐怖を感じて、メイルも一歩後ろに下がる。
ずっと真っ直ぐに、前だけを向いて、ひたすら綺麗な正義を掲げて成長してきた幼馴染が見せた、世界中のどの悪人よりも深く激しい憎悪、それにメイルも大きな驚愕を隠せなかったのだろう。
それでも尚強く繋がれる二人の手を一瞬だけ見つめてから、熱斗は、炎山の新しい恋人――熱斗の幼馴染の少女にも憎悪の籠った視線を向けた。
私も何か言われるの? という焦りが表情に出てしまっているメイルに向けて、熱斗は言った。
「メイルちゃんさ、俺と炎山が付き合ってる事……知ってたよな?」
メイルは、肩を上下に振るわせた。
「俺も炎山もほら、同じ男だからさ、あんまり大っぴらにはできないなってところがあっただろ? だから俺、昔から関わりがあって信用もできるって思ってたメイルちゃんによく相談してたんだけど……覚えてないなんて、言わせないぜ。」
「で、でも、それで、なんで、」
なんで私も怨まれる原因に? と、メイルが言おうとした瞬間、熱斗の目が鋭さを増し、メイルはそれに戦いて口を噤み、炎山の手を強く握る。
もはやその程度では動じる事の無い、動じる事の出来ない領域に踏み込んでしまっている熱斗は、先ほど炎山を黙らせた時と同じようにを冷たく一瞥した後に、話を再開する。
「メイルちゃん……さっき、こう言ったよな? 『炎山と付き合ってるの』って……炎山が俺と付き合ってるのを、知ってたのに。……なぁ、それ……何時(いつ)から?」
その言葉にメイルはハッとして、同時にゾッと背筋を冷やした。
炎山の場合と違って確定事項ではないとはいえ、熱斗はメイルの言葉の中に“とある可能性”を強く見出しているのだ。
メイルが炎山と付き合い始めたのは、今日よりずっと前なのではないか、という可能性を。
「もし今日が付き合い始めになるなら、炎山が一度俺と別れて独りになって、改めてメイルちゃんと付き合うっていうんならさ、メイルちゃんは“付き合う事になったの”とか、“付き合う事にしたの”とか言えばいいよな。なぁ、どうして“付き合ってるの”なんて、現在進行形にしたんだよ?」
炎山に向けたものと同じ程の憎悪が滲む目に見つめられて――睨まれて、メイルは言葉を失い、何かに怯えるように細かく震える。
そしてその怯えは、熱斗が挙げた可能性がどうしようもなく事実である事を指していた。
勿論、熱斗がその怯えに気付かないはずはなく、メイルがそれなりに前から、炎山には既に熱斗がいる事を知りながらも恋人として振舞っていた、もしくは自分を炎山の恋人と認識していたであろう事を確信する。
そして、熱斗はメイルに、止めにも慈悲にもなる質問を突き付けた。
「なぁ、メイルちゃんが炎山と付き合い始めたのって、何時? まぁさ、炎山が俺と別れる前に付き合ったならいつでも不倫にはなるから、今以前って時点でアウトではあるけど……でも、答えてよ。ねぇ、早く。」
確実な憎悪を放ったままだというのに、小さな子供に問いかけるような猫撫で声の要素も僅かに含んだその声が余計に恐怖を煽り、メイルは本当に凍りつかされたかのように動けなくなり、言葉すら出せなくなった。
メイルの隣では炎山が同じように緊張と怯えを隠せていない表情で固まっている。
二人とも、できる事なら何も答えずに今すぐこの場から逃げ出したかっただろうが、それは正に自分達は裏切り者ですという宣言にもなってしまう事と、今は此処にいない大人達へ何の理由も告げずに退室することにもなるため、躊躇われた。
酷く冷たい、そして静かな、文字通り冷静な態度を保ち、しかしその奥では確か過ぎる憎悪の溢れる熱斗の目に睨むように見つめられ続け、メイルはその場から動けなくなっていたが、それでも僅かに頭を動かし、隣に立つ炎山と視線を合わせた。
メイルと視線が合った炎山は何を察したか、小さく頷く。
この時、そのよく通じあった様子を見た熱斗が、メイルはしばらく前から炎山と付き合っているという確信を強めた事を、二人は知らない。
ともあれ、炎山の頷く姿を見て何かを決めたメイルは、覚悟を決めたと言いたげで神妙な表情を熱斗に向け、ようやく答えを出した。
「……二週間半ぐらい、前よ……。」
強く出ようと思う意思はあれど、それに反して音量は小さく、更に僅かに震えたその声が告げた答えを聴いて、熱斗は、あぁ、やっぱり、と思った。
なんとなく、長くはないが短くはない程度には前だろうという気はしていたが、実際に言われるとなかなか苦しいものがある。
自分はその二週間、自分に対して恋愛的興味を失った炎山へ、一方的な恋愛、もはや片思いを続けていたのかと思うと、もはや泣くよりも笑いたくなってくる。
勿論、自嘲と言う意味でだが。
そして熱斗は、メイルも慈悲ではなく止めを刺すべき存在である事を確認した。
「そっか、二週間半、つまり十七、十八日ぐらい前か……っはは、やっぱり、メイルちゃんも裏切り者だったんだぁ、あはは。」
「それ、って……?」
慈悲よりも止めを、それを確認した熱斗は何故か、怒声ではなく笑い声を漏らしていた。
一般的に見て奇妙なその様子に炎山とメイルは怒りに対してとはまた別の恐怖を感じ、どこか身構えるような緊張感をもって熱斗を見つめる。
特に、今この瞬間裏切り者とされた張本人であるメイルの緊張と不安は尋常ではない。
恐る恐る訳を訊くと、熱斗は口元にだけ乾いた笑みを張り付けたまま、もはや輝きの感じられない茶色の目を見開いて、メイルに正面から視線を向け、答えた。
「だってさぁ、俺さぁ、九日ぐらい前に、メイルちゃんに炎山の事相談したからさぁ……あははは、俺、既に相談するべきじゃないメイルちゃんに相談してて、メイルちゃんはそれを俺に黙ってたって訳だったのかぁ!」
形こそ笑みを作るその顔に、本当の笑みの雰囲気、空気は感じられず、薄ら寒くも湿った風に撫でられるような不快感と不穏さ、そして不安が炎山とメイルを襲う。
いっそ大声で怒鳴ってくれた方が気が楽だという状況を、二人は自身の身と、友人の持つ温もりの崩壊をもって、今、知ったのだ。
そうして怯える二人の表情に、熱斗は余計に笑いが止まらなくなる。
自嘲と嘲笑の混ざり合った、空虚で歪な笑い声を挟みつつ、熱斗はやや説明口調で続ける。
「はは、思い返せば、確かに、全部、辻褄、合うんだよなぁ、あはは、あのさ、炎山には言って無かったけどなぁ、九日ぐらい前にさぁ、メイルちゃんに相談してたんだぁ、炎山があんまり楽しそうに笑ってくれないんだけど、どうしたらいいのかな? ってさぁ、はははは、その理由が、今、分かっちゃったよなぁ! なぁ!? 炎山があんまり楽しそうじゃ無かったのは、その時すでに炎山の想いは俺に向いてなくて、メイルちゃんに向いてて、俺が邪魔者だったからだったのかぁ! あは、ははははは、こりゃあ傑作だぜ! メイルちゃんも演技上手いよなぁー! だって、本当にちゃんと相談に乗ってくれてるって感じでさぁ、俺、本当に信じちゃったもん! あぁもういっそのこと、少し距離を置いてみたら? とか言われりゃあ、少しは気付いたかも知んないのにさぁ、“きっと少し疲れてるのよ、何か炎山が癒されるようなことでも探してあげたら?”だって! はは、もう、俺ったら、普通に、信じちゃってさぁ、帰ってから、ママに、コーヒーの上手な入れ方、とか、男性でも、落ち着けるような、アロマって、無いか、とか、訊いちゃってさぁあはははははははははは!」
怒りも悲しみもグチャグチャに混ざって、泣く事でも怒鳴る事でもなく、妙に陽気な笑い声と空回りな笑顔となって零れ出す。
自分は今どうしようもなく滑稽な事をしている、その自覚が熱斗に全く無くなっていた訳ではなかったが、もはや此処までくると怒鳴る気力も消えてしまうのが今は事実で、熱斗は自分でも何故笑っているのか理解しきれないまま、それでもひたすら笑い続けた。
そして、それを見る炎山とメイルは、もはやこれ以上ない程の焦りと恐怖、後悔の色を表情に滲ませるのだ。
その恐怖と後悔が、この時熱斗の中に既に生まれていた復讐心を満足へ導き、その気違いじみた嘲笑を更に高めているのだと知らないまま、熱斗自身すらハッキリとは気付けないまま、更に。
もはや熱斗に分かるのは、二人が憎いという事だけしかなくなっていた。
もっと焦ればいい、もっと怯えればいい、もっと後悔すればいい、焦って、怯えて、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、壊れてしまえ! と、熱斗が思い始めた、その時、何か機械的な物が動く音がして、熱斗はふとその笑いを弱めた。
炎山とメイルもハッとして勢い良く背後に振り返る。
「ごめんごめん、遅くなったね。」
「博士ったら、たまには整理整頓しないとセキュリティ的にも問題ありですよ。」
熱斗から見て正面、炎山とメイルからは背後になるソレ――指令室と廊下を繋ぐ扉をくぐり、先ほど忘れ物を取りに行った大人二人――祐一朗と名人が帰ってきた、その様子が三人の視界に映る。
それには、誰の言い分も聞き入れないであろう雰囲気で狂ったように笑っていた熱斗もさすがにハッとさせられたのか、それとも大人達には知られたくないという思い故なのか、笑いを止めてなるべく普段通りの表情を向けるように意識した。
「あ、パパ! おかえりー!」
それでも妙に高いテンションが僅かにわざとらしさを残しており、炎山とメイルは緊張気味の表情で顔を見合わせ、それからなるべく無表情になるように努めつつ祐一朗と名人が見える方向に視線を向け直した。
その時、メイルは心配そうな視線を少しだけ熱斗に向けていたのだが、熱斗がそれを無視した事と、誰のせいだと思ってるんだよ、という言葉を内心で吐いていた事は言うまでも無い。
もはやこの時、熱斗にとって、炎山もしくはメイルから心配されるというのは屈辱以外の何物でもなくなっていたのだ。
そして熱斗がこれ以降、炎山を恋人だけでなく友人の枠からも外し、メイルも同じく友人としてすら見なくなった事も同じく言うまでも無いだろう。
「あぁ、ただいま。……熱斗、どうかしたのか?」
熱斗は元気な少年らしく父親を迎えたものの、祐一朗はそれのわざとらしさに少しも気付かない程鈍い父親ではなかったようで、少し考えた後に、熱斗にそう問いかけた。
しかし熱斗もそこで事情を話す程愚鈍ではなく、多少空回りといえども明るい雰囲気を保ったままで首を傾げ、祐一朗の質問に心当たりが無いというような不思議そうな表情を見せて答える。
「え? 別になんにもないけど? パパこそどうかしたの?」
「いや……何も無いなら別にいいんだ。こっちも、特に何も無いしね。」
完全な普段通りとはいかないものの、普段に限りなく近い態度で訊き返す熱斗に、祐一朗は少しの疑問を残したままではあったものの、深い追及はせずにおくことにした。
それを見て炎山は思う、熱斗は先ほどメイルの演技を上手いと言っていたが、最大の役者は熱斗自身なのではないだろうか……と。
だが、もしも炎山がそれを熱斗に告げたなら、熱斗はロクに間も置かずに、お前らのせいだろ、と答えることだろう。
そこまで考えて、新たな恐怖――自分は今まで最愛としてきた人物を壊した張本人なのだという事実に改めて怯えた炎山は、思わずメイルの手を強く握っていた、が、今は熱斗だけでなく祐一朗や名人もいる事を思い出し、すぐにその力を抜き、あとはメイルが握る事をやめればすぐ離せるようにしておいた。
すると、今まで強く固く握られていた手にそれほど力がかからなくなった事に気付いたメイルもそれを察したのか、炎山が指から力を抜いた直後、自身も指の力を抜き、あまり大きく動かないようにしながら炎山の手を離した。
幸い、人間の視界、またそれの中のものを見る注意力とは、意外にも程度の低い物であり、熱斗に意識を向けていた祐一朗と名人は炎山とメイルのその行動に気付く事はなかった。
勿論、二人の背後にいる祐一朗と名人を見ている熱斗は、祐一朗と名人に本来の注意を向けながらも炎山とメイルの行動も監視していた為、しっかりと見ていたのだが。
「それじゃあ、必要な物も取ってきた事だし話を――って、熱斗?」
「熱斗くん?」
なんとか気付かれないまま離れた炎山とメイルの間を通って祐一朗が指令室奥にある巨大スクリーンの目前へ足を進めた時、それとすれ違う形で熱斗が指令室の外へつながる廊下へ足を進めた。
すれ違った祐一朗がやはり不思議そうに熱斗を呼び止め、同じく不思議に思ったらしい名人が祐一朗に続くかのように熱斗を呼び止めると、熱斗は扉のすぐ手前に立ち止まり、ややゆっくりと振り向き、少し苦い笑顔を見せて、
「パパ、名人さん、ごめん。俺、ちょっと調子悪くなってきちゃって……先、帰ってていい?」
と、まるで本当の体調不良に苦しむ人間のような少し弱い声で訊いた。
いや、ようなという表現は半分正しいが、半分は間違いかもしれない。
事実、熱斗にとってはそこ――炎山とメイルが共にいる部屋でまだ長時間過ごさなくてはいけないなど、今となっては拷問に等しく、少し想像しただけで心臓が酷く悪い意味で鼓動を強め、そのせいなのか少しと言えど本当に気分が悪くなってきていた。
早くこの場を立ち去りたい、炎山やメイルと共に居たくない、今すぐ帰りたい、一刻も早く逃げ出したい、と、本当はこのまま全速力で駆け出して何処かへ消えてしまいたい気持ちを抑え、熱斗は祐一朗と名人の返答を待つ。
炎山とメイルも少し不安そうに祐一朗と名人の回答を待った。
祐一朗は何か不思議な物でも見るかのような表情で熱斗を見ている。
「そうか……じゃあ、まぁ、仕方が無いな。帰ってていいぞ。」
「熱斗くん、大丈夫かい? なんなら家まで送ろうか? 元気な子ほど一度体調を崩すと長々苦しむ事があるからね。」
だが結局、祐一朗は少し考えた末に熱斗の帰宅を許した。
名人はそもそも大して熱斗の行動、言動を怪しんではいないらしく、普通に体調を気遣ってくれた。
今の自分へこれ以上ない程の拷問になる状況を与えない事を選んでくれた二人へ、熱斗は少し笑顔を強めて感謝を告げる。
「ありがとう、パパ。名人さんもありがと。……でも、帰るぐらいは独りで出来そうだから安心して。」
そして、名人からの申し出を断ると、熱斗はそのまま体の向きを扉の方へと直し、炎山とメイルには何も告げないままで外へ出てしまった。
そのまま振り返らずに数歩歩くと背後で扉の閉まる音がして、もう二人に見られる事はないと安心した熱斗は、ここでやっと作り物の笑顔を消し去り、今の心境そのままの表情を浮かべる。
その顔に浮かぶ本当の表情、それは、元気な小学生には似合わない、酷い疲労の色だった。
あの後、どうやって、何をしながら家に帰ったか、その記憶は少し曖昧で、真っ暗な自室の中で机に肘をついている熱斗は指令室を出た後の事を思い出す事は出来なかった。
薄っすらと覚えているのは、酷い疲労感と絶望感、それでも襲い来る憎悪の衝動、そして、炎山とメイルは勿論、それ以外の人間及びネットナビにすら不信感を覚えるようになった事だけ。
ロックマンが何かひたすら語りかけてきたような記憶もあるにはあるが、何を話されて何を話し返したのかは全く思い出せない。
思い出せない事なら、おそらく大した事ではないのだろう、少なくとも自分にとっては。
他の記憶を曖昧にしてまで脳にハッキリと焼き付いた、痛みと憎悪に満ちた記憶の再生を終えた熱斗は、深く長い溜息を静かに吐いた。
あれから何日か、それこそ二週間程度は経過したが、あの日のあの光景とあの会話は熱斗の脳裏から消える事はなく、それと同じように二人に対する憎悪も消える気配を見せずにいる。
それどころか、憎悪は日に日にその深さと大きさを増し、学校でメイルの姿を、科学省かネット警察で炎山の姿を、運が悪ければどこか別の場所で両方の姿を見るたびに、熱斗に更なる衝動を抱かせ、今まで貫いてきた善意と正義を徐々に腐食させ、崩していく。
二人の姿を見るたびに、熱斗は思うのだ。
決して離れないように繋がれた手を切り落としてやろうか、もし性別が明暗を分けたというのなら二人の性器をその身から切り落として抉りだしてやろうか、それとも四肢をバラバラにして同じ箱にでも詰め込んでやったらいいかもしれない、いやもういっそ原型など分からぬ程に切り刻んで潰しきって同じ容器にでも流しこんでこれ以上ない程に一つにしてやろうか、それとも――……。
あの日以来、何度も何度も、二人を傷付ける事、殺す事を想像している。
もはや友人としての感情等はそこに無く、湧きあがるものはただただ重く濁った黒々しい憎悪、そして、そこを種子とし養分として芽生え育つ、醜くも美しく、悪である事が明らかながらも心を惹かれて仕方が無い禍々しい華――殺意だけだ。
そしてその華の根が、葉が、茎が、蔦が、それまでの熱斗が信じてきた善意と正義を少しずつ侵食していく、少しずつ崩壊させていく、善意と悪意のバランスが入れ換わっていく、好意よりも嫌悪が先に出るようになっていく、誰かを信じる事ができなくなっていく、見えるもの全てが憎らしくなっていく――。
その感覚は、熱斗にとって非常に恐ろしいものだったが、しかし同時に否定も非難も拒否も出来ないような、何か強い魅力と説得力を持っている様な気もして、熱斗は自分の善悪のバランスが完全に入れ替わってしまう事に全体的には怯えつつも、心の片隅ではそれを望んでいる面もあった。
そう、熱斗は殺意自体にはまだ多少否定的だったが、これからも炎山とメイルを許す気など無いという事には酷く肯定的になのである。
それでもやはり本当に二人を殺めるような事ができるような育ち方をしていない熱斗は、疲労の見える長い溜息をもう一度吐いてからゆっくりと顔をあげ、壁にかけた時計を見た。
いつの間にか、時刻は午前三時に到達しようとしている。
それを確認して更にもう一度短い溜息をついた熱斗は、もうさすがに就寝しようかと思い、更にもう一度溜息を吐いた。
Continued on next story.
例え同性という壁があれどもこの人とならば後悔はしない、そんな夢を打ち砕かれて早十数日、熱斗は自分がおかしくなっていくのを感じながらもそれを止める術を持たず、ただただ精神の余裕を消耗するだけの日々を送っていた。
これは、そんな日々の中の一幕である。
時刻は午前二時を過ぎ、PETの中のロックマンですらスリープモードというネットナビのとっての眠りに落ちていた時の事。
本来ならばそれと同じようにベッドの中で眠りに落ちている事が普通であるはずの小学生の少年、光 熱斗は、服装こそパジャマになっているもののベッドの中には入らず、普段からパソコンや勉強道具を置きっぱなしにしている机の前にある椅子に座っていた。
机についた肘の先の腕と手の甲が支えるのは同じ身体から生える頭のその額で、体重を支える事を腕に任せた頭の、その顔にある二つの目は目下の白い机を凝視するかのように見開かれている。
その目に眠気の色は無い。
放心を示す虚ろの色も無い。
しかし、それならば熱斗の視線の先にある物は使い慣れた白い机で正解なのか、熱斗はその机を凝視してるのか、と問われると、それは違うと答えなければいけないだろう。
何かを凝視するように見開いたその目で、熱斗は、つい数日前の出来事覗いていた。
まだ陽の落ちぬ午後四時頃、通い慣れた科学省の指令室、そこで自分――熱斗と“彼”と“彼女”しか居なくなった時の事だ。
数秒前までそこにいた大人達――熱斗の父であり科学省のトップでもある光 祐一朗と、科学者なのか警察なのかよく分からないが正義の味方の一員ではある事だけは確かであろう名人は、必要なデータの入ったディスクを机に忘れたから取りに行ってくると行って指令室を出て行っていた。
社会の為、世界の為に働く大人達が一時的に去り、子供から見ると分かる大人特融のどこか堅苦しい空気が薄れた部屋の中で、熱斗は、大人達が帰ってくるにはまだ時間がかかりそうだな、などと考えて、それまでどうしていようかを少し悩み、退屈そうな表情で目の前の巨大モニターをなんとなく見つめる。
ふと、白黒の髪と赤いベストが特徴的な“彼――伊集院 炎山”から、少し緊張した様な声が投げけかけられたのはそんな時だった。
「熱斗、少し話が――」
いつも通り落ち着いた声に混ざる緊張と、普段なら呼ばれはしないであろう状況、タイミングで呼ばれた自分の名前。
それは何か妙に改まったような堅苦しさを伴っていたが、その時の熱斗はそれに不安や恐れは抱かず、むしろちょっとした期待すら感じていた。
いつもならIPCの副社長室やそれぞれの自宅以外では友人程度のそぶりしか見せない炎山が、こんな時にこんな場所で自分から進んで俺を呼んでくれるなんて珍しい、という少しの驚きと喜び、そして期待を込めて、熱斗は炎山が全てを言い切る前に笑顔になり、
「なんだよ?」
と訊き返しながら振り向いた。
しかし、振り向き終えて、その光景を目の中に映して、それを脳が理解した瞬間、熱斗はその笑顔と言葉を失い、一瞬にして凍りついた。
熱斗の視界に映る炎山の左手が、その隣にいる少女、“彼女――桜井 メイル”の右手と組み合わさっている。
そして二人の頬の色は、この指令室からでは見る事が出来ないが外には広がっているであろう夕暮れの始まりような薄い赤に染まっていて、熱斗は自分の顔から頭から手足から、一気に血の気が退いて行くのを感じた。
何故? なんで? どうして? という疑問形の言葉達が頭の中を埋め尽くし、マトモな思考が回らなくなっていく。
あまりの衝撃と混乱で怒りという興奮すら湧かせずに立ち尽くし、薄っすらと青ざめた気すらする驚愕の表情で固まる熱斗へ、熱斗とは反対に頬を赤らめてメイルの手を決して離さぬように握る炎山が、何かの決意を抱えた為に酷く緊張した顔で、熱斗が最も聴きたくない言葉を告げる。
「熱斗……俺と、別れてほしいんだ。」
そう言った炎山は、申し訳ないと言いたげな苦みの滲む表情をしていた。
その時の炎山は、お前には悪いと思っている、ということを表情や態度、言葉で表現する事が熱斗にとって救いになるかと思っていたのかもしれない、誠心誠意真っ直ぐに伝えたつもりだったのかもしれない、が、しかし、熱斗にとってそれは余計に傷口を広げるだけでしか無かった。
本来の恋人――熱斗以外の人間と恋人のように手を繋ぎ合い、頬をほんのりと赤く染めた状態でそんな、それこそ申し訳程度の申し訳なさを滲まされたところで、本当に申し訳なく思っているとは到底感じられない。――少なくとも、熱斗には。
そして熱斗は後にこの時の炎山を、純粋純情のフリをした裏切り者、と認識するようになる。
ともかく、この時の熱斗には、炎山が何を言っているのか理解しきれなかった。
別れてくれという言葉の意味、つまり、恋人関係を解消したいと言っているという事だけはなんとか理解できたのだが、その他の事は全くと言っていい程理解できず、少しの言葉も出ないままで目だけを忙しく動かし、炎山、メイル、その間で繋がれる二人の両手を順番に視界の中心に捕らえるだけで精一杯になってしまっていた。
どうして自分は別れを告げられたのか、どうして炎山はメイルと手を繋いでいるのか、炎山もメイルも何を想って二人仲良く同じように頬の色を赤く染めているのか、理由が全く分からない、理解できない。
いや、本当は理解しているのかもしれない、この状況が指す物などそう多いものではない、つまり――。
本当に理解できない部分と本当は理解している部分をパズルのように組み合わせて、昔あったらしいPETの代わり――携帯電話のように予測変換を出してはそれを否定して削除をする、そのように例えられるかもしれない混乱に突き落とされていく熱斗に、それら全ての答えを与えたのは、恋人ではなく幼馴染の方だった。
「ごめんなさい、熱斗……私、炎山と付き合ってるの……。」
そう言ったメイルの声は炎山と同様に申し訳ないと言いたげな雰囲気を含んでいて、多少弱く重苦しいものであった。
しかし、ごめんなさい、と言った時のメイルが、炎山の左手と繋いだ自分の右手に力を込めていた事を、熱斗は見逃してはいない。
だから熱斗には、その申し訳なさそうな態度をせめてもの贖罪だとして受け止める事は出来なかった。
申し訳なさは勝利宣言に、後ろめたさは勝利者からの哀れみに、そして繋がれた手と手はまるでそれらを見せつけてくるようで、炎山にとっては普通の別れ話だったかもしれないそれは、メイルにとっては普通の状況説明だったかもしれないそれは、熱斗にとっては恋人と幼馴染の両者からの裏切りに“等しく”なる。
もしもこれが、炎山がただ単に熱斗の存在に冷めて切り出した別れ話だったなら、熱斗はよくある大衆向け恋愛ドラマの中にいる低俗な女共のように炎山へ泣いて縋って別れの取り消しを求めたかもしれない。
勿論、冷められた時点で冷め返す可能性も無くはないし、冷めるどころかそれ以上のものを抱える可能性も無くはない、しかしその一方で、どうせ隣を空席にするぐらいなら、本当に新しい誰かが現れるまでは時間をください、と思う可能性も否定はできない。
しかし今この現実にはメイルという存在が“既に”居て、炎山が例え惰性や哀れみでも自分を選ぶ可能性は無い。
誰がどう取り繕ったとしても、熱斗が捨てられた事が“確実”である事を否定はできないだろう。
そんな状況で、地を這いずるように縋りついてまで相手を求める必要などあるのだろうか?
答えは、否だ。
そして、
「本当に、本当に悪いとは思っている! しかし、これ以上自分に嘘を吐く事は」
自分は炎山に捨てられたのだと薄々思い始めていた所に投げかけられた言い訳じみた言葉が、それまで抱えてきた炎山への友情、恋情、愛情といった好意全てを黒く塗りつぶし、一つの新しい想いに変える。
脳から心臓から胴体から四肢から指先から、湧水のように勢い良く湧きだし、しかし明らかに有害なヘドロのように濁った色でドロドロとしたその感情は、熱斗が今までこの世で一番忌避してきたものだった。
「できなくて、だから」
相変わらず言い訳めいた炎山の必死そうな声がする。
思案はおろか混乱すら通り越した熱斗は、ほぼ反射的に炎山の言葉を遮った。
「あぁ、わかった。」
少しうつむき加減で立っている熱斗から向けられたその言葉に、炎山とメイルは一瞬自分の耳を疑い、戸惑いの隠せていない表情でお互いの顔を見合わせる。
正直なところ、先ほどから酷く言い訳臭い言葉ばかりの炎山も、その横で炎山の手を強く握る事しかできていないメイルも、これが熱斗に対する裏切りに“似ている”自覚は持っていて、それに対して熱斗が酷いショックと怒りを覚えるであろう事はある程度予想していた。
おそらく熱斗は自分たちを認めはしないだろう、絶叫にも似た怒声、罵声を浴びせられるか、全てに絶望した様な泣き声をあげられるのだろう、そう思っていた。
だからこそ二人にとって、分かった、という返事は非常に予想外のものであり、一体何がわかったというのか、熱斗は何を思ってわかったと答えたのかが全く分からないのだ。
それでも、わかった、ということは、一応は自分たちを認めてくれるのだろうか? 怒らないでいてくれるのだろうか? これからも自分たちと関わってくれるのだろうか? という期待を二人が持ち始めた、正にその時、
「この、裏切り者。」
その期待を打ち砕くように吐き捨てられたそれは、正義の味方のものとは感じられないほどに怨嗟の満ちた威圧感のある声で、今度は炎山とメイルが共に血の気を退かせる番であることを告げていた。
もしも声に色があるとしたら、この時の熱斗の声は、いくら他の色を足しても簡単には変わる事の無い、深すぎる黒だっただろう。
炎山へ向けた友情と恋情と愛情、ならびにメイルに向けていた友情は今、絶望の中で温かな色を失い、他の全てを凌駕する程濃い黒色の憎悪に変化していたのだ。
そして二人は、ゆっくりと顔をあげて自分たちを視界におさめた熱斗のその表情を見て、怯えたように凍りつくこととなる。
過去には犯罪者にすら慈愛を向ける事もあって、太陽のように温かで元気な笑顔の似合う目は今、熱斗自身が今までに慈愛を向けてきた犯罪者達よりも暗い怒りを宿し、全てを焼き尽くすような激しさと、全てを凍結させるような冷たさを両立させていた。
そして、普段よりも大きく見開かれたその目は、炎山にもメイルにも、絶対に逃がさない、このまま視界から消える事は許さない、とでも告げているようだった。
熱斗が自分達を許してくれないであろう事は想定していたが、まさかここまで強く深い憎悪を燃やされる事は全くの予想外だった、そんな二人は少しでも“誤解”を解こうと、恐怖と焦燥のなかで必死の弁解を試みる。
「ち、違うんだ熱斗! 俺はお前を裏切ろうなんて、嫌いになったとかそういう訳では」
「熱斗、落ち着いて!? ね!? 炎山もこう言ってるし私だって熱斗は友達だと思って」
「何、馬鹿な言い訳してるんだよ。」
熱斗に落ち着くように言ったメイルの方が酷く焦っているのは明らかで、熱斗は呆れすら混ざってきた冷静な声でそれらの雑音を遮断した。
熱斗が混乱している事を前提に弁解を試みていた炎山とメイルはそれに虚を衝かれたのか、一瞬で黙りこむ。
それでもまだ何か言い訳をしたそうな二人を見て、熱斗の怒り――憎悪は更に深さを増していく。
暗い怒りを宿したままの目を向けて、熱斗は淡々と、炎山とメイルの言い訳を砕き壊し始めた。
「炎山、それな、浮気人間の最も見苦しい言い訳のテンプレートの一つだから。嫌いになった訳じゃないから、なんだよ? 嫌いになった訳じゃないなら、なんで別れてほしい訳? なんでメイルちゃんを恋人にしてる訳?」
「あ、と……それは……。」
至極真っ当な反論に炎山は言葉を詰まらせ、酷く傷付けられたような顔を見せるが、熱斗はそれを見下すような冷たい視線で睨み付けただけだった。
その視線が炎山に告げるのは一つ、加害者の癖に被害者のような顔をするな、という事だけ。
「確かに、炎山は俺を嫌ってはないのかもしれないな、友達程度には思ってくれてるのかもしれないな。……けど、俺達ってさ、同性ではあるけど、恋人やってたんだよな? 今だって“別れてほしい”って言ってたもんな?」
もはや何も言えないまま徐々に表情を引き攣らせるだけの炎山に、熱斗は止めを刺す。
「別れてほしいって事は、恋心とか、愛情とか、それはもう無くなったんだろ? ……それなのに何? 嫌いになった訳じゃないから、何? お前は、友達としての俺は捨ててないのかもしれない。だけどな……恋人として、愛する相手としての俺を捨てたのは確かなんだよ!!」
今にも殺しにかかるかのような剣幕で結論を叫ぶと、炎山はそれに怯えて「ひっ!?」という短い悲鳴をあげて後ずさった。
それにつられて、もしくは同じように恐怖を感じて、メイルも一歩後ろに下がる。
ずっと真っ直ぐに、前だけを向いて、ひたすら綺麗な正義を掲げて成長してきた幼馴染が見せた、世界中のどの悪人よりも深く激しい憎悪、それにメイルも大きな驚愕を隠せなかったのだろう。
それでも尚強く繋がれる二人の手を一瞬だけ見つめてから、熱斗は、炎山の新しい恋人――熱斗の幼馴染の少女にも憎悪の籠った視線を向けた。
私も何か言われるの? という焦りが表情に出てしまっているメイルに向けて、熱斗は言った。
「メイルちゃんさ、俺と炎山が付き合ってる事……知ってたよな?」
メイルは、肩を上下に振るわせた。
「俺も炎山もほら、同じ男だからさ、あんまり大っぴらにはできないなってところがあっただろ? だから俺、昔から関わりがあって信用もできるって思ってたメイルちゃんによく相談してたんだけど……覚えてないなんて、言わせないぜ。」
「で、でも、それで、なんで、」
なんで私も怨まれる原因に? と、メイルが言おうとした瞬間、熱斗の目が鋭さを増し、メイルはそれに戦いて口を噤み、炎山の手を強く握る。
もはやその程度では動じる事の無い、動じる事の出来ない領域に踏み込んでしまっている熱斗は、先ほど炎山を黙らせた時と同じようにを冷たく一瞥した後に、話を再開する。
「メイルちゃん……さっき、こう言ったよな? 『炎山と付き合ってるの』って……炎山が俺と付き合ってるのを、知ってたのに。……なぁ、それ……何時(いつ)から?」
その言葉にメイルはハッとして、同時にゾッと背筋を冷やした。
炎山の場合と違って確定事項ではないとはいえ、熱斗はメイルの言葉の中に“とある可能性”を強く見出しているのだ。
メイルが炎山と付き合い始めたのは、今日よりずっと前なのではないか、という可能性を。
「もし今日が付き合い始めになるなら、炎山が一度俺と別れて独りになって、改めてメイルちゃんと付き合うっていうんならさ、メイルちゃんは“付き合う事になったの”とか、“付き合う事にしたの”とか言えばいいよな。なぁ、どうして“付き合ってるの”なんて、現在進行形にしたんだよ?」
炎山に向けたものと同じ程の憎悪が滲む目に見つめられて――睨まれて、メイルは言葉を失い、何かに怯えるように細かく震える。
そしてその怯えは、熱斗が挙げた可能性がどうしようもなく事実である事を指していた。
勿論、熱斗がその怯えに気付かないはずはなく、メイルがそれなりに前から、炎山には既に熱斗がいる事を知りながらも恋人として振舞っていた、もしくは自分を炎山の恋人と認識していたであろう事を確信する。
そして、熱斗はメイルに、止めにも慈悲にもなる質問を突き付けた。
「なぁ、メイルちゃんが炎山と付き合い始めたのって、何時? まぁさ、炎山が俺と別れる前に付き合ったならいつでも不倫にはなるから、今以前って時点でアウトではあるけど……でも、答えてよ。ねぇ、早く。」
確実な憎悪を放ったままだというのに、小さな子供に問いかけるような猫撫で声の要素も僅かに含んだその声が余計に恐怖を煽り、メイルは本当に凍りつかされたかのように動けなくなり、言葉すら出せなくなった。
メイルの隣では炎山が同じように緊張と怯えを隠せていない表情で固まっている。
二人とも、できる事なら何も答えずに今すぐこの場から逃げ出したかっただろうが、それは正に自分達は裏切り者ですという宣言にもなってしまう事と、今は此処にいない大人達へ何の理由も告げずに退室することにもなるため、躊躇われた。
酷く冷たい、そして静かな、文字通り冷静な態度を保ち、しかしその奥では確か過ぎる憎悪の溢れる熱斗の目に睨むように見つめられ続け、メイルはその場から動けなくなっていたが、それでも僅かに頭を動かし、隣に立つ炎山と視線を合わせた。
メイルと視線が合った炎山は何を察したか、小さく頷く。
この時、そのよく通じあった様子を見た熱斗が、メイルはしばらく前から炎山と付き合っているという確信を強めた事を、二人は知らない。
ともあれ、炎山の頷く姿を見て何かを決めたメイルは、覚悟を決めたと言いたげで神妙な表情を熱斗に向け、ようやく答えを出した。
「……二週間半ぐらい、前よ……。」
強く出ようと思う意思はあれど、それに反して音量は小さく、更に僅かに震えたその声が告げた答えを聴いて、熱斗は、あぁ、やっぱり、と思った。
なんとなく、長くはないが短くはない程度には前だろうという気はしていたが、実際に言われるとなかなか苦しいものがある。
自分はその二週間、自分に対して恋愛的興味を失った炎山へ、一方的な恋愛、もはや片思いを続けていたのかと思うと、もはや泣くよりも笑いたくなってくる。
勿論、自嘲と言う意味でだが。
そして熱斗は、メイルも慈悲ではなく止めを刺すべき存在である事を確認した。
「そっか、二週間半、つまり十七、十八日ぐらい前か……っはは、やっぱり、メイルちゃんも裏切り者だったんだぁ、あはは。」
「それ、って……?」
慈悲よりも止めを、それを確認した熱斗は何故か、怒声ではなく笑い声を漏らしていた。
一般的に見て奇妙なその様子に炎山とメイルは怒りに対してとはまた別の恐怖を感じ、どこか身構えるような緊張感をもって熱斗を見つめる。
特に、今この瞬間裏切り者とされた張本人であるメイルの緊張と不安は尋常ではない。
恐る恐る訳を訊くと、熱斗は口元にだけ乾いた笑みを張り付けたまま、もはや輝きの感じられない茶色の目を見開いて、メイルに正面から視線を向け、答えた。
「だってさぁ、俺さぁ、九日ぐらい前に、メイルちゃんに炎山の事相談したからさぁ……あははは、俺、既に相談するべきじゃないメイルちゃんに相談してて、メイルちゃんはそれを俺に黙ってたって訳だったのかぁ!」
形こそ笑みを作るその顔に、本当の笑みの雰囲気、空気は感じられず、薄ら寒くも湿った風に撫でられるような不快感と不穏さ、そして不安が炎山とメイルを襲う。
いっそ大声で怒鳴ってくれた方が気が楽だという状況を、二人は自身の身と、友人の持つ温もりの崩壊をもって、今、知ったのだ。
そうして怯える二人の表情に、熱斗は余計に笑いが止まらなくなる。
自嘲と嘲笑の混ざり合った、空虚で歪な笑い声を挟みつつ、熱斗はやや説明口調で続ける。
「はは、思い返せば、確かに、全部、辻褄、合うんだよなぁ、あはは、あのさ、炎山には言って無かったけどなぁ、九日ぐらい前にさぁ、メイルちゃんに相談してたんだぁ、炎山があんまり楽しそうに笑ってくれないんだけど、どうしたらいいのかな? ってさぁ、はははは、その理由が、今、分かっちゃったよなぁ! なぁ!? 炎山があんまり楽しそうじゃ無かったのは、その時すでに炎山の想いは俺に向いてなくて、メイルちゃんに向いてて、俺が邪魔者だったからだったのかぁ! あは、ははははは、こりゃあ傑作だぜ! メイルちゃんも演技上手いよなぁー! だって、本当にちゃんと相談に乗ってくれてるって感じでさぁ、俺、本当に信じちゃったもん! あぁもういっそのこと、少し距離を置いてみたら? とか言われりゃあ、少しは気付いたかも知んないのにさぁ、“きっと少し疲れてるのよ、何か炎山が癒されるようなことでも探してあげたら?”だって! はは、もう、俺ったら、普通に、信じちゃってさぁ、帰ってから、ママに、コーヒーの上手な入れ方、とか、男性でも、落ち着けるような、アロマって、無いか、とか、訊いちゃってさぁあはははははははははは!」
怒りも悲しみもグチャグチャに混ざって、泣く事でも怒鳴る事でもなく、妙に陽気な笑い声と空回りな笑顔となって零れ出す。
自分は今どうしようもなく滑稽な事をしている、その自覚が熱斗に全く無くなっていた訳ではなかったが、もはや此処までくると怒鳴る気力も消えてしまうのが今は事実で、熱斗は自分でも何故笑っているのか理解しきれないまま、それでもひたすら笑い続けた。
そして、それを見る炎山とメイルは、もはやこれ以上ない程の焦りと恐怖、後悔の色を表情に滲ませるのだ。
その恐怖と後悔が、この時熱斗の中に既に生まれていた復讐心を満足へ導き、その気違いじみた嘲笑を更に高めているのだと知らないまま、熱斗自身すらハッキリとは気付けないまま、更に。
もはや熱斗に分かるのは、二人が憎いという事だけしかなくなっていた。
もっと焦ればいい、もっと怯えればいい、もっと後悔すればいい、焦って、怯えて、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、後悔して、壊れてしまえ! と、熱斗が思い始めた、その時、何か機械的な物が動く音がして、熱斗はふとその笑いを弱めた。
炎山とメイルもハッとして勢い良く背後に振り返る。
「ごめんごめん、遅くなったね。」
「博士ったら、たまには整理整頓しないとセキュリティ的にも問題ありですよ。」
熱斗から見て正面、炎山とメイルからは背後になるソレ――指令室と廊下を繋ぐ扉をくぐり、先ほど忘れ物を取りに行った大人二人――祐一朗と名人が帰ってきた、その様子が三人の視界に映る。
それには、誰の言い分も聞き入れないであろう雰囲気で狂ったように笑っていた熱斗もさすがにハッとさせられたのか、それとも大人達には知られたくないという思い故なのか、笑いを止めてなるべく普段通りの表情を向けるように意識した。
「あ、パパ! おかえりー!」
それでも妙に高いテンションが僅かにわざとらしさを残しており、炎山とメイルは緊張気味の表情で顔を見合わせ、それからなるべく無表情になるように努めつつ祐一朗と名人が見える方向に視線を向け直した。
その時、メイルは心配そうな視線を少しだけ熱斗に向けていたのだが、熱斗がそれを無視した事と、誰のせいだと思ってるんだよ、という言葉を内心で吐いていた事は言うまでも無い。
もはやこの時、熱斗にとって、炎山もしくはメイルから心配されるというのは屈辱以外の何物でもなくなっていたのだ。
そして熱斗がこれ以降、炎山を恋人だけでなく友人の枠からも外し、メイルも同じく友人としてすら見なくなった事も同じく言うまでも無いだろう。
「あぁ、ただいま。……熱斗、どうかしたのか?」
熱斗は元気な少年らしく父親を迎えたものの、祐一朗はそれのわざとらしさに少しも気付かない程鈍い父親ではなかったようで、少し考えた後に、熱斗にそう問いかけた。
しかし熱斗もそこで事情を話す程愚鈍ではなく、多少空回りといえども明るい雰囲気を保ったままで首を傾げ、祐一朗の質問に心当たりが無いというような不思議そうな表情を見せて答える。
「え? 別になんにもないけど? パパこそどうかしたの?」
「いや……何も無いなら別にいいんだ。こっちも、特に何も無いしね。」
完全な普段通りとはいかないものの、普段に限りなく近い態度で訊き返す熱斗に、祐一朗は少しの疑問を残したままではあったものの、深い追及はせずにおくことにした。
それを見て炎山は思う、熱斗は先ほどメイルの演技を上手いと言っていたが、最大の役者は熱斗自身なのではないだろうか……と。
だが、もしも炎山がそれを熱斗に告げたなら、熱斗はロクに間も置かずに、お前らのせいだろ、と答えることだろう。
そこまで考えて、新たな恐怖――自分は今まで最愛としてきた人物を壊した張本人なのだという事実に改めて怯えた炎山は、思わずメイルの手を強く握っていた、が、今は熱斗だけでなく祐一朗や名人もいる事を思い出し、すぐにその力を抜き、あとはメイルが握る事をやめればすぐ離せるようにしておいた。
すると、今まで強く固く握られていた手にそれほど力がかからなくなった事に気付いたメイルもそれを察したのか、炎山が指から力を抜いた直後、自身も指の力を抜き、あまり大きく動かないようにしながら炎山の手を離した。
幸い、人間の視界、またそれの中のものを見る注意力とは、意外にも程度の低い物であり、熱斗に意識を向けていた祐一朗と名人は炎山とメイルのその行動に気付く事はなかった。
勿論、二人の背後にいる祐一朗と名人を見ている熱斗は、祐一朗と名人に本来の注意を向けながらも炎山とメイルの行動も監視していた為、しっかりと見ていたのだが。
「それじゃあ、必要な物も取ってきた事だし話を――って、熱斗?」
「熱斗くん?」
なんとか気付かれないまま離れた炎山とメイルの間を通って祐一朗が指令室奥にある巨大スクリーンの目前へ足を進めた時、それとすれ違う形で熱斗が指令室の外へつながる廊下へ足を進めた。
すれ違った祐一朗がやはり不思議そうに熱斗を呼び止め、同じく不思議に思ったらしい名人が祐一朗に続くかのように熱斗を呼び止めると、熱斗は扉のすぐ手前に立ち止まり、ややゆっくりと振り向き、少し苦い笑顔を見せて、
「パパ、名人さん、ごめん。俺、ちょっと調子悪くなってきちゃって……先、帰ってていい?」
と、まるで本当の体調不良に苦しむ人間のような少し弱い声で訊いた。
いや、ようなという表現は半分正しいが、半分は間違いかもしれない。
事実、熱斗にとってはそこ――炎山とメイルが共にいる部屋でまだ長時間過ごさなくてはいけないなど、今となっては拷問に等しく、少し想像しただけで心臓が酷く悪い意味で鼓動を強め、そのせいなのか少しと言えど本当に気分が悪くなってきていた。
早くこの場を立ち去りたい、炎山やメイルと共に居たくない、今すぐ帰りたい、一刻も早く逃げ出したい、と、本当はこのまま全速力で駆け出して何処かへ消えてしまいたい気持ちを抑え、熱斗は祐一朗と名人の返答を待つ。
炎山とメイルも少し不安そうに祐一朗と名人の回答を待った。
祐一朗は何か不思議な物でも見るかのような表情で熱斗を見ている。
「そうか……じゃあ、まぁ、仕方が無いな。帰ってていいぞ。」
「熱斗くん、大丈夫かい? なんなら家まで送ろうか? 元気な子ほど一度体調を崩すと長々苦しむ事があるからね。」
だが結局、祐一朗は少し考えた末に熱斗の帰宅を許した。
名人はそもそも大して熱斗の行動、言動を怪しんではいないらしく、普通に体調を気遣ってくれた。
今の自分へこれ以上ない程の拷問になる状況を与えない事を選んでくれた二人へ、熱斗は少し笑顔を強めて感謝を告げる。
「ありがとう、パパ。名人さんもありがと。……でも、帰るぐらいは独りで出来そうだから安心して。」
そして、名人からの申し出を断ると、熱斗はそのまま体の向きを扉の方へと直し、炎山とメイルには何も告げないままで外へ出てしまった。
そのまま振り返らずに数歩歩くと背後で扉の閉まる音がして、もう二人に見られる事はないと安心した熱斗は、ここでやっと作り物の笑顔を消し去り、今の心境そのままの表情を浮かべる。
その顔に浮かぶ本当の表情、それは、元気な小学生には似合わない、酷い疲労の色だった。
あの後、どうやって、何をしながら家に帰ったか、その記憶は少し曖昧で、真っ暗な自室の中で机に肘をついている熱斗は指令室を出た後の事を思い出す事は出来なかった。
薄っすらと覚えているのは、酷い疲労感と絶望感、それでも襲い来る憎悪の衝動、そして、炎山とメイルは勿論、それ以外の人間及びネットナビにすら不信感を覚えるようになった事だけ。
ロックマンが何かひたすら語りかけてきたような記憶もあるにはあるが、何を話されて何を話し返したのかは全く思い出せない。
思い出せない事なら、おそらく大した事ではないのだろう、少なくとも自分にとっては。
他の記憶を曖昧にしてまで脳にハッキリと焼き付いた、痛みと憎悪に満ちた記憶の再生を終えた熱斗は、深く長い溜息を静かに吐いた。
あれから何日か、それこそ二週間程度は経過したが、あの日のあの光景とあの会話は熱斗の脳裏から消える事はなく、それと同じように二人に対する憎悪も消える気配を見せずにいる。
それどころか、憎悪は日に日にその深さと大きさを増し、学校でメイルの姿を、科学省かネット警察で炎山の姿を、運が悪ければどこか別の場所で両方の姿を見るたびに、熱斗に更なる衝動を抱かせ、今まで貫いてきた善意と正義を徐々に腐食させ、崩していく。
二人の姿を見るたびに、熱斗は思うのだ。
決して離れないように繋がれた手を切り落としてやろうか、もし性別が明暗を分けたというのなら二人の性器をその身から切り落として抉りだしてやろうか、それとも四肢をバラバラにして同じ箱にでも詰め込んでやったらいいかもしれない、いやもういっそ原型など分からぬ程に切り刻んで潰しきって同じ容器にでも流しこんでこれ以上ない程に一つにしてやろうか、それとも――……。
あの日以来、何度も何度も、二人を傷付ける事、殺す事を想像している。
もはや友人としての感情等はそこに無く、湧きあがるものはただただ重く濁った黒々しい憎悪、そして、そこを種子とし養分として芽生え育つ、醜くも美しく、悪である事が明らかながらも心を惹かれて仕方が無い禍々しい華――殺意だけだ。
そしてその華の根が、葉が、茎が、蔦が、それまでの熱斗が信じてきた善意と正義を少しずつ侵食していく、少しずつ崩壊させていく、善意と悪意のバランスが入れ換わっていく、好意よりも嫌悪が先に出るようになっていく、誰かを信じる事ができなくなっていく、見えるもの全てが憎らしくなっていく――。
その感覚は、熱斗にとって非常に恐ろしいものだったが、しかし同時に否定も非難も拒否も出来ないような、何か強い魅力と説得力を持っている様な気もして、熱斗は自分の善悪のバランスが完全に入れ替わってしまう事に全体的には怯えつつも、心の片隅ではそれを望んでいる面もあった。
そう、熱斗は殺意自体にはまだ多少否定的だったが、これからも炎山とメイルを許す気など無いという事には酷く肯定的になのである。
それでもやはり本当に二人を殺めるような事ができるような育ち方をしていない熱斗は、疲労の見える長い溜息をもう一度吐いてからゆっくりと顔をあげ、壁にかけた時計を見た。
いつの間にか、時刻は午前三時に到達しようとしている。
それを確認して更にもう一度短い溜息をついた熱斗は、もうさすがに就寝しようかと思い、更にもう一度溜息を吐いた。
Continued on next story.
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