あの子の足元にも影はある
まだ若干痺れの残る身体をかばいつつ、熱斗はゆっくりとPETに手を伸ばし、拾い上げる。
PETの画面を見ると、此方も何が起こったのかは一切理解できていないと言いたげなロックマンと視線がぶつかった。
熱斗はとりあえずその場で立ちあがりながら、ロックマンの身体を気遣ってみる。
「ロックマン、大丈夫か?」
「うん、僕はなんとか……熱斗くんこそ大丈夫?」
熱斗がロックマンを気遣うと、ロックマンも熱斗を気遣ってきた。
熱斗は小さく頷いてから、
「俺も大丈夫、だけど……」
と返事をしながら、周囲を見回す。
相変わらず周囲は水浸しで、ディメンショナルエリアが消えた今でも残る大量の水たまりと、地面や消火栓から噴き出す水がこの水は現実世界のものだと物語っている。
それを見て熱斗は、今回の幼女ナビによる襲撃は水にかかわるライフラインを攻撃するものだったのかと思い、これは復旧が大変な仕事になりそうだと考える。
ライフライン、それも水道関係を壊されれば人々の生活のクオリティは一気に低下するものであるから、人間を忌み嫌う新型ダークロイドによる社会襲撃の理由としては十分だ。
だから襲撃の理由はそれで納得が行く、だが熱斗は“もう一つの事”に納得がいかない様子である。
「……どうしてヤツは俺達に止めを刺さないでいなくなったんだろう?」
「さぁ……。」
熱斗の疑問に、ロックマンは上手く答えられなかった。
そう、襲撃の理由はライフラインの破壊で十分なのだが、その後の撤退の理由が全くもって不明なのだ。
新型ダークロイドが撤退するのは大抵、自身に大きなダメージを受けてこれ以上の戦闘が不可能になった時か、この前の熱斗達の敗北のように相手を戦闘不能まで追い込んだ時である。
前回は丁度その二つが重なっており、幼女ナビは前者、女性ナビは後者の理由と前者の理由である幼女ナビのカバーの為に撤退したと思われる。
しかし、今回の撤退は、幼女ナビにそれほどのダメージが蓄積していない状態で、熱斗も一瞬戦えなかったと言えど戦闘不能になった訳ではないという、例外中の例外だったのだ。
それに、撤退の直前、幼女ナビは意味深長な言葉を残している。
「怒った顔、か……。」
「熱斗くん?」
熱斗の呟きに、ロックマンがどうしたのかと言いたげに反応を見せた。
それまで自分が何かつぶやいていた自覚の無かった熱斗は驚いて、えっ? と言いたげな顔を見せ、それから自分が何を呟いていたのかに気付き慌てて首を横に振り何でもないと言った。
その焦り様を見てロックマンは何か懐疑そうな表情を見せるが、熱斗は何も無いと言いたげに澄ましたような、しかし澄ませていないような微妙な表情で、ロックマンから視線を外す。
そして熱斗はしばしの間何かを誤魔化すように周囲の様子を見ていたが、新型ダークロイドが撤退したという報告をまだ名人たちにしていない事を思い出し、改めてPETの画面に視線を向ける。
「それより指令室と通信繋いでくれよ、名人さんに終わったよって連絡しなくちゃ。」
熱斗がそう言うと、ロックマンはしばしの間何処か納得がいかないと言いたげな顔をしていたが、やがて小さく頷いて、通信画面を開いた。
PET本体の小さな画面に“Wait...”の文字が繰り返し表示され、その表示が四回目を迎えようとしたその直前に、ピッと音がして、画面に科学省指令室を背景とした名人の上半身が映る。
熱斗は極力元気に見えるように心がけながら、名人に新型ダークロイドの撤退を報告し始めた。
「名人さん、戦闘は終わったよ。仕留めそこなっちゃったけど……」
「そうか、御苦労。此方でもディメンショナルエリアと新型ダークロイドの反応の消失を確認した。それから、さんは要らないぞ。」
最初こそやや硬く事務的な反応だった名人の、いつも通りの“さん、は要らない”に、熱斗は少しだけ安心する。
何故かはよく分からないが、この時熱斗には“いつも通り”というものほど大切なものはないように思えたのだ。
その点において、前回の敗北や今回の引き分けはいつも通りとは言い難い結果である、それに気付いて、熱斗は少しだけモヤモヤとした不快感を心の底に抱えた。
しかし前回はともかく今回は大した負傷もせずに終わる事ができたのだ、それはそれで一応は勝利と考えてもいいのではないか、そう思って熱斗は精神のバランスをとる。
そうして作り上げたギリギリのバランスで笑顔を作りながら、熱斗は名人との会話を続ける。
「うん、ただ水道とか消火栓とかが壊されてるみたいだから、その辺の手配をお願いします。で、俺はもう帰って良い?」
「あぁ分かった、御苦労様。気をつけて帰るんだぞ。」
名人がそこまで言うと通信は名人の側から一方的に切られ、プツンという音を立てて名人の姿がPET画面から消え、ロックマンが映る普段の待機画面が映し出された。
熱斗はそれを確認してからPETを左肩に装着し直し、ようやく落ち着けると言いたげに小さく溜息を吐く。
すると、それとほぼ同時に今度はロックマンが熱斗の肩の上に現れた。
なんだろうと思った熱斗がロックマンに視線を合わせると、ロックマンはどこか難しい表情で熱斗を見詰めている。
それを不思議に思った熱斗が、
「どうしたんだよ?」
と問いかけると、ロックマンはどこか言い辛そうにゆっくりと口を開いて、
「ねぇ……熱斗くん。今度の定期検診、少し早くしてもらわない?」
と言った。
熱斗は突然の提案にやや目を丸くして、
「え、定期健診を?」
と不思議そうな顔と声で聴き返した。
するとロックマンはゆっくりと頷き、熱斗をじっと見詰め返す。
その目は何時になく不安と心配に揺れている様な、そして熱斗の奥底まで覗きこもうとしている様な気がして、内心で少し身構える熱斗に、ロックマンはその訳をやや言葉に詰まりながらも説明し始めた。
「うん……あのね、その、何て言ったらいいのか、僕にはよく分からないんだけど、その……さっきのクロスフュージョン、なんか違和感があったような気がして……。」
ロックマンの声はその自信の無さを表すかのように弱く、少しだけ震えているように思えた。
もしここが普段通りの平和で交通量の多い大通りのままならその騒音に掻き消されてしまいそうな小さな声。
熱斗はしばしの沈黙を挟んでから、ほんの少しだけ不安げに、
「……違和感?」
と訊き返した。
ロックマンは再び頷き、えっとね、などと無意味な単語を挟みながら必死に違和感を表現する言葉を探し集める。
「その、いつもクロスフュージョンしてる時とね、違うんだ、その、熱斗くんの存在感が、なんか……二重に、っていうの? まるで熱斗くんが二人いるみたいに感じて……」
ロックマンは時々熱斗から視線を逸らして、その視線を宙に泳がせる。
どうやら違和感とやらを感じたロックマン自身、その違和感の正体が何なのか、どう表現すればその違和感を正しく周囲に伝える事ができるのか分からないらしい。
それでもロックマンはその違和感が重大な異常の一部であるかのように感じているらしく、酷く不安そうに、そして何か怯えた様子で、必死になって言葉を紡ぐ。
幾度となくクロスフュージョンを使用して戦ってきたが初めて聞く違和感に、熱斗は小さく首を傾げる。
「俺が二人って、そんな馬鹿な……ありえないだろ。」
「……そ、そうだよね、うん、僕もそうは思うよ、あり得ない事だと思うよ。」
熱斗が軽く反論すると、ロックマンは困ったような顔で熱斗を見詰めながら、困ったように頭を掻いて熱斗の反論に同調した。
しかしロックマンはそこで言葉を止めてPETに戻る事はなく、だけど――、と続け、
「もし何かあったらいけないから、早めに検査してもらおうよ、ね?」
と、まるで儚いものに縋るような目で熱斗を見詰めて、例えば行方不明になった我が子の安否を心配する母親のような雰囲気を漂わせながら言った。
どうやらロックマンは、この違和感を極めて重大な問題の兆候で、それも熱斗の健康にかかわるものだと思っているらしい。
しかし当の熱斗はそういった違和感と言えるものを感じずに戦っていた為、ロックマンの不安にどこかピンとこないという顔をしている。
自分が二人いる、とは一体どういう事だろう、と少し悩んではみたものの、熱斗の脳裏にそれらしいものの記憶は見当たらない。
だから、ロックマンの心配は熱斗には上手く届かない。
「まぁ、そうだなぁ……検査はしといて損はないし、今度パパにでも相談してみるか。」
まだ少し納得のいかなそうな顔でそう反応した熱斗を、ロックマンはやはり不安げな表情で見詰めていたが、やがてPETの中へ戻っていった。
熱斗は改めて周囲の惨状を見まわす。
水溜りだらけの道路、今も水を溢れさせる壊れた水道管と消火栓、水道管と同時に破壊されたと思われるひび割れたアスファルト。
襲撃と戦闘の爪痕が残る道路をしばし見詰めた後、熱斗は少し疲れた顔でそれらに背を向けて、自宅へ帰る為に歩きだした。
空はもう、夕焼けに染まり始めている。
ふと近くのビルを見ると、そのビルには電光掲示板が取り付けてあり、そこに表示される時計が今は午後四時五十五分である事を熱斗に伝えてきた。
子供はもうそろそろ家に帰る時間、それに気付いた時、熱斗はふと今日は共にいる事の出来なかった幼馴染――メイルの事を思い出した。
そういえばメイルは今何をしているのだろう、そろそろ帰路につく時間帯だろうか、それともまだやいとの家の敷地の中の秘密基地で遊んでいるのだろうか。
熱斗は少し、いや大いにそれが気になって、学校で出来なかった雑談がてらメイルに連絡を取ってみようかと思い、PETを左肩から外した。
しかし、熱斗はロックマンに通信画面を開く命令を下さない。
「熱斗くん?」
PETを肩から外して待機画面を開いたまではいいものの、そこから何にも進もうとしない熱斗を不思議に思ったのか、ロックマンが呼びかける。
熱斗はしばし無表情でそんなPET画面を見詰めていたが、やがてPETを左肩に装着し直すと同時に一言、
「なんでもない。」
と言って歩き出した。
PETを握っていた時、熱斗は確かにメイルへ連絡を取りたいと思っていた。
だが、メイルがもしもまだやいと達の輪の中で一緒になって笑いあっていたらと思うと、それを邪魔してはいけないという自制心と、それを見たくないという拒絶感が強く込み上げてきて、それらが連絡を取るという選択肢をかき消したのだ。
綺麗過ぎる夕陽の中、ぼんやりとした表情で歩き続ける熱斗のその背は、ほんの一週間前にメイルが感じた哀愁を再び背負っているようであった。
そうして歩き続けて数分後、熱斗は先ほどの事件現場からほど近い場所にあるメトロの駅へと到着していた。
本来なら来た時と同じようにインラインスケートで駆けて帰ってもいい所なのだが、今の熱斗にはそれをする程の元気も勢いも残っていない。
熱斗はインラインスケートの車輪を外した靴でゆっくりと歩き、地下につながる階段を下りる。
階段を下りて駅構内に入ると、その中は帰宅ラッシュと重なったのか人で溢れていた。
スーツ姿のサラリーマンとOL、制服姿の中高生がその大多数を占めていて、後者はある程度の集団を作っておしゃべりやゲームをしながら移動している。
そのせいなのか、駅構内はどうにもざわついて煩い空間となっていた。
熱斗はその人の群れの隙間を縫うように歩き、改札へ向かう。
そして改札に着くと左肩に装着したPETを外し、自動改札機に軽く翳す。
自動改札機はピンポーンとPETの認識が成功した合図の音を軽く鳴らし、熱斗の前にある小さな扉を開いた。
熱斗はそれを通り抜け、駅の奥深くへと進んでいく。
通路を通り、その先の更なる階段を下って、熱斗はメトロの到着するホームへと到着する。
ホームに到着すると、熱斗は周囲を見渡した。
階段付近や自販機、売店の付近はやはり人が多く、主に中高生の集団がたむろしている。
自販機か売店で買ったと思われる飲食物を片手に大勢で話しあうその姿に、熱斗は憧れとも嫌悪ともとれる視線を向けた。
そして、この時の熱斗の中では憧れよりも嫌悪が勝ったのか、熱斗はやがてその集団から視線を外し、ホームの中でも一番寂れた場所、一番後方の車両が止まるホームの端っこへと向かう。
売店や自販機が無いそこには、先ほどのような中高生の集団はおらず、会社帰りと思われるサラリーマンがぽつぽつと点在しているだけで、どうしてかはわからないが、熱斗は少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
静かだ。
多少は聞こえるホームの中心部からの騒ぎ声も、何を言っているのかまではもう分からない。
自分は今、喧騒とは程遠い場所にいる、それは何だか落ち着いて、でも何処か寂しくて、どうしてかはわからないが、熱斗は表現のし難い苦い想いがふつふつと僅かに込み上げてくるのを感じた。
そして、今自分は独りなのだと自覚する。
自分にはあの喧騒を更に大きくするような力も相手も無い、その事実が熱斗の両肩に僅かな重みを残し、僅かなだるさを感じた熱斗は近くの壁にもたれかかって背中を預け、軽く俯いた。
ホームの中でも寂れたこの隅っこで、草臥れた顔のサラリーマン達に混ざる。
そんな日が来るなんて思ってもみなかったな、と考えていると、遠くからシュゴーッという音とガタンガタンという音が聞こえてきた。
メトロが風を切りながら必死に車輪を回して走る音だ、と気付いた熱斗は顔を上げ、近くの電光掲示板を見る。
そこには確かに、電車が参ります、という文字が繰り返し表示されており、熱斗はそれを確認すると僅かな時間背中を預けた壁からその背を浮かせた。
やがてメトロがホームに入り、いつも通りの位置でゆっくりと停車する。
そして扉が開くとその車内から数人の客が降りてきて、それが降り切ったのを確認すると熱斗は一番後方の車両の中の一番後方の隅っこにに乗り込んだ。
その車両は熱斗の他にはサラリーマンが二人程乗っただけで、車内に残っていた乗客も少なく、その意味で車内はホームよりも静かな空間となっている。
天井から吊り下がっている広告は熱斗の興味を惹くものではなく、熱斗は仕方なさそうに窓の外に視線を向けたが、地下である此処では窓の外に視線を向けても見えるのは灰色のコンクリートの壁だけで、熱斗は小さく溜息を吐いた。
やがて、扉が閉まってメトロは走りだす。
最近の車体は加速が早いな、昔はどうだったのだろうな、などとぼんやり考えながら、熱斗は電車特有の揺れを感じる。
揺れを感じながら、熱斗はふと現在時刻が気になって、それを確認しようとPETを左肩から外した。
待機画面には相変わらずロックマンが映っているので、熱斗はロックマンに小声で要件を告げる。
「ロックマン、現在時刻を表示してくれ。」
熱斗が言うと、ロックマンは頷いて待機画面を時計画面に切り替えた。
それによると、現在時刻は午後五時一分のようだ。
随分長い時間が経ったような気がしていたが、実際にはさっき大きなビルの壁の電光掲示板で時間を確認してからまだ六分程度しか経っていない、それを知って熱斗は何処か自嘲したい様な、自分は何をやっているのだろうという自分自身への呆れを感じた。
時間など確認して何になるというのだろう、時間が過ぎていたら何があるというのだろう、そんな事を思い熱斗は苦笑する。
だが、そんな呆れと諦めを感じながらも、熱斗は何故か次の瞬間、ロックマンにこんな指示を下していた。
「ロックマン、メールの受信フォルダを開いてくれ。」
すると画面は時計を映したままで、ロックマンの少し意外そうな声が返ってくる。
「熱斗くん、新着メールは一通も無いよ?」
その声を聞いて熱斗は一瞬声を詰まらせて動揺したが、だからといって此処で、それじゃあいいや、などと言ってはいけない気がした。
もしそう言ってしまったら、自分は来るはずの無い新着メールに期待していたと自分で認める結果になってしまう、それを熱斗はやや無意識の内に分かっていたのだ。
だから熱斗は、それがどうしたと言いたげにツンとすました声で、
「べつにいいから、さっさと開けよ。」
と言った。
画面に映っていないロックマンはおそらく少し困った顔をしているのだろう、それを考えて熱斗は少し言い方がきつかったかなと不安になるが、ロックマンはしばし沈黙した後に、
「……そう? じゃあ……はい。」
と言って、メールの受信フォルダ画面を開いてくれた。
言うまでも無いが、画面に表示される一覧の中に新着のマークがついたメールは無い。
熱斗はその画面を見て、僅かに眉を顰めた。
そしてそんな自分に気付いて、やはり来るはずもないメールを期待していたという事実をようやく正面から直視する。
ああそうだ、自分は、そろそろ子供達が家路に着く時間だからと、メイルも同じように家路について、そろそろやいと達ではない誰か、例えばこの自分――熱斗の事を気にしてくれているのではないだろうかと期待している、熱斗はそれをようやく認めた。
そして今、熱斗は自分が来るはずもないメールを勝手に期待して、実際来ていないメールに勝手に落胆している事も認めた。
馬鹿馬鹿しい、何を期待しているのやら、という自分への嘲笑と、でもメイルだって少しは気にしてくれてもいいのに、というどこか理不尽な不満が熱斗の中でぶつかり合う。
期待など持つだけ無駄だと分かっている大人な自分と、それでも期待して勝手に落胆している子供未満な自分が喧嘩をしている様なその状況は、どうにも頭がグラグラと揺れて、胸が少しだけ苦しくなって、嗚呼これはメトロの揺れのせいだけではないなと思った熱斗は小さく口元だけで自嘲の笑みを浮かべるのであった。
そんな事をしている間にもメトロは走り、秋原町駅に近付いていく。
何処かにあるスピーカーからは、それを知らせる車掌のアナウンスが聞こえてくる。
「次はー秋原町ー、秋原町でーございます。」
そのアナウンスを聞いて、もう秋原町に着くのかと気付いた熱斗は視線をPETから外し窓の外に向ける。
窓の外はまだ先ほどと変わらずコンクリートの壁が見えるだけだったが、駅に随分近付いたのは事実なのかコンクリートの質感が微妙に変わってきているように見える。
ただのコンクリートの壁ではなく、タイルを敷き詰めたような壁だと思っていると、メトロは秋原町駅ののホームに到着したのか、窓の外に反対側の車両のホームが見え始めた。
メトロは急速に減速し、やがて停車する。
そしてプシューッと空気が抜けるような音をさせながら熱斗が立っている場所とは反対側の扉が開いた。
熱斗はPETを静かに左肩に装着し直して開いた扉へ向かって歩き、そこからメトロを下りた。
ホームは帰宅ラッシュの割にはそこまで込み合っておらず、熱斗はなんとなくホッとする。
そしてホッとしてから、自分は何故そんな事に安堵しているのか疑問に思い、少し困惑した表情で頭を掻いた。
それから熱斗は僅かな人の流れに沿うようにホームを歩き、途中の階段を上って改札口に出た。
電気街の駅に入った時と同じように、自動改札機にPETを軽く翳して認識確認の音を聞きながら改札を通り抜ける。
そして更にそこから近くの階段を上り、熱斗秋原町の中にあるやや大きな通り、要するに大通りに出た。
大通りは帰宅ラッシュらしく少し込み合っていて、朝と同じようなにぎわいを見せている。
熱斗はふと、それを見渡した。
だが、熱斗が期待したものの姿は無い。
まぁ、当たり前だろうな、と落胆を言い訳で隠しながら、熱斗は大通りの歩道を自宅に向かって歩き始めた。
朝程は急がずに平然と一人で歩くサラリーマンから、朝とは違って急ぐ気配を全く見せずに集団で歩く中高生、そしてちらほら見える小学生――全てが全て、熱斗には何処か遠い世界の出来事に見えていた。
特に後者二つ、それが今の熱斗には遠い世界のおとぎ話のような非現実味を持って見えている。
集団で歩く、とはどういう事だっただろう? とか、こんな時間に歩く小学生は何をしていてこんな時間まで外に残っていたのだろう? とか、自分には分からない、という感覚が溢れて止まらない。
やがて熱斗は、周囲の人間の動きが唯の障害物の動きに変わっていくのを感じた。
まるで全てがどうでも良くなるような、全てが灰色に染まるような感覚。
人は沢山いる、しかし全て自分に関係は無い。
大通り特有のざわつきが何処か遠くに聞こえる。
そんな不思議な感覚を感じながら、熱斗は大通りを後にした。
住宅地に入ると、人通りはぐっと少なくなり、街のざわつきは何処か遠くへ消えてしまった。
気が付けば空の色も明るい橙色から薄っすらと黒っぽい青色に変わっていて、熱斗に今がやや夜寄りの夕方である事を教えてくる。
人気のない住宅街を、熱斗はただひたすら歩いた。
歩きながら、これからの事を少し考えていた。
もう少し歩けば自宅に着く、そうしたら自分は何をしたらいいのだろう? それが熱斗には分からなかった。
いや、正確には分からないのではない、したい事はあるにはある、のだが、それをしたくないという気持ちがどこかにあって、それをする事の邪魔をしているのだ。
もう少し歩けば自宅に着く、けれどその前に、メイルの様子が知りたい。
熱斗は大通りを歩いていたあの時から、自宅に帰る前にメイルの家に寄る事を考えていたのだ。
最後にPETで時間を確認した時、時刻はもう午後五時を過ぎていた。
午後五時と言えば基本的に小学生は家に帰らなければいけない時間だ、それならメイルも家に帰っているかもしれない、そうしたら少しぐらいは自分――熱斗の相手もしてくれるかもしれない、熱斗はそれを薄っすら期待、いや此処まで来るともはや妄想か、とにかくそういったことを考えている。
しかし、これにはいくらかの懸念というべき注意点もある。
確かに午後五時は基本的に小学生の帰宅時間だが、集まっている場所はやいとの家だ、もしかしたら車で全員を安全に送る事ができるから、などと言ってもう少し遅くまで遊んでいるかもしれない。
そうすれば言うまでも無く、今メイルの家を訪ねたとしてもメイルに逢う事はできず、自分の空回りな思いが自分の胸を締め付けるだけという何とも惨めな結果になるだろう。
それともうひとつ、五時は自宅に帰る時間というのがメイル達だけではなく熱斗自身にも適応される事である事も気をつけねばならない。
もしもメイルが家に帰っていたとして、そこに熱斗が向かって逢う事ができたとしても、もう五時だからとメイルから追い返される可能性や、ロックマンやはる香から早急に帰宅を促される可能性も十分にあるのだ。
そんな二つの懸念が、熱斗が明確な行動に移る邪魔をしている。
逢いたい、けど逢えない場合やすぐに別れなければいけない場合が怖い、逢わない方が良いかもしれない、だがやはり逢いたい、けれど逢えなかったり追い返されたりしたら? その時自分は自分を保っていられるのか、熱斗にはその自信が無かった。
そう考えると、このまま誰にも逢わずに帰宅する方が無難な気がして、熱斗は小さな溜息を一つ零しつつ、今日はこのまま自宅まで戻ることを決めた。
そんなことを決めている間にも歩き続けた熱斗は、もう夕闇に染まり始めた数メートル先の視界に、自宅の屋根が見え始めるのに気付き、もう一度溜息を吐くのであった。
そして空が随分とその黒さを増した時、熱斗はようやく自宅へたどり着く事ができた。
ドアの前の階段を一歩一歩踏み外さないようにゆっくりと踏みしめて上り、ドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばす。
ガチャリと音を立てて鍵の掛かっていないらしいドアを開けると、玄関から見える廊下の先、リビングの中からはテレビの音と夕飯の支度をする音が同時に聞こえてきた。
熱斗はゆっくりとドアを閉じながら室内に入り、玄関で靴を脱ぎ、またガチャリと音を立てて閉じたドアの鍵を閉める。
そして、まだ熱斗が帰ってきた事に気付いていないか、もしくは誰か来た事は分かっているがそれが熱斗かどうかは分かっていないであろうはる香に向けて、
「ただいまー。」
と言いながら廊下を進み、リビングへ向かう。
少し歩いて廊下を過ぎ、リビングに入ると、そこにはやはりはる香がいて、はる香はキッチンで夕飯の支度をしている最中だった。
テレビからは夕方のニュース番組が特に面白みも無いどころか何処か陰鬱さの漂う事故や事件のニュースを淡々と告げている声が聞こえる。
まぁ、いつも通りの夕方だな、と思った熱斗が、それまで背負っていた鞄をソファーに下ろし、手を洗う為に洗面所に向かおうとすると、背後のキッチンからはる香のやや呑気な声が聞こえてきた。
その声はこう言っている。
「今日も遅かったのね、またメイルちゃんの所かしら?」
その声が発した言葉を聞いて、熱斗の洗面所へ向けた足がぴたりと止まる。
ぞわり、と何かとても嫌なもの――理不尽な怒りが身体の奥底から湧き上がってくるのを感じながら、熱斗はリビングの出入り口付近で足を止め、振り返らずに、当てつけのように、少し勢いをつけて、
「今日は仕事!!」
と一言だけ投げつけてから、その足を再び洗面所へ向けて動かし始めた。
キッチンでそれを聞いたはる香は、あまりに不機嫌そうな熱斗のその剣幕に圧されたのか、おたまを持ったままポカンとした様子でリビングの出入り口付近を見ている。
あらまぁ、とでも言いたげなその表情は、熱斗がその身の内に抱える想いを未だ感知してはいないようだった。
そして洗面所に向かった熱斗はというと、洗面台の蛇口をひねり冷たい水を勢い良く流すと、しばしの間それを見詰めていた。
その目に浮かぶのは怒りか、それとも悔しさか、それとも自己嫌悪なのか、もしくはそれら全てが混ざったものなのだろうか、どうにも落ち着かない雰囲気をかもしている。
密かによった眉間のシワが、熱斗が酷く不機嫌である事実だけを物語っているのは確かだ。
やがて熱斗は勢い良く流れ出す水に手を伸ばし、いつも通りに手を洗い始めた。
近くに置いてあるポンプ式の石鹸のそのポンプを押す動作まで今日は何処か荒く、はる香のあの一言が熱斗の精神のバランスを一気に壊してしまった事がうかがい知れる。
少し乱雑に、周囲に石鹸の泡を飛び散らせながら手を洗う熱斗は、先ほど自分が言った一言の意味を改めて噛みしめていた。
そう、ほんの少し前、ほんの昨日までは確かにメイルの家にいて午後五時を過ぎるという事が多かった、それは事実だ、けれど、今日は違う、今日はメイルはやいとやデカオや透と共に遊んでいて、自分は独り新型ダークロイドと戦っていた、だから違う、今日は仕事だ、仕事なんだ。
そう考えれば考える程苛立ちは募り、熱斗は乱暴に手を洗うと同時に、強く奥歯を噛みしめた。
イライラする、酷くイライラする、今にも叫び出したいぐらいイライラする、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼、止まらない叫びたい壊したい壊れたい、そんな衝動が熱斗の中で渦を巻く。
それでも熱斗は何とかギリギリの所で、それは自分がすべき事じゃ無い、そんなのは気違いのする事だと思う事で衝動にブレーキをかけ、叫ぶ事も倒れる事も何も無いまま手洗いとうがいを済ませた。
手洗いとうがいを済ませると、熱斗はリビングのソファーの上に放り出した鞄を手に取らないまま、はる香を無視するように二階の自室へ上がり、その部屋の扉を閉め、普段は滅多に掛けない鍵まで掛けてから扉の前を離れ、一瞬机の前の椅子に目を向けたが結局そこには腰かけず、ベッドの上に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
ボフンッ、と軽い反発で僅かに身体が跳ね、それから静かに沈み込む。
うつ伏せに倒れこんだ熱斗は近くの枕に顔をうずめ、静かに目を閉じる。
もう、何もしたくなかったし、何も聞きたくなかったのだ。
普段なら楽しみの夕飯さえも何だか面倒臭くって、熱斗はこのまま朝までまるで死んだように深く眠っていたいという気分になる。
しかしそれには少し、部屋の明かりが邪魔だった。
熱斗はゆっくりと目を開き、幾分落ち着いた様子でベッドの上に座りなおし、天井に取り付けられた蛍光灯を眺める。
既に沈んだ太陽とは違う合成的な光だが、今の熱斗にはそれが妙に眩しく見えて、熱斗はゆっくりとベッドを下りると先ほど鍵をかけた扉の前に向かい、その扉の横にある蛍光灯のスイッチを手動で切った。
パチン、というスイッチの動く音と同時に部屋が暗くなり、熱斗はやっと息が楽になるのを感じた。
そしてPETを左肩に取り付けてあるホルダーのバンドごと外すとパソコンの置かれた机の上に置き、自分は再びベッドの上に倒れ込む。
すると不思議な事に、先ほどまでの苛立ちがスーッと退いて、頭の中のアレコレが薄れて行くのが感じられた。
楽だ、久しぶりに、身体も心も楽だ。
何故かはわからないが楽になった身体と心に少しの安心を感じて、熱斗はゆっくりと目を閉じる。
別に本気で眠ろうという訳ではないが、これと言って特にしたい事も無い熱斗は、そのまま夢と現実の間をフラフラと彷徨うように目を閉じたりたまに開いたりを繰り返しながら、ぼんやりとして過ごした。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか、外はすっかり黒色の闇に包まれて、部屋の中も本格的に暗くなった時、遠くではる香が自分を呼ぶ声が聞こえて来た気がして、熱斗はゆっくりと目を開いた。
コンコンッ、というノックの音も聞こえる。
それに気付いた熱斗はゆっくりと身体を起こす。
ベッドの上に座りなおして部屋の中を見回すと、室内はもう随分と暗く、しかし内装自体はいつもの熱斗の部屋のままで、机を見るとPETの画面だけが明るい黄緑色に輝いていた。
再び、コンコンコンッというノックの音が聞こえる。
「熱斗ー? 夕御飯よー、出てらっしゃい。」
熱斗を呼んでいるのは間違いなくはる香の声で、熱斗は一瞬、何故はる香は部屋に入ってこないで外から声をかけるだけなのだろう? とぼんやり疑問に思ったが、すぐにそれは自分が珍しく鍵を掛けたせいである事を思い出して、あぁなるほど、と一人で納得した。
そしてようやく、先ほどの苛立ちが抜け落ちた普通の声ではる香に返事をしながらベッドを下りる。
「はーい、今行くよー。」
そう言いながらベッドを下りると、はる香はそれに納得したのかノックの音が止み、そのすぐ後に階段をゆっくりと降りるトントントントンという音が聞こえてきた。
ベッドから下りた熱斗は、ホルダーに装着したまま机に置きっぱなしにしていたPETを手に取り、ホルダーについているバンドを左肩に巻きなおしながらゆっくりと部屋の扉まで歩いた。
バンドを左肩に巻き終えると部屋の扉の鍵を開け、扉を開ける。
すると熱斗の視界に明るい世界が急激に飛び込んできて、熱斗は自室の暗さとの差に驚きつつ僅かに目を細めた。
やはり暗い所から急に明るい所に出ると目が辛いな、などと考えながら、熱斗は廊下の明るさに目を慣れさせつ階段をゆっくりと下りる。
階段を下りきりリビングに近付くと、いつも通りの美味しそうな食事の匂いが漂ってきた。
それを嗅いでようやく、そういえばまだ夕飯前だったのだったか、と熱斗は思いだす。
何だか今日は色々な事があり過ぎて疲れたな、と思いつつ、熱斗はリビングに足を踏み入れるのであった。
その後、熱斗は夕飯をすませるとしばらくリビングでテレビを見て休憩し、更にその後の午後八時頃から午後九時頃の間に入浴を済ませ、早々とパジャマに着替えると自分の部屋へ戻ってきていた。
そして現在時刻は午後九時四十九分、熱斗はパソコンと向かい合いながら机の上の余ったスペースにノートを置き、本日出された宿題をゆっくりと落ち着いて、たまにロックマンのサポートを受けながら片付けている。
宿題を始めた時刻は午後九時十分頃だったので、そこから数えて既に四十分近くが経過しており、最初は大量にあったように感じていた宿題もあと少しで全て終わるという所まで進んできている。
これが終わる頃には、時刻は午後十時を少し過ぎた時間になっている事だろう、だから熱斗は、この宿題が終わったら一度手洗いを済ませてさっさと寝てしまおうと思う。
今日は本当に色々な事があって、その為他の色々な事が出来なくて、疲れた。
それでも宿題をしっかりやる自分は偉いなぁ、などと、本来なら特に褒められる事でもない当たり前のことに何故か多少の自画自賛をして無理矢理気分を持ちあげながら、熱斗は黙々と宿題に取り組む。
PETにメールの添付ファイルとして送信された問題集をパソコンの画面で開き、答えをノートにひたすら書く、書く、書く。
その作業を繰り返して、宿題はあと数問の問題を解けば終わりという所まで来た、その時、
「熱斗くん、メールが届いてるよ。」
パソコンの横の充電器に立てて置いていたPETが急にピピピッとメールの着信音を鳴らし、それに重なるようにロックマンの声が聞こえた。
それまで宿題に集中していた為に周囲の物音に耐性が無くなっていた熱斗は突然の物音に若干驚いて肩を上下させた後、折角集中していたのにその集中を削がれた事に不満を持っていると言いたげで不機嫌な表情を浮かべながらPETに視線を向け、
「こんな時間に、誰から?」
とロックマンへ尋ねた。
熱斗に尋ねられたロックマンは、ちょっと待ってね……、などと言いながらメールの送信者の名前とアドレスを確認する。
するとロックマンはそこに何を見たというのか、突然少し楽しそうな表情になって、
「メイルちゃんからだよ!」
と明るく告げてきた。
どうやらロックマンは、熱斗がメイルからのメールを喜ぶであろう事を推測し、熱斗が喜ぶ様子を思い浮かべた結果、自身も楽しそうな表情を浮かべるに至っていたようだ。
熱斗は送り主の名に少し驚いて目を見開き、一体今頃何の用事だろう、と不思議に思いながらも、もしかして自分を気にしてメールをくれたのだろうかと僅かに期待してPETに手を伸ばす。
そしてPETを手に取り自分の目前に持ってくると、ロックマンが気をきかせたのか熱斗が指示を飛ばすよりも先にメールの本文を立体画面で開いてくれた。
目の前にメールの本文が表示される、が、熱斗の表情は一向に歓喜の色を見せはしない。
それどころか熱斗の表情は徐々に落胆と思わしき影を纏い始め、PETの中ではロックマンが、あっ……、と何か失敗してしまったような声を漏らし、どこか気不味そうな顔をしている。
何百文字かを一気に読む事ができそうな大きめの立体画面、その上部に表示されたのは、百文字にも満たない短い文章だったのだ。
『明日は久しぶりにやいとちゃん達と一緒に登校しようって事になったから、迎えに行けないわ、ごめんなさい。』
たった一行、短い用件だけで作られた本文を読み終えて、熱斗はそっと立体画面を閉じ、PETを充電器に戻す。
そして、再び宿題に手をつけようと右手に鉛筆を持つ、が、その鉛筆がノートに新たな答えを書き込む事は無かった。
その代わりに熱斗はノートの端に黒くモヤモヤとした絵とすら言えない落書きを残す。
それはまるで今の熱斗の気持ちをそのまま表現したようで、静かに現実世界へ様子を見に来たロックマンはかける言葉が見つからず、黙ってその様子を見守ることしかできなかった。
モヤモヤとしてグシャグシャとした、糸が絡まり合い過ぎたような落書きをしながら、熱斗は確かな苛立ちを感じる。
どうして、どうしてこうも今日は、いやもはや今日だけではなくなってしまった、明日も、明日もメイルと接触できないのかと思うと、悔しくて悔しくてたまらない。
メイルは自分を、熱斗を気にしてメールをくれた訳ではなかった、それだけでもなかなかショックだというのに、そのメールの内容が、明日の朝は迎えに来られないだなんて、一体どういう事なのだ、と、熱斗は鉛筆を近くに放り出して頭を抱え、ギュッと目を閉じた。
今日の朝は自分の失態だ、だからメイルに非が無いのは分かる、けれど明日は? どうして明日は一緒にいてくれないのか、熱斗にはどうしても納得できない。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてだろうと考えた時、熱斗の脳裏を走り抜けたのは、先ほどのメイルからのメールの一部だった。
――“やいとちゃん達と一緒に”、か……。――
閉じたままの瞼の裏は真っ暗なはずなのに、熱斗には何故か今日一日の自分が知る限りのメイルの行動が映像となって見えた気がした。
そして何かと鮮明に想い浮かぶのは、やいとやデカオと話して楽しそうにしているメイルの姿や、やいとに呼ばれて戸惑いながらもやいとについていくメイルの姿ばかり。
きっと今日の放課後はやいととデカオと更に透と一緒にガブゴン社製のゲームでもして楽しんでいたのだろう、新型ダークロイドと必死に戦っていた光 熱斗の事など忘れて大笑いしていたのだろう、そう思うと、見えるはずの無い四人の楽しげな光景が浮かびあがって、その笑い声まで聞こえてきそうになり、熱斗はハッと目を見開くと同時に頭を抱えていた腕を机に叩きつけた。
その衝撃でPETを乗せた充電器と近くに投げ捨ててあった鉛筆が僅かに跳ね、ロックマンが驚いた顔を見せるが、そんな事はもはや知った事ではない。
叩きつけた腕の鈍い痛みだって、この胸の痛みには敵わない。
そんな事よりも、そんな事よりもあの三人が、あの三人が自分とメイルを必死になって引き裂こうとしている気がして、熱斗は近くに投げ捨てていた鉛筆を手に取るとそれを大きく振り上げ、その先端をノートのまっさらな部分に向けて突き刺すように叩きつけた。
当然、鉛筆の芯はその力に耐えきれず、ボキリと音を立てて折れ、僅かに炭素と木材の混ざり合った臭いを漂わせる。
「ね、熱斗くん、ど、どうしたの?」
意識の隅っこにようやくロックマンの戸惑いと焦りが混ざった声が聞こえた時には、熱斗はまるで激しい運動でもした後であるかのように荒い呼吸を繰り返しており、明らかに平常心とは言い難い状況に陥っていた。
血走っていてもおかしくなさそうな程見開かれた両目、荒い呼吸を繰り返す口、握りしめたのは先の折れた鉛筆。
これはもう誰が見ても異常の領域である、その領域に片足と言わず両足を突っ込んでしまった様子の熱斗を見て、もうどうしたらいいか分からないと言いたげなロックマンは、普段なら絶対に言う筈の無い最終手段に打って出る。
「ね、熱斗くん、残りは僕がやっておくから、君はもう寝なよ……大丈夫、ちゃんとやっておくから、ね? 朝少し早く起きて写せばいいだけだからさ、そうしようよ、ね?」
普段なら、宿題は自分でやってこそ意味があるものだ、と主張するロックマンが自ら進んで、宿題を代わるからもう休め、と言う程、熱斗の様子は常軌を逸脱していた。
そしてこれまた普段なら、ラッキー! とでも言って大いに喜ぶであろうハズの熱斗は、ロックマンの言葉に対する驚きと先ほどから湧き上がって止まらない苛立ちを抱えたままの表情でロックマンに視線を向けるだけである。
未だ表情に余裕が無く、一歩間違えば今すぐにでも錯乱状態になりかねない熱斗へ、ロックマンは極力優しく微笑んで、自分の言葉が嘘ではない事を示すように、残り数問の内の一問の答えをパソコンの画面に表示して見せた。
それを見て熱斗も少しは落ち着いた――負の想像の地獄から現実の世界へ引き戻されたのか、見開いた眼からは力が抜け、呼吸も徐々に穏やかになってくる。
そして熱斗は握りしめていた先の折れた鉛筆をゆっくりと机の上に置き、黒い点の残ってしまったノートを閉じると席を立って、無言のままベッドへ向かって歩き出した。
熱斗がベッドに片足を乗せると、気をきかせたのかロックマンが部屋の明かりを消す。
その瞬間、熱斗はふと得体の知れない安心感が自分を包むのを感じた。
安心感なのに得体の知れないとは少しおかしいかもしれないが、実際熱斗には何故暗くなっただけでふと気分が少しだけ楽になったのか、その理由が分からなかったのだから仕方が無い。
とにかく熱斗は、ロックマンの言う通り今日はもう眠って何もかも忘れてしまう事にした。
ベッドに両足を乗せ、掛け布団を捲って敷布団と掛け布団の間に潜り込む。
そして自分の全身を包み込むように肩まで掛け布団をかけて、その中で両足を軽く曲げ小さく丸まるような姿勢になる。
それから、熱斗は一度だけやや大きな溜息を吐くと、そっと目を閉じた。
その後、ロックマンがパソコンの電源を消したのはそれから十数分後、宿題の問題を解き終えて、熱斗の寝息が聞こえてくるのを確認した頃だったという。
それから、どれぐらいの時間が経った時だっただろうか?
「――……と、ね……と、熱…………、熱……、……斗、熱斗……」
熱斗は突如、誰かが自分を呼んでいることに気がつき、ゆっくりと目を開けた。
しかし本来見えるはずの白っぽい天井や、普段から使っているパソコンを置いた机、ベッドの近くにある本棚などは見えない。
部屋の電気がついていないのか? と熱斗はぼんやり考えたが、それにしてもこんなに暗いのはおかしい気がする。
徐々に覚醒して行く意識、その中で、熱斗は自分が今ベッドや敷布団の上におらず、掛け布団に包まれてもいない事に気が付いた。
硬い床、黒い景色、その二つが熱斗の中の此処最近は忘れかけていたある光景を思い出させて、熱斗は焦って右腕を上げる。
すると、右腕は確かにそこにあった、黒い景色を背景に、白い袖を纏った右腕がそこに見えた。
恐怖にも似た衝撃により完全に覚醒する意識、熱斗は急いで立ち上がり、自分の姿と周囲の様子を交互に確認する。
自分は、普段着を着て普段の靴を履いて丁寧にバンダナまで付けた姿をしている、コレは眠る前の姿ではない。
周囲は、ただただ黒く、何も見えない暗闇のようだが、手や足を前にのばせばそれはそこにあると確認できるので、真っ暗闇というのとは少し違う気がした。
もしくは、自分が発光しているのかもしれないが、とにかく自分の姿は確認できる、が、それ以外は何も確認できない。
熱斗はその状況に覚えがあった、今の今まで忘れていたけれど、確かに覚えがあった。
どうしてまたこんな事に、という動揺が震えとなって体を襲うが、熱斗はそれを、そんな動揺は初回だけで十分だと考えて抑え込み、叫ぶ。
「……おい! いるんだろ!? 俺のダークソウル!!」
熱斗は、今まで頭の隅に忘れ去りかけていた、自分の中の闇の塊の名前を呼んだ。
その声は黒い空間に響き渡るが、やまびこのような反響は無い。
まるで黒い闇がその声を吸い込んでいるように、この闇に終わりという壁など無いというように、熱斗の声は何処かに反射することはなく、ただ突き進むだけ。
嗚呼本当に、本当に気持ちの悪い空間だ、と熱斗が舌打ちをした時、その舌打ちの音に混じって何か別の音が聞こえてきた。
まるで誰かがゆっくり歩いている様なその安定したリズムの音に、熱斗は両耳に神経を集中させる。
すると、音が大きくなってくると同時に、熱斗の前方に闇の黒とは違う色が見え始めた。
橙色と白色、水色、そして背景とは違う黒とそれに寄りそう黄色――それは熱斗の衣服の配色と同じである。
それが何を意味しているのか理解した熱斗は、脚に力を入れ、両腕にも緊張という名の力を込めて正面を睨みつけた。
黒い闇の中に見えたその色は、闇色の霧の中から抜け出すように徐々にその姿を熱斗の前に現す。
そして足音が止まった時、熱斗の前方三メートル程の場所には、もう一人の熱斗の姿があった。
目の色が血のように赤いその熱斗は、熱斗の中の闇の塊――熱斗のダークソウルである。
「よう。久しぶりだな、熱斗。」
熱斗のダークソウルは足を止めるとひらひらと右手を振って、熱斗に挨拶などしてきた。
今夜も熱斗のダークソウルは前回同様自信に満ち溢れた様子で堂々と立っている、その姿に熱斗は大きな嫌悪感と同時に僅かな憧れのようなものを感じ、自分の中で何かがぐらりと揺れるのを感じた。
どちらが大きいと言えばそれは明らかに嫌悪感の方だ、だが、ああして堂々と人の前に立てる、その姿は少しだけ羨ましい。
自分は誰かの前で堂々と立つ事を忘れてしまったのに、どうしてそんな自分のダークソウルであるアイツはそれを自分に向けてやってのけられるのだろうか、熱斗には分からない。
闇の力がそうさせるのか、それとも、熱斗が失ったものは全てあのダークソウルが大切に持っているのか、熱斗にはその判断がつかなかった。
そうこう考えているうちに、ダークソウルは話を進める。
「どうしたんだよ? 此処しばらく全然逢いにに来なかったくせに、急に逢いに来るなんてさ。」
まるで熱斗が自分からダークソウルに逢いに来たような言い方に、熱斗は一瞬目を見開いて驚く。
それも当然だ、自分からダークソウルに逢いに行く意思など、熱斗の意識の中には欠片も無かったのだから。
だが、表層意識だろうと深層意識だろうと、そこに悲しみと妬みを抱えるだけで、このダークソウルの下へ辿り着いてしまうには十分だったのだろう。
熱斗は知らず知らずのうちに、ダークソウルのいる場所へ向かう切符を手にしていたという訳だ。
だがそれを認めたくない熱斗は反発する。
「俺がお前に逢いに来た……? 逆だろ……? お前が無理矢理俺に逢いに来たんだろ……?」
それは反発というにはやや弱く疑問形で、認めたくない事実から目を逸らし、あるはずの無い希望に縋る様だった。
何故なら、そうでなければ熱斗はもう今までの自分を保てそうになかったのだから。
それが自分の意向での事では無かったとしても、自分の中に闇を宿してしまった熱斗には、自分は“正義の味方”であり、その闇を忌嫌っているという事実だけが唯一縋れる場所なのだ。
そうして不安に震える瞳で自分を見てくる熱斗がおかしかったのか、ダークソウルはクスクスと小さく笑う。
それを見た熱斗はカッとなって、
「何がおかしいんだよ!!」
と叫んだが、ダークソウルは別段驚く様子もうろたえる様子も何も無く笑い続ける。
熱斗はこのダークソウルの余裕めいた態度が嫌いだった。
そんな熱斗を見ながらダークソウルはひとしきり笑い終えると、楽しげな様子で口を開く。
PETの画面を見ると、此方も何が起こったのかは一切理解できていないと言いたげなロックマンと視線がぶつかった。
熱斗はとりあえずその場で立ちあがりながら、ロックマンの身体を気遣ってみる。
「ロックマン、大丈夫か?」
「うん、僕はなんとか……熱斗くんこそ大丈夫?」
熱斗がロックマンを気遣うと、ロックマンも熱斗を気遣ってきた。
熱斗は小さく頷いてから、
「俺も大丈夫、だけど……」
と返事をしながら、周囲を見回す。
相変わらず周囲は水浸しで、ディメンショナルエリアが消えた今でも残る大量の水たまりと、地面や消火栓から噴き出す水がこの水は現実世界のものだと物語っている。
それを見て熱斗は、今回の幼女ナビによる襲撃は水にかかわるライフラインを攻撃するものだったのかと思い、これは復旧が大変な仕事になりそうだと考える。
ライフライン、それも水道関係を壊されれば人々の生活のクオリティは一気に低下するものであるから、人間を忌み嫌う新型ダークロイドによる社会襲撃の理由としては十分だ。
だから襲撃の理由はそれで納得が行く、だが熱斗は“もう一つの事”に納得がいかない様子である。
「……どうしてヤツは俺達に止めを刺さないでいなくなったんだろう?」
「さぁ……。」
熱斗の疑問に、ロックマンは上手く答えられなかった。
そう、襲撃の理由はライフラインの破壊で十分なのだが、その後の撤退の理由が全くもって不明なのだ。
新型ダークロイドが撤退するのは大抵、自身に大きなダメージを受けてこれ以上の戦闘が不可能になった時か、この前の熱斗達の敗北のように相手を戦闘不能まで追い込んだ時である。
前回は丁度その二つが重なっており、幼女ナビは前者、女性ナビは後者の理由と前者の理由である幼女ナビのカバーの為に撤退したと思われる。
しかし、今回の撤退は、幼女ナビにそれほどのダメージが蓄積していない状態で、熱斗も一瞬戦えなかったと言えど戦闘不能になった訳ではないという、例外中の例外だったのだ。
それに、撤退の直前、幼女ナビは意味深長な言葉を残している。
「怒った顔、か……。」
「熱斗くん?」
熱斗の呟きに、ロックマンがどうしたのかと言いたげに反応を見せた。
それまで自分が何かつぶやいていた自覚の無かった熱斗は驚いて、えっ? と言いたげな顔を見せ、それから自分が何を呟いていたのかに気付き慌てて首を横に振り何でもないと言った。
その焦り様を見てロックマンは何か懐疑そうな表情を見せるが、熱斗は何も無いと言いたげに澄ましたような、しかし澄ませていないような微妙な表情で、ロックマンから視線を外す。
そして熱斗はしばしの間何かを誤魔化すように周囲の様子を見ていたが、新型ダークロイドが撤退したという報告をまだ名人たちにしていない事を思い出し、改めてPETの画面に視線を向ける。
「それより指令室と通信繋いでくれよ、名人さんに終わったよって連絡しなくちゃ。」
熱斗がそう言うと、ロックマンはしばしの間何処か納得がいかないと言いたげな顔をしていたが、やがて小さく頷いて、通信画面を開いた。
PET本体の小さな画面に“Wait...”の文字が繰り返し表示され、その表示が四回目を迎えようとしたその直前に、ピッと音がして、画面に科学省指令室を背景とした名人の上半身が映る。
熱斗は極力元気に見えるように心がけながら、名人に新型ダークロイドの撤退を報告し始めた。
「名人さん、戦闘は終わったよ。仕留めそこなっちゃったけど……」
「そうか、御苦労。此方でもディメンショナルエリアと新型ダークロイドの反応の消失を確認した。それから、さんは要らないぞ。」
最初こそやや硬く事務的な反応だった名人の、いつも通りの“さん、は要らない”に、熱斗は少しだけ安心する。
何故かはよく分からないが、この時熱斗には“いつも通り”というものほど大切なものはないように思えたのだ。
その点において、前回の敗北や今回の引き分けはいつも通りとは言い難い結果である、それに気付いて、熱斗は少しだけモヤモヤとした不快感を心の底に抱えた。
しかし前回はともかく今回は大した負傷もせずに終わる事ができたのだ、それはそれで一応は勝利と考えてもいいのではないか、そう思って熱斗は精神のバランスをとる。
そうして作り上げたギリギリのバランスで笑顔を作りながら、熱斗は名人との会話を続ける。
「うん、ただ水道とか消火栓とかが壊されてるみたいだから、その辺の手配をお願いします。で、俺はもう帰って良い?」
「あぁ分かった、御苦労様。気をつけて帰るんだぞ。」
名人がそこまで言うと通信は名人の側から一方的に切られ、プツンという音を立てて名人の姿がPET画面から消え、ロックマンが映る普段の待機画面が映し出された。
熱斗はそれを確認してからPETを左肩に装着し直し、ようやく落ち着けると言いたげに小さく溜息を吐く。
すると、それとほぼ同時に今度はロックマンが熱斗の肩の上に現れた。
なんだろうと思った熱斗がロックマンに視線を合わせると、ロックマンはどこか難しい表情で熱斗を見詰めている。
それを不思議に思った熱斗が、
「どうしたんだよ?」
と問いかけると、ロックマンはどこか言い辛そうにゆっくりと口を開いて、
「ねぇ……熱斗くん。今度の定期検診、少し早くしてもらわない?」
と言った。
熱斗は突然の提案にやや目を丸くして、
「え、定期健診を?」
と不思議そうな顔と声で聴き返した。
するとロックマンはゆっくりと頷き、熱斗をじっと見詰め返す。
その目は何時になく不安と心配に揺れている様な、そして熱斗の奥底まで覗きこもうとしている様な気がして、内心で少し身構える熱斗に、ロックマンはその訳をやや言葉に詰まりながらも説明し始めた。
「うん……あのね、その、何て言ったらいいのか、僕にはよく分からないんだけど、その……さっきのクロスフュージョン、なんか違和感があったような気がして……。」
ロックマンの声はその自信の無さを表すかのように弱く、少しだけ震えているように思えた。
もしここが普段通りの平和で交通量の多い大通りのままならその騒音に掻き消されてしまいそうな小さな声。
熱斗はしばしの沈黙を挟んでから、ほんの少しだけ不安げに、
「……違和感?」
と訊き返した。
ロックマンは再び頷き、えっとね、などと無意味な単語を挟みながら必死に違和感を表現する言葉を探し集める。
「その、いつもクロスフュージョンしてる時とね、違うんだ、その、熱斗くんの存在感が、なんか……二重に、っていうの? まるで熱斗くんが二人いるみたいに感じて……」
ロックマンは時々熱斗から視線を逸らして、その視線を宙に泳がせる。
どうやら違和感とやらを感じたロックマン自身、その違和感の正体が何なのか、どう表現すればその違和感を正しく周囲に伝える事ができるのか分からないらしい。
それでもロックマンはその違和感が重大な異常の一部であるかのように感じているらしく、酷く不安そうに、そして何か怯えた様子で、必死になって言葉を紡ぐ。
幾度となくクロスフュージョンを使用して戦ってきたが初めて聞く違和感に、熱斗は小さく首を傾げる。
「俺が二人って、そんな馬鹿な……ありえないだろ。」
「……そ、そうだよね、うん、僕もそうは思うよ、あり得ない事だと思うよ。」
熱斗が軽く反論すると、ロックマンは困ったような顔で熱斗を見詰めながら、困ったように頭を掻いて熱斗の反論に同調した。
しかしロックマンはそこで言葉を止めてPETに戻る事はなく、だけど――、と続け、
「もし何かあったらいけないから、早めに検査してもらおうよ、ね?」
と、まるで儚いものに縋るような目で熱斗を見詰めて、例えば行方不明になった我が子の安否を心配する母親のような雰囲気を漂わせながら言った。
どうやらロックマンは、この違和感を極めて重大な問題の兆候で、それも熱斗の健康にかかわるものだと思っているらしい。
しかし当の熱斗はそういった違和感と言えるものを感じずに戦っていた為、ロックマンの不安にどこかピンとこないという顔をしている。
自分が二人いる、とは一体どういう事だろう、と少し悩んではみたものの、熱斗の脳裏にそれらしいものの記憶は見当たらない。
だから、ロックマンの心配は熱斗には上手く届かない。
「まぁ、そうだなぁ……検査はしといて損はないし、今度パパにでも相談してみるか。」
まだ少し納得のいかなそうな顔でそう反応した熱斗を、ロックマンはやはり不安げな表情で見詰めていたが、やがてPETの中へ戻っていった。
熱斗は改めて周囲の惨状を見まわす。
水溜りだらけの道路、今も水を溢れさせる壊れた水道管と消火栓、水道管と同時に破壊されたと思われるひび割れたアスファルト。
襲撃と戦闘の爪痕が残る道路をしばし見詰めた後、熱斗は少し疲れた顔でそれらに背を向けて、自宅へ帰る為に歩きだした。
空はもう、夕焼けに染まり始めている。
ふと近くのビルを見ると、そのビルには電光掲示板が取り付けてあり、そこに表示される時計が今は午後四時五十五分である事を熱斗に伝えてきた。
子供はもうそろそろ家に帰る時間、それに気付いた時、熱斗はふと今日は共にいる事の出来なかった幼馴染――メイルの事を思い出した。
そういえばメイルは今何をしているのだろう、そろそろ帰路につく時間帯だろうか、それともまだやいとの家の敷地の中の秘密基地で遊んでいるのだろうか。
熱斗は少し、いや大いにそれが気になって、学校で出来なかった雑談がてらメイルに連絡を取ってみようかと思い、PETを左肩から外した。
しかし、熱斗はロックマンに通信画面を開く命令を下さない。
「熱斗くん?」
PETを肩から外して待機画面を開いたまではいいものの、そこから何にも進もうとしない熱斗を不思議に思ったのか、ロックマンが呼びかける。
熱斗はしばし無表情でそんなPET画面を見詰めていたが、やがてPETを左肩に装着し直すと同時に一言、
「なんでもない。」
と言って歩き出した。
PETを握っていた時、熱斗は確かにメイルへ連絡を取りたいと思っていた。
だが、メイルがもしもまだやいと達の輪の中で一緒になって笑いあっていたらと思うと、それを邪魔してはいけないという自制心と、それを見たくないという拒絶感が強く込み上げてきて、それらが連絡を取るという選択肢をかき消したのだ。
綺麗過ぎる夕陽の中、ぼんやりとした表情で歩き続ける熱斗のその背は、ほんの一週間前にメイルが感じた哀愁を再び背負っているようであった。
そうして歩き続けて数分後、熱斗は先ほどの事件現場からほど近い場所にあるメトロの駅へと到着していた。
本来なら来た時と同じようにインラインスケートで駆けて帰ってもいい所なのだが、今の熱斗にはそれをする程の元気も勢いも残っていない。
熱斗はインラインスケートの車輪を外した靴でゆっくりと歩き、地下につながる階段を下りる。
階段を下りて駅構内に入ると、その中は帰宅ラッシュと重なったのか人で溢れていた。
スーツ姿のサラリーマンとOL、制服姿の中高生がその大多数を占めていて、後者はある程度の集団を作っておしゃべりやゲームをしながら移動している。
そのせいなのか、駅構内はどうにもざわついて煩い空間となっていた。
熱斗はその人の群れの隙間を縫うように歩き、改札へ向かう。
そして改札に着くと左肩に装着したPETを外し、自動改札機に軽く翳す。
自動改札機はピンポーンとPETの認識が成功した合図の音を軽く鳴らし、熱斗の前にある小さな扉を開いた。
熱斗はそれを通り抜け、駅の奥深くへと進んでいく。
通路を通り、その先の更なる階段を下って、熱斗はメトロの到着するホームへと到着する。
ホームに到着すると、熱斗は周囲を見渡した。
階段付近や自販機、売店の付近はやはり人が多く、主に中高生の集団がたむろしている。
自販機か売店で買ったと思われる飲食物を片手に大勢で話しあうその姿に、熱斗は憧れとも嫌悪ともとれる視線を向けた。
そして、この時の熱斗の中では憧れよりも嫌悪が勝ったのか、熱斗はやがてその集団から視線を外し、ホームの中でも一番寂れた場所、一番後方の車両が止まるホームの端っこへと向かう。
売店や自販機が無いそこには、先ほどのような中高生の集団はおらず、会社帰りと思われるサラリーマンがぽつぽつと点在しているだけで、どうしてかはわからないが、熱斗は少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
静かだ。
多少は聞こえるホームの中心部からの騒ぎ声も、何を言っているのかまではもう分からない。
自分は今、喧騒とは程遠い場所にいる、それは何だか落ち着いて、でも何処か寂しくて、どうしてかはわからないが、熱斗は表現のし難い苦い想いがふつふつと僅かに込み上げてくるのを感じた。
そして、今自分は独りなのだと自覚する。
自分にはあの喧騒を更に大きくするような力も相手も無い、その事実が熱斗の両肩に僅かな重みを残し、僅かなだるさを感じた熱斗は近くの壁にもたれかかって背中を預け、軽く俯いた。
ホームの中でも寂れたこの隅っこで、草臥れた顔のサラリーマン達に混ざる。
そんな日が来るなんて思ってもみなかったな、と考えていると、遠くからシュゴーッという音とガタンガタンという音が聞こえてきた。
メトロが風を切りながら必死に車輪を回して走る音だ、と気付いた熱斗は顔を上げ、近くの電光掲示板を見る。
そこには確かに、電車が参ります、という文字が繰り返し表示されており、熱斗はそれを確認すると僅かな時間背中を預けた壁からその背を浮かせた。
やがてメトロがホームに入り、いつも通りの位置でゆっくりと停車する。
そして扉が開くとその車内から数人の客が降りてきて、それが降り切ったのを確認すると熱斗は一番後方の車両の中の一番後方の隅っこにに乗り込んだ。
その車両は熱斗の他にはサラリーマンが二人程乗っただけで、車内に残っていた乗客も少なく、その意味で車内はホームよりも静かな空間となっている。
天井から吊り下がっている広告は熱斗の興味を惹くものではなく、熱斗は仕方なさそうに窓の外に視線を向けたが、地下である此処では窓の外に視線を向けても見えるのは灰色のコンクリートの壁だけで、熱斗は小さく溜息を吐いた。
やがて、扉が閉まってメトロは走りだす。
最近の車体は加速が早いな、昔はどうだったのだろうな、などとぼんやり考えながら、熱斗は電車特有の揺れを感じる。
揺れを感じながら、熱斗はふと現在時刻が気になって、それを確認しようとPETを左肩から外した。
待機画面には相変わらずロックマンが映っているので、熱斗はロックマンに小声で要件を告げる。
「ロックマン、現在時刻を表示してくれ。」
熱斗が言うと、ロックマンは頷いて待機画面を時計画面に切り替えた。
それによると、現在時刻は午後五時一分のようだ。
随分長い時間が経ったような気がしていたが、実際にはさっき大きなビルの壁の電光掲示板で時間を確認してからまだ六分程度しか経っていない、それを知って熱斗は何処か自嘲したい様な、自分は何をやっているのだろうという自分自身への呆れを感じた。
時間など確認して何になるというのだろう、時間が過ぎていたら何があるというのだろう、そんな事を思い熱斗は苦笑する。
だが、そんな呆れと諦めを感じながらも、熱斗は何故か次の瞬間、ロックマンにこんな指示を下していた。
「ロックマン、メールの受信フォルダを開いてくれ。」
すると画面は時計を映したままで、ロックマンの少し意外そうな声が返ってくる。
「熱斗くん、新着メールは一通も無いよ?」
その声を聞いて熱斗は一瞬声を詰まらせて動揺したが、だからといって此処で、それじゃあいいや、などと言ってはいけない気がした。
もしそう言ってしまったら、自分は来るはずの無い新着メールに期待していたと自分で認める結果になってしまう、それを熱斗はやや無意識の内に分かっていたのだ。
だから熱斗は、それがどうしたと言いたげにツンとすました声で、
「べつにいいから、さっさと開けよ。」
と言った。
画面に映っていないロックマンはおそらく少し困った顔をしているのだろう、それを考えて熱斗は少し言い方がきつかったかなと不安になるが、ロックマンはしばし沈黙した後に、
「……そう? じゃあ……はい。」
と言って、メールの受信フォルダ画面を開いてくれた。
言うまでも無いが、画面に表示される一覧の中に新着のマークがついたメールは無い。
熱斗はその画面を見て、僅かに眉を顰めた。
そしてそんな自分に気付いて、やはり来るはずもないメールを期待していたという事実をようやく正面から直視する。
ああそうだ、自分は、そろそろ子供達が家路に着く時間だからと、メイルも同じように家路について、そろそろやいと達ではない誰か、例えばこの自分――熱斗の事を気にしてくれているのではないだろうかと期待している、熱斗はそれをようやく認めた。
そして今、熱斗は自分が来るはずもないメールを勝手に期待して、実際来ていないメールに勝手に落胆している事も認めた。
馬鹿馬鹿しい、何を期待しているのやら、という自分への嘲笑と、でもメイルだって少しは気にしてくれてもいいのに、というどこか理不尽な不満が熱斗の中でぶつかり合う。
期待など持つだけ無駄だと分かっている大人な自分と、それでも期待して勝手に落胆している子供未満な自分が喧嘩をしている様なその状況は、どうにも頭がグラグラと揺れて、胸が少しだけ苦しくなって、嗚呼これはメトロの揺れのせいだけではないなと思った熱斗は小さく口元だけで自嘲の笑みを浮かべるのであった。
そんな事をしている間にもメトロは走り、秋原町駅に近付いていく。
何処かにあるスピーカーからは、それを知らせる車掌のアナウンスが聞こえてくる。
「次はー秋原町ー、秋原町でーございます。」
そのアナウンスを聞いて、もう秋原町に着くのかと気付いた熱斗は視線をPETから外し窓の外に向ける。
窓の外はまだ先ほどと変わらずコンクリートの壁が見えるだけだったが、駅に随分近付いたのは事実なのかコンクリートの質感が微妙に変わってきているように見える。
ただのコンクリートの壁ではなく、タイルを敷き詰めたような壁だと思っていると、メトロは秋原町駅ののホームに到着したのか、窓の外に反対側の車両のホームが見え始めた。
メトロは急速に減速し、やがて停車する。
そしてプシューッと空気が抜けるような音をさせながら熱斗が立っている場所とは反対側の扉が開いた。
熱斗はPETを静かに左肩に装着し直して開いた扉へ向かって歩き、そこからメトロを下りた。
ホームは帰宅ラッシュの割にはそこまで込み合っておらず、熱斗はなんとなくホッとする。
そしてホッとしてから、自分は何故そんな事に安堵しているのか疑問に思い、少し困惑した表情で頭を掻いた。
それから熱斗は僅かな人の流れに沿うようにホームを歩き、途中の階段を上って改札口に出た。
電気街の駅に入った時と同じように、自動改札機にPETを軽く翳して認識確認の音を聞きながら改札を通り抜ける。
そして更にそこから近くの階段を上り、熱斗秋原町の中にあるやや大きな通り、要するに大通りに出た。
大通りは帰宅ラッシュらしく少し込み合っていて、朝と同じようなにぎわいを見せている。
熱斗はふと、それを見渡した。
だが、熱斗が期待したものの姿は無い。
まぁ、当たり前だろうな、と落胆を言い訳で隠しながら、熱斗は大通りの歩道を自宅に向かって歩き始めた。
朝程は急がずに平然と一人で歩くサラリーマンから、朝とは違って急ぐ気配を全く見せずに集団で歩く中高生、そしてちらほら見える小学生――全てが全て、熱斗には何処か遠い世界の出来事に見えていた。
特に後者二つ、それが今の熱斗には遠い世界のおとぎ話のような非現実味を持って見えている。
集団で歩く、とはどういう事だっただろう? とか、こんな時間に歩く小学生は何をしていてこんな時間まで外に残っていたのだろう? とか、自分には分からない、という感覚が溢れて止まらない。
やがて熱斗は、周囲の人間の動きが唯の障害物の動きに変わっていくのを感じた。
まるで全てがどうでも良くなるような、全てが灰色に染まるような感覚。
人は沢山いる、しかし全て自分に関係は無い。
大通り特有のざわつきが何処か遠くに聞こえる。
そんな不思議な感覚を感じながら、熱斗は大通りを後にした。
住宅地に入ると、人通りはぐっと少なくなり、街のざわつきは何処か遠くへ消えてしまった。
気が付けば空の色も明るい橙色から薄っすらと黒っぽい青色に変わっていて、熱斗に今がやや夜寄りの夕方である事を教えてくる。
人気のない住宅街を、熱斗はただひたすら歩いた。
歩きながら、これからの事を少し考えていた。
もう少し歩けば自宅に着く、そうしたら自分は何をしたらいいのだろう? それが熱斗には分からなかった。
いや、正確には分からないのではない、したい事はあるにはある、のだが、それをしたくないという気持ちがどこかにあって、それをする事の邪魔をしているのだ。
もう少し歩けば自宅に着く、けれどその前に、メイルの様子が知りたい。
熱斗は大通りを歩いていたあの時から、自宅に帰る前にメイルの家に寄る事を考えていたのだ。
最後にPETで時間を確認した時、時刻はもう午後五時を過ぎていた。
午後五時と言えば基本的に小学生は家に帰らなければいけない時間だ、それならメイルも家に帰っているかもしれない、そうしたら少しぐらいは自分――熱斗の相手もしてくれるかもしれない、熱斗はそれを薄っすら期待、いや此処まで来るともはや妄想か、とにかくそういったことを考えている。
しかし、これにはいくらかの懸念というべき注意点もある。
確かに午後五時は基本的に小学生の帰宅時間だが、集まっている場所はやいとの家だ、もしかしたら車で全員を安全に送る事ができるから、などと言ってもう少し遅くまで遊んでいるかもしれない。
そうすれば言うまでも無く、今メイルの家を訪ねたとしてもメイルに逢う事はできず、自分の空回りな思いが自分の胸を締め付けるだけという何とも惨めな結果になるだろう。
それともうひとつ、五時は自宅に帰る時間というのがメイル達だけではなく熱斗自身にも適応される事である事も気をつけねばならない。
もしもメイルが家に帰っていたとして、そこに熱斗が向かって逢う事ができたとしても、もう五時だからとメイルから追い返される可能性や、ロックマンやはる香から早急に帰宅を促される可能性も十分にあるのだ。
そんな二つの懸念が、熱斗が明確な行動に移る邪魔をしている。
逢いたい、けど逢えない場合やすぐに別れなければいけない場合が怖い、逢わない方が良いかもしれない、だがやはり逢いたい、けれど逢えなかったり追い返されたりしたら? その時自分は自分を保っていられるのか、熱斗にはその自信が無かった。
そう考えると、このまま誰にも逢わずに帰宅する方が無難な気がして、熱斗は小さな溜息を一つ零しつつ、今日はこのまま自宅まで戻ることを決めた。
そんなことを決めている間にも歩き続けた熱斗は、もう夕闇に染まり始めた数メートル先の視界に、自宅の屋根が見え始めるのに気付き、もう一度溜息を吐くのであった。
そして空が随分とその黒さを増した時、熱斗はようやく自宅へたどり着く事ができた。
ドアの前の階段を一歩一歩踏み外さないようにゆっくりと踏みしめて上り、ドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばす。
ガチャリと音を立てて鍵の掛かっていないらしいドアを開けると、玄関から見える廊下の先、リビングの中からはテレビの音と夕飯の支度をする音が同時に聞こえてきた。
熱斗はゆっくりとドアを閉じながら室内に入り、玄関で靴を脱ぎ、またガチャリと音を立てて閉じたドアの鍵を閉める。
そして、まだ熱斗が帰ってきた事に気付いていないか、もしくは誰か来た事は分かっているがそれが熱斗かどうかは分かっていないであろうはる香に向けて、
「ただいまー。」
と言いながら廊下を進み、リビングへ向かう。
少し歩いて廊下を過ぎ、リビングに入ると、そこにはやはりはる香がいて、はる香はキッチンで夕飯の支度をしている最中だった。
テレビからは夕方のニュース番組が特に面白みも無いどころか何処か陰鬱さの漂う事故や事件のニュースを淡々と告げている声が聞こえる。
まぁ、いつも通りの夕方だな、と思った熱斗が、それまで背負っていた鞄をソファーに下ろし、手を洗う為に洗面所に向かおうとすると、背後のキッチンからはる香のやや呑気な声が聞こえてきた。
その声はこう言っている。
「今日も遅かったのね、またメイルちゃんの所かしら?」
その声が発した言葉を聞いて、熱斗の洗面所へ向けた足がぴたりと止まる。
ぞわり、と何かとても嫌なもの――理不尽な怒りが身体の奥底から湧き上がってくるのを感じながら、熱斗はリビングの出入り口付近で足を止め、振り返らずに、当てつけのように、少し勢いをつけて、
「今日は仕事!!」
と一言だけ投げつけてから、その足を再び洗面所へ向けて動かし始めた。
キッチンでそれを聞いたはる香は、あまりに不機嫌そうな熱斗のその剣幕に圧されたのか、おたまを持ったままポカンとした様子でリビングの出入り口付近を見ている。
あらまぁ、とでも言いたげなその表情は、熱斗がその身の内に抱える想いを未だ感知してはいないようだった。
そして洗面所に向かった熱斗はというと、洗面台の蛇口をひねり冷たい水を勢い良く流すと、しばしの間それを見詰めていた。
その目に浮かぶのは怒りか、それとも悔しさか、それとも自己嫌悪なのか、もしくはそれら全てが混ざったものなのだろうか、どうにも落ち着かない雰囲気をかもしている。
密かによった眉間のシワが、熱斗が酷く不機嫌である事実だけを物語っているのは確かだ。
やがて熱斗は勢い良く流れ出す水に手を伸ばし、いつも通りに手を洗い始めた。
近くに置いてあるポンプ式の石鹸のそのポンプを押す動作まで今日は何処か荒く、はる香のあの一言が熱斗の精神のバランスを一気に壊してしまった事がうかがい知れる。
少し乱雑に、周囲に石鹸の泡を飛び散らせながら手を洗う熱斗は、先ほど自分が言った一言の意味を改めて噛みしめていた。
そう、ほんの少し前、ほんの昨日までは確かにメイルの家にいて午後五時を過ぎるという事が多かった、それは事実だ、けれど、今日は違う、今日はメイルはやいとやデカオや透と共に遊んでいて、自分は独り新型ダークロイドと戦っていた、だから違う、今日は仕事だ、仕事なんだ。
そう考えれば考える程苛立ちは募り、熱斗は乱暴に手を洗うと同時に、強く奥歯を噛みしめた。
イライラする、酷くイライラする、今にも叫び出したいぐらいイライラする、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼、止まらない叫びたい壊したい壊れたい、そんな衝動が熱斗の中で渦を巻く。
それでも熱斗は何とかギリギリの所で、それは自分がすべき事じゃ無い、そんなのは気違いのする事だと思う事で衝動にブレーキをかけ、叫ぶ事も倒れる事も何も無いまま手洗いとうがいを済ませた。
手洗いとうがいを済ませると、熱斗はリビングのソファーの上に放り出した鞄を手に取らないまま、はる香を無視するように二階の自室へ上がり、その部屋の扉を閉め、普段は滅多に掛けない鍵まで掛けてから扉の前を離れ、一瞬机の前の椅子に目を向けたが結局そこには腰かけず、ベッドの上に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
ボフンッ、と軽い反発で僅かに身体が跳ね、それから静かに沈み込む。
うつ伏せに倒れこんだ熱斗は近くの枕に顔をうずめ、静かに目を閉じる。
もう、何もしたくなかったし、何も聞きたくなかったのだ。
普段なら楽しみの夕飯さえも何だか面倒臭くって、熱斗はこのまま朝までまるで死んだように深く眠っていたいという気分になる。
しかしそれには少し、部屋の明かりが邪魔だった。
熱斗はゆっくりと目を開き、幾分落ち着いた様子でベッドの上に座りなおし、天井に取り付けられた蛍光灯を眺める。
既に沈んだ太陽とは違う合成的な光だが、今の熱斗にはそれが妙に眩しく見えて、熱斗はゆっくりとベッドを下りると先ほど鍵をかけた扉の前に向かい、その扉の横にある蛍光灯のスイッチを手動で切った。
パチン、というスイッチの動く音と同時に部屋が暗くなり、熱斗はやっと息が楽になるのを感じた。
そしてPETを左肩に取り付けてあるホルダーのバンドごと外すとパソコンの置かれた机の上に置き、自分は再びベッドの上に倒れ込む。
すると不思議な事に、先ほどまでの苛立ちがスーッと退いて、頭の中のアレコレが薄れて行くのが感じられた。
楽だ、久しぶりに、身体も心も楽だ。
何故かはわからないが楽になった身体と心に少しの安心を感じて、熱斗はゆっくりと目を閉じる。
別に本気で眠ろうという訳ではないが、これと言って特にしたい事も無い熱斗は、そのまま夢と現実の間をフラフラと彷徨うように目を閉じたりたまに開いたりを繰り返しながら、ぼんやりとして過ごした。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか、外はすっかり黒色の闇に包まれて、部屋の中も本格的に暗くなった時、遠くではる香が自分を呼ぶ声が聞こえて来た気がして、熱斗はゆっくりと目を開いた。
コンコンッ、というノックの音も聞こえる。
それに気付いた熱斗はゆっくりと身体を起こす。
ベッドの上に座りなおして部屋の中を見回すと、室内はもう随分と暗く、しかし内装自体はいつもの熱斗の部屋のままで、机を見るとPETの画面だけが明るい黄緑色に輝いていた。
再び、コンコンコンッというノックの音が聞こえる。
「熱斗ー? 夕御飯よー、出てらっしゃい。」
熱斗を呼んでいるのは間違いなくはる香の声で、熱斗は一瞬、何故はる香は部屋に入ってこないで外から声をかけるだけなのだろう? とぼんやり疑問に思ったが、すぐにそれは自分が珍しく鍵を掛けたせいである事を思い出して、あぁなるほど、と一人で納得した。
そしてようやく、先ほどの苛立ちが抜け落ちた普通の声ではる香に返事をしながらベッドを下りる。
「はーい、今行くよー。」
そう言いながらベッドを下りると、はる香はそれに納得したのかノックの音が止み、そのすぐ後に階段をゆっくりと降りるトントントントンという音が聞こえてきた。
ベッドから下りた熱斗は、ホルダーに装着したまま机に置きっぱなしにしていたPETを手に取り、ホルダーについているバンドを左肩に巻きなおしながらゆっくりと部屋の扉まで歩いた。
バンドを左肩に巻き終えると部屋の扉の鍵を開け、扉を開ける。
すると熱斗の視界に明るい世界が急激に飛び込んできて、熱斗は自室の暗さとの差に驚きつつ僅かに目を細めた。
やはり暗い所から急に明るい所に出ると目が辛いな、などと考えながら、熱斗は廊下の明るさに目を慣れさせつ階段をゆっくりと下りる。
階段を下りきりリビングに近付くと、いつも通りの美味しそうな食事の匂いが漂ってきた。
それを嗅いでようやく、そういえばまだ夕飯前だったのだったか、と熱斗は思いだす。
何だか今日は色々な事があり過ぎて疲れたな、と思いつつ、熱斗はリビングに足を踏み入れるのであった。
その後、熱斗は夕飯をすませるとしばらくリビングでテレビを見て休憩し、更にその後の午後八時頃から午後九時頃の間に入浴を済ませ、早々とパジャマに着替えると自分の部屋へ戻ってきていた。
そして現在時刻は午後九時四十九分、熱斗はパソコンと向かい合いながら机の上の余ったスペースにノートを置き、本日出された宿題をゆっくりと落ち着いて、たまにロックマンのサポートを受けながら片付けている。
宿題を始めた時刻は午後九時十分頃だったので、そこから数えて既に四十分近くが経過しており、最初は大量にあったように感じていた宿題もあと少しで全て終わるという所まで進んできている。
これが終わる頃には、時刻は午後十時を少し過ぎた時間になっている事だろう、だから熱斗は、この宿題が終わったら一度手洗いを済ませてさっさと寝てしまおうと思う。
今日は本当に色々な事があって、その為他の色々な事が出来なくて、疲れた。
それでも宿題をしっかりやる自分は偉いなぁ、などと、本来なら特に褒められる事でもない当たり前のことに何故か多少の自画自賛をして無理矢理気分を持ちあげながら、熱斗は黙々と宿題に取り組む。
PETにメールの添付ファイルとして送信された問題集をパソコンの画面で開き、答えをノートにひたすら書く、書く、書く。
その作業を繰り返して、宿題はあと数問の問題を解けば終わりという所まで来た、その時、
「熱斗くん、メールが届いてるよ。」
パソコンの横の充電器に立てて置いていたPETが急にピピピッとメールの着信音を鳴らし、それに重なるようにロックマンの声が聞こえた。
それまで宿題に集中していた為に周囲の物音に耐性が無くなっていた熱斗は突然の物音に若干驚いて肩を上下させた後、折角集中していたのにその集中を削がれた事に不満を持っていると言いたげで不機嫌な表情を浮かべながらPETに視線を向け、
「こんな時間に、誰から?」
とロックマンへ尋ねた。
熱斗に尋ねられたロックマンは、ちょっと待ってね……、などと言いながらメールの送信者の名前とアドレスを確認する。
するとロックマンはそこに何を見たというのか、突然少し楽しそうな表情になって、
「メイルちゃんからだよ!」
と明るく告げてきた。
どうやらロックマンは、熱斗がメイルからのメールを喜ぶであろう事を推測し、熱斗が喜ぶ様子を思い浮かべた結果、自身も楽しそうな表情を浮かべるに至っていたようだ。
熱斗は送り主の名に少し驚いて目を見開き、一体今頃何の用事だろう、と不思議に思いながらも、もしかして自分を気にしてメールをくれたのだろうかと僅かに期待してPETに手を伸ばす。
そしてPETを手に取り自分の目前に持ってくると、ロックマンが気をきかせたのか熱斗が指示を飛ばすよりも先にメールの本文を立体画面で開いてくれた。
目の前にメールの本文が表示される、が、熱斗の表情は一向に歓喜の色を見せはしない。
それどころか熱斗の表情は徐々に落胆と思わしき影を纏い始め、PETの中ではロックマンが、あっ……、と何か失敗してしまったような声を漏らし、どこか気不味そうな顔をしている。
何百文字かを一気に読む事ができそうな大きめの立体画面、その上部に表示されたのは、百文字にも満たない短い文章だったのだ。
『明日は久しぶりにやいとちゃん達と一緒に登校しようって事になったから、迎えに行けないわ、ごめんなさい。』
たった一行、短い用件だけで作られた本文を読み終えて、熱斗はそっと立体画面を閉じ、PETを充電器に戻す。
そして、再び宿題に手をつけようと右手に鉛筆を持つ、が、その鉛筆がノートに新たな答えを書き込む事は無かった。
その代わりに熱斗はノートの端に黒くモヤモヤとした絵とすら言えない落書きを残す。
それはまるで今の熱斗の気持ちをそのまま表現したようで、静かに現実世界へ様子を見に来たロックマンはかける言葉が見つからず、黙ってその様子を見守ることしかできなかった。
モヤモヤとしてグシャグシャとした、糸が絡まり合い過ぎたような落書きをしながら、熱斗は確かな苛立ちを感じる。
どうして、どうしてこうも今日は、いやもはや今日だけではなくなってしまった、明日も、明日もメイルと接触できないのかと思うと、悔しくて悔しくてたまらない。
メイルは自分を、熱斗を気にしてメールをくれた訳ではなかった、それだけでもなかなかショックだというのに、そのメールの内容が、明日の朝は迎えに来られないだなんて、一体どういう事なのだ、と、熱斗は鉛筆を近くに放り出して頭を抱え、ギュッと目を閉じた。
今日の朝は自分の失態だ、だからメイルに非が無いのは分かる、けれど明日は? どうして明日は一緒にいてくれないのか、熱斗にはどうしても納得できない。
どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてだろうと考えた時、熱斗の脳裏を走り抜けたのは、先ほどのメイルからのメールの一部だった。
――“やいとちゃん達と一緒に”、か……。――
閉じたままの瞼の裏は真っ暗なはずなのに、熱斗には何故か今日一日の自分が知る限りのメイルの行動が映像となって見えた気がした。
そして何かと鮮明に想い浮かぶのは、やいとやデカオと話して楽しそうにしているメイルの姿や、やいとに呼ばれて戸惑いながらもやいとについていくメイルの姿ばかり。
きっと今日の放課後はやいととデカオと更に透と一緒にガブゴン社製のゲームでもして楽しんでいたのだろう、新型ダークロイドと必死に戦っていた光 熱斗の事など忘れて大笑いしていたのだろう、そう思うと、見えるはずの無い四人の楽しげな光景が浮かびあがって、その笑い声まで聞こえてきそうになり、熱斗はハッと目を見開くと同時に頭を抱えていた腕を机に叩きつけた。
その衝撃でPETを乗せた充電器と近くに投げ捨ててあった鉛筆が僅かに跳ね、ロックマンが驚いた顔を見せるが、そんな事はもはや知った事ではない。
叩きつけた腕の鈍い痛みだって、この胸の痛みには敵わない。
そんな事よりも、そんな事よりもあの三人が、あの三人が自分とメイルを必死になって引き裂こうとしている気がして、熱斗は近くに投げ捨てていた鉛筆を手に取るとそれを大きく振り上げ、その先端をノートのまっさらな部分に向けて突き刺すように叩きつけた。
当然、鉛筆の芯はその力に耐えきれず、ボキリと音を立てて折れ、僅かに炭素と木材の混ざり合った臭いを漂わせる。
「ね、熱斗くん、ど、どうしたの?」
意識の隅っこにようやくロックマンの戸惑いと焦りが混ざった声が聞こえた時には、熱斗はまるで激しい運動でもした後であるかのように荒い呼吸を繰り返しており、明らかに平常心とは言い難い状況に陥っていた。
血走っていてもおかしくなさそうな程見開かれた両目、荒い呼吸を繰り返す口、握りしめたのは先の折れた鉛筆。
これはもう誰が見ても異常の領域である、その領域に片足と言わず両足を突っ込んでしまった様子の熱斗を見て、もうどうしたらいいか分からないと言いたげなロックマンは、普段なら絶対に言う筈の無い最終手段に打って出る。
「ね、熱斗くん、残りは僕がやっておくから、君はもう寝なよ……大丈夫、ちゃんとやっておくから、ね? 朝少し早く起きて写せばいいだけだからさ、そうしようよ、ね?」
普段なら、宿題は自分でやってこそ意味があるものだ、と主張するロックマンが自ら進んで、宿題を代わるからもう休め、と言う程、熱斗の様子は常軌を逸脱していた。
そしてこれまた普段なら、ラッキー! とでも言って大いに喜ぶであろうハズの熱斗は、ロックマンの言葉に対する驚きと先ほどから湧き上がって止まらない苛立ちを抱えたままの表情でロックマンに視線を向けるだけである。
未だ表情に余裕が無く、一歩間違えば今すぐにでも錯乱状態になりかねない熱斗へ、ロックマンは極力優しく微笑んで、自分の言葉が嘘ではない事を示すように、残り数問の内の一問の答えをパソコンの画面に表示して見せた。
それを見て熱斗も少しは落ち着いた――負の想像の地獄から現実の世界へ引き戻されたのか、見開いた眼からは力が抜け、呼吸も徐々に穏やかになってくる。
そして熱斗は握りしめていた先の折れた鉛筆をゆっくりと机の上に置き、黒い点の残ってしまったノートを閉じると席を立って、無言のままベッドへ向かって歩き出した。
熱斗がベッドに片足を乗せると、気をきかせたのかロックマンが部屋の明かりを消す。
その瞬間、熱斗はふと得体の知れない安心感が自分を包むのを感じた。
安心感なのに得体の知れないとは少しおかしいかもしれないが、実際熱斗には何故暗くなっただけでふと気分が少しだけ楽になったのか、その理由が分からなかったのだから仕方が無い。
とにかく熱斗は、ロックマンの言う通り今日はもう眠って何もかも忘れてしまう事にした。
ベッドに両足を乗せ、掛け布団を捲って敷布団と掛け布団の間に潜り込む。
そして自分の全身を包み込むように肩まで掛け布団をかけて、その中で両足を軽く曲げ小さく丸まるような姿勢になる。
それから、熱斗は一度だけやや大きな溜息を吐くと、そっと目を閉じた。
その後、ロックマンがパソコンの電源を消したのはそれから十数分後、宿題の問題を解き終えて、熱斗の寝息が聞こえてくるのを確認した頃だったという。
それから、どれぐらいの時間が経った時だっただろうか?
「――……と、ね……と、熱…………、熱……、……斗、熱斗……」
熱斗は突如、誰かが自分を呼んでいることに気がつき、ゆっくりと目を開けた。
しかし本来見えるはずの白っぽい天井や、普段から使っているパソコンを置いた机、ベッドの近くにある本棚などは見えない。
部屋の電気がついていないのか? と熱斗はぼんやり考えたが、それにしてもこんなに暗いのはおかしい気がする。
徐々に覚醒して行く意識、その中で、熱斗は自分が今ベッドや敷布団の上におらず、掛け布団に包まれてもいない事に気が付いた。
硬い床、黒い景色、その二つが熱斗の中の此処最近は忘れかけていたある光景を思い出させて、熱斗は焦って右腕を上げる。
すると、右腕は確かにそこにあった、黒い景色を背景に、白い袖を纏った右腕がそこに見えた。
恐怖にも似た衝撃により完全に覚醒する意識、熱斗は急いで立ち上がり、自分の姿と周囲の様子を交互に確認する。
自分は、普段着を着て普段の靴を履いて丁寧にバンダナまで付けた姿をしている、コレは眠る前の姿ではない。
周囲は、ただただ黒く、何も見えない暗闇のようだが、手や足を前にのばせばそれはそこにあると確認できるので、真っ暗闇というのとは少し違う気がした。
もしくは、自分が発光しているのかもしれないが、とにかく自分の姿は確認できる、が、それ以外は何も確認できない。
熱斗はその状況に覚えがあった、今の今まで忘れていたけれど、確かに覚えがあった。
どうしてまたこんな事に、という動揺が震えとなって体を襲うが、熱斗はそれを、そんな動揺は初回だけで十分だと考えて抑え込み、叫ぶ。
「……おい! いるんだろ!? 俺のダークソウル!!」
熱斗は、今まで頭の隅に忘れ去りかけていた、自分の中の闇の塊の名前を呼んだ。
その声は黒い空間に響き渡るが、やまびこのような反響は無い。
まるで黒い闇がその声を吸い込んでいるように、この闇に終わりという壁など無いというように、熱斗の声は何処かに反射することはなく、ただ突き進むだけ。
嗚呼本当に、本当に気持ちの悪い空間だ、と熱斗が舌打ちをした時、その舌打ちの音に混じって何か別の音が聞こえてきた。
まるで誰かがゆっくり歩いている様なその安定したリズムの音に、熱斗は両耳に神経を集中させる。
すると、音が大きくなってくると同時に、熱斗の前方に闇の黒とは違う色が見え始めた。
橙色と白色、水色、そして背景とは違う黒とそれに寄りそう黄色――それは熱斗の衣服の配色と同じである。
それが何を意味しているのか理解した熱斗は、脚に力を入れ、両腕にも緊張という名の力を込めて正面を睨みつけた。
黒い闇の中に見えたその色は、闇色の霧の中から抜け出すように徐々にその姿を熱斗の前に現す。
そして足音が止まった時、熱斗の前方三メートル程の場所には、もう一人の熱斗の姿があった。
目の色が血のように赤いその熱斗は、熱斗の中の闇の塊――熱斗のダークソウルである。
「よう。久しぶりだな、熱斗。」
熱斗のダークソウルは足を止めるとひらひらと右手を振って、熱斗に挨拶などしてきた。
今夜も熱斗のダークソウルは前回同様自信に満ち溢れた様子で堂々と立っている、その姿に熱斗は大きな嫌悪感と同時に僅かな憧れのようなものを感じ、自分の中で何かがぐらりと揺れるのを感じた。
どちらが大きいと言えばそれは明らかに嫌悪感の方だ、だが、ああして堂々と人の前に立てる、その姿は少しだけ羨ましい。
自分は誰かの前で堂々と立つ事を忘れてしまったのに、どうしてそんな自分のダークソウルであるアイツはそれを自分に向けてやってのけられるのだろうか、熱斗には分からない。
闇の力がそうさせるのか、それとも、熱斗が失ったものは全てあのダークソウルが大切に持っているのか、熱斗にはその判断がつかなかった。
そうこう考えているうちに、ダークソウルは話を進める。
「どうしたんだよ? 此処しばらく全然逢いにに来なかったくせに、急に逢いに来るなんてさ。」
まるで熱斗が自分からダークソウルに逢いに来たような言い方に、熱斗は一瞬目を見開いて驚く。
それも当然だ、自分からダークソウルに逢いに行く意思など、熱斗の意識の中には欠片も無かったのだから。
だが、表層意識だろうと深層意識だろうと、そこに悲しみと妬みを抱えるだけで、このダークソウルの下へ辿り着いてしまうには十分だったのだろう。
熱斗は知らず知らずのうちに、ダークソウルのいる場所へ向かう切符を手にしていたという訳だ。
だがそれを認めたくない熱斗は反発する。
「俺がお前に逢いに来た……? 逆だろ……? お前が無理矢理俺に逢いに来たんだろ……?」
それは反発というにはやや弱く疑問形で、認めたくない事実から目を逸らし、あるはずの無い希望に縋る様だった。
何故なら、そうでなければ熱斗はもう今までの自分を保てそうになかったのだから。
それが自分の意向での事では無かったとしても、自分の中に闇を宿してしまった熱斗には、自分は“正義の味方”であり、その闇を忌嫌っているという事実だけが唯一縋れる場所なのだ。
そうして不安に震える瞳で自分を見てくる熱斗がおかしかったのか、ダークソウルはクスクスと小さく笑う。
それを見た熱斗はカッとなって、
「何がおかしいんだよ!!」
と叫んだが、ダークソウルは別段驚く様子もうろたえる様子も何も無く笑い続ける。
熱斗はこのダークソウルの余裕めいた態度が嫌いだった。
そんな熱斗を見ながらダークソウルはひとしきり笑い終えると、楽しげな様子で口を開く。