短編“未満”小説『Christmas Present of Blood Color:0(Ver2)』
「生かすという選択は今しかできません、ですが殺すという選択はいつでもできるのです。」
「それ、どういう事……?」
いまいち意味の見えてこない秀造の言葉に、愛華が驚き気味の表情で聞き返した。
すると秀造は殊更楽しそうに、しかし細めた目の中央から愛華の目を射抜くように見詰めながら、言う。
「一度産んで、その個体の能力を詳細に観察し、それが一定の成果を出せなかった時に改めて殺せばいいのですよ。」
一瞬、部屋の中の空気が完全に凍りついた。
愛華は勿論、百合花も黒夜も予想だにしなかった秀造の発言に驚いて、目を見開いたまま硬直して、それが解けない。
それから数秒間の間、誰も言葉を発さない本当の沈黙が四人の間に流れたが、なんとかその氷を打ち破って黒夜が声を上げた。
「ちょっ……秀造くん何言ってるんだよ!? そんなの向こうでは全然ッ」
全然話に上がらなかった事じゃないか! と声を荒らげて言おうとする黒夜に、秀造は視線を向け、右手の人差し指を自分の口元に当てて、鎮まるよう合図する。
黒夜は納得がいかなそうな顔をしながらも言葉をそこで切り、黙った。
百合花は、秀造の穏やかな笑顔に似合わない発言にただただ驚くばかりで、愛華と秀造に近付く事も忘れて秀造に視線を向けていた。
秀造は黒夜と百合花が何も言わなくなった事を確認すると、改めて愛華に視線を向ける。
秀造の視線の先の愛華は相当驚いてはいるようだったが、黒夜のような焦りは感じさせない、どこかポカンとした表情をしていた。
「一度産んで、後で殺す……?」
「はい、そうです。正確には、一度生んで、能力が悪ければ後で殺す、ですけどね。愛華さんは、今ご自分の子宮の中にある“それ”を、我が子とは思っていないのですよね?」
少しもオブラートに包まない質問の仕方に愛華の方が少し緊張してしまう。
確かに愛華は“それ”を自分の子供だとか我が子だとか、そんな事は思っていないのだが、自分で言うのと他人に確認されて言うのではその意味が少しだけ違ってきてしまうのだ。
ともかく、愛華は秀造にそれを言われて少ししどろもどろになりながらも答える。
「え、えぇ……そうだけど……」
「やはりそうですか、それなら話は簡単ですね。私が言いたいのは、つまり、貴女の子宮の中にある“それ”を貴女や白夜さんの子供としてではなく、このDirty Bloodの団員として育て、その成果が見られるようなら生き残る道を、見られないようなら淘汰の道を選ばせようという事なのですよ。」
いつも通りの朗らかでのんびりとした笑顔のままとんでもない事を言い出した秀造に、黒夜が愛華に見せるような不快感を露わにした表情を見せる。
おそらく、秀造の意見が半分ほど白夜の意見を蔑ろにしているものだからだろう。
百合花は、驚いたまま何も言えなかった。
反対に愛華は、“それ”を自分の子供だとして扱わなくていいという方法に魅力を感じたのか、やや呆然としながらも少しずつ少しずつその顔に生気が戻りつつある。
「ど、どうやってその成果を確認するの?」
「簡単な話です、“それ”が自分の脚で歩き、真っ直ぐ走れるようになった段階で戦闘に出せばいいのですよ。成果が出ていれば“それ”は生き残るでしょうし、成果が無ければそこで死に絶えるでしょうから。」
部屋の壁に寄りかかって玄関に立つ黒夜は、もしかしてこのDirty Bloodの真の首領はこの天照 秀造なのではないだろうか? という疑いを僅かに感じつつ秀造と愛華を睨んだ。
百合花は、愛華が生気を取り戻し始めた事には安堵しながらも、例えどれだけ我が子と思えぬ存在だとしても、そんな事が許されるのだろうかと悩む。
この環境での生活に慣れている愛華、またそれに適応している秀造と違い、百合花には表の人間らしい道徳の考えがまだ残っているのだ。
だから百合花は、“それ”を生まれながらの犯罪者にすると言っても過言ではない秀造の提案に不安と罪悪感を感じ、そんな事はするべきではないのではないだろうか? と言いたげな視線で愛華を見る。
百合花、黒夜、そして秀造の三人に視線を向けられた愛華は、まだ膨らみの無い自分の下腹部を見ながら考えた。
何度も言っている通り、愛華は“これ”を自分の愛しい子供だなどという事は一切思っていない。
むしろ“これ”は一種の悪性腫瘍のような、すぐにでも身体から切り離して殺さなければいけない異物だとしか思えない。
だから殺したい、その思いに変わりは無い、けれど、それだけでは白夜を説得できない。
そうこうしている内に時間だけが流れてしまえばやがて“これ”は堕胎が不可能になり、白夜のごね得となってしまう、愛華の意志は蔑ろにされてしまう、そう思っていた、けれども、愛華の殺す意志も白夜の生かす意志もある程度尊重できる第三の方法が、あるとしたら?
「……本当に、“これ”を子供だと思わなくていいの? 人間だなんて、私が人間を産んだなんて、思わなくて、いいの?」
愛華は下腹部を見ていた顔を上げ、縋るような視線を秀造に向けた。
視線を向けられた秀造はゆっくりと頷いて、ニッコリという擬音が似合いそうな優しい笑顔を見せながら、
「えぇ、“それ”は子供ではなくこのDirty Bloodの団員です。人間で無いなら何だというのかは、“それ”の能力を見て貴女が独自に判断なさればいいかと思いますよ。」
と回答すると、そこから更に、
「それから、あまり気が向かないとは思いますが、“それ”の教育は主に貴女がするべきでしょうねぇ。もし白夜さんに任せれば、確かに貴女は“それ”に触れなくて済みますが、代わりに“それ”は人間としての成長の道を歩んでしまうでしょう。ですから“それ”が人間でないと言うのなら、その証人は貴女でなくてはならないのですよ、愛華さん。飽くまでも貴女の手で、“それ”をDirty Bloodの団員として人間ではない何かに形作るのです。」
とまで言い出した。
愛華はまだ秀造の提案に驚きを隠せない様子ではあるが、それでもその顔には確かに生気が戻っている。
ああ、愛華は秀造の提案を受け入れるつもりだ、と感じた黒夜の表情が一層険しくなり、百合花の耳には愛華のものでも秀造のものでもない、つまりは黒夜のものである舌打ちの音が届いた。
おそらく、白夜の知らない所で話がおかしな方向に進んでいる事が腹立たしいのだろう。
普段ならば、愛華の決めたことに対して不満を漏らす者は冷静に、しかし徹底的に糾弾して黙らせる百合花だが、今回ばかりは黒夜の反応の方が正しい気がして何も言えない。
何故ならば、秀造の提案が非人道的である事は勿論、その提案に賛同しようとしている愛華の表情が、どこか狂気的に見えたからだ。
目を見開いたまま徐々に口の端を吊り上げて歪んだ笑みを浮かべ始める愛華の表情は、今まで見てきた愛華のどんな表情よりも禍々しく、生気はあっても正気とは思えなかった。
愛華は自分の子宮から生まれ出る、否、排出される生命で、一体何を作ろうとしているのか、百合花には全く想像がつかない。
不安と躊躇いの混ざった視線で愛華を見る百合花と、苛立たしげに愛華と秀造を睨む黒夜、そしてどこまでも笑顔の秀造というバラバラな様子の三人に視線を向けられながら、愛華は歪んだ笑顔のまま自分の下腹部に視線を落とし、ゆっくりと口を開く。
「そう……そうね……だったら私は、“これ”をこのDirty Bloodの象徴にするわ……私を安易に弾き出した社会を破壊し、そんな社会の恩恵を甘受する低能どもを皆殺しにできる、そんな、汚れた血の象徴、究極の人でなし、人間を殺すためだけに生きる、殺人鬼に……!」
愛華はそう言って自分の下腹部に手を当てるが、歪んだ笑顔故か、それともその教育方針故なのか、百合花と黒夜にはそれを一般的な妊婦像と重ねて見る事ができず、百合花は姉を止められない罪悪感に沈み、黒夜は忌々しげに愛華から視線を逸らした。
妊婦が自分の下腹部に手を当てるというのは、本来ならば、その手から赤子への愛情を伝えるための行為のはずなのだが、愛華のそれは愛情など微塵も感じさせないどころか、何か別のものを感じさせる。
特に、愛華の妹である百合花には、さぁ早く出ておいで、私があなたを壊してあげる、という愛華の声が聞こえた気がしてきた。
黒夜も、その声こそ聞こえないものの、愛華が“それ”を内部から破壊、つまり、人間性の殺害をするつもりであることは予想している。
嗚呼、愛華は一体どこまで我が儘なのだろう、自分から兄を奪っていくだけでなく、奪ってまで手にした兄との子供を内側から殺そうだなんて、と黒夜は思ったが、この場では黙って置く事にした。
それはきっと、“それ”が半分は白夜の子供であると同時に、もう半分は愛華の子供でもある事と、無関係ではないだろう。
そして何より、奪われた本人である兄が、望んで愛華に奪われた節があるという事も。
そうして百合花と黒夜と秀造の三人はしばしの間、歪んだ笑みを浮かべながら下腹部に手を当てる愛華を見ていたが、やがて秀造が笑顔のまま愛華へ、
「……そうですか、では、愛華さんも出産可能、ただし愛華さんが教育の主権を握る場合に限る、という事でよろしいですね?」
と、確認を取った。
愛華は下腹部から手を離し、ゆっくりと顔を上げ、立ち上がる。
立ち上がった愛華の顔にはもう先ほどの狂気的で歪な笑みは浮かんでいなかったが、その代わりに攻撃的な感情に満ちていると推測できる、美人ながらも凶悪な笑みが浮かんでいて、百合花はなんだか悲しくなった。
Dirty Bloodを設立してから、いや設立する少し前から、両親と社会に見放された瞬間から、愛華は変わってしまった、と百合花は思う。
何故なら、もう何年も昔の、大学院生だった頃の百合花の思い出の中にいる愛華は、確かに元々強気で、やられたらやり返さなければ気が済まない性格ではあったが、それでもこんな、凶悪さや狂気性は持っていなかったからだ。
それがどうしてこうなってしまったのだろうか? 愛華の言う通り愛華を弾き出した両親と社会が悪いのだろうか? それともそれらに従わず弾き出された愛華が悪いのだろうか? 百合花にはわからない。
ただ、今の百合花に愛華の事でわかる事があるとすれば、愛華は今、新しい罪を産み落とそうとしているという事と、それに対して自分は何もできないという事だけだ。
複雑な思いを抱えて立ち尽くす百合花に見守られながら立ち上がった愛華は、美人ながらも凶悪で、どこか自信に満ちて生気のある笑みを浮かべながら秀造の問いに返答する。
「えぇ、それでいいわ。白夜にそう伝えて頂戴。」
その時の愛華はちょうど、Dirty Blood首領として作戦を指示している時と同じ表情をしていて、愛華は完全に自分の子宮の中の“それ”をDirty Bloodの団員予備軍として扱うつもりなのだと百合花は感じ取った。
だが、感じ取っただけで、何も言えなかった。
本当にこれでいいのか、この展開は正しいのかと何度も自分に問いかけるも、分からない、の五文字しか浮かばなくて、僅かな希望に縋るように百合花は黒夜を見る。
しかし、黒夜は百合花の視線に気づきはしたものの、すぐに不機嫌そうな顔で百合花から視線をそらしてしまう。
百合花は一瞬黒夜の態度に憤りを感じたが、次の瞬間には、黒夜もきっと自分と同じような、否、自分よりも苦い思いでいるのだろう、と思いその憤りを鎮火させ、再び愛華と秀造に視線を向ける。
「わかりました、では、白夜さんには、愛華さんが教育の主権を握る場合のみ出産可能と伝えておきましょう。」
相変わらず朗らかな笑顔と穏やかな声音で、秀造は愛華の意思を確認した。
愛華が教育の主権を握るという事はおそらく、白夜は“それ”――我が子に指一本さえ触れる機会がない言っても過言ではないのだろうな、と考えた黒夜が頭を掻きつつ溜息を吐く。
だが黒夜は、それを正面から非難する様子は見せない。
それはやはり黒夜の中に、兄である白夜の権利や主張は何としても守りたい、という思いがある一方で、自分から兄を奪った女である愛華の血縁者などどうでもいい、という思いがあるからだろうか、黒夜はこの場では黙っておき、後で白夜に簡潔な忠告を残す事を選択した。
正直な話、この瞬間この施設の中で本当に愛華の中の“それ”の事を思う故の躊躇いや葛藤を感じていたのは百合花ただ独りだった、という事が発覚するのはまだ先の話である。
ともかくこれで、愛華の中のそれは一先ず生存を許される事は決まった。
出産自体には賛成する事になったものの、“それ”を自分の子供として扱う義務を逃れる事となっていつもの雰囲気を取り戻し始めた愛華に、秀造は軽く一礼してから背を向け、玄関に向けて歩き出す。
途中、秀造は百合花の横も通り過ぎた。
百合花の視界に映った秀造は飽く迄も笑顔で、百合花はそんな秀造に底知れぬ恐怖のような気分の悪さを感じたが、だからと言ってそれを指摘する事は愛華を敵に回すより恐ろしい事のような気がして、できなかった。
百合花の横を通り過ぎた秀造は玄関に到着し、靴を履き終えるともう一度、部屋の中にいる愛華と百合花に振り一礼しながら、
「では、また後でお会いしましょう。」
と言った。
おそらく、次に秀造がこの部屋を訪れるのは、白夜が愛華の提示した条件を呑んだ時なのだろう。
そしてきっと、優しくて温厚な白夜はこれ以上の争いを避けるために愛華の提示た条件を、それがどういう事を意味しているのかも分からないまま呑むのだろう。
百合花は罪悪感から、黒夜は胸糞悪さから右手で軽く頭を抱えた。
そんな黒夜に、靴を履き終えた秀造が笑顔で声をかける。
「さぁ、黒夜さん、白夜さんの部屋へ戻りますよ。」
「……あぁ、うん……そうだね。」
秀造に声をかけられた黒夜は一瞬何かを躊躇った様子だったが、すぐに百合花と愛華に背を向けて扉の隣のコントロールパネルに手を伸ばし、部屋と廊下を繋ぐ扉を開いた。
この時もしも廊下に誰か別の団員がいれば、その団員は心底複雑そうな黒夜の表情を見る事ができただろう、が、そこには幸い誰もいはしない。
黒夜は一瞬愛華と百合花に振り返ろうかと思ったようだったが、結局は振り返る事の無いままで部屋から廊下への一歩を踏み出した。
黒夜が廊下へ出るとそれを追うように秀造も廊下への一歩を踏み出し、そのまま部屋を後にする。
そして扉が閉まる直前、秀造はこれが最後と言わんばかりに部屋の中へ振り返って、英国紳士のような一礼を見せた。
直後、扉がシューっという音を立てて閉まり、秀造と黒夜の姿が見えなくなる。
百合花はしばらく黒夜と秀造が出ていった扉を見つめていたが、やがて背後でボスンッとソファーの上に何かが勢い良く落ちるような音を聞いてそちらに視線を向けた。
見ると、それまで立っていた愛華がソファーに座っている。
どうやら先ほどの音は愛華が勢い良くソファーに座った音だったようだ。
百合花はしばし呆然とそれを見ていたが、それに気づいた愛華が軽く手招きをしながら百合花を呼ぶ。
「百合花、貴女も座りなさいよ。」
最初に百合花を出迎えた時の狼狽ぶりから一転、いつもの調子が戻ってきた愛華に百合花は少し戸惑いながらも頷き、ソファーへ向かって歩き出した。
そして百合花が愛華とは対照的にあまり音を立てずそっとソファーに座ると、愛華はそれまで放置されていた水入りのグラスにようやく手を伸ばし、グラスの中の水を飲み始める。
先ほどまで全くそのような気配はなかったのに、と思う百合花の目の前で、愛華はグラスの中の水を飲み干し、殻になったグラスをテーブルの上に戻した。
コンッ、とグラスとテーブルがぶつかる音がする。
中途半端に中身の水が減った百合花のグラスと違い、ほぼ満杯から一気にその中身を失くした愛華のグラスは、愛華の感情の揺れ幅の大きさを表しているようだ。
愛華のグラスの中に水が無くなったように、もう愛華の中には迷いはないのかもしれない。
だとしたら、一度決めた事は意地でも曲げないという愛華の性格上、もう自分に言えることは何もないのだろう、とは思うものの、それでもやはり生まれながらにして人の道を強制的に踏み外される“それ”が哀れで、何より狂気に堕ちる愛華が痛々しくて、百合花は躊躇いがちに口を開く。
「姉さん、その……」
「何かしら、百合花。」
迷いが消えてすっきりしたのか、愛華は涼しげな態度で百合花の呼びかけに応じた。
百合花は少しの沈黙を挟み、視線を自分の膝に落としてやや口籠りながら続ける。
「……本気、なの? “それ”を、その……Dirty Bloodの象徴に育てる、って……。」
申し訳ないが自分はその案には反対したい、という意思を滲ませて、百合花は自分の精一杯の問いかけを愛華にぶつけた。
そして自分の膝に視線を向けたまま、耳に神経を集中させて愛華の返答を待つ。
だが、待てども待てども愛華は百合花の問いかけに答えようとしないどころか、物音一つたてなくなってしまった。
肌がピリピリと痛むような、居心地の悪い沈黙が二人の間に舞い降りる。
やはり、訊くべきではなかったのだろうか? と後悔を感じ始めた百合花が愛華の様子を窺おうと恐る恐る顔を上げ始めた、その時、
「……そうよ。」
しばしの間無言になっていた愛華が急に口を開き、百合花は少し驚いて顔を上げ、愛華に視線を向けた。
百合花の視界に映る愛華はつい先ほどの涼しげな様子から一転して、自分の下腹部を蔑むような表情で睨みながら、膝の上に乗せた両手を強く強く握りしめている。
それは、百合花が愛華の意思に反するような事を言い出した事が気に障り、“それ”への憎悪を再び燃え上がらせてしまったからだろう。
心の底から、こんなものはいらない、と思っていて、だから本当は秀造の出した折衷案でさえ受け入れ難い所がある愛華は今、白夜と黒夜と秀造の三人から自分の意思をないがしろにされているような感覚を消せずにいる。
そんな中で、最後の砦にも等しい実の妹の百合花からもその意思を否定されれば、不愉快極まりないのも当然かもしれない。
愛華はゆっくりと顔を上げると、まるで自分の敵を睨むような鋭い視線で百合花を睨む。
その視線と目が合ってしまった百合花の背筋に緊張が走った。
愛華は百合花の反対を押さえつけるように、そして何より自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「“これ”は人間なんかじゃないわ、だから人間として育てる必要なんてないのよ。“これ”は飽く迄も“これ”である以外の何でもない……そこへ仮に生きる権利と存在価値を与えてあげるんだから、私は“これ”から感謝されてもいいくらいなのよ。ただ……」
愛華は一旦そこで言葉を切り、再び自分の下腹部を見た。
静かで平らな下腹部は、一見しただけではそれが妊婦のものだと気づかれることは無いだろう。
しかし、その腹の中には百パーセントに迫る確率で愛華ではない誰かがいて、今も愛華の身体から養分をむしり取って成長している、愛華から色々なものを奪っていく、だから、
「……ただ、それ以外のものは何も与えない、いえ寧ろ、奪い返してあげるわ。“これ”が私の身体から、周囲から、色々なものを奪うように、ね……。」
普通と呼ばれる表の子供達が持つようなものは一切与えず、それらが与えられるようなチャンスは全て奪って壊してやる、というのが愛華の決意だった。
百合花はどう言い返せばいいのか分からずに沈黙し、それを誤魔化すように、まだ中に水が残っている自分のグラスに手を伸し、グラスを口元で傾けて中の水を少しずつ飲みながらも、愛華の様子を視線だけで観察する。
愛華は膝に握りしめた両手をのせたまま、怨むような、呪うような、苦々しく怒りと後悔に満ちた表情で自分の下腹部を見ており、百合花には愛華が今自分の下腹部を殴っていない事が奇跡に思えた。
それと同時に、愛華の心の中は“それ”への憎悪と嫌悪でいっぱいになっているという事も感じ、百合花は少し悲しくなる。
愛華は社会や親、そして“それ”への憎悪と嫌悪に壊され、同時にそれらへの憎悪と嫌悪を糧に生きている、そう考えると、百合花には愛華が終わる事のない悪循環の中で生きているように感じられたのだ。
そんな感情から沈黙したまま何も言えなくなった百合花に対して少しだけ気まずい思いが芽生えたのか、百合花が空になったグラスをテーブルに置いた頃、愛華は下腹部から視線を上げて少し苦笑しながら再び口を開く。
「まぁ、この話は終わりにしましょう。もし何かあって流産死産すればそれまでだし、完璧に育って排出されるとしても、あと七ヶ月前後はあるんだから……。」
それは今この瞬間の重い空気を打ち消そうという努力の感じられる言葉ではあったが、流産を願うような言葉や本来“それ”を相手に使うべきに使う言葉ではない排出という表現は、愛華が“それ”を人間と思っていない事も感じさせる言い回しで、何をどう返答すればいいのか分からない百合花はしばし重苦しい表情で沈黙したままだった。
本来愛華が抱え込むべき罪悪感を肩代わりしているような表情の百合花に、愛華の表情が少し曇る。
と言っても、それは“それ”を人間扱いしない事への罪悪感ではなく、百合花に悲しそうな顔をさせてしまった事への罪悪感という、いかにも自業自得な感情なのだが。
愛華と百合花の間に再び沈黙が舞い降りる。
それぞれ、相手に言いたい事自体は沢山ある、が、それをどういうタイミングでどう口にすれば相手を傷付けずに済むかが分からないのだ。
だから百合花は、しばしの沈黙の後、小さな溜息を吐いてから、
「……そうね、そうしましょ。」
と言って、愛華と同じように苦笑した。
一方その頃、黒夜と秀造はお互いに無言のまま通路を歩いて、白夜の部屋の前へと帰還しようとしていた。
固い廊下の床に革靴の底が当たるコツコツという音をほぼ同じタイミングで立てながらで歩く二人の間には、パッと見ただけでは分かり難いが、やや張り詰めた沈黙も漂っていて、もしもここに他の団員が通りかかれば、主に黒夜の表情を見て、それから更にそれとは真反対な秀造の表情を見て、その雰囲気の差の激しさに、何があったのかと不思議に思う事だろう。
明らかに不機嫌そうで苛立たしそうな表情の黒夜と、それとは反対に穏やかな笑みを浮かべたままの秀造は、白夜の部屋の前へとたどり着くと、まず秀造が扉を二回ほど軽く叩いて白夜に帰還を伝える。
「白夜さん、ただいま戻りましたよ。」
秀造が扉の奥の白夜に声をかけると、声での返事の代わりに扉の向こう側でバタバタと誰かが駆けてくるような音がしてきた。
おそらく白夜が扉を開けるために玄関横のコントロールパネルに焦って駆け寄ってきたのだろう、が、そんなものは待っていられないと言わんばかりに、黒夜は扉の横に取り付けられたカードリーダー付きの外側用コントロールパネルの前に立って、右手に持ったカードキーをカードリーダーに通す。
すると、シューッと軽い音を立てて扉は開き、扉の横のコントロールパネルに指を触れようとしたままきょとんとした表情で動きを止めた白夜の姿が見えた。
「あれっ、秀造くんは此処の鍵は……」
「兄さん、鍵なら僕が持ってるじゃないか。」
どうやら白夜は、秀造はこの部屋の鍵を持っていないから、二人はこの扉を開けられないだろう、と思っていたらしい。
黒夜が呆れた様子で言いながらカードキーを白夜の目前へ突き出すと、白夜はしばしそれを凝視した後、あぁ! と声を出して扉が開いた理由に納得した様子だった。
その一連の動作の子供っぽさに、黒夜の背後で秀造がクスクスと笑い、黒夜は溜息を吐く。
白夜は黒夜が持つ鍵の存在を忘れていたことを誤魔化すように笑った。
「そ、そうだったね! いやぁ、焦ってたから忘れてたよ、あはは……あ、中に入る?」
「入る。」
白夜の誤魔化し笑い交じりの問いかけに、黒夜はそっけなく答えて玄関へ足を踏み入れ、靴を脱いで部屋に上がった。
それを追いかけるように秀造も玄関に足を踏み入れ、それを見た白夜が手動で部屋の扉を閉める。
部屋の中に踏み入ってみると、そこにはもうすでに消え去っていてもおかしくないはずのコーヒーの香りが漂っている。
どうしてかと思って黒夜が部屋の中を見回すと、最初に白夜と黒夜が座って談笑を交わしていたのとは別の所、部屋の中央付近に置かれた低いテーブルの上に、二人が飲んでいた物とは別と思われるコーヒーカップが三つ置かれているのが見えた。
「二人が愛華の所に行ってしばらくしてから淹れ直したんだ。最初のは冷えちゃったし、秀造くんの分も必要だと思ったから。」
黒夜の不思議そうな視線に気が付いたのか、白夜がそのコーヒーカップの存在理由を説明した。
ソファーにコの字型に囲まれたテーブルの上の三つのコーヒーカップはよく見ると、傍にコーヒー用の粉ミルクの袋が置いてあったり、スティックタイプのグラニュー糖が置いてあったり、マドラーしか置いていなかったりしている。
細かな気遣いが得意で、自分を含む五人のコーヒーの好みを覚えている白夜らしい気遣いだ、と感心しながら、黒夜は自分の分と思わしき、マドラー以外は近くに何も置かれていないコーヒーカップのそばへ歩み寄り、その前でソファーに腰かける。
黒夜が無言で腰かけると、まだ玄関から部屋の中を見ているままだった秀造が白夜に一礼し、
「いやはや、お心遣いを有難うございます。」
と言って靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れてソファーへ向けて歩き出した。
白夜もそれを追ってコントロールパネルの前から離れ、ソファーに近づく。
低いテーブルの上のコーヒーカップはテーブルの四角形とソファーのコの字に合わせるように、そして白夜に逃げ道を与えない様に、白夜の左右に黒夜と秀造を座らせる形で置かれている。
その為白夜と秀造はほぼ同じタイミングでソファーのもとへ近づくと、先に白夜がテーブルとソファーの間に入り込み、自分のコーヒーと粉ミルクが置いてある辺に座り、最後に秀造がコーヒーとグラニュー糖の置いてある残りの一辺に腰かけた。
三人は、その座り方もバラバラだ。
黒夜は背凭れに深く寄りかかって足を組んでいるし、秀造は逆に背凭れには寄りかからずやや猫背の姿勢で膝を肩幅程度に開いて座っていて、白夜は黒夜の様に背もたれに寄り掛かる訳でも秀造の様に猫背になる訳でもなく、背筋をしゃんと伸ばしてお行儀良く教育された少女の様に膝を閉じて座っている。
それはコーヒーの味の好みと合わせて、この三人の性格が非常にバラバラである事を表しているようだ。
それぞれ思い思いの姿勢でソファーに座った三人の間に訪れるわずかな静寂、それを破ったのは意外にも黒夜や秀造ではなく白夜だった。
「それで、本題だけど……愛華の答えは、結局どうなったの? やっぱり……堕胎……?」
白夜は、黒夜と秀造の表情や挙動を窺うようにちらちらと二人を見比べながら、恐る恐るといった様子で二人に尋ねた。
尋ねられた二人は一瞬顔を見合わせて、黒夜と秀造のどちらがこの話を切り出すべきかを視線と表情で話し合う。
秀造が、黒夜さんからお話ししますか? という意味を込めて黒夜に微笑みかけると、それを理解した黒夜は無言で首を横に振った。
どうやら黒夜にこの話を自分の口から切り出すつもりは無いらしい、とこれまたその挙動だけで理解した秀造は、殊更楽しそうな微笑みを見せて、黒夜を見たまま小さく頷いてから白夜に視線を向けた。
白夜の背筋に緊張が走る。
やがて秀造は少しの沈黙を挟んでから笑顔のまま口を開いた。
「……いえ、それが、実は少し事情が変わりましてね、愛華さん、出産可能だそうですよ。」
秀造が白夜に愛華の意見が変わったことを告げると、白夜は明らかに驚き目を丸くして、ポカンとした表情のまま固まってしまったが、数秒もすると秀造の言った事の意味を理解したのか、その表情に明らかに喜びの色を浮かべ始めた。
秀造のポーカーフェイスにも似た笑顔と違い、純粋にその展開を喜んでいる事がよく分かるキラキラとした笑顔になる白夜を見て、黒夜が苦々しい表情で白夜から視線をそらし、その苦味を喉の奥に流し込むかのようにコーヒーに口をつける。
同じ苦味なら、白夜の無邪気な笑顔に対する嫌悪感よりも、コーヒーの苦みのほうがマシなのだろう。
胸糞悪い、とでも言いたげな黒夜には目もくれず、白夜は秀造にキラキラした笑顔を見せながら詰め寄る。
「それ、本当!? 本当なの!?」
「えぇ、本当ですよ。ただ……」
秀造はそこで一度言葉を切ってコーヒーカップの横のステックシュガーに手を伸ばす。
不穏な言葉の切り方に、白夜の表情から若干笑顔が消えて何とも中途半端な表情になり、黒夜の表情も何処か苦味が増す。
そして秀造はステックシュガーの袋を開け、中のグラニュー糖をコーヒーの中にサラサラと流し込んでから続けた。
「ある条件付きですがね。」
秀造の言葉を、白夜はきょとんとした様子で繰り返す。
「……条件?」
「えぇ、条件です。」
秀造はきょとんとした様子の白夜に視線を向けられたまま、先ほどグラニュー糖を投入したコーヒーをマドラーで軽く、静かにかき混ぜた。
条件、という不穏な言葉に白夜は少し不安になって、表情を困ったような顔に変えながら黒夜に振り向く。
黒夜はソファーに座ったまま相変わらず苛立たしげな表情で、その苛立ちを誤魔化すようにブラックのままのコーヒーを飲んでいたが、白夜の視線に気が付くとふいっとそっぽを向いてしまった。
それを見た白夜は、愛華の条件とやらはそんなにも自分に不利なものなのだろうかと不安になり、今度は秀造の顔を見る。
だが、秀造はいつも通りの穏やかな笑みという名の無表情を浮かべているだけで、白夜はそこからその条件の実態を見破る事ができなかった。
仕方なく白夜は、秀造に尋ねる。
「えっと、その条件って、何かな……?」
秀造は少しの間何も答えず、コーヒーカップを静かに持ち上げて砂糖入りのコーヒーを一口飲み、また静かにコーヒーカップを受け皿に戻してから、
「生まれる子供の養育及び教育の方針を、愛華さんに一任する事ですよ。」
と答えた。
コーヒーカップの持ち手を握る黒夜の手に僅かに力が入り、それと同時に黒夜は白夜に視線を向ける。
さて、この天国への階段に見せかけた地獄への直行便に、白夜は気づいて乗車を拒否する事ができるのか、それとも気付かずに乗ってしまうのか、もしくは気付いたうえでそれを無視して自ら地獄へ進んでいのか、黒夜は内心で、ここが一つの分かれ道になるだろうな、と考えている。
そんな黒夜の視線の先の白夜は、秀造の提示した愛華からの条件に驚いているようで、しばしの間秀造を見つめながら目をぱちくりさせていたが、やがて、
「えっ、と……それで、いいの?」
と、少し拍子抜けしたと言いたげな声で言った。
ああ、これは駄目だな、その条件の本質を見抜けていない、と感じた黒夜がそっと小さな溜息を吐く。
秀造の笑みも、一瞬だけ意味深長なものになった気がした。
白夜がどんな最悪の条件を想像していたのかは黒夜にも秀造にも知る事は出来ないが、少なくとも白夜にとって愛華が養育及び教育の主導権を握る事はそんなに恐ろしい事には見えなかったようだという事は確かだろう。
いや、これはもしかしたら、秀造の言い方がその条件の本当の意味を隠してしまっているからかもしれないが、ともかく白夜はその条件を呑むであろうという事は、黒夜と秀造には容易に想像ができた。
基本的に、白夜は楽観主義者で、愛華には甘いのである。
おそらく今の白夜は、愛華が養育と教育の方針を決める主導権を握るという事の意味を、愛華が子育てに協力的になったと勘違いしている事だろう。
その証拠に、秀造が白夜の問い返しに頷くと、白夜は安堵したような表情を見せた後、僅かに喜んでいるかのような表情になって、
「それなら大歓迎だよ! 愛華が養育や教育に積極的になってくれるなんて、夢みたいだ!」
と言うものだから、黒夜は内心で、まぁ実際それは兄さんだけが見てる夢と言っても過言じゃないね、と言い、溜息を吐かずにはいられなかった。
白夜の鈍感さも、秀造の狡猾さも、愛華の意地も、百合花と自分の無力さも、全てが苛立たしく胸糞悪くて、黒夜はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。
中身を飲み乾したコーヒーカップを受け皿に戻すその音はどこか乱暴だったが、愛華が出産を認めることを決めた事が嬉しくて舞い上がっている白夜にその苛立ちは届かない。
「秀造くん、その条件なら喜んで呑むって、今すぐ愛華に伝えてくれるかな?」
黒夜の苛立ちも虚しく、白夜は愛華の提示した条件の表面だけを見てそれを呑むことを決め、それを愛華に伝達する事を秀造に頼んだ。
秀造はまた一瞬だけ意味深長に微笑み、静かにコーヒーカップを持ち上げてグラニュー糖を溶かしたコーヒーを一口だけ飲むと、カップを受け皿に置き直し、スッと立ち上がる。
「では、そうお伝えしてきましょう。黒夜さんも行きますか?」
秀造が黒夜に視線を向けると、黒夜は白夜に視線を向けられた時の様にフイッとそっぽを向いて、
「……いや、僕は今度はいいや。秀造くんだけで行ってきなよ。」
と言った。
白夜はそれを頭上に疑問符を浮かべたような表情で見ながらコーヒーカップを持ち上げて、ミルク入りのコーヒーに口をつける。
どうやら白夜は本気で黒夜の苛立ちの意味を分かっていないらしく、とても不思議そうな、少しきょとんとした表情で黒夜を見ている。
黒夜は、秀造は勿論、白夜にも視線を向けようとはしなかった。
「……そうですか、では行ってまいります。」
秀造はそれらの対比を少し面白がるような視線で見てからそう言うと、部屋と廊下を繋ぐ扉へ向けて歩き出し、玄関に降りて靴を履き、扉の前に到着するとコントロールパネルを操作して扉を開いて廊下に出た。
その背中が分厚い鉄製の扉に邪魔されて見えなくなるまで、白夜は期待と尊敬に満ちた視線でそれを見つめていた。
おそらく、あんなにも意地になっていた愛華を説得できる秀造は凄い人物だ、とでも思っているのだろう。
そんな白夜を、軽蔑するような、そして哀れむような視線で見詰めているのは黒夜だ。
黒夜の中では、秀造と愛華に騙されているに等しい白夜を可哀想に思う気持ちと、そんな事は白夜の自業自得だと思う気持ちが今この瞬間もぶつかり合っていた。
愛華たちが言う“それ”――子供の事も、白夜という自分の兄の子供だと思うとそれなりに心配する気持ちも生まれるが、愛華という他人の子供だと思うとどうでもいいような気もする。
だから黒夜は、愛華と秀造の隠した真実を白夜に告げるべきかどうか悩んでいた。
白夜の弟としてはそれ告げたいのは山々ではあるのだが、告げ口の相手である白夜が、愛華に酷く甘い所があるので、告げたところで信じてもらえる気がしない、という懸念も消えない。
どうせまた白夜は、黒夜と愛華は仲が悪い、程度の認識しかしないのだろう、そう思うと告げる気が失せるのを黒夜は感じていた。
だがそれでも黒夜は、自分は光闇 白夜の弟だ、と思い直し、それまで白夜にも、今は愛華の部屋に向かっている途中であろう秀造にも向けていなかった視線を白夜に向けて呼びかける。
「ねぇ、兄さん。」
「ん? なんだい黒夜。」
黒夜に振り向いた白夜は穏やかで尚且つ少し楽しげな微笑を湛えている。
それを見て黒夜の意思が揺らぐ、それは白夜の笑みを壊したくないからか、それとも将来的にその笑みを壊したいからなのかは、黒夜にも分からない。
今だけでも夢を見させておくべきか、それとも今のうちに夢を壊しておくべきか、黒夜は悩む。
「そのさ……さっきの話の事だけど……」
「あぁ、なんだかんだで愛華も育児に参加してくれる事になってよかったよ。一時はどうなる事かと思ったけどね。」
楽しそうに語る白夜を見て、黒夜の意思がさらに揺らぐ、否、歪む。
この鈍感が! ずっと後で今日の事を後悔しろ! という、罵倒とほぼ変わりない言葉が脳裏に浮かぶと同時に、そんな兄だからこそ自分がサポートしてやらなければならないという気持ちも生まれて、もう何が何だか訳が分からない。
黒夜はそっと視線を自分の膝に向け、右手で頭を抱えて瞼を閉じた。
そして、愛華の提示した条件の真の目的について白夜に警告した場合と、逆に警告しなかった場合のリスクについて考える。
自分が相手にとって残酷な真実を知っている時、それを伝える事と黙っている事は、どちらの方がより罪に思われてしまうのだろう?
自分の兄――白夜は、先に予防注射の様に僅かな真実の兆しを見てから真実そのものに遭遇する事と、何の準備も無くいきなり真実に触れる事、どちらの方をマシと思うのだろう?
そこまで考えて、黒夜は内心で首を横に振った。
違う、白夜の心を軽くするという意味で考えてはいけない、後で自分――黒夜こそが正しかったのだと認めてもらう為に必要な手段はどちらなのかを考えなければ、答えは出ない。
そうだ、これは白夜の為の行動ではないし、赤子の為の行動でもなく、ましてや愛華の為の行動などではない、他でもない自分の為の行動なのだ。
「黒夜? どうかしたのかい?」
白夜の不思議がるような声が聞こえた時、黒夜はゆっくりと目を開いた。
頭を抱えていた手を膝の上に戻して、猫背になっていた上半身を起こして顔を上げ、自分に表現できる精一杯の不安と憐憫の感情を表情に滲ませて白夜の顔を見る。
白夜は黒夜のその表情の意味を読み切れず、殊更不思議がるような顔をして首を傾げた。
そして黒夜は決断を下す。
「……兄さん、気を付けて、あの女は、花道 愛華は狂ってる。」
黒夜の下した決断は、白夜に最低限の事を伝えておく事だった。
とは言ってもこれも真実をすべて告げている訳ではないから、真に白夜を思っての決断ではない、と黒夜は内心で自嘲する。
そう、これは飽く迄も、黒夜が悪者扱いをされないための予防策の一部でしかないのだ。
近い将来、白夜が愛華の真の目的を目にして、その時愛華が“黒夜はすでに知っているはずだけど”などと抜かした場合に、“僕は最初に警告したけど”と言い訳をする、それだけの為の準備。
勿論、黒夜には白夜を心配する気持ちが無い訳ではない、むしろ黒夜は黒夜と白夜に愛華と百合花と秀造を足した五人の中では唯一白夜を心配していると言っても過言ではない。
だが、その心配する気持ちと同じぐらい、白夜に痛い目を見せてやりたい気持ちもあるのだ。
自分でも情けないと思う、けれど止める事の出来ない愛情と憎悪が黒夜を蝕む。
その愛憎の中で僅かに勝る愛が、黒夜に愛華の狂気性を白夜へと告げさせていた。
それを告げられた白夜は、一瞬驚いたような、えっ? と言いたげな顔で固まったが、徐々にその表情に笑みを戻して、ソファーから立ち上がると黒夜のすぐ隣に座り直す。
そして、黒夜の頭に優しく自分の右手をのせて、その下の黒い髪をそっと撫でた。
その行動に、黒夜は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、白夜が自分の忠告を聞き入れてくれる事を期待した、が、白夜は、
「はは、黒夜は心配性だね。まさか愛華の事を狂ってるなんて言われるとは思わなかったよ。」
と言って笑うものだから、黒夜はがっかりして視線を伏せる事しかできなかった。
白夜のその愛華を信じ切った笑顔を、黒夜は以前にも見た事がある。
確かあれは、Dirty Blood設立の計画が愛華から白夜へ伝えられた時期だっただろうか? あの頃の白夜もこうして笑っていた気がする、と黒夜は思い出す。
そんな事だから貴方は、ズブズブと深い底無し沼に沈むように、この世界から、この社会から、あの家族から切り離されて、実態の伴わない悪と汚れのレッテルを貼られて、人並みの幸せを失ってしまったという事を、分かっているのだろうか? と問いかけたい。
けれど、黒夜にそれを口にすることはできそうもない。
一見柔軟そうに見える白夜だが、自分が信じる者は結構頑固に信じる性質なのだ。
そして今、白夜が一番に信頼を置く相手は、黒夜ではなく愛華である、その事実を、黒夜は知っている。
「大丈夫、愛華もきっと分かってくれるよ、“あの子”は大切な私達の子供だってね。」
黒夜の髪を子供の紙を撫でるように優しく撫でながら笑う白夜に、黒夜はもう何も言えなかった。
End.
「それ、どういう事……?」
いまいち意味の見えてこない秀造の言葉に、愛華が驚き気味の表情で聞き返した。
すると秀造は殊更楽しそうに、しかし細めた目の中央から愛華の目を射抜くように見詰めながら、言う。
「一度産んで、その個体の能力を詳細に観察し、それが一定の成果を出せなかった時に改めて殺せばいいのですよ。」
一瞬、部屋の中の空気が完全に凍りついた。
愛華は勿論、百合花も黒夜も予想だにしなかった秀造の発言に驚いて、目を見開いたまま硬直して、それが解けない。
それから数秒間の間、誰も言葉を発さない本当の沈黙が四人の間に流れたが、なんとかその氷を打ち破って黒夜が声を上げた。
「ちょっ……秀造くん何言ってるんだよ!? そんなの向こうでは全然ッ」
全然話に上がらなかった事じゃないか! と声を荒らげて言おうとする黒夜に、秀造は視線を向け、右手の人差し指を自分の口元に当てて、鎮まるよう合図する。
黒夜は納得がいかなそうな顔をしながらも言葉をそこで切り、黙った。
百合花は、秀造の穏やかな笑顔に似合わない発言にただただ驚くばかりで、愛華と秀造に近付く事も忘れて秀造に視線を向けていた。
秀造は黒夜と百合花が何も言わなくなった事を確認すると、改めて愛華に視線を向ける。
秀造の視線の先の愛華は相当驚いてはいるようだったが、黒夜のような焦りは感じさせない、どこかポカンとした表情をしていた。
「一度産んで、後で殺す……?」
「はい、そうです。正確には、一度生んで、能力が悪ければ後で殺す、ですけどね。愛華さんは、今ご自分の子宮の中にある“それ”を、我が子とは思っていないのですよね?」
少しもオブラートに包まない質問の仕方に愛華の方が少し緊張してしまう。
確かに愛華は“それ”を自分の子供だとか我が子だとか、そんな事は思っていないのだが、自分で言うのと他人に確認されて言うのではその意味が少しだけ違ってきてしまうのだ。
ともかく、愛華は秀造にそれを言われて少ししどろもどろになりながらも答える。
「え、えぇ……そうだけど……」
「やはりそうですか、それなら話は簡単ですね。私が言いたいのは、つまり、貴女の子宮の中にある“それ”を貴女や白夜さんの子供としてではなく、このDirty Bloodの団員として育て、その成果が見られるようなら生き残る道を、見られないようなら淘汰の道を選ばせようという事なのですよ。」
いつも通りの朗らかでのんびりとした笑顔のままとんでもない事を言い出した秀造に、黒夜が愛華に見せるような不快感を露わにした表情を見せる。
おそらく、秀造の意見が半分ほど白夜の意見を蔑ろにしているものだからだろう。
百合花は、驚いたまま何も言えなかった。
反対に愛華は、“それ”を自分の子供だとして扱わなくていいという方法に魅力を感じたのか、やや呆然としながらも少しずつ少しずつその顔に生気が戻りつつある。
「ど、どうやってその成果を確認するの?」
「簡単な話です、“それ”が自分の脚で歩き、真っ直ぐ走れるようになった段階で戦闘に出せばいいのですよ。成果が出ていれば“それ”は生き残るでしょうし、成果が無ければそこで死に絶えるでしょうから。」
部屋の壁に寄りかかって玄関に立つ黒夜は、もしかしてこのDirty Bloodの真の首領はこの天照 秀造なのではないだろうか? という疑いを僅かに感じつつ秀造と愛華を睨んだ。
百合花は、愛華が生気を取り戻し始めた事には安堵しながらも、例えどれだけ我が子と思えぬ存在だとしても、そんな事が許されるのだろうかと悩む。
この環境での生活に慣れている愛華、またそれに適応している秀造と違い、百合花には表の人間らしい道徳の考えがまだ残っているのだ。
だから百合花は、“それ”を生まれながらの犯罪者にすると言っても過言ではない秀造の提案に不安と罪悪感を感じ、そんな事はするべきではないのではないだろうか? と言いたげな視線で愛華を見る。
百合花、黒夜、そして秀造の三人に視線を向けられた愛華は、まだ膨らみの無い自分の下腹部を見ながら考えた。
何度も言っている通り、愛華は“これ”を自分の愛しい子供だなどという事は一切思っていない。
むしろ“これ”は一種の悪性腫瘍のような、すぐにでも身体から切り離して殺さなければいけない異物だとしか思えない。
だから殺したい、その思いに変わりは無い、けれど、それだけでは白夜を説得できない。
そうこうしている内に時間だけが流れてしまえばやがて“これ”は堕胎が不可能になり、白夜のごね得となってしまう、愛華の意志は蔑ろにされてしまう、そう思っていた、けれども、愛華の殺す意志も白夜の生かす意志もある程度尊重できる第三の方法が、あるとしたら?
「……本当に、“これ”を子供だと思わなくていいの? 人間だなんて、私が人間を産んだなんて、思わなくて、いいの?」
愛華は下腹部を見ていた顔を上げ、縋るような視線を秀造に向けた。
視線を向けられた秀造はゆっくりと頷いて、ニッコリという擬音が似合いそうな優しい笑顔を見せながら、
「えぇ、“それ”は子供ではなくこのDirty Bloodの団員です。人間で無いなら何だというのかは、“それ”の能力を見て貴女が独自に判断なさればいいかと思いますよ。」
と回答すると、そこから更に、
「それから、あまり気が向かないとは思いますが、“それ”の教育は主に貴女がするべきでしょうねぇ。もし白夜さんに任せれば、確かに貴女は“それ”に触れなくて済みますが、代わりに“それ”は人間としての成長の道を歩んでしまうでしょう。ですから“それ”が人間でないと言うのなら、その証人は貴女でなくてはならないのですよ、愛華さん。飽くまでも貴女の手で、“それ”をDirty Bloodの団員として人間ではない何かに形作るのです。」
とまで言い出した。
愛華はまだ秀造の提案に驚きを隠せない様子ではあるが、それでもその顔には確かに生気が戻っている。
ああ、愛華は秀造の提案を受け入れるつもりだ、と感じた黒夜の表情が一層険しくなり、百合花の耳には愛華のものでも秀造のものでもない、つまりは黒夜のものである舌打ちの音が届いた。
おそらく、白夜の知らない所で話がおかしな方向に進んでいる事が腹立たしいのだろう。
普段ならば、愛華の決めたことに対して不満を漏らす者は冷静に、しかし徹底的に糾弾して黙らせる百合花だが、今回ばかりは黒夜の反応の方が正しい気がして何も言えない。
何故ならば、秀造の提案が非人道的である事は勿論、その提案に賛同しようとしている愛華の表情が、どこか狂気的に見えたからだ。
目を見開いたまま徐々に口の端を吊り上げて歪んだ笑みを浮かべ始める愛華の表情は、今まで見てきた愛華のどんな表情よりも禍々しく、生気はあっても正気とは思えなかった。
愛華は自分の子宮から生まれ出る、否、排出される生命で、一体何を作ろうとしているのか、百合花には全く想像がつかない。
不安と躊躇いの混ざった視線で愛華を見る百合花と、苛立たしげに愛華と秀造を睨む黒夜、そしてどこまでも笑顔の秀造というバラバラな様子の三人に視線を向けられながら、愛華は歪んだ笑顔のまま自分の下腹部に視線を落とし、ゆっくりと口を開く。
「そう……そうね……だったら私は、“これ”をこのDirty Bloodの象徴にするわ……私を安易に弾き出した社会を破壊し、そんな社会の恩恵を甘受する低能どもを皆殺しにできる、そんな、汚れた血の象徴、究極の人でなし、人間を殺すためだけに生きる、殺人鬼に……!」
愛華はそう言って自分の下腹部に手を当てるが、歪んだ笑顔故か、それともその教育方針故なのか、百合花と黒夜にはそれを一般的な妊婦像と重ねて見る事ができず、百合花は姉を止められない罪悪感に沈み、黒夜は忌々しげに愛華から視線を逸らした。
妊婦が自分の下腹部に手を当てるというのは、本来ならば、その手から赤子への愛情を伝えるための行為のはずなのだが、愛華のそれは愛情など微塵も感じさせないどころか、何か別のものを感じさせる。
特に、愛華の妹である百合花には、さぁ早く出ておいで、私があなたを壊してあげる、という愛華の声が聞こえた気がしてきた。
黒夜も、その声こそ聞こえないものの、愛華が“それ”を内部から破壊、つまり、人間性の殺害をするつもりであることは予想している。
嗚呼、愛華は一体どこまで我が儘なのだろう、自分から兄を奪っていくだけでなく、奪ってまで手にした兄との子供を内側から殺そうだなんて、と黒夜は思ったが、この場では黙って置く事にした。
それはきっと、“それ”が半分は白夜の子供であると同時に、もう半分は愛華の子供でもある事と、無関係ではないだろう。
そして何より、奪われた本人である兄が、望んで愛華に奪われた節があるという事も。
そうして百合花と黒夜と秀造の三人はしばしの間、歪んだ笑みを浮かべながら下腹部に手を当てる愛華を見ていたが、やがて秀造が笑顔のまま愛華へ、
「……そうですか、では、愛華さんも出産可能、ただし愛華さんが教育の主権を握る場合に限る、という事でよろしいですね?」
と、確認を取った。
愛華は下腹部から手を離し、ゆっくりと顔を上げ、立ち上がる。
立ち上がった愛華の顔にはもう先ほどの狂気的で歪な笑みは浮かんでいなかったが、その代わりに攻撃的な感情に満ちていると推測できる、美人ながらも凶悪な笑みが浮かんでいて、百合花はなんだか悲しくなった。
Dirty Bloodを設立してから、いや設立する少し前から、両親と社会に見放された瞬間から、愛華は変わってしまった、と百合花は思う。
何故なら、もう何年も昔の、大学院生だった頃の百合花の思い出の中にいる愛華は、確かに元々強気で、やられたらやり返さなければ気が済まない性格ではあったが、それでもこんな、凶悪さや狂気性は持っていなかったからだ。
それがどうしてこうなってしまったのだろうか? 愛華の言う通り愛華を弾き出した両親と社会が悪いのだろうか? それともそれらに従わず弾き出された愛華が悪いのだろうか? 百合花にはわからない。
ただ、今の百合花に愛華の事でわかる事があるとすれば、愛華は今、新しい罪を産み落とそうとしているという事と、それに対して自分は何もできないという事だけだ。
複雑な思いを抱えて立ち尽くす百合花に見守られながら立ち上がった愛華は、美人ながらも凶悪で、どこか自信に満ちて生気のある笑みを浮かべながら秀造の問いに返答する。
「えぇ、それでいいわ。白夜にそう伝えて頂戴。」
その時の愛華はちょうど、Dirty Blood首領として作戦を指示している時と同じ表情をしていて、愛華は完全に自分の子宮の中の“それ”をDirty Bloodの団員予備軍として扱うつもりなのだと百合花は感じ取った。
だが、感じ取っただけで、何も言えなかった。
本当にこれでいいのか、この展開は正しいのかと何度も自分に問いかけるも、分からない、の五文字しか浮かばなくて、僅かな希望に縋るように百合花は黒夜を見る。
しかし、黒夜は百合花の視線に気づきはしたものの、すぐに不機嫌そうな顔で百合花から視線をそらしてしまう。
百合花は一瞬黒夜の態度に憤りを感じたが、次の瞬間には、黒夜もきっと自分と同じような、否、自分よりも苦い思いでいるのだろう、と思いその憤りを鎮火させ、再び愛華と秀造に視線を向ける。
「わかりました、では、白夜さんには、愛華さんが教育の主権を握る場合のみ出産可能と伝えておきましょう。」
相変わらず朗らかな笑顔と穏やかな声音で、秀造は愛華の意思を確認した。
愛華が教育の主権を握るという事はおそらく、白夜は“それ”――我が子に指一本さえ触れる機会がない言っても過言ではないのだろうな、と考えた黒夜が頭を掻きつつ溜息を吐く。
だが黒夜は、それを正面から非難する様子は見せない。
それはやはり黒夜の中に、兄である白夜の権利や主張は何としても守りたい、という思いがある一方で、自分から兄を奪った女である愛華の血縁者などどうでもいい、という思いがあるからだろうか、黒夜はこの場では黙っておき、後で白夜に簡潔な忠告を残す事を選択した。
正直な話、この瞬間この施設の中で本当に愛華の中の“それ”の事を思う故の躊躇いや葛藤を感じていたのは百合花ただ独りだった、という事が発覚するのはまだ先の話である。
ともかくこれで、愛華の中のそれは一先ず生存を許される事は決まった。
出産自体には賛成する事になったものの、“それ”を自分の子供として扱う義務を逃れる事となっていつもの雰囲気を取り戻し始めた愛華に、秀造は軽く一礼してから背を向け、玄関に向けて歩き出す。
途中、秀造は百合花の横も通り過ぎた。
百合花の視界に映った秀造は飽く迄も笑顔で、百合花はそんな秀造に底知れぬ恐怖のような気分の悪さを感じたが、だからと言ってそれを指摘する事は愛華を敵に回すより恐ろしい事のような気がして、できなかった。
百合花の横を通り過ぎた秀造は玄関に到着し、靴を履き終えるともう一度、部屋の中にいる愛華と百合花に振り一礼しながら、
「では、また後でお会いしましょう。」
と言った。
おそらく、次に秀造がこの部屋を訪れるのは、白夜が愛華の提示した条件を呑んだ時なのだろう。
そしてきっと、優しくて温厚な白夜はこれ以上の争いを避けるために愛華の提示た条件を、それがどういう事を意味しているのかも分からないまま呑むのだろう。
百合花は罪悪感から、黒夜は胸糞悪さから右手で軽く頭を抱えた。
そんな黒夜に、靴を履き終えた秀造が笑顔で声をかける。
「さぁ、黒夜さん、白夜さんの部屋へ戻りますよ。」
「……あぁ、うん……そうだね。」
秀造に声をかけられた黒夜は一瞬何かを躊躇った様子だったが、すぐに百合花と愛華に背を向けて扉の隣のコントロールパネルに手を伸ばし、部屋と廊下を繋ぐ扉を開いた。
この時もしも廊下に誰か別の団員がいれば、その団員は心底複雑そうな黒夜の表情を見る事ができただろう、が、そこには幸い誰もいはしない。
黒夜は一瞬愛華と百合花に振り返ろうかと思ったようだったが、結局は振り返る事の無いままで部屋から廊下への一歩を踏み出した。
黒夜が廊下へ出るとそれを追うように秀造も廊下への一歩を踏み出し、そのまま部屋を後にする。
そして扉が閉まる直前、秀造はこれが最後と言わんばかりに部屋の中へ振り返って、英国紳士のような一礼を見せた。
直後、扉がシューっという音を立てて閉まり、秀造と黒夜の姿が見えなくなる。
百合花はしばらく黒夜と秀造が出ていった扉を見つめていたが、やがて背後でボスンッとソファーの上に何かが勢い良く落ちるような音を聞いてそちらに視線を向けた。
見ると、それまで立っていた愛華がソファーに座っている。
どうやら先ほどの音は愛華が勢い良くソファーに座った音だったようだ。
百合花はしばし呆然とそれを見ていたが、それに気づいた愛華が軽く手招きをしながら百合花を呼ぶ。
「百合花、貴女も座りなさいよ。」
最初に百合花を出迎えた時の狼狽ぶりから一転、いつもの調子が戻ってきた愛華に百合花は少し戸惑いながらも頷き、ソファーへ向かって歩き出した。
そして百合花が愛華とは対照的にあまり音を立てずそっとソファーに座ると、愛華はそれまで放置されていた水入りのグラスにようやく手を伸ばし、グラスの中の水を飲み始める。
先ほどまで全くそのような気配はなかったのに、と思う百合花の目の前で、愛華はグラスの中の水を飲み干し、殻になったグラスをテーブルの上に戻した。
コンッ、とグラスとテーブルがぶつかる音がする。
中途半端に中身の水が減った百合花のグラスと違い、ほぼ満杯から一気にその中身を失くした愛華のグラスは、愛華の感情の揺れ幅の大きさを表しているようだ。
愛華のグラスの中に水が無くなったように、もう愛華の中には迷いはないのかもしれない。
だとしたら、一度決めた事は意地でも曲げないという愛華の性格上、もう自分に言えることは何もないのだろう、とは思うものの、それでもやはり生まれながらにして人の道を強制的に踏み外される“それ”が哀れで、何より狂気に堕ちる愛華が痛々しくて、百合花は躊躇いがちに口を開く。
「姉さん、その……」
「何かしら、百合花。」
迷いが消えてすっきりしたのか、愛華は涼しげな態度で百合花の呼びかけに応じた。
百合花は少しの沈黙を挟み、視線を自分の膝に落としてやや口籠りながら続ける。
「……本気、なの? “それ”を、その……Dirty Bloodの象徴に育てる、って……。」
申し訳ないが自分はその案には反対したい、という意思を滲ませて、百合花は自分の精一杯の問いかけを愛華にぶつけた。
そして自分の膝に視線を向けたまま、耳に神経を集中させて愛華の返答を待つ。
だが、待てども待てども愛華は百合花の問いかけに答えようとしないどころか、物音一つたてなくなってしまった。
肌がピリピリと痛むような、居心地の悪い沈黙が二人の間に舞い降りる。
やはり、訊くべきではなかったのだろうか? と後悔を感じ始めた百合花が愛華の様子を窺おうと恐る恐る顔を上げ始めた、その時、
「……そうよ。」
しばしの間無言になっていた愛華が急に口を開き、百合花は少し驚いて顔を上げ、愛華に視線を向けた。
百合花の視界に映る愛華はつい先ほどの涼しげな様子から一転して、自分の下腹部を蔑むような表情で睨みながら、膝の上に乗せた両手を強く強く握りしめている。
それは、百合花が愛華の意思に反するような事を言い出した事が気に障り、“それ”への憎悪を再び燃え上がらせてしまったからだろう。
心の底から、こんなものはいらない、と思っていて、だから本当は秀造の出した折衷案でさえ受け入れ難い所がある愛華は今、白夜と黒夜と秀造の三人から自分の意思をないがしろにされているような感覚を消せずにいる。
そんな中で、最後の砦にも等しい実の妹の百合花からもその意思を否定されれば、不愉快極まりないのも当然かもしれない。
愛華はゆっくりと顔を上げると、まるで自分の敵を睨むような鋭い視線で百合花を睨む。
その視線と目が合ってしまった百合花の背筋に緊張が走った。
愛華は百合花の反対を押さえつけるように、そして何より自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「“これ”は人間なんかじゃないわ、だから人間として育てる必要なんてないのよ。“これ”は飽く迄も“これ”である以外の何でもない……そこへ仮に生きる権利と存在価値を与えてあげるんだから、私は“これ”から感謝されてもいいくらいなのよ。ただ……」
愛華は一旦そこで言葉を切り、再び自分の下腹部を見た。
静かで平らな下腹部は、一見しただけではそれが妊婦のものだと気づかれることは無いだろう。
しかし、その腹の中には百パーセントに迫る確率で愛華ではない誰かがいて、今も愛華の身体から養分をむしり取って成長している、愛華から色々なものを奪っていく、だから、
「……ただ、それ以外のものは何も与えない、いえ寧ろ、奪い返してあげるわ。“これ”が私の身体から、周囲から、色々なものを奪うように、ね……。」
普通と呼ばれる表の子供達が持つようなものは一切与えず、それらが与えられるようなチャンスは全て奪って壊してやる、というのが愛華の決意だった。
百合花はどう言い返せばいいのか分からずに沈黙し、それを誤魔化すように、まだ中に水が残っている自分のグラスに手を伸し、グラスを口元で傾けて中の水を少しずつ飲みながらも、愛華の様子を視線だけで観察する。
愛華は膝に握りしめた両手をのせたまま、怨むような、呪うような、苦々しく怒りと後悔に満ちた表情で自分の下腹部を見ており、百合花には愛華が今自分の下腹部を殴っていない事が奇跡に思えた。
それと同時に、愛華の心の中は“それ”への憎悪と嫌悪でいっぱいになっているという事も感じ、百合花は少し悲しくなる。
愛華は社会や親、そして“それ”への憎悪と嫌悪に壊され、同時にそれらへの憎悪と嫌悪を糧に生きている、そう考えると、百合花には愛華が終わる事のない悪循環の中で生きているように感じられたのだ。
そんな感情から沈黙したまま何も言えなくなった百合花に対して少しだけ気まずい思いが芽生えたのか、百合花が空になったグラスをテーブルに置いた頃、愛華は下腹部から視線を上げて少し苦笑しながら再び口を開く。
「まぁ、この話は終わりにしましょう。もし何かあって流産死産すればそれまでだし、完璧に育って排出されるとしても、あと七ヶ月前後はあるんだから……。」
それは今この瞬間の重い空気を打ち消そうという努力の感じられる言葉ではあったが、流産を願うような言葉や本来“それ”を相手に使うべきに使う言葉ではない排出という表現は、愛華が“それ”を人間と思っていない事も感じさせる言い回しで、何をどう返答すればいいのか分からない百合花はしばし重苦しい表情で沈黙したままだった。
本来愛華が抱え込むべき罪悪感を肩代わりしているような表情の百合花に、愛華の表情が少し曇る。
と言っても、それは“それ”を人間扱いしない事への罪悪感ではなく、百合花に悲しそうな顔をさせてしまった事への罪悪感という、いかにも自業自得な感情なのだが。
愛華と百合花の間に再び沈黙が舞い降りる。
それぞれ、相手に言いたい事自体は沢山ある、が、それをどういうタイミングでどう口にすれば相手を傷付けずに済むかが分からないのだ。
だから百合花は、しばしの沈黙の後、小さな溜息を吐いてから、
「……そうね、そうしましょ。」
と言って、愛華と同じように苦笑した。
一方その頃、黒夜と秀造はお互いに無言のまま通路を歩いて、白夜の部屋の前へと帰還しようとしていた。
固い廊下の床に革靴の底が当たるコツコツという音をほぼ同じタイミングで立てながらで歩く二人の間には、パッと見ただけでは分かり難いが、やや張り詰めた沈黙も漂っていて、もしもここに他の団員が通りかかれば、主に黒夜の表情を見て、それから更にそれとは真反対な秀造の表情を見て、その雰囲気の差の激しさに、何があったのかと不思議に思う事だろう。
明らかに不機嫌そうで苛立たしそうな表情の黒夜と、それとは反対に穏やかな笑みを浮かべたままの秀造は、白夜の部屋の前へとたどり着くと、まず秀造が扉を二回ほど軽く叩いて白夜に帰還を伝える。
「白夜さん、ただいま戻りましたよ。」
秀造が扉の奥の白夜に声をかけると、声での返事の代わりに扉の向こう側でバタバタと誰かが駆けてくるような音がしてきた。
おそらく白夜が扉を開けるために玄関横のコントロールパネルに焦って駆け寄ってきたのだろう、が、そんなものは待っていられないと言わんばかりに、黒夜は扉の横に取り付けられたカードリーダー付きの外側用コントロールパネルの前に立って、右手に持ったカードキーをカードリーダーに通す。
すると、シューッと軽い音を立てて扉は開き、扉の横のコントロールパネルに指を触れようとしたままきょとんとした表情で動きを止めた白夜の姿が見えた。
「あれっ、秀造くんは此処の鍵は……」
「兄さん、鍵なら僕が持ってるじゃないか。」
どうやら白夜は、秀造はこの部屋の鍵を持っていないから、二人はこの扉を開けられないだろう、と思っていたらしい。
黒夜が呆れた様子で言いながらカードキーを白夜の目前へ突き出すと、白夜はしばしそれを凝視した後、あぁ! と声を出して扉が開いた理由に納得した様子だった。
その一連の動作の子供っぽさに、黒夜の背後で秀造がクスクスと笑い、黒夜は溜息を吐く。
白夜は黒夜が持つ鍵の存在を忘れていたことを誤魔化すように笑った。
「そ、そうだったね! いやぁ、焦ってたから忘れてたよ、あはは……あ、中に入る?」
「入る。」
白夜の誤魔化し笑い交じりの問いかけに、黒夜はそっけなく答えて玄関へ足を踏み入れ、靴を脱いで部屋に上がった。
それを追いかけるように秀造も玄関に足を踏み入れ、それを見た白夜が手動で部屋の扉を閉める。
部屋の中に踏み入ってみると、そこにはもうすでに消え去っていてもおかしくないはずのコーヒーの香りが漂っている。
どうしてかと思って黒夜が部屋の中を見回すと、最初に白夜と黒夜が座って談笑を交わしていたのとは別の所、部屋の中央付近に置かれた低いテーブルの上に、二人が飲んでいた物とは別と思われるコーヒーカップが三つ置かれているのが見えた。
「二人が愛華の所に行ってしばらくしてから淹れ直したんだ。最初のは冷えちゃったし、秀造くんの分も必要だと思ったから。」
黒夜の不思議そうな視線に気が付いたのか、白夜がそのコーヒーカップの存在理由を説明した。
ソファーにコの字型に囲まれたテーブルの上の三つのコーヒーカップはよく見ると、傍にコーヒー用の粉ミルクの袋が置いてあったり、スティックタイプのグラニュー糖が置いてあったり、マドラーしか置いていなかったりしている。
細かな気遣いが得意で、自分を含む五人のコーヒーの好みを覚えている白夜らしい気遣いだ、と感心しながら、黒夜は自分の分と思わしき、マドラー以外は近くに何も置かれていないコーヒーカップのそばへ歩み寄り、その前でソファーに腰かける。
黒夜が無言で腰かけると、まだ玄関から部屋の中を見ているままだった秀造が白夜に一礼し、
「いやはや、お心遣いを有難うございます。」
と言って靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れてソファーへ向けて歩き出した。
白夜もそれを追ってコントロールパネルの前から離れ、ソファーに近づく。
低いテーブルの上のコーヒーカップはテーブルの四角形とソファーのコの字に合わせるように、そして白夜に逃げ道を与えない様に、白夜の左右に黒夜と秀造を座らせる形で置かれている。
その為白夜と秀造はほぼ同じタイミングでソファーのもとへ近づくと、先に白夜がテーブルとソファーの間に入り込み、自分のコーヒーと粉ミルクが置いてある辺に座り、最後に秀造がコーヒーとグラニュー糖の置いてある残りの一辺に腰かけた。
三人は、その座り方もバラバラだ。
黒夜は背凭れに深く寄りかかって足を組んでいるし、秀造は逆に背凭れには寄りかからずやや猫背の姿勢で膝を肩幅程度に開いて座っていて、白夜は黒夜の様に背もたれに寄り掛かる訳でも秀造の様に猫背になる訳でもなく、背筋をしゃんと伸ばしてお行儀良く教育された少女の様に膝を閉じて座っている。
それはコーヒーの味の好みと合わせて、この三人の性格が非常にバラバラである事を表しているようだ。
それぞれ思い思いの姿勢でソファーに座った三人の間に訪れるわずかな静寂、それを破ったのは意外にも黒夜や秀造ではなく白夜だった。
「それで、本題だけど……愛華の答えは、結局どうなったの? やっぱり……堕胎……?」
白夜は、黒夜と秀造の表情や挙動を窺うようにちらちらと二人を見比べながら、恐る恐るといった様子で二人に尋ねた。
尋ねられた二人は一瞬顔を見合わせて、黒夜と秀造のどちらがこの話を切り出すべきかを視線と表情で話し合う。
秀造が、黒夜さんからお話ししますか? という意味を込めて黒夜に微笑みかけると、それを理解した黒夜は無言で首を横に振った。
どうやら黒夜にこの話を自分の口から切り出すつもりは無いらしい、とこれまたその挙動だけで理解した秀造は、殊更楽しそうな微笑みを見せて、黒夜を見たまま小さく頷いてから白夜に視線を向けた。
白夜の背筋に緊張が走る。
やがて秀造は少しの沈黙を挟んでから笑顔のまま口を開いた。
「……いえ、それが、実は少し事情が変わりましてね、愛華さん、出産可能だそうですよ。」
秀造が白夜に愛華の意見が変わったことを告げると、白夜は明らかに驚き目を丸くして、ポカンとした表情のまま固まってしまったが、数秒もすると秀造の言った事の意味を理解したのか、その表情に明らかに喜びの色を浮かべ始めた。
秀造のポーカーフェイスにも似た笑顔と違い、純粋にその展開を喜んでいる事がよく分かるキラキラとした笑顔になる白夜を見て、黒夜が苦々しい表情で白夜から視線をそらし、その苦味を喉の奥に流し込むかのようにコーヒーに口をつける。
同じ苦味なら、白夜の無邪気な笑顔に対する嫌悪感よりも、コーヒーの苦みのほうがマシなのだろう。
胸糞悪い、とでも言いたげな黒夜には目もくれず、白夜は秀造にキラキラした笑顔を見せながら詰め寄る。
「それ、本当!? 本当なの!?」
「えぇ、本当ですよ。ただ……」
秀造はそこで一度言葉を切ってコーヒーカップの横のステックシュガーに手を伸ばす。
不穏な言葉の切り方に、白夜の表情から若干笑顔が消えて何とも中途半端な表情になり、黒夜の表情も何処か苦味が増す。
そして秀造はステックシュガーの袋を開け、中のグラニュー糖をコーヒーの中にサラサラと流し込んでから続けた。
「ある条件付きですがね。」
秀造の言葉を、白夜はきょとんとした様子で繰り返す。
「……条件?」
「えぇ、条件です。」
秀造はきょとんとした様子の白夜に視線を向けられたまま、先ほどグラニュー糖を投入したコーヒーをマドラーで軽く、静かにかき混ぜた。
条件、という不穏な言葉に白夜は少し不安になって、表情を困ったような顔に変えながら黒夜に振り向く。
黒夜はソファーに座ったまま相変わらず苛立たしげな表情で、その苛立ちを誤魔化すようにブラックのままのコーヒーを飲んでいたが、白夜の視線に気が付くとふいっとそっぽを向いてしまった。
それを見た白夜は、愛華の条件とやらはそんなにも自分に不利なものなのだろうかと不安になり、今度は秀造の顔を見る。
だが、秀造はいつも通りの穏やかな笑みという名の無表情を浮かべているだけで、白夜はそこからその条件の実態を見破る事ができなかった。
仕方なく白夜は、秀造に尋ねる。
「えっと、その条件って、何かな……?」
秀造は少しの間何も答えず、コーヒーカップを静かに持ち上げて砂糖入りのコーヒーを一口飲み、また静かにコーヒーカップを受け皿に戻してから、
「生まれる子供の養育及び教育の方針を、愛華さんに一任する事ですよ。」
と答えた。
コーヒーカップの持ち手を握る黒夜の手に僅かに力が入り、それと同時に黒夜は白夜に視線を向ける。
さて、この天国への階段に見せかけた地獄への直行便に、白夜は気づいて乗車を拒否する事ができるのか、それとも気付かずに乗ってしまうのか、もしくは気付いたうえでそれを無視して自ら地獄へ進んでいのか、黒夜は内心で、ここが一つの分かれ道になるだろうな、と考えている。
そんな黒夜の視線の先の白夜は、秀造の提示した愛華からの条件に驚いているようで、しばしの間秀造を見つめながら目をぱちくりさせていたが、やがて、
「えっ、と……それで、いいの?」
と、少し拍子抜けしたと言いたげな声で言った。
ああ、これは駄目だな、その条件の本質を見抜けていない、と感じた黒夜がそっと小さな溜息を吐く。
秀造の笑みも、一瞬だけ意味深長なものになった気がした。
白夜がどんな最悪の条件を想像していたのかは黒夜にも秀造にも知る事は出来ないが、少なくとも白夜にとって愛華が養育及び教育の主導権を握る事はそんなに恐ろしい事には見えなかったようだという事は確かだろう。
いや、これはもしかしたら、秀造の言い方がその条件の本当の意味を隠してしまっているからかもしれないが、ともかく白夜はその条件を呑むであろうという事は、黒夜と秀造には容易に想像ができた。
基本的に、白夜は楽観主義者で、愛華には甘いのである。
おそらく今の白夜は、愛華が養育と教育の方針を決める主導権を握るという事の意味を、愛華が子育てに協力的になったと勘違いしている事だろう。
その証拠に、秀造が白夜の問い返しに頷くと、白夜は安堵したような表情を見せた後、僅かに喜んでいるかのような表情になって、
「それなら大歓迎だよ! 愛華が養育や教育に積極的になってくれるなんて、夢みたいだ!」
と言うものだから、黒夜は内心で、まぁ実際それは兄さんだけが見てる夢と言っても過言じゃないね、と言い、溜息を吐かずにはいられなかった。
白夜の鈍感さも、秀造の狡猾さも、愛華の意地も、百合花と自分の無力さも、全てが苛立たしく胸糞悪くて、黒夜はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。
中身を飲み乾したコーヒーカップを受け皿に戻すその音はどこか乱暴だったが、愛華が出産を認めることを決めた事が嬉しくて舞い上がっている白夜にその苛立ちは届かない。
「秀造くん、その条件なら喜んで呑むって、今すぐ愛華に伝えてくれるかな?」
黒夜の苛立ちも虚しく、白夜は愛華の提示した条件の表面だけを見てそれを呑むことを決め、それを愛華に伝達する事を秀造に頼んだ。
秀造はまた一瞬だけ意味深長に微笑み、静かにコーヒーカップを持ち上げてグラニュー糖を溶かしたコーヒーを一口だけ飲むと、カップを受け皿に置き直し、スッと立ち上がる。
「では、そうお伝えしてきましょう。黒夜さんも行きますか?」
秀造が黒夜に視線を向けると、黒夜は白夜に視線を向けられた時の様にフイッとそっぽを向いて、
「……いや、僕は今度はいいや。秀造くんだけで行ってきなよ。」
と言った。
白夜はそれを頭上に疑問符を浮かべたような表情で見ながらコーヒーカップを持ち上げて、ミルク入りのコーヒーに口をつける。
どうやら白夜は本気で黒夜の苛立ちの意味を分かっていないらしく、とても不思議そうな、少しきょとんとした表情で黒夜を見ている。
黒夜は、秀造は勿論、白夜にも視線を向けようとはしなかった。
「……そうですか、では行ってまいります。」
秀造はそれらの対比を少し面白がるような視線で見てからそう言うと、部屋と廊下を繋ぐ扉へ向けて歩き出し、玄関に降りて靴を履き、扉の前に到着するとコントロールパネルを操作して扉を開いて廊下に出た。
その背中が分厚い鉄製の扉に邪魔されて見えなくなるまで、白夜は期待と尊敬に満ちた視線でそれを見つめていた。
おそらく、あんなにも意地になっていた愛華を説得できる秀造は凄い人物だ、とでも思っているのだろう。
そんな白夜を、軽蔑するような、そして哀れむような視線で見詰めているのは黒夜だ。
黒夜の中では、秀造と愛華に騙されているに等しい白夜を可哀想に思う気持ちと、そんな事は白夜の自業自得だと思う気持ちが今この瞬間もぶつかり合っていた。
愛華たちが言う“それ”――子供の事も、白夜という自分の兄の子供だと思うとそれなりに心配する気持ちも生まれるが、愛華という他人の子供だと思うとどうでもいいような気もする。
だから黒夜は、愛華と秀造の隠した真実を白夜に告げるべきかどうか悩んでいた。
白夜の弟としてはそれ告げたいのは山々ではあるのだが、告げ口の相手である白夜が、愛華に酷く甘い所があるので、告げたところで信じてもらえる気がしない、という懸念も消えない。
どうせまた白夜は、黒夜と愛華は仲が悪い、程度の認識しかしないのだろう、そう思うと告げる気が失せるのを黒夜は感じていた。
だがそれでも黒夜は、自分は光闇 白夜の弟だ、と思い直し、それまで白夜にも、今は愛華の部屋に向かっている途中であろう秀造にも向けていなかった視線を白夜に向けて呼びかける。
「ねぇ、兄さん。」
「ん? なんだい黒夜。」
黒夜に振り向いた白夜は穏やかで尚且つ少し楽しげな微笑を湛えている。
それを見て黒夜の意思が揺らぐ、それは白夜の笑みを壊したくないからか、それとも将来的にその笑みを壊したいからなのかは、黒夜にも分からない。
今だけでも夢を見させておくべきか、それとも今のうちに夢を壊しておくべきか、黒夜は悩む。
「そのさ……さっきの話の事だけど……」
「あぁ、なんだかんだで愛華も育児に参加してくれる事になってよかったよ。一時はどうなる事かと思ったけどね。」
楽しそうに語る白夜を見て、黒夜の意思がさらに揺らぐ、否、歪む。
この鈍感が! ずっと後で今日の事を後悔しろ! という、罵倒とほぼ変わりない言葉が脳裏に浮かぶと同時に、そんな兄だからこそ自分がサポートしてやらなければならないという気持ちも生まれて、もう何が何だか訳が分からない。
黒夜はそっと視線を自分の膝に向け、右手で頭を抱えて瞼を閉じた。
そして、愛華の提示した条件の真の目的について白夜に警告した場合と、逆に警告しなかった場合のリスクについて考える。
自分が相手にとって残酷な真実を知っている時、それを伝える事と黙っている事は、どちらの方がより罪に思われてしまうのだろう?
自分の兄――白夜は、先に予防注射の様に僅かな真実の兆しを見てから真実そのものに遭遇する事と、何の準備も無くいきなり真実に触れる事、どちらの方をマシと思うのだろう?
そこまで考えて、黒夜は内心で首を横に振った。
違う、白夜の心を軽くするという意味で考えてはいけない、後で自分――黒夜こそが正しかったのだと認めてもらう為に必要な手段はどちらなのかを考えなければ、答えは出ない。
そうだ、これは白夜の為の行動ではないし、赤子の為の行動でもなく、ましてや愛華の為の行動などではない、他でもない自分の為の行動なのだ。
「黒夜? どうかしたのかい?」
白夜の不思議がるような声が聞こえた時、黒夜はゆっくりと目を開いた。
頭を抱えていた手を膝の上に戻して、猫背になっていた上半身を起こして顔を上げ、自分に表現できる精一杯の不安と憐憫の感情を表情に滲ませて白夜の顔を見る。
白夜は黒夜のその表情の意味を読み切れず、殊更不思議がるような顔をして首を傾げた。
そして黒夜は決断を下す。
「……兄さん、気を付けて、あの女は、花道 愛華は狂ってる。」
黒夜の下した決断は、白夜に最低限の事を伝えておく事だった。
とは言ってもこれも真実をすべて告げている訳ではないから、真に白夜を思っての決断ではない、と黒夜は内心で自嘲する。
そう、これは飽く迄も、黒夜が悪者扱いをされないための予防策の一部でしかないのだ。
近い将来、白夜が愛華の真の目的を目にして、その時愛華が“黒夜はすでに知っているはずだけど”などと抜かした場合に、“僕は最初に警告したけど”と言い訳をする、それだけの為の準備。
勿論、黒夜には白夜を心配する気持ちが無い訳ではない、むしろ黒夜は黒夜と白夜に愛華と百合花と秀造を足した五人の中では唯一白夜を心配していると言っても過言ではない。
だが、その心配する気持ちと同じぐらい、白夜に痛い目を見せてやりたい気持ちもあるのだ。
自分でも情けないと思う、けれど止める事の出来ない愛情と憎悪が黒夜を蝕む。
その愛憎の中で僅かに勝る愛が、黒夜に愛華の狂気性を白夜へと告げさせていた。
それを告げられた白夜は、一瞬驚いたような、えっ? と言いたげな顔で固まったが、徐々にその表情に笑みを戻して、ソファーから立ち上がると黒夜のすぐ隣に座り直す。
そして、黒夜の頭に優しく自分の右手をのせて、その下の黒い髪をそっと撫でた。
その行動に、黒夜は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、白夜が自分の忠告を聞き入れてくれる事を期待した、が、白夜は、
「はは、黒夜は心配性だね。まさか愛華の事を狂ってるなんて言われるとは思わなかったよ。」
と言って笑うものだから、黒夜はがっかりして視線を伏せる事しかできなかった。
白夜のその愛華を信じ切った笑顔を、黒夜は以前にも見た事がある。
確かあれは、Dirty Blood設立の計画が愛華から白夜へ伝えられた時期だっただろうか? あの頃の白夜もこうして笑っていた気がする、と黒夜は思い出す。
そんな事だから貴方は、ズブズブと深い底無し沼に沈むように、この世界から、この社会から、あの家族から切り離されて、実態の伴わない悪と汚れのレッテルを貼られて、人並みの幸せを失ってしまったという事を、分かっているのだろうか? と問いかけたい。
けれど、黒夜にそれを口にすることはできそうもない。
一見柔軟そうに見える白夜だが、自分が信じる者は結構頑固に信じる性質なのだ。
そして今、白夜が一番に信頼を置く相手は、黒夜ではなく愛華である、その事実を、黒夜は知っている。
「大丈夫、愛華もきっと分かってくれるよ、“あの子”は大切な私達の子供だってね。」
黒夜の髪を子供の紙を撫でるように優しく撫でながら笑う白夜に、黒夜はもう何も言えなかった。
End.
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