短編“未満”小説『Bloody Christmas Present ―殺人鬼が生まれた日―』
【Bloody Christmas Present ―殺人鬼が生まれた日―】
ある年の十二月二十五日、時刻は午後九時四十五分頃。
白夜はDirty Blood本部の中にある一室の前で椅子に座り、ある瞬間を待っていた。
今日は、愛華の出産予定日である。
さかのぼれば約十ヶ月ほど前、白夜は愛華の懇願に圧されて性的な交わりを許可した、その一件が今につながっている事を、白夜は酷く複雑な想いで記憶している。
それは交わりを交わしてから約三週間後の事だった。
白夜がいつもの通り自室で、Dirty Bloodの功績や光闇及び花道グループの施設の資料を読み込んでいると、自室の扉が急に開いた。
それがあまりにも乱暴な音だったので、白夜は何かと思って顔を上げ、扉の方へ視線を向けて来訪者が誰なのかを確かめる。
するとそこには、長い黒髪が特徴的な女性科学者が一人普段通りの姿で立っていた。
「あ。愛華。」
それは白夜がこの世で一番大切に、愛しく思う女性で、白夜は愛華の訪問を純粋に喜び、笑顔を見せると同時に手を振って見せた。
しかしおかしなことに、普段なら同じように手を振って微笑み返してくれる愛華は、今日は何故かそれをしてくれない。
それどころか愛華は、右手に何か小さく棒状のものを持ったまま、俯いて立ちつくしている。
白夜は愛華の様子を不審に思い、もう一度名前を呼んだ。
「愛華? どうしたの?」
すると愛華は俯いたまま白夜の自室の中に入り、白夜が腰かけていたソファーの前まで歩いてきた。
そこで白夜はようやく、愛華が何か細い棒状のものを手にしている事と、その顔が涙に濡れている事に気がついた。
一体何があったのかと驚きの表情を見せる白夜に、愛華は告げる。
「私……妊娠した、みたいなの……。」
その言葉に一瞬白夜の時間が止まる。
今愛華は何と言った? 妊娠、したといったのか? それを理解して再び時間が動き出した時、白夜は驚きと同時に僅かな喜びを感じていた。
Dirty Bloodを設立することで愛華と共に生きる事が叶っただけでなく、まさか子供をもつことができるなんて、と、白夜は自分が今や犯罪組織のリーダーであることも忘れて純粋に喜んだのだ。
思わずそれまで読んでいた資料を投げ捨てて白夜はソファーから立ちあがり、愛華の肩を掴む。
「本当!? 本当なの!?」
とても嬉しそうな笑顔で愛華の肩を掴む白夜に、愛華は何も言おうとしなかった。
これには白夜も何かがおかしいという違和感を感じ、改めて愛華の顔を覗きこむ。
そして、そこで愛華がすすり泣いている事に気付いた時、白夜の喜びムードはさぁっと静かに引いて行くのであった。
愛華は一体何を悲しんでいるのだろう、それを疑問に思った白夜は愛華の名前を読んで問いかける。
しかし、
「愛華? どうし」
「なんで貴方はそんなに嬉しそうなの!?」
その問いかけは愛華の突然の絶叫にも似た発言によって遮られ、白夜は吃驚として言葉を途中で止めざるをえなくなってしまった。
また、絶叫した愛華は自分の肩から白夜の両手を振り払うと、右手に握っていた一本の棒――妊娠検査薬を白夜に突き付けて、叫ぶ。
「こんな、私、こんなの望んでないわ! だって育てられもしないのに! 育てる気も無いのに! これじゃあ私、計画性の欠片も無いただの馬鹿女じゃない!」
そう叫んだ後に愛華は足から力が抜けたのか、その場に崩れ落ちるように座り込み、白夜の足に縋って泣きだした。
右手は妊娠検査薬と共に白夜の黒いズボンを握りしめ、左手は自身の下腹部を押さえている。
そして愛華はいもしない神に縋るかのように、まるで性交を懇願したあの時のように、白夜に懇願するのだ。
「ねぇ白夜、蹴って。私のこの無様な腹を蹴ってよ! 蹴って、殴って、さっさと流してよぉぉぉお!!」
一般の女性なら例え育てられる環境が無かろうと喜ぶであろう妊娠に、愛華は驚くほどの拒絶と嫌悪、後悔を感じている。
こんなのは嘘だ、嘘であってほしい、現実だと思いたくない、そう思う愛華はまるでその事実を消そうとするように、白夜の脚に縋って、繰り返す。
「蹴って、蹴って、早く蹴って頂戴、お願いよ、白夜ぁ……」
あの誇りとプライド高き女性科学者であった愛華の無様な姿と懇願に、焦ったのは白夜の方であった。
それこそ一般の女性の様に、愛華の妊娠を嬉しい事だと思った白夜は、愛華の拒絶と嫌悪と後悔の意味を理解しきれず、また愛華の腹を蹴るなど出来るわけもないのだ。
白夜はそっとズボンから愛華の手を離させ、自分も愛華と同じ目線になるように床にしゃがむと、愛華の頭を撫でながらゆっくりと言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫だから、きっと育てられるから、君と君のお腹の子を蹴る事なんて私には出来ないよ。」
しかし愛華は泣く事をやめず、泣きやむどころか一層大きな声で酷く泣きだしてしまった。
それを見る白夜が、本当にどうすればいいのだろう、と焦っていると、愛華はゆっくり顔を上げた。
そして白夜が、あぁやっと分かってくれたのかな、と思った時、
「どうして!?」
愛華は泣き声混じりに、理不尽な怒りを白夜へぶつけてきた。
白夜は驚いてひゅっと息を飲む。
愛華は他に聞こえているかもしれないなどという事はもはや思い浮ばないのか、この部屋の出入り口の扉があいている事にも構わず叫び散らす。
「どうして!? 私には要らないのよこんなもの!! だから早く貴方が流して!! 全部無かった事になるぐらい早く!! ねぇお願いよ!!」
それだけ叫び散らすと愛華は顔や髪が汚れる事も構わず床に倒れ込み、わんわんと大きな声で泣き続ける。
白夜の脚に縋りつくことすらできなくなり、その場に完全に崩れ落ちた愛華を見て、白夜はもはや言葉を失っていた。
床に頭をつけてすすり泣く愛華は、白夜がこれまで見てきたどんな愛華よりも弱く、本当に心の底から後悔を感じているように見える。
実際、後悔を感じているのだろう。
プライドの高い愛華は自分が自分の過ち――避妊を拒んだ事によって、巷に溢れる浅はかな女達と同じになってしまった事を認めきれないのだ。
「嫌よこんなの、私はこんな事、望んでないのよ……!!」
床に倒れ込むようにして泣き続ける愛華を、白夜は黙って見守ることしかできなかった。
陣痛の始まった愛華の入った部屋の前で、椅子に座って待つ白夜は、久しぶりにそんな事を思い出していた。
そして、あの後愛華を説得して、子供を生かす方向で歩む事になるまでに大量の時間と労力を費やした事と、愛華は子供を生かす事にこそ了承したものの、その後も子供の為を思った行動は一つもとらなかった事も思い出す。
白夜はあの後、愛華の中の新しい命がこの基地の中でもできる限り健康に育つように、様々な工夫を凝らそうとしていた。
食生活の管理に始まり、Dirty Bloodのトップとしての活動の縮小、そして一般の母親はどうやって妊娠中を過ごしているのかの調査をし、それらの実践を愛華に持ちかけたりもした。
しかし愛華はそれらを全て、私には必要ない、と言って跳ね退け、今までと寸分変わらぬ生活を続けた。
いやむしろ、Dirty Bloodトップとしての活動は一層激しくなったと思う。
愛華は本当に、自分の中の新しい命に愛着など持っておらず、むしろ流せるものなら流してしまいたいと思っているであろうことを、白夜はその生活の中で思い知らされた。
本当に、愛華は子供を欲する気など微塵もなかったのであろう、それを思って、白夜は大きく溜息を吐く。
と、その時だった、
「あぎゃあ、あぎゃあ……」
愛華のいる部屋の中から、赤子の泣く声が微かに漏れ、その声が白夜の耳に届いたのは。
白夜は驚いて椅子から立ち上がり、部屋の出入り口の扉の前に立った。
愛華は無事なのか、赤子は健康なのか、そんな普通の父親のような思考が白夜の脳裏を駆け抜ける。
白夜は落ち着く為に一度深呼吸をしてから、扉の横に取り付けられたカードリーダーに自分のカードを通し、扉を開けた。
すると部屋の中には、即席の分娩台の上で出産を終えて疲れ果てた愛華と、それを手伝う為に集められた元看護婦や元医師の団員が見える。
そして、
「あ……あれは……」
愛華から愛華から随分と離れた部屋の隅に置かれた透明な箱、その中に“それ”は居た。
ぎゃあぎゃあと泣くその声は、明らかに赤子であり、白夜と愛華の子供である。
それを確認した白夜はまず、ぐったりとして荒い息を繰り返している愛華の元へ駆け寄った。
「愛華!」
駆け寄って名前を呼ぶと、愛華はゆっくりと白夜に振り向き、その顔を見た。
白夜は愛華にしっかり意識がある事を確認して、安堵したと言いたげな笑顔を見せる。
しかし愛華は数秒後にはその顔を反対側へと逸らし、白夜から視線をそむけてしまった。
白夜にはその意味が分からず、周囲にいた元看護婦の団員に困ったような顔を向ける。
「あの、愛華は何か……」
「いえ、母体に問題は有りませんよ、自然分娩ですし。子供にも問題は有りません。奇跡なぐらい至って健康ですよ。」
元看護婦の団員の言葉を聴いて白夜はとりあえずホッと胸を撫で下ろしたが、それならば何故愛華は自分から顔をそむけたのだろうかと疑問に思う。
自分も子供も健康なら何も心配など要らない、自分から顔をそむける理由など無いのでは? というのが白夜の考えだった。
愛華が顔をそむけた意味が気になる白夜は、愛華にそれを問いかける。
「愛華、君も子供も健康なんだってね、良かったよ。でも、どうして顔をそむけるんだい?」
白夜が丁寧に訊くと、愛華は僅かに何かの言葉を口にした。
「し……なら……た」
それが上手く聴き取れなかった白夜は首をかしげ、もう一度愛華に問いかける。
「愛華? どうかしたのかい?」
白夜が再び問いかけると、愛華はその問いかけに対して、白夜には到底信じられない、しかしある意味では容易く信じられる衝撃の一言を口にした。
「死産なら、良かったのに……。」
その一瞬、白夜には愛華が何を言っているのかが理解しきれなくなってしまった。
いや、理解自体はできたのかもしれない、事実愛華はこの子供の誕生を前々から全く望んでいなかったことを白夜は知っているのだから。
だから、出来なかったのは理解ではない、納得だ。
愛華の一言に納得しきれなかった白夜は呆然として愛華の後頭部を見詰める。
すると愛華はやがて一度は逸らした視線をもう一度白夜に向け、涙と汗に濡れた顔で再度その言葉を口にした。
まるで、白夜を呪うように。
「死産なら、良かったのよ……。」
その言葉に白夜は改めて愕然とし、目を見開く。
分かっていた、愛華が子供の存在を望んでいなかった事は分かっていたが、生まれた後でさえそんな言葉を聴く事になるなど、白夜は信じたくなかったのだ。
そして白夜は何か助けを求めるように、周囲の元看護婦の団員達に目を向けるが、彼女達は何か困ったような顔で白夜から視線を逸らした。
彼女達はおそらく出産前と出産中に、愛華から子供の誕生を呪う言葉を聞かされていたのだろう。
部屋には赤子の泣き声だけが木霊する。
白夜はゆっくりと背後に振り返り、愛華から遠く離れた所に置かれた我が子の入った透明なケースに視線を移した。
保育器とはまた違う、水槽のような透明のケースの中に毛布やタオルなどは無しに捨てるように置かれた我が子を見て、白夜は更に言葉を失くす。
何故、あんな冷たそうなケースの中に単に入れられただけなのだろう、と白夜が困惑していると、それを察したのか、白夜の背後で分娩台の上の愛華が言葉を発した。
「“それ”に、温かみは要らない……。」
その言葉で、あの子供をあの冷たそうなケースの中に入れて自分から遠ざけたのは愛華の意思だと、白夜は知った。
そして、愛華はそんなにも子供の誕生を呪っていたのかと白夜は改めて知り、その呪いに悲しみを覚えた。
本来ならば、本来の母親なら今頃子供を抱いて喜びに浸っている頃だろうというのに、愛華は。
それならせめて、自分があの子供の父親になろう、愛を与える存在になろう、そう思って白夜は赤子の入った冷たいケースに向けて歩みを始めたが、その瞬間、
「“それ”に近付かないで!!」
背後で愛華の怒号が聞こえ、白夜は驚いて足を止めた。
振り返って愛華を見ると、愛華は怒りに顔を歪めて白夜を睨みつけている。
その必死さ溢れる形相に白夜は恐れをなして数歩後ずさったが、それでも何とか愛華から視線を外すことだけは我慢して問いかける。
「どうして……?」
すると愛華は憤怒の形相を保ったまま声を荒らげて言った。
「言ったでしょう!? “それ”に温かみは要らない!! ……貴方はきっとそれを抱きあげて自分をパパだとでも言う気なんでしょうけど、私はそんな事認めないわ!! だって、私は……そんな“物”のママなんかじゃないもの!! “それ”は人間じゃないもの!!」
「人間じゃないって……」
一体愛華は何を言っているのだろう、と白夜は思った。
愛華が言う“それ”は白夜から見て明らかに健康な人間の赤子で、決して人間でないなどと言う事はない。
それなのに愛華は“それ”を人間でないと言い、“それ”に温かみ――愛情は要らないと言い、何より“それ”――“赤子”をまるで者ではなく“物”であるかのように扱った。
其処に一体どんな考えが、どんな想いが詰まっているというのか、白夜はその意図を読みきる事が出来ず困惑する。
「……愛華、それなら私は、一体どうしたらいいんだい?」
困惑した白夜は少しでも愛華の意図を知ろうとして、愛華に直接問いかけた。
すると愛華は憤怒の形相を解き、僅かに落ち着きを取り戻した顔を見せ、
「……“それ”には何もしないで。」
と答えた。
白夜は正直反論したい所もあったが、今の愛華を刺激することは避けたいと思い、愛華に言われた通り赤子には何もしない事にして、透明なケースから離れ、愛華の元へ戻る。
そして白夜は愛華を落ち着かせようと思い、分娩台からずり落ちそうになっている愛華の左手をそっと握った。
出産時の苦痛によりその左手はやや汗ばんでいたが、白夜はそれを気にせず愛華の左手を自分の両手で包み込むように握る。
「わかった、今は何もしないよ……だから落ち着いてね、大丈夫だからね、愛華。」
後に白夜は、この時愛華の言う通りにしたのは失敗だったのかもしれないと悟るのだが、それはまだ先の話である。
とにかくこの時の白夜は、何も分からない赤子よりも、何もかもを知っていて自分を責める愛華を慰めておきたかったのだ。
白夜が愛華の左手を両手で優しく撫でると、愛華はようやく落ち着いたような、少しだけホッとした様な表情を見せ、やがて薄っすらと微笑して見せた。
そして、愛華の左手を下から支える白夜の左手を握るように手に僅かな力を入れる。
それを感じて白夜は、嗚呼自分の想いはちゃんと愛華に通じているのだ、と、愛華と自分の関係を改めて強く感じたのだった。
赤子を、置いてけぼりにして。
赤子は生まれてからしばらくの内に必要量の愛情を感じなければ、その先一生ほかの個体との愛を育む事はできなくなるというのに。
しかし、この時の白夜はそんな未来など想像してもみなかったのだ。
後にその赤子は“存在しない”という意味を込めて、“No.0(ナンバーゼロ)”と呼ばれるようになる。
そしてその赤子が青く綺麗な眼の色を捨てさせられ、血のような瞳と共に殺人鬼Search=Darknessとして社会に名を残すのは――。
End.
ある年の十二月二十五日、時刻は午後九時四十五分頃。
白夜はDirty Blood本部の中にある一室の前で椅子に座り、ある瞬間を待っていた。
今日は、愛華の出産予定日である。
さかのぼれば約十ヶ月ほど前、白夜は愛華の懇願に圧されて性的な交わりを許可した、その一件が今につながっている事を、白夜は酷く複雑な想いで記憶している。
それは交わりを交わしてから約三週間後の事だった。
白夜がいつもの通り自室で、Dirty Bloodの功績や光闇及び花道グループの施設の資料を読み込んでいると、自室の扉が急に開いた。
それがあまりにも乱暴な音だったので、白夜は何かと思って顔を上げ、扉の方へ視線を向けて来訪者が誰なのかを確かめる。
するとそこには、長い黒髪が特徴的な女性科学者が一人普段通りの姿で立っていた。
「あ。愛華。」
それは白夜がこの世で一番大切に、愛しく思う女性で、白夜は愛華の訪問を純粋に喜び、笑顔を見せると同時に手を振って見せた。
しかしおかしなことに、普段なら同じように手を振って微笑み返してくれる愛華は、今日は何故かそれをしてくれない。
それどころか愛華は、右手に何か小さく棒状のものを持ったまま、俯いて立ちつくしている。
白夜は愛華の様子を不審に思い、もう一度名前を呼んだ。
「愛華? どうしたの?」
すると愛華は俯いたまま白夜の自室の中に入り、白夜が腰かけていたソファーの前まで歩いてきた。
そこで白夜はようやく、愛華が何か細い棒状のものを手にしている事と、その顔が涙に濡れている事に気がついた。
一体何があったのかと驚きの表情を見せる白夜に、愛華は告げる。
「私……妊娠した、みたいなの……。」
その言葉に一瞬白夜の時間が止まる。
今愛華は何と言った? 妊娠、したといったのか? それを理解して再び時間が動き出した時、白夜は驚きと同時に僅かな喜びを感じていた。
Dirty Bloodを設立することで愛華と共に生きる事が叶っただけでなく、まさか子供をもつことができるなんて、と、白夜は自分が今や犯罪組織のリーダーであることも忘れて純粋に喜んだのだ。
思わずそれまで読んでいた資料を投げ捨てて白夜はソファーから立ちあがり、愛華の肩を掴む。
「本当!? 本当なの!?」
とても嬉しそうな笑顔で愛華の肩を掴む白夜に、愛華は何も言おうとしなかった。
これには白夜も何かがおかしいという違和感を感じ、改めて愛華の顔を覗きこむ。
そして、そこで愛華がすすり泣いている事に気付いた時、白夜の喜びムードはさぁっと静かに引いて行くのであった。
愛華は一体何を悲しんでいるのだろう、それを疑問に思った白夜は愛華の名前を読んで問いかける。
しかし、
「愛華? どうし」
「なんで貴方はそんなに嬉しそうなの!?」
その問いかけは愛華の突然の絶叫にも似た発言によって遮られ、白夜は吃驚として言葉を途中で止めざるをえなくなってしまった。
また、絶叫した愛華は自分の肩から白夜の両手を振り払うと、右手に握っていた一本の棒――妊娠検査薬を白夜に突き付けて、叫ぶ。
「こんな、私、こんなの望んでないわ! だって育てられもしないのに! 育てる気も無いのに! これじゃあ私、計画性の欠片も無いただの馬鹿女じゃない!」
そう叫んだ後に愛華は足から力が抜けたのか、その場に崩れ落ちるように座り込み、白夜の足に縋って泣きだした。
右手は妊娠検査薬と共に白夜の黒いズボンを握りしめ、左手は自身の下腹部を押さえている。
そして愛華はいもしない神に縋るかのように、まるで性交を懇願したあの時のように、白夜に懇願するのだ。
「ねぇ白夜、蹴って。私のこの無様な腹を蹴ってよ! 蹴って、殴って、さっさと流してよぉぉぉお!!」
一般の女性なら例え育てられる環境が無かろうと喜ぶであろう妊娠に、愛華は驚くほどの拒絶と嫌悪、後悔を感じている。
こんなのは嘘だ、嘘であってほしい、現実だと思いたくない、そう思う愛華はまるでその事実を消そうとするように、白夜の脚に縋って、繰り返す。
「蹴って、蹴って、早く蹴って頂戴、お願いよ、白夜ぁ……」
あの誇りとプライド高き女性科学者であった愛華の無様な姿と懇願に、焦ったのは白夜の方であった。
それこそ一般の女性の様に、愛華の妊娠を嬉しい事だと思った白夜は、愛華の拒絶と嫌悪と後悔の意味を理解しきれず、また愛華の腹を蹴るなど出来るわけもないのだ。
白夜はそっとズボンから愛華の手を離させ、自分も愛華と同じ目線になるように床にしゃがむと、愛華の頭を撫でながらゆっくりと言い聞かせる。
「大丈夫、大丈夫だから、きっと育てられるから、君と君のお腹の子を蹴る事なんて私には出来ないよ。」
しかし愛華は泣く事をやめず、泣きやむどころか一層大きな声で酷く泣きだしてしまった。
それを見る白夜が、本当にどうすればいいのだろう、と焦っていると、愛華はゆっくり顔を上げた。
そして白夜が、あぁやっと分かってくれたのかな、と思った時、
「どうして!?」
愛華は泣き声混じりに、理不尽な怒りを白夜へぶつけてきた。
白夜は驚いてひゅっと息を飲む。
愛華は他に聞こえているかもしれないなどという事はもはや思い浮ばないのか、この部屋の出入り口の扉があいている事にも構わず叫び散らす。
「どうして!? 私には要らないのよこんなもの!! だから早く貴方が流して!! 全部無かった事になるぐらい早く!! ねぇお願いよ!!」
それだけ叫び散らすと愛華は顔や髪が汚れる事も構わず床に倒れ込み、わんわんと大きな声で泣き続ける。
白夜の脚に縋りつくことすらできなくなり、その場に完全に崩れ落ちた愛華を見て、白夜はもはや言葉を失っていた。
床に頭をつけてすすり泣く愛華は、白夜がこれまで見てきたどんな愛華よりも弱く、本当に心の底から後悔を感じているように見える。
実際、後悔を感じているのだろう。
プライドの高い愛華は自分が自分の過ち――避妊を拒んだ事によって、巷に溢れる浅はかな女達と同じになってしまった事を認めきれないのだ。
「嫌よこんなの、私はこんな事、望んでないのよ……!!」
床に倒れ込むようにして泣き続ける愛華を、白夜は黙って見守ることしかできなかった。
陣痛の始まった愛華の入った部屋の前で、椅子に座って待つ白夜は、久しぶりにそんな事を思い出していた。
そして、あの後愛華を説得して、子供を生かす方向で歩む事になるまでに大量の時間と労力を費やした事と、愛華は子供を生かす事にこそ了承したものの、その後も子供の為を思った行動は一つもとらなかった事も思い出す。
白夜はあの後、愛華の中の新しい命がこの基地の中でもできる限り健康に育つように、様々な工夫を凝らそうとしていた。
食生活の管理に始まり、Dirty Bloodのトップとしての活動の縮小、そして一般の母親はどうやって妊娠中を過ごしているのかの調査をし、それらの実践を愛華に持ちかけたりもした。
しかし愛華はそれらを全て、私には必要ない、と言って跳ね退け、今までと寸分変わらぬ生活を続けた。
いやむしろ、Dirty Bloodトップとしての活動は一層激しくなったと思う。
愛華は本当に、自分の中の新しい命に愛着など持っておらず、むしろ流せるものなら流してしまいたいと思っているであろうことを、白夜はその生活の中で思い知らされた。
本当に、愛華は子供を欲する気など微塵もなかったのであろう、それを思って、白夜は大きく溜息を吐く。
と、その時だった、
「あぎゃあ、あぎゃあ……」
愛華のいる部屋の中から、赤子の泣く声が微かに漏れ、その声が白夜の耳に届いたのは。
白夜は驚いて椅子から立ち上がり、部屋の出入り口の扉の前に立った。
愛華は無事なのか、赤子は健康なのか、そんな普通の父親のような思考が白夜の脳裏を駆け抜ける。
白夜は落ち着く為に一度深呼吸をしてから、扉の横に取り付けられたカードリーダーに自分のカードを通し、扉を開けた。
すると部屋の中には、即席の分娩台の上で出産を終えて疲れ果てた愛華と、それを手伝う為に集められた元看護婦や元医師の団員が見える。
そして、
「あ……あれは……」
愛華から愛華から随分と離れた部屋の隅に置かれた透明な箱、その中に“それ”は居た。
ぎゃあぎゃあと泣くその声は、明らかに赤子であり、白夜と愛華の子供である。
それを確認した白夜はまず、ぐったりとして荒い息を繰り返している愛華の元へ駆け寄った。
「愛華!」
駆け寄って名前を呼ぶと、愛華はゆっくりと白夜に振り向き、その顔を見た。
白夜は愛華にしっかり意識がある事を確認して、安堵したと言いたげな笑顔を見せる。
しかし愛華は数秒後にはその顔を反対側へと逸らし、白夜から視線をそむけてしまった。
白夜にはその意味が分からず、周囲にいた元看護婦の団員に困ったような顔を向ける。
「あの、愛華は何か……」
「いえ、母体に問題は有りませんよ、自然分娩ですし。子供にも問題は有りません。奇跡なぐらい至って健康ですよ。」
元看護婦の団員の言葉を聴いて白夜はとりあえずホッと胸を撫で下ろしたが、それならば何故愛華は自分から顔をそむけたのだろうかと疑問に思う。
自分も子供も健康なら何も心配など要らない、自分から顔をそむける理由など無いのでは? というのが白夜の考えだった。
愛華が顔をそむけた意味が気になる白夜は、愛華にそれを問いかける。
「愛華、君も子供も健康なんだってね、良かったよ。でも、どうして顔をそむけるんだい?」
白夜が丁寧に訊くと、愛華は僅かに何かの言葉を口にした。
「し……なら……た」
それが上手く聴き取れなかった白夜は首をかしげ、もう一度愛華に問いかける。
「愛華? どうかしたのかい?」
白夜が再び問いかけると、愛華はその問いかけに対して、白夜には到底信じられない、しかしある意味では容易く信じられる衝撃の一言を口にした。
「死産なら、良かったのに……。」
その一瞬、白夜には愛華が何を言っているのかが理解しきれなくなってしまった。
いや、理解自体はできたのかもしれない、事実愛華はこの子供の誕生を前々から全く望んでいなかったことを白夜は知っているのだから。
だから、出来なかったのは理解ではない、納得だ。
愛華の一言に納得しきれなかった白夜は呆然として愛華の後頭部を見詰める。
すると愛華はやがて一度は逸らした視線をもう一度白夜に向け、涙と汗に濡れた顔で再度その言葉を口にした。
まるで、白夜を呪うように。
「死産なら、良かったのよ……。」
その言葉に白夜は改めて愕然とし、目を見開く。
分かっていた、愛華が子供の存在を望んでいなかった事は分かっていたが、生まれた後でさえそんな言葉を聴く事になるなど、白夜は信じたくなかったのだ。
そして白夜は何か助けを求めるように、周囲の元看護婦の団員達に目を向けるが、彼女達は何か困ったような顔で白夜から視線を逸らした。
彼女達はおそらく出産前と出産中に、愛華から子供の誕生を呪う言葉を聞かされていたのだろう。
部屋には赤子の泣き声だけが木霊する。
白夜はゆっくりと背後に振り返り、愛華から遠く離れた所に置かれた我が子の入った透明なケースに視線を移した。
保育器とはまた違う、水槽のような透明のケースの中に毛布やタオルなどは無しに捨てるように置かれた我が子を見て、白夜は更に言葉を失くす。
何故、あんな冷たそうなケースの中に単に入れられただけなのだろう、と白夜が困惑していると、それを察したのか、白夜の背後で分娩台の上の愛華が言葉を発した。
「“それ”に、温かみは要らない……。」
その言葉で、あの子供をあの冷たそうなケースの中に入れて自分から遠ざけたのは愛華の意思だと、白夜は知った。
そして、愛華はそんなにも子供の誕生を呪っていたのかと白夜は改めて知り、その呪いに悲しみを覚えた。
本来ならば、本来の母親なら今頃子供を抱いて喜びに浸っている頃だろうというのに、愛華は。
それならせめて、自分があの子供の父親になろう、愛を与える存在になろう、そう思って白夜は赤子の入った冷たいケースに向けて歩みを始めたが、その瞬間、
「“それ”に近付かないで!!」
背後で愛華の怒号が聞こえ、白夜は驚いて足を止めた。
振り返って愛華を見ると、愛華は怒りに顔を歪めて白夜を睨みつけている。
その必死さ溢れる形相に白夜は恐れをなして数歩後ずさったが、それでも何とか愛華から視線を外すことだけは我慢して問いかける。
「どうして……?」
すると愛華は憤怒の形相を保ったまま声を荒らげて言った。
「言ったでしょう!? “それ”に温かみは要らない!! ……貴方はきっとそれを抱きあげて自分をパパだとでも言う気なんでしょうけど、私はそんな事認めないわ!! だって、私は……そんな“物”のママなんかじゃないもの!! “それ”は人間じゃないもの!!」
「人間じゃないって……」
一体愛華は何を言っているのだろう、と白夜は思った。
愛華が言う“それ”は白夜から見て明らかに健康な人間の赤子で、決して人間でないなどと言う事はない。
それなのに愛華は“それ”を人間でないと言い、“それ”に温かみ――愛情は要らないと言い、何より“それ”――“赤子”をまるで者ではなく“物”であるかのように扱った。
其処に一体どんな考えが、どんな想いが詰まっているというのか、白夜はその意図を読みきる事が出来ず困惑する。
「……愛華、それなら私は、一体どうしたらいいんだい?」
困惑した白夜は少しでも愛華の意図を知ろうとして、愛華に直接問いかけた。
すると愛華は憤怒の形相を解き、僅かに落ち着きを取り戻した顔を見せ、
「……“それ”には何もしないで。」
と答えた。
白夜は正直反論したい所もあったが、今の愛華を刺激することは避けたいと思い、愛華に言われた通り赤子には何もしない事にして、透明なケースから離れ、愛華の元へ戻る。
そして白夜は愛華を落ち着かせようと思い、分娩台からずり落ちそうになっている愛華の左手をそっと握った。
出産時の苦痛によりその左手はやや汗ばんでいたが、白夜はそれを気にせず愛華の左手を自分の両手で包み込むように握る。
「わかった、今は何もしないよ……だから落ち着いてね、大丈夫だからね、愛華。」
後に白夜は、この時愛華の言う通りにしたのは失敗だったのかもしれないと悟るのだが、それはまだ先の話である。
とにかくこの時の白夜は、何も分からない赤子よりも、何もかもを知っていて自分を責める愛華を慰めておきたかったのだ。
白夜が愛華の左手を両手で優しく撫でると、愛華はようやく落ち着いたような、少しだけホッとした様な表情を見せ、やがて薄っすらと微笑して見せた。
そして、愛華の左手を下から支える白夜の左手を握るように手に僅かな力を入れる。
それを感じて白夜は、嗚呼自分の想いはちゃんと愛華に通じているのだ、と、愛華と自分の関係を改めて強く感じたのだった。
赤子を、置いてけぼりにして。
赤子は生まれてからしばらくの内に必要量の愛情を感じなければ、その先一生ほかの個体との愛を育む事はできなくなるというのに。
しかし、この時の白夜はそんな未来など想像してもみなかったのだ。
後にその赤子は“存在しない”という意味を込めて、“No.0(ナンバーゼロ)”と呼ばれるようになる。
そしてその赤子が青く綺麗な眼の色を捨てさせられ、血のような瞳と共に殺人鬼Search=Darknessとして社会に名を残すのは――。
End.
1/1ページ