この手は誰にも握られない、だから俺は
【この手は誰にも握られない、だから俺は】
それは、大した意味も無い小さなOD(オーバードーズ)と、誰に届く事も無い慟哭から約一週間が経った頃の事。
その日の夜、大学から帰宅して夕飯と入浴を済ませた熱斗は、いつもの様に自室に入り、いつもの様にパソコンの電源を入れていた。
濡れた髪を櫛で梳かしながらパソコンの立ち上げが終わるのを待ち、やがて画面いっぱいに好きなアニメの公式サイトからダウンロードした壁紙が見えるようになると、熱斗はすぐにマウスを動かして、画面の左端にあるアイコンの集まりからメールソフトを選び、ダブルクリックする。
それから十秒ほど待つと、メールソフトは音を立てずに起動を始め、画面いっぱいに白背景の窓を開いて、すぐさまメッセージの送受信を始めた。
と言っても、その送受信は一種の儀式めいたものでしか無く、熱斗のパソコンの中に未送信のメッセージは無く、また熱斗の使っているメールアドレスのサーバーにも熱斗へ宛てたメッセージが来ているという事は無い。
画面の右下の隅っこに表示された、新着メッセージなし、の表示が熱斗の胸を微かに抉る。
やいとに見える形で自分の愛憎と苦しみの一端を吐き出してから早一週間が経とうとしている。
熱斗はあの日以来、やいとを含む全ての知人(知っている人、なんて傲慢な思い違いかもしれないけれど)の動向を観察することをやめた。
熱斗が動向を観察していた相手は、やいと以外では主にライカ、炎山、そしてサロマとみゆきの四人が主だ。
本当はもう一人、メイルの動向もよく窺っていたのだが、それはもはや過去の事だ。
メイルはもう、一秒でも早く、少しでも惨たらしく死んでほしい相手でしか無い、その事実が、熱斗の心を、ダークチップも無いというのに深く、歪に捻じ曲げている。
そしてそれは、熱斗とメイルの共通の友人であり、熱斗よりも本来はメイルと仲が良いやいととの関係性にも影を落とし始めていた。
その一つは、やいとの存在を目にする度、メイルの存在の痕跡が脳裏にチラつくという事だ。
メイルと決別してから早一ヶ月が経とうとしているが、その間に熱斗は何度かやいとと話す機会があった。
その度に熱斗は、やいとがメイルの事を話題に出すのではないか、もしくはメイルがやいとに何か告げ口をしているのではないかと不安になり、同時にメイルの存在を思い出しては友人(知人、の方が正しいのかもしれない)として愛した故の憎悪に囚われ、その心を少しずつ削られてきた。
自分の精一杯の謝罪も贖罪も跳ね除けて“勝手にしろ”とだけ言い捨てたメイルを思い出すと、今でも頭の中が愛憎で満たされて、本当に勝手にしていいのなら、これでもかと言うほどの愛を垂れ流して送ってもいいのだぞ、と脅迫めいた思いが脳裏を過る。
しかし熱斗は正直な所、そんな自分に対して疲れ切っており、できればメイルを思い出す事なく忘れる事を優先したいという思いも強かった。
それなのに、やいとはメイルと友達(熱斗とやいと、熱斗とメイルは友達かどうかわからないというのに)という印象が強すぎて、メイルの事を忘れさせてはくれない。
また、やいとがいる場所がメールではなくSeapeだというのもそれに拍車をかけている。
Seapeは、やいとのいる場所であると同時にメイルのいる場所でもあったのだから。
もう一つは、今までメイルに向けていた執着が、今度はその友人であり面影のあるやいとに向かいかけているという事への恐怖だ。
熱斗は以前、Seapeでメイルを見かける度に、自分に声をかけてくれないかと期待して、もしくは我慢できずに自分から声をかけていた。
当時の熱斗はメイルが大好きで大好きで仕方がなく、友人関係でしか無いと分かっていても尚愛の言葉を語った程であった。
けれど、メイルはいなくなってしまった、正確には熱斗の目の前からはいなくなってしまった。
熱斗がSeapeを開く意味は、その時点で一度消失したにも等しかった、それなのに、熱斗はつい一週間前まで、Seapeを開く事をやめなかった、それは何故か?
無論、それはそこに人間が、メイルではないといえどやいとという人間がいて、自分に声をかけてくれたからである。
熱斗は、メイルに見放されるという経験を経ても尚、他人に縋る事をやめられなかったのだ。
メールソフトに一通の新着メールも届いていない事を確認すると、熱斗はメールソフトを閉じた。
おそらく、この先何秒、何分、何時間、何日待ってもメールなど届くはずが無いからだ。
例え、もし何か新着通知があったとしても、それは多分、前々から入っている某アーティストAのファンクラブのお知らせか、このメールソフトで使っているアドレスを登録した他の大手サービスのお知らせ程度のハズだ。
そんな物、すぐに見る事が出来なくても大した問題は無い。
それよりも、そんな物が届いた事を、そんな物が届いただけだと知らずに新着通知だけを知った時の自分の淡い期待の方が、熱斗にとっては問題だった。
馬鹿の様に緊張しては、馬鹿の様に落胆する、それを既に幾度か繰り返している熱斗は、その繰り返しをもう演じたくないと心から願っている。
だから、もしも、万が一、知人(友人なんて、言えっこない)からメールが来たら、その時は、自分が最初に確認するのではなく、ロックマンが最初に確認して、きちんと知人(友達なんて、自分にはいない)からのメールだと確定した場合のみ、ロックマンが自分にそれを伝えてくればいい、それが最善策のハズだ、とも考えながら、熱斗はパソコンにPETの充電器を繋ぐと、机の横の床に投げ捨てるように置かれた鞄の中からPETを取り出して、充電器に乗せた。
カチッと軽い音を立てて、PETと充電器が接続され、PETの画面にロックマンの顔が映し出される。
「お疲れ、熱斗くん。いいお湯だった?」
「……別に。」
熱斗が大学を後にしてからずっと鞄の中にPETごと仕舞われたままのロックマンだったが、ロックマンはそれに不満や愚痴を漏らす事は無く笑顔で熱斗にシャワー後の感想を訊いてきた。
そんな、今でも昔と変わらずキラキラと輝いていて子供らしい純粋さを失わないロックマンの笑顔が、熱斗は大嫌いで仕方が無い。
ロックマンの輝かしい笑顔は、昔の熱斗には自分の事も輝かせてくれるような不思議な力を感じさせていたが、成長と共に何かを失い続け、過去の栄光も紙屑同然になり、唯の一つも希望が無い今の熱斗にとっては、足下の影をこれでもかというほど濃くして、目が痛くなるような不快な眩しさを感じさせるだけとなっている。
だから熱斗は、ロックマンのにこやかな問いかけに、そっけない一言だけを返してから机の前の椅子に座り、ロックマンの助けを必要としない、Webブラウザでのインターネットサーフィンを始めた。
ロックマンが僅かに寂しそうな顔をしたのは、きっと気のせいではないのだろうが、熱斗はそれを視界に入れようともしない。
それでもロックマンは熱斗と話すきっかけが欲しいのか、部屋の中をぐるりと見回して、一度PETの中に戻り、それから密かに充電器を通してパソコンの中に入り込むと、つい数日前まではいつも起動させてあったソフトが今は起動していない事に気付き、パソコンの画面の左下の方に小さな窓を開き、自身のとびきりの笑顔を見せて言った。
「ねぇ熱斗くん、メールソフトを起動し忘れてるよ! いつ誰からメールが来るかもわからないし、起動しておこっか?」
その瞬間、熱斗のマウスを動かす手がピタリと止まった。
ロックマンは一瞬、最近あまり自分の話を聞いてくれない熱斗が珍しく自分の話を聴いてくれた! と思って喜んだが、次の瞬間に熱斗から向けられた、凍てつかせるように冷たい侮蔑と、焼きつくすような怒りに満ちた視線に、その身を強張らせて驚いた、否、慄いた。
どうして、どうして熱斗はそんな、簡単に言ってしまえば“敵意”に満ちた目で此方を見てくるのだろうか、と困惑したロックマンが、新しい言葉を探して不安の中を彷徨っている間に、熱斗が口を開く。
「起動し忘れてるんじゃねぇよ……起動する必要が無いから起動してねぇんだよ……。」
それは地の底から響くように低く、獣が相手を威嚇している時の唸り声のような迫力を持ってロックマンの耳に届き、ロックマンは自分の両足が目の前にある熱斗の顔の映った窓から遠ざかろうとして勝手に後ずさるのを感じた。
今まで見てきたどんな悪人よりも鋭く、暗く、陰鬱で、憎悪と、憤怒に、満ちたその表情に、これは本当に自分が知っている熱斗なのだろうか? という、現実逃避に等しい疑問がロックマンの中に生まれる。
少なくともロックマンには、小学生時代までの明るく元気な熱斗が理想のロックマンには、目の前にいる人物があの熱斗だとは思えなかった、否、思いたくなかったのだ。
それでもロックマンは、此処で逃げては駄目だ、自分が諦めてしまったら熱斗はもう、本当の意味であの頃に戻れなくなる、ワイリーよりも、リーガルよりも、誰よりも暗い闇と病みにその心を沈めて鍵をかけてしまう、だから自分がそれを阻止しなければいけない、そして阻止できる力が自分にはある、と信じ、言葉を探す。
「そ、そっか……でもさ、ほら、そろそろ春休みだし、ライカあたりから遊びの誘いとかあるんじゃないかな? それに熱斗くん、数日前に来た炎山からのメールにもまだ返信してないでしょ? だから」
誰かが来ても困らないように、メールソフトを開いておこうよ、とロックマンが言おうとしたその瞬間、ガンッと強い打撃音がして、驚いたロックマンは言葉を途切れさせてしまった。
ロックマンはしばしの間何が起こったのか分からず、両目を見開いて熱斗の顔を凝視する。
熱斗はとても不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、少し俯いて唇を強く噛んでいる。
酷く苛立たしそうなその表情に、ロックマンはまた無意識の内に数歩後ずさった。
そして徐々に視線を画面の端に移し、打撃音の正体を確認する。
画面の端を見ると、パソコンのディスプレイの前に置かれたキーボードの横に、熱斗の強く握りしめた拳が置かれているのが見えた。
あぁ、おそらくアレで机を殴りつけてさっきの音をさせたのだろう、とロックマンは理解する。
理解して、それで何ができる?
未だ驚きが顔から消えきらないロックマンを睨んで、熱斗は声を荒らげた。
「……うるせぇ……んなもん来るはずねぇし、誰も俺の事なんか待っちゃいないんだよ!!」
どれだけ何をいい方向に考えようとしても、過去の経験と、見え始めた運命がそれを邪魔して、熱斗は一般的にプラス思考、ポジティブ思考と呼ばれる思考ができなくなっていた。
確かに、やいとは以前Seapeではなく熱斗のホームページで開かれた突発的なチャット会で、熱斗から声をかけてくれても構わないと言っていた。
ライカは、春休みになったら一緒に何処かへ行こうと前々から話をしていた。
炎山とは、これからも互いが互いを嫌いにならない限り永遠だと言い合っていた。
サロマは、自身がSeapeに入っている時に熱斗がSeapeをオンラインにすると高確率で話しかけてくれた。
みゆきも、サロマと一緒に熱斗の住む地域の近くまで遊びに来てくれた事もある。
プラス側に、ポジティブ側に考える事の出来る要素は沢山ある、ある、ある、けれど、
メイルは熱斗の面倒は見切れないと言って、勝手にしろと突き放した。
透も、熱斗の事をウザい、鬱陶しいと称してネット上での絶縁宣言を決行した。
そのたった二つの記憶が邪魔をして、徐々に誰も信じられなくなっていく。
何処の誰とどのように関係しようと、終着点はそこにある、そんな気がして、誰に触れる事も躊躇うようになっていく。
その一方で、誰かに触れていたい、誰かに受け入れられたい、誰かとこの手を繋ぎ合っていたいという思いも消えないものだから、熱斗は自身の体が心と同じように早く壊れて楽になれるように、頭を固い壁にぶつけてみたり、腕に浅い切り傷をつけてみたり、普段は処方箋通りにしか飲まない薬を処方箋に無い容量で飲んでみたりする事しかできない。
そして何より、そんな生活に、熱斗はもう、疲れきってしまった。
そしてたどり着いた結論は、誰かへの好意など無くなってしまえばいい、という、小学生時代とは真逆の結論だった。
今の熱斗の慟哭を聴いて尚、ロックマンはあの輝かしい時代と、輝かしい笑顔を諦めきれないのか、後ずさった両足を無理矢理前に進めて窓に近付く。
その根底には、こんなのはきっと熱斗の本心ではない、と信じる気持ち――否、信じていたい気持ちがある。
ロックマンにとっては飽く迄も、小学生の頃の、誰に触れるのも怖くなかった快活な熱斗が全てで、今の、誰に触れるのも怖くて、しかし誰かに触れていたくて、その間で葛藤して徐々に罅割れ壊れていく熱斗は、間違った存在でしかないのだ。
そして、ロックマンはその間違いとやらを正すべきだと思っている。
だから、
「そ、そんな事無いよ! 炎山だって、やいとちゃんだって、ライカだって、サロマさんやみゆきさんだって、みんな熱斗くんの事待ってるよ! だから、ね? 熱斗くんの方から少し勇気を出して声をかければ」
「黙れ!!」
きっとみんなもそれに応えてくれるよ、と言おうとしたロックマンだったが、それは熱斗の怒号によって遮られた。
今までで一番大きく一番怒りに満ちた声に怯え、ロックマンはやはり思わず後ずさって、自分の身を守る様に両腕で自分の体を抱きしめる。
「熱斗、くん……」
僅かな静寂の後にやっとの思いで出てきた言葉はそれだけで、ロックマンは呆然と、驚きと恐怖と不安に揺れる瞳で熱斗を見詰めていた。
その目は、こんなのは熱斗くんじゃない、とでも言いたげで、それが一層熱斗の苛立ちを加速させる。
そして熱斗は、これまで抱えてきた全てを自分の奥底に押しとどめる為の堤防が壊れてしまったのか、これまで幾度となく頭の中で繰り返していたやいと達への不満を爆発させた。
「お前の目は一体どこに着いてるんだよ!! 現実見やがれよな!! 炎山はツブヤイターの奴等にはすぐに返信するけど俺にはずいぶん遅れた返信しかしないし、やいとちゃんもライカもサロマさんもみゆきさんも俺なんかいなくたって他に代わりは沢山いる!! アイツ等のツブヤイター見て見ろよ!! 一体何人がアイツ等を慕ってると思う!? 多いヤツは二百人超えだぞ!? 今更、その中にすら入れない俺一人が欠けた所で誰が悲しむ!? 誰が寂しがる!? しかもムカつくのはそんな奴等に限って独りぼっちを気どってる事だよ!! 確かにリアルじゃ恵まれてないヤツも多少はいるのかもしれないけど、リア充じゃなくたってネト充できてるヤツの何処が独りぼっちだよ!? あの似非共!! 俺なんか、俺なんか、もう、何も残って無いのに……メイルちゃんに突き放されて、透くんに鬱陶しがられて、他の皆は俺の事なんか忘れて他の奴等との世界を作ってて、新しく声をかけてくれる人もいなくて……過去にも未来にも、それから今にも、縋れる人なんて誰もいないんだ……」
熱斗の声は最初こそ怒号と言うのに相応しく、近所迷惑にもなりそうな程の大声でかなりの迫力を携えていたが、終盤になるにつれてその力強さを失い、代わりに何か――それはおそらく涙だろう、それを堪えているような、弱々しく震えた声になっていた。
叫びだすような怒りは、泣きたくなるような悲しみを隠す目眩ましだったのかもしれない。
熱斗が本当に抱えているものは、怒りよりも、悲しみ――とりわけ、寂しさや孤独感なのだろう。
その証拠に、熱斗は力強さを失った声で、か細く嘆くように呟く。
「炎山の初めてのメル友も、やいとちゃんがホームページを作るきっかけも、全部俺だったのに、いつの間にか俺だけ置いて行かれて、置き去りにされて……そんな状況で、何が勇気だ、何が声をかければだ、そもそも透くんには声をかけたから嫌われたのに、また正面から嫌われろって言うのか? なぁ、ロックマン、お前は俺の何がそんなに憎くてそんな事強いって来るんだよ? お前がそういう事をする度に、俺は、お前さえも死んじゃえばいいって思うのに……お前さえ、信じられなくなるのに……。」
慟哭と言う程の破滅的な迫力は無かったが、嘆きとして見るならば十分すぎる言葉の羅列と、沈痛な面持ちに、ロックマンはかける言葉を完全に失ってしまった。
熱斗ではない、こんなものは絶対に熱斗ではない、という否定的な想いと、いや、形は変わってしまったかもしれないが、これも熱斗なのだ、だから受け入れて、サポートしていかなければいけない、という肯定的な想いの間で、ロックマンは揺れる。
同時に、もうあの頃の輝かしい笑顔は見られないのか、とか、自分との友情を信じてくれた熱斗はいないのか、だとか、様々な考えが思い浮んでロックマンを縛り上げる。
それら全てが、もうあの頃の熱斗はいない、この熱斗はあの熱斗ではない、とロックマンに告げていて、ロックマンの思いを片方に寄せた。
「……そう、じゃあもういいよ、勝手にすれば。」
自分の好きな熱斗はもうこの世にいない、そう判断したロックマンが出した答えは、熱斗にとって最低最悪で、残り少ないロックマンへの信頼を粉々に叩き割るものであった。
それは偶然か、それとも意図的か、熱斗には判断がつかなかったが、ロックマンの吐き捨てた言葉は熱斗の最新のトラウマを刺して抉っていて、熱斗は急激に悲しみよりも怒りが勝るのを感じた。
今までメイルだけに向けていた殺意が、ロックマンにも向き始める。
そして同時に、ほらみろ、やっぱりこうなるんじゃないか、という思いも湧き上がってきて、熱斗はそれまで机の上に乗せていただけだって右手を強く握りしめ、机を盛大に殴りつけた。
パソコンは重量があるからかさすがに動かなかったが、他に机の上に載せている物――マウスやPETの充電器が跳ね、PETが充電器から外れる。
熱斗は充電器から外れたPETを机の上から取り上げると、椅子から立ち上がり、PETを持った右腕を大きく振りかぶった。
そして熱斗は、PETを床に投げ捨てるように、否、叩きつけるように投げ捨てた。
熱斗なりの、ロックマンへの宣戦布告である。
「出て行け……この部屋から出て行け!!」
熱斗の怒号がロックマンに向けて飛ばされた。
ロックマンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに不機嫌そうな表情を作り、無言のまま自身を何処かへ転送してしまう。
その姿を見た熱斗は、ロックマンがパソコンの中からいなくなった事を確認するとその場で崩れ落ちるように膝をつき、俯いたまま動かなくなってしまった。
「っ……くうっ……うぅっ……」
そして動けなくなった熱斗は微かに声を漏らす。
それは、確かに泣き声だった。
両方の目から溢れて止まらない涙が床に小さな染みをいくつも作る、鼻の奥がツンと痛い、穏やかに呼吸をする事さえ許されない。
これは罪? それとも罰? いや、はたまた運命?
「っあ、うぁ……うああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
自分はメイルややいと達だけにとどまらず、ロックマンにも見放された、見捨てられた、価値は無いと見限られた、それを理解した熱斗は慟哭するがごとく叫び声を上げた。
はる香や祐一朗達は今頃そそくさと、医師の指示通り買い物にでも出かけた事だろう。
だから、熱斗の慟哭を聴く者は誰もいない。
「ああああああああああ、あああ、ああああああああ、あああああああああああああああああああああ゛!!」
何度も何度も、誰も耳を傾けてはくれない事を知りながらも慟哭して、喉に僅かな痛みを感じ始めたその時、熱斗は床に手をついてゆるゆると頼りなく立ち上がった。
そして、立ち上がった熱斗はゆっくりと部屋と廊下を繋ぐドアに向かって歩き出す。
ドアの前に立つと熱斗は外の気配を窺うようにしながら、ゆっくりとドアノブを回した。
廊下には人の気配はなく、その先に少しだけ見えるリビングにも人の気配、生活音はしてこない。
熱斗はゆっくりと部屋から廊下へ踏み出し、目の前の階段を下り始めた。
階段を下りて、廊下を通り、人のいないリビングに入る。
祐一朗とはる香は先ほどの言い争いを聴きつけて、此処ではない何処かへと避難したのだろう、と推測した熱斗は、一週間前と同じように、自分に処方された薬がまとめてある場所へと向かった。
そして今日は、前回とは別の、米粒のような形をした薬のシートを一枚取り出す。
その後熱斗がその薬をどうしたのかは、おそらく言うまでも無いだろう。
数分後、自室に戻った熱斗はパソコンの前に座っていた。
開いているのは、ネットナビを必要としないタイプのWebブラウザで、何を見ているのかと言うと、それは空白のページだった。
そう、熱斗はWebサイトの閲覧をしているのではなく、ブラウザの中身を少し整理しているのだ。
その時熱斗がお気に入りから削除したWebページが何かは、やはりこれも言うまでも無いのではないだろうか。
そして、Webブラウザの中の掃除が終わると、熱斗は新たにメモ帳の小窓を開き、何かを打ち込み始めた。
――繋いだ手は固く握られているものだと思っていた。
だからもしも自分が力を抜いたとしても、相手の手が離れる事は無いと思っていた。
自分の手が相手の手を強く握る様に、相手の手も自分の手を強く握っているものだと思っていた。
しかし、自分が力を抜いたその瞬間、その手は此方の手をするりと滑るように抜けていき、何処かへ消えてしまった。
そして、帰ってくる事は無かった。
その時、嗚呼所詮、相手を欲していたのは自分だけで、相手にとって自分は必要なものではなかったのだと気付いた、気付いてしまった。
もしも、“それは違うよ!”と言うのなら、今すぐこの手を握って見せろ、離さないと誓って見せろ。
できないと言うのなら、お前に非難の資格は無い。
そしてそれは、この手は誰にも握られない事の証明になる。
だから俺は、お前ら全ての死を願う。
嘘吐きの、お前らの。――
そして熱斗はそれを鍵付きで保存すると、パソコンの電源を落とした。
End.
それは、大した意味も無い小さなOD(オーバードーズ)と、誰に届く事も無い慟哭から約一週間が経った頃の事。
その日の夜、大学から帰宅して夕飯と入浴を済ませた熱斗は、いつもの様に自室に入り、いつもの様にパソコンの電源を入れていた。
濡れた髪を櫛で梳かしながらパソコンの立ち上げが終わるのを待ち、やがて画面いっぱいに好きなアニメの公式サイトからダウンロードした壁紙が見えるようになると、熱斗はすぐにマウスを動かして、画面の左端にあるアイコンの集まりからメールソフトを選び、ダブルクリックする。
それから十秒ほど待つと、メールソフトは音を立てずに起動を始め、画面いっぱいに白背景の窓を開いて、すぐさまメッセージの送受信を始めた。
と言っても、その送受信は一種の儀式めいたものでしか無く、熱斗のパソコンの中に未送信のメッセージは無く、また熱斗の使っているメールアドレスのサーバーにも熱斗へ宛てたメッセージが来ているという事は無い。
画面の右下の隅っこに表示された、新着メッセージなし、の表示が熱斗の胸を微かに抉る。
やいとに見える形で自分の愛憎と苦しみの一端を吐き出してから早一週間が経とうとしている。
熱斗はあの日以来、やいとを含む全ての知人(知っている人、なんて傲慢な思い違いかもしれないけれど)の動向を観察することをやめた。
熱斗が動向を観察していた相手は、やいと以外では主にライカ、炎山、そしてサロマとみゆきの四人が主だ。
本当はもう一人、メイルの動向もよく窺っていたのだが、それはもはや過去の事だ。
メイルはもう、一秒でも早く、少しでも惨たらしく死んでほしい相手でしか無い、その事実が、熱斗の心を、ダークチップも無いというのに深く、歪に捻じ曲げている。
そしてそれは、熱斗とメイルの共通の友人であり、熱斗よりも本来はメイルと仲が良いやいととの関係性にも影を落とし始めていた。
その一つは、やいとの存在を目にする度、メイルの存在の痕跡が脳裏にチラつくという事だ。
メイルと決別してから早一ヶ月が経とうとしているが、その間に熱斗は何度かやいとと話す機会があった。
その度に熱斗は、やいとがメイルの事を話題に出すのではないか、もしくはメイルがやいとに何か告げ口をしているのではないかと不安になり、同時にメイルの存在を思い出しては友人(知人、の方が正しいのかもしれない)として愛した故の憎悪に囚われ、その心を少しずつ削られてきた。
自分の精一杯の謝罪も贖罪も跳ね除けて“勝手にしろ”とだけ言い捨てたメイルを思い出すと、今でも頭の中が愛憎で満たされて、本当に勝手にしていいのなら、これでもかと言うほどの愛を垂れ流して送ってもいいのだぞ、と脅迫めいた思いが脳裏を過る。
しかし熱斗は正直な所、そんな自分に対して疲れ切っており、できればメイルを思い出す事なく忘れる事を優先したいという思いも強かった。
それなのに、やいとはメイルと友達(熱斗とやいと、熱斗とメイルは友達かどうかわからないというのに)という印象が強すぎて、メイルの事を忘れさせてはくれない。
また、やいとがいる場所がメールではなくSeapeだというのもそれに拍車をかけている。
Seapeは、やいとのいる場所であると同時にメイルのいる場所でもあったのだから。
もう一つは、今までメイルに向けていた執着が、今度はその友人であり面影のあるやいとに向かいかけているという事への恐怖だ。
熱斗は以前、Seapeでメイルを見かける度に、自分に声をかけてくれないかと期待して、もしくは我慢できずに自分から声をかけていた。
当時の熱斗はメイルが大好きで大好きで仕方がなく、友人関係でしか無いと分かっていても尚愛の言葉を語った程であった。
けれど、メイルはいなくなってしまった、正確には熱斗の目の前からはいなくなってしまった。
熱斗がSeapeを開く意味は、その時点で一度消失したにも等しかった、それなのに、熱斗はつい一週間前まで、Seapeを開く事をやめなかった、それは何故か?
無論、それはそこに人間が、メイルではないといえどやいとという人間がいて、自分に声をかけてくれたからである。
熱斗は、メイルに見放されるという経験を経ても尚、他人に縋る事をやめられなかったのだ。
メールソフトに一通の新着メールも届いていない事を確認すると、熱斗はメールソフトを閉じた。
おそらく、この先何秒、何分、何時間、何日待ってもメールなど届くはずが無いからだ。
例え、もし何か新着通知があったとしても、それは多分、前々から入っている某アーティストAのファンクラブのお知らせか、このメールソフトで使っているアドレスを登録した他の大手サービスのお知らせ程度のハズだ。
そんな物、すぐに見る事が出来なくても大した問題は無い。
それよりも、そんな物が届いた事を、そんな物が届いただけだと知らずに新着通知だけを知った時の自分の淡い期待の方が、熱斗にとっては問題だった。
馬鹿の様に緊張しては、馬鹿の様に落胆する、それを既に幾度か繰り返している熱斗は、その繰り返しをもう演じたくないと心から願っている。
だから、もしも、万が一、知人(友人なんて、言えっこない)からメールが来たら、その時は、自分が最初に確認するのではなく、ロックマンが最初に確認して、きちんと知人(友達なんて、自分にはいない)からのメールだと確定した場合のみ、ロックマンが自分にそれを伝えてくればいい、それが最善策のハズだ、とも考えながら、熱斗はパソコンにPETの充電器を繋ぐと、机の横の床に投げ捨てるように置かれた鞄の中からPETを取り出して、充電器に乗せた。
カチッと軽い音を立てて、PETと充電器が接続され、PETの画面にロックマンの顔が映し出される。
「お疲れ、熱斗くん。いいお湯だった?」
「……別に。」
熱斗が大学を後にしてからずっと鞄の中にPETごと仕舞われたままのロックマンだったが、ロックマンはそれに不満や愚痴を漏らす事は無く笑顔で熱斗にシャワー後の感想を訊いてきた。
そんな、今でも昔と変わらずキラキラと輝いていて子供らしい純粋さを失わないロックマンの笑顔が、熱斗は大嫌いで仕方が無い。
ロックマンの輝かしい笑顔は、昔の熱斗には自分の事も輝かせてくれるような不思議な力を感じさせていたが、成長と共に何かを失い続け、過去の栄光も紙屑同然になり、唯の一つも希望が無い今の熱斗にとっては、足下の影をこれでもかというほど濃くして、目が痛くなるような不快な眩しさを感じさせるだけとなっている。
だから熱斗は、ロックマンのにこやかな問いかけに、そっけない一言だけを返してから机の前の椅子に座り、ロックマンの助けを必要としない、Webブラウザでのインターネットサーフィンを始めた。
ロックマンが僅かに寂しそうな顔をしたのは、きっと気のせいではないのだろうが、熱斗はそれを視界に入れようともしない。
それでもロックマンは熱斗と話すきっかけが欲しいのか、部屋の中をぐるりと見回して、一度PETの中に戻り、それから密かに充電器を通してパソコンの中に入り込むと、つい数日前まではいつも起動させてあったソフトが今は起動していない事に気付き、パソコンの画面の左下の方に小さな窓を開き、自身のとびきりの笑顔を見せて言った。
「ねぇ熱斗くん、メールソフトを起動し忘れてるよ! いつ誰からメールが来るかもわからないし、起動しておこっか?」
その瞬間、熱斗のマウスを動かす手がピタリと止まった。
ロックマンは一瞬、最近あまり自分の話を聞いてくれない熱斗が珍しく自分の話を聴いてくれた! と思って喜んだが、次の瞬間に熱斗から向けられた、凍てつかせるように冷たい侮蔑と、焼きつくすような怒りに満ちた視線に、その身を強張らせて驚いた、否、慄いた。
どうして、どうして熱斗はそんな、簡単に言ってしまえば“敵意”に満ちた目で此方を見てくるのだろうか、と困惑したロックマンが、新しい言葉を探して不安の中を彷徨っている間に、熱斗が口を開く。
「起動し忘れてるんじゃねぇよ……起動する必要が無いから起動してねぇんだよ……。」
それは地の底から響くように低く、獣が相手を威嚇している時の唸り声のような迫力を持ってロックマンの耳に届き、ロックマンは自分の両足が目の前にある熱斗の顔の映った窓から遠ざかろうとして勝手に後ずさるのを感じた。
今まで見てきたどんな悪人よりも鋭く、暗く、陰鬱で、憎悪と、憤怒に、満ちたその表情に、これは本当に自分が知っている熱斗なのだろうか? という、現実逃避に等しい疑問がロックマンの中に生まれる。
少なくともロックマンには、小学生時代までの明るく元気な熱斗が理想のロックマンには、目の前にいる人物があの熱斗だとは思えなかった、否、思いたくなかったのだ。
それでもロックマンは、此処で逃げては駄目だ、自分が諦めてしまったら熱斗はもう、本当の意味であの頃に戻れなくなる、ワイリーよりも、リーガルよりも、誰よりも暗い闇と病みにその心を沈めて鍵をかけてしまう、だから自分がそれを阻止しなければいけない、そして阻止できる力が自分にはある、と信じ、言葉を探す。
「そ、そっか……でもさ、ほら、そろそろ春休みだし、ライカあたりから遊びの誘いとかあるんじゃないかな? それに熱斗くん、数日前に来た炎山からのメールにもまだ返信してないでしょ? だから」
誰かが来ても困らないように、メールソフトを開いておこうよ、とロックマンが言おうとしたその瞬間、ガンッと強い打撃音がして、驚いたロックマンは言葉を途切れさせてしまった。
ロックマンはしばしの間何が起こったのか分からず、両目を見開いて熱斗の顔を凝視する。
熱斗はとても不機嫌そうに眉間にシワを寄せ、少し俯いて唇を強く噛んでいる。
酷く苛立たしそうなその表情に、ロックマンはまた無意識の内に数歩後ずさった。
そして徐々に視線を画面の端に移し、打撃音の正体を確認する。
画面の端を見ると、パソコンのディスプレイの前に置かれたキーボードの横に、熱斗の強く握りしめた拳が置かれているのが見えた。
あぁ、おそらくアレで机を殴りつけてさっきの音をさせたのだろう、とロックマンは理解する。
理解して、それで何ができる?
未だ驚きが顔から消えきらないロックマンを睨んで、熱斗は声を荒らげた。
「……うるせぇ……んなもん来るはずねぇし、誰も俺の事なんか待っちゃいないんだよ!!」
どれだけ何をいい方向に考えようとしても、過去の経験と、見え始めた運命がそれを邪魔して、熱斗は一般的にプラス思考、ポジティブ思考と呼ばれる思考ができなくなっていた。
確かに、やいとは以前Seapeではなく熱斗のホームページで開かれた突発的なチャット会で、熱斗から声をかけてくれても構わないと言っていた。
ライカは、春休みになったら一緒に何処かへ行こうと前々から話をしていた。
炎山とは、これからも互いが互いを嫌いにならない限り永遠だと言い合っていた。
サロマは、自身がSeapeに入っている時に熱斗がSeapeをオンラインにすると高確率で話しかけてくれた。
みゆきも、サロマと一緒に熱斗の住む地域の近くまで遊びに来てくれた事もある。
プラス側に、ポジティブ側に考える事の出来る要素は沢山ある、ある、ある、けれど、
メイルは熱斗の面倒は見切れないと言って、勝手にしろと突き放した。
透も、熱斗の事をウザい、鬱陶しいと称してネット上での絶縁宣言を決行した。
そのたった二つの記憶が邪魔をして、徐々に誰も信じられなくなっていく。
何処の誰とどのように関係しようと、終着点はそこにある、そんな気がして、誰に触れる事も躊躇うようになっていく。
その一方で、誰かに触れていたい、誰かに受け入れられたい、誰かとこの手を繋ぎ合っていたいという思いも消えないものだから、熱斗は自身の体が心と同じように早く壊れて楽になれるように、頭を固い壁にぶつけてみたり、腕に浅い切り傷をつけてみたり、普段は処方箋通りにしか飲まない薬を処方箋に無い容量で飲んでみたりする事しかできない。
そして何より、そんな生活に、熱斗はもう、疲れきってしまった。
そしてたどり着いた結論は、誰かへの好意など無くなってしまえばいい、という、小学生時代とは真逆の結論だった。
今の熱斗の慟哭を聴いて尚、ロックマンはあの輝かしい時代と、輝かしい笑顔を諦めきれないのか、後ずさった両足を無理矢理前に進めて窓に近付く。
その根底には、こんなのはきっと熱斗の本心ではない、と信じる気持ち――否、信じていたい気持ちがある。
ロックマンにとっては飽く迄も、小学生の頃の、誰に触れるのも怖くなかった快活な熱斗が全てで、今の、誰に触れるのも怖くて、しかし誰かに触れていたくて、その間で葛藤して徐々に罅割れ壊れていく熱斗は、間違った存在でしかないのだ。
そして、ロックマンはその間違いとやらを正すべきだと思っている。
だから、
「そ、そんな事無いよ! 炎山だって、やいとちゃんだって、ライカだって、サロマさんやみゆきさんだって、みんな熱斗くんの事待ってるよ! だから、ね? 熱斗くんの方から少し勇気を出して声をかければ」
「黙れ!!」
きっとみんなもそれに応えてくれるよ、と言おうとしたロックマンだったが、それは熱斗の怒号によって遮られた。
今までで一番大きく一番怒りに満ちた声に怯え、ロックマンはやはり思わず後ずさって、自分の身を守る様に両腕で自分の体を抱きしめる。
「熱斗、くん……」
僅かな静寂の後にやっとの思いで出てきた言葉はそれだけで、ロックマンは呆然と、驚きと恐怖と不安に揺れる瞳で熱斗を見詰めていた。
その目は、こんなのは熱斗くんじゃない、とでも言いたげで、それが一層熱斗の苛立ちを加速させる。
そして熱斗は、これまで抱えてきた全てを自分の奥底に押しとどめる為の堤防が壊れてしまったのか、これまで幾度となく頭の中で繰り返していたやいと達への不満を爆発させた。
「お前の目は一体どこに着いてるんだよ!! 現実見やがれよな!! 炎山はツブヤイターの奴等にはすぐに返信するけど俺にはずいぶん遅れた返信しかしないし、やいとちゃんもライカもサロマさんもみゆきさんも俺なんかいなくたって他に代わりは沢山いる!! アイツ等のツブヤイター見て見ろよ!! 一体何人がアイツ等を慕ってると思う!? 多いヤツは二百人超えだぞ!? 今更、その中にすら入れない俺一人が欠けた所で誰が悲しむ!? 誰が寂しがる!? しかもムカつくのはそんな奴等に限って独りぼっちを気どってる事だよ!! 確かにリアルじゃ恵まれてないヤツも多少はいるのかもしれないけど、リア充じゃなくたってネト充できてるヤツの何処が独りぼっちだよ!? あの似非共!! 俺なんか、俺なんか、もう、何も残って無いのに……メイルちゃんに突き放されて、透くんに鬱陶しがられて、他の皆は俺の事なんか忘れて他の奴等との世界を作ってて、新しく声をかけてくれる人もいなくて……過去にも未来にも、それから今にも、縋れる人なんて誰もいないんだ……」
熱斗の声は最初こそ怒号と言うのに相応しく、近所迷惑にもなりそうな程の大声でかなりの迫力を携えていたが、終盤になるにつれてその力強さを失い、代わりに何か――それはおそらく涙だろう、それを堪えているような、弱々しく震えた声になっていた。
叫びだすような怒りは、泣きたくなるような悲しみを隠す目眩ましだったのかもしれない。
熱斗が本当に抱えているものは、怒りよりも、悲しみ――とりわけ、寂しさや孤独感なのだろう。
その証拠に、熱斗は力強さを失った声で、か細く嘆くように呟く。
「炎山の初めてのメル友も、やいとちゃんがホームページを作るきっかけも、全部俺だったのに、いつの間にか俺だけ置いて行かれて、置き去りにされて……そんな状況で、何が勇気だ、何が声をかければだ、そもそも透くんには声をかけたから嫌われたのに、また正面から嫌われろって言うのか? なぁ、ロックマン、お前は俺の何がそんなに憎くてそんな事強いって来るんだよ? お前がそういう事をする度に、俺は、お前さえも死んじゃえばいいって思うのに……お前さえ、信じられなくなるのに……。」
慟哭と言う程の破滅的な迫力は無かったが、嘆きとして見るならば十分すぎる言葉の羅列と、沈痛な面持ちに、ロックマンはかける言葉を完全に失ってしまった。
熱斗ではない、こんなものは絶対に熱斗ではない、という否定的な想いと、いや、形は変わってしまったかもしれないが、これも熱斗なのだ、だから受け入れて、サポートしていかなければいけない、という肯定的な想いの間で、ロックマンは揺れる。
同時に、もうあの頃の輝かしい笑顔は見られないのか、とか、自分との友情を信じてくれた熱斗はいないのか、だとか、様々な考えが思い浮んでロックマンを縛り上げる。
それら全てが、もうあの頃の熱斗はいない、この熱斗はあの熱斗ではない、とロックマンに告げていて、ロックマンの思いを片方に寄せた。
「……そう、じゃあもういいよ、勝手にすれば。」
自分の好きな熱斗はもうこの世にいない、そう判断したロックマンが出した答えは、熱斗にとって最低最悪で、残り少ないロックマンへの信頼を粉々に叩き割るものであった。
それは偶然か、それとも意図的か、熱斗には判断がつかなかったが、ロックマンの吐き捨てた言葉は熱斗の最新のトラウマを刺して抉っていて、熱斗は急激に悲しみよりも怒りが勝るのを感じた。
今までメイルだけに向けていた殺意が、ロックマンにも向き始める。
そして同時に、ほらみろ、やっぱりこうなるんじゃないか、という思いも湧き上がってきて、熱斗はそれまで机の上に乗せていただけだって右手を強く握りしめ、机を盛大に殴りつけた。
パソコンは重量があるからかさすがに動かなかったが、他に机の上に載せている物――マウスやPETの充電器が跳ね、PETが充電器から外れる。
熱斗は充電器から外れたPETを机の上から取り上げると、椅子から立ち上がり、PETを持った右腕を大きく振りかぶった。
そして熱斗は、PETを床に投げ捨てるように、否、叩きつけるように投げ捨てた。
熱斗なりの、ロックマンへの宣戦布告である。
「出て行け……この部屋から出て行け!!」
熱斗の怒号がロックマンに向けて飛ばされた。
ロックマンは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに不機嫌そうな表情を作り、無言のまま自身を何処かへ転送してしまう。
その姿を見た熱斗は、ロックマンがパソコンの中からいなくなった事を確認するとその場で崩れ落ちるように膝をつき、俯いたまま動かなくなってしまった。
「っ……くうっ……うぅっ……」
そして動けなくなった熱斗は微かに声を漏らす。
それは、確かに泣き声だった。
両方の目から溢れて止まらない涙が床に小さな染みをいくつも作る、鼻の奥がツンと痛い、穏やかに呼吸をする事さえ許されない。
これは罪? それとも罰? いや、はたまた運命?
「っあ、うぁ……うああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
自分はメイルややいと達だけにとどまらず、ロックマンにも見放された、見捨てられた、価値は無いと見限られた、それを理解した熱斗は慟哭するがごとく叫び声を上げた。
はる香や祐一朗達は今頃そそくさと、医師の指示通り買い物にでも出かけた事だろう。
だから、熱斗の慟哭を聴く者は誰もいない。
「ああああああああああ、あああ、ああああああああ、あああああああああああああああああああああ゛!!」
何度も何度も、誰も耳を傾けてはくれない事を知りながらも慟哭して、喉に僅かな痛みを感じ始めたその時、熱斗は床に手をついてゆるゆると頼りなく立ち上がった。
そして、立ち上がった熱斗はゆっくりと部屋と廊下を繋ぐドアに向かって歩き出す。
ドアの前に立つと熱斗は外の気配を窺うようにしながら、ゆっくりとドアノブを回した。
廊下には人の気配はなく、その先に少しだけ見えるリビングにも人の気配、生活音はしてこない。
熱斗はゆっくりと部屋から廊下へ踏み出し、目の前の階段を下り始めた。
階段を下りて、廊下を通り、人のいないリビングに入る。
祐一朗とはる香は先ほどの言い争いを聴きつけて、此処ではない何処かへと避難したのだろう、と推測した熱斗は、一週間前と同じように、自分に処方された薬がまとめてある場所へと向かった。
そして今日は、前回とは別の、米粒のような形をした薬のシートを一枚取り出す。
その後熱斗がその薬をどうしたのかは、おそらく言うまでも無いだろう。
数分後、自室に戻った熱斗はパソコンの前に座っていた。
開いているのは、ネットナビを必要としないタイプのWebブラウザで、何を見ているのかと言うと、それは空白のページだった。
そう、熱斗はWebサイトの閲覧をしているのではなく、ブラウザの中身を少し整理しているのだ。
その時熱斗がお気に入りから削除したWebページが何かは、やはりこれも言うまでも無いのではないだろうか。
そして、Webブラウザの中の掃除が終わると、熱斗は新たにメモ帳の小窓を開き、何かを打ち込み始めた。
――繋いだ手は固く握られているものだと思っていた。
だからもしも自分が力を抜いたとしても、相手の手が離れる事は無いと思っていた。
自分の手が相手の手を強く握る様に、相手の手も自分の手を強く握っているものだと思っていた。
しかし、自分が力を抜いたその瞬間、その手は此方の手をするりと滑るように抜けていき、何処かへ消えてしまった。
そして、帰ってくる事は無かった。
その時、嗚呼所詮、相手を欲していたのは自分だけで、相手にとって自分は必要なものではなかったのだと気付いた、気付いてしまった。
もしも、“それは違うよ!”と言うのなら、今すぐこの手を握って見せろ、離さないと誓って見せろ。
できないと言うのなら、お前に非難の資格は無い。
そしてそれは、この手は誰にも握られない事の証明になる。
だから俺は、お前ら全ての死を願う。
嘘吐きの、お前らの。――
そして熱斗はそれを鍵付きで保存すると、パソコンの電源を落とした。
End.
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