短編“未満”小説『同罪』
【同罪】
それは“if”――“もしも”がありえた世界のお話。
とある休日の昼頃、太陽の光が燦々と降り注ぐ世界の中で、藤咲 満はある少年の自宅の玄関の扉の前に立っていた。
インターホンに伸ばした右手の人指し指は、そのボタンを押すか押さないか、とても微妙な所でその動きを止めている。
左手に巻いた腕時計は今がそろそろ十二時である事を満に伝えている。
あと三十秒、二十五秒、二十秒、十五秒……アナログ式の時計は少しずつその秒針を十二の目盛へと近づける、分針はもうすぐにでも時針に寄りそいそうになっている。
あと十秒、九、八、七、六、五、四、三、二、一……そのカウントがゼロになった時、満は右手の人差指に一定の力を込め、素早くインターホンを押した。
数秒の沈黙の後に、ガチャリと受話器を取る音がして、スピーカーから元気な少年の声が聞こえてくる。
「今開けるから!」
この玄関の扉の先、室内にいる少年はモニターで相手の姿を確認したらしく、誰かと訊く事もなくすぐに開けると言って受話器を置く音をさせた。
少年にとって満は警戒すべき相手ではないらしい。
受話器を置くガチャリという音、それから数十秒もたたない内にバタバタという慌ただしい足音が玄関に近付いてくる、それを感じて満は眉間に僅かなシワを刻む。
そうしている間にも足音は徐々に大きくなり、やがて満の目の前にある扉が開き、そこからこの家の少年――満の保護観察を任されているネットセイバー――光 熱斗が顔を覗かせた。
熱斗は満の顔を見ると笑顔を見せ、扉を大きく開いて言う。
「お待たせ! さ、入って入って!」
満はその少しの陰りも感じさせない明るい笑顔を蹴りつけたくなる衝動を抑えつつ、熱斗に向けて頷き、扉の奥へと足を進めた。
玄関で靴を脱いで、廊下を通る。
後ろから熱斗が扉に鍵をかけてから追いかけてくる足音を聞きながらリビングに入ると、熱斗の母親――はる香が満の姿をその視界に映したようで、挨拶を投げかけてきた。
「あら満さん、こんにちは。」
はる香の表情は、熱斗程ではないが笑顔と表現するのが正しいものになっている。
それを見る満は、何か今すぐにでも謝罪しなければいけないような焦燥感と、今すぐにでも大声ではる香を嘲笑ってやりたい衝動の二つを感じた。
それは満が自分は“此処にいるべき存在ではない”と考えている故なのか。
しかしそんな事を表に出す訳にもいかず、満は自分も同じようにはる香に向けて微笑んで見せた。
笑顔の下では相反する想いがグチャグチャに混ざり合っている事を隠したまま、小さく頭を下げて、満は挨拶を返す。
「こんにちは、はる香さん。」
満がゆっくりと顔を上げると、はる香は殊更満足そうに微笑んで、キッチンの近くの戸棚からティーカップをとりだした。
どうやら満にお茶を出すつもりらしい、はる香の事だからケーキなどのお茶菓子も何かしら準備しているのだろう、そんなはる香の姿を見る度、満の中の焦燥感と嘲笑の衝動はその存在感を強める。
今すぐにでも謝って此処を離れなくてはならないという気持ちと、この人は何故自分に対してこんな、客人を迎えるような態度をとるのか分からないという気持ち、その二つの間で、満の精神はグラグラと揺れる。
と、其処へようやく扉を閉めた熱斗が追いついてきて、満のスーツの裾を掴んだ事で満の思考は一瞬途切れる。
毎度の事ではあるが、何かと思って後ろを振り向くと、其処には当たり前だが熱斗がいて、先ほどと変わらない影のない笑顔を向けてきている。
「満! 俺の部屋に行こう!」
この少年が自分を、藤咲 満を“満さん”ではなく“満”と呼ぶようになったのは何時の事だったか、正確な事を満は知らない。
強いて言うなら、満が唯一信頼を置き崇拝している人間――Search=Darknessによれば、満がDirty Bloodの団員である事が分かってしばらくした辺りからであるらしいが、それ以上の事は知らない。
いつの間にか普通の事になっていた呼び捨てに小さな違和感と苛立ちを感じながら、満はふと頬笑みを消し、冷たい目で熱斗を見たが、熱斗はそれに動じることなく明るい笑顔を絶やさなかった。
それをみて満は、反抗は無意味だとでも思ったのか、それとも単に面倒くさくなってきたのか、どちらとも言いにくい心境ではる香にもう一度笑みを向ける。
「じゃあ僕は、熱斗くんと熱斗くんの部屋にいますんで。」
「えぇ、分かったわ。後でケーキとお紅茶、持っていくわね。」
満が笑顔で言うと、はる香はそう反応してキッチンでの作業、おそらくケーキの仕上げであろう、それに戻って行った。
はる香が満に背を向けた瞬間、満の笑みが再び消える、そんな満のスーツの裾を再び熱斗が引っ張った。
「みーちーる! 早く行こうぜ!」
満は、今度はあまり抑揚の無い、冷たい声で気だるげに呟くように言う。
「……はいはい、今いくよ。」
明らかに面倒くさいと言いたげな声に、熱斗の肩の上でロックマンが小さく苦笑していたが、満はそれを気に留めることなく廊下へ戻り、そこにある階段を熱斗の部屋へ向けて登り始める。
熱斗もそれを追いかけて速足で廊下に進み、階段をのぼりはじめた。
やがてゆっくりと階段を上る満の背後に熱斗が追いつく。
満はその気配を僅かに気にしながら階段を上り切り、熱斗の部屋の中へ入り、ベッドの上へ腰かけた。
熱斗はそれと向かい合うかのように、机の前のパソコン作業用の椅子に座る。
そして熱斗は、満が最も不機嫌になる一言を口にした。
「今日もちゃんと十二時ぴったりに来てくれたんだな、偉い偉い。」
まるで自分より年下の子供を褒めるような言い方に、満は明らかに不機嫌な顔を見せる。
そしてそれまで左手で持っていたカバンを床に落とすように置くと、はる香に笑みを向けていた人間と同一人物とは思えないほど冷たく不機嫌な表情で脚を組み、熱斗を睨みつけた。
「時間は守る性質なんでね。で、今日は何をすればいいの。ゲームのお相手? 宿題の監督? それとも幼児退行して君の弟役?」
矢継ぎ早に紡がれる満のセリフに、熱斗は少し気圧されて、困ったような顔で頭を掻いた。
そして満はそんな熱斗をざまぁみろと言いたげな表情で見詰め、いや睨みつける。
満は熱斗の影の欠片もない笑顔が嫌いだった、だからその笑顔が崩れた事を見て満は優越感に浸るのだ。
しかしそんな優越もつかの間、熱斗は少しだけ困ったような顔で、それでも屈託のない笑みを見せて言う。
「別にそんな、何がどうって決まった事は無いって。……あぁでも宿題は見てくれると助かっちゃったりしちゃったりしちゃうかも。」
えへへ、と笑ってそう告げる熱斗に、満は再び不快感を露わにした顔を見せた。
それを見て熱斗が少し焦り、また困ったような顔を見せる。
どうやら熱斗は、自分の言っている事の何が満の気に障っているのか、具体的に感じ取れていないらしい。
そんなふうに困ったり笑ったりを繰り返す熱斗を見ながら、満は大きく溜息を吐くのである。
どうして自分はこんな何も分からない少年に振り回されなければいけないのだろう、と。
「まぁとにかくさ、満はここで、なんていうんだろ、こう、自然に? っていうのかな、俺とかママとかパパとかの生活に馴染んでくれればいいって言うか……」
熱斗は具体的で的確な例えが見つからないのか、どうにも不安定な表現で話す。
それでも熱斗の言葉からは、満に穏やかな生活を体験してもらいたい、自分と同じような生活をしてもらいたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
だからこそ、満は苛立ち、熱斗の言葉をなるべく右から左へ通り抜けさせようとしてそれに失敗する。
自分は今、光 熱斗に守られて生きている、その実感が、満を酷く苛立たせるのだ。
だから、
「とりあえず満にはここでの生活を楽しん」
「ねぇ熱斗くん。」
満は熱斗の言葉を遮って口を開いた。
熱斗とロックマンが驚いた様子で満の顔を見る。
どうやら熱斗は満から意見されるとは思っていなかったらしく、またロックマンも同じらしい。
二人が顔を見合わせるのを見ながら、満は続けた。
「君は、この更生プロジェクトが本当に正しいと思っているの? いや、もっというならば、“あの日”、僕とSearchちゃんが直接対決して僕が敗れた“あの日”、僕を救った事が正しい事だと思ってるの?」
満がそこまで口にすると、熱斗の顔色がふと変わった。
最初は何を言われているのか分からなかった熱斗だったが、満が“あの日”の事を口にした事で、これが真面目な話である事は理解できたらしい。
それまでの少しへらへらとした笑みを消して、真っ直ぐな表情で満を見詰める。
肩の上のロックマンも、この先の行く末を心配しているのか不安そうな面持ちで熱斗と満を交互に見比べている。
「……うん、思ってる。満を救った事も、この更生プロジェクトも、正しいって、俺は思ってる。」
やがて熱斗が少しだけ緊張した様子で口を開いた。
熱斗の真っ直ぐな眼差しが、満を刺すように見据えている。
しかし満はそれに動じる事も折れる事もなくその視線を跳ね返すように睨みつけたと思ったら、僅かに口を開いて笑い声――嘲笑を漏らした。
何故満が笑ったのか分からない、と言いたげな顔の熱斗へ、満は反論する。
「そう……君はどっちも正しいと思ってるんだね。」
まるで熱斗を挑発するように足を組んで腕を組んで、満はそう言った。
熱斗が緊張してゴクリと唾を飲むのが見える、ロックマンがいよいよ不安そうに熱斗と満を交互に見比べるのも見える。
穏やかな筈の休日の午後に流れ始めた不穏な空気、それを一層濃くするかのように満は続けた。
今まで吐きたくて吐きたくて仕方が無かった本音を今、満は熱斗に告げる。
「でもね……僕は知ってるんだ、それが酷い間違いであることを。」
熱斗は一瞬、言葉を返す事が出来なかった。
それでも熱斗は息を整えて、満に訊き返す。
「間違い、って……何が……。」
満は答えた。
「両方が、だよ。僕を助けた事と、僕を裁かずにこのプロジェクトにかけたこと……両方。」
熱斗は今度こそ、なにがなんだか分からなくなって、声出す事が出来なかった。
自分は満を救っている、そんな自覚を持っていて、満は何時か社会に戻れると信じている、そんな熱斗には、それを満から否定されるなど、思いもよらない出来事だったのだ。
なんで、どうして、何がそんなに、と言いたげに驚いた顔で固まった熱斗へ、満は続ける。
「……ねぇ、例えば、僕に殺された人間とその遺族がこの事実を、正義のヒーローのご厚意で僕が生きている事を知ったら、僕が裁かれないことを知ったら……どう思うと思う?」
満の質問に、熱斗は答える事が出来なかった。
そう、熱斗はついつい忘れがちになってしまうが、今熱斗の目の前にいる藤咲 満という人間は誤魔化しようのない殺人鬼であり、殺人犯なのだ。
殺人犯ということは、勿論満に殺された人間がいて、満にその人間が殺された事を悲しむ人間がいるという事。
それが殺人犯に勝るとも劣らぬ屑人間だけならともかく、満はSearch同様罪の無い真面目な人間もDirty Bloodのセカンドキラーの名のもとに殺している。
そんな満が本来受けるべきはこんな生温い――光 熱斗の自宅を月に数回尋ねるだけなどという処遇ではなく、よくて懲役、悪くて死刑のハズだ。
それなのに今、満は何の拘束も無しに熱斗の前にいて、大きな自由を許されている。
もしそれを満に殺された人間の遺族が知ればどう思うか、答えは明白だ。
「おかしな話だけど、僕には分かるよ、遺族の思いが……“ふざけるな”っていう、怒りの声がね。」
熱斗は満の言葉に何か言葉を返す事が出来なかった。
今まで熱斗は満を救っているというつもりでこのプロジェクトを推し進めてきたが、そのプロジェクトの重大な欠陥を満本人から指摘されて、自分がしている事の正しさが分からなくなってしまったのだ。
熱斗が考えてもみなかった、このプロジェクトが数多の人間の悲しみと犠牲のもとに成り立っているという事実を、満は知っている。
そしてそれを満からぶつけられた熱斗は、自分が正しいと思っていたこのプロジェクトの正当性を見失ってしまう。
そんな混乱の中、やっとの思いで熱斗は一言だけ言葉を絞り出す。
「どうして……。」
熱斗がそう言うと、満は少しだけ口の端を吊りあげてそれを面白がるような顔を見せた。
「どうして、か。君にしてはなかなかの質問だね。」
そう言って熱斗を挑発するような表情を見せた満は、それまで組んでいた腕を解き、脚も解き、正面から熱斗を見据えるとしばしニヤニヤと笑った後、急に真面目な表情になって答えた。
「……それはね、子供の頃の僕が、殺された側に酷く近いからだよ。」
その答えに、熱斗は驚きを隠せなかった。
子供の頃の満が殺された側の人間に近いとはどういうことなのか、満の過去を深くは知らない熱斗には分からない。
ただ、これもまた何かの縁なのか、Dirty Bloodのファーストキラーであり警察の殺人鬼であるSearch=Darknessから、満はあまり集団になじんでいる方ではなかった、常に何かしらの悪口を言われている方だったと聞いている熱斗は、子供の頃とはその頃の事なのかと思う。
はたしてそれは大当たりであり、満は次にこう続ける。
「今の君は、僕を傷付けた屑を守った教師達にそっくりだ。」
自分とあまり縁のない話にいまいち想像力が働かず、熱斗は困惑する。
その様子を見て満は一つ小さな溜息を吐いた後、こう続けた。
「僕はね、屑を守るヤツは屑と大して変わらないと思っているんだ。だからね、僕の中ではあの遠い日の屑共を何らかの理由をつけて守った教師達はあの屑共と同罪を抱えているんだよ。」
「それが、今の話とどうつながるんだよ……。」
熱斗が訊くと、満は嘲笑とも普通の笑みとも違う、何か複雑な意味が籠った影のある笑みを浮かべて笑った。
熱斗はやはりそれの意味が分からず困ったような、緊張した様な、何か怯えたような顔を見せるだけ。
それを見て、どうやら本当に光 熱斗の頭はおめでたく出来ているらしい、と確信した満は容赦をしない事に決める。
そして満は、熱斗に向けて、今の話とこの話がどうつながるのか、その意味を告げた。
「つまりね、あの屑共とそれを守った教師が同罪だとするなら、殺人犯の僕を守った君は、僕と同罪なんだよ。」
まるで、君も殺人犯なんだ、と言っているにも等しい満の言い方に、熱斗は緊張で固まらざるをえなかった。
熱斗の肩の上では、ロックマンが心配そうに熱斗の様子を窺っている。
二人とも、満の言葉の意味を真に理解できたのかは少し怪しいが、それなりの意味には受け取ってくれたらしく、緊張と怯え、そして僅かな後悔に言葉が出なくなってしまっている。
満はそこへ更に畳みかけた。
「その罪の重さに君が何時まで耐えられるのか、もしくは罪の意識なんて無いままのうのうと過ごすのか、僕は今から楽しみで仕方が無いね。精々、苦しめばいいよ、善人からの批判の眼差しにさ。」
そう言って満が小さく笑いかけた時、それまで閉まっていた熱斗の部屋のドアが開き、その隙間からはる香が顔を出してきた。
それに気付いた満はその顔に浮かべる笑みを陰湿なものから爽やかなものに変える、その変貌の早さに熱斗は驚いていたが、満はそんなこと気にはしない。
「あ、はる香さん。」
「二人とも、ケーキとお紅茶、持ってきたわよー。」
そう言ってはる香が室内に入ると、満は穏やかな笑顔で、
「わぁ美味しそう。」
とか、
「ありがとうございます。」
だとか、そんなありきたりのセリフをはる香に向けて吐いて見せた。
はる香はその前までの熱斗と満の会話は聞いていなかったのか、そんな満の社交辞令を割と真に受けて頬笑む。
熱斗とロックマンはその光景に顔を見合わせた。
はる香は熱斗の机の上にケーキの載った皿とティーカップを二つずつゆっくりと置く。
満は、またあの謝罪の焦燥感と嘲笑の衝動に襲われて、笑顔の下では気分を悪くしていた。
熱斗と対峙する事には慣れてきたが、どうにもはる香と対峙する事には慣れないなぁと思う満に、はる香は一礼して、
「じゃあごゆっくり。」
と言うと、熱斗の部屋を後にした。
パタンと音がして、部屋のドアが閉まり、訪れる静寂――。
「さて、と。」
その静寂を破ったのは意外にも満の方だった。
満はベッドから腰を浮かせると天井に向けて思い切り伸びをして体をほぐす。
熱斗はその様子を呆然と見守るしかなかった。
そんな熱斗に、満は話し掛け続ける。
「宿題ぐらいだったら、まぁ見てあげるよ。僕達は同罪だからね。」
そう言って笑った満の笑みは、熱斗の笑みとは対照的に大きな陰を孕んでいた。
End.
それは“if”――“もしも”がありえた世界のお話。
とある休日の昼頃、太陽の光が燦々と降り注ぐ世界の中で、藤咲 満はある少年の自宅の玄関の扉の前に立っていた。
インターホンに伸ばした右手の人指し指は、そのボタンを押すか押さないか、とても微妙な所でその動きを止めている。
左手に巻いた腕時計は今がそろそろ十二時である事を満に伝えている。
あと三十秒、二十五秒、二十秒、十五秒……アナログ式の時計は少しずつその秒針を十二の目盛へと近づける、分針はもうすぐにでも時針に寄りそいそうになっている。
あと十秒、九、八、七、六、五、四、三、二、一……そのカウントがゼロになった時、満は右手の人差指に一定の力を込め、素早くインターホンを押した。
数秒の沈黙の後に、ガチャリと受話器を取る音がして、スピーカーから元気な少年の声が聞こえてくる。
「今開けるから!」
この玄関の扉の先、室内にいる少年はモニターで相手の姿を確認したらしく、誰かと訊く事もなくすぐに開けると言って受話器を置く音をさせた。
少年にとって満は警戒すべき相手ではないらしい。
受話器を置くガチャリという音、それから数十秒もたたない内にバタバタという慌ただしい足音が玄関に近付いてくる、それを感じて満は眉間に僅かなシワを刻む。
そうしている間にも足音は徐々に大きくなり、やがて満の目の前にある扉が開き、そこからこの家の少年――満の保護観察を任されているネットセイバー――光 熱斗が顔を覗かせた。
熱斗は満の顔を見ると笑顔を見せ、扉を大きく開いて言う。
「お待たせ! さ、入って入って!」
満はその少しの陰りも感じさせない明るい笑顔を蹴りつけたくなる衝動を抑えつつ、熱斗に向けて頷き、扉の奥へと足を進めた。
玄関で靴を脱いで、廊下を通る。
後ろから熱斗が扉に鍵をかけてから追いかけてくる足音を聞きながらリビングに入ると、熱斗の母親――はる香が満の姿をその視界に映したようで、挨拶を投げかけてきた。
「あら満さん、こんにちは。」
はる香の表情は、熱斗程ではないが笑顔と表現するのが正しいものになっている。
それを見る満は、何か今すぐにでも謝罪しなければいけないような焦燥感と、今すぐにでも大声ではる香を嘲笑ってやりたい衝動の二つを感じた。
それは満が自分は“此処にいるべき存在ではない”と考えている故なのか。
しかしそんな事を表に出す訳にもいかず、満は自分も同じようにはる香に向けて微笑んで見せた。
笑顔の下では相反する想いがグチャグチャに混ざり合っている事を隠したまま、小さく頭を下げて、満は挨拶を返す。
「こんにちは、はる香さん。」
満がゆっくりと顔を上げると、はる香は殊更満足そうに微笑んで、キッチンの近くの戸棚からティーカップをとりだした。
どうやら満にお茶を出すつもりらしい、はる香の事だからケーキなどのお茶菓子も何かしら準備しているのだろう、そんなはる香の姿を見る度、満の中の焦燥感と嘲笑の衝動はその存在感を強める。
今すぐにでも謝って此処を離れなくてはならないという気持ちと、この人は何故自分に対してこんな、客人を迎えるような態度をとるのか分からないという気持ち、その二つの間で、満の精神はグラグラと揺れる。
と、其処へようやく扉を閉めた熱斗が追いついてきて、満のスーツの裾を掴んだ事で満の思考は一瞬途切れる。
毎度の事ではあるが、何かと思って後ろを振り向くと、其処には当たり前だが熱斗がいて、先ほどと変わらない影のない笑顔を向けてきている。
「満! 俺の部屋に行こう!」
この少年が自分を、藤咲 満を“満さん”ではなく“満”と呼ぶようになったのは何時の事だったか、正確な事を満は知らない。
強いて言うなら、満が唯一信頼を置き崇拝している人間――Search=Darknessによれば、満がDirty Bloodの団員である事が分かってしばらくした辺りからであるらしいが、それ以上の事は知らない。
いつの間にか普通の事になっていた呼び捨てに小さな違和感と苛立ちを感じながら、満はふと頬笑みを消し、冷たい目で熱斗を見たが、熱斗はそれに動じることなく明るい笑顔を絶やさなかった。
それをみて満は、反抗は無意味だとでも思ったのか、それとも単に面倒くさくなってきたのか、どちらとも言いにくい心境ではる香にもう一度笑みを向ける。
「じゃあ僕は、熱斗くんと熱斗くんの部屋にいますんで。」
「えぇ、分かったわ。後でケーキとお紅茶、持っていくわね。」
満が笑顔で言うと、はる香はそう反応してキッチンでの作業、おそらくケーキの仕上げであろう、それに戻って行った。
はる香が満に背を向けた瞬間、満の笑みが再び消える、そんな満のスーツの裾を再び熱斗が引っ張った。
「みーちーる! 早く行こうぜ!」
満は、今度はあまり抑揚の無い、冷たい声で気だるげに呟くように言う。
「……はいはい、今いくよ。」
明らかに面倒くさいと言いたげな声に、熱斗の肩の上でロックマンが小さく苦笑していたが、満はそれを気に留めることなく廊下へ戻り、そこにある階段を熱斗の部屋へ向けて登り始める。
熱斗もそれを追いかけて速足で廊下に進み、階段をのぼりはじめた。
やがてゆっくりと階段を上る満の背後に熱斗が追いつく。
満はその気配を僅かに気にしながら階段を上り切り、熱斗の部屋の中へ入り、ベッドの上へ腰かけた。
熱斗はそれと向かい合うかのように、机の前のパソコン作業用の椅子に座る。
そして熱斗は、満が最も不機嫌になる一言を口にした。
「今日もちゃんと十二時ぴったりに来てくれたんだな、偉い偉い。」
まるで自分より年下の子供を褒めるような言い方に、満は明らかに不機嫌な顔を見せる。
そしてそれまで左手で持っていたカバンを床に落とすように置くと、はる香に笑みを向けていた人間と同一人物とは思えないほど冷たく不機嫌な表情で脚を組み、熱斗を睨みつけた。
「時間は守る性質なんでね。で、今日は何をすればいいの。ゲームのお相手? 宿題の監督? それとも幼児退行して君の弟役?」
矢継ぎ早に紡がれる満のセリフに、熱斗は少し気圧されて、困ったような顔で頭を掻いた。
そして満はそんな熱斗をざまぁみろと言いたげな表情で見詰め、いや睨みつける。
満は熱斗の影の欠片もない笑顔が嫌いだった、だからその笑顔が崩れた事を見て満は優越感に浸るのだ。
しかしそんな優越もつかの間、熱斗は少しだけ困ったような顔で、それでも屈託のない笑みを見せて言う。
「別にそんな、何がどうって決まった事は無いって。……あぁでも宿題は見てくれると助かっちゃったりしちゃったりしちゃうかも。」
えへへ、と笑ってそう告げる熱斗に、満は再び不快感を露わにした顔を見せた。
それを見て熱斗が少し焦り、また困ったような顔を見せる。
どうやら熱斗は、自分の言っている事の何が満の気に障っているのか、具体的に感じ取れていないらしい。
そんなふうに困ったり笑ったりを繰り返す熱斗を見ながら、満は大きく溜息を吐くのである。
どうして自分はこんな何も分からない少年に振り回されなければいけないのだろう、と。
「まぁとにかくさ、満はここで、なんていうんだろ、こう、自然に? っていうのかな、俺とかママとかパパとかの生活に馴染んでくれればいいって言うか……」
熱斗は具体的で的確な例えが見つからないのか、どうにも不安定な表現で話す。
それでも熱斗の言葉からは、満に穏やかな生活を体験してもらいたい、自分と同じような生活をしてもらいたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
だからこそ、満は苛立ち、熱斗の言葉をなるべく右から左へ通り抜けさせようとしてそれに失敗する。
自分は今、光 熱斗に守られて生きている、その実感が、満を酷く苛立たせるのだ。
だから、
「とりあえず満にはここでの生活を楽しん」
「ねぇ熱斗くん。」
満は熱斗の言葉を遮って口を開いた。
熱斗とロックマンが驚いた様子で満の顔を見る。
どうやら熱斗は満から意見されるとは思っていなかったらしく、またロックマンも同じらしい。
二人が顔を見合わせるのを見ながら、満は続けた。
「君は、この更生プロジェクトが本当に正しいと思っているの? いや、もっというならば、“あの日”、僕とSearchちゃんが直接対決して僕が敗れた“あの日”、僕を救った事が正しい事だと思ってるの?」
満がそこまで口にすると、熱斗の顔色がふと変わった。
最初は何を言われているのか分からなかった熱斗だったが、満が“あの日”の事を口にした事で、これが真面目な話である事は理解できたらしい。
それまでの少しへらへらとした笑みを消して、真っ直ぐな表情で満を見詰める。
肩の上のロックマンも、この先の行く末を心配しているのか不安そうな面持ちで熱斗と満を交互に見比べている。
「……うん、思ってる。満を救った事も、この更生プロジェクトも、正しいって、俺は思ってる。」
やがて熱斗が少しだけ緊張した様子で口を開いた。
熱斗の真っ直ぐな眼差しが、満を刺すように見据えている。
しかし満はそれに動じる事も折れる事もなくその視線を跳ね返すように睨みつけたと思ったら、僅かに口を開いて笑い声――嘲笑を漏らした。
何故満が笑ったのか分からない、と言いたげな顔の熱斗へ、満は反論する。
「そう……君はどっちも正しいと思ってるんだね。」
まるで熱斗を挑発するように足を組んで腕を組んで、満はそう言った。
熱斗が緊張してゴクリと唾を飲むのが見える、ロックマンがいよいよ不安そうに熱斗と満を交互に見比べるのも見える。
穏やかな筈の休日の午後に流れ始めた不穏な空気、それを一層濃くするかのように満は続けた。
今まで吐きたくて吐きたくて仕方が無かった本音を今、満は熱斗に告げる。
「でもね……僕は知ってるんだ、それが酷い間違いであることを。」
熱斗は一瞬、言葉を返す事が出来なかった。
それでも熱斗は息を整えて、満に訊き返す。
「間違い、って……何が……。」
満は答えた。
「両方が、だよ。僕を助けた事と、僕を裁かずにこのプロジェクトにかけたこと……両方。」
熱斗は今度こそ、なにがなんだか分からなくなって、声出す事が出来なかった。
自分は満を救っている、そんな自覚を持っていて、満は何時か社会に戻れると信じている、そんな熱斗には、それを満から否定されるなど、思いもよらない出来事だったのだ。
なんで、どうして、何がそんなに、と言いたげに驚いた顔で固まった熱斗へ、満は続ける。
「……ねぇ、例えば、僕に殺された人間とその遺族がこの事実を、正義のヒーローのご厚意で僕が生きている事を知ったら、僕が裁かれないことを知ったら……どう思うと思う?」
満の質問に、熱斗は答える事が出来なかった。
そう、熱斗はついつい忘れがちになってしまうが、今熱斗の目の前にいる藤咲 満という人間は誤魔化しようのない殺人鬼であり、殺人犯なのだ。
殺人犯ということは、勿論満に殺された人間がいて、満にその人間が殺された事を悲しむ人間がいるという事。
それが殺人犯に勝るとも劣らぬ屑人間だけならともかく、満はSearch同様罪の無い真面目な人間もDirty Bloodのセカンドキラーの名のもとに殺している。
そんな満が本来受けるべきはこんな生温い――光 熱斗の自宅を月に数回尋ねるだけなどという処遇ではなく、よくて懲役、悪くて死刑のハズだ。
それなのに今、満は何の拘束も無しに熱斗の前にいて、大きな自由を許されている。
もしそれを満に殺された人間の遺族が知ればどう思うか、答えは明白だ。
「おかしな話だけど、僕には分かるよ、遺族の思いが……“ふざけるな”っていう、怒りの声がね。」
熱斗は満の言葉に何か言葉を返す事が出来なかった。
今まで熱斗は満を救っているというつもりでこのプロジェクトを推し進めてきたが、そのプロジェクトの重大な欠陥を満本人から指摘されて、自分がしている事の正しさが分からなくなってしまったのだ。
熱斗が考えてもみなかった、このプロジェクトが数多の人間の悲しみと犠牲のもとに成り立っているという事実を、満は知っている。
そしてそれを満からぶつけられた熱斗は、自分が正しいと思っていたこのプロジェクトの正当性を見失ってしまう。
そんな混乱の中、やっとの思いで熱斗は一言だけ言葉を絞り出す。
「どうして……。」
熱斗がそう言うと、満は少しだけ口の端を吊りあげてそれを面白がるような顔を見せた。
「どうして、か。君にしてはなかなかの質問だね。」
そう言って熱斗を挑発するような表情を見せた満は、それまで組んでいた腕を解き、脚も解き、正面から熱斗を見据えるとしばしニヤニヤと笑った後、急に真面目な表情になって答えた。
「……それはね、子供の頃の僕が、殺された側に酷く近いからだよ。」
その答えに、熱斗は驚きを隠せなかった。
子供の頃の満が殺された側の人間に近いとはどういうことなのか、満の過去を深くは知らない熱斗には分からない。
ただ、これもまた何かの縁なのか、Dirty Bloodのファーストキラーであり警察の殺人鬼であるSearch=Darknessから、満はあまり集団になじんでいる方ではなかった、常に何かしらの悪口を言われている方だったと聞いている熱斗は、子供の頃とはその頃の事なのかと思う。
はたしてそれは大当たりであり、満は次にこう続ける。
「今の君は、僕を傷付けた屑を守った教師達にそっくりだ。」
自分とあまり縁のない話にいまいち想像力が働かず、熱斗は困惑する。
その様子を見て満は一つ小さな溜息を吐いた後、こう続けた。
「僕はね、屑を守るヤツは屑と大して変わらないと思っているんだ。だからね、僕の中ではあの遠い日の屑共を何らかの理由をつけて守った教師達はあの屑共と同罪を抱えているんだよ。」
「それが、今の話とどうつながるんだよ……。」
熱斗が訊くと、満は嘲笑とも普通の笑みとも違う、何か複雑な意味が籠った影のある笑みを浮かべて笑った。
熱斗はやはりそれの意味が分からず困ったような、緊張した様な、何か怯えたような顔を見せるだけ。
それを見て、どうやら本当に光 熱斗の頭はおめでたく出来ているらしい、と確信した満は容赦をしない事に決める。
そして満は、熱斗に向けて、今の話とこの話がどうつながるのか、その意味を告げた。
「つまりね、あの屑共とそれを守った教師が同罪だとするなら、殺人犯の僕を守った君は、僕と同罪なんだよ。」
まるで、君も殺人犯なんだ、と言っているにも等しい満の言い方に、熱斗は緊張で固まらざるをえなかった。
熱斗の肩の上では、ロックマンが心配そうに熱斗の様子を窺っている。
二人とも、満の言葉の意味を真に理解できたのかは少し怪しいが、それなりの意味には受け取ってくれたらしく、緊張と怯え、そして僅かな後悔に言葉が出なくなってしまっている。
満はそこへ更に畳みかけた。
「その罪の重さに君が何時まで耐えられるのか、もしくは罪の意識なんて無いままのうのうと過ごすのか、僕は今から楽しみで仕方が無いね。精々、苦しめばいいよ、善人からの批判の眼差しにさ。」
そう言って満が小さく笑いかけた時、それまで閉まっていた熱斗の部屋のドアが開き、その隙間からはる香が顔を出してきた。
それに気付いた満はその顔に浮かべる笑みを陰湿なものから爽やかなものに変える、その変貌の早さに熱斗は驚いていたが、満はそんなこと気にはしない。
「あ、はる香さん。」
「二人とも、ケーキとお紅茶、持ってきたわよー。」
そう言ってはる香が室内に入ると、満は穏やかな笑顔で、
「わぁ美味しそう。」
とか、
「ありがとうございます。」
だとか、そんなありきたりのセリフをはる香に向けて吐いて見せた。
はる香はその前までの熱斗と満の会話は聞いていなかったのか、そんな満の社交辞令を割と真に受けて頬笑む。
熱斗とロックマンはその光景に顔を見合わせた。
はる香は熱斗の机の上にケーキの載った皿とティーカップを二つずつゆっくりと置く。
満は、またあの謝罪の焦燥感と嘲笑の衝動に襲われて、笑顔の下では気分を悪くしていた。
熱斗と対峙する事には慣れてきたが、どうにもはる香と対峙する事には慣れないなぁと思う満に、はる香は一礼して、
「じゃあごゆっくり。」
と言うと、熱斗の部屋を後にした。
パタンと音がして、部屋のドアが閉まり、訪れる静寂――。
「さて、と。」
その静寂を破ったのは意外にも満の方だった。
満はベッドから腰を浮かせると天井に向けて思い切り伸びをして体をほぐす。
熱斗はその様子を呆然と見守るしかなかった。
そんな熱斗に、満は話し掛け続ける。
「宿題ぐらいだったら、まぁ見てあげるよ。僕達は同罪だからね。」
そう言って笑った満の笑みは、熱斗の笑みとは対照的に大きな陰を孕んでいた。
End.
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