暗い休日

【暗い休日】

それは、光 熱斗が大学生になって初めての冬休みの、その後のある休日の事だった。

その日は土曜日で、熱斗は此処数年のいつも通り、パソコンの前に座りながら、Webブラウザを使用したインターネットサーフィンに興じていた。
見るのはいつも通り、大型掲示板にせんちゃんねるのまとめブログと、辛うじて繋がっているかもしれない知人(友人、友達と言っていいのかどうかは、熱斗にはもうとうの昔に分からなくなっている)のツブヤイターと、自分のホームページの編集画面と、ニヤニヤ動画だ。
先ほど自分のホームページの編集画面を見て、そのアクセスの少なさとコメントの少なさに少々の落胆を覚えた熱斗は今、大型掲示板にせんちゃんねるのまとめブログを見ている。
日頃から通学中の暇つぶしに見ているブログは勿論、普段は見ないブログも普段見るブログのリンクや新着情報を辿って訪れてみて、おかしな記事を見つけては極力声を出さずに、喉の奥だけで独り笑う。
あまり大きな声で笑うと後で母親が、誰かと話していたのか? と訊いてきて煩わしいのだ。
誰かと話すなんて、そうそうできるものではないし、少なくとも此方から申し込めるものではないのに。

そうしてにせんちゃんねるまとめブログや、ニヤニヤ動画の新着動画を漁っていると、突如熱斗の目の前のパソコンがピピッと何かの通知音を鳴らした。
いきなりの通知音に、それまでぼんやりと画面を見ながらネットサーフィンに興じていた熱斗は、思わず肩を上下させて驚く。
それからふと画面の右下を見ると、そこにはある通知が表示されているのが見えた。

『“綾小路 やいと”がオンラインになりました。』

それを見た熱斗は、そう言えばパソコン通話サービスSeape(シープ)をオンラインにしていたのだったか、と、通知が来た原因を思い出す。
綾小路 やいとは熱斗が今でも知人(重ね重ね言うが、熱斗にはもう友人という言葉を使っていいのかどうかは分からない)の枠になんとか入っていると思っている人間で、熱斗はたまにやいととこのSeapeを使って話す事があった。
と言っても、それはここ半年の事であり、半年前までやいとと熱斗は約一年以上もの間メールの一通も交わさずにいて、半年より更に以前にSeapeへ仮復帰した熱斗が勇気を出してメールを入れなければ永遠の別れが訪れていたのかもしれない程度の関係だが。
それでも熱斗は最初、やいとが熱斗を忘れていた訳ではないらしい事を喜んだ、そしてSeapeのアドレス帳にやいとの名前を再び加えた。
それ以来、やいとはたまに熱斗に話しかけてきてくれるようになったのだ。

とは言ってもやいともいつも熱斗を構ってくれるわけではない。
例え同じ時刻に熱斗とやいとの両方がSeapeを起動していても、やいとは熱斗に話しかけずにSeapeを閉じてしまう事も多々ある。
そして今日はその代表例と言ってもいい日なのか、熱斗がいくら待ってもやいとが熱斗に話しかけてくる様子は無く、熱斗が画面の左端に開いたSeapeの小窓に、メッセージの新着通知は来ていない。
熱斗はちょっとした悔しさから僅かに苛立つのを感じながら、Seapeの小窓を閉じた。

「熱斗くん、やいとちゃんに話しかけないの?」

すると何時からそこにいたのか、充電器に置かれたPETの外、机の上にホログラムで現れていたロックマンが熱斗に声をかけてきた。
どうやらロックマンはSeapeの通知音を聞いて様子を見に来たらしい。
熱斗は視線をパソコンの画面からロックマンに向けた。
ロックマンの透明感のある黄緑色の目から延びる真っ直ぐなと視線がぶつかる。
突如、熱斗の体の隅々まで、嫌悪感としか言いようの無い苛立ちが走り抜けた。

「いいんだよ、別に。」

熱斗は不機嫌そうに吐き捨てるとロックマンから視線をスッと逸らし、パソコンの画面に戻す。
机の上のロックマンは何処か納得がいかなそうな顔をしているが、それは熱斗には視界の端の風景の一部程度にしか見えない、その程度にしか見たくない。
最近のロックマンはもはや熱斗にとって毒や棘にしかならない言葉しか言わないから、熱斗はロックマンにこれ以上関わりたくないのだ。
そうして熱斗はにせんちゃんねるまとめブログの閲覧を再開するが、ロックマンはそんな熱斗の思いを知ってか知らずか、多分知っているのだろうが、それでも尚ロックマンにとっては友人に溢れた小学生時代の熱斗が全てらしく、今の熱斗が苛立つような事を簡単に口にする。

「でも熱斗くん、やいとちゃんがオンラインになった時、なんだか嬉しそうな顔してたよ? ホントは話したいんじゃないの?」

ロックマンは熱斗の手元へ歩み寄り、その顔を覗き込むようにしながらそう言った。
自分は熱斗の幸せを願って言っている、と言いたげなロックマンの声に対して、熱斗の頭の中には“煩い、死ね”の二言が浮かんでくる。
心臓もドクドクと強く脈打ち始めて、強い動悸が熱斗を襲った。
その心臓から送られてくるのだろうか、とてつもない嫌悪感と苛立ちが頭の中に溢れてきて止まらない。
誰が嬉しそうな顔などするものか、誰がそんな事を喜ぶものか、そんな攻撃的な感情が湧きあがって、熱斗はロックマンをこの手で殴り倒せたらいいのにと思う。
熱斗はキーボードの横に置いた手をぎゅっと強く、爪が掌に食い込む強さで握りしめた。
そんな熱斗の様子を、熱斗は本当はやいとと話したいのに我慢をしているんだろう、と思ったロックマンは言葉を続ける。

「ねぇ、勇気を出して! 話しかけてみればきっと何て事なく――」

話せるよ、とロックマンが言いきろうとした瞬間、熱斗は強く強く握りしめた拳を机から持ち上げ、勢い良く机に叩きつけた。
ガンッ! と大きな打撃音がして、机の上のものが僅かに跳ね、充電器に立てかけられたPETは倒れて、それら全てに驚いたロックマンが両手で口を塞ぎながら目を見張る。
その驚きに満ちた表情は、熱斗が机を殴りつけた意味など微塵も察していないようで、自分は何もおかしな事を言っていないのに熱斗が急に怒りだしたので訳が分からない、とでも言いたげだ。
それが、熱斗の苛立ちを余計に加速させている事も、ロックマンは察していないし、察する気も無いだろう。

とは言っても、熱斗が怒っているのはロックマンの言っている事が熱斗の意思に全く沿わないからなのかと言うと、それは少し違うと言わざるをえない。
むしろ、熱斗が怒っているのはロックマンの言っている事が自分の奥の奥にある、やいとが現れた事に対する本来の欲求を言い当ててしまっているからなのである。
そう、やいとがSeapeをオンラインにした時に、熱斗が嬉しそうな顔をしたというのは、ロックマンの幻覚や勘違いではなく本当の事で、熱斗はやいとがSeapeに現れた時、もしかしたら声をかけてくれるかもしれないという期待を抱いていた。

だが、現実はどうだろう? 勿論、そんな都合のいい事は起こる訳が無い。
結局、一分待っても二分待っても、五分待ってもやいとが熱斗に話しかける事は無く、熱斗は今のやいとには熱斗を構う気など無いのだと認めざるをえなくなってしまったのだ。
それは、熱斗にとってとても悔しい事で、とても悲しい事で、とても寂しい事で、熱斗はそれを真っ直ぐな気持ちで認める事が出来なかった。
どうして声をかけてくれないんだ、とやいとを非難する気持ちと、どうせ自分なんかがやいとのようにオンでもオフでも交流に満ちた所謂リア充兼ネト充なんぞに相手にされる訳は無いのだ、という諦めの気持ちがグチャグチャに混ざって、内蔵が掻き回されるような、頭を殴打されるような嫌な感覚と、やいとと自分の両方への苛立ちが熱斗を蝕む。
それでも熱斗は表面上は平静を装って、やいとへの非難も自分への諦めも見ないふりをして済まそうと思ってSeapeの小窓を閉じた、嗚呼それなのに、ロックマンは熱斗が目を逸らしたはずの苛立ちの原因を目の前に突き出して、あまつさえ熱斗にそれへ対して働きかけろと言う。
これは何の罰だ、これは何の拷問だ、と熱斗が思うのも無理は無いだろう。
確かに、やいとに話しかけたいと思った自分がいない訳ではない、けれど、相手が話したくないというのに話しかけるなどという芸当は、今の熱斗にはできる訳も無いのだ。
特に、やいとの同性の親友、メイルに見限られた後の今の熱斗には、決して。

机に叩きつけたキーボードの横の右手から徐々に力を抜き、くい込んでいた爪のせいで余計な凹凸ができた掌をパソコンのマウスに乗せ、熱斗はSeapeの小窓を開いた。
しかしそれは、やいとと話す為ではない。
熱斗はその小窓から自分のプロフィールを表示するボタンを探し、プロフィールを表示した。
そこには自分の名前と、一言メッセージの二つが記入されていて、メッセージには暗くも無いが明るくも無い、ある時ただぼんやりと考えた事が載っている。

「……熱斗くん、プロフィールなんて開いてどうするの?」

まだ先ほどの驚きから解放され切らない様子のロックマンが、恐る恐るといった調子で熱斗に問いかけてきた。
だが熱斗はそれを無視して、プロフィールの書き換えを始める。
まず、自分の名前の欄を選択すると、光 熱斗と入力してあるそれを消す。
そして代わりに、“サヨナラ”の四文字を入れると、熱斗はエンターキーを押した。
熱斗の左手の近くでは、ロックマンが呆然として、サヨナラって何? と言いたげな様子でそれを見ている。
次に熱斗は、一言メッセージを一度全て消し、新しい文を打ち始めた。
その文面を見て、ロックマンがいよいよ焦り出す。

「ね、熱斗くん、こんなの駄目だよ! やめようよ!」

しかし熱斗はロックマンに反論する事も無ければ同意する事も無く、そのメッセージを書き変え続けた。
それは、小学生時代の熱斗からしたら書ける筈の無い文で、しかし今となっては何処か仕方の無いような、嗚呼自分はこんなにも欠陥品で不良品だったのかという悲しみに、熱斗の頬に一筋の涙が伝った。
ロックマンが、先ほどとは別の意味で驚いた顔をしているが、熱斗はそれを無視して洋服の袖で涙を拭い、エンターキーを押す。
そうして熱斗のSeapeプロフィールの一言メッセージ欄には、全ての知人(何度も言うが、友人かどうかはもう分からず、感じるのは己の一方的な好意のみだ)に対して平等な死を望む、呪いのような言葉が載る事となった。
そして、もうそれらの知人(かつては友人だったかもしれない、遠い誰か)への“好意”に振り回されるのは疲れた、という言葉も。
やいと、及びライカやデカオ達がこれを見るのはいつになるだろう?
少なくとも、やいとは今日の内にこのメッセージを見て、光 熱斗には自分が好くだけの価値は無いと判断して、熱斗の存歳を自分のなかから廃棄し、忘却する事を選ぶのだろうが。

「熱斗くん……。」

ロックマンの哀れむような声が耳に痛い。
熱斗はそれを聞かなくていいようにするため、両耳にイヤホンを装着するとニヤニヤ動画を開いて、皆のトラウマと言われがちな某ゲームの暗いメロディが付けられた動画を開き、再生する。
ポップスと言われるような明るい曲は、一切聴く気にならなかった。
そして熱斗は、Seapeをオンラインからオフラインに変更し、その小窓を閉じる。
代わりに、目の前のパソコンのコントロールパネルを開き、プログラムの追加と削除の画面を開いた。
数秒間待つと、このパソコンにインストールされている多くのプログラムが小さな窓に表示されて、熱斗はその一覧を徐々に下にスクロールし、とあるプログラムを探す。
そして見つかったそのプログラムは、Seapeだった。

「熱斗くん、まさか……。」

暗いメロディに混じってロックマンの声がかすかに聞こえたが、やはり熱斗はそれを無視してSeapeのプログラムを選択すると、削除実行のボタンを押した。
パソコンが最後の警告だと言わんばかりに、本当に削除しますか? と訊いてくる。
少しだけ、ほんの少しだけ熱斗の手に迷いが生まれて、熱斗はそれの“はい”のボタンを即座にクリックする事が出来なかった。
しかし、次の瞬間には、残された道はもうそれしか無い事を悟ったのか、熱斗は“はい”のボタンをクリックした。
パソコンは即座に、Seapeの削除を始める。
これでもう、やいとやデカオ、透がSeapeをオンラインにしても自分には関係無い。
見えているはずなのに気付いてもらえない、そんな身勝手で自己中心的で汚らわしく唾棄すべき苦しみも、今日でお終いだ。

「どうして……。」

暗いメロディに混じって、ロックマンの声がまた微かに聞こえたが、熱斗はそれを無視してSeapeの削除の完了を待った。
画面に表示される削除の進行具合を示すゲージは少しずつその量を増し、やがてSeapeのプログラムは熱斗のパソコンの中から消え去る。
Seapeがパソコンの中か完全に消え去ると、熱斗はプログラムの追加と削除、及びコントロールパネルの画面を閉じた。
と、同時に、それまで熱斗の左手の近くにいたロックマンがパソコンの中に入り、その画面の全面に自身の顔を映し出し、音楽を聴きながらでも聞こえるように大きく加工した音声をイヤホンから直接、熱斗に投げかけてくる。

「ねぇどうして? 熱斗くん、ホントはやいとちゃんと話したかったはずでしょう? なのにどうしてあんな事書いて、Seapeも削除しちゃって、どうして?」

その声が妙に耳触りに感じられて、熱斗はイヤホンを外し、椅子から立ち上がった。
ロックマンはイヤホンの繋がれたパソコンから、イヤホンの繋がれていないPETへと移動し、そこから熱斗の様子を見る。
椅子から立ち上がった熱斗はベッドに向かって歩き出す。
そして熱斗はベッドに上ると、ロックマンのいる机に背を向けるような向きで、枕に頭を預けて横になった。
ロックマンにはしばらくの間その行動の意味が分からなかったが、やがて聞こえてきた熱斗の僅かな声で、その意味を知る事となる。

「熱斗くん……? 泣いてるの……?」

ロックマンに背を向けてベッドの上で横になっている熱斗は、小さくすすり泣いていたのだ。
背を向けられているロックマンからは見る事ができないが、熱斗の顔とその下の枕は大粒の涙で強い湿り気を帯びている。
時より上手く呼吸をしようとしては失敗する引き攣った呼吸音と、涙と共に量を増す副産物を垂れ流すまいと鼻をすする音がして、ロックマンはやはり、どうして? の四文字と一つの疑問符が浮かぶのを感じた。
そんなに悲しむぐらいなら、あんな事――友人(熱斗やその相手がどう思っているかはともかく、ロックマンはまだ彼等が友人関係にあると信じている)の死を望む言葉や、それらへの好意を鬱陶しく思う事など書かず、Seapeを削除する事も無く、素直に話しかけていればよかっただろうに、とロックマンは思うのだ。
事実、一ヶ月ほど前に、それが出来なくてメイルと仲違いしてしまい、嗚呼あの時素直になっていればと悔やんでいたのは熱斗自身じゃないか、という事も思い出して、ロックマンは自分の中で心配よりも呆れが優位になり始めるのを感じた。

そうして知らぬ間にロックマンにまで見放され始めた熱斗は、ただただ悔しさと悲しさと馬鹿げた寂しさから止まらぬ涙に苦しんでいた。
耐えきれると思った、大丈夫だと思った、仕方ないと思った、そう思ったからこうして答えを出したのに、目には涙が溜まって、それが一定量を超えると目から溢れだして顔と枕を濡らす、それが悔しい。
大学に入って、新しい環境に出会って、それでも尚指を指されて笑われる生活から抜け出せなくて、嗚呼自分はきっと、誰かに好意的に思われる事が無い定めなのだろうと感じた。
兆候なら中学生、いやもしかしたら小学生の時から既にあったかもしれない、いや、幼稚園からだって感じとれる、記憶に残る周囲の悪意が今になって心身を滅多刺しにする。
だから自分はそういう定めを背負って産まれてしまったのだと信じる事にした、好意なんて当てにしない事にした、その筈なのに、やいとがこれっきり熱斗を捨てるかもしれない(かもしれない、なんて傲慢だ、きっとやいとは熱斗を捨てるに決っている)事や、そのやいとの親友であり“人間が大好き”だと言っていたメイルに見切りをつけられてしまった事、更にはもっと昔の数々の別れが胸を刺していく。
定めだから、定めだから、定めだから、定めだから、定めだから、定めだから、定めだから、大丈夫だと思ったのに、仕方ないと思ったのに、その仕方ないが悔しくて仕方が無い。
当たり前なのに、自分が誰にも好かれないのは、誰にでも嫌われるのは当たり前なのに、どうして自分はそんな当たり前の事を受け入れられないのだろう? 悔しくて悔しくてたまらない。
どうしてだろうと考えれば答えは一つ、相手が自分を好いているとは限らない(限らない、どころか、好いている訳が無いだろうに)のに自分が相手を好いてしまっているからだ、相手を欲しているからだ。
馬鹿げている、本当に馬鹿げている、と分かっているつもりだ、嗚呼それなのに、自分はまだ誰かの好意を求めているのか、好意を寄せる人間がいるのか、そう思うと苦しくて、悲しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、悔しくて、その好意の先にいる人間が全て死んで消え去ってしまえばいいと思ったのだ。
今更、受け入れてくれなどと言う気は無い。
そんな事は無駄だと知っているからだ。
だからせめて、彼等彼女等が死に絶えるように、消え去るように、好意の対象など無くなってしまえばいいと願う。

しかし一方で、そんな自分が大嫌いだった。
ロックマンの言う通り、勇気を出してみれば良いと思う自分がいない訳ではなかった。
けれど、やはり今更なのだ、今更なのだ、今更なのだ、今更なのだ、今更なのだ、今更なのだ、今更過ぎて、今更過ぎて……それに、それで自分の定めが変わる訳ではない、それは熱斗にもよく分かっている、だから、だから熱斗はそれまでベッドに横たえていた自分の身体を起こすと、机とは反対側、つまり部屋の壁に視線を向けて座り、その壁に両手をついて、それから、

……ゴンッ、という鈍い音がした。

「熱斗くん!?」

背後でロックマンの焦った声が聞こえる、けれど熱斗は反応を示さない、ただ、壁に両手をついてその間の場所に額を、頭を強打するだけで。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、と鈍い音だけが続く。
いや、実際は微かに、熱斗がすすり泣く声が混じっている。
熱斗は泣きながら、壁に頭を強打していた。
まるで、精神の痛みを身体の痛みに変換して少しでもマシなものにするように、少しでも、誤魔化せるように。

「熱斗くん……。」

ロックマンは最初何か言いたげな顔で熱斗を見ていたが、やがて“そういう時にはどうしたらいいのか”についてのとある人間からの指示を思い出したのか、そっとその場から姿を消した。
行先は、インターネットシティ――要するに、此処以外のどこかだ。
ロックマンがこの部屋を後にする微かな音を聞いても尚、熱斗は壁に頭を強打する事をやめない。
骨が折れるかも、とか、血管が切れるかも、とか、そんな事はどうでもよかった。
折れたければ折れれば良い、切れたければ切れれば良い、それでこの世の苦痛から解放されるのなら本望だ。
壊れろ、自分なんか壊れろ、と強く念じながら、熱斗は壁に頭を強打し続ける。

だがやがて、部屋の外でパタパタと誰かが走る音がし始めた。
それは熱斗の部屋に繋がる階段を上り、此方へ近付いてくる。
嗚呼、そうか、はる香に気付かれたか、と熱斗は思ったが、それでも熱斗は壁に頭を強打することを止めない。
誰が邪魔をしようと関係無い、自分がそうしたい、それだけなのだから。

「熱斗?」

やがて部屋の扉が開いて、はる香が恐る恐ると言った様子で顔を出してきた。
熱斗はそれに視線を向けず、壁に頭を強打し続ける。
以前なら、はる香はそこで部屋に踏み入ってきて、熱斗と壁の間に自分の手を挟んで強打を止めさせたのだろうが、今回は“そんな事はしなくていい”と言った人間の言葉を信じるのか、静かにドアを閉めながら、

「ちょっと、お買い物に行ってくるわね……。」

と言うと、カチャリと音がしてドアが閉まった。
正直、熱斗は安堵する。
これで、思う存分自分を嬲る事ができる、何度強打しようと殴打しようと止める者はいない、と。
だから熱斗は、はる香が買い物に行く為に玄関のドアを開き、その開かれた玄関のドアが再び閉じる音がするまで、ずっと頭を壁に強打し続けた。

そしてはる香が家を出てから数分後、頭を強打するだけでは足りない何かを感じた熱斗は、自分の部屋を出てリビングへ下り始めた。
ゆっくりと階段を下ると、電気がついたままの廊下とリビングが視界に入る。
熱斗は廊下を通り、リビングの中へ入ると、いつも食事の時に自分が座っている場所の近くへと歩み寄った。
そこには、プラスチック製の四角い箱が置いてあり、中には沢山の向精神薬が入っている。
それらは全て、熱斗に対して処方されたものだ。
そしてそれは、たまに病院の受診時期がずれる事があったせいで、いくつかの種類が多めに残っている。
熱斗はしばらくの間、それをじっと見ていた。
じっと見て、それからある一種類のシートを一枚手に取ると、台所へ向かい、コップを取ってその中に水道水を注ぐ。
そして、コップを持っていない手の中にある一枚のシート(それはワンシート十錠の薬だった)をしばし眺めた後、コップをテーブルに置いてからその一枚のシートに入っている薬を全て出し始めた。
薄い水色で小さな錠剤が十錠、熱斗の手の中に落ちる。
熱斗はそれを一気に口に放り込み、先ほど汲んだ水道水で飲み下した。

突如、やってやった、やってしまった、遂に自分は越えるべきではないラインを越えてしまったという感覚が湧きあがってきて、熱斗は一度は止まりかけた涙が再び溢れるのを感じた。
自分は一体何をしているのだろう、何故こんな事をしているのだろう、何故こんな事をしないと自分を保てない、いや、もう保つ気など無いのかもしれない、とにかく熱斗は自分が壊れていくのを感じ、ボロボロと涙を流した。

「うぅっ……あぁっ……あああああああ……!」

思わず、小さな赤子のように声を漏らして泣いた。
けれど此処にはロックマンもはる香もいなくて、熱斗の慟哭にも似た泣き声を聴く者は誰もいない。
熱斗は薬のシートを普段から捨てているゴミ箱に捨て、コップを洗い物の中にそっと混ぜると、逃げるように走って自分の部屋に戻る。
頭の中は、自分は遂に越えるべきではないラインを越えてしまったと言う罪悪感と、これから自分はどうなるのだろうという恐怖でいっぱいだ。
熱斗は部屋に戻るとパソコンの前に座り、薬の名前と致死量でインターネット情報検索をかけた。
情報は、当たり前の様に沢山出てきて、熱斗はその中の一つのページを開く。

「はは……ははは……。」

そのページに書いてあった、その薬は丼一杯飲んでようやく死ねるかどうかのレベルで安全だという表記を見て、熱斗は思わず笑いを零した。
自分が飲んだのは、たかだか十錠である。
死ぬどころか、後遺症の一つも残らないだろうレベルであった事に気がついて、熱斗は安堵するような、しかし残念に思うような気持になった。
とりあえず、噂に聞く胃洗浄だの点滴での中和だなどはしなくても良さそうだ、というか、全く必要ないだろう、と思うと、僅かに、自分はまだ大丈夫と言う気がして、熱斗はやはり自分はどうあがいてもその面では似非にしかならないだろうと思い、笑った。
けれど、それならそれで馬鹿らしい感覚が消える事は無く、また同時に自分の定めへの悲しみが消える事も無い。
熱斗は、はる香とロックマンが帰ってくるまで、何度も頭を強打し、そして泣いていた。
その泣き声が、妙な笑い声となってはる香と祐一朗とロックマンを慄かし、結局強制的に違う薬を飲まされて落ち着くよう諭されるのはそれから数時間後の話である。


End.
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