あの子の足元にも影はある
何か困ったようにも見えるその笑みに、メイルは頭上に疑問符を浮かべたような表情を向けたが、熱斗はその訳を話そうとはしない。
そう、話せるわけが無いのだ、メイルが自分以外の誰か――今回の場合はデカオとやいと、それと話しているその状況を不愉快に想っていたなど、熱斗には口にできる筈が無かった。
熱斗は必死に自分の中で自分を納得させるように、朝遅れた自分が悪い、メイルは自分がいなかったから二人と話していただけだ、自分が来たらこうして声をかけてくれたじゃないか、と繰り返す。
悪いのはメイルではない、デカオとやいとでもない、ついでにロックマンやロールでもない、この自分だ、熱斗なのだと自分に言い聞かせ、想っている事が外から見えないように必死に笑顔を作りだす。
誰かにへつらうように、何か困っているように、何か隠しているように笑う熱斗に、メイルは懐疑そうな視線を少しだけ向ける。
「熱斗、何かあったの?」
「え、そ、そんな事ないぜ?」
突然のメイルからの質問に、熱斗は一瞬息が止まるかと思ったが、なんとかそれを堪え、妙な笑顔のまま首を横に振った。
メイルに気取られてはいけない、こんな汚い気持ち、メイルにも誰にも気取られてはいけない、そう考える熱斗は少しでも自然に笑おうと必死になる。
その様子を見てメイルは更に懐疑の視線を深めるのだが、熱斗が言いたくないならそれでもいいかと思ったのか、やがてふと視線から力を抜いた。
メイルの視線が懐疑そうな力を失った事で熱斗は少しホッと胸を撫で下ろす。
そしてここ一週間朝の定型文となり始めている一言をメイルに投げかけた。
「あ、ところでさ、メイルちゃん今日は遊べる?」
そう、学校でメイルの視線が、声が、関心が得られないのなら、別の場所で得れば良いだけの話なのだ、と気分を切り替えて聞いたこの言葉が、その日一日熱斗が落ち込む原因となってしまうなど、この瞬間の熱斗は思ってもみなかった。
メイルは普段と同じように少し悩む表情を見せたが、熱斗はその表情の中に何か深刻そうな陰りを見つけた。
おかしい、普段の用事があるかどうかを思い出している時の顔と少し違っている、そう思った熱斗が、もしかして何か外せない用事があるのかと訊こうとしたその瞬間、
「……ごめんなさい、今日はやいとちゃん達に先に誘われてて……行ってもいいかしら?」
メイルの口から放たれた言葉に、熱斗は頭の中で何かが割れる音がして、メイルと自分の間に冷たい風が吹き抜けて行くようなイメージを感じた。
メイルが自分から、熱斗から離れようとしている、それを感じた途端、一度は崩れた壁がまた蘇ったような感覚が熱斗を襲ったのだ。
口が渇いて言葉が出なくなる、頭の中がグラグラと揺れる、指先が小さく震える、身体全体がその事実を拒絶しているのが分かる。
そして咄嗟に浮かんだ“嫌だ”の一言が肺の中の気管支から気管から喉から今にも出ようとしている、それを熱斗は必死に抑え込んだ。
何が嫌だというのだ、こんな事でメイルを拘束してはいけない、自分がそうであるように、メイルにだってやいとやデカオは友達で、友達が友達と遊ぶ事を阻止するなんて、そんな資格は自分には無い、そんな正論で拒絶感を抑えつける。
「……あぁ、うん! 行っといでよ!」
また無理矢理笑顔を作って答えた熱斗に、メイルは何処か申し訳なさそうな、心配そうな視線を向ける。
どうやらメイルは熱斗のその笑顔が自然な感情から来ているものではない事を見抜いているらしい。
しかし幸い、熱斗が嫌がっているのはメイルとデカオ達の交友が深まる事であるという事態までは見抜いていないらしく、メイルは、もしかして嫌なの? などとは聞かず、
「えっと、よかったら熱斗も、来る……?」
と訊いてきた。
しかし、その何処となく弱々しい疑問形と、自分抜きで話していた楽しそうな三人の姿と、そして何より以前の自分の行動とその結果がその手をとる事を拒ませる。
弱々しい疑問形はきっと熱斗が来る事を望んでいないからで、自分抜きでも楽しそうに話していた三人の姿はきっと熱斗がその集団の世界の一部になっていない証拠だ。
そして何よりあの時――退院翌日にあの四人に上手く馴染めなかった時点で、自分が今日も付いていったとしてどうなるかは決まっている。
そう思った熱斗は、僅かに俯いて首を横に振り、少し困ったような、残念そうな、そんな笑顔をメイルに向けた。
「俺はいいや、メイルちゃん楽しんでおいでよ。」
熱斗がそう言った時、教室の前方で扉が開く音がした。
まり子が教室に入ってきたのだ。
メイルはまだ何か言いたげな顔をしていたが、これ以上メイルを見ていたら本心が抑えられなくなると思った熱斗は、ホームルームだから前を向くのだと自分に言い訳をしながら前方に視線を移す。
そして耳がメイルの声ではなくまり子の声を拾うように意識を集中した。
そうでもしなければ、熱斗は今すぐにでも気が変になってしまいそうだったのだ。
やがてメイルも何か言う事を諦めたのか、単にタイミングを逃してしまったのか、はたまたその両方なのかは分からないが、無言になって前方を向きホームルームに参加した。
そしてそれから二時間後、いつもと同じように午前の授業の半分を終えたまり子が教室から姿を消した時、熱斗はどんよりと混濁した気持ちで筆記用具やノートを鞄に仕舞っていた。
隣の席には、此処最近のいつも通りメイルがいるが、熱斗はなんとなく、いやどうにも、メイルと話す気になれずにいる。
昨日まではあんなに嬉しかったメイルと共に迎える休み時間が、今日はどうにも嬉しくない、いやそれどころか心臓はさっきから収縮ばかりしているような苦しさを覚えて、身体は心に安らぎを与えてくれない。
どうしようもない息苦しさが熱斗をじわじわと侵食するように襲っていて、熱斗はそれから逃れるように机の上に腕を置いてその上に顔を伏せた。
「えっと、熱斗……?」
そんな熱斗の様子を見て心配したのか、はたまた不思議に思っただけなのか、それは分からないがメイルが声をかけてきた。
しかし熱斗はどうにも嬉しくなくて、どうにも身体が重くて、顔を上げる事は無いまま左手だけを動かしてメイルの机の上まで伸ばしてみる。
するとメイルはそれをどう解釈したのか、それは熱斗には分からないが、熱斗が伸ばした左手に自身の右手を重ねてきた。
先週の休み時間と同じように、メイルの手から熱斗の手へ僅かな温かさが伝わる、けれども、今日はその温かさすら熱斗の中の雑音を更に荒く大きなものにするものでしか無くて、熱斗はメイルからは見えない角度のまま表情をしかめた。
先週は確かに感じた、メイルは熱斗と共にいる事を望んでくれているという感覚が薄くなっていき、メイルは熱斗ではないだれかと共にいる事を望んでいるのではないかという疑念が大きく腫れあがっていく。
重ねられた右手の温かさがまるで嘘のように、言い訳のように、表面だけの取り繕いのように感じられて、熱斗はメイルの右手の下からそっと左手を抜き、自分の机へと戻した。
メイルが不安そうな視線で熱斗を見るが、熱斗はその視線に自分の視線を向かい合わせようとはしない。
奇妙で重くて緊張感の張りつめた静寂が二人の間に舞い降りて、それはメイルには不安を、熱斗には息苦しさを与え続ける。
やがてその息苦しさに耐えきれなくなった熱斗はそっと顔を上げ、そのまま席を立った。
椅子の動くガタンという音の後に、メイルの声が聞こえる。
「熱斗……?」
「ちょっと手洗いに行ってくるよ。」
熱斗はややそっけなくそういうと、メイルには視線を向けないまま席を離れ、教室を後にした。
廊下に出て、背後の扉が閉まるのを確認すると、何故だか少し息苦しさが弱まる。
しかしその代わり、今度はメイルに“嘘を吐いた”罪悪感が湧き上がってきて、熱斗の頭をグラグラと揺らすように駆けまわる。
このままここにいたらきっと自分は平衡感覚も失って倒れてしまう、そんな気がした熱斗は一刻も早くこの場を離れる為にゆっくりとだが確実に足を動かして歩き始めた。
廊下を少し歩いて近くの階段に差し掛かり、その段をゆっくりと上る。
階段には人気が無く、熱斗はそれに何処か安堵を感じながら階段を上りつづけた。
そして熱斗は、この間教室を飛び出した後に着いた場所――屋上の出入り口付近にたどり着き、屋上と校舎内部を繋ぐ扉の前の段に腰を下ろす。
腰を下ろすと同時に、それまでの緊張からの疲れがどっと溢れだして、熱斗はやや大きな溜息を一つ零した。
それに反応してか、ロックマンが静かに熱斗の肩の上に現れる。
「熱斗くん、いいの?」
「……何が。」
心配そうなロックマンの問いかけに、熱斗は少しぶっきらぼうに、そして不機嫌に、拒絶するような威圧感をもって訊き返した。
予想以上に不機嫌な訊き返しに、ロックマンは困ったような顔で熱斗を見ながら頭を掻く。
熱斗はそこから目を逸らして自分の膝を抱え、顔を伏せる。
そして顔を伏せたまま、熱斗は酷い自己嫌悪に陥り始めていた。
結局、少なくともメイルは悪い事など何もしていない事は、熱斗にも分かっているのだ。
だから、ロックマンの、いいの? という問いの意味だって、本当は分かっている。
おそらくロックマンは、メイルは何も悪い事などしていないのに、そして熱斗はメイルと共にいる事を望んでいるはずなのに、あんな無愛想な態度をとって良かったのか? と訊いているのだ。
それに対して熱斗は、全く良いとは思わない、と思う。
まるでメイルに全てを押しつけるような形で逃げた自分に、熱斗は腹が立っていた。
悪いのはメイルではないし、やいと達でもない、それなのに自分の一部はまるでメイルかやいと達が悪いかのように思おうとしている、いや既に思っている。
朝、メイルが席に座らず教室の後方でやいと達と談笑しているのを見た自分は何を思ったか、それを思い返して熱斗は自分に吐き気のような嫌悪感を抱く。
やいと達にメイルを盗られた、一瞬でもそう思った自分が嫌で、熱斗はそれを誤魔化すように自分の髪の毛を掴んで引っ張る。
何が“盗られた”だ、最初からメイルは自分の所有物ではないし、だからと言ってやいと達だけの所有物でもなく、自分とやいと達双方の共通の友人だというのに、自分は何を考えているのだ、と思って。
ロックマンが心配そうに名前を呼ぶ声がどこか意識の隅っこに聞こえた気がしたが、熱斗はそれを無視して更に深く、膝に額をつけて顔を伏せた。
つい一週間ほどは安定していた自分、それが脆くも崩れていく。
現実世界で足下がおぼつかなくなる事は無い、けれど、心の中にいる自分が今真っ直ぐ立つ事ができるのかと訊かれたら、熱斗は否と答えることしかできないであろう。
「熱斗くん、戻らないの……?」
それから何分が経った時であろうか、ロックマンが唐突にそう言って熱斗に声をかけたのは。
熱斗はそれまで頭を押さえていた両手を身体の両脇に下ろし、ゆっくりと顔を上げる。
そしてPETを左肩から外して時計画面を見ると、それは休み時間があと五分で終わる時間になっている事を教えてきた。
休み時間は約二十分だから、熱斗は休み時間の八割近くをこの場所で無意味に消費していたらしい。
そろそろ教室に戻らなくては、と思った熱斗はPETを左肩に戻すと、少し乱れた髪を手で軽く整えて、屋上の出入り口前の段差から腰を浮かせた。
そして下の階へつながる階段に視線を向ける。
ここを少し下った所の廊下を少し歩けば六年A組の教室へ戻れる、それを考えて、熱斗は少しだけ心臓が軋むのを感じた。
正直、まだ教室――メイルのいるところに戻る決心がつかない、が、時間は容赦なく進み、気が付けば授業開始まであと三分となっている。
熱斗は仕方なさそうに大きな溜息を一つ吐くと、ゆっくりと足を踏み出して階段をのろのろと下り始めた。
一分ほどかけて長くは無い階段を下り、長くもない廊下をもう一分程かけて渡る。
そして教室の前方の扉の前に立ってその扉を開けると、熱斗の席の隣は空席に、なってはいなかった。
メイルは熱斗が教室を出た時と同じように自分の席についていて、窓の外を眺めている。
それを見て熱斗は、もしかして自分の為に外にも他の場所にも行かず待っていてくれたのだろうかと少しだけ期待しながら自分の席に近付く。
その足音に気がついて、メイルが熱斗の方を向いた。
「あ、熱斗。」
メイルに視線を向けられた瞬間、熱斗は心臓や胃がキュッと収縮するような苦しさを感じ、今すぐにでも走って逃げたくなったが、此処で逃げてはまた同じ事の繰り返しであるし、更に授業に遅れる事にもなってしまうと思い、返事は後回しにしてとりあえず着席する事にする。
ガガッと軽いようで重いような、正に熱斗の心理状況と同じような音を立てて椅子を引き、その上に座って机に肘を着く。
そして、なんにもありませんよ、と言いたげな態度でブラックボードと教壇に視線を向けた。
メイルは不安げな視線を熱斗に向けたままだ。
奇妙な沈黙が再び熱斗とメイルの間に舞い降りる、と、その沈黙を破ったのは意外にも熱斗の方だった。
「いやぁ、すぐ帰ってくるつもりだったんだけど意外と時間かかっちゃったなぁ!」
まるで沈黙に耐えられなかったから無理矢理声を出してみたと言っているにも等しい空回りな元気に、メイルは心配そうな表情を見せる。
熱斗は精一杯元気にふるまったつもりかもしれないが、それが作り物の元気である事ぐらい、メイルにも容易く分かる、そのぐらい熱斗の元気は空回っていた。
メイルは一瞬熱斗に“無理をしないで”という事を考えた、だが、無理矢理といえど笑顔を見せる熱斗を見てそれを本当に言っていいのかどうか迷う。
そんなメイルに、熱斗はなんとか笑いかけて、話を続けようと試みる。
それはまるで、メイルにはしゃべらせまいとしているようだった。
「ごめんねホント、遅くなっちゃってさ。まぁこういうのはどうにもならないことだから許してくれよな!」
熱斗の声は一見いつもより元気だったが、その質感は何処か乾燥している様な気がして、メイルは心配そうな表情を深めた。
そんなメイルを見て熱斗は、お願いだからそんな探るような眼で俺を見ないで、という想いと、そうだよもっと心配して俺の事を見て、という想いの間で揺れる。
心配そうな顔を見なくて済むように元気な声を出したはずなのに、何故か心配を求める想いが頭の隅に居座っていて、その矛盾が心臓を締め付けて頭を揺らす。
元気な声とは裏腹に、熱斗は今すぐにでもまた逃げ出したいような、逃げ出さなければおかしくなってしまいそうだという思いに襲われていた。
そして元気な会話もすぐにネタ切れを起こして止まり、また奇妙な沈黙が二人の間に舞い降りる。
メイルも熱斗も、何を言ったらいいのか分からなくなってしまったのだ。
「……あのね、熱」
しばらくの沈黙の後、メイルが口を開きかけた、が、しかし、そのタイミングを待っていたと言いたげに授業開始のチャイムが鳴り、メイルの声をかき消した。
外で遊ぶ子供達の声がだんだんと校舎に近付いてくる、昇降口に集まっているのだろう。
そして徐々に校舎の中も騒がしくなり、廊下を駆ける足音やおしゃべりをしながら教室に戻ってくる同級生及び下級生達の声が聞こえ始めた。
熱斗とメイルがいる六年A組の教室にも徐々に人影が増えてくる。
チャイムのせいで口を開くタイミングを失ったメイルは、しばしの間熱斗を見詰めた後、そっと次の授業の為のノートと筆記用具の準備をし始めた。
それを確認して熱斗も筆記用具などの準備に移る。
準備に移りながら熱斗は、安堵と落胆というやや矛盾した感情を一度に感じていた。
それは、前にも何処かで感じた事があるような、そんな懐かしさを帯びている。
それもどこか、暗さと重さを伴って。
それから更に二時間が過ぎて午前の授業が終わり、給食の時間も終わった頃、熱斗はまた隣にメイルの気配を感じつつも特に話しかける事は無く、自分の席についてただじっと前方のブラックボードを見詰めていた。
昨日まではこの昼休みにも熱斗とメイルは沢山の会話を交わしていたのだが、今日は二人ともそうやって話す気にはなれないらしい。
特に熱斗は、今口を開けば自分は何を言い出すか分かったものではないという不安とそれに伴う緊張感に縛られて、明るい話題が全く思い付けずにいる。
メイルも、前の休み時間の段階から熱斗の様子がおかしい事を気にしていて、むやみに声を駆ける気にはなれないようだ。
しかし、そうはいっても近くに知人がいれば話しかけたくなるのが人間というもので、特に友人と共にいる事を至福とする熱斗は、今この瞬間も本当はメイルと話がしたくてしかたがなかった。
熱斗は、それまでメイルの顔が見えないように前方だけを見ていた視線を、少しだけ左に動かしてメイルの様子を窺う。
メイルも、話こそしないものの、熱斗の側にいるという約束を果たす気は今でもあるのか、何をするでもなく自分の席に着席したままじっと前を向いて静かにしている。
と、メイルが少しだけ視線を右に――熱斗の方へと向けた。
熱斗とメイルの視線がほんの僅かに交差して、熱斗は驚いた様に焦って視線を前方へと戻す。
もしかしたら今の一瞬でメイルに気付かれてしまったかもしれない、熱斗はそんな心配をしたが、その心配とはまた別の場所で熱斗は、メイルが自分を気にかけてくれているのではないかという期待も持ち始めた。
一度そんな期待を持ってしまうと、最初から持っている話をしたいという願望が益々膨れ上がって、今は黙っているべきだというどこか理性的な警告から耳を塞いで、想いのままに走り出すように声をかけてしまいたいという欲求が高まっていってしまう。
どうしよう、声をかけようか、それとも向こうが気付いてくれるのを待とうか、そんな考えばかりが頭の中をぐるぐると回って、熱斗はいつの間にか“一言も話さない”という選択肢を忘れ始めていた。
本当にどうしよう、声をかけるべきか、声をかけられるのを待つべきか、熱斗は右手で軽く頭を抱えながら悩む。
そんな熱斗の隣で、メイルは案の定というべきか当たり前にというべきか、熱斗が先ほどからメイルの方を気にかけている事に気付いており、こちらもまた声をかけるべきか、それとも熱斗から声をかけられるのを待つべきかを悩んでいた。
ただ、メイルのそれは熱斗のそれ程には激しくなく、もう少し熱斗の様子を見てそれで決めようと思う程度の余裕は維持しており、その為メイルは頭を抱えて悩む様な事はない。
もう少し様子を、例えばそう、もう一度自分が熱斗に視線を向けた時、その視線が熱斗の視線とぶつかったら声をかけよう、などという事を考えながら、メイルはしばしの間前方に視線を向けていた。
その背後にそれを引きとめる人影が近付いているとも知らずに。
一方熱斗は、そろそろ色々と限界を迎えようとしていた。
話しかけたい、話しかけてほしい、とにかくメイルと話がしたい、こんな沈黙は望んでいない、自分が望んでいるのはきっと華やかな会話だ、それを自覚した時、熱斗はこれ以上はメイルから声をかけられるのを待つべきではなく、自分から行動するべきだと思って声を出すために息を吸い込んだ。
そしてメイルの方に顔を向けて一言、メイルちゃん、と名前を呼ぼうとした、が、
「メイルちゃん、ちょっといいかしら?」
熱斗がメイルの名を呼ぶ前に、いつの間にかメイルの背後に近付いていた誰かがメイルの名前を呼び、自身のいる後方へと振り返らせた。
それにより熱斗は吸い込んだ息に音をつける事が出来ないまま静かに息を吐き出すことしかできず、メイルに呼びかけた誰かを軽く怨む様な気持ちと、前にもどこかで似たような事があった気がするというデジャヴを感じながらメイルを呼ぶ声の方へと、少し不機嫌な表情で振り向く。
すると、そこにいたのは黄色い三つ編みと輝く額が特徴的な少女、綾小路 やいとであった。
先週の朝と言い今日の今この瞬間と言い、やいとは何かメイルと自分が交友を深める事を邪魔しに来ているのではないだろうか、などという疑念が熱斗の脳裏をかすめる。
もちろん、やいとにそんなつもりはない事や、メイルの友人が自分だけではない事は熱斗にも分かっているのだが、ただでさえギクシャクしている今だ、その中でようやく芽生えた勇気を邪魔されるというのは熱斗にとっては大きな不快感を生むものであった。
そんな不機嫌そうな熱斗の隣で、メイルがやいとに反応を見せる。
「なにかしら、やいとちゃん。」
「今日の放課後の事で相談があるの、来てくれるかしら?」
メイルが問いかけると、やいとはそう言って教室後方の扉を指差す。
その指につられるように熱斗とメイルが教室後方の扉を見ると、開いた扉の先にデカオと透の姿が見えた。
どうやら今日の放課後はやいと、メイル、デカオ、透の四人で遊ぶつもりらしく、それについての相談をこの昼休みに行う気らしい。
メイルがチラリと、困ったような表情で熱斗に視線を向ける。
その視線と目があった瞬間、熱斗の脳裏に、新型ダークロイドとの戦闘で敗北してから数日後、退院してすぐの四人の情景が思い浮かんだ。
楽しそうにコントローラーを握るデカオ、ゲームの中の協力方法を模索して相談するやいとと透、そしてそんな三人の為に時間を気にしていたメイル、それらが改めて再現されたような感覚に、熱斗は悪い意味で鼓動が速くなるのを感じる。
メイルは何を気にして此方に視線を向けてきたのか、熱斗にはもう分からない。
それは、やいと達の所へ行っても大丈夫かと熱斗へ訊いていたのかもしれないし、熱斗がいるからやいと達の所へ行き辛いとやいとに言っていたのかもしれないし、もしかしたらそのまた別のことかもしれない。
とにかく、ただ一つ分かるのは、メイルが今すぐやいと達の為に動けない理由はこの自分、熱斗の存在だという事だけ。
それを知った熱斗の胸に湧き上がるのは、自分はメイルにとって重荷になっているのではないかという罪悪感だった。
メイルはやいと達の所へ行きたがっている、やいともメイルを連れて行きたがっている、当事者たちの意思は合致している、ならば、合致していないのは誰だ。
その答えは“部外者の自分”である事を感じとった時、熱斗は自分は今この二人にとって邪魔になってしまっているのだと確信した。
メイルには傍にいて欲しい、けれどメイルの重荷や邪魔にはなりたくない、そんな事で嫌われたくない、そんな想いが急激にその勢力を強めて、熱斗は困ったような表情のメイルに向けて極力明るく笑いかけた。
「いいよ、行ってきなよ。」
頬の筋肉が引き攣って強張って少し痛かったが、熱斗はそれを無理矢理無視して笑う。
そんな熱斗を見てメイルは更に困ったような顔で熱斗とやいとを交互に見詰めたが、やがて熱斗のその笑顔を信じてみる事にしたのか、それとも最初からそうする気があったのか、それは熱斗には分からないがゆっくりと席を立つ。
椅子から立ち上がったメイルは熱斗に振り向くと、少しだけ辛そうな表情を見せながら小さな声で、
「……ごめんなさい。ちょっと行ってくるわね。」
と言ってから、やいとの方に振り向いて、一歩早く歩きだしたやいとのその背を追って歩き始めた。
やいととメイルは先ほどやいとが指差した教室後方の扉へ向けて歩く。
熱斗の席からは、教室の外のデカオと透が、まだ教室の中にいるメイルとやいとに向けて、挨拶代りと言わんばかりに右手を上げて合図を送る様子が見える。
そしてやいととメイルが教室の外へ踏み出すと、デカオが先頭に立って歩きだし教室の扉の枠から見えない範囲へと姿を消し、やいと、透、メイルの順でそれに続いて歩きだすのが見えた。
やがてその三人の姿も見えなくなった時、教室の扉は静かに閉まるのであった。
訪れるのは静寂。
運が良いのか悪いのか、教室の中には自分以外誰もいないという何とも寂しい状況の中、熱斗はしばしの沈黙の後に溜息を零した。
すると、それを聞きつけたのか、それとも先ほどからずっと聞き耳を立てていたのか、今度はロックマンがPETの中から熱斗の机の上へと現れて熱斗に話しかけてくる。
「熱斗くん、入れて……って言わなくていいの?」
いつも通り肩の上にでも現れれば良い所を、わざわざすぐに熱斗の視界に入るように机の上に現れたロックマンに、熱斗はモヤモヤとした不快感を感じた。
ロックマンの目は熱斗を心配している様な、それでいて熱斗の内面を覗きこむ様な、熱斗が隠したくて仕方が無い感情さえ見透かすような透明感を帯びている。
熱斗はそれに微かなデジャヴと拒絶感を覚えながら、ロックマンから視線を逸らすように窓の外に視線を向けて返事をした。
「別に、いいんだよ。」
どこかそっけない返事の熱斗をロックマンは心配そうな、本当は一緒に遊びたいんじゃないの? と言いたげな視線で見詰めていたが、熱斗がそれに視線を合わせる事はなかった。
熱斗はただ、どこか遠くを見るような目で窓の外の空の色を見詰める。
雲一つない快晴の空はいつもなら気分も晴々して清々しくなるのに、今日はどうにも苛立ちを刺激するものでしか無い。
何がどう苛立ちを誘うのか、それは熱斗にも言い表せないものがあったが、とにかく、熱斗は今が雨、もしくは雷雨にでもなってしまえばいいと思う。
そうして下の地面で遊ぶ子供達の声が掻き消されればいいとさえ熱斗は思ったが、それならそれで教室が全体的に煩くなるだけだと気付いた時、熱斗は逃げ道が無くなるような感覚に陥った。
そう考えればこの晴天も少しはマシなものなのか、熱斗は少しだけ悩む。
悩んだ後に、そこに答えなど無く、そもそも考える必要すらないのだと気付いた時、熱斗は疲れたような溜息を零すのであった。
机の上のロックマンは、まだ少し不安そうに熱斗の様子を見守っている。
そして時間は更に二時間程の午後の授業が過ぎて放課後となる。
熱斗はその時やはり隣にメイルの気配を感じながらもそれをわざと無視するように、独りで静かに帰り仕度を行っていた。
結局、今日はメイルとロクに会話をする事が出来なかった、それを思い出して熱斗は溜息を吐く。
たった一度、朝の時間に間に合わなかっただけでこんな事になるなんて、と考えると、熱斗の気持ちは朝の約束に間に合わなかった自分への自己嫌悪で更に重く暗い所へと沈んでいくのである。
そして今日は、それを帰りに取り返す事も出来ない事を思い出して、熱斗は先ほどより少し深い溜息を長々と吐いた。
そんな熱斗を、メイルが呼ぶ。
「熱斗。」
その呼びかけに熱斗はあまり大きな反応は見せず、僅かに落胆と疲労の色が滲んだ無表情をメイルに向けた。
メイルを見ると、此方もあまりこれと言って特殊な表情はしていない。
そんなメイルを見て熱斗は、落胆しているのは自分だけなのだと感じ、更なる落胆を感じる。
「あぁ、何?」
少しそっけなくそう返事をすると、さすがにメイルも何か不穏なものを感じとったのか、少し不安そうな表情を見せた。
もしかしてメイルはまだやいと達の所へ行くべきか、それとも熱斗のもとへ残るべきか迷っているのだろうか? 熱斗はそう思ったが、だからと言って今更“俺の側にいてくれ”などと言える勇気が出るはずもなく、熱斗は無言でメイルを見詰める。
その表情は、何か言いたい事があるならさっさと言ってくれと言いたげな、何処か投げやりな雰囲気を含んでいた。
それを察してか、それともそれに関係無く言うつもりだったのか、ともかくメイルは言う。
「私、このままデカオくん達と一緒にやいとちゃんの家に行くから……」
メイルはその後の言葉を紡ごうとしなかったが、熱斗にはその後の言葉が聞こえたかのようにそれを予想する事ができた。
どうせ、だから熱斗とは一緒にいられない、とか、だから今日は此処でさよならね、とか、そんな、少なくとも自分の願望にはそぐわないものだろう、と熱斗は考え、小さく三度目の溜息を吐く。
嗚呼嫌だ、本当に嫌だ、そんなものは聞きたくない、とでも言うかのように、熱斗はメイルから視線を逸らして帰り支度を再開する。
メイルはまだ何かを言いたそうな顔をして熱斗を見詰めていたが、やがて今の熱斗は聞いてはくれないだろうと思って諦めたのか、自身も熱斗から視線を逸らし、帰り支度を再開した。
やがて、熱斗より先にメイルがしたくを完了させて席を立つ、その時のガタンという椅子の音に反応して、熱斗は一瞬だけ手を止めた。
それでもすぐに、自分には関係のない事だとでも言うかのように帰り支度を再開する熱斗へ、不安そうで心配そうでどこか申し訳なさそうなメイルは告げる。
「熱斗、また明日、ね。」
熱斗はすぐには返事ができなかったが、一瞬の沈黙を挟んだ後小さく頷いて、
「……また明日。」
とだけは返しておいた。
それを確認して、メイルは自分の席を離れ、既に帰り支度を終わらせ教室の後方に集まっていたデカオややいとと合流する。
メイルと二人は何か短い会話を交わすと、そのまま熱斗には振り返らず教室後方の扉へ進み、そのまま廊下へと足を進めていく。
おそらく廊下か隣の教室で透と合流する気なのだろう、と思いながら、熱斗はその全てをやや未練がましい視線でメイルを中心に見守っていた。
やがて、熱斗の周囲には熱斗には関係無いざわめきだけが立ち込める、それは、一種の静寂にも等しかった。
どれだけ周囲がわいわいと騒いでいても、それが自分にとって何の関係もないものならば、それは、静寂や沈黙と同じなのだ。
メイルが行ってしまった、その事実を改めて思い知らされる熱斗は四度目の溜息を零した、その瞬間、熱斗が左肩に装着している青いPETが通信の着信音を鳴らし、その静寂を打ち破った。
ピピッ、ピピッといういきなりの電子音に驚いて、熱斗はビクリと肩を震わせた後にPETを左肩から外し、その小さな画面に視線を向けた。
通信に出るとそこに映ったのは科学省指令室を背景に佇む名人で、熱斗は今日最大の嫌な予感を感じとる。
此処最近は少なかったのにな、と思いつつ、熱斗はいつも通り名人をさん付けで呼んでみた。
「名人さん?」
「さん、は要らない! 熱斗くん、事件だ。デンサンシティの電気街にディメンショナルエリアと新型ダークロイドが出現した、すぐに現場に急行してくれ!」
名人はお約束の“さん、は要らない!”をいつも通り告げた後に、熱斗に新型ダークロイドによる事件の発生を伝えてきた。
それを聞いて熱斗は、やはりそんなことだろうと思っていた、と思うと同時に、今日は本当に運の悪い日だと思う。
メイルとロクに話せなかっただけでも気が重いというのに、どうしてこうも悪い事は簡単に重なって積み上がっていくのだろう? 熱斗はPETに名人が映っている事も忘れて五回目の溜息を吐いた。
その様子を見て、名人が首をかしげる。
「熱斗くん、どうかしたのか?」
熱斗は少し慌てて取り繕う。
「あ、いや、何も……じゃあすぐに行くよ。」
すぐに出動する、それだけ告げると熱斗は名人が通信を切るのを待たず自分から通信を切ってPETを肩に装着し直した。
そして筆記用具やノートなどを詰めた鞄を背負って、右脇にインラインスケートの車輪を抱えて席を立ち、すぐに走って教室を前方の扉から出る。
その時熱斗は、もしかしたら今後方を振り返ればメイルやデカオ、やいとや透の姿が見えるのではないかと思ったが、今はそれどころではないと自分に言い聞かせて振り向かずに廊下を走り抜けた。
階段を駆け下りて昇降口に出て、そこから校庭に出ると熱斗はインラインスケートの車輪を靴の底に取り付けて走り出す。
その速度は急いでいるにしてはやや遅いような、今日の朝に比べるとまだまだ安全な程度の速さで、熱斗は自分が新型ダークロイドとの戦闘に本心ではもう関わりたくないと思っているのではないかと思い、そんな怠惰な自分に嫌気がさしてそっと唇をかみしめた。
そして出来る限り、今朝には届かないにしても急いでいる事だけは分かる程度にスピードを上げ、住宅街を駆け抜け大通りに出て、そこで更にスピードを上げてデンサンシティの電気街に向かう。
電気街に着くと遠くにディメンショナルエリアと思わしき虹色のドームが見えて、熱斗は更にスピードを上げた。
車輪から時たまおかしな音がするが、今度はロックマンは何も言わない。
ロックマンも、この加速はあのディメンショナルエリア内に入る為に必要なものだと分かっているのだ。
そのスピードをキープしたまま、熱斗はPETを左肩から取り外して右手に持ち、それを左手に持ち替えた後にシンクロチップと呼ばれる水色の特殊なチップを取り出した。
そしてディメンショナルエリアの壁にぶつかる直前、熱斗はシンクロチップをPETにスロットインする。
「シンクロチップ、スロットイン!」
熱斗とロックマンの声が重なる。
「「クロス、フュージョン!」」
そして熱斗はPETを目前に掲げたままスピードを一切落さずにディメンショナルエリア内へ、分厚い虹色の壁を突き抜けようとするように突っ込んだ。
壁を突き抜けたその場所から、熱斗の姿は私服ではなくCFロックマンの姿へと変わっていく。
やがて完全に壁を突き抜けると、そこに立っている熱斗はただの人間ではなく、クロスフュージョンネットナビへと変化していた。
そして熱斗は目の前の惨状とその犯人を視界に入れる。
熱斗の視線の先の道路はこれでもかという程水でびしょぬれになっていて、まるで大雨でも降った後のように大きな水たまりが大量にできていた。
今も水道管や消火栓と思わしきものから大量の水が溢れ出ている。
そしてその水だらけになった道路の真ん中で、危惧すべき事など何も無いと言わんばかりに佇んでいる、七歳から九歳程度の幼女型の新型ダークロイド――“あの時”の幼女ナビを見て、熱斗は色々な怒りに眉をひそめた。
街を壊して人々の生活を脅かす存在は許せない、そんな正義の怒りの影で、もっと別の、酷く個人的で私怨的な怒りが燻ぶる。
――お前らさえ居なければ。――
「……熱斗くん?」
耳の中にロックマンの声が響いたが、熱斗はそれに返事をしないまま右腕を正面へ向けて掲げて、その手にロックバスター装備した。
そして、無言のままエネルギーをチャージする。
キュィィィィイ……と小さな音を立てて溜めこまれるエネルギーは、その明るい光とは裏腹の想いを蓄積しているようだった。
そうして右手に溜めこまれたエネルギーが最大値を迎えた時、熱斗は叫んだ。
「チャージ、ショット!!」
叫びと同時に放たれたエネルギーは猛スピードで前方へと進み、熱斗に背を向けて佇み今尚水で遊んでいる幼女ナビの背中へと飛び込んだ、ようだったが、本来なら上がるはずの砂煙や幼女ナビの悲鳴は熱斗の目には見えず、耳には一切聞こえない。
その代わり、幼女ナビの背後ではバシャンッ! という水が飛び散る音と、シュー……という水が蒸発する音が聞こえ、砂煙の代わりに水蒸気が立ち上っていた。
どうやら幼女ナビは熱斗の放ったチャージショットを大量の水で打ち消したらしい。
徐々に薄くなる水蒸気の中から、今度は幼女ナビの技と思われる水の柱が熱斗に向けて進んでくる。
それがバトルチップ『アクアタワー』とほぼ同等の攻撃であると悟った時、熱斗はバトルチップの使用を決めた。
「バトルチップ、フレイムタワー!!」
熱斗がそう叫びながら地面に手をつくと、そのすぐ近くから大量の炎が湧き上がり、まるで高い塔のように一つの火柱となって水の塔へ向かって走り出した。
全てを燃やしつくしそうな炎の塔は水の塔と接触すると大量の水蒸気だけを残して水の塔と共にその姿を消してしまう。
それを確認して、熱斗は水蒸気の中心、薄っすらと見える幼女ナビのシルエットに向けて走り出した。
その右腕には、いつの間にか『エレキブレード』が装備されている。
「うおおおおおおおお!!」
地獄の底から這い上がるかのような雄叫びを響かせながら、右手のエレキブレードを掲げて突進する熱斗、その突進と斬劇の軌道を、幼女ナビはまるで運動能力に長けた幼児がお遊戯でもするかのようにひらりと飛び上がり避けて見せた。
そして最初に立っていた場所より少し後方に下がった場所にストッと軽く着地する。
熱斗は幼女ナビからの反撃を警戒して踏み込んだ場所から数歩、前を向いたまま後退した。
――忌々しい。――
幼女ナビにいとも簡単に攻撃を避けられた事に苛立って、熱斗はチッと舌打ちを漏らす。
するとそれまで熱斗に背を向けていた幼女ナビがくるりと振り返って、前回同様とても楽しそうな笑顔を熱斗に向けた。
「熱斗お兄ちゃん! 今日もいーっぱいお遊戯しようね!」
そう言った幼女ナビの両手には既に大量の水分が終結しており、その水分は幼女ナビが両手を前方に翳すと一つに集まって一匹の大きな魚の形を形成する、
そして幼女ナビの手を離れた大きな魚はまるで銃弾のように猛スピードで熱斗へ迫る。
熱斗はそれを真横に跳躍してかわしたが、魚はその代わりに熱斗のすぐ背後にあったディメンショナルエリアの壁にぶつかって水しぶきとなって飛び散った、それが熱斗の身体にかかる。
途端に、熱斗は水がかかった部分に鋭い痛みを感じた。
この痛みは、熱さからくる痛みだ。
幼女ナビの斜め前方に跳躍した熱斗はそこから幼女ナビを睨みつける。
すると幼女ナビはクスクス笑いながら、熱斗に自分の技をくらった感想など聞いてきた。
「熱斗お兄ちゃん、私のお魚さんはどうだった? とーっても熱いでしょ? あの子はね、直接当たらなくても何処かに当たれば周囲に散らばって敵にダメージを与えてくれる良い子なの!」
そう言いながら幼女ナビは小さな右手をロックマンのロックバスターのような筒状の銃器に変える。
それを見て、幼女ナビはこの戦いを遠距離戦に持ち込む気だと悟った熱斗は、自身も武器をエレキブレードではない遠距離戦の物にする事にした。
咄嗟に選んだチップは、この前と同じ『ラビリング3』だ。
「ラビリング!!」
熱斗の声に合わせて、右腕に装備された武器がエレキソードからラビリング3の発射装置へと変化する。
熱斗はラビリングの発射装置を幼女ナビの胸に向けた。
そして発射装置から円形の電気攻撃が発射された瞬間、幼女ナビの右腕からも水属性と思わしき水色の光が発射される。
ラビリングと水の銃弾は丁度幼女ナビと熱斗の間の真ん中程度でぶつかり合い、また多くの水蒸気を上げさせた。
「くっ! バトルチップ、スプレッドガン!!」
水蒸気が立ち込める中、先に動き出したのは熱斗の方で、熱斗の右腕はラビリングの発射装置からスプレッドガンの発射装置へと形を変える。
そして熱斗は水蒸気が晴れない内に大まかな狙いを定め、そのまま銃弾を発射した。
スプレッドガンの最大の特徴、一発撃っただけで広範囲に広がる銃弾が、広い範囲に広がる水蒸気の中をこれまた広い範囲に広がって駆け抜けてゆく。
しかし幼女ナビの悲鳴らしきものは聞こえず、熱斗は水蒸気が晴れるのを待った。
水蒸気は徐々に晴れ、そこには幼女ナビの姿が、無い。
「えっ、ど、何処だ!?」
「こっちだよ! 熱斗お兄ちゃん!」
熱斗が焦った声を漏らすと、幼女ナビが丁寧にも自分の居場所を示唆するように声を出した。
しかし熱斗の視界、地面から一メートル五十センチ程度の高さの何処の場所にも幼女ナビの姿はない。
実はこの時幼女ナビは前回劣勢になった原因である飛行用装備の不足を克服しており、熱斗の視界より遥かに高い位置にいたのだが、熱斗はそれに気付けない。
わざわざ敵が声を出しているというのにその場所を掴む事が出来ないなんて、と焦る熱斗に、幼女ナビが更なる攻撃を仕掛ける。
「バトルチップ、カモンレインっ!」
何処となく無邪気で、それでいて邪気のある幼女ナビの声が響くと同時に、熱斗の上に大量の雨雲が現れ、その身体に集中豪雨を浴びせた。
その集中豪雨自体は大した攻撃力を持っておらず、普通の雨のように熱斗の身体を濡らし体温を奪う程度であったが、問題はその次である。
幼女ナビはそこで攻撃を止めることなく、何処からか熱斗の目の前に現れた時にはその右腕を標準装備とは思い辛い形に変えていた、それは、
「痺れちゃえ! エレキショック!」
幼女ナビの右手の機械はエレキショックの発射装置で、幼女ナビは熱斗に向けて地面さえ壊す雷を放ってきた。
ただでさえ辛い電気属性の攻撃を、カモンレインの集中豪雨でびしょ濡れになった身体に浴びせられた熱斗はその衝撃に絶叫する。
「うああああああああああああああああ゛っ!!」
そして雷が止んだ時、熱斗は崩れ落ちるようにその場に膝をつき、両手を地面に着いた。
まだ幾ばくか痺れの走る身体、それでも熱斗は幼女ナビを今度こそ逃がすまいとして視界に入れる為顔を上げる。
すると幼女ナビはなんと熱斗の目の前に立っており、熱斗が上げた顔のその顎を右足で強く蹴り上げてきた。
驚愕と苦痛の混ざり合った声が熱斗の口から漏れる。
「かはっ!!」
「熱斗お兄ちゃん、結構弱いんだねー。」
天使のような笑顔で悪魔も戦くような台詞を吐きだす幼女ナビを、熱斗はこれ以上ない怒りと憎しみを込めて睨みつけた。
だが、それ以上の事は熱斗にはもはや出来ようもなかった。
このネットナビが、このネットナビの所属する組織が、そしてそれに勝てない自分が怨めしい。
こんな所でグダグダと長い戦いを演じている間場合ではないのに、自分がこんな事をしている間にも、“彼女”は――。
熱斗の脳裏に、幼馴染の後ろ姿がちらつく。
「熱斗くん、しっかりして!」
幼女ナビを睨みつけながらもその意識が何処か遠く、違う所へ行きかけていた熱斗をロックマンの声が現実に引き戻す。
ハッとして幼女ナビを見ると、幼女ナビは攻撃を仕掛けようとせずニヤニヤとした陰湿な笑顔を湛えて熱斗を見詰めている。
一体どういうつもりだ、これはチャンスと見ていいのか、いやそれともこの幼女ナビの何らかの罠なのか、今自分が殺されず、攻撃もされない理由が微形も分からず困惑する熱斗に向けて、幼女ナビは言う。
「熱斗お兄ちゃんの怒った顔、素敵だね。」
それを聞いて、どういう意味だ、と言いたげな顔をした熱斗へ、今度は聞こえないくらい小さな声で、
「……まるでわたしたちみたい。」
と呟くと幼女ナビはなんと一切の攻撃をせずに突然その姿を消し、この場所からログアウトしていってしまった。
徐々にディメンショナルエリアも解除され、後には水浸しになった道路とびしょ濡れで地面に膝と手をついている熱斗だけが残される。
そしてディメンショナルエリアが消え切ったその時、熱斗の姿はCFロックマンから普通の私服へと戻り、PETが目前に落下してカシャンッと軽い音を立てるのが見えた。
そう、話せるわけが無いのだ、メイルが自分以外の誰か――今回の場合はデカオとやいと、それと話しているその状況を不愉快に想っていたなど、熱斗には口にできる筈が無かった。
熱斗は必死に自分の中で自分を納得させるように、朝遅れた自分が悪い、メイルは自分がいなかったから二人と話していただけだ、自分が来たらこうして声をかけてくれたじゃないか、と繰り返す。
悪いのはメイルではない、デカオとやいとでもない、ついでにロックマンやロールでもない、この自分だ、熱斗なのだと自分に言い聞かせ、想っている事が外から見えないように必死に笑顔を作りだす。
誰かにへつらうように、何か困っているように、何か隠しているように笑う熱斗に、メイルは懐疑そうな視線を少しだけ向ける。
「熱斗、何かあったの?」
「え、そ、そんな事ないぜ?」
突然のメイルからの質問に、熱斗は一瞬息が止まるかと思ったが、なんとかそれを堪え、妙な笑顔のまま首を横に振った。
メイルに気取られてはいけない、こんな汚い気持ち、メイルにも誰にも気取られてはいけない、そう考える熱斗は少しでも自然に笑おうと必死になる。
その様子を見てメイルは更に懐疑の視線を深めるのだが、熱斗が言いたくないならそれでもいいかと思ったのか、やがてふと視線から力を抜いた。
メイルの視線が懐疑そうな力を失った事で熱斗は少しホッと胸を撫で下ろす。
そしてここ一週間朝の定型文となり始めている一言をメイルに投げかけた。
「あ、ところでさ、メイルちゃん今日は遊べる?」
そう、学校でメイルの視線が、声が、関心が得られないのなら、別の場所で得れば良いだけの話なのだ、と気分を切り替えて聞いたこの言葉が、その日一日熱斗が落ち込む原因となってしまうなど、この瞬間の熱斗は思ってもみなかった。
メイルは普段と同じように少し悩む表情を見せたが、熱斗はその表情の中に何か深刻そうな陰りを見つけた。
おかしい、普段の用事があるかどうかを思い出している時の顔と少し違っている、そう思った熱斗が、もしかして何か外せない用事があるのかと訊こうとしたその瞬間、
「……ごめんなさい、今日はやいとちゃん達に先に誘われてて……行ってもいいかしら?」
メイルの口から放たれた言葉に、熱斗は頭の中で何かが割れる音がして、メイルと自分の間に冷たい風が吹き抜けて行くようなイメージを感じた。
メイルが自分から、熱斗から離れようとしている、それを感じた途端、一度は崩れた壁がまた蘇ったような感覚が熱斗を襲ったのだ。
口が渇いて言葉が出なくなる、頭の中がグラグラと揺れる、指先が小さく震える、身体全体がその事実を拒絶しているのが分かる。
そして咄嗟に浮かんだ“嫌だ”の一言が肺の中の気管支から気管から喉から今にも出ようとしている、それを熱斗は必死に抑え込んだ。
何が嫌だというのだ、こんな事でメイルを拘束してはいけない、自分がそうであるように、メイルにだってやいとやデカオは友達で、友達が友達と遊ぶ事を阻止するなんて、そんな資格は自分には無い、そんな正論で拒絶感を抑えつける。
「……あぁ、うん! 行っといでよ!」
また無理矢理笑顔を作って答えた熱斗に、メイルは何処か申し訳なさそうな、心配そうな視線を向ける。
どうやらメイルは熱斗のその笑顔が自然な感情から来ているものではない事を見抜いているらしい。
しかし幸い、熱斗が嫌がっているのはメイルとデカオ達の交友が深まる事であるという事態までは見抜いていないらしく、メイルは、もしかして嫌なの? などとは聞かず、
「えっと、よかったら熱斗も、来る……?」
と訊いてきた。
しかし、その何処となく弱々しい疑問形と、自分抜きで話していた楽しそうな三人の姿と、そして何より以前の自分の行動とその結果がその手をとる事を拒ませる。
弱々しい疑問形はきっと熱斗が来る事を望んでいないからで、自分抜きでも楽しそうに話していた三人の姿はきっと熱斗がその集団の世界の一部になっていない証拠だ。
そして何よりあの時――退院翌日にあの四人に上手く馴染めなかった時点で、自分が今日も付いていったとしてどうなるかは決まっている。
そう思った熱斗は、僅かに俯いて首を横に振り、少し困ったような、残念そうな、そんな笑顔をメイルに向けた。
「俺はいいや、メイルちゃん楽しんでおいでよ。」
熱斗がそう言った時、教室の前方で扉が開く音がした。
まり子が教室に入ってきたのだ。
メイルはまだ何か言いたげな顔をしていたが、これ以上メイルを見ていたら本心が抑えられなくなると思った熱斗は、ホームルームだから前を向くのだと自分に言い訳をしながら前方に視線を移す。
そして耳がメイルの声ではなくまり子の声を拾うように意識を集中した。
そうでもしなければ、熱斗は今すぐにでも気が変になってしまいそうだったのだ。
やがてメイルも何か言う事を諦めたのか、単にタイミングを逃してしまったのか、はたまたその両方なのかは分からないが、無言になって前方を向きホームルームに参加した。
そしてそれから二時間後、いつもと同じように午前の授業の半分を終えたまり子が教室から姿を消した時、熱斗はどんよりと混濁した気持ちで筆記用具やノートを鞄に仕舞っていた。
隣の席には、此処最近のいつも通りメイルがいるが、熱斗はなんとなく、いやどうにも、メイルと話す気になれずにいる。
昨日まではあんなに嬉しかったメイルと共に迎える休み時間が、今日はどうにも嬉しくない、いやそれどころか心臓はさっきから収縮ばかりしているような苦しさを覚えて、身体は心に安らぎを与えてくれない。
どうしようもない息苦しさが熱斗をじわじわと侵食するように襲っていて、熱斗はそれから逃れるように机の上に腕を置いてその上に顔を伏せた。
「えっと、熱斗……?」
そんな熱斗の様子を見て心配したのか、はたまた不思議に思っただけなのか、それは分からないがメイルが声をかけてきた。
しかし熱斗はどうにも嬉しくなくて、どうにも身体が重くて、顔を上げる事は無いまま左手だけを動かしてメイルの机の上まで伸ばしてみる。
するとメイルはそれをどう解釈したのか、それは熱斗には分からないが、熱斗が伸ばした左手に自身の右手を重ねてきた。
先週の休み時間と同じように、メイルの手から熱斗の手へ僅かな温かさが伝わる、けれども、今日はその温かさすら熱斗の中の雑音を更に荒く大きなものにするものでしか無くて、熱斗はメイルからは見えない角度のまま表情をしかめた。
先週は確かに感じた、メイルは熱斗と共にいる事を望んでくれているという感覚が薄くなっていき、メイルは熱斗ではないだれかと共にいる事を望んでいるのではないかという疑念が大きく腫れあがっていく。
重ねられた右手の温かさがまるで嘘のように、言い訳のように、表面だけの取り繕いのように感じられて、熱斗はメイルの右手の下からそっと左手を抜き、自分の机へと戻した。
メイルが不安そうな視線で熱斗を見るが、熱斗はその視線に自分の視線を向かい合わせようとはしない。
奇妙で重くて緊張感の張りつめた静寂が二人の間に舞い降りて、それはメイルには不安を、熱斗には息苦しさを与え続ける。
やがてその息苦しさに耐えきれなくなった熱斗はそっと顔を上げ、そのまま席を立った。
椅子の動くガタンという音の後に、メイルの声が聞こえる。
「熱斗……?」
「ちょっと手洗いに行ってくるよ。」
熱斗はややそっけなくそういうと、メイルには視線を向けないまま席を離れ、教室を後にした。
廊下に出て、背後の扉が閉まるのを確認すると、何故だか少し息苦しさが弱まる。
しかしその代わり、今度はメイルに“嘘を吐いた”罪悪感が湧き上がってきて、熱斗の頭をグラグラと揺らすように駆けまわる。
このままここにいたらきっと自分は平衡感覚も失って倒れてしまう、そんな気がした熱斗は一刻も早くこの場を離れる為にゆっくりとだが確実に足を動かして歩き始めた。
廊下を少し歩いて近くの階段に差し掛かり、その段をゆっくりと上る。
階段には人気が無く、熱斗はそれに何処か安堵を感じながら階段を上りつづけた。
そして熱斗は、この間教室を飛び出した後に着いた場所――屋上の出入り口付近にたどり着き、屋上と校舎内部を繋ぐ扉の前の段に腰を下ろす。
腰を下ろすと同時に、それまでの緊張からの疲れがどっと溢れだして、熱斗はやや大きな溜息を一つ零した。
それに反応してか、ロックマンが静かに熱斗の肩の上に現れる。
「熱斗くん、いいの?」
「……何が。」
心配そうなロックマンの問いかけに、熱斗は少しぶっきらぼうに、そして不機嫌に、拒絶するような威圧感をもって訊き返した。
予想以上に不機嫌な訊き返しに、ロックマンは困ったような顔で熱斗を見ながら頭を掻く。
熱斗はそこから目を逸らして自分の膝を抱え、顔を伏せる。
そして顔を伏せたまま、熱斗は酷い自己嫌悪に陥り始めていた。
結局、少なくともメイルは悪い事など何もしていない事は、熱斗にも分かっているのだ。
だから、ロックマンの、いいの? という問いの意味だって、本当は分かっている。
おそらくロックマンは、メイルは何も悪い事などしていないのに、そして熱斗はメイルと共にいる事を望んでいるはずなのに、あんな無愛想な態度をとって良かったのか? と訊いているのだ。
それに対して熱斗は、全く良いとは思わない、と思う。
まるでメイルに全てを押しつけるような形で逃げた自分に、熱斗は腹が立っていた。
悪いのはメイルではないし、やいと達でもない、それなのに自分の一部はまるでメイルかやいと達が悪いかのように思おうとしている、いや既に思っている。
朝、メイルが席に座らず教室の後方でやいと達と談笑しているのを見た自分は何を思ったか、それを思い返して熱斗は自分に吐き気のような嫌悪感を抱く。
やいと達にメイルを盗られた、一瞬でもそう思った自分が嫌で、熱斗はそれを誤魔化すように自分の髪の毛を掴んで引っ張る。
何が“盗られた”だ、最初からメイルは自分の所有物ではないし、だからと言ってやいと達だけの所有物でもなく、自分とやいと達双方の共通の友人だというのに、自分は何を考えているのだ、と思って。
ロックマンが心配そうに名前を呼ぶ声がどこか意識の隅っこに聞こえた気がしたが、熱斗はそれを無視して更に深く、膝に額をつけて顔を伏せた。
つい一週間ほどは安定していた自分、それが脆くも崩れていく。
現実世界で足下がおぼつかなくなる事は無い、けれど、心の中にいる自分が今真っ直ぐ立つ事ができるのかと訊かれたら、熱斗は否と答えることしかできないであろう。
「熱斗くん、戻らないの……?」
それから何分が経った時であろうか、ロックマンが唐突にそう言って熱斗に声をかけたのは。
熱斗はそれまで頭を押さえていた両手を身体の両脇に下ろし、ゆっくりと顔を上げる。
そしてPETを左肩から外して時計画面を見ると、それは休み時間があと五分で終わる時間になっている事を教えてきた。
休み時間は約二十分だから、熱斗は休み時間の八割近くをこの場所で無意味に消費していたらしい。
そろそろ教室に戻らなくては、と思った熱斗はPETを左肩に戻すと、少し乱れた髪を手で軽く整えて、屋上の出入り口前の段差から腰を浮かせた。
そして下の階へつながる階段に視線を向ける。
ここを少し下った所の廊下を少し歩けば六年A組の教室へ戻れる、それを考えて、熱斗は少しだけ心臓が軋むのを感じた。
正直、まだ教室――メイルのいるところに戻る決心がつかない、が、時間は容赦なく進み、気が付けば授業開始まであと三分となっている。
熱斗は仕方なさそうに大きな溜息を一つ吐くと、ゆっくりと足を踏み出して階段をのろのろと下り始めた。
一分ほどかけて長くは無い階段を下り、長くもない廊下をもう一分程かけて渡る。
そして教室の前方の扉の前に立ってその扉を開けると、熱斗の席の隣は空席に、なってはいなかった。
メイルは熱斗が教室を出た時と同じように自分の席についていて、窓の外を眺めている。
それを見て熱斗は、もしかして自分の為に外にも他の場所にも行かず待っていてくれたのだろうかと少しだけ期待しながら自分の席に近付く。
その足音に気がついて、メイルが熱斗の方を向いた。
「あ、熱斗。」
メイルに視線を向けられた瞬間、熱斗は心臓や胃がキュッと収縮するような苦しさを感じ、今すぐにでも走って逃げたくなったが、此処で逃げてはまた同じ事の繰り返しであるし、更に授業に遅れる事にもなってしまうと思い、返事は後回しにしてとりあえず着席する事にする。
ガガッと軽いようで重いような、正に熱斗の心理状況と同じような音を立てて椅子を引き、その上に座って机に肘を着く。
そして、なんにもありませんよ、と言いたげな態度でブラックボードと教壇に視線を向けた。
メイルは不安げな視線を熱斗に向けたままだ。
奇妙な沈黙が再び熱斗とメイルの間に舞い降りる、と、その沈黙を破ったのは意外にも熱斗の方だった。
「いやぁ、すぐ帰ってくるつもりだったんだけど意外と時間かかっちゃったなぁ!」
まるで沈黙に耐えられなかったから無理矢理声を出してみたと言っているにも等しい空回りな元気に、メイルは心配そうな表情を見せる。
熱斗は精一杯元気にふるまったつもりかもしれないが、それが作り物の元気である事ぐらい、メイルにも容易く分かる、そのぐらい熱斗の元気は空回っていた。
メイルは一瞬熱斗に“無理をしないで”という事を考えた、だが、無理矢理といえど笑顔を見せる熱斗を見てそれを本当に言っていいのかどうか迷う。
そんなメイルに、熱斗はなんとか笑いかけて、話を続けようと試みる。
それはまるで、メイルにはしゃべらせまいとしているようだった。
「ごめんねホント、遅くなっちゃってさ。まぁこういうのはどうにもならないことだから許してくれよな!」
熱斗の声は一見いつもより元気だったが、その質感は何処か乾燥している様な気がして、メイルは心配そうな表情を深めた。
そんなメイルを見て熱斗は、お願いだからそんな探るような眼で俺を見ないで、という想いと、そうだよもっと心配して俺の事を見て、という想いの間で揺れる。
心配そうな顔を見なくて済むように元気な声を出したはずなのに、何故か心配を求める想いが頭の隅に居座っていて、その矛盾が心臓を締め付けて頭を揺らす。
元気な声とは裏腹に、熱斗は今すぐにでもまた逃げ出したいような、逃げ出さなければおかしくなってしまいそうだという思いに襲われていた。
そして元気な会話もすぐにネタ切れを起こして止まり、また奇妙な沈黙が二人の間に舞い降りる。
メイルも熱斗も、何を言ったらいいのか分からなくなってしまったのだ。
「……あのね、熱」
しばらくの沈黙の後、メイルが口を開きかけた、が、しかし、そのタイミングを待っていたと言いたげに授業開始のチャイムが鳴り、メイルの声をかき消した。
外で遊ぶ子供達の声がだんだんと校舎に近付いてくる、昇降口に集まっているのだろう。
そして徐々に校舎の中も騒がしくなり、廊下を駆ける足音やおしゃべりをしながら教室に戻ってくる同級生及び下級生達の声が聞こえ始めた。
熱斗とメイルがいる六年A組の教室にも徐々に人影が増えてくる。
チャイムのせいで口を開くタイミングを失ったメイルは、しばしの間熱斗を見詰めた後、そっと次の授業の為のノートと筆記用具の準備をし始めた。
それを確認して熱斗も筆記用具などの準備に移る。
準備に移りながら熱斗は、安堵と落胆というやや矛盾した感情を一度に感じていた。
それは、前にも何処かで感じた事があるような、そんな懐かしさを帯びている。
それもどこか、暗さと重さを伴って。
それから更に二時間が過ぎて午前の授業が終わり、給食の時間も終わった頃、熱斗はまた隣にメイルの気配を感じつつも特に話しかける事は無く、自分の席についてただじっと前方のブラックボードを見詰めていた。
昨日まではこの昼休みにも熱斗とメイルは沢山の会話を交わしていたのだが、今日は二人ともそうやって話す気にはなれないらしい。
特に熱斗は、今口を開けば自分は何を言い出すか分かったものではないという不安とそれに伴う緊張感に縛られて、明るい話題が全く思い付けずにいる。
メイルも、前の休み時間の段階から熱斗の様子がおかしい事を気にしていて、むやみに声を駆ける気にはなれないようだ。
しかし、そうはいっても近くに知人がいれば話しかけたくなるのが人間というもので、特に友人と共にいる事を至福とする熱斗は、今この瞬間も本当はメイルと話がしたくてしかたがなかった。
熱斗は、それまでメイルの顔が見えないように前方だけを見ていた視線を、少しだけ左に動かしてメイルの様子を窺う。
メイルも、話こそしないものの、熱斗の側にいるという約束を果たす気は今でもあるのか、何をするでもなく自分の席に着席したままじっと前を向いて静かにしている。
と、メイルが少しだけ視線を右に――熱斗の方へと向けた。
熱斗とメイルの視線がほんの僅かに交差して、熱斗は驚いた様に焦って視線を前方へと戻す。
もしかしたら今の一瞬でメイルに気付かれてしまったかもしれない、熱斗はそんな心配をしたが、その心配とはまた別の場所で熱斗は、メイルが自分を気にかけてくれているのではないかという期待も持ち始めた。
一度そんな期待を持ってしまうと、最初から持っている話をしたいという願望が益々膨れ上がって、今は黙っているべきだというどこか理性的な警告から耳を塞いで、想いのままに走り出すように声をかけてしまいたいという欲求が高まっていってしまう。
どうしよう、声をかけようか、それとも向こうが気付いてくれるのを待とうか、そんな考えばかりが頭の中をぐるぐると回って、熱斗はいつの間にか“一言も話さない”という選択肢を忘れ始めていた。
本当にどうしよう、声をかけるべきか、声をかけられるのを待つべきか、熱斗は右手で軽く頭を抱えながら悩む。
そんな熱斗の隣で、メイルは案の定というべきか当たり前にというべきか、熱斗が先ほどからメイルの方を気にかけている事に気付いており、こちらもまた声をかけるべきか、それとも熱斗から声をかけられるのを待つべきかを悩んでいた。
ただ、メイルのそれは熱斗のそれ程には激しくなく、もう少し熱斗の様子を見てそれで決めようと思う程度の余裕は維持しており、その為メイルは頭を抱えて悩む様な事はない。
もう少し様子を、例えばそう、もう一度自分が熱斗に視線を向けた時、その視線が熱斗の視線とぶつかったら声をかけよう、などという事を考えながら、メイルはしばしの間前方に視線を向けていた。
その背後にそれを引きとめる人影が近付いているとも知らずに。
一方熱斗は、そろそろ色々と限界を迎えようとしていた。
話しかけたい、話しかけてほしい、とにかくメイルと話がしたい、こんな沈黙は望んでいない、自分が望んでいるのはきっと華やかな会話だ、それを自覚した時、熱斗はこれ以上はメイルから声をかけられるのを待つべきではなく、自分から行動するべきだと思って声を出すために息を吸い込んだ。
そしてメイルの方に顔を向けて一言、メイルちゃん、と名前を呼ぼうとした、が、
「メイルちゃん、ちょっといいかしら?」
熱斗がメイルの名を呼ぶ前に、いつの間にかメイルの背後に近付いていた誰かがメイルの名前を呼び、自身のいる後方へと振り返らせた。
それにより熱斗は吸い込んだ息に音をつける事が出来ないまま静かに息を吐き出すことしかできず、メイルに呼びかけた誰かを軽く怨む様な気持ちと、前にもどこかで似たような事があった気がするというデジャヴを感じながらメイルを呼ぶ声の方へと、少し不機嫌な表情で振り向く。
すると、そこにいたのは黄色い三つ編みと輝く額が特徴的な少女、綾小路 やいとであった。
先週の朝と言い今日の今この瞬間と言い、やいとは何かメイルと自分が交友を深める事を邪魔しに来ているのではないだろうか、などという疑念が熱斗の脳裏をかすめる。
もちろん、やいとにそんなつもりはない事や、メイルの友人が自分だけではない事は熱斗にも分かっているのだが、ただでさえギクシャクしている今だ、その中でようやく芽生えた勇気を邪魔されるというのは熱斗にとっては大きな不快感を生むものであった。
そんな不機嫌そうな熱斗の隣で、メイルがやいとに反応を見せる。
「なにかしら、やいとちゃん。」
「今日の放課後の事で相談があるの、来てくれるかしら?」
メイルが問いかけると、やいとはそう言って教室後方の扉を指差す。
その指につられるように熱斗とメイルが教室後方の扉を見ると、開いた扉の先にデカオと透の姿が見えた。
どうやら今日の放課後はやいと、メイル、デカオ、透の四人で遊ぶつもりらしく、それについての相談をこの昼休みに行う気らしい。
メイルがチラリと、困ったような表情で熱斗に視線を向ける。
その視線と目があった瞬間、熱斗の脳裏に、新型ダークロイドとの戦闘で敗北してから数日後、退院してすぐの四人の情景が思い浮かんだ。
楽しそうにコントローラーを握るデカオ、ゲームの中の協力方法を模索して相談するやいとと透、そしてそんな三人の為に時間を気にしていたメイル、それらが改めて再現されたような感覚に、熱斗は悪い意味で鼓動が速くなるのを感じる。
メイルは何を気にして此方に視線を向けてきたのか、熱斗にはもう分からない。
それは、やいと達の所へ行っても大丈夫かと熱斗へ訊いていたのかもしれないし、熱斗がいるからやいと達の所へ行き辛いとやいとに言っていたのかもしれないし、もしかしたらそのまた別のことかもしれない。
とにかく、ただ一つ分かるのは、メイルが今すぐやいと達の為に動けない理由はこの自分、熱斗の存在だという事だけ。
それを知った熱斗の胸に湧き上がるのは、自分はメイルにとって重荷になっているのではないかという罪悪感だった。
メイルはやいと達の所へ行きたがっている、やいともメイルを連れて行きたがっている、当事者たちの意思は合致している、ならば、合致していないのは誰だ。
その答えは“部外者の自分”である事を感じとった時、熱斗は自分は今この二人にとって邪魔になってしまっているのだと確信した。
メイルには傍にいて欲しい、けれどメイルの重荷や邪魔にはなりたくない、そんな事で嫌われたくない、そんな想いが急激にその勢力を強めて、熱斗は困ったような表情のメイルに向けて極力明るく笑いかけた。
「いいよ、行ってきなよ。」
頬の筋肉が引き攣って強張って少し痛かったが、熱斗はそれを無理矢理無視して笑う。
そんな熱斗を見てメイルは更に困ったような顔で熱斗とやいとを交互に見詰めたが、やがて熱斗のその笑顔を信じてみる事にしたのか、それとも最初からそうする気があったのか、それは熱斗には分からないがゆっくりと席を立つ。
椅子から立ち上がったメイルは熱斗に振り向くと、少しだけ辛そうな表情を見せながら小さな声で、
「……ごめんなさい。ちょっと行ってくるわね。」
と言ってから、やいとの方に振り向いて、一歩早く歩きだしたやいとのその背を追って歩き始めた。
やいととメイルは先ほどやいとが指差した教室後方の扉へ向けて歩く。
熱斗の席からは、教室の外のデカオと透が、まだ教室の中にいるメイルとやいとに向けて、挨拶代りと言わんばかりに右手を上げて合図を送る様子が見える。
そしてやいととメイルが教室の外へ踏み出すと、デカオが先頭に立って歩きだし教室の扉の枠から見えない範囲へと姿を消し、やいと、透、メイルの順でそれに続いて歩きだすのが見えた。
やがてその三人の姿も見えなくなった時、教室の扉は静かに閉まるのであった。
訪れるのは静寂。
運が良いのか悪いのか、教室の中には自分以外誰もいないという何とも寂しい状況の中、熱斗はしばしの沈黙の後に溜息を零した。
すると、それを聞きつけたのか、それとも先ほどからずっと聞き耳を立てていたのか、今度はロックマンがPETの中から熱斗の机の上へと現れて熱斗に話しかけてくる。
「熱斗くん、入れて……って言わなくていいの?」
いつも通り肩の上にでも現れれば良い所を、わざわざすぐに熱斗の視界に入るように机の上に現れたロックマンに、熱斗はモヤモヤとした不快感を感じた。
ロックマンの目は熱斗を心配している様な、それでいて熱斗の内面を覗きこむ様な、熱斗が隠したくて仕方が無い感情さえ見透かすような透明感を帯びている。
熱斗はそれに微かなデジャヴと拒絶感を覚えながら、ロックマンから視線を逸らすように窓の外に視線を向けて返事をした。
「別に、いいんだよ。」
どこかそっけない返事の熱斗をロックマンは心配そうな、本当は一緒に遊びたいんじゃないの? と言いたげな視線で見詰めていたが、熱斗がそれに視線を合わせる事はなかった。
熱斗はただ、どこか遠くを見るような目で窓の外の空の色を見詰める。
雲一つない快晴の空はいつもなら気分も晴々して清々しくなるのに、今日はどうにも苛立ちを刺激するものでしか無い。
何がどう苛立ちを誘うのか、それは熱斗にも言い表せないものがあったが、とにかく、熱斗は今が雨、もしくは雷雨にでもなってしまえばいいと思う。
そうして下の地面で遊ぶ子供達の声が掻き消されればいいとさえ熱斗は思ったが、それならそれで教室が全体的に煩くなるだけだと気付いた時、熱斗は逃げ道が無くなるような感覚に陥った。
そう考えればこの晴天も少しはマシなものなのか、熱斗は少しだけ悩む。
悩んだ後に、そこに答えなど無く、そもそも考える必要すらないのだと気付いた時、熱斗は疲れたような溜息を零すのであった。
机の上のロックマンは、まだ少し不安そうに熱斗の様子を見守っている。
そして時間は更に二時間程の午後の授業が過ぎて放課後となる。
熱斗はその時やはり隣にメイルの気配を感じながらもそれをわざと無視するように、独りで静かに帰り仕度を行っていた。
結局、今日はメイルとロクに会話をする事が出来なかった、それを思い出して熱斗は溜息を吐く。
たった一度、朝の時間に間に合わなかっただけでこんな事になるなんて、と考えると、熱斗の気持ちは朝の約束に間に合わなかった自分への自己嫌悪で更に重く暗い所へと沈んでいくのである。
そして今日は、それを帰りに取り返す事も出来ない事を思い出して、熱斗は先ほどより少し深い溜息を長々と吐いた。
そんな熱斗を、メイルが呼ぶ。
「熱斗。」
その呼びかけに熱斗はあまり大きな反応は見せず、僅かに落胆と疲労の色が滲んだ無表情をメイルに向けた。
メイルを見ると、此方もあまりこれと言って特殊な表情はしていない。
そんなメイルを見て熱斗は、落胆しているのは自分だけなのだと感じ、更なる落胆を感じる。
「あぁ、何?」
少しそっけなくそう返事をすると、さすがにメイルも何か不穏なものを感じとったのか、少し不安そうな表情を見せた。
もしかしてメイルはまだやいと達の所へ行くべきか、それとも熱斗のもとへ残るべきか迷っているのだろうか? 熱斗はそう思ったが、だからと言って今更“俺の側にいてくれ”などと言える勇気が出るはずもなく、熱斗は無言でメイルを見詰める。
その表情は、何か言いたい事があるならさっさと言ってくれと言いたげな、何処か投げやりな雰囲気を含んでいた。
それを察してか、それともそれに関係無く言うつもりだったのか、ともかくメイルは言う。
「私、このままデカオくん達と一緒にやいとちゃんの家に行くから……」
メイルはその後の言葉を紡ごうとしなかったが、熱斗にはその後の言葉が聞こえたかのようにそれを予想する事ができた。
どうせ、だから熱斗とは一緒にいられない、とか、だから今日は此処でさよならね、とか、そんな、少なくとも自分の願望にはそぐわないものだろう、と熱斗は考え、小さく三度目の溜息を吐く。
嗚呼嫌だ、本当に嫌だ、そんなものは聞きたくない、とでも言うかのように、熱斗はメイルから視線を逸らして帰り支度を再開する。
メイルはまだ何かを言いたそうな顔をして熱斗を見詰めていたが、やがて今の熱斗は聞いてはくれないだろうと思って諦めたのか、自身も熱斗から視線を逸らし、帰り支度を再開した。
やがて、熱斗より先にメイルがしたくを完了させて席を立つ、その時のガタンという椅子の音に反応して、熱斗は一瞬だけ手を止めた。
それでもすぐに、自分には関係のない事だとでも言うかのように帰り支度を再開する熱斗へ、不安そうで心配そうでどこか申し訳なさそうなメイルは告げる。
「熱斗、また明日、ね。」
熱斗はすぐには返事ができなかったが、一瞬の沈黙を挟んだ後小さく頷いて、
「……また明日。」
とだけは返しておいた。
それを確認して、メイルは自分の席を離れ、既に帰り支度を終わらせ教室の後方に集まっていたデカオややいとと合流する。
メイルと二人は何か短い会話を交わすと、そのまま熱斗には振り返らず教室後方の扉へ進み、そのまま廊下へと足を進めていく。
おそらく廊下か隣の教室で透と合流する気なのだろう、と思いながら、熱斗はその全てをやや未練がましい視線でメイルを中心に見守っていた。
やがて、熱斗の周囲には熱斗には関係無いざわめきだけが立ち込める、それは、一種の静寂にも等しかった。
どれだけ周囲がわいわいと騒いでいても、それが自分にとって何の関係もないものならば、それは、静寂や沈黙と同じなのだ。
メイルが行ってしまった、その事実を改めて思い知らされる熱斗は四度目の溜息を零した、その瞬間、熱斗が左肩に装着している青いPETが通信の着信音を鳴らし、その静寂を打ち破った。
ピピッ、ピピッといういきなりの電子音に驚いて、熱斗はビクリと肩を震わせた後にPETを左肩から外し、その小さな画面に視線を向けた。
通信に出るとそこに映ったのは科学省指令室を背景に佇む名人で、熱斗は今日最大の嫌な予感を感じとる。
此処最近は少なかったのにな、と思いつつ、熱斗はいつも通り名人をさん付けで呼んでみた。
「名人さん?」
「さん、は要らない! 熱斗くん、事件だ。デンサンシティの電気街にディメンショナルエリアと新型ダークロイドが出現した、すぐに現場に急行してくれ!」
名人はお約束の“さん、は要らない!”をいつも通り告げた後に、熱斗に新型ダークロイドによる事件の発生を伝えてきた。
それを聞いて熱斗は、やはりそんなことだろうと思っていた、と思うと同時に、今日は本当に運の悪い日だと思う。
メイルとロクに話せなかっただけでも気が重いというのに、どうしてこうも悪い事は簡単に重なって積み上がっていくのだろう? 熱斗はPETに名人が映っている事も忘れて五回目の溜息を吐いた。
その様子を見て、名人が首をかしげる。
「熱斗くん、どうかしたのか?」
熱斗は少し慌てて取り繕う。
「あ、いや、何も……じゃあすぐに行くよ。」
すぐに出動する、それだけ告げると熱斗は名人が通信を切るのを待たず自分から通信を切ってPETを肩に装着し直した。
そして筆記用具やノートなどを詰めた鞄を背負って、右脇にインラインスケートの車輪を抱えて席を立ち、すぐに走って教室を前方の扉から出る。
その時熱斗は、もしかしたら今後方を振り返ればメイルやデカオ、やいとや透の姿が見えるのではないかと思ったが、今はそれどころではないと自分に言い聞かせて振り向かずに廊下を走り抜けた。
階段を駆け下りて昇降口に出て、そこから校庭に出ると熱斗はインラインスケートの車輪を靴の底に取り付けて走り出す。
その速度は急いでいるにしてはやや遅いような、今日の朝に比べるとまだまだ安全な程度の速さで、熱斗は自分が新型ダークロイドとの戦闘に本心ではもう関わりたくないと思っているのではないかと思い、そんな怠惰な自分に嫌気がさしてそっと唇をかみしめた。
そして出来る限り、今朝には届かないにしても急いでいる事だけは分かる程度にスピードを上げ、住宅街を駆け抜け大通りに出て、そこで更にスピードを上げてデンサンシティの電気街に向かう。
電気街に着くと遠くにディメンショナルエリアと思わしき虹色のドームが見えて、熱斗は更にスピードを上げた。
車輪から時たまおかしな音がするが、今度はロックマンは何も言わない。
ロックマンも、この加速はあのディメンショナルエリア内に入る為に必要なものだと分かっているのだ。
そのスピードをキープしたまま、熱斗はPETを左肩から取り外して右手に持ち、それを左手に持ち替えた後にシンクロチップと呼ばれる水色の特殊なチップを取り出した。
そしてディメンショナルエリアの壁にぶつかる直前、熱斗はシンクロチップをPETにスロットインする。
「シンクロチップ、スロットイン!」
熱斗とロックマンの声が重なる。
「「クロス、フュージョン!」」
そして熱斗はPETを目前に掲げたままスピードを一切落さずにディメンショナルエリア内へ、分厚い虹色の壁を突き抜けようとするように突っ込んだ。
壁を突き抜けたその場所から、熱斗の姿は私服ではなくCFロックマンの姿へと変わっていく。
やがて完全に壁を突き抜けると、そこに立っている熱斗はただの人間ではなく、クロスフュージョンネットナビへと変化していた。
そして熱斗は目の前の惨状とその犯人を視界に入れる。
熱斗の視線の先の道路はこれでもかという程水でびしょぬれになっていて、まるで大雨でも降った後のように大きな水たまりが大量にできていた。
今も水道管や消火栓と思わしきものから大量の水が溢れ出ている。
そしてその水だらけになった道路の真ん中で、危惧すべき事など何も無いと言わんばかりに佇んでいる、七歳から九歳程度の幼女型の新型ダークロイド――“あの時”の幼女ナビを見て、熱斗は色々な怒りに眉をひそめた。
街を壊して人々の生活を脅かす存在は許せない、そんな正義の怒りの影で、もっと別の、酷く個人的で私怨的な怒りが燻ぶる。
――お前らさえ居なければ。――
「……熱斗くん?」
耳の中にロックマンの声が響いたが、熱斗はそれに返事をしないまま右腕を正面へ向けて掲げて、その手にロックバスター装備した。
そして、無言のままエネルギーをチャージする。
キュィィィィイ……と小さな音を立てて溜めこまれるエネルギーは、その明るい光とは裏腹の想いを蓄積しているようだった。
そうして右手に溜めこまれたエネルギーが最大値を迎えた時、熱斗は叫んだ。
「チャージ、ショット!!」
叫びと同時に放たれたエネルギーは猛スピードで前方へと進み、熱斗に背を向けて佇み今尚水で遊んでいる幼女ナビの背中へと飛び込んだ、ようだったが、本来なら上がるはずの砂煙や幼女ナビの悲鳴は熱斗の目には見えず、耳には一切聞こえない。
その代わり、幼女ナビの背後ではバシャンッ! という水が飛び散る音と、シュー……という水が蒸発する音が聞こえ、砂煙の代わりに水蒸気が立ち上っていた。
どうやら幼女ナビは熱斗の放ったチャージショットを大量の水で打ち消したらしい。
徐々に薄くなる水蒸気の中から、今度は幼女ナビの技と思われる水の柱が熱斗に向けて進んでくる。
それがバトルチップ『アクアタワー』とほぼ同等の攻撃であると悟った時、熱斗はバトルチップの使用を決めた。
「バトルチップ、フレイムタワー!!」
熱斗がそう叫びながら地面に手をつくと、そのすぐ近くから大量の炎が湧き上がり、まるで高い塔のように一つの火柱となって水の塔へ向かって走り出した。
全てを燃やしつくしそうな炎の塔は水の塔と接触すると大量の水蒸気だけを残して水の塔と共にその姿を消してしまう。
それを確認して、熱斗は水蒸気の中心、薄っすらと見える幼女ナビのシルエットに向けて走り出した。
その右腕には、いつの間にか『エレキブレード』が装備されている。
「うおおおおおおおお!!」
地獄の底から這い上がるかのような雄叫びを響かせながら、右手のエレキブレードを掲げて突進する熱斗、その突進と斬劇の軌道を、幼女ナビはまるで運動能力に長けた幼児がお遊戯でもするかのようにひらりと飛び上がり避けて見せた。
そして最初に立っていた場所より少し後方に下がった場所にストッと軽く着地する。
熱斗は幼女ナビからの反撃を警戒して踏み込んだ場所から数歩、前を向いたまま後退した。
――忌々しい。――
幼女ナビにいとも簡単に攻撃を避けられた事に苛立って、熱斗はチッと舌打ちを漏らす。
するとそれまで熱斗に背を向けていた幼女ナビがくるりと振り返って、前回同様とても楽しそうな笑顔を熱斗に向けた。
「熱斗お兄ちゃん! 今日もいーっぱいお遊戯しようね!」
そう言った幼女ナビの両手には既に大量の水分が終結しており、その水分は幼女ナビが両手を前方に翳すと一つに集まって一匹の大きな魚の形を形成する、
そして幼女ナビの手を離れた大きな魚はまるで銃弾のように猛スピードで熱斗へ迫る。
熱斗はそれを真横に跳躍してかわしたが、魚はその代わりに熱斗のすぐ背後にあったディメンショナルエリアの壁にぶつかって水しぶきとなって飛び散った、それが熱斗の身体にかかる。
途端に、熱斗は水がかかった部分に鋭い痛みを感じた。
この痛みは、熱さからくる痛みだ。
幼女ナビの斜め前方に跳躍した熱斗はそこから幼女ナビを睨みつける。
すると幼女ナビはクスクス笑いながら、熱斗に自分の技をくらった感想など聞いてきた。
「熱斗お兄ちゃん、私のお魚さんはどうだった? とーっても熱いでしょ? あの子はね、直接当たらなくても何処かに当たれば周囲に散らばって敵にダメージを与えてくれる良い子なの!」
そう言いながら幼女ナビは小さな右手をロックマンのロックバスターのような筒状の銃器に変える。
それを見て、幼女ナビはこの戦いを遠距離戦に持ち込む気だと悟った熱斗は、自身も武器をエレキブレードではない遠距離戦の物にする事にした。
咄嗟に選んだチップは、この前と同じ『ラビリング3』だ。
「ラビリング!!」
熱斗の声に合わせて、右腕に装備された武器がエレキソードからラビリング3の発射装置へと変化する。
熱斗はラビリングの発射装置を幼女ナビの胸に向けた。
そして発射装置から円形の電気攻撃が発射された瞬間、幼女ナビの右腕からも水属性と思わしき水色の光が発射される。
ラビリングと水の銃弾は丁度幼女ナビと熱斗の間の真ん中程度でぶつかり合い、また多くの水蒸気を上げさせた。
「くっ! バトルチップ、スプレッドガン!!」
水蒸気が立ち込める中、先に動き出したのは熱斗の方で、熱斗の右腕はラビリングの発射装置からスプレッドガンの発射装置へと形を変える。
そして熱斗は水蒸気が晴れない内に大まかな狙いを定め、そのまま銃弾を発射した。
スプレッドガンの最大の特徴、一発撃っただけで広範囲に広がる銃弾が、広い範囲に広がる水蒸気の中をこれまた広い範囲に広がって駆け抜けてゆく。
しかし幼女ナビの悲鳴らしきものは聞こえず、熱斗は水蒸気が晴れるのを待った。
水蒸気は徐々に晴れ、そこには幼女ナビの姿が、無い。
「えっ、ど、何処だ!?」
「こっちだよ! 熱斗お兄ちゃん!」
熱斗が焦った声を漏らすと、幼女ナビが丁寧にも自分の居場所を示唆するように声を出した。
しかし熱斗の視界、地面から一メートル五十センチ程度の高さの何処の場所にも幼女ナビの姿はない。
実はこの時幼女ナビは前回劣勢になった原因である飛行用装備の不足を克服しており、熱斗の視界より遥かに高い位置にいたのだが、熱斗はそれに気付けない。
わざわざ敵が声を出しているというのにその場所を掴む事が出来ないなんて、と焦る熱斗に、幼女ナビが更なる攻撃を仕掛ける。
「バトルチップ、カモンレインっ!」
何処となく無邪気で、それでいて邪気のある幼女ナビの声が響くと同時に、熱斗の上に大量の雨雲が現れ、その身体に集中豪雨を浴びせた。
その集中豪雨自体は大した攻撃力を持っておらず、普通の雨のように熱斗の身体を濡らし体温を奪う程度であったが、問題はその次である。
幼女ナビはそこで攻撃を止めることなく、何処からか熱斗の目の前に現れた時にはその右腕を標準装備とは思い辛い形に変えていた、それは、
「痺れちゃえ! エレキショック!」
幼女ナビの右手の機械はエレキショックの発射装置で、幼女ナビは熱斗に向けて地面さえ壊す雷を放ってきた。
ただでさえ辛い電気属性の攻撃を、カモンレインの集中豪雨でびしょ濡れになった身体に浴びせられた熱斗はその衝撃に絶叫する。
「うああああああああああああああああ゛っ!!」
そして雷が止んだ時、熱斗は崩れ落ちるようにその場に膝をつき、両手を地面に着いた。
まだ幾ばくか痺れの走る身体、それでも熱斗は幼女ナビを今度こそ逃がすまいとして視界に入れる為顔を上げる。
すると幼女ナビはなんと熱斗の目の前に立っており、熱斗が上げた顔のその顎を右足で強く蹴り上げてきた。
驚愕と苦痛の混ざり合った声が熱斗の口から漏れる。
「かはっ!!」
「熱斗お兄ちゃん、結構弱いんだねー。」
天使のような笑顔で悪魔も戦くような台詞を吐きだす幼女ナビを、熱斗はこれ以上ない怒りと憎しみを込めて睨みつけた。
だが、それ以上の事は熱斗にはもはや出来ようもなかった。
このネットナビが、このネットナビの所属する組織が、そしてそれに勝てない自分が怨めしい。
こんな所でグダグダと長い戦いを演じている間場合ではないのに、自分がこんな事をしている間にも、“彼女”は――。
熱斗の脳裏に、幼馴染の後ろ姿がちらつく。
「熱斗くん、しっかりして!」
幼女ナビを睨みつけながらもその意識が何処か遠く、違う所へ行きかけていた熱斗をロックマンの声が現実に引き戻す。
ハッとして幼女ナビを見ると、幼女ナビは攻撃を仕掛けようとせずニヤニヤとした陰湿な笑顔を湛えて熱斗を見詰めている。
一体どういうつもりだ、これはチャンスと見ていいのか、いやそれともこの幼女ナビの何らかの罠なのか、今自分が殺されず、攻撃もされない理由が微形も分からず困惑する熱斗に向けて、幼女ナビは言う。
「熱斗お兄ちゃんの怒った顔、素敵だね。」
それを聞いて、どういう意味だ、と言いたげな顔をした熱斗へ、今度は聞こえないくらい小さな声で、
「……まるでわたしたちみたい。」
と呟くと幼女ナビはなんと一切の攻撃をせずに突然その姿を消し、この場所からログアウトしていってしまった。
徐々にディメンショナルエリアも解除され、後には水浸しになった道路とびしょ濡れで地面に膝と手をついている熱斗だけが残される。
そしてディメンショナルエリアが消え切ったその時、熱斗の姿はCFロックマンから普通の私服へと戻り、PETが目前に落下してカシャンッと軽い音を立てるのが見えた。