短編“未満”小説『もし兄さんを悲観主義だという人がいたら、その人は人を見る目がないと思うよ』
【もし兄さんを悲観主義だという人がいたら、その人は人を見る目がないと思うよ】
それは、今から約三十年ほど前のお話。
現代の科学省ほどの設備ではないが、そこそこの設備が整った電子関係の研究施設の一室で、白髪の男性が巨大なモニターの前で少し大きめの椅子に座っていた。
男性の白髪はふわりと軽そうに見える短髪で、衣服は上が白いワイシャツで下が黒いスーツ用のズボン、そして丈の長い白衣をまとい、首には鮮やかな青いネクタイを締めている。
ゆったりと椅子に座りながら前方にある巨大モニターを見つめる男性の目はよく澄んだ青で、どこか柔らかな光を湛えている。
「白夜兄さん。」
そしてその男性――光闇 白夜の後ろには、彼によく似たシルエットだが身長が白夜よりも多少低いと思われる黒髪の男性が立っていた。
白夜を呼ぶ黒髪の男性の声は何か意を決した様な重い緊張と何らかの理由で白夜を非難する様な威圧感を纏い、それらを制御するように身体の横で両手を強く握りしめている。
黒髪の男性に名前を呼ばれた白夜はゆっくりと椅子を回転させて黒髪の男性へと向き直り、微笑みながら、
「なんだい? 黒夜。」
「なんだいじゃないよ、兄さん。」
穏やかに返事をされた黒髪の男性――白夜の弟、光闇 黒夜は何かに非常に納得がいかず、また何かを咎めるように苛々とした様子で、更には白夜に対し何か呆れているようだった。
黒夜の黒髪は白夜と同じ型に揃えられているのだが、何故か白夜よりも堅く冷たい印象を持ち、目元は白夜よりも若干吊り目で凛としている。
もしかしたら機嫌が悪いせいもあるかもしれないが、基本的には元々だろう。
朗らかで笑顔の似合う白い兄と、無愛想で無表情の黒い弟。
それが傍から見た光闇兄弟、また光闇双子の第一印象だ。
そんなふうに冷たい印象を持たれる黒夜の不機嫌そうな声を聞いても白夜は微笑を崩さずにいて、それは黒夜の苛立ちを刺激したようだ。
それでも黒夜は身体の両脇で爪が食い込む程強く手を握ることでまだ感情の爆発を我慢しているようだったが、爆発はさせずとも威圧感は十分に込めて言葉を続ける。
「ねぇ、どういうことなの? ”ディビィ計画”って。」
そう言いながら黒夜は苛立ったOLのようにつかつかと歩いて白夜との距離を縮め、その目前に右手で持った書類の束を突き出した。
何枚かのコピー用紙が重ねられた書類の一番上の用紙には、赤い文字で”DB計画”と印刷されている。
黒夜の声には明らかにその計画とやらへの否定、嫌悪が含まれていて、白夜は多少困ったように眉間にしわを寄せた。
その時の白夜は何か弁解を考えていたのかもしれないし、もしくは正直に説明するつもりでその説明の内容を頭の中で組み立てていたのかもしれないが、黒夜はそんなものは待たずに不機嫌な声で捲し立てる。
「兄さんの恋人の妹……百合花さんに渡されたんだ、白夜さんに渡しておいてくださるかしら? ってさ。兄さん、本当にこんなことする気なの? 愛華さんと一緒に世界を壊すなんて、兄さんは何を考えてるの? ねぇ。」
黒夜の声はもはや非難を通り越して、白夜を馬鹿にしているようにも感じられる領域に達していた。
実際、黒夜はこれに関しての白夜を本当に馬鹿だと思っている。
今黒夜が白夜に突き出した書類にある”ディビィ計画”とは、白夜の恋人の花道 愛華が主に組み立てた物で、簡単に言えば現在の社会を全て破壊しつくしてしまおうという、まるでアニメやマンガの悪役がやりそうな計画である。
これだけでもかなり馬鹿げた話なのに、その理由は愛華の私怨で”白夜との婚約を認めないどころか自分から社会的地位を奪おうとする周囲が許せない”という至極くだらないもの。
しかも、平和主義ともいえる白夜をそれに巻き込むというのだから、黒夜からすれば納得できないにも程がある。
そして何より、白夜がそれを拒否しなかったことが気に入らない。
「兄さんは僕に言ったよね、”愛華の為なら科学者ぐらいやめたっていいよ、普通のサラリーマンになって、沢山残業して、裕福でも貧乏でもない家庭で普通の幸せを築く、それでいいんだ。”って。」
捲し立て続けるその声にこもった感情を現代の若者の言葉で表現するならば、それは白夜に”お前、頭おかしいんじゃないの?”と言っているようで、黒夜は怒りと嘲笑を混ぜたように白夜を責め続ける。
しかし、責め続けられる白夜は怒ることも哀しむことも無く、ただ困ったような顔をするだけで言い訳すらしてこない。
黒夜は、自分の兄はとてもとても優しいから、自分が全ての不満を言い終わることを待っているのかもしれない、と薄々感じながら、それでもその態度がただの優柔不断にも見えて余計に苛立ちが抑えられなくなる、書類を持っていない左腕が力の入り過ぎで震えてくる。
だが正直なところ、白夜は優柔不断などではない、ということは黒夜自身が一番よく分かっていることで、だからこそ黒夜は此処で退く訳にはいかなかった。
黒夜は一息置いてから、白夜と共に生きてきた中で最大の怒りと、哀れみと、弟としての愛情を込めて睨みつけ、ゆっくりと逃げ道を塞ぐように重々しく言う。
「……ねぇ、これのどこが”普通”なの?」
地面が唸るような、もしくは地面を這うような低くて重い声は、普段の無愛想で無表情な黒夜にとって非常に珍しいものだった。
それぐらい黒夜はこの計画が許せなくて、愛華と百合花、そして白夜への怒りを隠しきれずに、いや、もはや隠す気など少しも無いのだろう。
馬鹿な計画を立てた花道 愛華も、そんな姉を咎めない花道 百合花も、それに従おうとする自分の兄――光闇 白夜も、自分は許せはしないし、何より、
「もし、もしだよ? この計画が成功したとして、兄さんと愛華さんを拒絶したヤツ等が傷付いて死に絶えたとして、それで幸せになるのは、ざまあみろって言えるのは、愛華さんだけじゃないの?」
常に上を目指し過ぎておかしな方向に進んだ愛華と、周囲の軽蔑など関係無く穏やかに暮らせる素質のある白夜。
そんな二人がこんな事をして、もし成し遂げたとして、それを喜ぶのは愛華だけなのでは? 白夜は救われるどころか罪悪感に押しつぶされるだけなのでは? そもそも白夜にこんな事をする理由が存在するのか?
そう考えると黒夜はどうしようもなく事の発端の花道 愛華が憎らしく、この腕が震えるような怒りを本当に向けたいのは白夜ではなく愛華かもしれない気がする。
しかしそれでも、白夜の意向もそれと同じぐらい認められない。
「兄さんは何か救われるの? 兄さんは世界を怨んでなんかいないのに、そんなことをして何になるの? 何が報われるっていうの? 分からない、僕には全然分からないよ!!」
考えれば考える程、気持ちの昂りが抑えられなくなる、もはや自棄にも近くなってくる。
世界への報復を望んでいるのは飽くまでも愛華だけで、白夜はそんなことを望んで居ない、それなのに犯罪を犯す理由は何で、その先で何を得るというのか。
明確な野望など無く平穏を捨てようとする兄の考えが分からなくて、どうしようもなく哀れで、黒夜は怒りと混乱に任せて書類の無い左腕を大きく振り上げ、また振り下ろしながら、ついに叫んだ。
絶叫にも近いそれは、後になって黒夜自身が”あの時の僕はいつもの僕じゃ無かった気がする”と思うほど激しいもので、白夜も黒夜がここまで感情をむき出しにして大袈裟に怒る場面をほとんど見たことが無いらしく、さすがに驚いたようで少しだけ目を見開いている。
青く澄んだ綺麗で純粋な光を持つ目をぱちくりとさせながら、黒夜がこんなに怒るなんて……、と言いたげに見つめてくる白夜から視線を逸らさず、黒夜は更に捲し立てる。
最初は、もっと穏便に話し合うつもりだったのに、と黒夜が思うのはまだ何時間も先のことで、今はただ伝えたい内容を口から出すだけで精一杯だった。
「今までだって誰かと争うことが嫌いで、自分が好きな研究が地道にできればそれで幸せで、そんな感じで頭が良すぎるからたまに周囲の嫉みを受けて、それでも”私は自分の好きな物を調べていくだけさ”って澄ました顔して笑ってる、そんな兄さんがこんな事で救われる訳が無いじゃないか!! そんなの、僕は……僕は……」
途中まで怒りにまかせて叫んでいた黒夜の声が、急に小さく、震え気味で弱いものになっていった。
兄さんは馬鹿だ、大馬鹿だ、そんな兄さんが僕は腹立たしい、しかも、それだけではなくて――。
白夜と同じ青い目は涙に濡れ、両腕は怒りではなく悲しみに震えている。
「僕は……嫌だよ……兄さん、そんなことやめてよ、考え直してよぉ……行っちゃ嫌だぁ……」
両足はついにその感情の重みに耐えられなくなったのか、黒夜はその場に両膝をついて子供のように情けなく泣きだした。
もう二十歳になっているであろう男性が子供のようにわぁわぁと泣く姿は、理由を知らない者から見れば酷く滑稽だろう。
それでも黒夜は、兄が、救いなど無く報われる保証など無い、どうしようもなくろくでもない理由でこの場を離れ、周囲から酷く冷たい視線を浴びせられた末に手の届かない場所へ消えてしまうことへの恐怖と寂しさ、悲しみを我慢できなかった。
どうか行かないで欲しい、そこに白夜への救いは無くて、そんなことをしなくても幸せになれることを白夜は知っているのだから、あのような女の馬鹿げた妄想のような話になど乗らず、お願いだから此処にいて欲しい、駄目ならせめて他の穏便な方法で幸せを探してほしい、自分から罠のような罪に身を投じずにいてほしい。
沢山の怒りと悲しみ、そして、どれだけ自分が願っても叫んでも白夜は自分の手を取ってはくれない予感が黒夜の胸を締め付けて、止まらぬ涙は黒夜の顔をびしょびしょに濡らす。
そんなふうに、自分を引き止めたい一心から子供のように泣きじゃくる弟を、白夜はどこか神妙な、しかし同時に困ったような顔で静かに見つめていたが、やがて言いたい事を頭の中で整理し終えたのか、静かにゆっくりと口を開いた。
「……黒夜。」
その声はどこか、誰かに謝罪をする直前のような静けさを帯びていた。
名前を呼ばれた黒夜の泣き声が少しずつ弱くなり、ヒクヒクとした嗚咽に変わる。
まだ涙の溢れる水浸しの両目で、黒夜は白夜を見つめる。
「私は、愛華が傍にいて笑ってくれるなら、十分幸せなんだ。」
黒夜の顔が驚愕と絶望で引き攣り、固まった。
違う、そんなの間違ってるよ、と言いたいのに、その声すら出せはしない。
嫌だ、嫌だよそんなの、とも言いたいが、やはり声は出せなかった。
黒夜は最悪の結果に絶望の底で愕然とし、白夜は最初の黒夜と同じように相手の返事がないまま話を進めていく。
その顔は、黒夜とは対照的に温かな微笑を湛えていて、それは黒夜の哀しみを一層深くする。
「確かに黒夜の言う通り、私はそれで何か確定的に救われることなんて無いと思う。でも、大切な人が傍にいて笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだから、愛華がこれを望むなら、私はそれを傍で支えたい。」
白夜はとても良い事を言ったつもりかもしれなかったが、それは黒夜にとっては死刑宣告にも等しい言葉で、もう希望は欠片もないと感じた黒夜は静かに俯いて黙り込んでしまった。
――兄さん、それは、その大切な人の中に、僕はいないってことなの?――
もし黒夜を白夜の大切な人に入れるなら、その発言は酷い矛盾を抱えていることになる。
確かに、ディビィ計画を進めれば恋人の愛華は笑顔になるのかもしれない、しかしその一方で、兄を犯罪者にされて遠くに連れ去られた黒夜は延々と泣き続けることになってしまう。
それでも白夜は大切な人が笑ってくれていると言うのか、もし言うとしたら、それはやはり自分はその枠から外れていることになるのではないか、そう考えると黒夜は今まで共に歩んできた人生とその中で確かに感じた兄弟の信頼が崩れていくような気がしてきて胸が苦しくなり、このまま死んでしまいそうな気さえした。
お願いだから間違ったと言って、せめてどちらも大切だと言って、ディビィ計画を辞めなくてもそれだけは、それだけは……という最後の願いを込めて黒夜は白夜の青い目を見つめる。
しかし、
「大丈夫だよ、きっと。それなりになんとかなるんじゃないかな? 私は愛華と一緒なら、なんでもできる気がするんだ。」
絶望の中で僅かな光に縋るような黒夜の目を見ても、白夜がその矛盾に気付いて訂正を入れる事は無く、それどころか愛華との未来への希望のようなものすら見ていた。
自分は絶望を見せられているのに、実現する可能性は一パーセントすら無いだろう希望をみるなんて、自分の兄はなんて残酷なのだろう。
ある意味とても一途で迷いの無い瞳が黒夜はただ悲しくて、悔しくて、呆れすら感じて、もはや反論の”は”の字も出てこない。
「……もし兄さんを悲観主義だという人がいたら、その人は人を見る目がないと思うよ、僕。」
もういいよ、と思った黒夜は吐き捨てるようにそう言った。
絶望の中で微かに残る悔しさを少し遠まわしにぶつけてみたわけだが、確かに楽観主義の白夜はそれが嫌味だと気付けなかったらしく、そうかい? などと面白がるようにニコニコと笑った。
最後の嫌味すら通じず笑顔の白夜を見て、兄はもう自分の想いなど何も分かりはしないのだろう、と、黒夜はついにこれ以上の説得を諦めることを決めた。
……しかし、それでもこの兄が、光闇 白夜が好きな事に変わりは無い、だから、
「兄さん、いつも笑顔で前ばかり見てるもん、悲観主義じゃないよ、絶対に。」
白衣の袖で静かに涙をぬぐって、無理矢理に笑顔を作って見せた。
正直、一瞬でも気を抜けばまた泣いてしまいそうで、その証拠に目の奥と鼻の奥はまだ鈍い痛みのような感覚を覚えている。
今更止められないというのなら、自分は貴方を愛していたという事実を残しておくことだけが、自分が白夜にできる唯一の手助けであり、遠まわしな復讐なのだろう。
泣き過ぎたからなのか、ショックが大き過ぎたからなのか、強くは無いのに鈍く長く続く頭痛に、黒夜は僅かに顔をしかめた。
……そして数年後、ディビィ計画――DB計画――Dirty Blood計画が本格的に始動し、白夜は愛華と共に表社会から姿を消した。
白夜と黒夜、また愛華と百合花は時々は会うことができたが、百合花は以前のように愛華を慕うのに対し、黒夜は以前よりも無愛想で無表情、そしてどこか拭えない暗がりを纏うようになっていて、白夜は此処に至ってようやく自分の行動を少しだけ後悔できるようになってきた。
それから更に数年、後に”警察の殺人鬼”となる少女”No.0(ナンバーゼロ)”、後のSearch=Darknessが産まれた。
白夜は彼女を自分の娘だと認識したが、愛華がその認識を持たなかったためにマトモに愛情を注ぐことが許されず、日々残虐な行為を身につけていくNo.0から必死に視線を逸らす日々が続いた。
黒夜には、相談できなかった。
それからまた十数年、Searchが警察に寝返ったことでDirty Bloodは窮地に立たされて――。
そして現在、あの時黒夜の反論を無視して計画を進めた白夜は、以前より憔悴して疲れ切った顔で妻ととある男性の会話を見つめている。
あの頃から三十年も経っているのだから多少身体が衰えるのは当然と思うかもしれないが、それだけでは”疲れきった顔”の証明にはならない。
白夜の前方二メートルほどの場所で、大きな鉄の机に組み込まれたモニターを見ながら、汚れた血の妻と二人目の殺人鬼の男性が会議にも似た会話を続ける。
「愛華リーダー、現在ネット警察が警戒を強めている範囲は、大まかですが此処から此処までの半径五キロ圏内です。」
「そう、本来の目的はその圏内ってことね……でも、貴方なら出来るわよね?満……いえ、No.02(ナンバーゼロツー)。貴方はあの子に続く汚れた血の二人目の殺人鬼、Dirty Bloodのセカンドキラーでしょう?」
「ハイ、勿論。まだSearchちゃんほどじゃありませんけど、この程度の警戒なら僕にも十分破れます。全員殺して構いませんよね?」
傍から見て飛んでもない会話をこの二人は軽々とやってのけていて、白夜は”自分が望んだことは本当にこれなのか?”と度々悩むようになっていた。
あの頃と変わらず綺麗な黒髪をなびかせる愛華を白夜は今でも愛している、愛しているが、その一方で白夜は愛華が普通の人間には見えなくなっていて、愛華から愛されている実感も随分薄くなっていた。
今考えれば、愛華がこの計画に求める事は復讐だけで、自分との未来ではなかったのかもしれない気がする。
そんなどうしようもない擦れ違いの実感が、今の白夜からこの計画への積極性を奪っていた。
もうこんな光景は見たくない、聴きたくもない、これでよかったと思えない……。
「白夜リーダー。」
「えっ、」
気が付けば浅く俯いていた白夜は、急に名前を呼ばれたせいで少し間抜けな返事をしてしまった。
少し焦りながら顔をあげると、愛華と話していた殺人鬼の男性が水色の目をこちらに向けてきている。
「白夜リーダーはどう思います? 今回は此処を攻めようと思うんですけど……」
そう言いながら少しずつ口元を吊り上げる藍色のスーツを着た黒髪の男性――藤咲 満の中にある物と同じものを、白夜は愛華の中にも見ていた。
自分に小さな傷を付けた人間を異常なほどに憎んで怨んで、それらを中心とする他者を傷つけることに最大の喜びを感じ、その瞬間を今か今かと待ち望む瞳を持っているのは満だけでない。
それは盲目的に愛華を慕っていたあの頃は気付かなかった、いや、気付かないようにしていただけかもしれないことで、
「私は賛成なのよ、白夜。此処は私たちにも因縁が深いでしょう?」
愛華が指すモニターに映るビルは花道グループが管理する、すなわち愛華の親に関係がある施設だった。
――愛華は満くんと同じ、此処で何を一番したいかって、それは……自分を助けるどころか見捨てた家族や、知人への復讐でしかないんだ……それだけなんだ……。――
信じたくは無いが、愛華にとっては自分との夫婦関係など、もはや重要ではないのかもしれない、そう思うと酷く悲しく、そして寂しい。
そして、あの時それを教えてくれようとしていた黒夜に対し申して訳なさがこみ上げてくる。
一種の部外者である黒夜は、愛華が目指していることと自分の理想のズレを分かっていて必死に引き留めようとしてくれていたのに、自分はその腕を振り払ってしまっていた。
――ごめんね黒夜、もしかしたら私は後悔しているのかもしれない。今更だけど、私は楽観主義者じゃなくなったよ。――
白夜の妻と言うよりもDirty Bloodのトップの称号がふさわしくなった愛華と、白夜と愛華の娘である殺人鬼を盲信的に崇拝して同じ場所に身を落そうとする満を少し離れた場所から見つめながら、白夜は口の動きだけで声には出さずに”ごめんなさい”と呟いた。
しかしそれは決して許しを乞うためのものではなく、その証拠に、今なら黒夜に呪殺されてしまってもいいような、そんな思いがしていた。
それは、この世以外の世が存在しない限り、今更叶うことは無いのだけれど。
End.
それは、今から約三十年ほど前のお話。
現代の科学省ほどの設備ではないが、そこそこの設備が整った電子関係の研究施設の一室で、白髪の男性が巨大なモニターの前で少し大きめの椅子に座っていた。
男性の白髪はふわりと軽そうに見える短髪で、衣服は上が白いワイシャツで下が黒いスーツ用のズボン、そして丈の長い白衣をまとい、首には鮮やかな青いネクタイを締めている。
ゆったりと椅子に座りながら前方にある巨大モニターを見つめる男性の目はよく澄んだ青で、どこか柔らかな光を湛えている。
「白夜兄さん。」
そしてその男性――光闇 白夜の後ろには、彼によく似たシルエットだが身長が白夜よりも多少低いと思われる黒髪の男性が立っていた。
白夜を呼ぶ黒髪の男性の声は何か意を決した様な重い緊張と何らかの理由で白夜を非難する様な威圧感を纏い、それらを制御するように身体の横で両手を強く握りしめている。
黒髪の男性に名前を呼ばれた白夜はゆっくりと椅子を回転させて黒髪の男性へと向き直り、微笑みながら、
「なんだい? 黒夜。」
「なんだいじゃないよ、兄さん。」
穏やかに返事をされた黒髪の男性――白夜の弟、光闇 黒夜は何かに非常に納得がいかず、また何かを咎めるように苛々とした様子で、更には白夜に対し何か呆れているようだった。
黒夜の黒髪は白夜と同じ型に揃えられているのだが、何故か白夜よりも堅く冷たい印象を持ち、目元は白夜よりも若干吊り目で凛としている。
もしかしたら機嫌が悪いせいもあるかもしれないが、基本的には元々だろう。
朗らかで笑顔の似合う白い兄と、無愛想で無表情の黒い弟。
それが傍から見た光闇兄弟、また光闇双子の第一印象だ。
そんなふうに冷たい印象を持たれる黒夜の不機嫌そうな声を聞いても白夜は微笑を崩さずにいて、それは黒夜の苛立ちを刺激したようだ。
それでも黒夜は身体の両脇で爪が食い込む程強く手を握ることでまだ感情の爆発を我慢しているようだったが、爆発はさせずとも威圧感は十分に込めて言葉を続ける。
「ねぇ、どういうことなの? ”ディビィ計画”って。」
そう言いながら黒夜は苛立ったOLのようにつかつかと歩いて白夜との距離を縮め、その目前に右手で持った書類の束を突き出した。
何枚かのコピー用紙が重ねられた書類の一番上の用紙には、赤い文字で”DB計画”と印刷されている。
黒夜の声には明らかにその計画とやらへの否定、嫌悪が含まれていて、白夜は多少困ったように眉間にしわを寄せた。
その時の白夜は何か弁解を考えていたのかもしれないし、もしくは正直に説明するつもりでその説明の内容を頭の中で組み立てていたのかもしれないが、黒夜はそんなものは待たずに不機嫌な声で捲し立てる。
「兄さんの恋人の妹……百合花さんに渡されたんだ、白夜さんに渡しておいてくださるかしら? ってさ。兄さん、本当にこんなことする気なの? 愛華さんと一緒に世界を壊すなんて、兄さんは何を考えてるの? ねぇ。」
黒夜の声はもはや非難を通り越して、白夜を馬鹿にしているようにも感じられる領域に達していた。
実際、黒夜はこれに関しての白夜を本当に馬鹿だと思っている。
今黒夜が白夜に突き出した書類にある”ディビィ計画”とは、白夜の恋人の花道 愛華が主に組み立てた物で、簡単に言えば現在の社会を全て破壊しつくしてしまおうという、まるでアニメやマンガの悪役がやりそうな計画である。
これだけでもかなり馬鹿げた話なのに、その理由は愛華の私怨で”白夜との婚約を認めないどころか自分から社会的地位を奪おうとする周囲が許せない”という至極くだらないもの。
しかも、平和主義ともいえる白夜をそれに巻き込むというのだから、黒夜からすれば納得できないにも程がある。
そして何より、白夜がそれを拒否しなかったことが気に入らない。
「兄さんは僕に言ったよね、”愛華の為なら科学者ぐらいやめたっていいよ、普通のサラリーマンになって、沢山残業して、裕福でも貧乏でもない家庭で普通の幸せを築く、それでいいんだ。”って。」
捲し立て続けるその声にこもった感情を現代の若者の言葉で表現するならば、それは白夜に”お前、頭おかしいんじゃないの?”と言っているようで、黒夜は怒りと嘲笑を混ぜたように白夜を責め続ける。
しかし、責め続けられる白夜は怒ることも哀しむことも無く、ただ困ったような顔をするだけで言い訳すらしてこない。
黒夜は、自分の兄はとてもとても優しいから、自分が全ての不満を言い終わることを待っているのかもしれない、と薄々感じながら、それでもその態度がただの優柔不断にも見えて余計に苛立ちが抑えられなくなる、書類を持っていない左腕が力の入り過ぎで震えてくる。
だが正直なところ、白夜は優柔不断などではない、ということは黒夜自身が一番よく分かっていることで、だからこそ黒夜は此処で退く訳にはいかなかった。
黒夜は一息置いてから、白夜と共に生きてきた中で最大の怒りと、哀れみと、弟としての愛情を込めて睨みつけ、ゆっくりと逃げ道を塞ぐように重々しく言う。
「……ねぇ、これのどこが”普通”なの?」
地面が唸るような、もしくは地面を這うような低くて重い声は、普段の無愛想で無表情な黒夜にとって非常に珍しいものだった。
それぐらい黒夜はこの計画が許せなくて、愛華と百合花、そして白夜への怒りを隠しきれずに、いや、もはや隠す気など少しも無いのだろう。
馬鹿な計画を立てた花道 愛華も、そんな姉を咎めない花道 百合花も、それに従おうとする自分の兄――光闇 白夜も、自分は許せはしないし、何より、
「もし、もしだよ? この計画が成功したとして、兄さんと愛華さんを拒絶したヤツ等が傷付いて死に絶えたとして、それで幸せになるのは、ざまあみろって言えるのは、愛華さんだけじゃないの?」
常に上を目指し過ぎておかしな方向に進んだ愛華と、周囲の軽蔑など関係無く穏やかに暮らせる素質のある白夜。
そんな二人がこんな事をして、もし成し遂げたとして、それを喜ぶのは愛華だけなのでは? 白夜は救われるどころか罪悪感に押しつぶされるだけなのでは? そもそも白夜にこんな事をする理由が存在するのか?
そう考えると黒夜はどうしようもなく事の発端の花道 愛華が憎らしく、この腕が震えるような怒りを本当に向けたいのは白夜ではなく愛華かもしれない気がする。
しかしそれでも、白夜の意向もそれと同じぐらい認められない。
「兄さんは何か救われるの? 兄さんは世界を怨んでなんかいないのに、そんなことをして何になるの? 何が報われるっていうの? 分からない、僕には全然分からないよ!!」
考えれば考える程、気持ちの昂りが抑えられなくなる、もはや自棄にも近くなってくる。
世界への報復を望んでいるのは飽くまでも愛華だけで、白夜はそんなことを望んで居ない、それなのに犯罪を犯す理由は何で、その先で何を得るというのか。
明確な野望など無く平穏を捨てようとする兄の考えが分からなくて、どうしようもなく哀れで、黒夜は怒りと混乱に任せて書類の無い左腕を大きく振り上げ、また振り下ろしながら、ついに叫んだ。
絶叫にも近いそれは、後になって黒夜自身が”あの時の僕はいつもの僕じゃ無かった気がする”と思うほど激しいもので、白夜も黒夜がここまで感情をむき出しにして大袈裟に怒る場面をほとんど見たことが無いらしく、さすがに驚いたようで少しだけ目を見開いている。
青く澄んだ綺麗で純粋な光を持つ目をぱちくりとさせながら、黒夜がこんなに怒るなんて……、と言いたげに見つめてくる白夜から視線を逸らさず、黒夜は更に捲し立てる。
最初は、もっと穏便に話し合うつもりだったのに、と黒夜が思うのはまだ何時間も先のことで、今はただ伝えたい内容を口から出すだけで精一杯だった。
「今までだって誰かと争うことが嫌いで、自分が好きな研究が地道にできればそれで幸せで、そんな感じで頭が良すぎるからたまに周囲の嫉みを受けて、それでも”私は自分の好きな物を調べていくだけさ”って澄ました顔して笑ってる、そんな兄さんがこんな事で救われる訳が無いじゃないか!! そんなの、僕は……僕は……」
途中まで怒りにまかせて叫んでいた黒夜の声が、急に小さく、震え気味で弱いものになっていった。
兄さんは馬鹿だ、大馬鹿だ、そんな兄さんが僕は腹立たしい、しかも、それだけではなくて――。
白夜と同じ青い目は涙に濡れ、両腕は怒りではなく悲しみに震えている。
「僕は……嫌だよ……兄さん、そんなことやめてよ、考え直してよぉ……行っちゃ嫌だぁ……」
両足はついにその感情の重みに耐えられなくなったのか、黒夜はその場に両膝をついて子供のように情けなく泣きだした。
もう二十歳になっているであろう男性が子供のようにわぁわぁと泣く姿は、理由を知らない者から見れば酷く滑稽だろう。
それでも黒夜は、兄が、救いなど無く報われる保証など無い、どうしようもなくろくでもない理由でこの場を離れ、周囲から酷く冷たい視線を浴びせられた末に手の届かない場所へ消えてしまうことへの恐怖と寂しさ、悲しみを我慢できなかった。
どうか行かないで欲しい、そこに白夜への救いは無くて、そんなことをしなくても幸せになれることを白夜は知っているのだから、あのような女の馬鹿げた妄想のような話になど乗らず、お願いだから此処にいて欲しい、駄目ならせめて他の穏便な方法で幸せを探してほしい、自分から罠のような罪に身を投じずにいてほしい。
沢山の怒りと悲しみ、そして、どれだけ自分が願っても叫んでも白夜は自分の手を取ってはくれない予感が黒夜の胸を締め付けて、止まらぬ涙は黒夜の顔をびしょびしょに濡らす。
そんなふうに、自分を引き止めたい一心から子供のように泣きじゃくる弟を、白夜はどこか神妙な、しかし同時に困ったような顔で静かに見つめていたが、やがて言いたい事を頭の中で整理し終えたのか、静かにゆっくりと口を開いた。
「……黒夜。」
その声はどこか、誰かに謝罪をする直前のような静けさを帯びていた。
名前を呼ばれた黒夜の泣き声が少しずつ弱くなり、ヒクヒクとした嗚咽に変わる。
まだ涙の溢れる水浸しの両目で、黒夜は白夜を見つめる。
「私は、愛華が傍にいて笑ってくれるなら、十分幸せなんだ。」
黒夜の顔が驚愕と絶望で引き攣り、固まった。
違う、そんなの間違ってるよ、と言いたいのに、その声すら出せはしない。
嫌だ、嫌だよそんなの、とも言いたいが、やはり声は出せなかった。
黒夜は最悪の結果に絶望の底で愕然とし、白夜は最初の黒夜と同じように相手の返事がないまま話を進めていく。
その顔は、黒夜とは対照的に温かな微笑を湛えていて、それは黒夜の哀しみを一層深くする。
「確かに黒夜の言う通り、私はそれで何か確定的に救われることなんて無いと思う。でも、大切な人が傍にいて笑ってくれるなら、私はそれだけで幸せだから、愛華がこれを望むなら、私はそれを傍で支えたい。」
白夜はとても良い事を言ったつもりかもしれなかったが、それは黒夜にとっては死刑宣告にも等しい言葉で、もう希望は欠片もないと感じた黒夜は静かに俯いて黙り込んでしまった。
――兄さん、それは、その大切な人の中に、僕はいないってことなの?――
もし黒夜を白夜の大切な人に入れるなら、その発言は酷い矛盾を抱えていることになる。
確かに、ディビィ計画を進めれば恋人の愛華は笑顔になるのかもしれない、しかしその一方で、兄を犯罪者にされて遠くに連れ去られた黒夜は延々と泣き続けることになってしまう。
それでも白夜は大切な人が笑ってくれていると言うのか、もし言うとしたら、それはやはり自分はその枠から外れていることになるのではないか、そう考えると黒夜は今まで共に歩んできた人生とその中で確かに感じた兄弟の信頼が崩れていくような気がしてきて胸が苦しくなり、このまま死んでしまいそうな気さえした。
お願いだから間違ったと言って、せめてどちらも大切だと言って、ディビィ計画を辞めなくてもそれだけは、それだけは……という最後の願いを込めて黒夜は白夜の青い目を見つめる。
しかし、
「大丈夫だよ、きっと。それなりになんとかなるんじゃないかな? 私は愛華と一緒なら、なんでもできる気がするんだ。」
絶望の中で僅かな光に縋るような黒夜の目を見ても、白夜がその矛盾に気付いて訂正を入れる事は無く、それどころか愛華との未来への希望のようなものすら見ていた。
自分は絶望を見せられているのに、実現する可能性は一パーセントすら無いだろう希望をみるなんて、自分の兄はなんて残酷なのだろう。
ある意味とても一途で迷いの無い瞳が黒夜はただ悲しくて、悔しくて、呆れすら感じて、もはや反論の”は”の字も出てこない。
「……もし兄さんを悲観主義だという人がいたら、その人は人を見る目がないと思うよ、僕。」
もういいよ、と思った黒夜は吐き捨てるようにそう言った。
絶望の中で微かに残る悔しさを少し遠まわしにぶつけてみたわけだが、確かに楽観主義の白夜はそれが嫌味だと気付けなかったらしく、そうかい? などと面白がるようにニコニコと笑った。
最後の嫌味すら通じず笑顔の白夜を見て、兄はもう自分の想いなど何も分かりはしないのだろう、と、黒夜はついにこれ以上の説得を諦めることを決めた。
……しかし、それでもこの兄が、光闇 白夜が好きな事に変わりは無い、だから、
「兄さん、いつも笑顔で前ばかり見てるもん、悲観主義じゃないよ、絶対に。」
白衣の袖で静かに涙をぬぐって、無理矢理に笑顔を作って見せた。
正直、一瞬でも気を抜けばまた泣いてしまいそうで、その証拠に目の奥と鼻の奥はまだ鈍い痛みのような感覚を覚えている。
今更止められないというのなら、自分は貴方を愛していたという事実を残しておくことだけが、自分が白夜にできる唯一の手助けであり、遠まわしな復讐なのだろう。
泣き過ぎたからなのか、ショックが大き過ぎたからなのか、強くは無いのに鈍く長く続く頭痛に、黒夜は僅かに顔をしかめた。
……そして数年後、ディビィ計画――DB計画――Dirty Blood計画が本格的に始動し、白夜は愛華と共に表社会から姿を消した。
白夜と黒夜、また愛華と百合花は時々は会うことができたが、百合花は以前のように愛華を慕うのに対し、黒夜は以前よりも無愛想で無表情、そしてどこか拭えない暗がりを纏うようになっていて、白夜は此処に至ってようやく自分の行動を少しだけ後悔できるようになってきた。
それから更に数年、後に”警察の殺人鬼”となる少女”No.0(ナンバーゼロ)”、後のSearch=Darknessが産まれた。
白夜は彼女を自分の娘だと認識したが、愛華がその認識を持たなかったためにマトモに愛情を注ぐことが許されず、日々残虐な行為を身につけていくNo.0から必死に視線を逸らす日々が続いた。
黒夜には、相談できなかった。
それからまた十数年、Searchが警察に寝返ったことでDirty Bloodは窮地に立たされて――。
そして現在、あの時黒夜の反論を無視して計画を進めた白夜は、以前より憔悴して疲れ切った顔で妻ととある男性の会話を見つめている。
あの頃から三十年も経っているのだから多少身体が衰えるのは当然と思うかもしれないが、それだけでは”疲れきった顔”の証明にはならない。
白夜の前方二メートルほどの場所で、大きな鉄の机に組み込まれたモニターを見ながら、汚れた血の妻と二人目の殺人鬼の男性が会議にも似た会話を続ける。
「愛華リーダー、現在ネット警察が警戒を強めている範囲は、大まかですが此処から此処までの半径五キロ圏内です。」
「そう、本来の目的はその圏内ってことね……でも、貴方なら出来るわよね?満……いえ、No.02(ナンバーゼロツー)。貴方はあの子に続く汚れた血の二人目の殺人鬼、Dirty Bloodのセカンドキラーでしょう?」
「ハイ、勿論。まだSearchちゃんほどじゃありませんけど、この程度の警戒なら僕にも十分破れます。全員殺して構いませんよね?」
傍から見て飛んでもない会話をこの二人は軽々とやってのけていて、白夜は”自分が望んだことは本当にこれなのか?”と度々悩むようになっていた。
あの頃と変わらず綺麗な黒髪をなびかせる愛華を白夜は今でも愛している、愛しているが、その一方で白夜は愛華が普通の人間には見えなくなっていて、愛華から愛されている実感も随分薄くなっていた。
今考えれば、愛華がこの計画に求める事は復讐だけで、自分との未来ではなかったのかもしれない気がする。
そんなどうしようもない擦れ違いの実感が、今の白夜からこの計画への積極性を奪っていた。
もうこんな光景は見たくない、聴きたくもない、これでよかったと思えない……。
「白夜リーダー。」
「えっ、」
気が付けば浅く俯いていた白夜は、急に名前を呼ばれたせいで少し間抜けな返事をしてしまった。
少し焦りながら顔をあげると、愛華と話していた殺人鬼の男性が水色の目をこちらに向けてきている。
「白夜リーダーはどう思います? 今回は此処を攻めようと思うんですけど……」
そう言いながら少しずつ口元を吊り上げる藍色のスーツを着た黒髪の男性――藤咲 満の中にある物と同じものを、白夜は愛華の中にも見ていた。
自分に小さな傷を付けた人間を異常なほどに憎んで怨んで、それらを中心とする他者を傷つけることに最大の喜びを感じ、その瞬間を今か今かと待ち望む瞳を持っているのは満だけでない。
それは盲目的に愛華を慕っていたあの頃は気付かなかった、いや、気付かないようにしていただけかもしれないことで、
「私は賛成なのよ、白夜。此処は私たちにも因縁が深いでしょう?」
愛華が指すモニターに映るビルは花道グループが管理する、すなわち愛華の親に関係がある施設だった。
――愛華は満くんと同じ、此処で何を一番したいかって、それは……自分を助けるどころか見捨てた家族や、知人への復讐でしかないんだ……それだけなんだ……。――
信じたくは無いが、愛華にとっては自分との夫婦関係など、もはや重要ではないのかもしれない、そう思うと酷く悲しく、そして寂しい。
そして、あの時それを教えてくれようとしていた黒夜に対し申して訳なさがこみ上げてくる。
一種の部外者である黒夜は、愛華が目指していることと自分の理想のズレを分かっていて必死に引き留めようとしてくれていたのに、自分はその腕を振り払ってしまっていた。
――ごめんね黒夜、もしかしたら私は後悔しているのかもしれない。今更だけど、私は楽観主義者じゃなくなったよ。――
白夜の妻と言うよりもDirty Bloodのトップの称号がふさわしくなった愛華と、白夜と愛華の娘である殺人鬼を盲信的に崇拝して同じ場所に身を落そうとする満を少し離れた場所から見つめながら、白夜は口の動きだけで声には出さずに”ごめんなさい”と呟いた。
しかしそれは決して許しを乞うためのものではなく、その証拠に、今なら黒夜に呪殺されてしまってもいいような、そんな思いがしていた。
それは、この世以外の世が存在しない限り、今更叶うことは無いのだけれど。
End.
1/1ページ