あの子の足元にも影はある

どうだろうな、ということは、もうメイルは自分の所には戻ってきてくれないという事か? と考えた時、熱斗は自分の中で何か――熱斗にはそれが何か明確には分からなかったが、他者の視点から見ればそれは、理性という本音や欲望を封じ込める箱だっただろう、それにヒビが入るのを感じた。
ゾッとするような悪寒――不安と、身体を焼きつくすような熱――メイルの存在の渇望が同時に湧き上がる。

「どうだろうな、って……なんでそんな不安になるような事言うんだよ!」

思わずダークソウルに向けて怒鳴った熱斗を見て、ダークソウルは更にしおらしく悲しそうな表情を見せて、その視線を床に伏せた。

「だってさ……熱斗も見ただろ? さっきのメイルちゃんの楽しそうな顔……。」

熱斗の脳裏に、先ほどまで見えていた三人の姿が浮かぶ。
確かに、メイルはあの場所でとても楽しそうに笑っていた、デカオとやいとの二人とその笑顔を、時間を、共有していた。
そして、それらは熱斗とは共有されていなかった、熱斗とメイル達の間には明らかな壁があった、その事実が熱斗を焦らせ、メイル達三人と自分一人という構図を思い描かせる。
遠い、つい数日前までとても近くにあったメイルの存在が、とても遠い。

「デカオとやいとちゃん、そしてメイルちゃんだけで作られた輪、その中に、“俺”の、“光 熱斗”の入る隙間ってあるの? 居場所ってあるの?」

その輪の中に自分の、熱斗の居場所が無くなっている事は既に数週間前に確認済みである、それを思い出して熱斗は更に焦る。
ゲームというツールで結ばれたメイルとデカオとやいとと透の一体感に、自分はついていく事が出来なかった、それはつまり居場所がないのと同然ではないだろうか。
それでもメイルだけは、メイルだけは熱斗に視線を向けてくれた、その手を繋いでくれた、だから自分はこの一週間それなりに、いや大いに安心して笑って過ごせたのだ、それなのに――。

「もしかしたらメイルちゃんの隣はもう既にアイツ等に……」

アイツ等に奪われているのかもしれない、そんなふうに続くであろう言葉を聴いたその瞬間、熱斗の中の既に壊れていた何か――理性という名の箱は粉々に砕け散り、その中身を飛散させた。
それまで必死に押し隠してきた、少し横暴で、でも何処か切実な本音が、身体を中心を突き上げて焼き焦がし、その傍から冷たく凍らせていく。
一瞬絶望に見開かれた目はすぐにその絶望を糧として怒りを燃やし、我慢の限界を迎えた熱斗はその怒りをダークソウルに向けてぶつける。

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!! そんなの……そんなのっ……メイルちゃんだけなのに……気付いてくれたのは、メイルちゃんだけなのに!! 俺はこんなにもメイルちゃんを必要としてる、それなのに、どうして!!」

正義の味方にはあまりにも似合わないヒステリックな叫びが、黒い空間に浸透していく。
今まで抑え込んできた不安を怒りという形に変えて一気に吐き出した熱斗は、激しい運動の直後で息を切らした人のように肩で息をしている。
そして目には涙が滲み、悲しみと怒りを同時に湧きあがらせている、その様子を見て、それまで悲しげな表情を見せていたダークソウルが少しだけ笑みを取り戻した。
何がおかしいんだ、と言いたげにダークソウルを睨む熱斗へ、ダークソウルは楽しそうな笑みを取り戻しながら言う。

「じゃあ、尚更伝えないとな。寂しい、俺の傍に居て、ってさ。ほら、行ってきなよ。」

その直後、熱斗は夢から覚める直前と同じように強い眩暈を感じ、黒い床に両膝と両手をついた。
ついさっきまで鮮明だった視界が徐々にぼやけて歪む、ダークソウルの笑顔が認識できなくなる。
それが何だか身体的に辛くて、嗚呼これから一体何が起こるというのだろう、と不安に感じながら、熱斗は一瞬目を閉じた。
ぼやけた視界が遮断されて、本当に何も見ていない、瞼を閉じた時の黒になる。
次にこの目を開いた時、見える世界はあの黒い世界か、それとも現実世界なのか、熱斗には分からない。
けれどいつまでもこうしている訳にはいかない、だから熱斗はどちらにしろ視界が鮮明になっている事を願いながらゆっくりと目を開く。
そして、

「……あ。」

そこに映った景色はあの黒い世界ではなく、ホームルームを前にしてややざわついている教室――現実世界である事を認識し、更に今自分は固い床の上にに立ってはおらず、自分の席の椅子の上に座っているという事も確認して、熱斗はようやく胸を撫で下ろし、やや大きい溜息を吐いた。
とりあえず、現実世界に意識を戻す事はできた、それに安堵を感じながら、熱斗は周囲を見渡す。
周囲のざわついた様子や、教室の隅で未だ談笑を続けているメイル達を見る限り、ホームルームの後という事は無さそうだ。
壁にかけられた時計も、今がまだホームルーム前の二分である事を皆に知らせていて、熱斗は意識があの世界――認めたくは無いが、自分の内側の世界なのだろうあの場所に飛んでいる間に教室の中で大きな異変が起こる事は無かったらしいと安心する。
そして熱斗は再び教室の隅――正しくは教室の隅に立つメイル達を見た。
メイル達は相変わらず楽しいおしゃべりを続けているようで、此方に気付いた様子、または此方を気にする様子は無い。
熱斗はそれに安堵――目は開いている(と思う)のに意識が無いという妙な状況を見られなくて済んだらしいという安心を感じると同時に、けれど自分がこの教室に入ってからもう何分か経っているのだから、そろそろ自分の存在に気付いてくれたっていいのではないか、という不満が湧きあがるのを止める事はできなかった。
苛々する、どうしようもなく苛々する。
どうしてメイルは自分に気がついてくれない、デカオとやいとは仕方ないにしても、メイルは自分を見てくれる事を誓ってくれたのではないのか、それなのに今、お前の視界にはデカオとやいとだけがどうして――。
止まらない苛立ちに、熱斗は小さく唇を噛み、ダークソウルの言葉を思い出す。

――デカオとやいとちゃん、そしてメイルちゃんだけで作られた輪、その中に、“俺”の、“光 熱斗”の入る隙間ってあるの? 居場所ってあるの?――

嗚呼、確かにあの中に隙間など無い、光 熱斗の居場所など無い、熱斗はそれを改めて痛感した。
もしも此処で、熱斗がメイルごと全てを諦めてしまえば、例えハッピーエンドとは言えないにしても、事は全てそこで終わっていただろう。
しかし、熱斗は此処で全てを諦める事――メイルを諦める事はできなかった。
理性という箱の壊れた今、湧き上がる想いは留まるところを知らず、そしてその想いは何故か熱斗にダークソウルの言葉を思い出させ続ける。

――もしかしたらメイルちゃんの隣はもう既にアイツ等に……。――

理性を完膚なきまでに粉砕した言葉が頭の中で反響して、その怒りを向ける矛先を定めさせた。
メイルの隣は自分の最後の居場所だ、そう想う熱斗はその居場所を奪った者達のリストの中に、大山 デカオと綾小路 やいとの名前を刻む。
今メイルが自分を、熱斗を見てくれないのはデカオとやいとがいるせいだ、そんな思い込みが熱斗の中である種の真実に姿を変えていく。
そして熱斗は、メイルが隣の席に着席したらそれまでの想いを告げる事――ダークソウルの言う通りの行動を取る事に決めた。

そんな熱斗の想いを知ってか知らずか、おそらく全く知らないし知った事ではないのだろうが、熱斗がそんな事を考えている間にも時間は止まらず流れており、熱斗の意識が現実世界に復帰してから約二分間の時が流れ、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴りだした。
ざわつく教室が一瞬だけ僅かに静けさを取り戻し、またすぐに別れの挨拶でざわつきを取り戻す。
それと同時に、メイル達も一瞬顔を上げてスピーカーに視線を向け、またすぐにお互い顔を見合わせると他の生徒たちと同じように簡単な別れの挨拶を交わしてそれぞれの席へ向かって歩き始めた。
と、此処でようやくメイルは自分の席の隣の席の、熱斗の存在に気が付く。
熱斗は普通に椅子に座るのではなく、メイルの席に身体の正面を向けて座っており、そして何よりメイルの立っている方向、教室の隅へと視線を向けている。
そこに至ってようやくメイルは、もしかして熱斗はずっと自分を待っていたのだろうか? と思うも、その瞬間は特に自分が何かヘマをしたとは思わず、だとしたらどうして声をかけてこなかったのかしら? 程度の事を考えていた。
やがて自分の席のすぐ傍にたどり着くと、メイルはそこでようやく熱斗に声をかけてきた。

「熱斗、おはよう。」

いつも通りのメイルの明るく軽やかな声、それが何故か妙に気に障って、熱斗は膝の上に載せた両手を半ズボンの布を握ったままぎゅっと握りしめた。
別にメイルを嫌いになった訳ではない、そんな事は有る筈がない、自分をその視界の中に映してくれたメイルを嫌いになる訳なんて無い。
けれど、デカオややいと、透ばかりを視界に入れて、熱斗を視界から弾きだしてしまったメイルなら? 嗚呼それでも、熱斗はメイルを嫌いにはなれない。
だから、

「……あのね、メイルちゃん。」

熱斗は挨拶を返す事もなく、いきなり話を切り出した。
着席前だったメイルがその場で少し腰を曲げて熱斗に顔を近づけながら首をかしげる。

「なぁに? 熱斗。」

それはとてもいつも通りで、これから熱斗が言おうとしている事には少しも気が付いていないようで、それは何処か無垢にも近いものがあって、熱斗は一瞬自分がしようとしている事はその無垢を汚すのに匹敵する事なのではないかと不安になった。
やっぱり、言うのはやめておこうか、平気な顔で挨拶をしていくのがベストな選択なのではないだろうか、という考えが熱斗の脳裏を過る。
しかし次の瞬間には、今までの経験からして、もし今この寂しさを伝えなかったらメイルは何事もなかったように席について前を向き、自身の視界から熱斗を外してしまう、という予測が熱斗の頭の中で組み上げられ、一瞬過った不安に対して断固たる否定を掲げた。
そして熱斗は、その否定を肯定するように、自分はそんな事には耐えられないと考え、首をかしげたままのメイルの両目に真っ直ぐ自分の視線を向け、しばしの空白を挟んでから遂に口を動かす。

「……昨日、寂しかった。」

その瞬間、それまで普通に熱斗を見詰めていたメイルの目が驚いたようにやや見開かれ、そのまま数秒間固まった。
だが正直、そこまでは予想の範囲内であり、熱斗はそこに驚き返したりする事は無い。
ただ、その後の反応がどうなるのか、メイルはこの寂しさを受け入れて解消してくれるのか、それともただのワガママだと言って弾き返してくるのか、そのどちらなのかが分からない事、そして後者の可能性も無くはない事がどうしても怖くて、心臓の鼓動が早く、そして強くなるのを感じた。

そんな熱斗の視線を感じながら、メイルは以前の科学省でのやり取りを思い出す。
元気の無い、ぼんやりと影のある表情で“寂しかったんだ”と教えてくれた熱斗を見て、自分は何を思ったか、何を熱斗に言ったのか、それを思い出す。
寂しかったと言って悲しげに笑う熱斗を、自分はできるだけ優しく、しかし強く抱きしめて、“私はずっと熱斗の傍にいる”と言った。
それはすなわち、熱斗にもう寂しい想いをさせないという約束だったのではないか、それを思い出して、メイルはハッとしたのだ。
今自分は、熱斗にどんな思いをさせている? 熱斗はどんな思いがしていると言っている?

メイルはしばしの間驚いたような表情で固まっていたが、やがてふとその目から余分な力を抜きつつ熱斗の顔を覗き込む為に曲げた上体を起こした。
熱斗はメイルがそうして自分から少し離れた事で、嗚呼やっぱりメイルの答えは後者なのか、拒絶なのか、と独りで思い込む。
そうだろう、そうだろう、そうだろうな、ダークソウルという陰の言葉を真に受けて行動に出た自分が何かおかしかったのだ、これは見捨てられて当たり前だ、と思った熱斗が小さく疲労と落胆の色の濃い溜息を吐きかけた、その時、

「……ごめんなさい。」

しばしの空白を挟んで、メイルが謝罪を口にした。
熱斗は溜息を吐く直前でそれを耳に入れ、驚いて息を吐く事を忘れる。
息を吐く事を忘れた熱斗は、今度は此方が驚く番だと言わんばかりに軽く目を見開いて何処か呆然としたような、少し間の抜けた表情で、隣に立つメイルの顔を見上げた。

「……メイルちゃん、今なんて?」

メイルの顔を見上げながら状況を整理して、やっとの思いで出せた言葉はその二言だけだった。
謝罪、とはどういう事なのだろう? どういう意図があって謝罪にたどり着いたのだろう? 熱斗にはそれが良い意味にも悪い意味にも考えられて、結論を導き出す事が出来ないのだ。
良い意味で考えるなら、メイルは熱斗に寂しい想いをさせた事を謝っているのかもしれないが、悪い意味で考えるなら、今の熱斗はメイルにとって重すぎるからこれ以上はもう頼らないでという意味にもなる。
嗚呼、一体メイルはどちらのつもりで謝罪を口にしたのだろう、それを確かめる為にも、熱斗はその二言を口にしたのだ。
熱斗が驚いた表情でその二言を口にすると、メイルは何処か悲しげで、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、熱斗が自分の膝の上に置いていた両手の、その片方である右手に両手を伸ばした。
そして熱斗の手を優しく包むように握り自分の方へ軽く引き寄せる。
その行為に、熱斗の中で良い意味への期待が僅かに膨らむ。
そして熱斗は、どうか次にメイルの口から出てくる言葉が拒絶ではありませんように、と祈る。
するとその祈りは神に、いやメイルに届いたのか、メイルが次に口にした言葉は拒絶とは程遠いものだった。

「……寂しい思いをさせて、ごめんなさい。」

僅かな空白を挟んで再び告げられた言葉に、熱斗は大いに驚き、僅かに困惑した。
確かに熱斗はメイルの謝罪が良い意味での謝罪である事を期待していたが、それは飽く迄も熱斗の側からの願望でしか無く、メイルの意思には一切関係ないものなのである。
だから熱斗は、いくら自分が良い意味での謝罪である事を望んだ所で、メイルの意思が本当にそうであるとは限らない事、悪い意味での謝罪である可能性をある程度、いや、ほとんど覚悟していたのだ。
しかし現実はその悪い想像とは真反対で、メイルの謝罪は熱斗にとって良い意味での謝罪であった。
それを聞いて、熱斗の中に、寂しいと伝えた事は正解なのではないか? という考えが生まれてくる。
そんなふうに熱斗が様々な事を考えている間にも、メイルは言葉を続けた。

「ごめんなさい、気がつかなくて。私はずっと熱斗の傍に居るって約束したのに……ごめんなさい。もし許してもらえるなら、もう一度チャンスをくれないかしら……今度こそちゃんと熱斗の傍に居るから、熱斗の事、優先するから……だから……」

熱斗の右手を握るメイルの両手に僅かに力が入る。
その手の存在感とメイルの口から零れた再びの約束の言葉が、熱斗の中心に響いて、冷え切った何かを再び温めて溶かしていく。
ずっと忘却が怖かった、そして拒絶が怖かった、メイルもいつかは離れて行ってしまうのではないかと心のどこかで不安に想っていた。
けれど違った、メイルは忘却などしていなかった、それどころかあの日の“あれ”は本当に自分の傍に居てくれるという約束だったのだと気付いた時、熱斗は身体の中心から両手両足の指先まで温かな何かが広がっていく感覚を覚えた。
嗚呼これはきっとメイルの体温だ、そしてメイルの温かい心だ、それらが自分の中に伝わってきているのだ、と感じた熱斗は、自分はこの温かさから一時も離れていたく無い、そう、メイルにずっと自分の傍に居て欲しいと想う。
そして今、その願いは熱斗の行動を発端として叶おうとしているのかもしれない、そう気付いた熱斗は驚きに満ちながらも真剣な表情でメイルを見詰め返し、左手をメイルの両手に重ねるとゆっくりと席を立って視線の高さをメイルと合わせて、

「……本当に?」

と訊き返した。
この時熱斗は、それは本当にメイルの本心なのか? ただの義務感や嘘ではないのか? という意味で本当かどうかと訊いていた。
しかしもしかしたら、此処を通り過ぎればもう自分もメイルも引き返せないという事を、熱斗は無意識の内に理解していたのかもしれない。
だからそれはメイルに対する最初で最後の警告にも似ていたが、メイルは迷うことなくしっかりと頷いて、

「ええ、本当よ。」

と言って熱斗を、熱斗だけをじっと見詰め返してきた。
その瞬間、熱斗の中で燻っていた想いに一気に火がつく。
メイルに自分の傍にいて欲しい、メイルに自分を見てもらいたい、メイルに自分を受け入れて欲しい……今まで何かがブレーキになって抑えつけられてきたそんな想いが、そしてそれらの想いが叶う喜びが、溢れだして止まらない。
そしてそれらは熱斗の中で大きな炎となって燃え上がり、燃え広がり、熱斗の表情を平静から驚きへ、そして驚きから笑顔へと急激に変える。
その急激な変化にメイルが少し驚いて手の力を緩めると、熱斗はメイルの手の中から自分の手を引き抜いた、と思ったら今度は自由になったその両手でメイルの両肩を勢いよく掴んだ。
そして、その喜びを全身で体現するかのようにかなりの大声でメイルに再び訊き返す。

「本当!? ホントに本当!?」

話し始めとは打って変わって元気な声を出すようになった熱斗のその声に驚いたのか、教室の中のほぼ全ての視線が熱斗とメイルに向けられ、一時的に教室のざわつきが収まった。
メイルはその原因となった熱斗の大声と、教室中の視線が自分たちに向いているという事態に戸惑いの表情を見せるも、熱斗はそれらに関わる様子を一切見せない。
何故なら、今の熱斗にとっては教室がどうなっているかなどどうでもいいことで、重要なのはメイルが本当に自分の傍に居てくれるのかどうか、それだけなのだから。

「ねぇ! 本当!? 本当なの!?」

ある種の迫力すら備えて確認するように訊き返す熱斗に、メイルは若干の戸惑いと困惑――こんなに良い反応をされるとは思っていなかった、という驚きを抱えながらも、本当だと言う代わりに二回程小さく頷いた。
それを見た熱斗はもはや止まる事を忘れてしまったのか更にキラキラとした笑顔を浮かべ、メイルの肩に置いた両手をぐっと、メイルの肩を掴んだままで引き寄せ、メイルの身体を自分の方へと引き寄せた。
その勢いについて行けなかったのかメイルが小さくふらつき、熱斗の方へと倒れてくる。
熱斗はその重みをしっかり受け止めると、それまでメイルの両肩に置いていた両手をメイルの背中に回した。
そして、突然の出来事に何が何だか理解が追いつかない様子のメイルに、強く強く抱きついた。

「ね、熱斗!?」

普段から何かと熱斗に抱きつく事の多かったメイルだったが、逆に熱斗から抱きつかれたのはこれが初めてらしい。
メイルは驚きに溢れて僅かに上ずった声で熱斗の名前を呼んだ。
熱斗の肩越しに見えるメイルの表情は驚きと戸惑いを浮かべており、また場所が場所で状況が状況なだけに少し恥ずかしかったのか、僅かな赤みを湛えている。
また、その動揺と恥ずかしさのせいなのか、メイルの両腕は宙に浮いたままで落ち着く場所を求めてやや彷徨っていた。
そして周囲の同級生達の視線もメイルの両手と同じく僅かに彷徨っており、熱斗を見たりメイルを見たり自分と同じ周囲を見たりを繰り返している。
沢山の視線が熱斗とメイルの二人だけに集まっていて、それは本来なら恥ずかしさか緊張か恐怖を感じる場面なのかもしれないが、熱斗はそんな物知った事ではないと言わんばかりにメイルを強く抱擁し、とびきりの笑顔で笑ってこれ以上なく幸せそうな声で、

「俺今すっごく嬉しい!! メイルちゃん、大好き!!」

と言った。
メイルの頬の赤みは一層強くなる。
それから、ようやく訳をある程度理解して、それなりに祝福すべき事が起こったのだと感じた周囲の一部がヒューヒューと口笛を吹いて二人を囃し立てる。
そして熱斗は久しぶりの心からの笑顔でメイルを抱き締め、その存在と体温にこれ以上ない歓喜を覚えながらメイルの頬に自分の頬を擦りよせた。
頬を擦り寄せながら熱斗は、なんだ、行動してみればとても簡単な話だったのだ、と思い、心の奥底でも大声で笑い出したい様な、とても身軽で楽しくて嬉しくて、何かが外れてしまいそうな気分の昂りを感じた。
いくらデカオややいとが自分からメイルを奪おうとしてメイルに近付いたとしても、自分が一言、寂しい、という事実を告げれば、メイルは自分の下へ戻ってきてこの身を温めてくれるのだということを、熱斗はこの瞬間学習したのだ。
そして、メイルの一番はデカオでもやいとでも透でもなくこの自分、光 熱斗なのだ、とも。

熱斗がメイルを抱き締めて頬を擦り寄せている間それを呆然と見守っていた同級生達の中には、言うまでもないがデカオとやいとも居た。
彼等は突然の出来事に何が起こったのか、どうしてそうなったのかが理解できず、ただただ呆然とするばかりだったが、以前メイルにある忠告をしたやいとだけは事の重大さに薄々気付き、徐々に何かを悩むような表情を浮かべる。
他の同級生やデカオは気付かなかったが、やいとだけはこの時あまり良くない事が起こっているという真実に気付きつつあったのだ。
と言っても、やいともさすがに熱斗の中の闇の塊の事などは知らないのだが、それでもやいとはこの瞬間の二人を単なる相思相愛として祝福すべきではないのではないかと思う。

それぞれの思惑をそれぞれの中に隠しながら、熱斗はメイルを抱きしめ、メイルは熱斗に抱きしめられ、デカオはただ呆然とそれを見詰め、やいとは不安そうにそれを見詰め、同級生達は呆然とするものもあれば二人を祝福する者もあるという状況の中、気が付けばホームルーム開始のチャイムから数分が過ぎていた。
すると、ようやく職員会議が終わったのか、普段より少し遅れたこの時間でようやく教室の前方の扉がまり子によってシューっと音を立てて開けられた。
その音に気付いて周囲の同級生達は熱斗とメイルを囃し立てる事を止めてそれぞれの席に戻り始め、デカオとやいとも一応自分の席に着きはじめる。
ただ、熱斗とメイルだけがその場で立ったまま抱擁を続けており、教室の中に踏み込むと同時にそれに気付いたまり子が少し驚いたような、それでいて不思議がるような声を漏らす。

「あら? 熱斗くんとメイルちゃん、どうしかたの?」

まり子のそんな疑問符を頭上に浮かべたような声と態度でようやく周囲が見え始めたのか、熱斗はふとメイルを抱き締める腕から力を抜き、名残惜しそうにゆっくりと、その腕の中からメイルを解放した。
腕の中から解放されたメイルの頬はまだ赤く、茶色の両目は戸惑うような視線を熱斗に向けている。
熱斗はそんなメイルの様子が何故か嬉しくてたまらなくなって、もう一度、今度はもっと長く抱擁していたいという衝動を感じながらメイルをしばし見詰めた後、その視線をそっとまり子に向けてニコリと満足そうに微笑み、

「えへへ、何でもありませーん。」

と言った。
まり子は、明らかに何かそれなりの事があったように見えたのだけど、と言いたげで、不思議な光景を見たとも言いたげな視線を熱斗に向けて目をぱちくりさせたが、熱斗は動じることなく安定していて穏やかな笑顔を返し続ける。
そして数秒後には、状況が飲み込めないでいるまり子から視線を外し、そっととメイルに向き直ると、

「じゃ、席に着こっか。」

と言ってまたニコリと笑った。
それを見たメイルはまり子からの追及を避けたかったのか、それとも単に恥ずかしくて仕方が無かったのか、まだ赤みの残る頬をしながら、何処か落ち着き無く焦った声で、

「そ、そうね! 座りましょっか!」

と返事をして、自分の机の下から椅子を急いで引き出し、焦った様子で椅子に座った。
その様子を愛おしむような視線で見守ってから、熱斗も引き出したままの椅子にゆっくりと優雅に座る。
まり子はしばらくの間、何が起こっていたのか分からない、誰か教えて欲しい、と言いたげな顔でクラス全員を見回していたが、その視線の席の生徒たちはニヤニヤ笑う事こそあれどその訳をまり子に教えようとはしないため、まり子は熱斗とメイルに一体何があったのかを詮索することは諦めて、いつものように教壇へと立つ事を選んだ。
教壇へ立ったまり子は改めて生徒全員を見回して挨拶をする。

「みなさん、おはようございます。」

そうして今日のホームルームが始まったが、先ほどの騒ぎの原因である熱斗とメイルはそれぞれ別の理由でホームルームを進めるまり子の声を耳に入れてはいなかった。
メイルは未だに薄っすらと赤い顔をして顔を伏せているし、熱斗は顔だけはまり子に向けているものの、その表情はただのホームルームには似合わない笑顔を浮かべており、時々まだ顔の赤いメイルの方を様子を窺うようにチラチラと見ては小さな笑いを深めている。
まり子の朝の話を右から左へ聞き流しながら、熱斗はこれまでの苦しみとは全く別の、とても元気が湧きだすような胸の高鳴りを感じていた。
今だって、ホームルームだから抑えてはいるものの、本当はもっとハッキリ笑いたいと思うし、もっとメイルの近くにいたいと思う。
こんな机にしきられた隙間なんていらない、身体と身体を密着させて座って、その温かさを感じながら手を繋いでいたい、そんな強い想いで胸がいっぱいになって、ほんの少しだけ苦しいのに幸せという、おかしな状況を作り出す。
少しでも長く、少しでも近く、とにかくメイルの傍にいて時間を共有したくてたまらない。
嗚呼早くホームルームと一、二時間目が終わって休み時間にならないだろうか、と思いながら、熱斗は幸せそうな溜息を一つ零した。



そんな熱斗達を机に備え付けられたパソコンの画面を通して見守る人影が、教室の電脳の中に二つ。
青色と桃色のそれは、熱斗のナビのロックマンとメイルのナビのロールであった。
熱斗達は全く気にしていなかったが、先ほどの騒ぎは教室の電脳にいるナビ達からも注目されており、特に当事者達のナビである二人はその一部始終を教室の電脳の中から見守っていたのだ。
そして一応無事にホームルームが始まった今、熱斗とメイルのナビである二人は今回の熱斗の挙動に関しての意見を交換し合おうとしている。
やや呆然と、どうしてこうなったのかが分からないとでも言うかのようなポカンとした表情で現実世界の教室を映しだす画面を見詰めるロックマンの右手に、ロールがそっと自分の左手を伸ばし、それが自然な事であるかのように手を繋ぐ。
そして右手を握られた事に気付いたロックマンがロールの方を向くと、ロールは熱斗に負けないくらいのウキウキとした楽しげな笑顔を見せて、

「熱斗さんとメイルちゃん、なんだか良い感じね!」

と言った。
ロールは此処でロックマンが、うんそうだね、などと言う事を期待していたのかもしれない。
もしかしたら、ロックマンが先ほどの熱斗のように自分を抱き締めてくれる事すら期待していたのかもしれない。
しかし実際はロックマンの反応はやや鈍く、

「え?」

と一文字疑問符混じりの声を漏らした後、

「あぁ……うん……。」

と、言葉を濁しただけで、ロックマンの視線はまたすぐに現実の教室を映しだす画面へと向けられてしまったものだから、ロールはつまらなくなって少し頬を膨らませながら一度は繋いだ手を振り払うように解いた。
しかしロックマンの注意はその事には向かず、その視線はただただ現実世界を映す画面を、その画面に映される楽しそうな笑みを浮かべたままの熱斗を見詰めている。
ロールはそれが妙に気に入らなくて、少し怒っています、と言いたげな不機嫌そうな声でロックマンの名前を呼ぶ。

「ちょっと、ロックマン?」

するとロックマンはそれまで画面だけに向けていた注意をようやくロールにも向けなければならないと悟ったようで、いかにも急に声をかけられましたと言いたげな少し驚き気味の顔でロールに振り向いた。

「え、あ、何? ロールちゃん。」
「何? じゃないわよ。まったくもう!」

振り向いたロックマンはやはり心ここにあらずとでも言うべきか、どこか上の空とでも言うべきか、たった今ロールの存在に気付きましたとでも言いたげな様子で、ロールはそんなロックマンの態度を不満に思う。
まったく、オペレーターの熱斗はあんなにもメイルと親密な仲になったというのに、どうしてロックマンは私に振り向いてくれないのだろう? とロールは考えていた。
そしてロールは当然のように、ロックマンの関心の先にある者は自分だと考えている、だから今のロックマンとは話が合わない。
何故なら、ロールがそんな女子らしい思考を発揮していた時、ロックマンはそんな恋愛のあれこれとは程遠い、何か漠然とした不安のようなものを感じていたのだから。

ロールが何故か頬を膨らませてそっぽを向いてしまったので、ロックマンはその視線を再び教室の中、主に熱斗の周囲を映しだしている画面に向けた。
何故だろう、熱斗とメイルの仲が良いのは悪い事ではないはずなのに、まるでこれから戦いに出るという時のような妙な胸騒ぎが収まらないのだ。
そしてふと脳裏に浮かぶのは、昨日のクロスフュージョンの時の違和感の存在。
あの時ロックマンは、少なくとも異常を起こしているのは自分ではないだろうと思っていた。
クロスフュージョンのシステムがおかしくなったか、もしくは、あまり考えたくないが熱斗に何らかの異常が起こったのだろうと推測したロックマンの不安、それは、今の熱斗は本当に正常な状態なのだろうかという事だ。
ただでさえ最近の熱斗は浮き沈みが激しくて落ち着きが無いのに、クロスフュージョンという物理的な面で異常が起きるなど、ロックマンとしてはあまり考えたくないが、あの違和感があった以上はある程度想定しなければいけない事だった。
それにもしそれが関係無いとしても、ロックマンから見れば熱斗が自分からメイルに抱きつくなどあまり考えられる事ではなく、何かの異変の、その氷山の一角のように見えてしまうのだ。
勿論、熱斗が単にメイルに心を許しているからという考え方もできなくは無いのだが……自分だってロールに心を許しているのは同じだし、と考えると、どうにも熱斗の言動は度を越しているように見えてしまうのだ。
例えば、自分は今熱斗がメイルにするのと同じようにロールに抱きつけるかと訊かれたら、答えは否だ。
別にロックマンはロールが嫌いな訳ではない、訳ではないのだが、ネットナビで友人といえど女性に大した理由も無く易々と抱きつくのは失礼にも思える、というのがロックマンの考えだ。
だが、熱斗はそれをメイルにやってのけている、それは一体どういう意味だろう、それだけ熱斗とメイルの距離は近くなったという事なのか、ロックマンにはいまいちピンとこない。

「ねぇロールちゃん。」

だから、ロックマンはそのピンとこない理由を少しでも解明すべく、今一番身近にいて、それでいて熱斗の気持ちを推察してくれそうなロールに声をかけた。
ロールは不機嫌そうながらもロックマンの方を向いてくれる。

「なによ、ロックマン。」
「んっと……」

自分でも上手く言い表わせるか自信が無いその内容に、ロックマンは自分でロールを呼んでおきながら少し言葉を詰まらせた。
此処で下手な事を聞くと、熱斗の事を推察してくれないどころか自分達の間が後々面倒な事になる、そう思ったロックマンは、あまり突っ込んだ事を訊いたり、露骨に熱斗の事を推察してくれというのはやめて、

「熱斗くん、どうしたんだろうね?」

と少し遠まわしに言ってみた。
するとロールは少し、いや物凄く驚いたような顔を見せて、

「ええっ!? ロックマンったら分からないの!?」

と大袈裟に驚いた。
顔だけでなく、手足も一緒に動いている。
その大袈裟な身振り手振りに、ロックマンはそんなに驚いて見せなくたっていいじゃないか、と少し不満に思うも、此処でロールの機嫌をこれ以上損ねては話がきけないと思い、少し下から目線で出る事を決めた。
こういう時は自分より相手が優れているという事にしておくのが一番である事を、ロックマンはなんとなく分かっているのだ。

「うん、ちょっとよく分からなくて……ロールちゃんなら何か分かるかなぁって思ったんだけど、どう?」

ロックマンがそう言うと、ロールは呆れたように大きな溜息をついてから、ロックマンの両目を正面からじっと見詰めた。
その表情があまりに真剣なので、ロックマンはやや予想外の事が起きたと感じ少しだけ驚いた顔を見せる。
するとロールはそれまで開いていたロックマンと自分の隙間を、足を数歩前に進める事で埋めてきた。
そして、また予想外の事が起きたと言いたげに後ろに下がりそうになるロックマンの右腕を素早く掴んで自分の方へと引き寄せ、その右腕を抱き締めると、

「熱斗さん自身が言ってたじゃない! 熱斗さんは、メイルちゃんの事がとーっても大好きなのよ!」

と言ってきた。
それはロールからすれば決死のアピールにも近かったのだが、ロックマンにとってはロールが自分に過剰なスキンシップを求めてくるのはもはや日常と化している為、そのアピールには気付かない。
ただそれでも、熱斗のメイルを思う気持ちが普通の友情から逸れ始めている事だけはなんとか気が付いて、ロックマンの表情は益々不安に満ちて心細そうなものとなった。
それ――つまり熱斗の言うメイルへの大好きという想い、それがもし、普通の友情またはその延長線上の上に無いとしたら、それは一体何処にあるというのか、ロックマンには分からない。
その真の在り処が何処か不穏な場所な気がして、ロックマンは不安を募らせる。
教室の中を映し出している画面を不安に曇った表情で見詰めながら、ロックマンはロールに問いかけた。

「ねぇ……その、大好きって、さ……良い事、なのかな?」

唐突で意味深長な問いかけに、ロールはロックマンの右腕を抱き締めたまま顔だけあげて、えっ? と、不意を突かれたと言いたげな声を漏らす。

「そりゃあ……誰かを好(よ)く思う事は、良い事でしょう?」

ロールはきょとんとして、貴方は何を当たり前の事を不思議がっているの? と言いたげな視線をロックマンに向ける。
それを受けたロックマンは、表層思考では、そうだよね、とロールに同意しつつも、表情はどこか納得がいかない、いや正しく言えば、ロールの言う事に納得したいのだけど何故か納得できないと言いたげで、何とも苦さの滲んだ顔を見せた。
確かにロールの言う通り、そして自分の今までの経験の通り、誰かを大切に思い、好意的な感情を向ける事は、基本的には良い事のハズだ。
実際、自分と熱斗の友情だって、お互いを大切に思っていて、何らかの形で相手を好いているからこそのものであり、それは常に正しい力を育んできた、とロックマンは考えている。
だから、熱斗がメイルに向けているものがロックマンに向けられる友情と同じものならば、元々友達として、そして幼馴染として繋がっている熱斗とメイルの絆が深まり強まる兆候であり、それは祝福すべきものだろう。
けれどもし、熱斗がメイルに向けているものがロックマンに向けられている友情と“同じではなかったら”、それは良くも悪くも未知の領域であり、必ずしも二人を正しい道へと導いてくれるとは限らない、ロックマンはそれを不安に思っている。
そう、ロックマンには、熱斗がメイルへ向ける想いがどうにも、自分が受け取る友情とは全く別の、何か未知の領域にあり、僅かな危険を孕んでいるように思えたのだ。

ロールの答えを聞いてもどうにも不安が拭えない様子で教室の中を映す画面に視線を向けるロックマンを見て、ロールはようやくロックマンが自分のアピールに気付いてくれないのは単に鈍感だからではなく、ロックマンの中に全てを覆い尽くすような不安があるからだと気付く。
自分の決死のアピールにも気付いてくれないロックマンだ、きっと熱斗とメイルが友情を飛び越えて恋愛関係になる事を理解しきれないのだろう、とロールはその不安の訳を勝手に推測して、それならば、と思い口を開く。

「大丈夫よロックマン、熱斗さんは幸せそうだし、メイルちゃんも嫌がってないんだから、きっとこのまま上手くいくわよ!」

ロールはそう言ってニコッと笑いかけたが、ロックマンの表情はどうにも晴れる事は無かった。
そしてその直後、まり子がホームルームの終わりを告げる声と、一時間目の始まりを告げるチャイムが同時に教室の中に響くのだった。



二時間目の終わりのチャイムが鳴ったのは、それから約二時間弱の時間が過ぎた頃だった。
正確には、四十五分の授業が二つ分と、一時間目と二時間目の間の五分間休みを合わせた九十五分――一時間三十分である。
だがこの時の熱斗にはその二時間にも満たない、大人からすればそれなりに短い時間が、まるでどちらの授業も六十分キッカリと行われたかのように、いやそれ以上に行われていたのではないかと思うぐらい長い時間に感じられていた。
その理由はただ一つ、熱斗にとって、授業内容よりも大切な用事が、その授業の後に待っていたからである。
チャイムが鳴り終わり、まり子が手元のPETで宙に映しだしていた教科書画面を閉じ、教室前方にあるブラックボードの表示を消した時、熱斗はすぐさま自分の隣――メイルに視線を向けて問いかけた。

「ねぇメイルちゃん、今日の放課後、俺の家に来ない?」

熱斗の唐突な問いかけに、授業用のノートと筆記用具を片付けていたメイルが少し虚を衝かれたような顔を見せながらノートを鞄に仕舞う手を止め、熱斗のいる方へと視線を向ける。
その驚いた顔が何だか可愛らしく見えて、熱斗は思わず表情が緩むのを感じた。
そして、それってどういう事? とでも聞きたそうな顔をしているメイルに向けて改めて微笑みかけ、告げる。

「だから、今日の放課後俺の家で遊ばないかって。」

メイルは一瞬だけキョトンとした様な顔をしていたが、すぐに熱斗の言った事の意味を理解したのか、その表情を何かを思い出している最中のような表情に変える。
おそらく、今日の放課後に外せない用事――例えば習い事などが無いかどうかを考えているのだろう。
しばらくの間考え込むメイルを、微笑んだまま見詰める熱斗のその視線にはいくらかの余裕が生まれている様で、起床時に見せた不安や焦りは何処へやらといった雰囲気だ。

「……そうね、今日は何も無いから、行ってもいいわよ。」

丁度まり子が教壇を降りて前方の扉をくぐり教室を後にした頃、メイルはその表情を熱斗とは少し違う、女の子らしく優しげな微笑に変えながらそう答えた。
それ――メイルが自分に微笑んで見せてくれたが嬉しくて、熱斗も目を細めて笑みを深める。
そして熱斗はそれまで自分の左膝の上に置いていた左手を、ノートを仕舞う途中だった為机の上に置かれているメイルの右手へと伸ばして重ねた。
するとメイルが、えっ? と言いたげなキョトンとした顔で熱斗を見る。
熱斗はそんなメイルにそれまで通り微笑みかけながら、

「じゃ、決まりだね。約束。」

と言い、重ねた左手を少しずらしてメイルの右手の小指に自分の左手の小指を軽く絡めた。
メイルはそれでようやく熱斗が手を重ねてきた意味を察したのか、キョトンとした表情を再び微笑に変えて、此方もどこか嬉しそうに頷く。

「えぇ、約束よ。」

おそらく、それは熱斗だけではなくメイルにとっても嬉しい展開だったのだろう。
元々、以前から熱斗への恋情を自覚するメイルとしては、熱斗がこんなにも積極的に自分に関わってくるとというのは喜ばしい展開であったに違いない。
友情にしろ恋情にしろ、好意を寄せる人間から同じように好意を寄せ返されて不満に思う人間はそうそういないだろう。
だからメイルもその“約束”という何処か甘美な響きを持った言葉を喜んだ。
少なくとも、この瞬間は。

メイルが熱斗の言う約束を承諾した後、二人はお互いの意思で少し強く小指を絡めてから、指切りげんまんでもするかのように同時のタイミングで絡めた小指を離した。
小指を絡めるタイミングから、それを解くタイミングまで一致するという以心伝心ぶりに、今メイルの視界の中にいるのは確実に自分だけなのだと確信した熱斗は安心と温かさと、そして何より頭がおかしくなりそうな程の歓喜を感じる。
メイルの意識の先にいるのは間違いなくこの自分、光 熱斗で、自分の意識の先にいるのは間違いなく桜井 メイルである、そんな状況がたまらなく嬉しい。
重ねていた手に、絡めた小指に、薄っすらと残るメイルの体温が、そしてメイルが自分の傍にいてくれているという事実が、嬉し過ぎて仕方が無い。
そして、これまでの動悸とは全く別の胸の高鳴り、これはなんだろう?
嗚呼今なら、例えこの校舎の床が、それどころかこの地表がヒビ割れて壊れようとも、自分はそのコンクリートも土も無い場所で立っていられそうな気がする、そんなフワフワとした浮遊感と高揚感が続いてどうにも気分が落ち着かない、のに、何故かとても居心地が良い。
なんなのだろう? どうしてなのだろう? と考えながら熱斗はふと、先ほどメイルの小指と絡めていた自分の小指を見詰めた。
先ほどまでメイルがこの指に触れていた、それを想うと鼓動が強くなって、早くなって、浮遊感が増していく。

――もっと、触れて欲しいな。もっと、触れていたいな。――

熱斗はそっと自分の座っている椅子をずらし、メイルの座っている椅子との距離を縮めた。
カタン、という椅子の脚と床がぶつかる音に、一度は筆記用具の片付けに戻りかけていたメイルが不思議そうに振り向く。
どうしたのかしら? とでも言いたげなメイルの顔を見ながら、熱斗は椅子から僅かに身体を持ちあげ、椅子の端に座りなおした。
熱斗とメイルの肩が触れ合う、その状況にメイルが驚いたような顔で赤面する。
まるで万華鏡の中に見える景色のようにころころと表情を変えるメイルが可愛らしくて、熱斗は少し悪戯っぽく楽しそうに微笑みながら、メイルの肩に寄りかかった。

「ね、熱斗?」

ふと視線を上げてメイルの表情を窺うと、メイルは驚き半分嬉しさ半分と受け取れる、平常心でいたいけれど笑みがこぼれて隠しきれないといった表情をしている。
それを見て、メイルも自分――熱斗の傍にいる事を嬉しく思ってくれているのだ、と感じた熱斗は安心したように微笑み、メイルの肩に頭を預けた。
メイルに触れている所が温かい、それが熱斗を安心させ、喜ばせ、此処にいれば凍える事はないのだと思わせる。
多分、幸せとはこういう事なのだろう、と熱斗は思った。
だから、

「メイルちゃん。」
「な、何? 熱斗。」

熱斗はメイルの肩に触れていない右腕を動かし、メイルが自身の膝の上に置いた右手に自分の右手を重ねて、その手を優しく握ってから、

「ずっと、俺の傍にいてね。」

と言った。
メイルはやはり一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにその意味の“表層”を理解して、それが自分にとっても嬉しい事であるかのように微笑み、頷いて答える。

「えぇ、もちろんよ。」

優しい微笑みと共に放たれたその言葉は熱斗の“深層”に届き、それに酷く感動して更に嬉しくなった熱斗は、その喜びを表すようにメイルの肩に頬を擦り寄せた。
メイルはそんな熱斗を可愛らしく思ったのか、空いている左手で熱斗の髪を優しく撫でる。
本来なら小さな子供の内でなければ喜べないようなそんな動作も、今の熱斗にはおかしな程に嬉しくて、熱斗は静かにメイルの手を受け入れ、撫でられ続けた。
メイルが触れた所から、残り僅かな氷が解けて消えていくような、そんな温かさと安心感が熱斗を包む。
ずっとこうして撫でられていたい、ずっとこうして肩を寄せ合っていたい、そんな気持ちで胸も頭もその中の心もいっぱいになりながら、熱斗はメイルと共に二時間目と三時間目の間の休み時間を教室で過ごした。
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