独り静かに朽ちる未来

【独り静かに朽ちる未来】

その時、平和な日常の中で、大学生になっていた光 熱斗は悩んでいた。
自分は一体何の為に大学に通い、何を学んでいるというのか、何をしているというのか。
そして何より、自分に未来はあるのか、生きる価値はあるのか、と。


それはある日の夕方の話である。
時刻は午後五時半頃、いつものように大学での授業を終えて帰宅した光 熱斗は、リビングのソファーに腰掛けてテレビを見ながらPETを弄りWebブラウザを利用したインターネットサーフィンに興じていた。
見るのは大型掲示板にせんちゃんねるのまとめブログで、熱斗は真面目な話からどうでもいいネタまで色々な情報が集まったブログの最新記事をチェックする。
時に気違いじみた記事を見ては笑い、時に愛国にも人種差別にもなる記事を見ては実体が無いに等しい愛国心に浸る、それが此処最近の熱斗の日常と化していた。

「やっぱりチョイナは駄目だな、ニホンももっと強気で行かないと。」

愛国にも人種差別にもなる記事を見ながら熱斗が独り事に思えない独り言を漏らす。
それはキッチンで食器を洗うはる香には届かなかったようだが、熱斗の近く、テーブルの方で新聞を読んでいた祐一朗には聞こえたようで、数秒の間を置いてから祐一朗の反論が聞こえてきた。

「こら熱斗、そういう事を言うんじゃない。人類は皆手を取り合って仲良く生きるべきなんだぞ。」

少しだけ不機嫌そうな祐一朗の反論はとても綺麗で、熱斗の独り言に比べれば万人が同意したかもしれないものだった。
しかし熱斗は、その反論の矛盾点を知っている。
だから熱斗は、此方もこれまた不機嫌そうに、しかし何処か勝ち誇ったような口調で祐一朗に更なる反論を返す。

「なんだよ、そういうパパだってこの間“ニホンはアメロッパの奴隷だ、属国だ”とか言ってアメロッパを嫌ってたじゃん。この左翼が。俺が右翼なのがそんなに悔しい?」

最後に軽く鼻で笑ってやると、祐一朗は少し苦い顔をした後に熱斗を睨みつけた。
それを見て熱斗は、これはまた父親の激しいチョイナ援護とアメロッパ貶しが始まるぞ、と思い、つまらなそうな顔をする。
はる香はまだ話には介入せずに食器洗いを続けている。

「あのなぁ、アメロッパは確実にニホンを属国として扱っているがチョイナは何も、」

何もしていない、と言う気なのだろうと察した熱斗は咄嗟にそれを遮った。

「チョイナはありもしない領有権を主張してきてますけど?」

何処かで誰かの溜息が聞こえた、おそらくPETの中のロックマンの溜息だろう。
ロックマンはこの親子のそれぞれ右と左に偏った言い争いに呆れを感じているのだ。
だが熱斗は、そして祐一朗はそんな事知った事ではないと言わんばかりに言い争いを続ける。
はる香はまだカチャカチャと音を立てて食器を洗っている。

「あんな島、ニホンとチョイナで等分に分けてしまえばいいんだ。」

そう言った祐一朗を、熱斗は鼻で笑う。

「ハッ、パパったら、一歩譲ったら百歩は踏み込まれるって分からないの? ただでさえ強欲なチョイナに五十歩も譲ってごらんよ、たちまち五千歩は踏み込まれるぜ?」

するとまた祐一朗がそれに反論して、

「だから人類はもっと仲良く、」
「あぁもう二人ともやめなさい!」

するべきだ、とか、そんな事を言う前に、それまで食器を洗い二人の会話に参加をしてこなかったはる香が話に割り込んできた。
はる香は、この夫と息子の会話がいずれ本気の親子喧嘩に発展する危険を持っている事を知っている為、それを阻止しにやってきたのだ。
はる香に割って入られて、熱斗に反論しようとしていた祐一朗も、祐一朗の反論に更に反論してやろうと思っていた熱斗も一瞬黙りこむ。
また何処からか小さな溜息が聞こえる、それはやはりPETの中からでロックマンのものだった。
熱斗はしばし黙りこんだ後、言い表わす方法が無く、また言い表わす必要もない苛立ちが指先まで軽いしびれのように伝わっていくのを感じてソファーから立ちあがり、床に置いていた大きな鞄の持ち手を持つと廊下に向かって歩き出した。
自分とは意見の異なる祐一朗も、そんな祐一朗と大差の無い意見のはる香もいない自分の部屋へ帰る為だ。
鞄を持ったまま廊下に出て、そこからすぐの階段を上って、階段の先のドアを開けばそこは自分の縄張りである。

部屋の中に入ると鞄を出入口の近くに置き、熱斗はすぐに机の前の椅子に座った。
まずはパソコンの電源を入れて、電源が入ると熱斗はすぐさまメールソフトを起動する。
昨日の夜、久しぶりにメイルにメールを出したのだ、最近そちらはどうしているか、と。
昨日は返事が来なかったが、今日は返事が来ていると良いな、などということを思いながら、熱斗はメールソフトの起動を待つ。
やがて起動を終えたメールソフトはポーンと軽い電子音を鳴らして受信トレイに一件の新着メールがある事を熱斗に知らせ、熱斗はそれに従うように受信トレイを開いてそのメールが誰からどう来たものなのかを確かめる。
送信者は熱斗が期待した通りメイルで、タイトルも熱斗の送ったメールにRe:の三文字が付いたものだった。
熱斗は久しぶりの連絡に期待で高まる鼓動を抑えつつ、メイルのメールを開く。

『久しぶりね、熱斗。
私の方は元気よ、新しい友達もできたし、最近は先輩達の行く飲み会にもよく行ってるの。
熱斗はどう? もう友達はできた?』

熱斗はその文章をしばし凝視した後、メールが表示された小さな窓の隅をクリックして返信画面を開いた。
そして、ありったけの絶望をありったけの敵意を込めて殴る様に打ち込んでいく。

『死ね、リア充が。
お前なんか俺の同類じゃ無い。』

その二行だけを打ち込むと、熱斗は送信ボタンを押した。
メールはすぐさまメイルのパソコンに送信される、はずだったが、何故か画面は送信中の三文字を映したまま動かず、なかなか送信完了の四文字を映してはくれない。
なんだ? パソコンの故障か? それとも回線が切れたか? と熱斗が不思議に思っていると、鞄に入れたままのPETではなくパソコンの方からロックマンの声がした。

「熱斗くん、いいの? こんなメール送って……」

どうやらロックマンはプラグイン時とは別のネットワーク、無線LANを通じて熱斗のパソコンに移動していて、メールの文章を見ていたらしい。
熱斗はそんな良く言えば世話好きな、悪く言えばおせっかいなロックマンを見て、その表情を少しだけ苛立ちに歪める。
正直、熱斗自身こんなメールを送るべきではないという考えが無い訳ではなかった。
けれど、今の熱斗はメイルのメールに明るい返信を出せるような立場に無い、その立場が熱斗に、妬みと敵意の溢れるメールを返信として出す事を選ばせたのだ。
熱斗は、少し呆れたように、しかし心配しているように画面の端に顔を出してメールの送信を邪魔しているロックマンを睨みつけて言う。

「いいんだよ、さっさと送れ。」
「……そう。」

するとロックマンは了解したというべきか諦めたというべきか、小さな返事の後にメールの送信妨害をやめ、画面の端から姿を消した。
直後、それまで送信中の三文字を表示していた小さな窓は送信完了の四文字を表示して、それから消える。
熱斗はそれを確認すると、何かが終わったような溜息を一つだけ零してメールをソフトを閉じた。
そして、さてこれからどうしよう、本来なら風呂に入らなければいけないのだけどまだ面倒くさい、ニヤニヤ動画で面白い動画でも探そうか? という事を熱斗が考え始めたその時、一度はパソコンの画面から姿を消したロックマンが再びパソコン画面の中、それも中央に堂々と顔を出して、

「ねぇ、あんな返信してないでさ、熱斗くんも友達つくろうよ。」

と言ってきた。
瞬間、熱斗の中でそれまで右向きの愛国心やメイルへの暴言で隠してきた何がザワつく。
指先まで走る感情の意味はきっと、苛立ちだ。

そう、熱斗は大学生になってからそろそろ三ヶ月が過ぎようとしているというのに、小学生時代の栄光は何処へやら、友人が一人もおらず、校内では基本的に誰とも話さないという状況の中にあった。
唯一、自分のネットナビであるロックマンとの会話は多少あるが、それも小学生時代に比べればぐっと減ってしまった気がする。
一体何時からこうなってしまったのだろう、と考えるとふと脳裏に過るのは中学に上がってすぐの時の記憶で、透に言われた、

――小学校までのテンションじゃこの秋原中ではやってけないよ。――

という言葉である。
事実、熱斗の周囲の環境は、中学校、高校、と場所が変わるごとに少しずつ寂しげなものに変わり、大学に入る頃には入学先の大学で誰とも話さない事を覚悟しなければいけないレベルへと達していた。
友達がいない、その事実を熱斗が認めて諦めるまでにどれほどの時間がかかった事か、どれだけ過去の友人に縋りたくなった事か、そして、どれだけ過去の友人の輝かしい今が妬ましくなった事か。
メイルに死ねという返信を出したのも、その妬みの一部である。
高校に入る時に進路が分かれてしまった友人、メイル。
彼女は今もその明るさと人懐っこさをもって楽しい人生を送っている、人に囲まれた人生を送っている、未成年なのに飲み会に通っている程先輩たちにも可愛がられている。
その事実を知った時、熱斗は自分の中の大切な何かが粉々に砕けていくのを感じたのだ。
その何かが何なのかは、熱斗自身正確には言い表せないだろうが、とにかく熱斗はメイルに対しての自分の感情が急速に冷たく、また攻撃的になるのを感じていた。

そんな状況の中でのロックマンのこの一言である。
熱斗がその正論に返す言葉が見つからず黙っていると、ロックマンは熱斗に反論されない事を幸いと思ったのか更に畳みかける。

「折角さ、僕等の大学には集合力っていう授業があるんだから、今度それでも取って友達を作りに行こうよ。」

煩い、というのが熱斗が一番に持った感想だった。
思わず、その感想が口を突いて出そうになるも、熱斗はギリギリの所でそれを堪える。
分かっている、分かっているのだ、ロックマンの言っている事は正論であるし、ロックマンがそれを言っている理由に悪意など欠片も無い事は、分かっているのだ。
だから熱斗は、反論を堪えて苦い顔でロックマンから視線を逸らす。
あまり真っ直ぐにロックマンの顔を見ていると、逆に反論が口を突いて出てしまいそうな気がしたからだ。

「やっぱり大学にも友達は居た方が良いって、ね? だから、どうにかして」
「……風呂行ってくる。」

どうにかして友達を作ろうよ、というロックマンの声を遮って、熱斗は椅子から立ち上がる。
パソコン画面の中のロックマンはしばし少し驚いたような顔で熱斗を見詰めていたが、熱斗はそんなロックマンを見詰め返す事は無く、そのまま部屋のドアに視線を向けた。
その目は酷く暗く、小学生時代の明るさや快活さを忘れ去ってしまっている。
やがてドアに向けて歩きだす熱斗を、ロックマンがパソコンの中から呼んでいたようだったが、熱斗はそんなロックマンには構わずに足を勧めた。
どうせ、人の話は最後まで聞こうとか、どうしたらきっと友達ができるとか、そんなくだらない話でしかないだろう、そう思った熱斗はパソコンに振り返る事をせず廊下に出てそのドアを閉めた。
ドアを閉められた部屋の中で、ロックマンがぽつりと熱斗の名を呼んだが、それに応える者は誰もいなかった。


そして熱斗は階段を下りて廊下を通り風呂場のある場所へと足を進める。
脱衣所でそれまで来ていたい服を全て脱ぎ捨てると、熱斗はいよいよ風呂場へ足を踏み入れた。
シャワーから湯を出し、それを頭から浴びる。
浴びながら、ロックマンの言葉への反論を考える。

小学生時代、友達がいる事だけが自慢だった自分が言うのもなんだが、今友達がいないからと言って何が問題だというのだろう。
ノートを取れない? そんなのは自分で授業に出れば良いだけの話、出れ無かったらそれは自分の自己責任、そこは抜かしたままで良い、そういうものではないのか。
コミュニケーション能力が育たない? そんなものは将来接客業に着かなければ関係無いのではないのか、少なくとも今すぐ困る事は無いのではないのか。
嗚呼このどうしようもない不快感をそれこそ誰かにぶちまけたい、しかし、誰に?
一瞬幼馴染のメイルの名前が脳裏に浮かんだが、熱斗はすぐにそれを打ち消した。

メイルはもう、自分と同じではない。
自分がメイルと同じで無くなってしまったのか、メイルが自分と同じで無くなってしまったのか、それは分からないが、とにかく同じではない、この感情は分けあえない、それを更なる不快に思いながら熱斗は湯を浴びる。
どうしてだろう、身体はとても温かいはずなのに、頭の中はとてつもなく冷たい何かで満たされている、そんな感覚が熱斗を覆い、それらは苛立ちとなって熱斗を襲った。
友達がいない、それの何が悪いのだろう、熱斗にはその理由が分からない。
分からないけれど分からないなりに、ロックマンの言う事は何処か正論めいて聞こえて、熱斗は自分の存在価値がどんどん薄れていくような思いを感じた。
メイルの友達に囲まれた生活とやらの報告が、その思いに拍車をかける。
あの頃、数年前、在りし日に自分の隣で笑っていた少女がいきなり遠くに行ってもう帰ってこないような感覚に、熱斗はメイルが早く今の大学を卒業して今の友達とやらと縁が切れてしまえばいいと思う。
自分は未だに、いや今だからこそこんな、こんな、虚しくて、惨めで、情けない生活を送っているというのに、と思ったら最後、もう抜け出せない。

不快感は苛立ちとなり、苛立ちは吐きだされる場所を探して頭を揺らし、熱斗は脚の力を失ったように風呂場のタイルの上にぺたりと座りこんでしまった。
そして、ある固いタイルの貼られた壁を見ると、

「……。」

無言のままそのタイル凝視した、と思ったら、次の瞬間熱斗はそのタイルの壁に頭部の天辺近くで頭突きを始めたではないか。
ゴンッ、ゴンッ、という鈍い音が風呂場の中に響き渡る。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、と、熱斗は何度も壁に頭をぶつける。
もしも此処に第三者がいたら、熱斗に“そんな痛い事は止めろ”と言ったかもしれない。
しかし、そんな第三者がいたとしても、熱斗はそれを止めなかっただろう。
何故なら、その時の熱斗は第三者が言う様な痛みを感じる事が出来ていなかったのだから。

ゴンッ、ゴンッ、と鈍い音が風呂場に響く。
頭はあまり痛くない、さすがに少しは痛みを感じるが、それは熱斗にとって苦痛ではなかった。
ゴンッ、ゴンッ、と鈍い音をさせて頭を壁にぶつけていると、それまでの行き場の無い何かが、後ろで流れ続ける湯に混じって少しだけ溶けて流れるような、そんな気がしたのだ。
だから熱斗は頭を壁に衝突させ続ける、心の痛みを、虚しさを、惨めさを、物理的な痛みに変えて消化するように、いつまでも、いつまでも。

しかしそんな行為にもやがては終わりの合図がやってきた。
風呂場の外、脱衣所のあたりから母親であるはる香の声が聞こえる。

「熱斗、何やってるの?」

まだ風呂場と脱衣所を繋ぐすりガラスのドアは閉じられていたが、はる香はほぼ確実に熱斗の行為を把握していた。
どうやら、熱斗の頭突きの音はリビングのはる香の所まで聞こえていたらしい。
だがそれでも熱斗は壁に頭をぶつけ続ける。
はる香の存在など知った事ではないというように、痛みを心から体へ変換し続ける。
ゴンッ、ゴンッ、と音が風呂場に響き続ける。
やがて熱斗がそれを自分で止める気が無い事を悟ったのか、はる香が風呂場と脱衣所を繋ぐドアをガチャリと音を立てて開いて風呂場の中に入ってきた。
そしてはる香は熱斗がしている事がやはりそれだったのだと知ると、熱斗と壁の間に自分の手を差し入れて熱斗の行為を止めさせようとする。
それでもまだ壁に頭をぶつけ足りない熱斗は、何度かはる香の手の上から壁に頭を衝突させてみた後、今度ははる香の手を押しのけようとし始めた。
はる香は必至で熱斗の力に抵抗する、と、熱斗は今度ははる香の手が届いていない場所に目標を変えて壁に頭をぶつけ始めた。
すぐにはる香がそこに手を伸ばす。
そしてはる香がその行為の邪魔をすると、熱斗はようやくぽつりと口を開いた。

「……んで、やめさせるんだよ……。」

酷く不機嫌そうな声に、はる香はやや心配そうな表情を浮かべると、スカートとエプロンが濡れるのも構わず熱斗の傍へ近付き、その頭部を押さえながら言う。

「そんなことしても痛いだけよ、頭の血管が切れたらどうするの。 死んじゃうかもしれないわよ。」

すると熱斗はこれまた不機嫌そうに、早くはる香に何処かへ消えて欲しいと言わんばかりの声で、

「別にいいんだよ……。」

と言った。
熱斗はただひたすら惨めで、虚しくて、その思いは考えれば考える程募りに募って、やがて熱斗に死を意識させ始めていた。
嗚呼、もしも二十歳になる前に死ぬ事ができたら自分はどれだけ幸せなのだろう、なんて、考え始めたらもう止まれない。
それまでの自分の人生、とりわけ中学時代から今この瞬間までが酷く間違っていて、酷く失敗しているような感覚が熱斗を襲い、覆い尽くしていく。
だから熱斗は、脳の血管が切れるかもしれないだとか、クモ膜下出血がどうだとか、そんなことは関係無いと思っていた。
まだ親がいる間に死ねたら、いっそ幸せかもしれない、そんな思いまで浮かびあがって、熱斗は鼻がツンと痛みだすのを感じた。
ああ、これは涙が出る前兆だ。

「よくないでしょ、貴方が死んだらパパとママは悲しいわ。」
「知るかよ……。」

はる香の説得も虚しく、熱斗はまたはる香の手の届かない位置の壁に頭をぶつけ始めた。
それを見たはる香が更に風呂場の奥へと入り込んでそれも邪魔すると、熱斗はこれならどうしようもないだろうと言わんばかりに自分の両手を拳にして頭を殴打し始める。
遂にはる香は熱斗の両手を掴んでそれも止めさせるが、大学生になった熱斗には力では敵わない所があるのか、その表情は少し辛そうだ。

「どうしたの、そんなに嫌な事があったの? 可哀想に。」

はる香がそう言うと、熱斗はそれまで床に向けていた視線をキッとはる香に向けて、そして叫んだ。

「可哀想とか言うなよ!! 余計惨めになるだろ!?」

その様子にはる香が少し驚いて、一瞬手の力を緩めると、熱斗ははる香の手を振り払って再び頭を殴打し始めた。
はる香はもう一度熱斗の両手首を掴んでその殴打を強制的に止めさせる、と、熱斗の声が僅かに上ずり始め、

「なんっ、でだようっ……なんで止めさせるんだあああああああああああああああああああああ!!」

短くしゃくりあげたかと思うと、熱斗はリビングの祐一朗にも二階のパソコンの中のロックマンにも近所の家々にも聞こえそうな音量の声で叫んだ。
はる香が焦って、熱斗に落ち着くよう声をかける。

「落ち着いて落ち着いて、パトカー呼ばれちゃうわよっ。」
「うるせぇ!! お前に何が分かるって言うんだよ!! 黙ってろ!!」

そう言って熱斗ははる香を風呂場から追い出すと、風呂場と脱衣所を繋ぐドアを閉め、その場に座り込んだまま動かなくなった。
またはる香にドアを開けられる事を危惧しているのか、頭を壁にぶつける事は無かったが、それでも熱斗は普通に頭を洗ったり、身体を洗ったりしようとはしない。
ただ、その場に座り込んで湯を浴びている、それだけだ。
はる香が風呂場から出て一応はその場が静かになると、熱斗は少しだけ平静を取り戻したのか、しばらくすると床から立ちあがり、湯を顔の正面から浴びてみたりもした。
しかし、浴びているうちに思いだすのだ、ロックマンの言葉を、メイルのメールを、自分の現状を。

こんな自分に明るい未来などあるのだろうか?

ロックマンにすら今この現状の自分を否定されて、メイルは自分とは違う何かになり果てて、今、自分に残っている物はなんだろう。
勉強は元より誇れるものではないし、運動神経も探せば上など沢山いる。
今まで独りでも誇れたものは、全て自分より上がいるのを知ってしまった今となってはただの役立たずである。
この先生きていても、楽しい未来が、明るい未来が、希望に満ちた未来が待っているとは思えない。
良くてニート、悪くてホームレス、そんな未来が脳裏に浮かんで、未来への希望を根こそぎ奪っては、今の自分の存在価値すらも否定する。
それは熱斗の中に不快感として現れ、熱斗はその不快感を発散すべく再び壁に頭をぶつけ始めた。
ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、と三回程ぶつけた辺りで、はる香が再びの異変に気が付いたのか脱衣所と風呂場を繋ぐドアが開く。

「もうやめなさい、ホントにどうにかなっちゃうわよ。」

どうにかなれるものならなってしまいたい、とその時の熱斗は思った。

「そんなに辛い事があったの? 大変だったわね。」

はる香の気遣いが、逆に心に痛かった。
そんな大した事じゃ無い、大した事じゃ無いんだ、ただ、自分だけが耐えられなかっただけで。
自分が、惨めだっただけで。
そんな熱斗の思いに、はる香はまだ気付いてはくれない。
熱斗は色々なものがグチャグチャに混ざり合った感情に潰されて、その場でわぁわぁと泣きだした。


やがて結局はる香にすりガラス越しに見守られながら洗髪を終えた熱斗は風呂場を後にして、再び自室へと戻ってきていた。
机の前の椅子に座り、机の上のパソコンを操作する、その熱斗の表情は何処か浮かない色をしている。
パソコンの横に置いた充電器の上に置かれたPETの中からはロックマンがそんな熱斗の様子を窺っていて、何か声をかけるタイミングを探しているようだ。
そのうち、熱斗が少し目の疲れを感じたのかパソコンから視線を外して壁にかけた時計を見た時、ロックマンはいつか開くと決めていた口を此処しかないと言わんばかりに急いで開いた。

「ねぇ熱斗くん、僕考えたんだけど、近いうちにサークルとかに参加してみるって言うのは、」

どうかな? と言われる前に、熱斗は左手で机の上のパソコンの横、PETの前の部分をドンッと拳で叩いた。
それに驚いてロックマンが口を閉じる。
そして熱斗はその様子をしばし見詰めた後に、パソコンの電源を消して部屋の電気も消し、無言でベッドの中に入っていってしまった。

「ね、熱斗くん……。」

背後からロックマンの寂しげで悲しげで心配そうな声が聞こえたが、熱斗はそれを無視して壁を見詰めた。
またこの壁に頭をぶつけてやりたい、そんな衝動が身体の奥でうずいたが、熱斗はロックマンの前と言う事もあり何とかそれを我慢する。
代わりに、ロックマンからは見えないように気をつけながら、手首を爪で引っ掻いてみた。
僅かに感じるこの落ち着きは一体何なのか、熱斗には分からない。

やがてロックマンは何か提案することを諦めたのか、小さな声で、

「おやすみ、熱斗くん……。」

というとPETの画面の明かりを消した。
熱斗の部屋に本格的な暗闇が訪れる。
その暗闇の中で、熱斗は改めてロックマンの言動とメイルのメールを思い出していた。

ロックマンもメイルも、別に悪意を持ってああいう事を言ってきたのではないのだ、それは分かっている。
分かっている故に、性質悪い。
もしもあれらが完全な悪意から発せられた言葉なら、自分は、黙ってろ馬鹿野郎、の一言ぐらい吐きだせるのに、善意からの言葉だから、特にロックマンにはそんな事も許されない。
表面上は聞きながすように努めているけれど、後になって響いて考えてしまうとやはり虚しくて、惨めで、行き場の無い不快感が己を襲うのだ。
そして熱斗はこの時、それはきっと未来が腐敗していく臭いと音なのだろうと思った。
メイルは勿論ロックマンとも調子が合わなくなって、静かに腐敗し崩壊していく未来の断末魔、それがこの不快感の正体だ。

結局、風呂場で泣いた後、一度はまた生きてみる事を考えたが、それはやはり失敗なのではないだろうかという思いがベッドの中の熱斗を襲う。
季節は夏だというのに、部屋は少し熱いぐらいだというのに、何かが凍えて止まらない、その感覚が酷く悲しくて、熱斗は数粒の涙が枕に向かって流れて行くのを感じた。


End.
1/1ページ