短編“未満”小説『それは恐れか、願望か』

【それは恐れか、願望か】


目の前に、鳩が居た。
近所の公園や道路の端で見かけるような、灰色の鳩が居た。
デパートのような形をした、白く明るい建物のその中に立つ、“自分”の視線よりも幾ばくか下に、鳩が居た。
“自分”の足元には階段があり、その階段の下に、鳩が居た。

周囲に人は居ない。
階段の下からこちらを見上げる鳩を見て、ある願望が脳裏を過る。

――あの鳩を、攻撃してみたい。

“彼”は、周囲をもう一度見回した。
やはり周囲に人は、人間は、他人の視線は無い。
あるのは白い壁の階段と、灰色の鳩が一羽だけだ。
今なら誰も見ていない、今なら誰にも知られない、そんな考えが酷く自然に浮かび上がってくる。
しかし、それでもまだ“彼”は躊躇し、その手をあげずにいた。

――いや、そんな事をしてはいけない。

不穏な願望と一般的な理性と、その間で揺れる“彼”の葛藤を知らないのか、灰色の鳩は公園でよく見るような動きで階段を上り、“彼”の近くへと迫ってきた。
特に悪意は無いが善意も無い、しかし確実に近寄ってくる灰色の鳩に対し、“彼”は今までの葛藤とはやや関係無く、ほぼ反射的に左腕を振るい、その鳩を階段の下の硬い床へと叩き落した。
灰色の鳩が、硬い床へと落ちる。
それを見た“彼”は、今“自分”が行った、明らかに一線を越えている行動――生き物への暴力を、瞬時に悔やんだ。
これがいけない事だという事を、“彼”は熟知していた、そのはずなのに、今、灰色の鳩は“彼”の手で、“彼”の手に振り払われて、“彼”の手に叩き落されて、その結果硬い床に落ちたのだ。
それを見て“彼”は思う、これでこの鳩は“自分”への恐怖を持ち、逃げ去ることだろうと。
そして、もしかしたら床に落ちた衝撃で死んでしまったかもしれないとも考え、善人らしくない行動を取ってしまったことへの罪悪感が“彼”の中に芽生えた。

しかし、“彼”が鳩への謝罪を思い浮かべる前に、鳩は硬い床の上で何事も無かったかの様に起き上り始めた。
鳩は、死んではいなかったのだ。

鳩が死んでいない、それ自体は別段驚く必要が無いことで、むしろ“彼”は多少の安堵すら感じていた。
良かった、“自分”はあの鳩を殺してはいなかった、動物を殺してはいなかったのだ、と胸を撫で下ろした。
だが、その直後に鳩が取った行動で、“彼”はそれらの安心を吹き飛ばされることとなる。

鳩が、再び、“彼”へと近付いてきたのだ。

“彼”によって硬い床にたたきつけられた、つまりは“彼”によって傷付けられた、虐げられた鳩が、再び“彼”の元へと足を進め始めたのだ。
予想外の展開に気が動転した“彼”は再び、灰色の鳩へ左腕を振るい、鳩の身体を床に叩き落した。
それでも鳩は死なず、床の上で体勢を立て直すと、何がどうなっているのか分からず混乱する“彼”の元へと向かって進んで来る。

どうして。
どうしてこの鳩は、自身を虐げた人間に対して近付こうとする?

何度床に叩き落としても、鳩は“彼”への歩みを止めない。
そして、鳩が“彼”への歩みを進めるたびに、“彼”はそれを叩き落して――。


「……っと……ん、ね……とく……! “熱斗”くん! 朝だよ! というか、もうお昼だよ!!」

何処に存在するのかはおろか、何と言う名前で何を売っているのか、それすら分からないデパートが、視界から遠のいていく。
そして“彼”は、聞きなれた相棒の声により、現実へと意識を引き上げられていった。
薄っすらと開いた目から見える世界は白く大きな建物などではなく、もう十年以上使っている見なれた自室になっている。
ゆっくりと上半身を起こして周囲を見回すと、パソコンの置かれた机の上に、データで出来た相棒の姿を確認して、“彼”はようやく事態を理解した。

あの白いデパートと灰色の鳩は、夢の中の存在であったのだと。

しっかりとした現実の世界で、相棒のやや不機嫌そうな声がする。

「もう、休みだからってダラダラし過ぎだよ! ほら、時計見て! もう午後十二時五分なんだからね?」

机の上にパソコンと共に置かれたPET用の充電器、その充電器に立てたままのPET、PETの横に立つホログラム化された相棒――ロックマンは、自分の隣に更に立体映像で画面を増やし、そこに時刻をデジタル時計の形で表示して、“熱斗”に早く目を覚ますように喚き立てていた。
どうやら、ロックマンは熱斗がまだ夢から覚めきっていないと思っているらしく、まるで目覚まし時計のように大きく、力強い声で熱斗に呼びかけ続けている。
確かに、上半身を起こしたとはいえ、それ以上の反応を何も見せないままでじっとロックマンの姿を凝視している熱斗は、寝ぼけ眼というにふさわしく見えるかも知れない。
しかし実際は、熱斗の身体からはもう眠気は去っていて、今の熱斗にまとわりつく感覚、つまり熱斗が何の反応も出来ずにロックマンを凝視したまま固まっている理由は、ホッと胸を撫で下ろすような安堵と、ゾッと背筋が冷えるような恐怖なのだ。
眠気などという、穏やかなものではない。
本当なら大きく反論したいところだったが、その二つをロックマンに告げる勇気――覚悟は、熱斗には出せない。

「あ、あぁ、うん、もうそんな時間かぁ……」

少し迷った末に、熱斗は仕方なく無難な返事を考え、このまま放置しておくと何時までも大きな声で騒ぎたてそうなロックマンに向けて、なるべくしっかりした声で、しかし少し間の抜けた反応を見せた。
そして、ロックマンからは見えない位置、まだ掛け布団の中に入れたままの両腕を、自分の身体を抱くかのように組む。

白いデパートと灰色の鳩、そして、その鳩を床に叩きつけていた自分が夢の中でのものだと知って尚、熱斗はそれらへの驚愕と恐怖、そして不安を拭いきる事が出来ずにいた。

そして熱斗は、一体どうしてあんなにも暴力的な夢を見てしまったのだろうかと、その原因を考え始める。
他人が“ああしている”場面を遠くから見たという夢ならともかく、まさか自分が“そうしている”夢をみるなんて、どういうことだというのだろう、何が言いたいというのだろう、自分は、どうしてしまったというのだろう、という困惑、不安、そして自分への不信感が、熱斗の思考を支配し始めていた。
そしてふと、以前誰かが、夢は記憶を整理している時に見るものだと言っていた事や、夢には自分が酷く恐れているものが現れたり、自分が強く望んでいることが現れたりする事があると言っていた事を思い出した。
もしこの話が本当だとしたら、自分は一体どの話に当てはまるのだろうか。
記憶の整理や恐れている事ならいい、しかし……――。

「……熱斗くん? どうしたの?」

目覚めた時と同じように唐突に聞こえ始めたロックマンの声に、熱斗は混乱の中から引き上げられ、ハッとして自分の前方を見た。
そして、先ほどまで机の上にあるPETの横に立っていたはずのロックマンが、自分のすぐ近くの空中に立っている事に気付く。
先ほどよりも近くに来たロックマンのその表情は、不安とまではいかないものの、熱斗の様子を不思議に思い、少しだけ心配していると言いたげで、熱斗の内面を覗きこもうとしているように見える。
その瞳と視線があった瞬間、熱斗は、ドラマによくいる怖い刑事に尋問でも受けているかのような緊張を感じた。
思わず視線を逸らし、声を荒げる。

「な、何もねーよ! ってか、そんな目の前にきたらビビるだろ!?」
「え、あ……えっと、ごめん。でも熱斗くん、なんだか深刻な顔で悩んでたみたいだったから、つい……。」

突然声を荒げられて、普段なら反論したであろうロックマンも、今回ばかりはゆっくりと引きさがり、そのままPETの横へ戻って行った。
こちらを見られている事には変わりが無いとはいえ、覗きこむような視線から解放されて、熱斗は小さく安堵する。
嗚呼、本当に嫌な目覚め方だ、などという愚痴を内心で零しながら、ゆっくりとベッドを下りる。
そして、ロックマンには声をかけないまま、洗面所で顔を洗う為に自室を後にして、階段を下りはじめた。
それでも、あの映像はまだ、熱斗の中から消えてはいない。

人気の無いデパート、灰色の鳩、それを軽度とはいえど虐げた自分。

夢で見た視界、今の自分にとってはただの記憶の残滓と化した映像を思い出しながら、熱斗は、それは記憶か恐れであって、願望である事だけはあり得ない、あり得てはいけないのだと自分に言い聞かせた。
そうでなければ、今までの自分は、善意と正義で生きてきた自分はなんだったのかと、自分の存在が根底から揺るぎかねない、その恐怖が熱斗に、あの夢が自分の願望であるという説を否定させていた。
そう、あれは、そういった残酷で凄惨で悲惨な事件の話を聞き過ぎて、それを恐れている故の産物だ、そういう理由も、一応持っている。
だから自分は大丈夫、あの夢はただの偶然だ、気に病む様な事ではない、そう思いながらリビングを通過して、洗面台の前に立ち、汚れごと夢を洗い流すように顔を洗う。

――本当に?

一瞬、何処から聞こえたかも分からない、反対意見のようなものが脳裏をよぎった気がして、熱斗は手を止めた。
ふと顔を上げて見つめた先の鏡に映る自分が、一瞬、誰かと重なった気がしたが、熱斗はそれを振り払い、もう一度顔を水ですすぐ。
もう一度顔を上げて鏡を見た時にはもう、自分と誰かが重なったような感覚は無くなっていたが、それでも何か気分のすぐれない、重い不安を感じた熱斗は、すぐに鏡から視線を逸らし、そのまま洗面所を後にした。
そしてもう一度、自分に言い聞かせる。

――大丈夫、俺は、恐れている方だから。――

また反対意見の声が聞こえては嫌だと思った熱斗は、それ以降、その夢の意味を考える事をやめた。


End.
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