短編“未満”小説『Christmas Present of Blood Color:0(※初出版)』
無言で顔を歪め、肩を震わせ、妊娠検査薬という棒状の物を持ったまま立ち尽くす愛華。
それを見てさすがの白夜も何か異変を感じとったのか、首を傾げて黒夜に小声で問いかける。
「愛華、どうしたんだろう?」
「さぁ? 僕は知らないよ、兄さんがなんかやらかしたんじゃない?」
黒夜の対応は飽く迄もドライでそっけなく、そういえば黒夜と愛華はあまり仲が良い方ではなかったのだったか、と思いだした白夜は小さく苦笑して席を立った。
そして黒夜がさりげなく見守る中で、愛華との距離を一歩ずつ縮めていく。
愛華も、玄関で靴を脱いで部屋の中に上がってくるので、二人は丁度部屋の中心部で向かい合う形となって足を止めた。
白夜は改めて愛華に尋ねる。
「愛華、急にどうしたんだい?」
白夜が微笑みながら尋ねると、愛華は顔を上げる代わりにゆっくりと右手を上げ、白夜の目の前に一本の棒を突きつけた。
それが妊娠検査薬であること理解した白夜の表情から笑顔が消える。
黒夜も、愛華の様子からただならぬ雰囲気を感じ、コーヒーカップをテーブルに置いて椅子から立ち上がった。
遂に結果が出たかという緊張と、もし愛華が妊娠していたらどうすればいいのか分からない不安と、自分はどれだけ罪深い事をしてしまったのかという後悔で頭の中がごちゃごちゃになりながらも、白夜は必死に言葉を絞り出す。
「愛華、それは……」
「……貴方が、百合花に頼んだんでしょう……。」
妊娠検査薬を持つ愛華の手は僅かに震えていて、白夜がそれに気付いて愛華の顔を覗きこもうとしたその時、愛華の足下に透明な水滴がぽたりと落ちた。
それは既に乾いた手から零れた物でも、妊娠検査薬から零れた物でもない、愛華の目から零れたもので、白夜は愛華が泣いている事に気付く。
白夜は焦ってハンカチやティッシュを探したが、生憎すぐ近くにそれらしいものは見つからず、助けを求めるように黒夜に振り向いたが、黒夜もそれらしきものは持っていないのか首を横に振った。
どうしよう、愛華はどうして泣いているんだろう、この表示は何を表しているのだろう、いやそもそも陰性だったら無く必要など愛華には無いのではないだろうか、では検査結果は陽性だったのか? と、白夜が様々なパターンを脳内でシュミレートしていると、愛華がボソリと一言、
「……妊娠、したみたい。」
と言った。
愛華の告白に、白夜も黒夜も目を見開いて驚いた。
特に黒夜は、百合花とは反対に妊娠の可能性を白夜や秀造から知らされていなかった為、すぐに白夜の背後に駆け寄ってその肩を掴み、自分の方へと向き直らせて叫ぶ。
「兄さん!! 妊娠って、どういう事!? 兄さんまさか、この人と!!」
「えっと……」
黒夜は廊下や別の部屋にも聞こえそうなぐらいの声で白夜を責め立てるが、白夜は気まずそうに視線を床に落とすだけで状況を説明しようとしない。
卵子が着床したかどうか分からないような時期や、性交渉のすぐ後ならともかく、愛華の妊娠という結果が出てしまった段階に至っても弟である自分に何の説明もしようとせず、誤魔化そうとする白夜を見て黒夜は、ハッキリ言って失望した。
ハッキリしない態度の白夜に痺れを切らし、黒夜は白夜を押しのけて愛華の目の前に出ると、愛華の襟元を掴んで顔を正面から向かい合わせて叫ぶ。
「花道 愛華!! お前、兄さんに何をさせたんだ!!」
すると愛華は涙を流しながら俯いたまま、肩を小さく上下させ始めた。
白夜はそれを、愛華は泣いているんだ、と思ったが、真正面で対峙している黒夜には、泣き声ではないその声がしっかりと聞こえてくる。
「フ、フフフ……フフフフフフ……アハハハハハ……」
愛華は、笑っていた。
質問に対して答えを返さない愛華に不快感を覚えた黒夜は眉間にしわを寄せる。
「何を、笑ってるんだ……質問に答えろ!! 花道 愛華!!」
「アハハハハハハハ、アハハ、アハハハ、アハハ……アーッハッハッハッハ!!」
黒夜に襟元を掴まれた愛華は、涙を流したまま急に大きな声で笑い出した。
その異様な笑い声に、白夜は驚くと同時に恐怖して耳を塞ぎ、黒夜は既に険しくなっていた表情を更に険しくする。
そして愛華は、妊娠検査薬を持っていない左手で黒夜の右手首を握ると、思い切り捻りあげた。
「いてててっ!! な、何するんだよ!!」
黒夜が驚いて愛華の襟元から手を話すと、愛華は黒夜を左手で突き飛ばした。
腕を捻られた上に突き飛ばされた黒夜の小さな呻き声が聞こえたが、愛華はそれには構わず、先ほど黒夜に押しのけられた白夜のもとへと向かう。
白夜は既に耳を塞ぐ事はやめていたが、歩み寄ってくる愛華と対峙すべきか、それとも床に倒れ込む黒夜を助けるべきか、もしくは他にするべき事があるのか分からず、ただ愛華と黒夜を交互に見ることしかできない。
やがて、愛華が白夜の正面に辿り着いた。
愛華の纏う異様な雰囲気に気圧された白夜は一歩後ろへ下がるが、まるでそんな白夜を逃がすまいとでも言うかのように、愛華も一歩足を進めた。
白夜が後退すればするほど、愛華は前進してきて、そうして白夜の背中が背後の壁に当たった時、愛華は最後の一歩と言わんばかりに白夜との距離を縮め、それから両手で白夜の白衣の低い位置を掴んだ。
先ほど見せた気違ったような笑いはもう顔から消えているが、右手は妊娠検査薬を持ったままだ。
「あ、愛華……。」
白夜は、愛華が考えている事、感じている事を理解する事ははおろか推測する事すら出来ず、最愛の人物を見る目とは思えないほど怯えた視線で愛華を見る。
それはまるで愛華に殺されることすら覚悟していそうな視線だったが、それでも愛華を無理に振り払ったり押しのけたり、そして何より逃げたりしないのは、愛華が白夜の最愛の人物である故か、それともただ恐怖で動けないのか、それは白夜にも黒夜にも愛華にも分からない。
ただ白夜はそれ以上逃げようとしなかった、という事実だけがそこにある。
「白夜……。」
白夜の白衣を掴んだまま、愛華は白夜の名前を呼ぶ。
白夜は緊張から喉の奥に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
そして愛華は自分の顔より少しだけ高い位置にある白夜の顔を正面から見詰めつつ、未だ涙の流れる目を細めて懇願する。
「お願い……流して……。」
愛華はそれだけ言うと、両手は白夜の白衣を掴んだまま、脚の力を失ったかのように急激に、床へと崩れ落ちた。
そして、小さく肩を震わせて、ヒクヒクと引き攣った息をしながら小さく泣きはじめる。
止まる事の無い涙が頬から零れ落ち、カーペットにしみ込んでいく。
白夜は呆然としてその一部始終を見ていたが、やがて愛華の言葉の意味を理解して、口を開く。
「……何を、言ってるんだい……流してって、それって……」
それは要するに、堕胎・中絶を望むという事なのか、という事は、白夜には言えなかった。
脳裏に、愛華と交わった翌日の、秀造との会話が蘇る。
あの時、秀造は何と言っていただろうか?
確か、白夜と愛華は子供を育てられる状況にはないし、愛華は子供を持つ事に積極的ではなさそうだから、状況さえ揃えば愛華は堕胎・中絶を望むだろうと言っていたハズだ。
だから、そういう状況に陥る可能性の考慮は、散々してきたはずだ、と白夜は思い出す。
けれど、実際にそうなってみると、理解はできても納得がそれに追いつかない。
例え産む気の無かった、そして育てる気も無かった子供でも、自分と愛華の子供を殺す事など、白夜にはできるはずもない。
「できないよ……そんな事……。」
恐怖の代わりに悲しみをその顔に乗せて、白夜は呟くようにして言った。
そして今だ握られたままの白衣のポケットを探って、その中からハンカチを取り出し、俯いて泣き続ける愛華に差し出す。
それに気付いた愛華は息を引き攣らせながらもゆっくりと顔を上げた。
愛華が顔を上げると、白夜は少し困ったような顔をしてから、それでも優しく、そして柔らかい笑みを作って、
「大丈夫、私達ならきっと育てられるよ。私も最大限協力する、だから、泣かないで。」
と言った。
この時白夜は、愛華はきっと子供を育てる自信が無いのだろう、だから泣いているのだろう、と考えており、それなら自分が愛華にできない事をサポートすればいいだけだ、という考えに辿り着いたため、それをそのまま愛華に伝えたのだ。
それに白夜は、愛華が妊娠した事を正直、心のどこかで喜んでいる節があった。
表社会を捨てて裏の人間となり、Dirty Bloodを設立したその時、表の人間が築くような幸せは全て縁遠いものになったと思っていた白夜にとって、子供ができるというのは、立場上色々な制限はあれど、縁遠くなった筈の表の幸せを自分達も感じる事ができるチャンスに感じられたのだ。
だから白夜は、愛華の意見とは反対に、子供を生かす方向で話を進めたいと思っている。
白夜の笑顔を見た愛華はしばしの間、虚を突かれたような、何か驚かされたような、ポカンとした雰囲気の表情で白夜を見ていた。
それを白夜は、愛華は此方の発言に驚きながらもそれを受け入れようとしてくれているからそんな表情をしているのだ、と感じ、表面上だけでなく、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべて愛華の顔の涙を拭い始めた。
先ほど愛華に突き飛ばされて床にしりもちをついていた黒夜も、床から立ちあがり、白夜の傍へ歩み寄ってくる。
それら両方を見て、全ては丸く収まった、と思って白夜は内心、というよりも全面的に喜びの表情を見せる。
だが、
「そう……それが貴方の答えなのね……」
「え?」
それまで黙って涙を拭われていた愛華が、ボソリと呟いた。
白夜は愛華の唐突な発言に僅かに驚き、愛華の涙を拭う手を止める。
すると愛華は急に怒りに表情を歪め、パシンッと音を立てて白夜の手を振り払った。
突然の出来事に驚いて何も言えなくなる白夜の代わりに、黒夜が怒号を飛ばす。
「何するんだよ!」
黒夜が怒ると、愛華も負けじと声を張り上げた。
「貴方は口を挟まないで!!」
そして白夜は、そんな目の前の出来事を理解する事が出来なかった。
愛華に叩かれて振り払われた手の、少しだけ赤くなってしまった部分と、愛華の涙の染み込んだハンカチを見詰め、呆然と立ち尽くす。
今、愛華は何をした? そして、何を言っていた? どんな表情をしていた? それら全ての情報が白夜の中でごちゃごちゃに混ざって、正確な答えが引き出せない。
視界に映るのは、黒夜を睨みつける愛華と、愛華を睨みつける黒夜だ。
二人は何故言い争っているのだろうか、白夜にはその理由が分からない。
意識は明瞭、なのに思考は混濁して、白夜は愛華にも黒夜にもかける言葉が見つからなかった。
どうしよう、どうしたらいいのだろう、と白夜が悩んでいると、それまで黒夜に向けられていた愛華の視線が急に白夜へ向けられた。
思わず白夜の背筋に緊張が走る。
「白夜、どうして分かってくれないの!? 私は“こんなもの”必要としていないのよ!! 育てられるかどうかじゃない、そもそも要らないのよ!! それなのに、どうして流してくれないの!? どうして殺してくれないのよ!?」
キッと睨み付けられながら矢継ぎ早に言葉を発せられて、白夜は何をどう弁解すれば自分の意見を愛華に納得させられるのか、また愛華を落ち着かせることができるのか、全く分からなくなってしまった。
いや、もしかしたら最初から、愛華を納得させる言葉など無いのかもしれない。
愛華は最初から子供の誕生など望んでいないのだから、いくら白夜が協力して育てられる環境を作った所で、全ては無意味なのかもしれない。
そう気付き始めた白夜の横で、黒夜が呆れかえった様子の溜息を吐く。
「……あのさぁ、殺すのはいいとしても、どうやって殺すつもりなの? 此処にそんな事ができる医者、居ないでしょ?」
「黒夜、何言って……」
「それとも何? お前はその無様な腹を兄さんに蹴ってもらうつもりででもいるの? そんな、兄さんを殺人犯にするような事は、この僕が許さないぞ!!」
白夜は黒夜の発言を遮ろうとしたが、黒夜は愛華に対しての苛立ちが相当溜まっているらしく、発言を止めるどころか愛華の襟元をもう一度掴んで、愛華を威嚇しながら言葉を続けた。
すると、黒夜の言葉は愛華の図星を突いていたのか、黒夜が愛華の襟元から愛華を投げ捨てるようにして手を離すと、床にしりもちをついた愛華は単なる怒りではなく、悲しみと後悔の混ざった怒りに顔を歪め、再び涙を零しながら黒夜を、そして白夜を睨みつける。
愛華のそんな態度を見て、愛華は自分にそんな恐ろしい事を求めていたのかと知った白夜は絶望にも似た衝撃に打ちのめされ、これ以上何を言えばいいのか分からずに両手で頭を抱えた。
その拍子に床に落ちたハンカチは、若干嫌そうな顔をしながらも黒夜が拾う。
嫌そうな顔をしているのは、大好きな兄のハンカチといえど、大嫌いな女の涙が染み込んでいる故だろう。
愕然とする白夜と、嫌そうな顔をした黒夜の前で、愛華は泣き喚く。
「じゃあどうしろって言うのよ!! 堕ろせる医者も看護婦も居ないこの場所で、どうやって“これ”を殺せばいいの!? どうやったら“これ”はなくってくれるの!? 貴方に責任をなすりつけたい訳じゃないけれど、他に方法が無いじゃない!!」
ほとんどが自業自得だというのに幼子の様に泣き喚いて慟哭する愛華につられたのか、白夜の表情も何処か悲しみに濡れ始めたような気がした。
逆に黒夜の表情はこれでもかという程に冷めきっていて、愛華を見下しているようでもある。
自分はどうして愛華を泣かせる事しかできないのだろう、こうなった原因だって愛華を喜ばせたくてやった事だったはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう、と考えて泣きそうになる白夜の隣で、黒夜が冷めきったトーンの声で言い放つ。
「じゃあ自分で殴ったら? 兄さんの手を煩わせないでくれるかな。」
黒夜の冷たい発言に白夜と愛華はハッと目を見開いて驚き、白夜は何か反論して黒夜を叱らなければいけない気がしたが、何をどう反論するべきなのかまでは思い付けず、苦い顔で奥歯を噛みしめた。
そして愛華は、しばし呆然と黒夜を見詰めた末に、まだ涙の乾かぬ顔で再び、引き攣った笑いを浮かべはじめる。
その笑いは、そうか、そうか、その手があったか、とでも言っているようで、実際に愛華は、
「そうね……それなら私だけでもできるわ……そうよ、こんな“もの”、私の手でぇええ!!」
と言って、両手をぎゅっと強く握りしめて拳にし、自分のまだ膨らまぬ下腹部に向けて突進させた。
一発、また一発と愛華の拳が愛華の下腹部にめり込む。
それはまるで太鼓でも叩くかのように楽しそうに――いや、実際には楽しい訳ではないのだろうが、ともかく狂人めいた笑みを見せながら愛華は自分の下腹部を殴る。
白夜はしばしその状況を理解する事が出来ず呆然と見詰めていたが、次の瞬間何かのスイッチでも入れられたかのように状況を理解した。
愛華が自分の腹部を、自分の“子供”を殺そうとして殴っている。
駄目だ、そんな事はするべきではない! と、白夜は愛華が四発目の拳を下腹部に叩きつけようとした瞬間、これ以上は叩かせまいというように、素早くその場に膝をついて愛華を正面から抱き締めた。
壊れかけの愛華の力一杯の拳は愛華の下腹部に当たらず、白夜の背中に当たって止まる。
鈍いような鋭いような、そして重い痛みが白夜の背中に走った。
白夜の背後で黒夜が、兄さん! と少し驚いた様子で白夜を呼ぶ声が聞こえたが、白夜はそれを無視して愛華を静止する事だけに集中する。
「駄目だよ、駄目だよ愛華!」
「何が駄目なのよ……何が!! 育てられないのなら、そもそも欲しくもないのなら、外に出る前に殺すべきでしょう!? 私はこんな“もの”要らないし、育てる気も無いの!! だから殺させてよ!! 捨てさせてよ!! 無かった事にしてよぉぉぉおお!!」
今尚両手を固い拳にして、自分の下腹部を殴る為に白夜の腕の中から逃れようとしながら泣き喚く愛華を一層強く抱きしめて、白夜はその動作を封じ込める。
背後で黒夜が呆れかえった溜息を吐く音、自分の顔のすぐ横で愛華の啜り泣く声が聞こえて、白夜は酷く歯痒い想いを感じた。
愛華と出会ってからというもの、いつでもどんな時でも愛華の笑顔の為に行動してきた白夜にとって、今愛華を泣かせているのは他でもない自分だという事実は、どうにも悔しいものがあって、できる事なら今すぐに愛華を笑顔にしてあげたいと思うも、それは愛華の願望――堕胎・中絶を行う事とほぼ等しくなっており、愛華を愛したが故にその終着点として生まれた子供が既に愛しい白夜にはどうしても許容できないものがある。
愛華を笑顔にしたい、愛華に楽になってもらいたい、けれど堕胎・中絶には賛成できない、そんな矛盾が白夜を苦しめる。
どうして自分は愛華が安心して子供を産む気になるような言葉をかけて上げられないのだろう、と、白夜は自分の無力を悔しく思った。
「お願いよ、お願いだから、“これ”を殺して……無かった事になるぐらい早く、殺して流してよぉ……。」
愛華は先ほど程暴れなくなったものの、いまだ泣いている事と堕胎・中絶を望んでいる事に変わりは無い。
どうしたら愛華は産む事育てる事に賛成してくれるのだろう、と白夜が悩み、どうしたらこの馬鹿らしい状況から抜け出せるのだろう、と黒夜が考えていると、急に部屋の扉がコンコンッという音を立てた。
どうやら、誰かが扉をノックしているらしい。
白夜と黒夜が扉に視線を向けると、扉の向こうから誰かの声がする。
「白夜さん、黒夜さん、愛華さん、いらっしゃるなら此処を開けてくれませんかね?」
「姉さん、白夜さん、黒夜さん、開けてちょうだい。」
至って冷静なその声は、何処か丁寧過ぎる話し方をしている方が男性――天照 秀造で、愛華を姉さんと呼んだ方が花道 百合花だった。
それに気付いて白夜と黒夜は顔を見合わせ、黒夜は小さく頷いてから白夜の隣を離れ、扉の横のコントロールパネルのある壁へ向かって歩く。
そしてパネルの前に着いた黒夜がカチッと音を立てながら多くのボタンの中の一つを押すと、ようやく部屋の扉が開いた。
秀造と百合花が部屋の中に入ってくる。
「おやおや、これはまた大層な場面に遭遇してしまいましたね。」
「姉さん……。」
いつも通りのんびりとした老人のような調子の秀造と、その後ろから悲しそうに様子を窺うようにしている百合花。
愛華もやっと周囲を気にするだけの余裕が出てきたのか、それとも突然の訪問者に驚いて泣くことすら忘れてしまったのか、ともかく白夜に抱きしめられたまま後ろを振り返り、秀造と百合花に視線を向ける。
愛華を抱きしめる白夜も、これ以上どうしたらいいのか分からない、誰か助けてくれ、と縋るかのような視線で秀造と百合花を見た。
コントロールパネルの前に居る黒夜が白夜達の傍に戻ってくると、秀造がいつもの調子でのんびりと、しかし冷静に口を開く。
「大体の事は百合花さんから聞きましたよ。愛華さんにとっては残念な、白夜さんにとってはさぞ複雑な結果になってしまった訳ですが、過ぎてしまった事はこれ以上どうにもなりません。だからと言って当人同士で話し合っても堂々巡りが関の山でしょう。此処は一つ、それぞれ兄弟姉妹で話し合われて落ち着かれた方が良いのでは? 必要な情報があればそれは私が中継いたしましょう。」
そう言って微笑む秀造に毒気を抜かれたのか、愛華はいつの間にか泣き止み、白夜の抱擁へ抵抗する事も自分の下腹部を殴ろうとする事も忘れていた。
白夜もややポカンとして秀造を見ており、百合花と黒夜だけが複雑そうな顔を見せている。
やがて秀造の斜め後ろにいた百合花が愛華のもとへ歩み寄ると、白夜は愛華が自分の下腹部を殴る心配はもうないだろうと思ったのかゆっくりと腕の力を弱め、解放された愛華は床に膝をついたまま百合花と向かい合った。
「姉さん、一度部屋に戻りましょう。状況を整理するの。」
さすがの愛華も妹に反抗する気にはなれなかったのか、しばらくの間呆然とした様子で百合花を見詰めた後、床に視線を向けてから、
「……えぇ、そうね。」
と返事をして、ゆっくりと立ち上がった。
そんな愛華をいたわるように、百合花が愛華の肩に軽く手を置く。
愛華は百合花に付き添われながら、視線を床に落としたままで部屋の扉へ向かって歩き出した。
白夜と黒夜と秀造はその後ろ姿を静かに見送る。
やがて愛華と百合花が部屋を出て、廊下と部屋を繋ぐ扉が閉まると、さて――、と言いながら、秀造が白夜と黒夜へ向き直った。
白夜の背筋に緊張が走り、黒夜の表情が面倒くさがっているような表情に変わる。
「愛華さんの事はしばらく百合花さんに任せる事にして、我々男性は男性だけでの話し合いと行きましょうか。」
ニッコリ、という擬音がピッタリな笑顔を見せながら秀造が言った。
そんな秀造に白夜は、どうして笑っているの? と言う事が出来なかったが、それは代わりに黒夜が溜息ながらに言ってくれる。
「秀造くんってさ、本当にいつでも笑ってるよね……今の雰囲気って、笑える雰囲気じゃないと思うんだけど。」
「あぁ、これは失礼。いやはや、私はどうにも他の表情を作るのが苦手でしてね、これが無表情のようなものなんですよ。あぁでも大丈夫です、本当に悲しむべき時や怒るべき時はそのような表情も出来ない事はありませんので。」
相変わらずニコニコとした顔でのんびり、朗らかに答える秀造に、白夜は言いしれぬ恐怖のようなもの――顔は笑顔だが腹の中で何を考えているか分からない人物という印象を感じたが、それを言うのは秀造に失礼だと思い黙っておく事にする。
秀造の笑顔の意味を、黒夜は納得したような納得していないような、少し複雑そうな表情を見せながらも、あ、そう……、と言って、一応は納得した事にしておくつもりらしい。
そう、今重要な事は秀造の笑顔の意味などではなく、愛華の腹の中に宿った命をどうするか、である。
黒夜は近くの椅子に腰かけながら、この話し合いは自分が仕切ると言わんばかりに言う。
「じゃあ秀造くんの事はそれでいいとして……で、どうするの? というか、兄さんはどうするつもりなの?」
椅子に座って脚を組む黒夜と、立ったまま二人の様子を見守る秀造。
その間で立ち尽くす白夜は、しばし返答を迷った。
白夜自身の意見としては、やはり産んで欲しい、殺してほしくない、というのが本音である。
何故なら、今愛華の中にいる子供は愛華と自分の想いが通じ合っていた証なのだから、それを殺してしまうのは自分達の想いを否定してしまう事にも等しくなると白夜は考えているからだ。
子供ができるきっかけになった性行為だって、自分が愛華を愛していて、愛華が自分を愛してくれているから自分は受け入れる事にした、その筈なんだと白夜は思う。
けれど、愛華は既にその子供の存在を否定したがっていて、ならば、自分だけが子供の存在を肯定するのは愛華の想いを否定する事になるのでは? という不安も拭えないのは事実だった。
愛華の今この瞬間の想いを汲みとって子供を殺すのか、それとも長い目で見て全てを否定しない為に子供を生かすのか、白夜は散々迷いに迷った末に答えを出す。
「私は……できる事なら、産んで欲しい。育てるのは私一人が請け負っても構わないから、折角の私と愛華の子供を、殺したくない……そう、思ってるよ。」
弱々しく、困ったように笑いながら、白夜は二人に告げた。
正直な所、白夜にはそれが正しい選択だという自信が無い。
確かに以前秀造に言われたように此処は普通の家庭ではなく、犯罪組織のアジトで、例え子供が健康に生まれたとしても健全な子育てはできないだろう、それは白夜にもなんとなく分かっている。
しかし、少なくとも愛華との関係の証でもある子供を殺す事はそれ以上に恐ろしく感じられて、白夜にはやはり選ぶ事が出来なかった。
不安や心配を誤魔化すように笑い、まだ僅かに残る迷いを必死に振り払って答えた白夜を見て、やや不機嫌そうに黒夜が発言する。
「僕は反対だね、それ。あの女は“あれ”を兄さんとの子供だなんてきっと思わないだろうし、そもそも此処は子供を育てられる環境じゃあない。兄さんとあの女は、そういう一般家庭的で人並みの幸せは捨て去ったはずでしょ?」
飽く迄も愛華を愛華さんとは呼ぼうとしない黒夜の態度は何処か刺々しい物を感じさせるもので、そして黒夜の言葉は白夜が必死に目を逸らしている問題点を白夜の目の前に引き摺りだすものだった。
捨て去った環境と人並みの幸せ、それは勿論だが、愛華が子供を自分との“子供”だと認識しないというのもなかなか辛辣な発言だ。
事実、先ほどこの部屋で喚いていた愛華は自分の腹の中の命の事を命として、人として、子供として扱う言い方をしていない。
こんなもの、とか、これ、とか、無機物と同じ扱いしかしていないのだ。
そんな愛華にそれ――“こんなもの”が“子供”である事を認識させるのは、一苦労どころの話ではないだろう。
それに加えて此処は子供を育てられるような環境ではないのだから、黒夜が愛華の出産に反対するのもおかしな話ではない。
むしろ、こんな所に生まれ育つくらいなら堕胎されて来世に期待を込めた方がマシ、という考え方すらできる。
「ホント、兄さんもあの女もとんでもない間違いを犯してくれたものだよ。兄さんは僕と同じままだって信じてたのにな。」
呆れかえったような声の黒夜は、どうやら秀造と同じ童貞――未経験者らしく、自分の兄もこれまでそうだったのだからこれからもそうだと考えていたようだ。
自分が愛華の為にした事を間違いだと言われて、白夜は少し気分が落ち込む。
自分自身でもマトモに踏み入った事の無い領域に、愛華と共に踏み入ったのは愛華を喜ばせたかったから、それなのに今愛華は泣いていて、喜びとはほど遠い所にいて、白夜は愛華に迫られた時合意を示した自分を責めた。
自分があの時断っていれば、もっと慎重に行動していれば、と、後悔ばかりが溢れてくるも、それらは全て後の祭りだ。
自分がどうしたいかは決まっている、けれど結局の所それを遂行していいのかどうか分からない、そんな白夜は助けを求めて神に縋るような視線で秀造を見る。
「秀造くん、君は……どう思うんだい?」
「私ですか? そうですねぇ……私はお二人がどの道、つまりは出産か堕胎かのどちらかですが、そのどちらを選ぶにしても、それをサポートできる要員が少ない事が気にかかりますね。白夜さんの奮闘もあってここ数週間で医療知識のある団員は以前より増えましたが、それでもまだ不安が残る程度の数でしかありません。子供を生かすにしろ殺すにしろ、そこをもう少しどうにかできればと思うのですよ。まぁ、これは現代だから思う事であって、もっと昔の田舎町などでは産婆の一人でもいれば十分だったのかもしれませんがね。」
白夜が秀造に意見を求めると、秀造は殺すべきとも生かすべきとも言わず、どちらにしろ付き纏うリスクについて話し始めた。
白夜は、そう言う事を聴きたいんじゃないんだけどなぁ、と思いつつも、秀造の意見も無視はできない内容ばかりなのできちんと耳に入れておく。
そうだ、堕胎にしろ出産にしろ負担がかかるのは自分ではない、愛華だ、愛華なんだ、と改めて感じた白夜は、出産して欲しいという事を本当に愛華に伝えていいのかどうか少し悩んだか、どちらにしろ負担がかかるならやはり産む方を選んで欲しい、と改めて考える。
その後の事――育児は全て自分に任せてくれて構わないから、自然に流産でもしてしまわない限り、どうか殺さずに……と白夜は心を決めた。
「まぁ大切なのは白夜さんと愛華さんのお気持ちですから、私や黒夜さんの言葉は鵜呑みにするのではなく参考にする程度にすればよいでしょう。それで結局、白夜さんの意思は産んで欲しいという事でよろしいので?」
「そうだよ、だってあの子は私と愛華の子供だから……私達がお互いを想い合っていた証で、その結果だから。」
秀造の問いかけに白夜は毅然として答えた。
その時、秀造と黒夜の両方に注意を向けていた白夜は気がつかなかったが、愛華に執着する兄が見たくなくて秀造だけに視線を向けていた黒夜は、秀造の笑顔にどこか哀れみとも嘲笑とも言えそうなものが滲んだ事に気が付く。
やっぱり、コイツの腹の中は上手く読めない、と思いながら黒夜が白夜に視線を向けると、白夜も黒夜に視線を向けてきた。
その表情には不安や心配、困惑の色は無く、黒夜はそこに、まだDirty Bloodを作り上げる前の、人と争う意思は無いがそれなりの自信と未来への希望に満ちていた白夜の面影を見る。
嗚呼、兄さんは本当に輝かしい未来だけを目指しているんだな、と思えば思うほど、今この状況、Dirty Bloodの首領の片割れという白夜の立場が憎らしくなって、黒夜は密かに、どうして? と問いかけるような視線を白夜へ送った。
どうして貴方は同じ“科学者を辞める”でも、一般人になるのではな、くこんな、犯罪者・テロリストになる事を選んでしまったのですか? と、問いかけられるものなら問いかけたかったが、本当に問いかければきっと白夜は自信を持って、愛華の為だよ、と答えるのだろうと思った黒夜はそれを黙っておく事にした。
そうしてモヤモヤとした複雑な想いを抱えながらも白夜に視線を向けていると、白夜は自信に満ちた表情で黒夜に宣言する。
「大丈夫だよ黒夜、もし愛華があの子に一切触れなくても、その時は私が通常以上の愛情をもって育てていく、そう決めたんだ。」
「……兄さんって、本当に貧乏くじを引きたがるよね。」
前にもこんな白夜を見た事がある黒夜は、少々呆れかえった様子の声で苦笑しながらそう返した。
その笑みを黒夜からの許可の笑みだと思ったのか、白夜は嬉しそうに朗らかな笑みを見せる。
黒夜は密かに、本当は兄さんがどん底まで落ち込むような事を言って目を覚まさせないといけないのになぁ……、と思いながら秀造に視線を向けた。
視線を向けられた秀造は小さく頷き、白夜に視線を向けて訊く。
「では、白夜さんの最終判断は出産希望でよろしいですね? 変更が無ければ私はこの結果を愛華さんと百合花さんに伝えてこようと思うのですが。」
「うん、お願い。」
白夜はしっかりと一度だけ頷きながら秀造へ返事をした。
返事をされた秀造は、では行ってきます、と言って部屋の扉へ向かって歩き出す。
すると、それまで座っていた黒夜が急にカタンと音を立てながら席を立ち、
「……僕も行く。」
と言って秀造の後を追って歩き出した。
秀造はもともと愛華と白夜の中継をすると言っていたのでともかく、何故愛華と仲の悪い黒夜が? と白夜が首を傾げ、立ち止まり振り向いた秀造が意外そうな表情で黒夜を見るが、黒夜はそれに構わずその背後に近付いた。
そして黒夜は秀造にしか聞こえない小さな声で言う。
「君に訊きたい事があるから。」
その一言で、どうやら黒夜は愛華ではなく自分に用があるらしい、と納得した秀造は表情をいつもの笑顔に戻した。
そして、頭上に疑問符を浮かべたような顔の白夜をチラリと見てから黒夜に視線を戻して、秀造はいつも通り穏やかな声で言う。
「分かりました、それでは行きましょうか。」
そう言うと秀造は視線を扉に向け、またゆっくりと歩き出した。
一歩後ろから黒夜がそれを追いかける。
秀造が扉の前に立つと、黒夜がコントロールパネルの前に立って、先ほど秀造と百合花が部屋に入って来た時と同じ操作で扉を開けた。
開いた扉から、靴を履いた秀造が部屋を出て、扉が閉まる前に黒夜が急いで靴を履きそれを追う。
扉が閉まる直前、黒夜は背後に振り返って白夜の様子を窺った。
白夜はまだ、秀造はともかく黒夜が愛華の所に行く理由を理解できていないらしく、不思議な物を見るような目で秀造の後ろ姿と黒夜を見ていた。
やがて扉が閉まって白夜の姿が見えなくなると、黒夜は既に愛華の部屋に向けて歩き始めている秀造に視線を移し、その背中を追って隣に立ち、歩調を合わせた。
秀造と黒夜の革靴が床が接触してカツカツと音を立てる、その音は微弱にずれてはいるがほとんど同じタイミングで鳴っている。
そうして五メートル程度歩いた時、黒夜が隣で歩く秀造を見上げながら口を開いた。
「……秀造くん、さっき一瞬笑って無かったよね。あれ、何?」
「はて、何の事ですかな?」
それは、秀造に質問を投げたのが黒夜ではなくもしも白夜だったなら、秀造に覚えが無いならアレは自分の思い違いか、と思ってそれ以上の追及を諦めるような反応だった。
しかし今質問をしているのは飽く迄も黒夜であって白夜ではない。
それなりに意を決した質問だったというのに軽くスルーを決め込まれて、不愉快そうに眉を顰めた黒夜は、白夜は気付いていなくても自分は気付いているぞ、という意味を込めて何の事を訊いたのか答えて見せる。
「さっき、兄さんが花道 愛華との子供を自分達が思い合っていた証だって言った時だよ。」
黒夜が答えると、秀造は、たった今思い出しました、とでも言いたげな、何処かとぼけたような声で、
「あぁ、その時ですか。いやはやさすがは黒夜さん、気付いていらっしゃったんですねぇ。」
と言った。
なんだ、自覚はあるんじゃないか、と思った黒夜は更に不機嫌そうに眉を顰める。
反対にニコニコという擬音が似合いそうな笑みを絶やさない秀造は、そんな黒夜の反応を面白がるようにクスクスと小さく笑った。
それを見て、やっぱりこの後輩の腹の中はそう簡単に読めた物じゃない、と思った黒夜は、何かを諦めたような溜息を吐く。
おそらくそれは、秀造を本当の意味で理解し、近しい人間になる事を諦めた溜息だっただろう。
「……で、なんで笑ってなかったの? 何が笑えなかったの?」
黒夜が改めて尋ねると、秀造は観念したように息を吐き、基本構造としては笑顔と言って過言ではないのに、目だけは何処か遠くを見ている様な表情をしながら答えた。
「あれはですね、結局は白夜さんも、生まれてくる子供の事など考えてはいらっしゃらないと感じたからですよ。」
「……それ、どういう意味?」
秀造の答えに黒夜は怪訝そうな表情を見せながら訊き返した。
黒夜の印象では、子供を無機物のように扱い不用品だと言う愛華と違って、白夜は子供を一人の人間として見ると同時に必要な存在として見ている、そんな気がしていたからだ。
確かに、環境の事を考えると真に子供の事を思いやっているか少し怪しい所もあるが、それでも、子供を無かった事にしたいと思う愛華に比べれば、生きていて欲しいと願う白夜の方が圧倒的に子供の事を想っている、と黒夜は思っている。
しかし秀造はもともと子供の事を考えていない愛華だけでなく、そうやって愛華に比べれば子供の事を想っている白夜も愛華と同じで子供の事を考えてはいないと言うのだ。
黒夜が訊き返すと、秀造はしばし考えてから、
「……黒夜さん、貴方は白夜さんの口から、子供が“単体で”愛しいという言葉をお聴きになりましたか?」
と、質問に質問を返した。
黒夜はすぐさま、愛華が部屋に乱入してから、自分と秀造が部屋を出るまでの白夜の言動を思い返し、秀造の指した言葉を探す。
しかし、黒夜が覚えている限りでは、白夜の口から子供が“単体で”愛しいという言葉は出てきておらず、黒夜は小さく首を横に振った。
それを確認した秀造の笑みに意味深長な陰りが混ざって、黒夜は背筋に薄っすらと緊張が走るのを感じる。
秀造は話を続けた。
「でしょうね。白夜さんは飽く迄も、愛華さんとの子供であるという事に執着しているだけで、自分の子供だから愛しいだとか、愛しい子供に苦労はさせないだとか、そういう考えは一切無いのですよ。」
普段通り、とは少し違う陰があるが、それでも表面上は笑顔のままとんでもない事を言い出した秀造に、黒夜は白夜の弟として何か反論しなければいけない気がした、が、秀造の言う事はそれなりに的を得ている様な気がして、何も反論できなかった。
黒夜の視線が床に落ちる、それを見て尚も秀造は笑顔で言葉を続ける。
「こんな事を言うと怒られそうなので黙っていましたが、正直な話、あのようなヒステリックな母と子を母の分身としか思わないような父を持って生まれるぐらいなら、さっさと堕胎された方が子供の為になるかもしれない、と私は思いましたね。加えて、環境が環境ですから、これは既に話に出した筈ですが、子供の成長は“普通”の枠には入れずに終わる事かと……きっと、素晴らしく常識や善悪の判断に欠けた子供が育つ事でしょう。」
秀造の表情はそれを期待するかのような楽しげな笑みになっていて、チラリと視線を上げた黒夜は、秀造の狂気性を僅かに覗いたような気分になった。
正直、愛華と白夜に比べれば自分は厳しい意見を持っているという自信があった黒夜だったが、秀造の話はその自信を打ち砕くほどにシビアで、黒夜は此処まで言われる兄を哀れに思いながらも、何も反論する事が出来なかった。
秀造の話は何処までも現実的で、白夜の子育てドリームよりも、愛華の堕胎願望よりも、ずっと説得力があって、当事者ではない黒夜の耳にすら痛く刺さる。
もしも白夜がこの話を聴いていたら卒倒するか、愛華の様に泣き喚いただろうなと思いながら、黒夜は秀造の隣を歩いた。
そんな秀造と黒夜の会話から数分程さかのぼった時刻の事である。
白夜の部屋を出て自分の部屋に帰ってきた愛華と百合花は、低い机を挟んで対面するように置かれたソファー二つに、お互いが正面から見えるような形で座っていた。
妊娠検査薬をゴミ箱へ捨てて手を洗い直した愛華の表情は暗く、また視線も自分の膝の上へと落ちている。
そんな愛華を見詰める百合花の表情もやはり暗く、部屋を出る前にテーブルの上へ置いた二つの水入りグラスはまだその容量を一ミリも減らしていない。
「……姉さん。」
やがて百合花が口を開き、愛華に呼びかけた。
しかし愛華は顔を上げず、声で答えようともしない。
まるで、魂の無い人形のように愛華はうなだれたまま微動だにしなかった。
百合花は小さく溜息を吐き、テーブルの上のグラスに手を伸ばす。
そしてグラスの中の水を一口だけ飲んで口の中の渇きを潤すと、グラスを再びテーブルの上に置いてから、
「姉さんの、その、お腹の中の“子供”の――」
話なんだけど、と百合花が切りだそうとした瞬間、愛華がバンッと大きな音を立てて両手をテーブルに叩きつけながら立ちあがった。
突然の出来事に、百合花は驚いて肩を上下させ、同時にテーブルの上のグラスの中の水が少量、テーブルの上に零れる。
何が愛華の中の怒りを刺激してしまったのだろう、と少し戸惑いながらも百合花は愛華の顔を見た。
愛華の顔は怒りというよりも、後悔と困惑、そして拒絶感で歪んでいる。
「言わないで……子供なんて言わないで! “これ”は、“これ”は私の……私の子供なんかじゃないし、私は“これ”の母親なんかじゃないのよ!!」
必死の形相で声を荒らげた愛華に、百合花はしばしの間、目を丸くしたまま何も言う事が出来ずに沈黙した。
驚愕する百合花をよそに、愛華はテーブルに叩きつけて赤くなった両手のうち右手で自分の下腹部を押さえ、左手で頭を抱えながらソファーに座り直す。
そして、またうなだれて何も言わなくなってしまった。
百合花はそれを驚きが隠しきれない様子で見守っていたが、やがてその表情を驚きから哀れみにも似た悲しみに変えて愛華へ問いかける。
「じゃあ、姉さんにとって“それ”ってなんなの? それと、“それ”は結局どうするつもりなの?」
「“これ”は……」
子供ではないと言い切ったものの、子供でないならなんだというのか、愛華には説明できないようで、愛華は何か言いかけてすぐに口ごもってしまった。
そんな愛華を見て百合花は、できる事なら自分は黒夜や秀造と違って愛華を責めず、また白夜の様に自分の意見を押し付けて愛華の意見をないがしろにしたくはないと思うが、これでは何を言えば責める事や意見の押し付けにならないのか分からない、と思い、小さな溜息を吐く。
結局、白夜と対話させようがさせまいが、愛華が子供を殺す意志を変えるか、白夜が子供を生かす意志を変えない限り、堂々巡りには違いがないのだ。
まったく、どうしたものか、と考える百合花は仕方なさそうにテーブルの上のグラスに手を伸ばした。
愛華はまだ、水を少しも口にしていない。
「“これ”、は……」
“これ”は何なのか、愛華は必死に言葉を探していたが、それにあてはめられそうな言葉は一切浮かんでこなかった。
右手で下腹部を押さえながら左手で額を押さえてうつむく愛華を見ながら、百合花は水を一口飲んで、緊張で乾く口の中を潤す。
愛華はまだ、“それ”の子供以外の呼び方を、存在意義を探してぶつぶつと何か呟いている。
「子供じゃない……赤子じゃない……我が子じゃない……人間じゃない……“これ”は“これ”なのよ……それ以上の意味なんて……そうよ、“これ”は意味も価値も存在しないのよ……」
少しでも刺激してしまえばすぐにでも泣き出しそうな顔になりながら、愛華は呟き続ける。
それを見る百合花の目には、心配と哀れみの両方の色が見て取れた。
百合花は片手に持った水入りのグラスをテーブルに置く。
愛華はまだ水を飲もうとしない。
「だから……“こんなもの”……早く殺して、早く流さなきゃ……意思のある悪性腫瘍なのよ、“これ”は……」
先ほど白夜の部屋で喚いていた時に比べればだいぶ落ち着いてきた愛華だったが、やはり“それ”を殺したいという意志は変わらないらしい。
百合花は困った様子で愛華を見詰める事しかできなかった。
こういう時、一番望まれるのは双方の意見を半分ずつ採用した折衷案なのだろうが、腹の中の子供の生死を決めるのに折衷案も何もあるのだろうか?
答えは、基本的に否であろう、と百合花も右手で頭を抱えた。
そうして双方沈黙したまま時間が過ぎ、気が付けば部屋に帰って来てから十分近くの時が経っていた。
もはや微動だにしない水面は、愛華と百合花の意思疎通ができていない事を改めて表現しているように見える。
何か、何か殺すとも生かすとも違う第三の案は無いものか、と悩む百合花と、どうしても“それ”を子供だと思いたくなくて代わりの言葉を必死に探す愛華。
するとその耳に、コンコンッという、扉を軽く叩く音が聞こえてきた。
「愛華さん、百合花さん、よろしいでしょうか?」
ノックの後に聞こえてきた声は男性のもので、どこかのんびりとした雰囲気のある声音と口調だった。
おそらく今の声は秀造だ、白夜の方で話がまとまったのだ、と思った百合花はそっとソファーから立ちあがり扉の横のパネルへと急ぐ。
そして先ほど白夜の部屋で黒夜がやったように、コントロールパネルの中のあるボタンを押すと扉が開いて、秀造と、その背後の黒夜の姿が見えるようになった。
百合花は秀造だけでなく黒夜もいた事で僅かに眉を顰めたが、すぐに黒夜は無視をして秀造に視線を向け直す。
「秀造くん……その、姉さんの意見は、やっぱり……」
「殺す、流す、の一点張りですかね?」
秀造の問いかけに、百合花は無言で頷いた。
「そうですか、いやはや困りましたねぇ、此方も生かす、産んでもらうの一点張りなのですよ。これはまた堂々巡りの予感がしますねぇ。」
口先では困ったと言っているものの、全然困っていない様子でニコニコと微笑む秀造に、百合花はちょっとした不快感を感じたが、黙っておく事にした。
秀造の後ろでは黒夜が何とも複雑そうな、しかし不機嫌である事だけは明確に分かる表情で秀造を見ている。
秀造の顔を見ていない黒夜にも、今の秀造が笑顔である事は伝わっているんだろうな、と、百合花は珍しく黒夜に同情したが、すぐに、いや秀造の笑顔の件ではなく愛華の妊娠の件に関して不機嫌なのかもしれない、と思い、同情心を脳内から追い払った。
百合花は、相変わらず無愛想な黒夜に一瞬向けた視線を笑顔の秀造へ戻し、更にそこから背後へ振り返って俯いたままの愛華を見る。
秀造と黒夜も部屋の奥のソファーに座ったままの愛華を見た。
黒夜の表情には明らかな嫌悪が浮かんでいるが、秀造は何かを考えている様な表情で愛華を凝視している。
そして、
「少し、お邪魔させてもらいますよ。」
「えっ、ちょっと秀造くんっ!?」
百合花が止めるのも聞かず、秀造は玄関で靴を脱ぐと部屋の奥、愛華の座るソファーへ向けて歩きだした。
焦った百合花が無意味だと薄々気付きつつも黒夜に視線を向ける、が、やはり黒夜は外国人がやりそうな“お手上げ”のポーズをして溜息を吐くだけで、秀造を追い掛けて止めるような事はしてくれない。
やがて秀造は愛華の目の前に到着し、その場で床に片膝をついて屈むと、愛華に声をかけた。
「愛華さん、白夜さんのお答えが決まりましたよ。」
白夜の答えは子供を生かし、愛華に産んでもらう事だ、そんな事を伝えられては、愛華は本当に壊れてしまう。
例え秀造でも、愛華を傷付けるのは許さない。
そう考える百合花は、秀造を突き飛ばすか、平手打ちの一発でもくらわせてやる意気込みをもって愛華と秀造のもとへ歩み寄る。
玄関では、いつの間にか扉の内側にいる黒夜が、また修羅場か、と言いたげな疲れた顔でそれらを見守っている。
秀造の声と存在に気付いた愛華は僅かに顔を上げ、視線を秀造に合わせて訊き返す。
「白夜は、なんて……」
「出産希望、だそうですよ。」
愛華はしばしの間何も言わずに黙っていたが、やがて視線を部屋の奥の壁に向けると、とても遠くを見るような視線をして一言、
「……やっぱり、ね。」
とだけ呟いた。
どうやら愛華は、白夜が自分の意見に賛同せず、“それ”を生かす事、産む事を推奨してくる事をなんとなく予見していたらしい。
百合花は、愛華が激しく壊れなかった事には僅かに安心して一瞬立ち止まったが、秀造のストレートすぎる表現に僅かな苛立ちを感じて、やはり一発引っ叩いてやろうと思い再び二人に歩み寄り始める、丁度その時だっただろうか、
「やはり出産はお気に召さないようですが、このまま単にそれを拒み続けてもやはり堂々巡りになるだけです、ので、折衷案というのはいかがでしょうか?」
秀造の口から、折衷案という第三の選択肢が出てきたのは。
これは百合花と愛華だけでなく黒夜も初耳だったようで、それまで不機嫌そうに目を細めていた黒夜が目を丸くしている。
百合花も驚いて立ち止まり、愛華も自分が何を言われたのか理解しきれない様子で秀造を見ては、目をぱちくりさせて目の前の出来事が現実なのかどうかを必死に確かめる。
そんな愛華に対し、秀造はいつもの調子で目を細めて笑いながら、その折衷案とやらを紹介しはじめた。
それを見てさすがの白夜も何か異変を感じとったのか、首を傾げて黒夜に小声で問いかける。
「愛華、どうしたんだろう?」
「さぁ? 僕は知らないよ、兄さんがなんかやらかしたんじゃない?」
黒夜の対応は飽く迄もドライでそっけなく、そういえば黒夜と愛華はあまり仲が良い方ではなかったのだったか、と思いだした白夜は小さく苦笑して席を立った。
そして黒夜がさりげなく見守る中で、愛華との距離を一歩ずつ縮めていく。
愛華も、玄関で靴を脱いで部屋の中に上がってくるので、二人は丁度部屋の中心部で向かい合う形となって足を止めた。
白夜は改めて愛華に尋ねる。
「愛華、急にどうしたんだい?」
白夜が微笑みながら尋ねると、愛華は顔を上げる代わりにゆっくりと右手を上げ、白夜の目の前に一本の棒を突きつけた。
それが妊娠検査薬であること理解した白夜の表情から笑顔が消える。
黒夜も、愛華の様子からただならぬ雰囲気を感じ、コーヒーカップをテーブルに置いて椅子から立ち上がった。
遂に結果が出たかという緊張と、もし愛華が妊娠していたらどうすればいいのか分からない不安と、自分はどれだけ罪深い事をしてしまったのかという後悔で頭の中がごちゃごちゃになりながらも、白夜は必死に言葉を絞り出す。
「愛華、それは……」
「……貴方が、百合花に頼んだんでしょう……。」
妊娠検査薬を持つ愛華の手は僅かに震えていて、白夜がそれに気付いて愛華の顔を覗きこもうとしたその時、愛華の足下に透明な水滴がぽたりと落ちた。
それは既に乾いた手から零れた物でも、妊娠検査薬から零れた物でもない、愛華の目から零れたもので、白夜は愛華が泣いている事に気付く。
白夜は焦ってハンカチやティッシュを探したが、生憎すぐ近くにそれらしいものは見つからず、助けを求めるように黒夜に振り向いたが、黒夜もそれらしきものは持っていないのか首を横に振った。
どうしよう、愛華はどうして泣いているんだろう、この表示は何を表しているのだろう、いやそもそも陰性だったら無く必要など愛華には無いのではないだろうか、では検査結果は陽性だったのか? と、白夜が様々なパターンを脳内でシュミレートしていると、愛華がボソリと一言、
「……妊娠、したみたい。」
と言った。
愛華の告白に、白夜も黒夜も目を見開いて驚いた。
特に黒夜は、百合花とは反対に妊娠の可能性を白夜や秀造から知らされていなかった為、すぐに白夜の背後に駆け寄ってその肩を掴み、自分の方へと向き直らせて叫ぶ。
「兄さん!! 妊娠って、どういう事!? 兄さんまさか、この人と!!」
「えっと……」
黒夜は廊下や別の部屋にも聞こえそうなぐらいの声で白夜を責め立てるが、白夜は気まずそうに視線を床に落とすだけで状況を説明しようとしない。
卵子が着床したかどうか分からないような時期や、性交渉のすぐ後ならともかく、愛華の妊娠という結果が出てしまった段階に至っても弟である自分に何の説明もしようとせず、誤魔化そうとする白夜を見て黒夜は、ハッキリ言って失望した。
ハッキリしない態度の白夜に痺れを切らし、黒夜は白夜を押しのけて愛華の目の前に出ると、愛華の襟元を掴んで顔を正面から向かい合わせて叫ぶ。
「花道 愛華!! お前、兄さんに何をさせたんだ!!」
すると愛華は涙を流しながら俯いたまま、肩を小さく上下させ始めた。
白夜はそれを、愛華は泣いているんだ、と思ったが、真正面で対峙している黒夜には、泣き声ではないその声がしっかりと聞こえてくる。
「フ、フフフ……フフフフフフ……アハハハハハ……」
愛華は、笑っていた。
質問に対して答えを返さない愛華に不快感を覚えた黒夜は眉間にしわを寄せる。
「何を、笑ってるんだ……質問に答えろ!! 花道 愛華!!」
「アハハハハハハハ、アハハ、アハハハ、アハハ……アーッハッハッハッハ!!」
黒夜に襟元を掴まれた愛華は、涙を流したまま急に大きな声で笑い出した。
その異様な笑い声に、白夜は驚くと同時に恐怖して耳を塞ぎ、黒夜は既に険しくなっていた表情を更に険しくする。
そして愛華は、妊娠検査薬を持っていない左手で黒夜の右手首を握ると、思い切り捻りあげた。
「いてててっ!! な、何するんだよ!!」
黒夜が驚いて愛華の襟元から手を話すと、愛華は黒夜を左手で突き飛ばした。
腕を捻られた上に突き飛ばされた黒夜の小さな呻き声が聞こえたが、愛華はそれには構わず、先ほど黒夜に押しのけられた白夜のもとへと向かう。
白夜は既に耳を塞ぐ事はやめていたが、歩み寄ってくる愛華と対峙すべきか、それとも床に倒れ込む黒夜を助けるべきか、もしくは他にするべき事があるのか分からず、ただ愛華と黒夜を交互に見ることしかできない。
やがて、愛華が白夜の正面に辿り着いた。
愛華の纏う異様な雰囲気に気圧された白夜は一歩後ろへ下がるが、まるでそんな白夜を逃がすまいとでも言うかのように、愛華も一歩足を進めた。
白夜が後退すればするほど、愛華は前進してきて、そうして白夜の背中が背後の壁に当たった時、愛華は最後の一歩と言わんばかりに白夜との距離を縮め、それから両手で白夜の白衣の低い位置を掴んだ。
先ほど見せた気違ったような笑いはもう顔から消えているが、右手は妊娠検査薬を持ったままだ。
「あ、愛華……。」
白夜は、愛華が考えている事、感じている事を理解する事ははおろか推測する事すら出来ず、最愛の人物を見る目とは思えないほど怯えた視線で愛華を見る。
それはまるで愛華に殺されることすら覚悟していそうな視線だったが、それでも愛華を無理に振り払ったり押しのけたり、そして何より逃げたりしないのは、愛華が白夜の最愛の人物である故か、それともただ恐怖で動けないのか、それは白夜にも黒夜にも愛華にも分からない。
ただ白夜はそれ以上逃げようとしなかった、という事実だけがそこにある。
「白夜……。」
白夜の白衣を掴んだまま、愛華は白夜の名前を呼ぶ。
白夜は緊張から喉の奥に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
そして愛華は自分の顔より少しだけ高い位置にある白夜の顔を正面から見詰めつつ、未だ涙の流れる目を細めて懇願する。
「お願い……流して……。」
愛華はそれだけ言うと、両手は白夜の白衣を掴んだまま、脚の力を失ったかのように急激に、床へと崩れ落ちた。
そして、小さく肩を震わせて、ヒクヒクと引き攣った息をしながら小さく泣きはじめる。
止まる事の無い涙が頬から零れ落ち、カーペットにしみ込んでいく。
白夜は呆然としてその一部始終を見ていたが、やがて愛華の言葉の意味を理解して、口を開く。
「……何を、言ってるんだい……流してって、それって……」
それは要するに、堕胎・中絶を望むという事なのか、という事は、白夜には言えなかった。
脳裏に、愛華と交わった翌日の、秀造との会話が蘇る。
あの時、秀造は何と言っていただろうか?
確か、白夜と愛華は子供を育てられる状況にはないし、愛華は子供を持つ事に積極的ではなさそうだから、状況さえ揃えば愛華は堕胎・中絶を望むだろうと言っていたハズだ。
だから、そういう状況に陥る可能性の考慮は、散々してきたはずだ、と白夜は思い出す。
けれど、実際にそうなってみると、理解はできても納得がそれに追いつかない。
例え産む気の無かった、そして育てる気も無かった子供でも、自分と愛華の子供を殺す事など、白夜にはできるはずもない。
「できないよ……そんな事……。」
恐怖の代わりに悲しみをその顔に乗せて、白夜は呟くようにして言った。
そして今だ握られたままの白衣のポケットを探って、その中からハンカチを取り出し、俯いて泣き続ける愛華に差し出す。
それに気付いた愛華は息を引き攣らせながらもゆっくりと顔を上げた。
愛華が顔を上げると、白夜は少し困ったような顔をしてから、それでも優しく、そして柔らかい笑みを作って、
「大丈夫、私達ならきっと育てられるよ。私も最大限協力する、だから、泣かないで。」
と言った。
この時白夜は、愛華はきっと子供を育てる自信が無いのだろう、だから泣いているのだろう、と考えており、それなら自分が愛華にできない事をサポートすればいいだけだ、という考えに辿り着いたため、それをそのまま愛華に伝えたのだ。
それに白夜は、愛華が妊娠した事を正直、心のどこかで喜んでいる節があった。
表社会を捨てて裏の人間となり、Dirty Bloodを設立したその時、表の人間が築くような幸せは全て縁遠いものになったと思っていた白夜にとって、子供ができるというのは、立場上色々な制限はあれど、縁遠くなった筈の表の幸せを自分達も感じる事ができるチャンスに感じられたのだ。
だから白夜は、愛華の意見とは反対に、子供を生かす方向で話を進めたいと思っている。
白夜の笑顔を見た愛華はしばしの間、虚を突かれたような、何か驚かされたような、ポカンとした雰囲気の表情で白夜を見ていた。
それを白夜は、愛華は此方の発言に驚きながらもそれを受け入れようとしてくれているからそんな表情をしているのだ、と感じ、表面上だけでなく、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべて愛華の顔の涙を拭い始めた。
先ほど愛華に突き飛ばされて床にしりもちをついていた黒夜も、床から立ちあがり、白夜の傍へ歩み寄ってくる。
それら両方を見て、全ては丸く収まった、と思って白夜は内心、というよりも全面的に喜びの表情を見せる。
だが、
「そう……それが貴方の答えなのね……」
「え?」
それまで黙って涙を拭われていた愛華が、ボソリと呟いた。
白夜は愛華の唐突な発言に僅かに驚き、愛華の涙を拭う手を止める。
すると愛華は急に怒りに表情を歪め、パシンッと音を立てて白夜の手を振り払った。
突然の出来事に驚いて何も言えなくなる白夜の代わりに、黒夜が怒号を飛ばす。
「何するんだよ!」
黒夜が怒ると、愛華も負けじと声を張り上げた。
「貴方は口を挟まないで!!」
そして白夜は、そんな目の前の出来事を理解する事が出来なかった。
愛華に叩かれて振り払われた手の、少しだけ赤くなってしまった部分と、愛華の涙の染み込んだハンカチを見詰め、呆然と立ち尽くす。
今、愛華は何をした? そして、何を言っていた? どんな表情をしていた? それら全ての情報が白夜の中でごちゃごちゃに混ざって、正確な答えが引き出せない。
視界に映るのは、黒夜を睨みつける愛華と、愛華を睨みつける黒夜だ。
二人は何故言い争っているのだろうか、白夜にはその理由が分からない。
意識は明瞭、なのに思考は混濁して、白夜は愛華にも黒夜にもかける言葉が見つからなかった。
どうしよう、どうしたらいいのだろう、と白夜が悩んでいると、それまで黒夜に向けられていた愛華の視線が急に白夜へ向けられた。
思わず白夜の背筋に緊張が走る。
「白夜、どうして分かってくれないの!? 私は“こんなもの”必要としていないのよ!! 育てられるかどうかじゃない、そもそも要らないのよ!! それなのに、どうして流してくれないの!? どうして殺してくれないのよ!?」
キッと睨み付けられながら矢継ぎ早に言葉を発せられて、白夜は何をどう弁解すれば自分の意見を愛華に納得させられるのか、また愛華を落ち着かせることができるのか、全く分からなくなってしまった。
いや、もしかしたら最初から、愛華を納得させる言葉など無いのかもしれない。
愛華は最初から子供の誕生など望んでいないのだから、いくら白夜が協力して育てられる環境を作った所で、全ては無意味なのかもしれない。
そう気付き始めた白夜の横で、黒夜が呆れかえった様子の溜息を吐く。
「……あのさぁ、殺すのはいいとしても、どうやって殺すつもりなの? 此処にそんな事ができる医者、居ないでしょ?」
「黒夜、何言って……」
「それとも何? お前はその無様な腹を兄さんに蹴ってもらうつもりででもいるの? そんな、兄さんを殺人犯にするような事は、この僕が許さないぞ!!」
白夜は黒夜の発言を遮ろうとしたが、黒夜は愛華に対しての苛立ちが相当溜まっているらしく、発言を止めるどころか愛華の襟元をもう一度掴んで、愛華を威嚇しながら言葉を続けた。
すると、黒夜の言葉は愛華の図星を突いていたのか、黒夜が愛華の襟元から愛華を投げ捨てるようにして手を離すと、床にしりもちをついた愛華は単なる怒りではなく、悲しみと後悔の混ざった怒りに顔を歪め、再び涙を零しながら黒夜を、そして白夜を睨みつける。
愛華のそんな態度を見て、愛華は自分にそんな恐ろしい事を求めていたのかと知った白夜は絶望にも似た衝撃に打ちのめされ、これ以上何を言えばいいのか分からずに両手で頭を抱えた。
その拍子に床に落ちたハンカチは、若干嫌そうな顔をしながらも黒夜が拾う。
嫌そうな顔をしているのは、大好きな兄のハンカチといえど、大嫌いな女の涙が染み込んでいる故だろう。
愕然とする白夜と、嫌そうな顔をした黒夜の前で、愛華は泣き喚く。
「じゃあどうしろって言うのよ!! 堕ろせる医者も看護婦も居ないこの場所で、どうやって“これ”を殺せばいいの!? どうやったら“これ”はなくってくれるの!? 貴方に責任をなすりつけたい訳じゃないけれど、他に方法が無いじゃない!!」
ほとんどが自業自得だというのに幼子の様に泣き喚いて慟哭する愛華につられたのか、白夜の表情も何処か悲しみに濡れ始めたような気がした。
逆に黒夜の表情はこれでもかという程に冷めきっていて、愛華を見下しているようでもある。
自分はどうして愛華を泣かせる事しかできないのだろう、こうなった原因だって愛華を喜ばせたくてやった事だったはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろう、と考えて泣きそうになる白夜の隣で、黒夜が冷めきったトーンの声で言い放つ。
「じゃあ自分で殴ったら? 兄さんの手を煩わせないでくれるかな。」
黒夜の冷たい発言に白夜と愛華はハッと目を見開いて驚き、白夜は何か反論して黒夜を叱らなければいけない気がしたが、何をどう反論するべきなのかまでは思い付けず、苦い顔で奥歯を噛みしめた。
そして愛華は、しばし呆然と黒夜を見詰めた末に、まだ涙の乾かぬ顔で再び、引き攣った笑いを浮かべはじめる。
その笑いは、そうか、そうか、その手があったか、とでも言っているようで、実際に愛華は、
「そうね……それなら私だけでもできるわ……そうよ、こんな“もの”、私の手でぇええ!!」
と言って、両手をぎゅっと強く握りしめて拳にし、自分のまだ膨らまぬ下腹部に向けて突進させた。
一発、また一発と愛華の拳が愛華の下腹部にめり込む。
それはまるで太鼓でも叩くかのように楽しそうに――いや、実際には楽しい訳ではないのだろうが、ともかく狂人めいた笑みを見せながら愛華は自分の下腹部を殴る。
白夜はしばしその状況を理解する事が出来ず呆然と見詰めていたが、次の瞬間何かのスイッチでも入れられたかのように状況を理解した。
愛華が自分の腹部を、自分の“子供”を殺そうとして殴っている。
駄目だ、そんな事はするべきではない! と、白夜は愛華が四発目の拳を下腹部に叩きつけようとした瞬間、これ以上は叩かせまいというように、素早くその場に膝をついて愛華を正面から抱き締めた。
壊れかけの愛華の力一杯の拳は愛華の下腹部に当たらず、白夜の背中に当たって止まる。
鈍いような鋭いような、そして重い痛みが白夜の背中に走った。
白夜の背後で黒夜が、兄さん! と少し驚いた様子で白夜を呼ぶ声が聞こえたが、白夜はそれを無視して愛華を静止する事だけに集中する。
「駄目だよ、駄目だよ愛華!」
「何が駄目なのよ……何が!! 育てられないのなら、そもそも欲しくもないのなら、外に出る前に殺すべきでしょう!? 私はこんな“もの”要らないし、育てる気も無いの!! だから殺させてよ!! 捨てさせてよ!! 無かった事にしてよぉぉぉおお!!」
今尚両手を固い拳にして、自分の下腹部を殴る為に白夜の腕の中から逃れようとしながら泣き喚く愛華を一層強く抱きしめて、白夜はその動作を封じ込める。
背後で黒夜が呆れかえった溜息を吐く音、自分の顔のすぐ横で愛華の啜り泣く声が聞こえて、白夜は酷く歯痒い想いを感じた。
愛華と出会ってからというもの、いつでもどんな時でも愛華の笑顔の為に行動してきた白夜にとって、今愛華を泣かせているのは他でもない自分だという事実は、どうにも悔しいものがあって、できる事なら今すぐに愛華を笑顔にしてあげたいと思うも、それは愛華の願望――堕胎・中絶を行う事とほぼ等しくなっており、愛華を愛したが故にその終着点として生まれた子供が既に愛しい白夜にはどうしても許容できないものがある。
愛華を笑顔にしたい、愛華に楽になってもらいたい、けれど堕胎・中絶には賛成できない、そんな矛盾が白夜を苦しめる。
どうして自分は愛華が安心して子供を産む気になるような言葉をかけて上げられないのだろう、と、白夜は自分の無力を悔しく思った。
「お願いよ、お願いだから、“これ”を殺して……無かった事になるぐらい早く、殺して流してよぉ……。」
愛華は先ほど程暴れなくなったものの、いまだ泣いている事と堕胎・中絶を望んでいる事に変わりは無い。
どうしたら愛華は産む事育てる事に賛成してくれるのだろう、と白夜が悩み、どうしたらこの馬鹿らしい状況から抜け出せるのだろう、と黒夜が考えていると、急に部屋の扉がコンコンッという音を立てた。
どうやら、誰かが扉をノックしているらしい。
白夜と黒夜が扉に視線を向けると、扉の向こうから誰かの声がする。
「白夜さん、黒夜さん、愛華さん、いらっしゃるなら此処を開けてくれませんかね?」
「姉さん、白夜さん、黒夜さん、開けてちょうだい。」
至って冷静なその声は、何処か丁寧過ぎる話し方をしている方が男性――天照 秀造で、愛華を姉さんと呼んだ方が花道 百合花だった。
それに気付いて白夜と黒夜は顔を見合わせ、黒夜は小さく頷いてから白夜の隣を離れ、扉の横のコントロールパネルのある壁へ向かって歩く。
そしてパネルの前に着いた黒夜がカチッと音を立てながら多くのボタンの中の一つを押すと、ようやく部屋の扉が開いた。
秀造と百合花が部屋の中に入ってくる。
「おやおや、これはまた大層な場面に遭遇してしまいましたね。」
「姉さん……。」
いつも通りのんびりとした老人のような調子の秀造と、その後ろから悲しそうに様子を窺うようにしている百合花。
愛華もやっと周囲を気にするだけの余裕が出てきたのか、それとも突然の訪問者に驚いて泣くことすら忘れてしまったのか、ともかく白夜に抱きしめられたまま後ろを振り返り、秀造と百合花に視線を向ける。
愛華を抱きしめる白夜も、これ以上どうしたらいいのか分からない、誰か助けてくれ、と縋るかのような視線で秀造と百合花を見た。
コントロールパネルの前に居る黒夜が白夜達の傍に戻ってくると、秀造がいつもの調子でのんびりと、しかし冷静に口を開く。
「大体の事は百合花さんから聞きましたよ。愛華さんにとっては残念な、白夜さんにとってはさぞ複雑な結果になってしまった訳ですが、過ぎてしまった事はこれ以上どうにもなりません。だからと言って当人同士で話し合っても堂々巡りが関の山でしょう。此処は一つ、それぞれ兄弟姉妹で話し合われて落ち着かれた方が良いのでは? 必要な情報があればそれは私が中継いたしましょう。」
そう言って微笑む秀造に毒気を抜かれたのか、愛華はいつの間にか泣き止み、白夜の抱擁へ抵抗する事も自分の下腹部を殴ろうとする事も忘れていた。
白夜もややポカンとして秀造を見ており、百合花と黒夜だけが複雑そうな顔を見せている。
やがて秀造の斜め後ろにいた百合花が愛華のもとへ歩み寄ると、白夜は愛華が自分の下腹部を殴る心配はもうないだろうと思ったのかゆっくりと腕の力を弱め、解放された愛華は床に膝をついたまま百合花と向かい合った。
「姉さん、一度部屋に戻りましょう。状況を整理するの。」
さすがの愛華も妹に反抗する気にはなれなかったのか、しばらくの間呆然とした様子で百合花を見詰めた後、床に視線を向けてから、
「……えぇ、そうね。」
と返事をして、ゆっくりと立ち上がった。
そんな愛華をいたわるように、百合花が愛華の肩に軽く手を置く。
愛華は百合花に付き添われながら、視線を床に落としたままで部屋の扉へ向かって歩き出した。
白夜と黒夜と秀造はその後ろ姿を静かに見送る。
やがて愛華と百合花が部屋を出て、廊下と部屋を繋ぐ扉が閉まると、さて――、と言いながら、秀造が白夜と黒夜へ向き直った。
白夜の背筋に緊張が走り、黒夜の表情が面倒くさがっているような表情に変わる。
「愛華さんの事はしばらく百合花さんに任せる事にして、我々男性は男性だけでの話し合いと行きましょうか。」
ニッコリ、という擬音がピッタリな笑顔を見せながら秀造が言った。
そんな秀造に白夜は、どうして笑っているの? と言う事が出来なかったが、それは代わりに黒夜が溜息ながらに言ってくれる。
「秀造くんってさ、本当にいつでも笑ってるよね……今の雰囲気って、笑える雰囲気じゃないと思うんだけど。」
「あぁ、これは失礼。いやはや、私はどうにも他の表情を作るのが苦手でしてね、これが無表情のようなものなんですよ。あぁでも大丈夫です、本当に悲しむべき時や怒るべき時はそのような表情も出来ない事はありませんので。」
相変わらずニコニコとした顔でのんびり、朗らかに答える秀造に、白夜は言いしれぬ恐怖のようなもの――顔は笑顔だが腹の中で何を考えているか分からない人物という印象を感じたが、それを言うのは秀造に失礼だと思い黙っておく事にする。
秀造の笑顔の意味を、黒夜は納得したような納得していないような、少し複雑そうな表情を見せながらも、あ、そう……、と言って、一応は納得した事にしておくつもりらしい。
そう、今重要な事は秀造の笑顔の意味などではなく、愛華の腹の中に宿った命をどうするか、である。
黒夜は近くの椅子に腰かけながら、この話し合いは自分が仕切ると言わんばかりに言う。
「じゃあ秀造くんの事はそれでいいとして……で、どうするの? というか、兄さんはどうするつもりなの?」
椅子に座って脚を組む黒夜と、立ったまま二人の様子を見守る秀造。
その間で立ち尽くす白夜は、しばし返答を迷った。
白夜自身の意見としては、やはり産んで欲しい、殺してほしくない、というのが本音である。
何故なら、今愛華の中にいる子供は愛華と自分の想いが通じ合っていた証なのだから、それを殺してしまうのは自分達の想いを否定してしまう事にも等しくなると白夜は考えているからだ。
子供ができるきっかけになった性行為だって、自分が愛華を愛していて、愛華が自分を愛してくれているから自分は受け入れる事にした、その筈なんだと白夜は思う。
けれど、愛華は既にその子供の存在を否定したがっていて、ならば、自分だけが子供の存在を肯定するのは愛華の想いを否定する事になるのでは? という不安も拭えないのは事実だった。
愛華の今この瞬間の想いを汲みとって子供を殺すのか、それとも長い目で見て全てを否定しない為に子供を生かすのか、白夜は散々迷いに迷った末に答えを出す。
「私は……できる事なら、産んで欲しい。育てるのは私一人が請け負っても構わないから、折角の私と愛華の子供を、殺したくない……そう、思ってるよ。」
弱々しく、困ったように笑いながら、白夜は二人に告げた。
正直な所、白夜にはそれが正しい選択だという自信が無い。
確かに以前秀造に言われたように此処は普通の家庭ではなく、犯罪組織のアジトで、例え子供が健康に生まれたとしても健全な子育てはできないだろう、それは白夜にもなんとなく分かっている。
しかし、少なくとも愛華との関係の証でもある子供を殺す事はそれ以上に恐ろしく感じられて、白夜にはやはり選ぶ事が出来なかった。
不安や心配を誤魔化すように笑い、まだ僅かに残る迷いを必死に振り払って答えた白夜を見て、やや不機嫌そうに黒夜が発言する。
「僕は反対だね、それ。あの女は“あれ”を兄さんとの子供だなんてきっと思わないだろうし、そもそも此処は子供を育てられる環境じゃあない。兄さんとあの女は、そういう一般家庭的で人並みの幸せは捨て去ったはずでしょ?」
飽く迄も愛華を愛華さんとは呼ぼうとしない黒夜の態度は何処か刺々しい物を感じさせるもので、そして黒夜の言葉は白夜が必死に目を逸らしている問題点を白夜の目の前に引き摺りだすものだった。
捨て去った環境と人並みの幸せ、それは勿論だが、愛華が子供を自分との“子供”だと認識しないというのもなかなか辛辣な発言だ。
事実、先ほどこの部屋で喚いていた愛華は自分の腹の中の命の事を命として、人として、子供として扱う言い方をしていない。
こんなもの、とか、これ、とか、無機物と同じ扱いしかしていないのだ。
そんな愛華にそれ――“こんなもの”が“子供”である事を認識させるのは、一苦労どころの話ではないだろう。
それに加えて此処は子供を育てられるような環境ではないのだから、黒夜が愛華の出産に反対するのもおかしな話ではない。
むしろ、こんな所に生まれ育つくらいなら堕胎されて来世に期待を込めた方がマシ、という考え方すらできる。
「ホント、兄さんもあの女もとんでもない間違いを犯してくれたものだよ。兄さんは僕と同じままだって信じてたのにな。」
呆れかえったような声の黒夜は、どうやら秀造と同じ童貞――未経験者らしく、自分の兄もこれまでそうだったのだからこれからもそうだと考えていたようだ。
自分が愛華の為にした事を間違いだと言われて、白夜は少し気分が落ち込む。
自分自身でもマトモに踏み入った事の無い領域に、愛華と共に踏み入ったのは愛華を喜ばせたかったから、それなのに今愛華は泣いていて、喜びとはほど遠い所にいて、白夜は愛華に迫られた時合意を示した自分を責めた。
自分があの時断っていれば、もっと慎重に行動していれば、と、後悔ばかりが溢れてくるも、それらは全て後の祭りだ。
自分がどうしたいかは決まっている、けれど結局の所それを遂行していいのかどうか分からない、そんな白夜は助けを求めて神に縋るような視線で秀造を見る。
「秀造くん、君は……どう思うんだい?」
「私ですか? そうですねぇ……私はお二人がどの道、つまりは出産か堕胎かのどちらかですが、そのどちらを選ぶにしても、それをサポートできる要員が少ない事が気にかかりますね。白夜さんの奮闘もあってここ数週間で医療知識のある団員は以前より増えましたが、それでもまだ不安が残る程度の数でしかありません。子供を生かすにしろ殺すにしろ、そこをもう少しどうにかできればと思うのですよ。まぁ、これは現代だから思う事であって、もっと昔の田舎町などでは産婆の一人でもいれば十分だったのかもしれませんがね。」
白夜が秀造に意見を求めると、秀造は殺すべきとも生かすべきとも言わず、どちらにしろ付き纏うリスクについて話し始めた。
白夜は、そう言う事を聴きたいんじゃないんだけどなぁ、と思いつつも、秀造の意見も無視はできない内容ばかりなのできちんと耳に入れておく。
そうだ、堕胎にしろ出産にしろ負担がかかるのは自分ではない、愛華だ、愛華なんだ、と改めて感じた白夜は、出産して欲しいという事を本当に愛華に伝えていいのかどうか少し悩んだか、どちらにしろ負担がかかるならやはり産む方を選んで欲しい、と改めて考える。
その後の事――育児は全て自分に任せてくれて構わないから、自然に流産でもしてしまわない限り、どうか殺さずに……と白夜は心を決めた。
「まぁ大切なのは白夜さんと愛華さんのお気持ちですから、私や黒夜さんの言葉は鵜呑みにするのではなく参考にする程度にすればよいでしょう。それで結局、白夜さんの意思は産んで欲しいという事でよろしいので?」
「そうだよ、だってあの子は私と愛華の子供だから……私達がお互いを想い合っていた証で、その結果だから。」
秀造の問いかけに白夜は毅然として答えた。
その時、秀造と黒夜の両方に注意を向けていた白夜は気がつかなかったが、愛華に執着する兄が見たくなくて秀造だけに視線を向けていた黒夜は、秀造の笑顔にどこか哀れみとも嘲笑とも言えそうなものが滲んだ事に気が付く。
やっぱり、コイツの腹の中は上手く読めない、と思いながら黒夜が白夜に視線を向けると、白夜も黒夜に視線を向けてきた。
その表情には不安や心配、困惑の色は無く、黒夜はそこに、まだDirty Bloodを作り上げる前の、人と争う意思は無いがそれなりの自信と未来への希望に満ちていた白夜の面影を見る。
嗚呼、兄さんは本当に輝かしい未来だけを目指しているんだな、と思えば思うほど、今この状況、Dirty Bloodの首領の片割れという白夜の立場が憎らしくなって、黒夜は密かに、どうして? と問いかけるような視線を白夜へ送った。
どうして貴方は同じ“科学者を辞める”でも、一般人になるのではな、くこんな、犯罪者・テロリストになる事を選んでしまったのですか? と、問いかけられるものなら問いかけたかったが、本当に問いかければきっと白夜は自信を持って、愛華の為だよ、と答えるのだろうと思った黒夜はそれを黙っておく事にした。
そうしてモヤモヤとした複雑な想いを抱えながらも白夜に視線を向けていると、白夜は自信に満ちた表情で黒夜に宣言する。
「大丈夫だよ黒夜、もし愛華があの子に一切触れなくても、その時は私が通常以上の愛情をもって育てていく、そう決めたんだ。」
「……兄さんって、本当に貧乏くじを引きたがるよね。」
前にもこんな白夜を見た事がある黒夜は、少々呆れかえった様子の声で苦笑しながらそう返した。
その笑みを黒夜からの許可の笑みだと思ったのか、白夜は嬉しそうに朗らかな笑みを見せる。
黒夜は密かに、本当は兄さんがどん底まで落ち込むような事を言って目を覚まさせないといけないのになぁ……、と思いながら秀造に視線を向けた。
視線を向けられた秀造は小さく頷き、白夜に視線を向けて訊く。
「では、白夜さんの最終判断は出産希望でよろしいですね? 変更が無ければ私はこの結果を愛華さんと百合花さんに伝えてこようと思うのですが。」
「うん、お願い。」
白夜はしっかりと一度だけ頷きながら秀造へ返事をした。
返事をされた秀造は、では行ってきます、と言って部屋の扉へ向かって歩き出す。
すると、それまで座っていた黒夜が急にカタンと音を立てながら席を立ち、
「……僕も行く。」
と言って秀造の後を追って歩き出した。
秀造はもともと愛華と白夜の中継をすると言っていたのでともかく、何故愛華と仲の悪い黒夜が? と白夜が首を傾げ、立ち止まり振り向いた秀造が意外そうな表情で黒夜を見るが、黒夜はそれに構わずその背後に近付いた。
そして黒夜は秀造にしか聞こえない小さな声で言う。
「君に訊きたい事があるから。」
その一言で、どうやら黒夜は愛華ではなく自分に用があるらしい、と納得した秀造は表情をいつもの笑顔に戻した。
そして、頭上に疑問符を浮かべたような顔の白夜をチラリと見てから黒夜に視線を戻して、秀造はいつも通り穏やかな声で言う。
「分かりました、それでは行きましょうか。」
そう言うと秀造は視線を扉に向け、またゆっくりと歩き出した。
一歩後ろから黒夜がそれを追いかける。
秀造が扉の前に立つと、黒夜がコントロールパネルの前に立って、先ほど秀造と百合花が部屋に入って来た時と同じ操作で扉を開けた。
開いた扉から、靴を履いた秀造が部屋を出て、扉が閉まる前に黒夜が急いで靴を履きそれを追う。
扉が閉まる直前、黒夜は背後に振り返って白夜の様子を窺った。
白夜はまだ、秀造はともかく黒夜が愛華の所に行く理由を理解できていないらしく、不思議な物を見るような目で秀造の後ろ姿と黒夜を見ていた。
やがて扉が閉まって白夜の姿が見えなくなると、黒夜は既に愛華の部屋に向けて歩き始めている秀造に視線を移し、その背中を追って隣に立ち、歩調を合わせた。
秀造と黒夜の革靴が床が接触してカツカツと音を立てる、その音は微弱にずれてはいるがほとんど同じタイミングで鳴っている。
そうして五メートル程度歩いた時、黒夜が隣で歩く秀造を見上げながら口を開いた。
「……秀造くん、さっき一瞬笑って無かったよね。あれ、何?」
「はて、何の事ですかな?」
それは、秀造に質問を投げたのが黒夜ではなくもしも白夜だったなら、秀造に覚えが無いならアレは自分の思い違いか、と思ってそれ以上の追及を諦めるような反応だった。
しかし今質問をしているのは飽く迄も黒夜であって白夜ではない。
それなりに意を決した質問だったというのに軽くスルーを決め込まれて、不愉快そうに眉を顰めた黒夜は、白夜は気付いていなくても自分は気付いているぞ、という意味を込めて何の事を訊いたのか答えて見せる。
「さっき、兄さんが花道 愛華との子供を自分達が思い合っていた証だって言った時だよ。」
黒夜が答えると、秀造は、たった今思い出しました、とでも言いたげな、何処かとぼけたような声で、
「あぁ、その時ですか。いやはやさすがは黒夜さん、気付いていらっしゃったんですねぇ。」
と言った。
なんだ、自覚はあるんじゃないか、と思った黒夜は更に不機嫌そうに眉を顰める。
反対にニコニコという擬音が似合いそうな笑みを絶やさない秀造は、そんな黒夜の反応を面白がるようにクスクスと小さく笑った。
それを見て、やっぱりこの後輩の腹の中はそう簡単に読めた物じゃない、と思った黒夜は、何かを諦めたような溜息を吐く。
おそらくそれは、秀造を本当の意味で理解し、近しい人間になる事を諦めた溜息だっただろう。
「……で、なんで笑ってなかったの? 何が笑えなかったの?」
黒夜が改めて尋ねると、秀造は観念したように息を吐き、基本構造としては笑顔と言って過言ではないのに、目だけは何処か遠くを見ている様な表情をしながら答えた。
「あれはですね、結局は白夜さんも、生まれてくる子供の事など考えてはいらっしゃらないと感じたからですよ。」
「……それ、どういう意味?」
秀造の答えに黒夜は怪訝そうな表情を見せながら訊き返した。
黒夜の印象では、子供を無機物のように扱い不用品だと言う愛華と違って、白夜は子供を一人の人間として見ると同時に必要な存在として見ている、そんな気がしていたからだ。
確かに、環境の事を考えると真に子供の事を思いやっているか少し怪しい所もあるが、それでも、子供を無かった事にしたいと思う愛華に比べれば、生きていて欲しいと願う白夜の方が圧倒的に子供の事を想っている、と黒夜は思っている。
しかし秀造はもともと子供の事を考えていない愛華だけでなく、そうやって愛華に比べれば子供の事を想っている白夜も愛華と同じで子供の事を考えてはいないと言うのだ。
黒夜が訊き返すと、秀造はしばし考えてから、
「……黒夜さん、貴方は白夜さんの口から、子供が“単体で”愛しいという言葉をお聴きになりましたか?」
と、質問に質問を返した。
黒夜はすぐさま、愛華が部屋に乱入してから、自分と秀造が部屋を出るまでの白夜の言動を思い返し、秀造の指した言葉を探す。
しかし、黒夜が覚えている限りでは、白夜の口から子供が“単体で”愛しいという言葉は出てきておらず、黒夜は小さく首を横に振った。
それを確認した秀造の笑みに意味深長な陰りが混ざって、黒夜は背筋に薄っすらと緊張が走るのを感じる。
秀造は話を続けた。
「でしょうね。白夜さんは飽く迄も、愛華さんとの子供であるという事に執着しているだけで、自分の子供だから愛しいだとか、愛しい子供に苦労はさせないだとか、そういう考えは一切無いのですよ。」
普段通り、とは少し違う陰があるが、それでも表面上は笑顔のままとんでもない事を言い出した秀造に、黒夜は白夜の弟として何か反論しなければいけない気がした、が、秀造の言う事はそれなりに的を得ている様な気がして、何も反論できなかった。
黒夜の視線が床に落ちる、それを見て尚も秀造は笑顔で言葉を続ける。
「こんな事を言うと怒られそうなので黙っていましたが、正直な話、あのようなヒステリックな母と子を母の分身としか思わないような父を持って生まれるぐらいなら、さっさと堕胎された方が子供の為になるかもしれない、と私は思いましたね。加えて、環境が環境ですから、これは既に話に出した筈ですが、子供の成長は“普通”の枠には入れずに終わる事かと……きっと、素晴らしく常識や善悪の判断に欠けた子供が育つ事でしょう。」
秀造の表情はそれを期待するかのような楽しげな笑みになっていて、チラリと視線を上げた黒夜は、秀造の狂気性を僅かに覗いたような気分になった。
正直、愛華と白夜に比べれば自分は厳しい意見を持っているという自信があった黒夜だったが、秀造の話はその自信を打ち砕くほどにシビアで、黒夜は此処まで言われる兄を哀れに思いながらも、何も反論する事が出来なかった。
秀造の話は何処までも現実的で、白夜の子育てドリームよりも、愛華の堕胎願望よりも、ずっと説得力があって、当事者ではない黒夜の耳にすら痛く刺さる。
もしも白夜がこの話を聴いていたら卒倒するか、愛華の様に泣き喚いただろうなと思いながら、黒夜は秀造の隣を歩いた。
そんな秀造と黒夜の会話から数分程さかのぼった時刻の事である。
白夜の部屋を出て自分の部屋に帰ってきた愛華と百合花は、低い机を挟んで対面するように置かれたソファー二つに、お互いが正面から見えるような形で座っていた。
妊娠検査薬をゴミ箱へ捨てて手を洗い直した愛華の表情は暗く、また視線も自分の膝の上へと落ちている。
そんな愛華を見詰める百合花の表情もやはり暗く、部屋を出る前にテーブルの上へ置いた二つの水入りグラスはまだその容量を一ミリも減らしていない。
「……姉さん。」
やがて百合花が口を開き、愛華に呼びかけた。
しかし愛華は顔を上げず、声で答えようともしない。
まるで、魂の無い人形のように愛華はうなだれたまま微動だにしなかった。
百合花は小さく溜息を吐き、テーブルの上のグラスに手を伸ばす。
そしてグラスの中の水を一口だけ飲んで口の中の渇きを潤すと、グラスを再びテーブルの上に置いてから、
「姉さんの、その、お腹の中の“子供”の――」
話なんだけど、と百合花が切りだそうとした瞬間、愛華がバンッと大きな音を立てて両手をテーブルに叩きつけながら立ちあがった。
突然の出来事に、百合花は驚いて肩を上下させ、同時にテーブルの上のグラスの中の水が少量、テーブルの上に零れる。
何が愛華の中の怒りを刺激してしまったのだろう、と少し戸惑いながらも百合花は愛華の顔を見た。
愛華の顔は怒りというよりも、後悔と困惑、そして拒絶感で歪んでいる。
「言わないで……子供なんて言わないで! “これ”は、“これ”は私の……私の子供なんかじゃないし、私は“これ”の母親なんかじゃないのよ!!」
必死の形相で声を荒らげた愛華に、百合花はしばしの間、目を丸くしたまま何も言う事が出来ずに沈黙した。
驚愕する百合花をよそに、愛華はテーブルに叩きつけて赤くなった両手のうち右手で自分の下腹部を押さえ、左手で頭を抱えながらソファーに座り直す。
そして、またうなだれて何も言わなくなってしまった。
百合花はそれを驚きが隠しきれない様子で見守っていたが、やがてその表情を驚きから哀れみにも似た悲しみに変えて愛華へ問いかける。
「じゃあ、姉さんにとって“それ”ってなんなの? それと、“それ”は結局どうするつもりなの?」
「“これ”は……」
子供ではないと言い切ったものの、子供でないならなんだというのか、愛華には説明できないようで、愛華は何か言いかけてすぐに口ごもってしまった。
そんな愛華を見て百合花は、できる事なら自分は黒夜や秀造と違って愛華を責めず、また白夜の様に自分の意見を押し付けて愛華の意見をないがしろにしたくはないと思うが、これでは何を言えば責める事や意見の押し付けにならないのか分からない、と思い、小さな溜息を吐く。
結局、白夜と対話させようがさせまいが、愛華が子供を殺す意志を変えるか、白夜が子供を生かす意志を変えない限り、堂々巡りには違いがないのだ。
まったく、どうしたものか、と考える百合花は仕方なさそうにテーブルの上のグラスに手を伸ばした。
愛華はまだ、水を少しも口にしていない。
「“これ”、は……」
“これ”は何なのか、愛華は必死に言葉を探していたが、それにあてはめられそうな言葉は一切浮かんでこなかった。
右手で下腹部を押さえながら左手で額を押さえてうつむく愛華を見ながら、百合花は水を一口飲んで、緊張で乾く口の中を潤す。
愛華はまだ、“それ”の子供以外の呼び方を、存在意義を探してぶつぶつと何か呟いている。
「子供じゃない……赤子じゃない……我が子じゃない……人間じゃない……“これ”は“これ”なのよ……それ以上の意味なんて……そうよ、“これ”は意味も価値も存在しないのよ……」
少しでも刺激してしまえばすぐにでも泣き出しそうな顔になりながら、愛華は呟き続ける。
それを見る百合花の目には、心配と哀れみの両方の色が見て取れた。
百合花は片手に持った水入りのグラスをテーブルに置く。
愛華はまだ水を飲もうとしない。
「だから……“こんなもの”……早く殺して、早く流さなきゃ……意思のある悪性腫瘍なのよ、“これ”は……」
先ほど白夜の部屋で喚いていた時に比べればだいぶ落ち着いてきた愛華だったが、やはり“それ”を殺したいという意志は変わらないらしい。
百合花は困った様子で愛華を見詰める事しかできなかった。
こういう時、一番望まれるのは双方の意見を半分ずつ採用した折衷案なのだろうが、腹の中の子供の生死を決めるのに折衷案も何もあるのだろうか?
答えは、基本的に否であろう、と百合花も右手で頭を抱えた。
そうして双方沈黙したまま時間が過ぎ、気が付けば部屋に帰って来てから十分近くの時が経っていた。
もはや微動だにしない水面は、愛華と百合花の意思疎通ができていない事を改めて表現しているように見える。
何か、何か殺すとも生かすとも違う第三の案は無いものか、と悩む百合花と、どうしても“それ”を子供だと思いたくなくて代わりの言葉を必死に探す愛華。
するとその耳に、コンコンッという、扉を軽く叩く音が聞こえてきた。
「愛華さん、百合花さん、よろしいでしょうか?」
ノックの後に聞こえてきた声は男性のもので、どこかのんびりとした雰囲気のある声音と口調だった。
おそらく今の声は秀造だ、白夜の方で話がまとまったのだ、と思った百合花はそっとソファーから立ちあがり扉の横のパネルへと急ぐ。
そして先ほど白夜の部屋で黒夜がやったように、コントロールパネルの中のあるボタンを押すと扉が開いて、秀造と、その背後の黒夜の姿が見えるようになった。
百合花は秀造だけでなく黒夜もいた事で僅かに眉を顰めたが、すぐに黒夜は無視をして秀造に視線を向け直す。
「秀造くん……その、姉さんの意見は、やっぱり……」
「殺す、流す、の一点張りですかね?」
秀造の問いかけに、百合花は無言で頷いた。
「そうですか、いやはや困りましたねぇ、此方も生かす、産んでもらうの一点張りなのですよ。これはまた堂々巡りの予感がしますねぇ。」
口先では困ったと言っているものの、全然困っていない様子でニコニコと微笑む秀造に、百合花はちょっとした不快感を感じたが、黙っておく事にした。
秀造の後ろでは黒夜が何とも複雑そうな、しかし不機嫌である事だけは明確に分かる表情で秀造を見ている。
秀造の顔を見ていない黒夜にも、今の秀造が笑顔である事は伝わっているんだろうな、と、百合花は珍しく黒夜に同情したが、すぐに、いや秀造の笑顔の件ではなく愛華の妊娠の件に関して不機嫌なのかもしれない、と思い、同情心を脳内から追い払った。
百合花は、相変わらず無愛想な黒夜に一瞬向けた視線を笑顔の秀造へ戻し、更にそこから背後へ振り返って俯いたままの愛華を見る。
秀造と黒夜も部屋の奥のソファーに座ったままの愛華を見た。
黒夜の表情には明らかな嫌悪が浮かんでいるが、秀造は何かを考えている様な表情で愛華を凝視している。
そして、
「少し、お邪魔させてもらいますよ。」
「えっ、ちょっと秀造くんっ!?」
百合花が止めるのも聞かず、秀造は玄関で靴を脱ぐと部屋の奥、愛華の座るソファーへ向けて歩きだした。
焦った百合花が無意味だと薄々気付きつつも黒夜に視線を向ける、が、やはり黒夜は外国人がやりそうな“お手上げ”のポーズをして溜息を吐くだけで、秀造を追い掛けて止めるような事はしてくれない。
やがて秀造は愛華の目の前に到着し、その場で床に片膝をついて屈むと、愛華に声をかけた。
「愛華さん、白夜さんのお答えが決まりましたよ。」
白夜の答えは子供を生かし、愛華に産んでもらう事だ、そんな事を伝えられては、愛華は本当に壊れてしまう。
例え秀造でも、愛華を傷付けるのは許さない。
そう考える百合花は、秀造を突き飛ばすか、平手打ちの一発でもくらわせてやる意気込みをもって愛華と秀造のもとへ歩み寄る。
玄関では、いつの間にか扉の内側にいる黒夜が、また修羅場か、と言いたげな疲れた顔でそれらを見守っている。
秀造の声と存在に気付いた愛華は僅かに顔を上げ、視線を秀造に合わせて訊き返す。
「白夜は、なんて……」
「出産希望、だそうですよ。」
愛華はしばしの間何も言わずに黙っていたが、やがて視線を部屋の奥の壁に向けると、とても遠くを見るような視線をして一言、
「……やっぱり、ね。」
とだけ呟いた。
どうやら愛華は、白夜が自分の意見に賛同せず、“それ”を生かす事、産む事を推奨してくる事をなんとなく予見していたらしい。
百合花は、愛華が激しく壊れなかった事には僅かに安心して一瞬立ち止まったが、秀造のストレートすぎる表現に僅かな苛立ちを感じて、やはり一発引っ叩いてやろうと思い再び二人に歩み寄り始める、丁度その時だっただろうか、
「やはり出産はお気に召さないようですが、このまま単にそれを拒み続けてもやはり堂々巡りになるだけです、ので、折衷案というのはいかがでしょうか?」
秀造の口から、折衷案という第三の選択肢が出てきたのは。
これは百合花と愛華だけでなく黒夜も初耳だったようで、それまで不機嫌そうに目を細めていた黒夜が目を丸くしている。
百合花も驚いて立ち止まり、愛華も自分が何を言われたのか理解しきれない様子で秀造を見ては、目をぱちくりさせて目の前の出来事が現実なのかどうかを必死に確かめる。
そんな愛華に対し、秀造はいつもの調子で目を細めて笑いながら、その折衷案とやらを紹介しはじめた。