にゃんにゃん☆ぱにっく!

正直なところメイルには、今の熱斗には何を言っても無駄なのではないだろうかという気が少ししてきていたのであったが、その予想に反して熱斗は手の力を抜き、メイルが手首を解放するとカッターの刃の付いた両手をそっと床に置いた。
それを見てメイルがホッと一息吐くと、熱斗はやはり人間で言う赤子、それ以外で言う犬猫のように四足歩行で動き出し、メイルの足下をメイルの脚に身体が触れるようにして這い回り始める。
それはまるで、猫や犬が気に入った人間にその好意を示す姿のようで、メイルは熱斗が本気で猫になりきる気なのだと此処に至ってようやく悟り始めた。

そう、最初にメイルの家に来た時あの悪戯仔猫に敗北した熱斗は何故か、自分が人間だから負けたという考えにたどり着き、自分も猫になればメイルに構ってもらえるかもしれないという結論にたどり着いていたのだ。
メイルの脚に身体を摺り寄せて這いまわりながら、熱斗はメイルが自分を見て困っているのを確認し、密かにその笑みを深めた。
メイルは今、あの悪戯仔猫ではなく、自分を――光 熱斗を見ている、その事実はどんな形であれ熱斗を満足させる。

しかしその満足もつかの間、しばらくメイルの脚に身体をそわせて這いまわっていると、ふとキッチンの奥の方からカリカリという何かを引っ掻くような音が聞こえ、次の瞬間ラッシュがメイルの目の前にラッシュホールを開いてそのホールから飛び出して現れた。
熱斗はその瞬間どうせまたあの悪戯仔猫が何かしているのだろうと察知し、表情を歪める。

「アウッ、アウアウアウッ!!」

そしてその予想はどうやら当たっていたようで、ラッシュは先ほど音がしたキッチンの方を指さしながら喚き続けた。
どうやら、あの仔猫が今度は壁で爪を磨ごうとしているらしい。
それに気付いたメイルは急いでその場を離れ、奥のキッチンへと駆けて行ってしまった。
後には、猫耳付きの熱斗と、ラッシュだけが残される。

「アウ……アウ?」

しばしの間メイルの背中を見送りながら溜息のような声をもらしていたラッシュは、ふとそれ――猫耳をつけた熱斗の存在に気が付いた。
ラッシュの視界に映る熱斗は、赤子か小動物のような四足歩行の体勢のままでラッシュに不機嫌そうな視線を向けている。
その目は明らかにラッシュの登場とその理由への不満を湛えて淀んでいて、あまり普段は見る事のない怨みの籠ったその視線に、ラッシュは困った顔で一歩引き下がった。
だが、メイルがこの場を離れた今となっては、その程度の行為は熱斗にとって何の意味も持ち合わせていない。

熱斗は四足歩行のまま向きを変えると、今度はカーテンの横の壁に近付き、その正面で膝を着いて、正座と大体同じポーズで床に腰を下ろした。
そして指を適度な幅に開いて一般的に猫の手と呼ばれるポーズをとると、指先に付けたカッターナイフの刃をまるで爪を立てるように壁に垂直に立てて、その壁紙を剥がさんと言わんばかりに引っ掻き始めたではないか。
先ほど一歩引いたラッシュが、今度は驚いて止めに入る。

「アウ! アウアウッ!」

それはまるで、コラ、止めろ、と怒っているようだったが、熱斗はそんな事知った事ではないと言わんばかりに壁に爪に見立てたカッターナイフの刃の先端を立てて壁紙を削り続ける。
痺れを切らしたラッシュは熱斗と壁の間に入り込み全身で熱斗の行動を妨害した、が、それをされた瞬間の熱斗の目を見てラッシュは一瞬怯む。
ラッシュが全身で熱斗の行動を妨害したその瞬間、熱斗は全ての物を凍りつかせてしまいそうなほど冷たい視線をラッシュに向けて見せたのだ。
そしてラッシュが、もしかして自分は選択を間違えたのではないかと悟った時、熱斗は壁に向けていた指先をラッシュに向け、一切の遠慮なくカッターナイフの刃の着いた右手をラッシュに向けて振り下ろした。
データとはいえ実体化しているラッシュに、その攻撃は十分通用し、熱斗の指には何か柔らかい物を削る感覚が伝わり、ラッシュは悲鳴を上げた。

「アウンッ!!」

ラッシュは情けない悲鳴を上げると逃げるように熱斗と壁の隙間から脱出し、顔を押さえて何処かへ一目散に駆けていった。
それを見て熱斗はざまぁみろと言いたげにニヤリと笑い、再び壁に爪代わりのカッターナイフの刃を立てはじめる。
薄桃色の壁紙が表面から少しずつ削れていく。
さぁ、早く来ないと壁紙の下の木材が顔を出す事になるぞ、早く来て、俺を止めて御覧、と、頭の中でだけ人間の言語を呟きながら、熱斗は壁を引っ掻きつつその怒声を待つ。
すると何処からかバタバタという人間の足音と、ピョコピョコというプログラム的な軽い足音がし始めて、だんだん此方に近付いてきた。
それと同時か少し遅いかのタイミングで、いよいよ熱斗が待っていた怒声が降ってくる。

「熱斗!! いい加減にしてちょうだい!!」

バタバタとした足音はメイルの足音で、これはメイルの声だ。
一度はまたあの仔猫に負けてしまったが、メイルは再び此方を見てくれたのだ、そう思って喜んだ熱斗は壁を削る手を休めて声のした方を見たが、その瞳に宿った喜悦は一瞬にして絶望にも似た色にその色彩を変えた。
もしもその怒声と共に手首を壊すような強い力で掴まれていたら、熱斗はこれ以上ない程満足していただろう。
しかしそれは、またもあの仔猫のせいで叶わぬ夢となっていたのだ。
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