短編“未満”小説『冷静発狂 2.傍観より』
【冷静発狂 2.傍観より】
PETの外に広がる満の自室、その普段とは正反対の散らかった様子と、姿見と呼ばれる大きく重い鏡で自分の頭部を殴打しながら泣き顔で笑う満を見て、まさかこの歳になってこんな事をするなんて、とイツアーサ――Murderは思っている。
確かに満は悪い意味で子供のように純粋な人間だが、この歳になってこんな、十代前半のような不安定さは酷過ぎるのではないだろうか?
一瞬、そんな考えが浮かんだが、Murderはそれをすぐに内心で否定した後、訂正した。
――だから、満がオレのオペレーターなんじゃないか。――
と。
事の発端はおそらく、今日だけではなく、ここ数週間の疲労の蓄積だったのだろう。
ここ数週間、満は疲労の蓄積と回復のバランスが非常に悪い意味で狂っていた。
それが、満の持つキチガイめいた本性を隠す仮面の維持を不可能にして、その結果が、この、ちょっとした発狂だ。
多分明日か明後日にはマトモに話せる程度に回復してくれるのだろう、いや、そうして欲しいと願いながら、MurderはPETの中で小さく溜息を吐いた。
「ホント、なんでこうなるんだよっ……」
時刻は午前九時四十分頃、その時、Murderのオペレーター――藤咲 満は予想外の休日出勤に苛立ちながらその仕度を進めていた。
まだ部屋はそこそこ綺麗だが、ここ数週間まともな掃除をする時間が取れなかったせいで多少のゴミや使い終えた書類が既にいくらか床に散らばっているが、それでも机とベッド、本棚などは綺麗なのが、満の妙な几帳面さを証明しているように見える。
こんな真面目な人間が、実は、その辺の不良よりも酷い反社会性と感情の不安定さを抱えているなど、一体誰が想像するだろう?
今日の用事に必要な物を部屋の中からかき集めつつ、満は不満をもらし続ける。
「ねぇホント、こんなのナシだろ? ここ数週間ずっとこんななんだけどっ! こんなので出勤したって、効率ッ、ガタ落ちだ、よッ!」
そんなことをぼやいたところでこの急用が消える訳ではない、と言うことは分かっていたが、満は多少の悪態をつかずにはいられず、独り言のように今日のこの瞬間への文句を並べていた。
後になって考えれば、この普段よりも少し乱雑になった口調と音量の抑えが効いていない声は、満が無意識に発した最終警告だったのかもしれない。
それでもこの時、例え自分がそのことに触れてもこの出勤が無くなる訳ではないからどうにもならないと思っていたMurderはそのことにはあまり触れず、無難な返事だけを返していた。
「あぁ、まぁ、オレもそうは思うが……一応、満は社会人と言う事になってはいるから……。」
本当はもっと別の事を言うべきかもしれないが、その別の事が何なのか見当がつかなかったMurderの返答はどこか逃げ腰で、満のナビらしくない程普通の社会的で、模範的、そしてMurderである必要性が無いものだった。
やはり、後になって思うと、これが本当に無難だったかどうかはMurder自身よく分からない。
もしかしたら満はそんな、満が自分を納得させるための言い訳のような返答など求めておらず、ただ、少し慰めてほしかったのかもしれない。
この後満が酷い醜態を晒す、その姿を見たMurderはそう考え直すこととなる。
ともかく、Murderが自分を完全否定している訳ではない事はこの時の満にも分かっていたが、確かに“正直なところ、せめてMurderにはもう少し同情してほしかった”満は非情に不機嫌な顔をして、
「あっそう……イツアーサ、僕が万が一発狂でもしたら入院の手続きよろしくね。」
と、出勤用のカバンに書類や筆記用具を詰め込みながら軽く吐き捨てるように返してきた。
そうは言っても、入院するほどの発狂などする訳が無いのは満自身が一番よく分かっていただろう、とMurderは今でも思っているし、事実、この時の満も口先では発狂したらと言ったものの、自分に限って“本物”が来ることは無いだろうと思っていた。
そして実際、後々の騒ぎもおそらく本当の本物ではないだろう。
ただ、それによってMurderが藤咲 満という人間への認識を更新しなければならなくなったのは事実だが……それ以外のなんでもない、ただ、それだけのお話だ。
そうこうしているうちに、時刻は九時五十九分となっていて、満は部屋の壁の上部に取り付けた時計を見て本格的に焦った顔をし始めた。
家を出る予定は午前十時、しかしどう考えてもその時間ぴったりに出ることは出来ないであろう状況に満は非常に“悪い予感”を感じていたが、まだ“それでも耐えなければ”という意思も一応残っている。
……だからこそ、非常に嫌な予感がしていたとも言えるのだが。
元から、時間に遅れることや、仕事に必要な用品を忘れたまま出勤することが大嫌いな満だからこその、嫌な予感。
満は、自分の癖と限界を誰よりも深く知っている。
まだ鞄の準備すら終わっていない、自分の着ている服は昨日の就寝前に来ていた服のまま、でも急げばなんとか十時十五分ぐらいまでには――そんな事を考えつつ必死になっていた、その矢先、満の自室のドアが勝手に開けられた。
もしかしたらこれさえなければ……と言うのは後のMurderの希望的観測かもしれないが、実は、満自身も後で、いや、中途半端な発狂の中で考えたことである。
本当にそれだけであの事態を回避できたのかどうかは分からないし、此処でそれを回避したとしてもやはり何処かで同じ事態が起こったかもしれない。
ただ事実を挙げるなら、その時の満は“たったそれだけで冷静さを欠いてしまうほど疲弊していた”ということだろう。
ドアの隙間から顔を出したのは満の母親だ。
「満、十時だけど仕度は」
確かに今日は必ず会社に来いと言われていた、しかも母親まで連れて。
だから、母親がこうして、時間になっても自室を出ない息子の様子を見に来るのは普通のことだろう。
多分満も分かってはいた、むしろ分かっていたからこその“嫌な予感”で、分かっていたからこその屈辱と、悔しさと、自分にも相手にも理不尽な怒りが湧いたのだろう。
普段ならなんてことの無いであろうこの一言に、満がいきなり、切れた。
「あぁ!? 煩いなぁ!! 見たら分かるだろおお!?」
それは、此処数年は隠し通していた不安定な部分が悲しい程露になった怒鳴り声で、Murderは、いつもの満ではない、と思い、あまりの事態に引き攣った顔で背筋を伸ばして固まった。
ドアの隙間から顔を出す母親も苦い顔をしている。
「……えっと、十五分ぐらいなら、待てるから……ね?」
幸いなことに、この満の醜態に母親が切れ返すことは無く、少し苦い態度のままそう告げて静かに扉を閉じていった。
この時Murderは、とりあえず、最悪の事態は免れた、十五分もあれば満なら十分仕度を終えられる、今日は多分何とかなるだろう、と、安堵と共にPETの中から満に視線を向けた。
しかし、母親に嫌味の一つも言われなかったはずの満の様子がおかしい。
先ほどまで文句を言いながらも真面目に仕度を続けていた手が、全く動いていない。
そして、“満、時間が――”とMurderが言おうとした、まさにその時だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
満の絶叫が、部屋に響いたのは。
Murderは思う、そこに居たのは28歳の真面目な社会人でも、Dirty Bloodの二番目の殺人鬼でも無い、ただ、感情の押さえ方が分からなくなったり、押さえるだけの余裕を失くした、哀れな子供だった、と。
髪の毛を引っ張るように乱暴に頭を抱えて叫ぶ、その姿はどう見てもまともではなく、一種のキチガイだ。
「死ね!! 死ね!! 死ねえ゛え゛え゛え゛え゛え゛えええええ!!」
そう言えば数日前、満が“あんまり疲れちゃうと、死ねとか消えろみたいな表現しかできなくなるんだよね……”とぼやいていたっけ、などという少し場違いな考えがMurderの意識の中をよぎる。
あぁ、確かに最近の満は所謂リア充やDQNに対しての表現が少し過激だったなぁ、死ねばいいのに、とか、殺されたいのかって話、とか、死んでしまえ、とか。
そんな事を考えつづけながらただ満を見ていることしかできないMurderの前で、満は絶叫を続けながら、先ほどまで頭を抱えていたその両手で、今度は頭を殴打し始めた。
それでも腕には切り傷が一つもないのが満らしいような、そんなことは少院 秋斗でも足りるような、そもそも二人とも“本気で自殺の意思があるとは思えない”点では同じような、でも自己嫌悪が酷いのは少院のような、あぁでも今日は満も久しぶりに後でそっちに沈むかもしれないな、と、妙に冷静な考えがMurderの意識の中をひたすら流れていく。
満が過剰な程に深く息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いてを繰り返す音が聞こえる。
それが止んだと思うと今度は扇風機を床に投げつけて、近くにあった新品のコピー用紙の束も床に投げつけて、CDプレーヤーは机の角に何度かガンガンと叩きつけて、その間にも訳の分からない絶叫が続いている。
顔は涙でぬれていて、あぁ、数日前もそうやって泣いて、目の下の皮膚が荒れてしまったと言っていたばかりじゃないかとMurderは思った。
「あ゛あ゛あ゛っ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
使い終わった書類の束も、そのほかの物を入れているケースも、満はとにかくほぼ全てを床に投げつけていた。
それでも満は以前言ってた、もう物や人に当たらないようにしないといけない、誰かに見せてもいけない、全て最後に、意義のある形にして見せつける以外は、駄目なのだと、そう言っていたのにと思うと、Murderの中には満を心配する気持ちよりも、何か残念な想いが強くなっていく。
いつの間にか、そこそこマトモだった部屋の中は酷く荒れて、まともな足の踏み場も無くなっている。
そんな部屋の残りのスペース、中央ぐらいの場所で、満は、近くにあった姿見と呼ばれる大型の鏡を抱え、その平面な部分で自分の頭を殴りつけ始めた。
ゴン、ゴン、ゴン、と鈍く固い音がする。
「あ゛っ!! あ゛っ!! あ゛っ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!!」
それでもこの瞬間、満はこんな訳のわからない事をやらかすと同時に“自分は何をしているのだろう”と非常に冷静な考えを残していた、その事実をMurderはまだ知らない。
やがて殴打の気力も失せてきたのか、鏡を動かす両手が止められた。
「……。」
無言だったのは、Murderか、それとも満か、両方か。
しばしの沈黙にMurderはなんだかんだで落ち着いてくれたのかもと多少の希望を感じたが、それは大きな間違いで、
「あはっ、あはは、あははははは、あっははは、あはははは、はははは、げほっ、あははっ、は、あははははははははははは」
涙で濡れた顔、掴んだせいでぐしゃぐしゃの髪型、殴る事をやめた後もまだ額の上に立てかけられている姿見、そして満はその場に座り込み俯いたまま、泣くべきところで笑いだした。
確かにアニメや漫画では、追い詰められた人間が泣けばいい場所で何故か狂ったように笑う、というのがよくあることだが、まさか自分のオペレーターがそんなことになるなんて、と、Murderはどうしようもない虚脱感を覚える。
何がそんなに楽しいのだろう、本当は泣きたいのではないのか、何故笑っているんだ、それではまるで、本当に、キチガイ、ではないか。
「はは、はっ、ははははは…っく、げほっ、ゴホッ、っう……うう……ふ、ふ、はは、あははは、ははははははは、あはははははっ」
やはり本当は泣きたいのだろう? と訊きたくなるぐらい、満の笑い声は泣き声も混ざっていた。
最初に泣いたせいで鼻と喉が少し詰まっているらしく、ところどころ咳の音や鼻をすする音が混ざっている。
それでもおかしな体勢のまま、満は延々と笑う。
その笑い声さえも絶えた頃、母親がもう一度部屋にやってきた。
「あら……えっと、今日は私だけで行ってくるから、ね。」
さすがの醜態に母親は満を出勤させる事を諦めたらしい。
それだけ言うと、やはり静かにドアが閉まる。
満はまだ、奇妙な体勢のままで動かない。
笑い声は止み、ところどころすすり泣く声が聞こえるだけになった頃、満はようやくマトモに戻り始めたのか、鏡を頭上から退かして、適当な場所へ倒して置いた。
そして、机の上のパソコンへ向かう。
そんな状態で一体何を? と思って表情が硬いMurderには目もくれず、満はキーボードを叩いている。
画面には一番初歩的な文章制作ソフトが開かれていて、打ち込まれる文字はこうだ。
『20XX/11/12
爆発の半面、酷く冷静。
たすけて
薬品は身体に良い
猫殺したい
人殺したい
もう終わった
死にたい
でもリストカットすらできない
笑えた
笑える
笑える
笑える大丈夫泣かないわ絵r食える』
やはりまだ冷静に操作できる程ではないらしく一部誤字が混ざっているが、満はそれを直さないまま保存を掛ける。
そしてパソコンの前を離れ、また床に座り込んで、しばしの放心――。
それを何度繰り返しただろう?
満がようやくマトモと言える程マトモになって、少し苦い顔でゆっくりと部屋の片づけを始めた時には、もう、午前が終わろうとしていた。
その後も、満の様子はあまりいいものではなかった、とMurderは思う。
落ち着いたと思ったら急に小さく泣きだしたり、親の呼び掛けにまともに答えなかったりと、結構散々な様子だった、と、元々善良に出来ていないMurderすら思ってしまう、そんなものだった。
それでも、夕方になった頃にはベッドの上から、“視界が回る……”とMurderに訴える事ができる程度にはなった……と、言うべきなのだろうか。
Murderは思う。
一番苦しんだのはおそらく満だろうけれど、悲しい事にそれは自業自得で、視界の回転も満が自分の頭を殴打した軽い後遺症と考えるなら完全な自業自得で、そもそも社会的に言ってしまえば普通の人間の生活に耐えられなかった満が悪い訳で、親に当たるなど褒められたことではなくて――。
けど、例えそう思っても、自分はそうは言ってはいけない。
そういう人間でなければ自分のオペレーターになることは出来なかっただろうし、それに、自己嫌悪にも他者嫌悪にも救いが無いと言うのなら、満が望むように思想を合わせることだけが、Murder.EXEにできる唯一のオペレーター孝行なのだろうから。
それでも自分のオペレーターが、藤咲 満が、人間として完成品ではない事は、今更否定が効かないのだけど。
しかし、だからこそ満は表向きは真面目でいい顔をしつつも裏側ではMurderのオペレーターをやっているのだろうと思うと、Murderには何処かやりきれない、絡まった糸のような不快感と不安が残るのだった。
End.
PETの外に広がる満の自室、その普段とは正反対の散らかった様子と、姿見と呼ばれる大きく重い鏡で自分の頭部を殴打しながら泣き顔で笑う満を見て、まさかこの歳になってこんな事をするなんて、とイツアーサ――Murderは思っている。
確かに満は悪い意味で子供のように純粋な人間だが、この歳になってこんな、十代前半のような不安定さは酷過ぎるのではないだろうか?
一瞬、そんな考えが浮かんだが、Murderはそれをすぐに内心で否定した後、訂正した。
――だから、満がオレのオペレーターなんじゃないか。――
と。
事の発端はおそらく、今日だけではなく、ここ数週間の疲労の蓄積だったのだろう。
ここ数週間、満は疲労の蓄積と回復のバランスが非常に悪い意味で狂っていた。
それが、満の持つキチガイめいた本性を隠す仮面の維持を不可能にして、その結果が、この、ちょっとした発狂だ。
多分明日か明後日にはマトモに話せる程度に回復してくれるのだろう、いや、そうして欲しいと願いながら、MurderはPETの中で小さく溜息を吐いた。
「ホント、なんでこうなるんだよっ……」
時刻は午前九時四十分頃、その時、Murderのオペレーター――藤咲 満は予想外の休日出勤に苛立ちながらその仕度を進めていた。
まだ部屋はそこそこ綺麗だが、ここ数週間まともな掃除をする時間が取れなかったせいで多少のゴミや使い終えた書類が既にいくらか床に散らばっているが、それでも机とベッド、本棚などは綺麗なのが、満の妙な几帳面さを証明しているように見える。
こんな真面目な人間が、実は、その辺の不良よりも酷い反社会性と感情の不安定さを抱えているなど、一体誰が想像するだろう?
今日の用事に必要な物を部屋の中からかき集めつつ、満は不満をもらし続ける。
「ねぇホント、こんなのナシだろ? ここ数週間ずっとこんななんだけどっ! こんなので出勤したって、効率ッ、ガタ落ちだ、よッ!」
そんなことをぼやいたところでこの急用が消える訳ではない、と言うことは分かっていたが、満は多少の悪態をつかずにはいられず、独り言のように今日のこの瞬間への文句を並べていた。
後になって考えれば、この普段よりも少し乱雑になった口調と音量の抑えが効いていない声は、満が無意識に発した最終警告だったのかもしれない。
それでもこの時、例え自分がそのことに触れてもこの出勤が無くなる訳ではないからどうにもならないと思っていたMurderはそのことにはあまり触れず、無難な返事だけを返していた。
「あぁ、まぁ、オレもそうは思うが……一応、満は社会人と言う事になってはいるから……。」
本当はもっと別の事を言うべきかもしれないが、その別の事が何なのか見当がつかなかったMurderの返答はどこか逃げ腰で、満のナビらしくない程普通の社会的で、模範的、そしてMurderである必要性が無いものだった。
やはり、後になって思うと、これが本当に無難だったかどうかはMurder自身よく分からない。
もしかしたら満はそんな、満が自分を納得させるための言い訳のような返答など求めておらず、ただ、少し慰めてほしかったのかもしれない。
この後満が酷い醜態を晒す、その姿を見たMurderはそう考え直すこととなる。
ともかく、Murderが自分を完全否定している訳ではない事はこの時の満にも分かっていたが、確かに“正直なところ、せめてMurderにはもう少し同情してほしかった”満は非情に不機嫌な顔をして、
「あっそう……イツアーサ、僕が万が一発狂でもしたら入院の手続きよろしくね。」
と、出勤用のカバンに書類や筆記用具を詰め込みながら軽く吐き捨てるように返してきた。
そうは言っても、入院するほどの発狂などする訳が無いのは満自身が一番よく分かっていただろう、とMurderは今でも思っているし、事実、この時の満も口先では発狂したらと言ったものの、自分に限って“本物”が来ることは無いだろうと思っていた。
そして実際、後々の騒ぎもおそらく本当の本物ではないだろう。
ただ、それによってMurderが藤咲 満という人間への認識を更新しなければならなくなったのは事実だが……それ以外のなんでもない、ただ、それだけのお話だ。
そうこうしているうちに、時刻は九時五十九分となっていて、満は部屋の壁の上部に取り付けた時計を見て本格的に焦った顔をし始めた。
家を出る予定は午前十時、しかしどう考えてもその時間ぴったりに出ることは出来ないであろう状況に満は非常に“悪い予感”を感じていたが、まだ“それでも耐えなければ”という意思も一応残っている。
……だからこそ、非常に嫌な予感がしていたとも言えるのだが。
元から、時間に遅れることや、仕事に必要な用品を忘れたまま出勤することが大嫌いな満だからこその、嫌な予感。
満は、自分の癖と限界を誰よりも深く知っている。
まだ鞄の準備すら終わっていない、自分の着ている服は昨日の就寝前に来ていた服のまま、でも急げばなんとか十時十五分ぐらいまでには――そんな事を考えつつ必死になっていた、その矢先、満の自室のドアが勝手に開けられた。
もしかしたらこれさえなければ……と言うのは後のMurderの希望的観測かもしれないが、実は、満自身も後で、いや、中途半端な発狂の中で考えたことである。
本当にそれだけであの事態を回避できたのかどうかは分からないし、此処でそれを回避したとしてもやはり何処かで同じ事態が起こったかもしれない。
ただ事実を挙げるなら、その時の満は“たったそれだけで冷静さを欠いてしまうほど疲弊していた”ということだろう。
ドアの隙間から顔を出したのは満の母親だ。
「満、十時だけど仕度は」
確かに今日は必ず会社に来いと言われていた、しかも母親まで連れて。
だから、母親がこうして、時間になっても自室を出ない息子の様子を見に来るのは普通のことだろう。
多分満も分かってはいた、むしろ分かっていたからこその“嫌な予感”で、分かっていたからこその屈辱と、悔しさと、自分にも相手にも理不尽な怒りが湧いたのだろう。
普段ならなんてことの無いであろうこの一言に、満がいきなり、切れた。
「あぁ!? 煩いなぁ!! 見たら分かるだろおお!?」
それは、此処数年は隠し通していた不安定な部分が悲しい程露になった怒鳴り声で、Murderは、いつもの満ではない、と思い、あまりの事態に引き攣った顔で背筋を伸ばして固まった。
ドアの隙間から顔を出す母親も苦い顔をしている。
「……えっと、十五分ぐらいなら、待てるから……ね?」
幸いなことに、この満の醜態に母親が切れ返すことは無く、少し苦い態度のままそう告げて静かに扉を閉じていった。
この時Murderは、とりあえず、最悪の事態は免れた、十五分もあれば満なら十分仕度を終えられる、今日は多分何とかなるだろう、と、安堵と共にPETの中から満に視線を向けた。
しかし、母親に嫌味の一つも言われなかったはずの満の様子がおかしい。
先ほどまで文句を言いながらも真面目に仕度を続けていた手が、全く動いていない。
そして、“満、時間が――”とMurderが言おうとした、まさにその時だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
満の絶叫が、部屋に響いたのは。
Murderは思う、そこに居たのは28歳の真面目な社会人でも、Dirty Bloodの二番目の殺人鬼でも無い、ただ、感情の押さえ方が分からなくなったり、押さえるだけの余裕を失くした、哀れな子供だった、と。
髪の毛を引っ張るように乱暴に頭を抱えて叫ぶ、その姿はどう見てもまともではなく、一種のキチガイだ。
「死ね!! 死ね!! 死ねえ゛え゛え゛え゛え゛え゛えええええ!!」
そう言えば数日前、満が“あんまり疲れちゃうと、死ねとか消えろみたいな表現しかできなくなるんだよね……”とぼやいていたっけ、などという少し場違いな考えがMurderの意識の中をよぎる。
あぁ、確かに最近の満は所謂リア充やDQNに対しての表現が少し過激だったなぁ、死ねばいいのに、とか、殺されたいのかって話、とか、死んでしまえ、とか。
そんな事を考えつづけながらただ満を見ていることしかできないMurderの前で、満は絶叫を続けながら、先ほどまで頭を抱えていたその両手で、今度は頭を殴打し始めた。
それでも腕には切り傷が一つもないのが満らしいような、そんなことは少院 秋斗でも足りるような、そもそも二人とも“本気で自殺の意思があるとは思えない”点では同じような、でも自己嫌悪が酷いのは少院のような、あぁでも今日は満も久しぶりに後でそっちに沈むかもしれないな、と、妙に冷静な考えがMurderの意識の中をひたすら流れていく。
満が過剰な程に深く息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いてを繰り返す音が聞こえる。
それが止んだと思うと今度は扇風機を床に投げつけて、近くにあった新品のコピー用紙の束も床に投げつけて、CDプレーヤーは机の角に何度かガンガンと叩きつけて、その間にも訳の分からない絶叫が続いている。
顔は涙でぬれていて、あぁ、数日前もそうやって泣いて、目の下の皮膚が荒れてしまったと言っていたばかりじゃないかとMurderは思った。
「あ゛あ゛あ゛っ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
使い終わった書類の束も、そのほかの物を入れているケースも、満はとにかくほぼ全てを床に投げつけていた。
それでも満は以前言ってた、もう物や人に当たらないようにしないといけない、誰かに見せてもいけない、全て最後に、意義のある形にして見せつける以外は、駄目なのだと、そう言っていたのにと思うと、Murderの中には満を心配する気持ちよりも、何か残念な想いが強くなっていく。
いつの間にか、そこそこマトモだった部屋の中は酷く荒れて、まともな足の踏み場も無くなっている。
そんな部屋の残りのスペース、中央ぐらいの場所で、満は、近くにあった姿見と呼ばれる大型の鏡を抱え、その平面な部分で自分の頭を殴りつけ始めた。
ゴン、ゴン、ゴン、と鈍く固い音がする。
「あ゛っ!! あ゛っ!! あ゛っ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!!」
それでもこの瞬間、満はこんな訳のわからない事をやらかすと同時に“自分は何をしているのだろう”と非常に冷静な考えを残していた、その事実をMurderはまだ知らない。
やがて殴打の気力も失せてきたのか、鏡を動かす両手が止められた。
「……。」
無言だったのは、Murderか、それとも満か、両方か。
しばしの沈黙にMurderはなんだかんだで落ち着いてくれたのかもと多少の希望を感じたが、それは大きな間違いで、
「あはっ、あはは、あははははは、あっははは、あはははは、はははは、げほっ、あははっ、は、あははははははははははは」
涙で濡れた顔、掴んだせいでぐしゃぐしゃの髪型、殴る事をやめた後もまだ額の上に立てかけられている姿見、そして満はその場に座り込み俯いたまま、泣くべきところで笑いだした。
確かにアニメや漫画では、追い詰められた人間が泣けばいい場所で何故か狂ったように笑う、というのがよくあることだが、まさか自分のオペレーターがそんなことになるなんて、と、Murderはどうしようもない虚脱感を覚える。
何がそんなに楽しいのだろう、本当は泣きたいのではないのか、何故笑っているんだ、それではまるで、本当に、キチガイ、ではないか。
「はは、はっ、ははははは…っく、げほっ、ゴホッ、っう……うう……ふ、ふ、はは、あははは、ははははははは、あはははははっ」
やはり本当は泣きたいのだろう? と訊きたくなるぐらい、満の笑い声は泣き声も混ざっていた。
最初に泣いたせいで鼻と喉が少し詰まっているらしく、ところどころ咳の音や鼻をすする音が混ざっている。
それでもおかしな体勢のまま、満は延々と笑う。
その笑い声さえも絶えた頃、母親がもう一度部屋にやってきた。
「あら……えっと、今日は私だけで行ってくるから、ね。」
さすがの醜態に母親は満を出勤させる事を諦めたらしい。
それだけ言うと、やはり静かにドアが閉まる。
満はまだ、奇妙な体勢のままで動かない。
笑い声は止み、ところどころすすり泣く声が聞こえるだけになった頃、満はようやくマトモに戻り始めたのか、鏡を頭上から退かして、適当な場所へ倒して置いた。
そして、机の上のパソコンへ向かう。
そんな状態で一体何を? と思って表情が硬いMurderには目もくれず、満はキーボードを叩いている。
画面には一番初歩的な文章制作ソフトが開かれていて、打ち込まれる文字はこうだ。
『20XX/11/12
爆発の半面、酷く冷静。
たすけて
薬品は身体に良い
猫殺したい
人殺したい
もう終わった
死にたい
でもリストカットすらできない
笑えた
笑える
笑える
笑える大丈夫泣かないわ絵r食える』
やはりまだ冷静に操作できる程ではないらしく一部誤字が混ざっているが、満はそれを直さないまま保存を掛ける。
そしてパソコンの前を離れ、また床に座り込んで、しばしの放心――。
それを何度繰り返しただろう?
満がようやくマトモと言える程マトモになって、少し苦い顔でゆっくりと部屋の片づけを始めた時には、もう、午前が終わろうとしていた。
その後も、満の様子はあまりいいものではなかった、とMurderは思う。
落ち着いたと思ったら急に小さく泣きだしたり、親の呼び掛けにまともに答えなかったりと、結構散々な様子だった、と、元々善良に出来ていないMurderすら思ってしまう、そんなものだった。
それでも、夕方になった頃にはベッドの上から、“視界が回る……”とMurderに訴える事ができる程度にはなった……と、言うべきなのだろうか。
Murderは思う。
一番苦しんだのはおそらく満だろうけれど、悲しい事にそれは自業自得で、視界の回転も満が自分の頭を殴打した軽い後遺症と考えるなら完全な自業自得で、そもそも社会的に言ってしまえば普通の人間の生活に耐えられなかった満が悪い訳で、親に当たるなど褒められたことではなくて――。
けど、例えそう思っても、自分はそうは言ってはいけない。
そういう人間でなければ自分のオペレーターになることは出来なかっただろうし、それに、自己嫌悪にも他者嫌悪にも救いが無いと言うのなら、満が望むように思想を合わせることだけが、Murder.EXEにできる唯一のオペレーター孝行なのだろうから。
それでも自分のオペレーターが、藤咲 満が、人間として完成品ではない事は、今更否定が効かないのだけど。
しかし、だからこそ満は表向きは真面目でいい顔をしつつも裏側ではMurderのオペレーターをやっているのだろうと思うと、Murderには何処かやりきれない、絡まった糸のような不快感と不安が残るのだった。
End.
1/1ページ