短編“未満”小説『Christmas Present of Blood Color:0(Ver2)』

【Christmas Present of Blood Color:ZERO:the Annunciation (Ver.2)】


その日の朝、白夜は自室とは別の場所で目を覚ました。
目を覚ましてすぐに視界に入ってきた、あまり見なれない、しかし初めて見たわけではない天井の色に、此処は愛華の部屋だという事を思い出す。
“アレ”から何時間眠っていたのだろう、目覚まし時計は確か、鳴らないようにしていたのだっただろうか、と考えながら、白夜は体を起こした。
長身の男性にしてはやや華奢なその体は、布の一枚も纏っていない。
肌に少しだけ冷たい空気が直接触れるのを感じて、それを助けに眠気を振り払いながら、白夜はベッドのすぐ隣にある引き出しの付いた小さな棚と、その上に置かれた時計を見た。
時刻は午前八時四十九分を指している。

“アレ”から六時間か……随分と遅い起床になってしまった、と思いながら白夜はベッドの端へ移動して、すぐ足下の床に脱ぎ捨てた筈の自分の白いワイシャツを探し始めた。
地下にあるこの部屋には太陽の光は届かず、白夜が目を覚ます前から点いている傘型のカバーがついた小さなライト以外は光源が無く、部屋は薄暗い。
その為白夜はしばらくの間どれが自分のワイシャツで、白衣で、ズボンなのか判断できなかったが、それでも数十秒後にはその僅かな光を目が取り込めるようになってきたのか、なんとかワイシャツを探し当てる事ができた。
ベッドから少しだけ離れた場所にあるそれを取る為に、白夜は少し恥ずかしいのを承知でベッドから降りる為、かけ布団を剥いだ。
するとその下に、昨日の夜まで身につけていた下着も見つけたので、それも回収しておき、ワイシャツを取るより先にそちらを穿き直す。
そしてワイシャツを取る為にベッドから腰を浮かせた、その時、

「……白夜……?」

白夜が寝ていた場所のすぐ隣、今の白夜の背後から女性の声が白夜を呼んだ。
誰かがもぞもぞと布団の中で動く音もして、白夜はハッとしたように背後を振りかえる。
そこには、白夜と同じく布の一枚も纏わない女性が、黒くて長い髪の毛をかき上げながら上半身を起こしている姿が見えた。
白夜はその女性がまだ何も着ていない事を確認すると、しまった、と言いたげな表情になって頬を薄っすらと赤くしながら正面に向き直り、まだ頭の中がぼんやりとしているであろう女性に向け、少し緊張した様子で、

「あ、えっと……おはよう、愛華。」

と言った。
そしてその緊張を隠すようにワイシャツを掴み上げて、女性――愛華に背を向けたままそれを着直した。
白夜が自分の姿と愛華の姿に恥ずかしさを感じていたのはかなり明確で、だから白夜は背後を振り向かないし、床に脱ぎ散らかした衣類を焦って掴み上げ、着直す。
そんな白夜を面白く思ったのか、可愛らしく思ったのか、愛華は白夜とは反対に何の衣類も探さないまま、先ほどまで白夜が座っていた場所に移動して、ベッドの上から白夜の背中に自分の体を寄せた。
ズボンまで穿き終えて一安心しかけていた白夜の表情が緊張でまた強張り、白夜は情けなくもそこから一歩も動けなくなってしまい、それを見た愛華はクスクスと小さく笑う。

「これぐらい、もう見飽きるほど見たじゃない。」

嬉しそうに、幸せそうに笑いながらそう言った愛華に、白夜は何を言っていいのか分からずその場に立ち尽くしたまま黙り込んでしまった。
確かに愛華の言う事も一理あると白夜は思っている、思っているのだが、例えば飲酒をしていた時は恥ずかしく感じなかった言動が素面に戻った時に急激に恥ずかしく感じられるようになる現象と同じような感覚を、消しきる事が出来なかったのだ。
つまりは、白夜は既に素面に戻っていて、愛華はまだ夜の夢に酔っているとでもいったところか。
とにかく、何か、何か言わないといけないけれど何を言えばいいのか分からない、そんな困惑顔で立ち尽くす白夜に、愛華は問いかける。

「ねぇ白夜……良かった?」

あまりにも直球過ぎる質問に、白夜は一層顔を赤くして、

「え、な、何が?」

と、誤魔化し切れていない誤魔化しを試みた。
正直な所、愛華は何が良かったかと訊いているのか、白夜はなんとなく、というよりも、ハッキリと察している。
けれど、愛華よりも先に夜の夢の酔いから醒めて素面に戻ってしまった白夜には、それはどうにも答え難いものがあった。
だが、白夜のその反応が、愛華に一種の羞恥プレイを強いている事に、白夜は気付いているだろうか?
その証拠に、といってはなんだが、夢から醒めて恥ずかしさがこみ上げて止まらない様子の白夜を見ながら、まだ夢から醒めきらない様子の愛華はクスクスと笑って、

「それ、私に言わせるの?」

と言った。
そこに至って白夜はようやく、自分が愛華に言わせそうになった事の恥ずかしさに気がついて、あっ、と声を漏らし、これ以上ない程に恥ずかしそうな顔で完全にかたまってしまった。
そんなこんなでさっきから微動だにしない白夜を不思議に……いや、面白く思ったのか、愛華は白夜の緊張で動かなくなった腕を抱きよせて、優しく撫でる。
幸い白夜は既にワイシャツを着ているので、愛華の肌と直接触れて夜の夢に完全に引き戻される事は無かったが、その代わりにちょっとしたパニックに陥って、益々何も話せなくなってしまう。
えっと、あっと、と言いながら白夜が固まっていると、白夜の腕を身体の中心で柔らかく抱きしめる愛華が口を開いた。

「私は良かったわ。だって、他の人には見せられないどころか、貴方にすら見せていいのかもわからないような私でも、貴方は愛してくれるって感じられたんだもの。」

その言葉はそれまで軽いパニックに陥って何を言っていいか分からなくなっていた白夜になんとか届き、そのパニックを収束させた。
愛華をこの世で最愛の女性だと思っている白夜にとって、その思いが愛華に伝わる事ほど嬉しい事はなく、その嬉しさはパニックに打ち勝ったのだ。
少しだけ緊張が解けて動かせるようになった腕をあえて愛華に抱かせたまま、白夜は愛華に振り向く。
やはり裸体の愛華を見るのは既に素面とも正気とも言える白夜には少しばかり恥ずかしいものがあったが、今度は変に目を背けたりせず、白夜は愛華の視線を正面から受け止めた。
白夜の目に映るのは、いつも冷静であまり感情を表に出さない愛華の、柔らかで幸せそうな笑顔だけ。
正直今でも事の恥ずかしさは抜けないし、本当にこれで良かったのかと迷う部分、そして“白夜だけが知る懸念”もあったが、それでも愛華の願いを聞いて良かった、と感じた白夜は、自らもその表情を笑顔に変えて愛華に微笑みかけた。
すると愛華は身体の中心に抱きしめた白夜の腕に一度だけ口付けを落とし、それからようやく白夜の腕を解放して、ベッドの端に座って、そこから立ちあがり、愛華の居住スペースの一角に取り付けられたバスルームへ向かって歩き始めた。
その途中で愛華は白夜に振り返り、尋ねる。

「それじゃあ、私はシャワーに入るわ。貴方はどうするの?」

白夜は、床に脱ぎ捨てられたままの白衣とネクタイ、靴下などを拾い上げながら答える。

「私はとりあえず部屋に帰るよ。何か用事があったら……いや、大した用事が無くても、いつでも呼んでくれて構わないし、私の部屋に来てくれても構わないよ。あまり面白い物は無いけどね。」
「わかったわ、また逢いましょう、白夜。」

そして愛華はバスルームの扉を開き、その中へ身体を滑り込ませるように入って行った。
白夜はそれを見届けると、片手で白衣やネクタイ等を抱えたまま部屋と廊下を繋ぐ自動扉の前に立ち、そこで靴を履く。
自動扉はシューッと音を立ててすぐに開いたが、白夜はすぐには部屋を出なかった。
白夜の視線は何故か、部屋の奥でベッドの近くにあるゴミ箱に向けられている。
それを見る白夜の表情は先ほどの柔らかく明るい笑顔ではなく、何かを心配、もしくは不安に思っている様な顔だった。
やがて、バスルームから愛華がシャワーを浴びる音が聞こえ始めた時、白夜はゴミ箱から視線を外し、自動扉が開けた口を通って愛華の部屋を後にする。
愛華部屋をを出た瞬間、“白夜だけが知る懸念”が一気に思考回路を埋め尽くして、白夜はそれを振り払うように自分の部屋に向けて長い廊下を走り始めた。


Dirty Blood本拠地の内部で、愛華の部屋と白夜の部屋は意外にも隣同士に無い。
愛華と白夜の部屋の間には、既に表の世界では暮らせない団員の部屋や、たまに本拠地で寝泊まりす事がある団員の部屋、会議室、救護室などがひしめいており、その結果、愛華の部屋の入り口と白夜の部屋の入口には七十五メートルほどの距離が空いている。
普段なら歩いて戻るその距離を、白夜は何故か、何かから逃げるかのように走っていた。
革靴の固い靴底は固い床に当たってコツコツコツコツと軽快な音を響かせているが、その軽い音とは反対に白夜の表情は暗く重く、先ほど愛華に見せた柔らかな微笑は消え去って、何か不安を抱えている様な雰囲気を帯びている。
いや、むしろそれは一種の恐怖にも近かいかもしれない、そして白夜はその恐怖から逃げたくて走っているのかもしれない。

走る、と言っても全速力では無いものだから、七十五メートルの内五十メートルを走るのにかかった時間は意外にも長く、十五秒を過ぎていた。
しかし、三十代前半というまだまだ若い大人にしては若干遅いペースにもかかわらず、白夜の息は上がっていて、心臓は強く脈打ち過ぎている。
肺と心臓に苦痛を感じながらも、それでも唯一苦痛を感じていない足の力だけを頼って、残りの二十五メートルを駆け抜けようとする白夜。
その視界に、ようやく自分の部屋の扉がとそれを制御するパネルが見えてきて、後はあそこへ逃げ込むだけだと感じたその時、白夜の部屋の扉より一つ手前の扉が開いた。
部屋の中から、誰かが出てくる。
白夜が少し驚いて足を止めると、部屋の中から出てきた人物は白夜の気配に気がついたらしく、すぐに白夜の方を向いた。

「おや、白夜さんではないですか。」
「秀造くん……。」

部屋の中から出てきた人物、それは白夜の大学時代の後輩で科学者の一人である男性、天照 秀造だった。
秀造は白夜を見ると人当たりの良さそうな笑顔を見せたが、此処で忘れてはいけないのは、此処は飽く迄もDirty Bloodというテロ組織の基地であるという事で、この秀造という男も所詮はDirty Bloodの団員だということだ。
とは言っても、今秀造の目の前にいる白夜は勿論その事を知っており、秀造も白夜がこのDirty Bloodのリーダーの片割れだという事を知っているのだから、この話は今はあまり重要な意味を持たない話かもしれないが。
ともかく、秀造は白夜を見つけると軽く会釈をしてきた。
普段なら同じように会釈をするか、軽く手を振って微笑み返す白夜だが、今日は何故かそれができない。
白夜はピタリと足を止めたと同時に、自分の動きの全てを止めてしまったのだ。

「……どうか、なさいましたかね?」

白夜の様子を少し不思議に思ったのか、しばしの沈黙の後に秀造が小さく首を傾げながら尋ねてきた。
それを聞いて、白夜は悩んだ。
秀造の問いかけに、はい、そうです、と答えてしまいたい理由を白夜は持っている、けれど、それは自分だけでなく愛華のプライバシーにも関わるものであるが故に、秀造に打ち明けていいものかどうか白夜には分からない。
だから白夜は素直にはいと言えない、と言っても、だからと言っていいえとも言わない沈黙という態度は、秀造にしてみれば暗に何かありましたと言われたようなものだったようで、だから秀造は、

「必要なら、場所を移しましょうか?」

と、微笑しながら白夜に問いかけた。
秀造に問いかけられて、白夜は自分が暗に何かあったことを肯定していたという事に気が付き、もっと早い内に何も無かったと言っておくべきだったと後悔するが、もう遅い。
秀造はすっかり白夜の話を聴く気でいるし、自分は心のどこかでこの不安を誰かに打ち明けたがっている、そんな情けない事実に気付いた白夜は、秀造の提案に頷いた。

「うん……秀造くん、私の部屋に来てくれるかな?」
「了解しました、では参りましょうか。」

秀造は自分が出てきた部屋の扉に手早くロックをかけると、白夜の部屋の扉に向かって歩き始めた。
白夜も、秀造を追うようにして少し早足で歩きだす。
歩きながら、まさか“この事”を他人に相談する事になるなんて、と、白夜は若干の不安を感じていた。
愛華と自分の最もプライベートな場所を、はたして秀造に相談していいのだろうか? と思う気持ちと、だからと言って自分は“この秘密”を一人で抱え切れるのだろうか、という不安がぶつかっているのを感じながら、白夜は秀造と共に自室の前に辿り着いた。
部屋の前に着くと、秀造は自動扉の前に立ち、白夜はその隣にあるカードリーダーの前に立った。
そして白夜がカードキーをリーダーに通すと、今までの扉と同じようにシューッと音をさせて自動扉が開く。

「では、お邪魔させていただきますよ。」

そう言って秀造は白夜の部屋に入り、その小さな玄関で靴を脱いだ。
白夜もそれを追って部屋に入り、同じく靴を脱いで部屋に上がって部屋の電気をつける。
白夜の背後で自動ドアが閉まる音がして、部屋の中の人間は白夜と秀造の二人だけである事が確定した時、白夜はなんとなく少しだけ胸を撫で下ろした。
それと同時に、秀造は黒夜や百合花とは違う立場の人間である事を思い出して、もし“この事”を誰かに話すとしたら話せる相手は秀造しかいないのだろうと考える。
白夜は覚悟を決めた。

「えっと、そこの奥に四角くて高めのテーブルがあるよね、その近くの椅子に座っててくれるかな。」
「了解しました、あちらですね。」

部屋の奥の壁際に置かれたテーブルと椅子を白夜は指差し、秀造は白夜の指さす先に視線を向けて歩きだす。
白夜は腕に抱えていた白衣やネクタイを部屋の中央付近のソファーの上に置くと、小さめのキッチンに向かって、シンクで軽く手を洗ってから飲み物の準備を始める。
近くの戸棚からティーカップを二つ取り出しながら、白夜は秀造に問いかけた。

「秀造くん、コーヒーは飲めるよね?」
「はい。できれば、砂糖だけつけていただけると助かりますが。」
「分かった、砂糖付きだね。」

秀造の返事を聴いて、白夜はティーカップをシンクとコンロの間に置いてから別の引き出しを開き、スティックタイプのグラニュー糖数本と、コーヒーあるいは紅茶用の粉ミルク、それからそれらをコーヒーと混ぜる為のマドラーを取り出した。
グラニュー糖は秀造の為で、粉ミルクは自分のためだ。
白夜は砂糖とミルクを用意しながら、そういえば自分の弟の黒夜はブラック派で、愛華は砂糖とミルクの両方が好き、更に愛華の妹の百合花はむしろコーヒー牛乳派だっけ、などと自分と関わりの深い人間の好みを思い出した。
自分を含めたこの五人は昔――大学生だった頃からよく何かと理由をつけて集まったりしていたが、飲み物の好み、特にコーヒーの飲み方に関してはバラつきが酷くて、誰か一人が自分と他の四人のコーヒーを一気に準備する事はほぼ出来なかった事を思い出し、少しだけ昔が懐かしくなる。
自分と愛華がこの地下に潜ってから、黒夜や百合花に会う機会は減ってしまったな、などと考えながら、白夜はポットの中である程度の温度に保温されていたお湯と、インスタントコーヒーを使ってカップの中でコーヒーを作り、それをスティックタイプのグラニュー糖と、大きめの袋に入った粉ミルクと、かき混ぜる為のマドラーと共にトレーに乗せた。
そして、カップの中身のコーヒーを零さないようにゆっくりとトレーを持ち上げて、秀造の座っている場所の目の前にあるテーブルへ向けて歩きだす。

テーブルに辿り着くと、白夜はまずトレーをテーブルに置いて、それから秀造から見て正面にある椅子にゆっくりと腰掛け、小さな溜息を吐いた。
秀造は白夜が何か言う前に片方のカップとスティックタイプのグラニュー糖を自分の傍に引き寄せ、グラニュー糖の縦長い袋を開ける。
サラサラと零れコーヒーの中に溶けていく砂糖を見ながら、秀造が話を切り出した。

「それで、どのような事がありましたかな?」
「あ、えっと……」

白夜はさっき覚悟を決めた、覚悟を決めた筈だったが、いざ相手に何があったのかと訊かれると、どうにも口にし辛いものがあって、白夜はそれを誤魔化すように粉ミルクの袋を開け、マドラーでてきとうな量の粉ミルクをコーヒーへ落とした。
そして秀造から視線を逸らし、逃げるように粉ミルク入りのコーヒーをかき混ぜる。
秀造もとりあえずは白夜が口を開くのを待つつもりなのか、マドラーで自分の砂糖入りのコーヒーを軽くかき混ぜた。
だが秀造がそれを一口飲む頃になっても白夜は訳を話そうとしない、話していいという決心がつかない。
その様子を見た秀造は、とりあえず、先ほどは何故走っていたのかを白夜に訊く事にした。

「ふむ、そこまで話し難いのなら無理に話す事もありませんが……ところで、先ほどは何をそんなに焦っていたのですか?」
「えっ。」

秀造の質問に、白夜の表情が一番気まずそうに固まった。
秀造はそれを見ていたが、だからこそ話を変えずにあえて質問を続ける。

「こうして私を部屋に招き入れるぐらいですから、何か急いでいた、という訳ではなさそうですが……それに、何故白衣とネクタイを脇に抱えていたのですか?」
「ええっと……それは……その……。」

秀造からの質問攻めに、白夜はすっかり参ってしまった。
白夜には、秀造は話を逸らしているつもりなのか、それともわざとこの質問を続けているのか、それとも他の意図があってこのような質問をしているのか分からない。
けれどどちらにしろ、秀造の質問は白夜の抱える“秘密”の、その一部に触れている。
だからそれに答える事はやはり自分と愛華のプライベートを明かす事になる訳で、白夜はだんまりを決め込む以外逃げる方法が無い。
けれど、わざわざ秀造を部屋に呼びこんでおきながらそれはどうなんだ、という罪悪感にも襲われて、白夜は溜息を吐いてからミルクの混ざったコーヒーに口をつけ、

「……あ、あのさ……本当に、他の誰にも言わないでほしい事なんだけど……大丈夫? 誰にも言わないでくれる?」

と、顔を赤くしながら言った。
秀造は、何時に無く恥ずかしそうで緊張していて落ち着きの無い白夜を珍しく思い、一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐにまた温和な笑みを取り戻して言う。

「えぇ、誰にも言いませんよ。」
「えっと、うん、それじゃあ言うけど……」

白夜は、砂糖入りのコーヒーを飲む秀造の顔をじっと見つめながら、遂に言った。

「秀造くん……せ、せっ……性行為の、経験、ってある?」
「……性行為、ですか?」

突然告げられた少し破廉恥な話題に、秀造の細い目が驚いた様に見開かれ、コーヒーカップは徐々にその位置を低くして、受け皿の上に置かれた。
白夜は自分が相当恥ずかしい話題を秀造にふっかけているという意識から、恥ずかしさが全身に溢れて秀造の顔を真っ直ぐ見られず俯いて、両手で顔を覆ってしまう。
一方秀造は一瞬驚いた様子だったが、数秒もすると見開かれた目はいつもの細さに戻り、手も落ちついたのか再びコーヒーカップを持ち上げていた。
そして砂糖入りのコーヒーを、まるで白夜の口から性に関する話が出てきた事に対する驚きの気持ちを流すようにして一口飲むと、コーヒーカップをまた受け皿に置いてから口を開く。

「生憎ですが、と言うべきでしょうか。それとも、残念ながら、もしくは、当たり前にというべきでしょうか、私は童貞でしてね。インターネット上の表現で言うならば、魔法使い、と言われてしまう人間なのですよ、ハハハ。」
「そ、そうなんだ……。」

未だ恥ずかしそうに顔を覆う両手、その指の隙間から青い目を覗かせて、白夜は上目遣いで秀造を見た。
秀造の表情は至って冷静かつ温厚な笑みで、そこに非童貞への妬みのようなものは見られず、だからといって非童貞を不潔とするような嫌悪の感情も見られない。
だが、秀造は飽く迄も童貞――性行為の経験が無い男性である事を確認した白夜は、自分が抱える“不安”の内容を秀造に相談するべきか否か悩む。
本当なら自分よりも経験豊富な男性に相談すべき事を、経験の無い秀造に相談していいのだろうか? ただ悪戯に自分と愛華のプライベートを明かしてしまうだけに終わるのではないだろうか? と、白夜の中で元々抱えている“不安”とは別の不安が生まれる。

「まぁ、私は幼い頃から学問と研究一筋で、恋人はおろか女性の友人というものも居ませんでしたからね。強いて言うなら、研究やその為の機材こそが私の恋人なのかもしれませんねぇ。」

秀造の話は、聞けば聞くほど性行為どころか恋愛そのものにすら縁遠く、白夜は指の間から覗かせる視線を静かにテーブルに向けて伏せる。
やはり、秀造に相談するべきではないのではないだろうか? というか、自分は越えてはならない一線を越えてしまったのではないだろうか? という考えが白夜の中で少しずつその勢力を強めて、白夜は遂に顔を隠したままテーブルに額を乗せて完全に下を向いてしまった。
秀造が、おやおや、と不思議がる声がしたが、白夜の頭の中はもうそれどころではなく、今からどうやって秀造に帰ってもらうか、ただそればかりを考えていた。
そんなふうにしていつになく落ち込んだ調子の白夜を見て、秀造はしばし何がどうしてこうなったのか悩んだが、最初に白夜に訊かれた事――性行為の有無をヒントに、ある仮説を立てる。

「……白夜さん、もしかして……経験なさったのですか?」
「……へ?」

それまで顔を隠した上で伏せていた白夜は、今日の中で一番ひきつった表情を浮かべながら顔を上げた。
それを見て秀造は確信を持ち、もう一度白夜に尋ねる。

「白夜さんは、性行為を経験なさったのですか? と訊いているのですよ。相手は愛華さんですか?」

秀造の立てた仮説とは至って簡単な事で、白夜は愛華との性交渉を体験したばかりで、それについて何か悩みがあるが、白夜の性格上、愛華や他のてきとうな団員にそれを言う事が出来ず、偶然出会った秀造に何かある事を察知されてしまったから話そうとしている、が、これもやはり白夜の性格上、どうにも厳しいものがある、というものだ。
秀造が会議室を出て白夜と出会った時、白夜が自分の部屋では無い場所から現れた上に服を中途半端にしか着ていなかったのは、何らかの理由で急いで愛華の部屋を出たばかりだったから、という所まで秀造は推測していた。
温厚な笑顔から少し真面目な顔になって問い詰めると、白夜はしばらく誤魔化し笑いを顔に浮かべていたが、いい言い訳が思い付かなかった為に、急に落ち込んだような表情になって、

「……うん。」

とだけ答えた。
その表情からは喜怒哀楽の喜や楽は読みとれず、むしろ哀が読みとれる気がして、秀造は小さく首を傾げた。
大学生だった頃から仲の良かった白夜と愛華の事だ、別にどちらかがどちらかに性行為を強要した――すなわち、白夜が愛華を強姦したり、愛華が白夜に逆強姦をしたという事は無いのだろう、というのは未経験者の秀造でも容易く分かる。
なら、問題は何処にあったというのだろうか?
小中学生の保健体育のような、もしくは某巨大掲示板の二次元談義のような、知識としての性行為は知っていても、その細部のリアリティは想像できない秀造には、その細部で起こるかもしれない問題が想像できない。

「そうですか……まぁ、お二人は恋人同士で、周囲の反対さえなければ戸籍上も夫婦になっていたであろう組み合わせですから、当たり前と言えば当たり前かもしれませんね。」

秀造はそう言って砂糖入りのコーヒーを再び口にする。
性行為など自分はするべきではなかったのではないだろうか、未経験者の秀造から見たら自分は汚く見えるのではないか、そう心配していた白夜は秀造の落ち着いた反応を見て少しだけ胸を撫で下ろした。
だが、問題は此処からだ。

「いいのではないでしょうか、お二人はお互いを思い合っているようですし、年齢的にも不思議はありません、むしろ意外にも遅かったぐらいですね。ただ、立場が立場ですから、避妊だけは必須ではないかと。」

避妊、と言われた白夜の背筋に緊張が走る。
実は白夜が秀造に相談しようとしている事は、その避妊に関係している事なのだ。
と言っても、白夜は別に避妊を拒んだりはしていない、その辺りは愛華ときっちり話し合っていて、むしろ白夜の方から避妊の必要さを愛華に伝えたぐらいである。

「うん……私もそう思うよ。愛華も、子供は要らないって……だからそうした、んだけど……」
「……そこで、何かありましたかな?」

口籠って俯いた白夜を見て、秀造が問いかけた。
白夜は俯いたまま更に俯く事で頷くと、ゆっくりと顔を上げる。
それを見て秀造は僅かに目を見開いた。
白夜は、今にも泣き出しそうな顔で秀造を上目遣いに見詰めている。
これは核心が近い、と確信した秀造は白夜には気付かれないように気を引き締め、ティーカップを受け皿に置いた。
白夜が、酷く後悔した不安そうな声で話しだす。

「終わった後、避妊具を外した時、気が付いたんだ……それに、最初に着けた時には無かったはずの亀裂が生じていた事に……しかも亀裂の場所は随分下の方で、これじゃあ意味が無いんじゃないかって……!」

膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめ、何かに耐えるように小さく震えながら話す白夜は、まるで何らかの悪事を働いてしまったが故に大人に叱られている子供の様だった。
白夜は秀造から怒号を飛ばされる事を覚悟しているのだろう、いつの間にか視線は自身の膝の上に落ちていて、秀造の顔を真っ直ぐ見られなくなっている。

「愛華も、ただしたいっていうだけじゃなくて、ちゃんと準備をした上で言ってて、安全日も選んだって……私もこんな立場だから、それだけはちゃんとしなきゃって思った、それなのに……!」

肩を震わせて後悔と恐怖に耐えながら“不安”を秀造へ吐き出す白夜。
その吐き出された不安を聴きながら、秀造は少し困った顔で、それがそうなってしまった理由と、白夜がこれからすべき事を考えていた。
白夜の話を聞く限り、そうなってしまった理由は一つ程度、そして白夜がするべき事は二つ、もしくは三つだ。
秀造は俯いたままの白夜に、なるべく穏便で温和な声をかける。

「白夜さん、顔を上げてください。泣きそうになっている場合じゃありませんよ。」

秀造に怒られたり罵られたりしなかった事で少しだけ、ほんの少しだけ安心したのか、白夜はゆっくりと顔を上げた。
泣きそうになっているのはあまり変わらないが、秀造はそれを責めることなく話を先へ進める。

「童貞の私が偉そうに言うのもなんですが、今の白夜さんはお一人では行動できないでしょうから、私ができる限りサポートしましょう。まずは白夜さんがこれからしなければいけない事ですね。」
「私が、これからしなければいけない事……。」
「はい、そうです。」

秀造の言葉を脳に浸透させるように復唱した白夜を見て、秀造がゆっくりと頷き、そして微笑む。
白夜にはその微笑みの意味がよく分からなかったが、とにかく秀造は怒っておらず、どうやら白夜の味方になってくれるようだと感じた白夜は、自分の両頬を両掌で軽くパシッと叩いて泣きそうな顔を崩し、真面目な顔になって秀造に問いかける。

「私はまず、何をすればいい?」

秀造は微笑みを崩さぬまま、自分の思い付く限りの対策を述べる。

「まずは、愛華さんが妊娠してしまったかどうかを知る必要性があります。愛華さん本人に言うのが怖いのなら、百合花さんに言って妊娠検査薬の入手を頼みましょう。それから、このDirty Bloodになるべく医療知識、また技術のある人材を集めるのも必要でしょう。もし妊娠していたとしたらその先に待つものは出産、あるいは堕胎です。出産を、もしくは堕胎を安全に行える環境を少しでも良いから整えておくべきでしょう。」
「堕胎……。」

堕胎――胎児を堕ろす――自分と愛華の子供を殺すと聞いた白夜は、少し苦い顔で頭を抱えて溜息を吐いた。
正直、自分も子供が欲しくて事に及んだ訳ではない、それは白夜にも分かっている、分かっているのだが、いざ自分の子を外の空気の一欠片も知らない内に殺せるかと訊かれると、はいと答える自信がない。
愛華がどう答えるかは白夜には分からなかったが、少なくとも白夜は、もし子供ができてしまっているなら、愛華が妊娠しているなら、愛華だけでなくその子供も殺したくない、それが白夜の本音だ。

「堕胎は、反対ですか?」

そんな白夜の空気を察したのか、秀造が問いかけてきた。
白夜がハッと顔を上げると、白夜と同じように少し苦く、そして悲しそうな表情をした秀造の顔が見えた。
どうして秀造までそんな顔をしているのか分からないまま、白夜は問いかけ返す。

「……秀造くんは、賛成なの?」
「そうですねぇ……私は、やや賛成と言ったところでしょうか……。」

そう答えて秀造は砂糖入りのコーヒーに口をつける。
コーヒーはもう、随分と冷めてぬるくなっていた。
秀造がコーヒーカップを受け皿に置き直した瞬間、しばしの間黙っていた白夜はもう一度、問い詰めるように問いかける。

「……どうして?」
「どうして、ですか……そうですねぇ、私から見て今のお二人は子育てができる状況に無いという事と、白夜さんの話を聴く限り、愛華さんが子供を持つ事に積極的ではないから、といったところでしょうか。これは私の予想に過ぎませんが……愛華さんはおそらく、状況さえそろえば堕胎・中絶を選ぶと思いますよ。」

愛華は堕胎・中絶を選ぶと思うという言葉を聴いて、白夜は昨日の夜の、事に及ぶ直前の愛華の言葉を思い出した。
あの時愛華は、今日は安全日である事と、避妊具の準備はある事と、それと、子供は要らないという事をハッキリと白夜に告げている。
けれど白夜は急にその言葉の最後を信じたくなくなって、思わず、

「で、でも、愛華だって自分と血のつながった子供なら、きっと!」

と言ってしまった。
すると秀造は一つ長い溜息をついて、白夜を正面から見据えつつ、若干呆れのような、そして哀れみのような空気の混ざった声で言った。

「では、何故愛華さんは、そして貴方は、両親や親戚を捨ててまでお互いを選んだのですか?」
「あ……」
「血がつながっているというだけで全ての者が愛し合えるなら、母親もしくは父親による子供の虐待死、あるいはその逆である子供による両親の虐待死など起こる訳が無いのですよ、白夜さん。愛華さんだけは特別だなどと、想わない方が得策だと私は考えますがね、いかがです?」

白夜は返せる言葉が無くなって、またも俯いて黙りこんでしまった。
秀造はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干し、空になったティーカップを受け皿に置く。
カチャリという皿とティーカップがぶつかる音の後、秀造は席を立ち、座って俯いたままの白夜の背後に立って、その肩に手を置きながら、笑顔を取り戻して白夜に語りかけた。

「……まぁ、まずは愛華さんが妊娠しているかどうかです。妊娠していなければそれまでのお話ですから。」

正直慰めになっていない、というのは秀造自身分かっていた事であったが、今の白夜に言える事はこれぐらいしか無い事も、愛華が妊娠していなければ全ては杞憂で終わる事も事実である。
これで白夜が少しでも気を持ち直してくれれば……と思う秀造だったが、次に白夜が口にした言葉によってその思いは一旦消えうせる事となる。

「そ、そうだよね、きっと大丈夫だよね、愛華も安全日を選んだって言ってたし……」

白夜の肩を軽く叩いていた秀造の手が止まった。
それに気付いて白夜が驚いた様に秀造を見る。
秀造は、とても難しい、少しだけ怒っている様な、そして白夜を憐れむような顔をしているものだから、白夜は自分が何か地雷を踏んだらしい事に気がついて、えっと……、と言葉を探す。
そうして白夜が何か言葉を見つける前に、秀造が口を開いた。

「白夜さん、安全日なんてものは当てにならないんですよ。初潮自体がまだの少女でさえ、性行為によって初潮が誘発され、それで妊娠するケースもあり得るそうですから、愛華さんにそれと同じような事が起こらない保証はありません。未経験者である私が口煩く言うのも少しどうかと思いますが、お二人の今後の為にあえて言いましょう……“子供が要らないのなら、性行為などするべきではない”……とね。」

白夜はしばらく秀造に怒られた事による驚きで何も言えなくなってしまったが、やがて泣きそうな顔で秀造を見上げながら小さく頷いた。
膝の上に置いた手は後悔故か、それとも恐怖故か、小さく震えている、
それを見た秀造は、そんな白夜の頭を子供をあやすように軽く撫でた。
秀造に撫でられる日が来るなど全く予想していなかった白夜はまた少し驚いたような顔を見せる。
それに対し、秀造は普段の笑顔を取り戻して、

「まぁ、まずは百合花さんにでも連絡しましょうか。黒夜さんには言わない方が良いかもしれませんね、彼は過剰に反応しそうですから。あぁ、そうそう、私なりに避妊具の破損について考えてみたんですが……避妊具の材質がゴムまたはビニールだった場合、おそらく劣化が激しかったのでしょう。愛華さんの事です、きっと前々から準備だけはしていたのでしょうね。」

と言って白夜の頭を撫でる手を止めた。
秀造が手を身体の脇に戻しても白夜はまだキョトンとしたままで、状況が飲み込めていない顔をしている。
それでも白夜は秀造が言った言葉の意味だけは理解して、自分も悠長にコーヒーなど飲んでいる場合ではないと感じたのか、椅子から立ち上がった。

「と、とりあえず百合花ちゃんに連絡だね? あっと、その、秀造くん、一緒に連絡してくれる……?」
「ええ、構いませんよ。では、外との連絡用の回線がある部屋へ行きましょうか?」
「うん! 行くよ!」

そして白夜はぬるくなったコーヒーをそのままにして、部屋の出入り口の扉へ颯爽と足を進めた。
その表情は何かを決意しているようで、秀造は密かに、この人なら愛華が妊娠していようがいまいが何とかやっていけそうだ、と思いながらその後を追う。
シューッと音を立てて開く自動扉をくぐれば其処はもう長い廊下だ。
白夜と秀造は廊下に誰も、特に愛華がいない事を確認すると、外と安全に通信のできる機器がそろった部屋へと歩きだした。


それから、三週間が経ったある日の事である。
愛華の双子の妹である百合花が、Dirty Bloodの基地の、その中でも愛華の部屋を訪ねてきた。
理由は主に、前日の内に愛華から“少し相談があるから部屋に来て欲しい”という連絡を貰っていたからである、が、百合花はそれに嫌な予感しか感じていなかった為、肩にかけた鞄の中にある“お土産”を持参していた。
全く、“あの男”のせいで恥ずかしい目に遭った、と思いながらも、基地を訪問した百合花は愛華の部屋の自動扉の前に立って、愛華を呼んだ。

「愛華姉さん! 私よ、百合花よ、開けてちょうだい!」

軽くノックをしながらそう呼びかけると、部屋の中からパタパタと誰かが駆けてくる音がして、百合花は少し扉から離れる。
この時点で百合花は、普段の愛華はこんなに焦って部屋の中を移動するタイプではない、という理由から嫌な予感を一層強め、中の物音を不審がった。
そうして扉の前で耳を澄ませながらあらゆる可能性――と言っても大体は“そこ”に完結してしまうのだが、ともかく何があったのか考えていると、百合花の目の前の自動ドアがようやく開いて、愛華が姿を見せた。
と思ったら、愛華は急に百合花の両肩を掴んで、

「百合花……! 私、私もしかしたら……!」

と、相当焦った様子で何かを伝えようとしてきた。
表情も普段の冷静で落ち着いた雰囲気は見えず、何かに怯えたような、何かを後悔しているような、切迫感のあるものになっている。
こんな愛華は見た事が無い、と驚きながらも、百合花は両手で愛華の手を自分の肩から外しながら、

「姉さん落ち着いて、まずは私を部屋に入れて。話はそこで全部聞くわ。」

と、至って冷静に告げた。
愛華は一瞬、何かもどかしそうな表情を見せたが、此処でギャンギャン喚いても仕方がない事だけは理解できたようで、視線を床に落とした後、ゆっくりと頷いて部屋の奥へ向けて歩きだす。
百合花もそれを追って扉をくぐり、部屋の中に入って小さな玄関で靴を脱いだ。
愛華は部屋に戻ってすぐ奥にあるソファーに座ってうなだれてしまったので、もてなしは期待できそうにないと考えた百合花は自分で自分をもてなすことにしてキッチンに立つ。

「姉さん、キッチン使うわね。コーヒーでも飲まない?」
「ごめんなさい……私、最近、匂いの強い物の傍にいると、気分が悪くなって……だから要らないわ。」

憔悴した様子で頭を抱える愛華を見て、百合花はインスタントコーヒーを探す手を止めた。
そして、やっぱり……、と考えながら、戸棚から透明なグラスを二つ取り出し、水道水だけを注ぐ。
百合花はそれを持って愛華が座るソファーへ近付き、近くの低い机にコトリと音を立ててグラスを置くと、愛華の隣に座った。
それから、俯いたまま何も話そうとしない愛華に向けて、百合花はゆっくりと、なるべく急かさないようにして問いかける。

「それで、姉さんの相談って何かしら?」

百合花の問いかけに、愛華は答えなかった。
先ほどはあんなに慌てていて、誰が聴いているかもしれないという可能性すら気にかけずに事情を話しそうだったというのに、今の愛華は落ち着いた代わりに沈黙を決め込んでいる。
目の前のグラスの水にも手をつけようとしない、微動だにしないで俯いたままの愛華に、百合花はやはり“そういう事”なのだろうかと思う。
だから百合花は、それまでずっと肩にかけていた鞄を下ろし、その中からある“お土産”を取り出して、愛華に向けた。

「姉さんの相談って、こういう事よね?」

百合花の声に反応して僅かに百合花の手元に顔を向けた愛華の目が、驚きと恐怖で見開かれる。
愛華の表情は、なんでこんなものが此処にあるの、と言いたげで、愛華は実際に、

「……百合花、こんなもの、何処で、どうして……。」

と、消え入りそうな声で百合花に尋ねるのであった。
百合花は動揺を隠せていない愛華の目をじっと見つめながら、

「白夜さんに言われたのよ、姉さんが妊娠するかもしれないから検査薬を入手して欲しいって。」

と言って、悲しげな表情を見せた後に、愛華の手に妊娠検査薬を箱ごと持たせる。
それは主にプラスチックで出来ていて、箱も軽くて薄い紙ででてきていたが、愛華は自分の手に岩のように重い何かを乗せられたような気がして、検査薬を持たされた手が僅かに沈むのを感じた。
そして、神にでも縋るような、いやむしろ溺れる者は藁をも掴むと言った方が正しいか、とにかく何か、ありもしない救いに縋るような目で百合花を見る。
愛華に縋られた百合花はそっと視線を伏せ、首を小さく左右に振った。
それは、私に縋られてもどうにもならない、という百合花なりの合図で、愛華は検査薬を持たない方の手で再び頭を抱え、俯く。
いつも自信とプライドと向上心に満ちた凛々しい姉ばかり見ていた百合花にとって、それはとても心苦しい光景であった。
百合花は愛華の肩に腕を回し、愛華に寄り添う。

「姉さん、怖いかもしれないけれど、まずは検査してみましょう? じゃないと何も始まらないわ。」

百合花が語りかけると、愛華は無言で俯いたまま小さく頷き、ソファーから腰を浮かせた。
そして部屋の角に作られた別の部屋、バスルームの隣のトイレへ向かって歩きだす。
百合花はしばしの間その後ろ姿をソファーから見詰めていたが、すぐに居ても立っても居られなくなって、自分もソファーから立ちあがり愛華を追いかけた。
愛華がガチャリと音を立ててトイレの扉を開き、またパタンと音を立てて扉を閉めるのを、百合花は近くで見守る。
どうか愛華が妊娠していませんように、と、此方も藁にもすがる思いで祈りながら。


それから数分の時が流れた。
百合花はトイレの扉の前を落ち着かない様子で行ったり来たりしてはチラチラと扉に視線を向け、愛華の気配を窺う。
しかし中からは、最初こそそれなりの音がしたものの、途中から何の音もしなくなってしまっていて、百合花は愛華の状態を知る手だてを失ってしまっていた。
自分の感覚が正しければ、そろそろ検査薬が正確な結果を愛華に伝えている頃だ、なのに何故愛華は出てこないのだろう? 妊娠していないと知って気が抜けたのか、あるいは妊娠している事を知ってショックで動けないのだろうか? まさか、今すぐ自分で堕胎を試みようなどと思ってはいないだろうな? と様々な心配が脳裏を過っていく事に耐えきれず、百合花はトイレのドアの前に立って、ドアを軽く叩いた。

「愛華姉さん?」

しかし、ドアを叩いても、名前を呼びかけても、愛華からの応答は無かった。
いよいよ不安になってきた百合花は、何らかの方法でドアを開けた方が良いのではないかと考え始める、が、その時、中で水の流れる音がして、その直後にトイレのドアが開いた。
愛華は既に下着もスカートもはき直しており、手もトイレの中の簡易的な洗面台で軽く洗ったのか、少し湿っている。
そして、右手には百合花が渡した検査薬の本体が握られていて、顔は若干俯いていて表情がうかがえない。
それでも、愛華がドアを開けて出てきてくれた事にホッとした百合花は、検査の結果を訊く為に口を開く。

「姉さ、」
「……よ、こん……の。」

百合花が、姉さん、と呼びかけようとしたその瞬間、愛華の唇が僅かに動いて、何らかの言葉を発したのが見えた。
しかし、それはあまりにも小さく、そして弱々しかった為、百合花はそれを上手く聴き取る事が出来ず、頭上に疑問符を浮かべたような顔で首を傾げる。
愛華は一体何を言おうとしたのだろう、そして検査結果は陰性と陽性のどちらだったのだろう、もしかして今それを言っていたのだろうか? と思った百合花はもう一度、

「姉さん、結果は」
「嘘よこんなのっ!!」

姉さん、結果はどうだったの? と、呼びかけようとした途端、愛華が絶叫する様な大きな声を張りあげながら顔を上げた。
百合花は思わず驚いて肩を上下に震わせ、それから、愛華の握っている検査薬の表示を恐る恐る覗き見る。
プラスチックで出来た棒状の検査薬の小さな窓、そこには、使用済みである事を証明するラインのほかに、妊娠中である事を知らせるラインが浮かび上がっている。
結果は、陽性だったのだ。
覚悟はしていたけれど、やはり……と、何とも口にし難い落胆と困惑を感じながら、百合花は愛華の顔を見る。
愛華の顔は今にも泣き出しそうに歪んでいて、そんな愛華を見たのは初めてである百合花は、どう言葉をかけるべきか分からないどころか、一瞬頭の中が真っ白になって何をどうすればいいのか全く分からなくなってしまった。
そんな百合花の隙を突くように、愛華は自分の正面に立つ百合花を突き飛ばして走り出す。

「きゃっ……姉さん!?」

ドサッ、と音を立てて転ぶと同時に、真っ白になっていた頭の中に色が戻ってきた百合花は愛華を呼び止めようとしたが、愛華は開いた自動扉を振り返らずに走って抜けて、部屋を出ていってしまった。
百合花は床に打ってしまった箇所をかばいながらも立ちあがり、服を軽く叩いてから閉まった自動扉の前に立ち、再び開いた自動扉を愛華と同じように走って抜ける。
鏡のような材質で作られた廊下は長く、百合花は愛華が左右どちらに向かったのかを確かめる為廊下の右端と左端を見た。
そして愛華の部屋の中から見て左側の廊下に愛華の走る姿を見つけると、百合花は少し走り難い服を着ているにも関わらず、全力で走りだした。
それでも、愛華との距離はさほど縮まず、百合花が愛華に追いつくよりも前に愛華は何処かの部屋の中に入ってしまった。
愛華が入った部屋のある方の壁に視線を向けながら、百合花は走る。
十数秒後、百合花は壁に“光闇 白夜・プライベートルーム”という表札を見つけ、そこで停止した。
何がどうして、という理論的な理由は無いが、きっとそうだという直感的な理由で、百合花は愛華が白夜の部屋にいると確信したのだ。
自動扉は白夜か愛華、もしくは黒夜にしか開ける事が出来ないため、中の様子を見る事や、中に入る事はできない。
百合花は仕方なく、その場で耳を澄ませる事にした。

百合花が愛華を追いかけはじめる十数秒前、愛華は自分の部屋と白夜の部屋の中間地点辺りを走っていた。
目的地は勿論白夜の部屋で、右手にはまだ陽性反応の出た妊娠検査薬を持っている。
そろそろ身体が鈍ってくる三十代という年齢にもかかわらず全速力で走りながら、愛華は自問を繰り返していた。
今“コレ”を持って白夜の部屋に行ったとして、それで何がどう変わるというのだろう?
白夜にこの結果を見せつけたとして、自分はどんな反応を求めているのだろう?
そもそも自分は白夜に“コレ”を見せつけて何がしたいのだろう? 白夜のせいにしたいのだろうか?
いや、そんな事はできないのは分かっている、先に交わりを求めたのは白夜ではない、自分だ。
それならなおさら、自分は何を思って……と、考えているうちに、愛華は白夜の部屋の扉の前に到着した。
左手で白衣のポケットを探り、Dirty Bloodの首領の片割れである事を証明するカードを取り出し、カードリーダーに通すと、扉は何の躊躇いもなく開いて、部屋の中の様子を愛華に見せた。
部屋の中には白夜と、その双子の弟である黒夜がいて、部屋の奥の、三週間前に秀造と白夜が話し合った場所で雑談をしているところだった。
白夜だけでなく黒夜がいるのを見た愛華は一瞬そのまま何食わぬ顔で部屋に戻る事も考えたが、その考えとは裏腹に足は部屋の中、玄関へと進む。
玄関に踏み込んだ愛華の背後で自動扉が閉まった。

「あ。愛華。」

自動扉が開閉した音で愛華が来た事に気が付いて、白夜と黒夜が愛華に振り向く。
そして白夜は、それまで飲んでいたミルク入りのコーヒーが入ったコーヒーカップをテーブルに置いて、嬉しそうに笑って右手を振り、黒夜は小さく頭を下げた後すぐに視線をテーブルの上のコーヒーカップに戻して、それを優雅に持ち上げコーヒーに口をつける。
何処までものんびりした様子の白夜に、愛華の中で何かが切れた。
どうして私がこんなにも後悔している時に、貴方は弟と一緒になってコーヒーと雑談なんて楽しんでいるの!? と、愛華の中に理不尽な、しかし切実な怒りが湧き上がってくる。
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