あの子の足元にも影はある
階段をリズム良く歩いて上り、廊下を少し歩き、六年A組の教室の前にたどり着いて、教室の扉をゆっくりと開ける。
扉を開けると、ほとんどの生徒は既に教室に到着しているのか教室の中はざわついており、様々なしゃべり声が熱斗とメイルの耳に届いてきた。
そんなざわついた教室の中に入り、熱斗とメイルはそれぞれは自分の席へ向かう。
と言っても、二人の席は隣同士だ、そんなに離れる訳ではない。
小さくガタンと音を立てて椅子を引き、二人は自分の席に着いた。
そして熱斗が、先ほどの話の続き――放課後遊ぶとして、どちらの家で遊ぼうかどうかの相談を持ちかけようと、隣に座るメイルの方を向こうとした、その時。
「メイルちゃん、ちょっといいかしら?」
メイルの背後、熱斗からは少しだけ遠い位置で、誰か女子生徒の声がメイルを呼んだ。
メイルが単純にその声に反応して、また熱斗がその声を鬱陶しく思いながらも発信源が誰なのかを突き止める為に振り向くと、メイルの席の背後に立っていたのは、熱斗達よりも三歳から四歳ほど幼いながら、熱斗達より遥かに優秀な頭脳を持つお嬢様な少女、綾小路 やいとであった。
途端に、熱斗の脳裏に僅かな不快感が駆け抜ける。
その脳裏に蘇るのは一昨日のやいとの行動だ。
熱斗が秘密基地を後にした時、メイルと、辛うじてではあるものの透は熱斗のそれに気付いてくれていたが、やいととデカオは全く気付かぬ様子でゲームに没頭していた。
そう思うと、きっと今でもやいとの視界にはメイルしか映っておらず、熱斗は見えていないのだろうという疑いがふつふつと小さく湧き上がってくる。
しかもそのメイルだけ見ていると熱斗は感じた呼びかけにメイルが普通に振り向くものだから、熱斗はメイルに改めて声をかけるタイミングを失い、開きかけた口を静かに閉じる羽目になって、それがまた苛立ちを誘う。
「あら、なぁに? やいとちゃん。」
メイルと熱斗が振り向いた先、やいとは無表情で二人を、その中でも主にメイルを見詰めていた。
それがあまりにも完璧な無表情なので、最初は微笑で振り返ったメイルも何か違和感を感じたのか、不思議なものを見るような目でやいとを見る。
熱斗はそんな二人を、僅かに不機嫌が隠しきれていない表情で観察していた。
やがてやいとが無表情のまま、しかし何かを決意したように口を開く。
「ちょっとこっちに来て、話があるの。」
やいとはそう言ってくるりと振り返りなおしメイルに背を向けた。
その背はまるでメイルについて来いと言っているようで、メイルはやはり不思議なものを見ている様な顔をしながらもゆっくりと席を立った。
それを見て熱斗は急に、メイルがこのまま遠くへ行ってしまうのではないかという不安を感じ、自分もガタンと椅子を鳴らしながら席を立つ。
「あ、俺も行くよ! 俺もメイルちゃんと話したい事があるし!」
そしてメイルの後ろについて歩こうとした、その時、やいとが急に振り返ってメイルではなく熱斗に視線を向けた。
それは無表情でありながら何か睨みつけるような強さを帯びており、熱斗は一瞬驚きで呼吸を忘れかける。
一体何なんだ、何故自分はこんな視線でやいとから見られて、いや睨まれているのか、熱斗がそう困惑しかけた丁度その時、その訳を説明するかのようにやいとが口を開いた。
「熱斗はそこで待ってて、あたしはメイルちゃんだけに話があるのよ。」
開いた口から放たれた言葉は明らかに熱斗の存在を拒絶しており、熱斗はその拒絶に衝撃を受け、口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くしてしまった。
今、自分は明らかにやいとから拒絶された、その事実が、本来やいとが考えていない部分まで色々な想像を広げさせて、熱斗はゆるゆると席に座りなおしながら縋るようにメイルを見詰める。
やいとに拒絶されたという事実が、自分を拒絶しない相手――メイルへの執着を色濃くした瞬間であった。
そしてどうやらこの時ばかりはメイルも熱斗が自分に何かしらの助けを求めている事に気付いたらしく、それまで不思議なものを見るような表情でやいとを見ていた顔を熱斗に向け直し、ふっと柔らかい笑顔に変えて、
「大丈夫、ちゃんと戻ってくるから。」
と言った。
それでも熱斗はどこか、自分でも分からない領域でそれを信じて安心する事が出来ずにいるのか、不安に揺れる瞳でメイルを見詰める。
ただ今、メイルに離れていってほしくない、その思いだけが熱斗の思考を支配していく、目の前で起こっている出来事がまるで誘拐事件のように見えてしまう。
本当はそんな、戻ってくるという約束などしなくても、ホームルームの時間になればメイルもやいとも自分の席に戻ってくるという事を頭では分かっていても尚だ。
離れて行かないで、連れて行かないで、二つの“行かないで”が熱斗の中でグチャグチャに混ざり合って、やがて溶けあう。
行かないでと言いたい、此処にいてほしいと言いたい、話なら此処ですればいい、それなのに、どうして。
どうにも納得しきれなくて、熱斗は不安と不満を抑える事が出来ず、しかし言葉という形にして外に出す事も出来ず、中途半端な領域で苦悩する。
不安そうな表情でメイルを見詰めることしかできない、そんな熱斗の態度に痺れを切らしたのか、それとも単に時間を気にしているのか、やいとがメイルの手をとって何度か軽く引いた。
メイルが、あっ、と何かに気付いたような、まるでたった今やいとの存在に気が付いたかのような声を漏らしてからやいとに謝罪する。
「ごめんねやいとちゃん。今行くわ。」
そしてメイルは熱斗に背を向け、やいとに視線を向けた。
やいとは納得したように一度頷くと、メイルの手を掴んだまま教室の後方に向けて歩きだす。
それを見て熱斗は、どうか自分の目の届く範囲で二人の足が止まりますようにと願うも、やいとはメイルを引っ張ってそのまま教室後方の扉から廊下へ出て行って、熱斗の席からは見えない位置まで進んでしまった。
メイルとやいとの姿が見えなくなったのを確認して、熱斗は大きな溜息を吐き、机に腕を置いてその上に額を乗せ顔を伏せる。
それはどう見ても、誰から見ても、メイルがやいとについて言った事を不満に想っている事は明らかで、そのやりとりをPETの中から傍観していたロックマンがメイルの代わりだと言わんばかりに現実世界へ顔を出し、熱斗へ語りかける。
「仕方ないよ熱斗くん、女の子には女の子にしか解らない事情があるんだから、ね?」
普段は熱斗と同じくらい女子のそういった所に鈍いロックマンがまるで全てを見通したような台詞を吐くものだから、熱斗は少し腹が立って、バッと顔をあげた後に机の上に立つロックマンを軽く睨みつけた。
ロックマンは、え、何? と言いたげな顔をして焦る。
それを見て熱斗はもう一度溜息を吐き、それから仕方なさそうに、そして何も見たくないと言いたげに、机に置いた腕の上に顔を伏せる、時間が過ぎるのをただ待つのであった。
一方、メイルはやいとに引っ張られ続けて歩き続け、気が付けば六年A組の教室からは随分離れた特別教室だらけの廊下にたどり着いていた。
ホームルームの直前という事もあってこの廊下は人通りが少なく、歩いている間にも一人、二人程度しかすれ違わなかった。
そして、歩いている最中にホームルーム五分前のチャイムが鳴りだしたのを聞いているメイルは、ホームルームは勿論の事、熱斗の為にも早く戻らなくてはと思い、歩きながらもやいとに尋ねる。
「ねぇやいとちゃん、話って何?」
するとやいとは急に足を止め、メイルの手から自分の手を離した。
そして周囲に誰かいないかどうかを確認するようにキョロキョロと周囲を見渡し、特別教室内の音にも耳を澄ませ、此処にはメイルとやいと以外誰もいないようである事を確認し終えると、それまで背を向けていたメイルに正面から向き直る。
メイルはやいとがやはりいつになく真剣な険しい表情をしているのを見て、何故やいとはこんなにも真剣な表情をしているのかと不思議に思い、小さく首を傾げた。
そんなメイルに、やいとはしばし悩んでいる様な、何かを決めかねている様な表情を向けていたが、やがて全てを決意したと言いたげに口を開く。
「メイルちゃん、前にあたしとデカオが言った事、忘れちゃったの?」
「えっ?」
突然の問いに、メイルの口から僅かな戸惑いと驚きの声が漏れた。
やいとはそれを見て小さく呆れたような溜息を吐き、今度は少し不機嫌そうなのが分かる表情になって続ける。
「熱斗の事よ。近付かないって決めたんじゃ無かったの?」
熱斗の事、近付かないと決めた、其処まで言われてようやく、メイルはやいとの真剣な表情の意味を理解した。
メイルの脳裏に、昨日の朝の光景が思い出される。
前日にやいとの家の秘密基地でプレイしたゲームの話をしていた自分とデカオとやいと、そして其処へ現れて話への参加を望んだ熱斗の姿が浮かぶ。
更に、その後自分と話している間に唇を噛んで顔を伏せてしまった熱斗の、何処か弱々しい後ろ姿と、短い謝罪を残して走り去る姿が思い浮んで、メイルはその時、あの時も熱斗は寂しさに打ちのめされていたのかもしれないとハッと気付く。
それならば今も熱斗は自分の、メイルの帰りを待って寂しがっている、そう思ったメイルはやいとに何を答えるよりも先に六年A組の教室に向けて走りだそうと身体の向きを変えた、が、実際に走り出す前にやいとに手首をぎゅっと掴まれて引きとめられてしまった。
思わず、それを拒絶する言葉が口を突いて出る。
「やいとちゃん、離して!」
そう言ってやいとの手を振り払おうと、メイルは掴まれた腕を大きく振ったが、やいとの力は意外にも強くなかなか離れない。
後になって思えば、もしかしたらその強さは、やいとからメイルへの“心配”の強さだったのかもしれない。
とにかくやいとは手を離さず、メイルが教室へ戻ろうとする事を阻止した。
メイルはしばしの間やいとの手を振り払おうと腕を大きく振っていたが、やがて諦めたのか腕の動きを止めて溜息を吐き、やいとへ振り返った。
やいとの顔は焦りと不安が混ざった所に無理矢理無表情の仮面を被せたような表情をしていて、メイルは何がそんなにやいとを不安にさせているのかと不思議に思う。
メイルが腕から力を抜くと、やいとも即座に手の力を抜き、メイルの手首を解放した。
どうやら、メイルが冷静な態度をとれば無理強いをする気は無いらしい。
メイルは、やいとの話とやらを聞いてみる事にした。
「……やいとちゃん、話って、何?」
考えてみれば少しおかしな質問だが、一度やいとの話を無視して教室に戻ろうとしたメイルにはこの質問が一番的確に思えたのだ。
ともかく、メイルはやいとと正面から話し合う姿勢を見せた。
やいともそれを理解したのか、一度だけ小さく頷くと、改めてメイルへ本題を告げる。
「熱斗の事……様子を見ましょうって、昨日決めたじゃない。どうして一緒に登校なんてしてきたの?」
昨日の朝、熱斗が立ち去ってからやいとやデカオと交わした会話、その内容を思い出して、メイルは言葉を詰まらせた。
確かにあの時、メイルはやいととデカオの提案に同意し、やいとに向けて熱斗に近付かない事を提言している。
けれどメイルにとってあれはその場を取り繕う方便でしか無く、実際メイルはその後熱斗に近付き此処最近の違和感の訳を訊いた。
そして打ち明けられた“寂しい”という感情、それをなくすために全力を尽くす事を、メイルは熱斗にも自身にも誓っている。
その場かぎりの方便と、自分自身にも誓った言葉、どちらを優先したいかと言えば、それは当然自分自身にも誓った、つまり自分の本心だと素直に語れる方で、メイルはやいとから気不味そうに視線を逸らした。
そんなメイルを見て、やいとは少し疲れたような溜息を吐いた。
「やっぱり、様子を見るって言うのはあたしとデカオに合わせた嘘だったのね……。」
やいとの少し呆れたような、残念そうな声に、メイルの胸はズキンと痛んだ。
確かに、簡単に言ってしまえばメイルがやいとやデカオに言ったものは本心ではなく、本心を偽ったもの、つまり嘘だ、それはメイルにも分かっている、分かっているつもりだが、実際に指摘されると異様な重みを感じるのは何故だろうか。
ともかく、昨日の朝の会話を嘘だと指摘されたメイルは更に気まずそうにやいとに背を向ける。
それは、やいとの言っている事は正しいという肯定の態度にも近かった。
メイルの背後で、やいとがもう一度溜息を零す音が聞こえる。
「ごめんなさい……。」
やいとに呆れられた、その事実を感じとったメイルは申し訳なさそうに謝った。
背後にいるやいとの気配は明らかな怒りよりも静寂と沈黙に満ちていて、それがメイルを余計に緊張させる。
やがて、やいとはしばし悩むように沈黙した後に、小さな溜息を短く零してから口を開いた。
「謝罪は要らないわ、あたしは別に怒ってる訳じゃ無いもの。」
確かにその声は強い意思こそ湛えているものの、憤怒や激昂の色は含んでいなかった。
とりあえずやいとは怒っていない、その事実にメイルは僅かに安心する。
そんなメイルの気配を察してなのか、やいとはまた少しの沈黙を挟んだ後に改めて口を開く。
「……ただ、あたしはメイルちゃんが心配なのよ。昨日言ったでしょう? 一体何があの熱斗を悩ませてるのか、その正体が怖いって。メイルちゃんやあたし達に抱えきれるものなら良いけど、もしそうじゃなかったら……」
そうでなかったら何だというのか、それはやいとにも簡単に答えられるものではなかったらしく、やいとはそれ以降の言葉を紡げなかった。
ただ、それを聞いてメイルは安心する。
やいとは決してメイルに怒っている訳でも、呆れ果てて見捨てようとしている訳でもない。
むしろメイルを心配して忠告してくれているのだ、そう思うとメイルの中には何か心強く、安心できる温かさが広がる。
メイルはやいとに背を向けたまま嬉しそうに少しだけ微笑んだ。
「大丈夫よ、やいとちゃん。熱斗は必ず私が助けて見せるから。」
メイルの返答に、やいとは少し不安げな表情を見せたが、やいとに背を向けているメイルにそれは見えない。
それはまるで、やいとの心配が真の意味ではメイルに伝わっていない事を表しているようで、やいとは少し納得のいかなそうな表情で押し黙った。
そんなやいとへメイルは振り返り、笑いかける。
その純粋無垢で活き活きとした笑顔に溢れるエネルギーに、やいとも少しだけ、メイルならもしかしたら……と思うが、やはりやいとは不安をぐ縫いきる事ができず、少し不安げな表情と声をメイルに向けた。
「……メイルちゃんの気持ちは分かったわ、でも、無理だと思ったらすぐに言うのよ? あたしやデカオに何か出来る事があるのかどうか、それは分からないけど、独りで抱え込まないでちょうだいね?」
本当に、心の底からメイルが心配だと言いたげなやいとへ、メイルは小さく微笑んで、
「えぇ、そうさせてもらうわ。」
と言った。
そしてメイルは、友達とはやはり良いものだと実感し、熱斗にもこの温かさを分け与えたいと考える。
脳裏にふと浮かぶ昨日の夕方の熱斗の寂しげな微笑、熱斗は今どうしているのだろう、また一人で席に座っているのだろうか? もしそうだったら早く帰って声をかけなくてはいけない。
メイルはしばしやいとに笑いかけると、さて、と言葉を挟んでから切り出した。
「そろそろホームルームが始まるわね、教室に戻りましょうか?」
するとやいとはワンピースのポケットからPETを取り出し、その小さな画面に時計を映して時間を確認してから頷き、
「ええ、戻りましょ。」
と言って、此処へ来た時と同じように先頭に立って歩き始めた。
メイルも今度は引き摺るように引っ張られることなくその後ろを歩く、だからメイルは知らない、その時やいとが何処か難しい顔で沈黙していた事を。
もう人気のない廊下をしばらく歩き、六年A組の教室の前まで戻ってくる。
メイルとやいとは先ほど教室を出た時と同じように、教室の後方のドアから静かに教室の中へ入り、そこで二手に分かれた。
やいとはやいとの席に、メイルはメイルの席――熱斗の隣に戻る。
メイルが席に近付いてみると、隣の席の熱斗は机に腕を無造作に置いてその上に顔を伏せており、メイルが戻ってきた事にはまだ気が付いていない、というよりも、それを含む全ての出来事を自分の視界から遮断しているように見えた。
メイルはそれを、もしかしたら眠っているのだろうか、とも思ったが、いくら熱斗でもたった数分前まで普通に起きていたのに今本気で眠っているとは考えにくい。
だからメイルは、自分の席の椅子を引きながら熱斗に声をかけた。
「熱斗?」
すると熱斗は主人に名前を呼ばれた犬のように勢い良く顔を上げ、メイルの方を見た。
「あっ、メイルちゃん。」
その様子が少しおかしくて、メイルは小さく笑いながら席に着いた。
メイルが席に着くと、熱斗は今までずっとそれが気になっていたと言わんばかりにメイルに問いかける。
「ねぇメイルちゃん、やいとちゃんと何話してたの?」
「え? あぁ、ええっと……女の子だけの秘密よ。」
まさかそのまま、熱斗の最近の様子について話していました、などという事はメイルに言えるはずもなく、メイルは女の子の特権と言うべきかもしれない台詞を吐いてそれを誤魔化した。
熱斗はそれに納得がいっていないような、俺にも教えてくれたっていいじゃないか、と言いたげな顔をメイルに向けたが、やがて女子同士の秘密では仕方が無い、自分の踏み込むべき領域ではないと考えたのか、小さな溜息をついて拗ねたように前を向いてしまった。
訪れる小さな沈黙。
ほんの僅かに気不味い空気が、二人の間に、気持ちの悪い生温さを伴って舞い降りる。
その気不味い沈黙が何だか居心地悪く、自分から何か話さなければいけない気がしたメイルは再び熱斗の名前を呼んだ。
「ねえ熱斗、熱斗はさっき何を――」
しかし無情にも、メイルがさっきは何を話すつもりだったのかと熱斗に訊き終えるよりも前に、その言葉を遮るかのようにホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り始めてしまった。
あと十数秒もすれば、教室の前方のドアからこのクラスの担任であるまり子がやってきて教壇に立つ。
仕方なくメイルは途中まで開いた口を閉じ、残りは休み時間にでも話せばいいと思う事にした。
そういえば、熱斗は今日の休み時間はどうするつもりだろうか、という疑問がメイルの脳裏を過る。
昨日は確か、外には出ずに教室にいた様だったが。
メイルがそんな事を考えている時、熱斗は先ほどのメイルの退席に合理的な理由をつけて自分の中で納得しようと必死になっていた。
分かっている、熱斗にも十分に分かっているのだ、いくらメイルが自分の側にいてくれると言っても、メイルにはメイルの世界があって、その世界にいるのは自分――熱斗だけではない事を、分かっているのだ。
だから、メイルがやいとに呼び出されたとして、それを不満に思う資格は自分には無い事や、それは至って普通の事であり責められる事ではない事など、熱斗も分かっている。
それなのにこんな、まるで自分の所有物を奪われたかのような喪失感を感じ、やいとにその苛立ちを向けたいと思っているなんて、熱斗は信じたくない。
嗚呼、自分は何て我が儘になってしまったのだろう、そう思って熱斗は溜息を吐き、これ以上メイルの事を欲してしまわないように教壇を睨みつけるのであった。
それから数秒後、この教室にいる誰もが思っていた通り教室前方の扉が開き、まり子が姿を現した。
そして約二時間後、午前の授業の半分を終えたまり子が教室から一旦姿を消したその時、熱斗はぼんやりとした表情でブラックボードを眺めていた。
授業の内容が頭に入らない、のは正直いつもの事だが、それでも今日はまた一昨日のような事――具体的には、ホームルームの直前のメイルとやいとの行動の訳が気になってしまい、どう授業に集中しようとしてもふとした瞬間に二人の事を思い出してモヤモヤとした気持ちになってしまうという事を繰り返し、徐々に授業の内容が右から左へと普段以上の素通りをするようになってしまっていた事を思い出して熱斗は溜息を吐く。
まったく、女子が女子だけで集まって何かしらの秘密のおしゃべりをする事など今更不思議に思う程の事でもないのに、どうして自分はこんなにもやいとがメイルを呼びだした訳が気になってしまうのかと、熱斗は悩む。
そして悩んだ末に、熱斗は自分が今、メイルに関わる事を全て把握しようとしているのではないかという推測にたどり着き、そのストーカーじみた執着に悪寒にも似た嫌悪感を感じるのであった。
嗚呼本当に、自分は一体どうしてしまったというのだろう?
授業はマトモに頭に入らず、外に出て駆けまわる元気も持たない熱斗はもう一度、先ほどよりもやや深く疲れた溜息を吐く、とその時、
「熱斗、お疲れ様。」
急に頭上から聞きなれた女子の声がして、熱斗は何だろうと思いながら声がした方向に振り向た。
するとそれはメイルの席のある方向で、声を発していたのはその席から立ち上がるだけ立ちあがってみたと言いたげな場所に立っているメイルであった。
メイルは熱斗のすぐ左脇に立って熱斗の様子を窺っている。
熱斗はそれまで考えていた相手が実際に目の前に立っている事で、ややぼんやりとしていた意識が急激に現実に引き戻されて、少し戸惑いながらメイルに返事をした。
「え、あ、うん、ありがと。メイルちゃんもお疲れ様。」
多分、メイルはこのくらいの授業ならそんなに疲れていないだろうけど、と思いながらも熱斗はそう言って、それまでの自分の中でのあれこれをなんとか表に出さないまま誤魔化す。
幸いメイルは熱斗がそれまで何を考えていたのかは気にしていないようで、熱斗の返事に更に返事をするかのように優しく微笑んでくれた。
熱斗も、自分の考えていた事が何かを追及されなかった事と、自分の返事にメイルが微笑んでくれた事に安心して少しだけ表情を柔らかくする。
嗚呼、やはりメイルといると何だか落ちつく、そんな事を熱斗が考え始めた時、メイルがその微笑みのままで熱斗に問いかけてきた。
「熱斗は今日は外に行かないの?」
まるで、一緒に外に行こうと誘う代わりのようなその言葉に、熱斗は少しだけ外に出る事を視野に入れたが、それに反して身体は重だるさを強く感じ、外に出る為に立ちあがる等の行動の邪魔をする。
外になど出たくない、そこで日を浴びて駆けまわる元気や、皆の中に上手く混ざって行ける自信も、今の自分には存在しない。
嗚呼全く、朝起きた時は久しぶりに体が軽いと思ったのに、何故今はこんなにも身体が重いのだろうかと疑問に思いつつ、熱斗は少し気だるげに、机に肘を吐いて溜息を吐きながら返事をした。
「あぁ、俺は行かないよ。」
するとメイルはしばしの間、少しだけ意外そうな顔で沈黙した後、じゃあ、と言って微笑んで、
「私も今日は外に行かないわ。」
と言いながら、自分の席にストンッと座りなおした。
その声と気配に、今度は熱斗が意外そうな顔をメイルに向ける。
熱斗はてっきり、じゃあ、の後には、また後で、という言葉が続くと思っていたものだから、メイルの行動を理解しきれなかったのだ。
自分が席を離れないのは自分の意思だからいい、ではメイルが席を離れなかった理由はなんだ?
メイルは、じゃあ、と言った後に、私も今日は外に行かないわ、と言った、それはつまり自分に、熱斗に合わせてくれたという事なのだろうか?
窓の外からは昨日や一昨日、いやそれよりもずっと前から同じように、元気に駆け回る少年少女の楽しげな声が僅かに聞こえてくる。
もしもメイルが自分に合わせて教室にいる事を選んだのだとすると、自分はメイルをあの楽しげな空間から引き離してしまった事になる、それに気が付いた熱斗は意外そうな顔から少し申し訳なさそうな顔にその表情を変えて、メイルに訊いた。
「いいの? やいとちゃんとか、待ってるんじゃないの?」
自分の記憶が確かなら、昨日のメイルはやいと達との遊びに興じていた。
それを前例として、熱斗は、今日はそういう事は無いのかとメイルへ問いかける。
するとメイルは何を思ったのか一瞬キョトンとした表情を見せて目をぱちくりとさせた後、何かがおかしかったのかクスクスと小さく笑って答えた。
「いいの、やいとちゃん達もきっと分かってくれるわ。」
一体何をやいと達が分かってくれるというのか、それは熱斗にはよく分からなかったが、メイルがそこまで言うのなら多分大丈夫なのだろうと、とりあえず納得しておく事にした。
そして、そっか、と返事をして前方に向き直ると訪れるのは、遠い遠い場所――校庭に響くの笑い声と、近い近い場所――メイルと自分の間の静寂。
その静寂の中で熱斗はメイルが気になって、何でもいいから話しかけて会話をしたいという思いを感じ、そういえば何か話す事はあっただろうかと考える。
すると、熱斗がその内容を思い付くよりも先に、メイルが口を開く。
「熱斗、最近はずっとこうしてるの?」
「え? あ、あぁ、うん、そうかな。」
機嫌の良さそうな表情のままのメイルからの突然の質問に、熱斗は一瞬驚きと戸惑いと躊躇いで言葉を詰まらせつつも答えた。
そう、思い返してみればここ数日の自分は休み時間に外に出ることなく、教室で何もせずに過ごしている。
日数にしてみればまだたった三日の出来事だが、もう随分長い間外に出ていないような、そして外への出方を忘れたような、そんな感覚が熱斗の身体、脳裏、思考を覆い尽くしている。
外に出て遊ぶにしても、一体何をして遊べばいいのか分からない、何処へ行けばいいのか分からない、どの集団に一言“入れて”と言っていいのかも分からない、そもそもその一言が許されるのかどうかさえ――。
つい一週間ほど前までは入れていた輪の中、其処への戻り方を忘れてしまった事に気付いた熱斗は、それが何だか悲しくて少し疲れた小さな溜息を吐く。
そんな熱斗に、メイルは話を続けた。
「そう、じゃあ今度から熱斗が教室にいる時は私も教室にいるわね。」
その言葉に熱斗は自分の耳を疑い、驚いた表情でブラックボードから視線を逸らしてメイルの方へと振り向いた。
メイルは別段変な事、おかしな事を言ったという自覚は無いのか、いつものように澄ました表情で熱斗を見ている、その視線と熱斗の視線がぶつかる。
熱斗が聞き間違いをしていなければ、メイルはたった今、熱斗が教室にいる時は自分も教室にいると宣言した。
それは独りで教室に留まる事を平穏としつつも寂しい事だと思っていた熱斗にとって朗報ではある、あるのだが、熱斗にはそれに少しの不安とでもいうべきもの――自分がメイルを此処に留めてしまう事でやいとやデカオ等とメイルの間にも壁ができてしまうのではないかという懸念を感じていた。
いや、メイルなら今の熱斗のように壁など感じることなくやいと達との関係も上手く保てるのかもしれない、そうも思ったが、とにかく自分のせいでメイルの行動を制限する事になってしまう事に何処となく罪悪感を感じた熱斗は少し不安げに訊き返す。
「そんな、いいの? 俺、ホントに何もしないで此処にいるだけで、それでもいいの?」
やいと達と遊ぶ時間が減ってしまうのでは? という言い方は熱斗には出来なかった。
それを言ってしまえばメイルはすぐにでもやいと達の方へと戻ってしまう気がしたからだ。
それでも一応、メイルを気遣うように訊き返す熱斗を見て、メイルはニコリと微笑み頷く。
「それでもいいわよ、それが熱斗が今したい事なんでしょ? だったら、私もそれに付き合うわ。」
そう言ってメイルは熱斗の左手を自分の両手で包むように握る。
メイルの手は歳と季節と気温に相応した温かさを携えており、熱斗は左手が薄っすらと温まるのを感じた。
ここ数日の不安時とは違う意味を持って鼓動が少しだけ早くなる。
嬉しい、温かい。
それが熱斗が一番最初に持った正直な感想であり、手を握られた熱斗は最初こそ驚いたような顔をしていたが、徐々にその表情をメイルと同じ微笑に変えた。
メイルは本当に自分と、熱斗と共にいる事を望んでくれている、その事実がとても嬉しかったのだ。
「温かいね、メイルちゃんの手。」
熱斗がそう言って笑うと、メイルも嬉しそうに微笑んで、
「そう? ありがとう。」
と言ってくれた。
それがとても嬉しくて、熱斗はその時まだ自由の身であった自分の右手を、自分の左手を包むように握っているメイルの両手に重ねる。
そうしてなかなか良い雰囲気になった所で、熱斗はふとホームルーム前に訊きそびれた事を思い出し、メイルに尋ねた。
「あ、ところでさ、メイルちゃん、今日の放課後の事だけど、どっちの家で遊ぶ? もし俺の家なら今からママに頼んでケーキでも焼いてもらおっか?」
今朝交わしたばかりの個人的な遊びの約束、それを少しでもメイルに楽しんでもらおうと、熱斗ははる香にケーキを焼いて待っていてもらう事を提案した。
料理が得意なはる香のことだ、今から連絡しておけば帰る頃には甘く美味しいケーキを用意しておいてくれることだろう。
熱斗の提案に、メイルもその光景を想像して小さく喉を鳴らした。
「そうねー、それは良い考えだわ。じゃあ今日は熱斗の家にしましょ。」
とても楽しみだと言う代わりに手の力を僅かに強めて笑うメイルを見て、熱斗もなんだか、元々楽しみだった遊びの時間が更に楽しみになってくるのを感じた。
嗚呼放課後になって二人で家に着いたらまず何をしよう? やはり最初ははる香の手作りのケーキを食しながらの談笑で、その後はどうしよう、メイルも自分も楽しめるようなゲームはあっただろうか? 色々な想像が熱斗の脳裏を駆け抜けて行く。
そしてメイルがゆっくりと手を離すと、熱斗はすぐに左肩にセットしてあるPETを右手で取り外してアドレス帳を開き、自宅の電話番号を選びだした。
今の内にはる香に連絡を入れて、放課後になる頃にはケーキができているように頼むためである。
熱斗はPETの上に立体画面を表示させてからその画面に映った通話ボタンをタッチする。
するとすぐに回線は自宅の電話に繋がり、数回のコール音の後、立体画面の中央にはる香の顔が映った。
「あら熱斗じゃない、どうしたの?」
はる香は相手が熱斗である事を確認すると、少しだけ驚いたような顔を見せた。
普段は休み時間、つまり学校にいる時間に電話をする事は滅多にないからだろう。
そんなはる香を見て、少し驚かせてしまったかな? と思いつつ、熱斗は用件を伝える。
「あぁうん、今日の放課後はメイルちゃんと一緒に帰るから、ケーキか何か焼いて待っててもらえないかなって思ったんだけど、いい?」
「あらそうなの? じゃあとびっきり美味しいケーキを作って待ってるわね。」
熱斗から要件を訊かされたはる香は何かを喜んでいる様な、自分も楽しみになってきたと言いたげな笑顔でそう答えた。
それを見て熱斗は、そういえば最近はる香の前でもあまり元気な姿を見せていなかった事を思い出し、ほんの少しだけ自嘲したくなるような、しかしホッと安心するような気持ちになる。
はる香の前でも元気で居られない程落ち込んでいた事に関しては何とも恥ずかしくて自嘲したくなったが、ようやくはる香にも元気な姿を見せる事ができた事には安心したのだ。
「ありがとうママ、それじゃあまた後で。」
「えぇ、じゃあ後で。」
隣の席に座るメイルに見守られながら、熱斗は通話を切り、PETを左肩にセットし直した。
そしてメイルへ向き直って、これでOKだなという代わりに軽く右手の親指を立てて見せる。
するとメイルも頷いて同じように右手の親指を立てて見せてくれた。
そんな些細な行動の合致ですら、熱斗は笑いだしたい程の嬉しさを感じて、その表情が緩むのを抑えきれなくなる。
そして熱斗は、更にある提案をした。
「ねぇ、折角此処にいてくれるんだったらさ、二人で何か話してようよ。一人だったら何もできないけど、二人ならそんな事無いだろ?」
一人だったら本当に何もする事など無い、ただ机に伏せているのが精一杯、だけども二人なら、それもメイルと一緒なら、校庭に遊びに行かずとも休み時間を楽しく過ごせるかもしれない。
そう思った熱斗はメイルに休み時間のおしゃべりをしないかと申し出たのだ。
この時熱斗には何故か、断られるかも、とか、目障りだと思われるかも、などの懸念は全く浮かんでこなかった。
実際、それを聞いたメイルはそれまでの笑顔を崩す事無く頷き、
「えぇ、いいわよ!」
と言ってくれたのだから、今回はそれでも全く問題ないと言えない事もないのだが、とにかくこの時熱斗の中からマイナスの感情はその姿を消していた。
メイルが熱斗と共にいる事を自ら望んでくれた事で、熱斗は安心しきっていたのだろう。
ここ数日間、上手く作る事が出来なかった笑顔が自然と零れ、良い意味での昂りが心を支配する。
休み時間に二人で話したいという提案に同意してくれたメイルを見て、熱斗はこれ以上ない歓喜に浸った。
それから約一週間、熱斗とメイルは朝共に登校し、二十分休みと昼休みを共に過ごし、放課後もどちらかの家に集まって同じ時間を過ごすという事を続けた。
そしてその一週間、熱斗はあの暗い暗い闇が支配する空間と、その空間に佇む自分のダークソウルの夢を見る事は無かった。
午前八時少し前の“おはよう“から始まり、午後五時少し後の“また明日”で終わる日々は、熱斗に一定の安心感と幸福、希望を見せていたのだ。
しかし未だに仲間達全員の中への戻り方はつかめておらず、メイルと共に過ごす安定した日々は、デカオややいとや透とはとくに話す事のない日々が続いたという側面も持っている。
だが、それでも熱斗は満足だった。
話相手の数こそ少なく、いや、もはやメイルしかいないに等しかったが、それでもメイルは熱斗と沢山の会話をしてくれた、沢山の会話ができる程傍にいてくれたのだから。
だがそんな日々にも、一つの区切りが訪れる事となる。
それは、熱斗がメイルに己の中の寂しいという感情を露見させてから、約一週間を過ぎたあたりの出来事であった。
時刻は午前七時四十五分、その日の朝も、メイルは熱斗の自宅の前で、玄関のドアが開き熱斗が出てくる事を待っていた。
住宅街は静かで、聞こえてくるのは鳥たちの鳴き声程度しかない。
たまに熱斗の自宅に隣接している家から人が出てくる事があるがそれも多くは無く、メイルは一人ポツンと熱斗が現れる瞬間を待っている。
「熱斗、まだかしら……。」
いつもならそろそろ玄関のドアが開くはずなのに、今日はまだそれが無い、玄関近くにいる気配もない。
そろそろ学校に遅刻してしまう可能性が出てくることを危惧して、メイルは頻繁にPETで時計を見る。
時刻は午前七時四十六分になっていたが、まだ熱斗が現れる気配は無い。
メイルはぽつりと呟く。
「遅いわね、どうしたのかしら……。」
「そうね、どうしたのかしら?」
メイルの独り言に、ロールが肩の上に小さなホログラムで現れて返事をした。
時計の表示は午前七時四十七分になっているが、熱斗の自宅の玄関の扉はまだ開く気配を見せない。
さすがにこれ以上待つと遅刻の可能性が出てくるという事が気になって、メイルはPETの画面と玄関を交互に見つめ、たまにロールと顔を見合わせる。
そして時計の表示は午前七時四十八分になろうとしていて、メイルはもしもこの表示が午前七時五十分になっても熱斗が現れなかったらメールを残して先に学校へ行こうかと考え始めた。
メイルは熱斗の自宅の玄関の扉を見る、けれど扉はまだ開かない。
本当に熱斗はどうしたというのだろう、また遅刻癖が出てきたのだろうか、それとも案外普通に風邪でもひいて動けずにいるのだろうか、そんな事を考えながらメイルがほんの小さな溜息を吐いた、その時だった。
「メイルちゃん、熱斗くんから伝言をあずかってきたよ。」
メイルの肩の上に熱斗のナビであるロックマンが現れ、そんな事を言ってきたのは。
突然の訪問者にメイルは少し驚きながら自分の肩の上を見て、其処にいるのがロックマンである事を確認すると訊き返す。
「伝言?」
メイルが不思議そうな顔で尋ねると、ロックマンは頷いてから、
「うん。熱斗くんったら今日久しぶりに寝坊しちゃって、まだ仕度が終わらないんだ。」
と言って苦笑しながら頭を掻いた。
メイルはその様子から、どうしてそうなったのかは分からないが、今日の熱斗は久しぶりに上手く起きれなかったのだろうという事と、それによりロックマンが苦労したであろうことを想像する。
そう、ここのところ一緒に早くから登校しているから少し忘れていたが、熱斗にとってはこの遅刻ギリギリの時間の方が普段通りであり、午前七時四十五分以前という早い時間に登校する方が珍しいのだという事を思い出して、メイルはロックマンの苦労を察したと言いたげに小さく苦笑した。
そして苦笑しあった後に、ロックマンが再び口を開いて熱斗からの伝言をメイルに伝える。
「だから、『メイルちゃんまで遅刻させちゃうと悪いから今日は先に行ってていいよ』って、熱斗くんから。」
「そう、分かったわ。伝言ありがとう、ロックマン。」
ロックマンから熱斗の伝言を聞いたメイルは、今頃家の中を忙しなく駆けまわっているであろう熱斗の姿を想像して、それが何だがおかしくて小さく笑いながらロックマンに礼を言った。
礼を言われたロックマンは、
「じゃあ僕は熱斗くんの所に戻るね。また後で!」
と言ってメイルの肩の上から姿を消す。
ロックマン自身が言った通り熱斗のPETの中に戻って行ったのだろう、メイルの肩の上にはもうロールしかいない。
メイルは自分の肩の上にいるロールと一度だけ視線を合わせると、なんだか少し懐かしく熱斗らしいトラブルに小さく笑い合い、それまで熱斗の自宅の前で止めていた足を学校の方向に向けて歩きだす。
時刻は、午前七時四十九分だった。
それから約十五分、時刻は午前八時四分から午前八時五分になろうとしていた頃、熱斗の自宅の玄関の扉が慌ただしく開かれ、室内から室外へ、熱斗が勢いよく飛び出してきた。
熱斗は、当たり前だが其処にメイルの姿が無い事を確認して少しだけ、いや大いに残念な気持ちと、起きるのに失敗した自分を恨めしく思う気持ちでいっぱいになりながら目の前の階段を駆け下り、階段を降り切るとそれまで右脇右腕に抱えていたインラインスケートの車輪を靴の底に取り付けて、すぐさま道路を滑走し始めた。
シャーッという高く軽い音を立てて車輪が高速で回る。
熱斗は遅刻をしない為にも、そして早くメイルに会う為にも、滅多にない程の全力で住宅街を駆け抜け、いつもより何分か早いタイムで大通りに出た。
大通りの歩道に出ても熱斗はスピードを緩めず、人混みの間を縫うように駆け抜ける。
その人混みの中に、秋原小学校の生徒と思わしき影はほとんど見当たらず、それが熱斗を更に焦らせた。
途中、ロックマンが、スピードを落として! と言っていたような気がしたが、熱斗はそれを無視して大通りを駆け抜ける。
運良く青のままの信号をいくつか渡り、しばらく走ると熱斗は自分の住んでいる区域とはまた違う住宅街に入る。
此方の住宅街もやはり人影は少なく、買い物に向かい主婦などが一人二人いるかいないかといったレベルであり、秋原小学校の生徒らしき影は無い、声もしない。
いよいよ、遅刻することへの危機感が熱斗を襲い始める。
「ロックマン! ホームルームまで後何分!?」
軽く息を切らせながらも全力疾走を続ける熱斗が問いかけると、ロックマンは熱斗の肩の上に現れて、
「あと八分はあるよ、だからちょっとスピードを落として! 急ぐのは良いけどちょっと危なすぎるよこの速さ!」
と言った。
しかし熱斗はそれに対して返事をせず、スピードを下げるどころか更にスピードを上げようとし始めたではないか。
車輪に負荷がかかり過ぎているのか、シャーッという音に時たま雑音が混ざる。
それに気付いたロックマンが、意味が分からない、なんでそうなるの、と言いたげな顔で焦る。
「熱斗くん! そんなに急がなくても此処からなら三分もあれば学校に着くよ! だから少しスピードを落してってばぁ!」
だが熱斗はそのスピードを緩めることもロックマンに返事をする事も無く住宅街を駆け抜け、普通に走れば三分の所を一分程度しかかけずに学校の前の公園へ到着し、その中央の噴水の前を通過して、そのスピードを保ったまま校庭へ駆けこんだ。
正門の番をしている警備員がその速さに驚いて目を丸くするが、熱斗はそんな事には舞わず昇降口へ駆け込み、そこでようやく車輪の回転を止めた。
そして車輪を靴の底から手早く外すと、家から出た時と同様にそれを右脇に抱えたまま廊下を走り、階段を駆け上り始める。
タッタッタッタッ、という軽い足音と共に階段を駆け上がり、六年生の教室がある階に着くと、熱斗はそのまま廊下を六年A組の教室の前方の入り口に向けて全力で走った。
ホームルームまでの時間はあと五分となっており、熱斗が教室に着く数秒前に予鈴が鳴りだした。
そしてその予鈴を聞きながら、熱斗はようやく六年A組の教室へ到着する。
まだ担任のまり子が教室に来ていない事を確認して、熱斗は顔を伏せて大きく疲れた溜息を吐く、と、そこからふと顔を上げた時、熱斗の視界に“期待と違う光景”が入りこんできた。
「あ、あれ? メイルちゃんは……?」
まり子がいない事を確認した後すぐにメイルの存在を確認したくて自分の机のある方向に目を向けた熱斗は、熱斗の席の隣の席、つまりメイルの席に、メイルがいないという状況に気が付く。
おかしい、メイルは確か自分より先に学校に行ったはずでは、と思い、熱斗はロックマンに問いかける。
「なぁロックマン、メイルちゃんは先に学校に行ったんだよな?」
「え? うん、その筈だよ。」
肩の上に出てきたロックマンの返事を聞きながら、熱斗は教室に入り、とりあえず自分の席へ向かって歩き始めた。
そうして教室中を見まわしながら自分の席に向かっていると、教壇の前を通り抜けた辺りで、それまで死角になっていた部分が視界に入り、熱斗はその死角だった場所の中にメイルの姿を見つける。
しかし、熱斗の表情は晴れない。
熱斗はメイルのいる場所に向かう事無く自分の席に向かい、机の上に鞄を置いて、机の足下に一時的にインラインスケートの車輪を置いた。
そしてそのまま自分の席の椅子を引き、着席する。
それから机の上に無造作に腕を置いて俯く熱斗に、ロックマンが少し困惑した様子で声をかける。
「ねぇ、熱斗くん。メイルちゃんなら教室の後ろの方に――」
しかし熱斗はそれを遮るように無言で左手をロックマンの目の前に翳した。
驚いたロックマンが口を閉じて黙りこむ、それを確認して熱斗は手を下ろす。
そして下ろした腕をまた無造作に机の上に置くと、今度はその上に額を乗せるようにして熱斗は机に伏せてしまった。
どうして、と言いたげな顔でロックマンがその顔を覗きこもうと机の上に降りる。
熱斗は顔を上げたり何かを言ったりしてそれに反応しようとはしない。
困り果てたロックマンは、ふとメイルに助けを求めようかと思って教室の後方――デカオとやいとと一緒になって談笑を楽しんでいるメイルを見た。
何を話しているのかは熱斗の席からではわからないが、三人の表情からして、何か楽しい事を離しているのであろうことは分かる。
そんな三人を見て、ロックマンは、熱斗も自分からあの輪の中に入ればいいのに、と思う。
しかし熱斗は顔を上げる事は無く、椅子から立ち上がる事もなく、ただ時間だけが過ぎて行く。
そして、これはいよいよ重症だと思ったロックマンがメイル達に助けを求めようとしたその時、ホームルーム開始の鐘が鳴って、メイル達はその場で解散し、それぞれの席に戻り始めた。
当然、熱斗の隣にもメイルが戻ってくる。
カタンッと軽い音を立てて、メイルが自分の席の椅子を引き、ゆっくりと腰かけた。
熱斗の指先が少しだけ動く。
「おはよう、熱斗。」
そしてメイルが熱斗に声をかけた時、熱斗はようやく顔を上げ、乱れた髪を整え始めた。
それからメイルへ振り向いて、何処か緊張感が無いような、けれど本心から笑ってるとは言えないような、ぎこちない笑みを見せながら挨拶を返す。
「うん、おはようメイルちゃん……。」
扉を開けると、ほとんどの生徒は既に教室に到着しているのか教室の中はざわついており、様々なしゃべり声が熱斗とメイルの耳に届いてきた。
そんなざわついた教室の中に入り、熱斗とメイルはそれぞれは自分の席へ向かう。
と言っても、二人の席は隣同士だ、そんなに離れる訳ではない。
小さくガタンと音を立てて椅子を引き、二人は自分の席に着いた。
そして熱斗が、先ほどの話の続き――放課後遊ぶとして、どちらの家で遊ぼうかどうかの相談を持ちかけようと、隣に座るメイルの方を向こうとした、その時。
「メイルちゃん、ちょっといいかしら?」
メイルの背後、熱斗からは少しだけ遠い位置で、誰か女子生徒の声がメイルを呼んだ。
メイルが単純にその声に反応して、また熱斗がその声を鬱陶しく思いながらも発信源が誰なのかを突き止める為に振り向くと、メイルの席の背後に立っていたのは、熱斗達よりも三歳から四歳ほど幼いながら、熱斗達より遥かに優秀な頭脳を持つお嬢様な少女、綾小路 やいとであった。
途端に、熱斗の脳裏に僅かな不快感が駆け抜ける。
その脳裏に蘇るのは一昨日のやいとの行動だ。
熱斗が秘密基地を後にした時、メイルと、辛うじてではあるものの透は熱斗のそれに気付いてくれていたが、やいととデカオは全く気付かぬ様子でゲームに没頭していた。
そう思うと、きっと今でもやいとの視界にはメイルしか映っておらず、熱斗は見えていないのだろうという疑いがふつふつと小さく湧き上がってくる。
しかもそのメイルだけ見ていると熱斗は感じた呼びかけにメイルが普通に振り向くものだから、熱斗はメイルに改めて声をかけるタイミングを失い、開きかけた口を静かに閉じる羽目になって、それがまた苛立ちを誘う。
「あら、なぁに? やいとちゃん。」
メイルと熱斗が振り向いた先、やいとは無表情で二人を、その中でも主にメイルを見詰めていた。
それがあまりにも完璧な無表情なので、最初は微笑で振り返ったメイルも何か違和感を感じたのか、不思議なものを見るような目でやいとを見る。
熱斗はそんな二人を、僅かに不機嫌が隠しきれていない表情で観察していた。
やがてやいとが無表情のまま、しかし何かを決意したように口を開く。
「ちょっとこっちに来て、話があるの。」
やいとはそう言ってくるりと振り返りなおしメイルに背を向けた。
その背はまるでメイルについて来いと言っているようで、メイルはやはり不思議なものを見ている様な顔をしながらもゆっくりと席を立った。
それを見て熱斗は急に、メイルがこのまま遠くへ行ってしまうのではないかという不安を感じ、自分もガタンと椅子を鳴らしながら席を立つ。
「あ、俺も行くよ! 俺もメイルちゃんと話したい事があるし!」
そしてメイルの後ろについて歩こうとした、その時、やいとが急に振り返ってメイルではなく熱斗に視線を向けた。
それは無表情でありながら何か睨みつけるような強さを帯びており、熱斗は一瞬驚きで呼吸を忘れかける。
一体何なんだ、何故自分はこんな視線でやいとから見られて、いや睨まれているのか、熱斗がそう困惑しかけた丁度その時、その訳を説明するかのようにやいとが口を開いた。
「熱斗はそこで待ってて、あたしはメイルちゃんだけに話があるのよ。」
開いた口から放たれた言葉は明らかに熱斗の存在を拒絶しており、熱斗はその拒絶に衝撃を受け、口を半開きにしたまま呆然と立ち尽くしてしまった。
今、自分は明らかにやいとから拒絶された、その事実が、本来やいとが考えていない部分まで色々な想像を広げさせて、熱斗はゆるゆると席に座りなおしながら縋るようにメイルを見詰める。
やいとに拒絶されたという事実が、自分を拒絶しない相手――メイルへの執着を色濃くした瞬間であった。
そしてどうやらこの時ばかりはメイルも熱斗が自分に何かしらの助けを求めている事に気付いたらしく、それまで不思議なものを見るような表情でやいとを見ていた顔を熱斗に向け直し、ふっと柔らかい笑顔に変えて、
「大丈夫、ちゃんと戻ってくるから。」
と言った。
それでも熱斗はどこか、自分でも分からない領域でそれを信じて安心する事が出来ずにいるのか、不安に揺れる瞳でメイルを見詰める。
ただ今、メイルに離れていってほしくない、その思いだけが熱斗の思考を支配していく、目の前で起こっている出来事がまるで誘拐事件のように見えてしまう。
本当はそんな、戻ってくるという約束などしなくても、ホームルームの時間になればメイルもやいとも自分の席に戻ってくるという事を頭では分かっていても尚だ。
離れて行かないで、連れて行かないで、二つの“行かないで”が熱斗の中でグチャグチャに混ざり合って、やがて溶けあう。
行かないでと言いたい、此処にいてほしいと言いたい、話なら此処ですればいい、それなのに、どうして。
どうにも納得しきれなくて、熱斗は不安と不満を抑える事が出来ず、しかし言葉という形にして外に出す事も出来ず、中途半端な領域で苦悩する。
不安そうな表情でメイルを見詰めることしかできない、そんな熱斗の態度に痺れを切らしたのか、それとも単に時間を気にしているのか、やいとがメイルの手をとって何度か軽く引いた。
メイルが、あっ、と何かに気付いたような、まるでたった今やいとの存在に気が付いたかのような声を漏らしてからやいとに謝罪する。
「ごめんねやいとちゃん。今行くわ。」
そしてメイルは熱斗に背を向け、やいとに視線を向けた。
やいとは納得したように一度頷くと、メイルの手を掴んだまま教室の後方に向けて歩きだす。
それを見て熱斗は、どうか自分の目の届く範囲で二人の足が止まりますようにと願うも、やいとはメイルを引っ張ってそのまま教室後方の扉から廊下へ出て行って、熱斗の席からは見えない位置まで進んでしまった。
メイルとやいとの姿が見えなくなったのを確認して、熱斗は大きな溜息を吐き、机に腕を置いてその上に額を乗せ顔を伏せる。
それはどう見ても、誰から見ても、メイルがやいとについて言った事を不満に想っている事は明らかで、そのやりとりをPETの中から傍観していたロックマンがメイルの代わりだと言わんばかりに現実世界へ顔を出し、熱斗へ語りかける。
「仕方ないよ熱斗くん、女の子には女の子にしか解らない事情があるんだから、ね?」
普段は熱斗と同じくらい女子のそういった所に鈍いロックマンがまるで全てを見通したような台詞を吐くものだから、熱斗は少し腹が立って、バッと顔をあげた後に机の上に立つロックマンを軽く睨みつけた。
ロックマンは、え、何? と言いたげな顔をして焦る。
それを見て熱斗はもう一度溜息を吐き、それから仕方なさそうに、そして何も見たくないと言いたげに、机に置いた腕の上に顔を伏せる、時間が過ぎるのをただ待つのであった。
一方、メイルはやいとに引っ張られ続けて歩き続け、気が付けば六年A組の教室からは随分離れた特別教室だらけの廊下にたどり着いていた。
ホームルームの直前という事もあってこの廊下は人通りが少なく、歩いている間にも一人、二人程度しかすれ違わなかった。
そして、歩いている最中にホームルーム五分前のチャイムが鳴りだしたのを聞いているメイルは、ホームルームは勿論の事、熱斗の為にも早く戻らなくてはと思い、歩きながらもやいとに尋ねる。
「ねぇやいとちゃん、話って何?」
するとやいとは急に足を止め、メイルの手から自分の手を離した。
そして周囲に誰かいないかどうかを確認するようにキョロキョロと周囲を見渡し、特別教室内の音にも耳を澄ませ、此処にはメイルとやいと以外誰もいないようである事を確認し終えると、それまで背を向けていたメイルに正面から向き直る。
メイルはやいとがやはりいつになく真剣な険しい表情をしているのを見て、何故やいとはこんなにも真剣な表情をしているのかと不思議に思い、小さく首を傾げた。
そんなメイルに、やいとはしばし悩んでいる様な、何かを決めかねている様な表情を向けていたが、やがて全てを決意したと言いたげに口を開く。
「メイルちゃん、前にあたしとデカオが言った事、忘れちゃったの?」
「えっ?」
突然の問いに、メイルの口から僅かな戸惑いと驚きの声が漏れた。
やいとはそれを見て小さく呆れたような溜息を吐き、今度は少し不機嫌そうなのが分かる表情になって続ける。
「熱斗の事よ。近付かないって決めたんじゃ無かったの?」
熱斗の事、近付かないと決めた、其処まで言われてようやく、メイルはやいとの真剣な表情の意味を理解した。
メイルの脳裏に、昨日の朝の光景が思い出される。
前日にやいとの家の秘密基地でプレイしたゲームの話をしていた自分とデカオとやいと、そして其処へ現れて話への参加を望んだ熱斗の姿が浮かぶ。
更に、その後自分と話している間に唇を噛んで顔を伏せてしまった熱斗の、何処か弱々しい後ろ姿と、短い謝罪を残して走り去る姿が思い浮んで、メイルはその時、あの時も熱斗は寂しさに打ちのめされていたのかもしれないとハッと気付く。
それならば今も熱斗は自分の、メイルの帰りを待って寂しがっている、そう思ったメイルはやいとに何を答えるよりも先に六年A組の教室に向けて走りだそうと身体の向きを変えた、が、実際に走り出す前にやいとに手首をぎゅっと掴まれて引きとめられてしまった。
思わず、それを拒絶する言葉が口を突いて出る。
「やいとちゃん、離して!」
そう言ってやいとの手を振り払おうと、メイルは掴まれた腕を大きく振ったが、やいとの力は意外にも強くなかなか離れない。
後になって思えば、もしかしたらその強さは、やいとからメイルへの“心配”の強さだったのかもしれない。
とにかくやいとは手を離さず、メイルが教室へ戻ろうとする事を阻止した。
メイルはしばしの間やいとの手を振り払おうと腕を大きく振っていたが、やがて諦めたのか腕の動きを止めて溜息を吐き、やいとへ振り返った。
やいとの顔は焦りと不安が混ざった所に無理矢理無表情の仮面を被せたような表情をしていて、メイルは何がそんなにやいとを不安にさせているのかと不思議に思う。
メイルが腕から力を抜くと、やいとも即座に手の力を抜き、メイルの手首を解放した。
どうやら、メイルが冷静な態度をとれば無理強いをする気は無いらしい。
メイルは、やいとの話とやらを聞いてみる事にした。
「……やいとちゃん、話って、何?」
考えてみれば少しおかしな質問だが、一度やいとの話を無視して教室に戻ろうとしたメイルにはこの質問が一番的確に思えたのだ。
ともかく、メイルはやいとと正面から話し合う姿勢を見せた。
やいともそれを理解したのか、一度だけ小さく頷くと、改めてメイルへ本題を告げる。
「熱斗の事……様子を見ましょうって、昨日決めたじゃない。どうして一緒に登校なんてしてきたの?」
昨日の朝、熱斗が立ち去ってからやいとやデカオと交わした会話、その内容を思い出して、メイルは言葉を詰まらせた。
確かにあの時、メイルはやいととデカオの提案に同意し、やいとに向けて熱斗に近付かない事を提言している。
けれどメイルにとってあれはその場を取り繕う方便でしか無く、実際メイルはその後熱斗に近付き此処最近の違和感の訳を訊いた。
そして打ち明けられた“寂しい”という感情、それをなくすために全力を尽くす事を、メイルは熱斗にも自身にも誓っている。
その場かぎりの方便と、自分自身にも誓った言葉、どちらを優先したいかと言えば、それは当然自分自身にも誓った、つまり自分の本心だと素直に語れる方で、メイルはやいとから気不味そうに視線を逸らした。
そんなメイルを見て、やいとは少し疲れたような溜息を吐いた。
「やっぱり、様子を見るって言うのはあたしとデカオに合わせた嘘だったのね……。」
やいとの少し呆れたような、残念そうな声に、メイルの胸はズキンと痛んだ。
確かに、簡単に言ってしまえばメイルがやいとやデカオに言ったものは本心ではなく、本心を偽ったもの、つまり嘘だ、それはメイルにも分かっている、分かっているつもりだが、実際に指摘されると異様な重みを感じるのは何故だろうか。
ともかく、昨日の朝の会話を嘘だと指摘されたメイルは更に気まずそうにやいとに背を向ける。
それは、やいとの言っている事は正しいという肯定の態度にも近かった。
メイルの背後で、やいとがもう一度溜息を零す音が聞こえる。
「ごめんなさい……。」
やいとに呆れられた、その事実を感じとったメイルは申し訳なさそうに謝った。
背後にいるやいとの気配は明らかな怒りよりも静寂と沈黙に満ちていて、それがメイルを余計に緊張させる。
やがて、やいとはしばし悩むように沈黙した後に、小さな溜息を短く零してから口を開いた。
「謝罪は要らないわ、あたしは別に怒ってる訳じゃ無いもの。」
確かにその声は強い意思こそ湛えているものの、憤怒や激昂の色は含んでいなかった。
とりあえずやいとは怒っていない、その事実にメイルは僅かに安心する。
そんなメイルの気配を察してなのか、やいとはまた少しの沈黙を挟んだ後に改めて口を開く。
「……ただ、あたしはメイルちゃんが心配なのよ。昨日言ったでしょう? 一体何があの熱斗を悩ませてるのか、その正体が怖いって。メイルちゃんやあたし達に抱えきれるものなら良いけど、もしそうじゃなかったら……」
そうでなかったら何だというのか、それはやいとにも簡単に答えられるものではなかったらしく、やいとはそれ以降の言葉を紡げなかった。
ただ、それを聞いてメイルは安心する。
やいとは決してメイルに怒っている訳でも、呆れ果てて見捨てようとしている訳でもない。
むしろメイルを心配して忠告してくれているのだ、そう思うとメイルの中には何か心強く、安心できる温かさが広がる。
メイルはやいとに背を向けたまま嬉しそうに少しだけ微笑んだ。
「大丈夫よ、やいとちゃん。熱斗は必ず私が助けて見せるから。」
メイルの返答に、やいとは少し不安げな表情を見せたが、やいとに背を向けているメイルにそれは見えない。
それはまるで、やいとの心配が真の意味ではメイルに伝わっていない事を表しているようで、やいとは少し納得のいかなそうな表情で押し黙った。
そんなやいとへメイルは振り返り、笑いかける。
その純粋無垢で活き活きとした笑顔に溢れるエネルギーに、やいとも少しだけ、メイルならもしかしたら……と思うが、やはりやいとは不安をぐ縫いきる事ができず、少し不安げな表情と声をメイルに向けた。
「……メイルちゃんの気持ちは分かったわ、でも、無理だと思ったらすぐに言うのよ? あたしやデカオに何か出来る事があるのかどうか、それは分からないけど、独りで抱え込まないでちょうだいね?」
本当に、心の底からメイルが心配だと言いたげなやいとへ、メイルは小さく微笑んで、
「えぇ、そうさせてもらうわ。」
と言った。
そしてメイルは、友達とはやはり良いものだと実感し、熱斗にもこの温かさを分け与えたいと考える。
脳裏にふと浮かぶ昨日の夕方の熱斗の寂しげな微笑、熱斗は今どうしているのだろう、また一人で席に座っているのだろうか? もしそうだったら早く帰って声をかけなくてはいけない。
メイルはしばしやいとに笑いかけると、さて、と言葉を挟んでから切り出した。
「そろそろホームルームが始まるわね、教室に戻りましょうか?」
するとやいとはワンピースのポケットからPETを取り出し、その小さな画面に時計を映して時間を確認してから頷き、
「ええ、戻りましょ。」
と言って、此処へ来た時と同じように先頭に立って歩き始めた。
メイルも今度は引き摺るように引っ張られることなくその後ろを歩く、だからメイルは知らない、その時やいとが何処か難しい顔で沈黙していた事を。
もう人気のない廊下をしばらく歩き、六年A組の教室の前まで戻ってくる。
メイルとやいとは先ほど教室を出た時と同じように、教室の後方のドアから静かに教室の中へ入り、そこで二手に分かれた。
やいとはやいとの席に、メイルはメイルの席――熱斗の隣に戻る。
メイルが席に近付いてみると、隣の席の熱斗は机に腕を無造作に置いてその上に顔を伏せており、メイルが戻ってきた事にはまだ気が付いていない、というよりも、それを含む全ての出来事を自分の視界から遮断しているように見えた。
メイルはそれを、もしかしたら眠っているのだろうか、とも思ったが、いくら熱斗でもたった数分前まで普通に起きていたのに今本気で眠っているとは考えにくい。
だからメイルは、自分の席の椅子を引きながら熱斗に声をかけた。
「熱斗?」
すると熱斗は主人に名前を呼ばれた犬のように勢い良く顔を上げ、メイルの方を見た。
「あっ、メイルちゃん。」
その様子が少しおかしくて、メイルは小さく笑いながら席に着いた。
メイルが席に着くと、熱斗は今までずっとそれが気になっていたと言わんばかりにメイルに問いかける。
「ねぇメイルちゃん、やいとちゃんと何話してたの?」
「え? あぁ、ええっと……女の子だけの秘密よ。」
まさかそのまま、熱斗の最近の様子について話していました、などという事はメイルに言えるはずもなく、メイルは女の子の特権と言うべきかもしれない台詞を吐いてそれを誤魔化した。
熱斗はそれに納得がいっていないような、俺にも教えてくれたっていいじゃないか、と言いたげな顔をメイルに向けたが、やがて女子同士の秘密では仕方が無い、自分の踏み込むべき領域ではないと考えたのか、小さな溜息をついて拗ねたように前を向いてしまった。
訪れる小さな沈黙。
ほんの僅かに気不味い空気が、二人の間に、気持ちの悪い生温さを伴って舞い降りる。
その気不味い沈黙が何だか居心地悪く、自分から何か話さなければいけない気がしたメイルは再び熱斗の名前を呼んだ。
「ねえ熱斗、熱斗はさっき何を――」
しかし無情にも、メイルがさっきは何を話すつもりだったのかと熱斗に訊き終えるよりも前に、その言葉を遮るかのようにホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り始めてしまった。
あと十数秒もすれば、教室の前方のドアからこのクラスの担任であるまり子がやってきて教壇に立つ。
仕方なくメイルは途中まで開いた口を閉じ、残りは休み時間にでも話せばいいと思う事にした。
そういえば、熱斗は今日の休み時間はどうするつもりだろうか、という疑問がメイルの脳裏を過る。
昨日は確か、外には出ずに教室にいた様だったが。
メイルがそんな事を考えている時、熱斗は先ほどのメイルの退席に合理的な理由をつけて自分の中で納得しようと必死になっていた。
分かっている、熱斗にも十分に分かっているのだ、いくらメイルが自分の側にいてくれると言っても、メイルにはメイルの世界があって、その世界にいるのは自分――熱斗だけではない事を、分かっているのだ。
だから、メイルがやいとに呼び出されたとして、それを不満に思う資格は自分には無い事や、それは至って普通の事であり責められる事ではない事など、熱斗も分かっている。
それなのにこんな、まるで自分の所有物を奪われたかのような喪失感を感じ、やいとにその苛立ちを向けたいと思っているなんて、熱斗は信じたくない。
嗚呼、自分は何て我が儘になってしまったのだろう、そう思って熱斗は溜息を吐き、これ以上メイルの事を欲してしまわないように教壇を睨みつけるのであった。
それから数秒後、この教室にいる誰もが思っていた通り教室前方の扉が開き、まり子が姿を現した。
そして約二時間後、午前の授業の半分を終えたまり子が教室から一旦姿を消したその時、熱斗はぼんやりとした表情でブラックボードを眺めていた。
授業の内容が頭に入らない、のは正直いつもの事だが、それでも今日はまた一昨日のような事――具体的には、ホームルームの直前のメイルとやいとの行動の訳が気になってしまい、どう授業に集中しようとしてもふとした瞬間に二人の事を思い出してモヤモヤとした気持ちになってしまうという事を繰り返し、徐々に授業の内容が右から左へと普段以上の素通りをするようになってしまっていた事を思い出して熱斗は溜息を吐く。
まったく、女子が女子だけで集まって何かしらの秘密のおしゃべりをする事など今更不思議に思う程の事でもないのに、どうして自分はこんなにもやいとがメイルを呼びだした訳が気になってしまうのかと、熱斗は悩む。
そして悩んだ末に、熱斗は自分が今、メイルに関わる事を全て把握しようとしているのではないかという推測にたどり着き、そのストーカーじみた執着に悪寒にも似た嫌悪感を感じるのであった。
嗚呼本当に、自分は一体どうしてしまったというのだろう?
授業はマトモに頭に入らず、外に出て駆けまわる元気も持たない熱斗はもう一度、先ほどよりもやや深く疲れた溜息を吐く、とその時、
「熱斗、お疲れ様。」
急に頭上から聞きなれた女子の声がして、熱斗は何だろうと思いながら声がした方向に振り向た。
するとそれはメイルの席のある方向で、声を発していたのはその席から立ち上がるだけ立ちあがってみたと言いたげな場所に立っているメイルであった。
メイルは熱斗のすぐ左脇に立って熱斗の様子を窺っている。
熱斗はそれまで考えていた相手が実際に目の前に立っている事で、ややぼんやりとしていた意識が急激に現実に引き戻されて、少し戸惑いながらメイルに返事をした。
「え、あ、うん、ありがと。メイルちゃんもお疲れ様。」
多分、メイルはこのくらいの授業ならそんなに疲れていないだろうけど、と思いながらも熱斗はそう言って、それまでの自分の中でのあれこれをなんとか表に出さないまま誤魔化す。
幸いメイルは熱斗がそれまで何を考えていたのかは気にしていないようで、熱斗の返事に更に返事をするかのように優しく微笑んでくれた。
熱斗も、自分の考えていた事が何かを追及されなかった事と、自分の返事にメイルが微笑んでくれた事に安心して少しだけ表情を柔らかくする。
嗚呼、やはりメイルといると何だか落ちつく、そんな事を熱斗が考え始めた時、メイルがその微笑みのままで熱斗に問いかけてきた。
「熱斗は今日は外に行かないの?」
まるで、一緒に外に行こうと誘う代わりのようなその言葉に、熱斗は少しだけ外に出る事を視野に入れたが、それに反して身体は重だるさを強く感じ、外に出る為に立ちあがる等の行動の邪魔をする。
外になど出たくない、そこで日を浴びて駆けまわる元気や、皆の中に上手く混ざって行ける自信も、今の自分には存在しない。
嗚呼全く、朝起きた時は久しぶりに体が軽いと思ったのに、何故今はこんなにも身体が重いのだろうかと疑問に思いつつ、熱斗は少し気だるげに、机に肘を吐いて溜息を吐きながら返事をした。
「あぁ、俺は行かないよ。」
するとメイルはしばしの間、少しだけ意外そうな顔で沈黙した後、じゃあ、と言って微笑んで、
「私も今日は外に行かないわ。」
と言いながら、自分の席にストンッと座りなおした。
その声と気配に、今度は熱斗が意外そうな顔をメイルに向ける。
熱斗はてっきり、じゃあ、の後には、また後で、という言葉が続くと思っていたものだから、メイルの行動を理解しきれなかったのだ。
自分が席を離れないのは自分の意思だからいい、ではメイルが席を離れなかった理由はなんだ?
メイルは、じゃあ、と言った後に、私も今日は外に行かないわ、と言った、それはつまり自分に、熱斗に合わせてくれたという事なのだろうか?
窓の外からは昨日や一昨日、いやそれよりもずっと前から同じように、元気に駆け回る少年少女の楽しげな声が僅かに聞こえてくる。
もしもメイルが自分に合わせて教室にいる事を選んだのだとすると、自分はメイルをあの楽しげな空間から引き離してしまった事になる、それに気が付いた熱斗は意外そうな顔から少し申し訳なさそうな顔にその表情を変えて、メイルに訊いた。
「いいの? やいとちゃんとか、待ってるんじゃないの?」
自分の記憶が確かなら、昨日のメイルはやいと達との遊びに興じていた。
それを前例として、熱斗は、今日はそういう事は無いのかとメイルへ問いかける。
するとメイルは何を思ったのか一瞬キョトンとした表情を見せて目をぱちくりとさせた後、何かがおかしかったのかクスクスと小さく笑って答えた。
「いいの、やいとちゃん達もきっと分かってくれるわ。」
一体何をやいと達が分かってくれるというのか、それは熱斗にはよく分からなかったが、メイルがそこまで言うのなら多分大丈夫なのだろうと、とりあえず納得しておく事にした。
そして、そっか、と返事をして前方に向き直ると訪れるのは、遠い遠い場所――校庭に響くの笑い声と、近い近い場所――メイルと自分の間の静寂。
その静寂の中で熱斗はメイルが気になって、何でもいいから話しかけて会話をしたいという思いを感じ、そういえば何か話す事はあっただろうかと考える。
すると、熱斗がその内容を思い付くよりも先に、メイルが口を開く。
「熱斗、最近はずっとこうしてるの?」
「え? あ、あぁ、うん、そうかな。」
機嫌の良さそうな表情のままのメイルからの突然の質問に、熱斗は一瞬驚きと戸惑いと躊躇いで言葉を詰まらせつつも答えた。
そう、思い返してみればここ数日の自分は休み時間に外に出ることなく、教室で何もせずに過ごしている。
日数にしてみればまだたった三日の出来事だが、もう随分長い間外に出ていないような、そして外への出方を忘れたような、そんな感覚が熱斗の身体、脳裏、思考を覆い尽くしている。
外に出て遊ぶにしても、一体何をして遊べばいいのか分からない、何処へ行けばいいのか分からない、どの集団に一言“入れて”と言っていいのかも分からない、そもそもその一言が許されるのかどうかさえ――。
つい一週間ほど前までは入れていた輪の中、其処への戻り方を忘れてしまった事に気付いた熱斗は、それが何だか悲しくて少し疲れた小さな溜息を吐く。
そんな熱斗に、メイルは話を続けた。
「そう、じゃあ今度から熱斗が教室にいる時は私も教室にいるわね。」
その言葉に熱斗は自分の耳を疑い、驚いた表情でブラックボードから視線を逸らしてメイルの方へと振り向いた。
メイルは別段変な事、おかしな事を言ったという自覚は無いのか、いつものように澄ました表情で熱斗を見ている、その視線と熱斗の視線がぶつかる。
熱斗が聞き間違いをしていなければ、メイルはたった今、熱斗が教室にいる時は自分も教室にいると宣言した。
それは独りで教室に留まる事を平穏としつつも寂しい事だと思っていた熱斗にとって朗報ではある、あるのだが、熱斗にはそれに少しの不安とでもいうべきもの――自分がメイルを此処に留めてしまう事でやいとやデカオ等とメイルの間にも壁ができてしまうのではないかという懸念を感じていた。
いや、メイルなら今の熱斗のように壁など感じることなくやいと達との関係も上手く保てるのかもしれない、そうも思ったが、とにかく自分のせいでメイルの行動を制限する事になってしまう事に何処となく罪悪感を感じた熱斗は少し不安げに訊き返す。
「そんな、いいの? 俺、ホントに何もしないで此処にいるだけで、それでもいいの?」
やいと達と遊ぶ時間が減ってしまうのでは? という言い方は熱斗には出来なかった。
それを言ってしまえばメイルはすぐにでもやいと達の方へと戻ってしまう気がしたからだ。
それでも一応、メイルを気遣うように訊き返す熱斗を見て、メイルはニコリと微笑み頷く。
「それでもいいわよ、それが熱斗が今したい事なんでしょ? だったら、私もそれに付き合うわ。」
そう言ってメイルは熱斗の左手を自分の両手で包むように握る。
メイルの手は歳と季節と気温に相応した温かさを携えており、熱斗は左手が薄っすらと温まるのを感じた。
ここ数日の不安時とは違う意味を持って鼓動が少しだけ早くなる。
嬉しい、温かい。
それが熱斗が一番最初に持った正直な感想であり、手を握られた熱斗は最初こそ驚いたような顔をしていたが、徐々にその表情をメイルと同じ微笑に変えた。
メイルは本当に自分と、熱斗と共にいる事を望んでくれている、その事実がとても嬉しかったのだ。
「温かいね、メイルちゃんの手。」
熱斗がそう言って笑うと、メイルも嬉しそうに微笑んで、
「そう? ありがとう。」
と言ってくれた。
それがとても嬉しくて、熱斗はその時まだ自由の身であった自分の右手を、自分の左手を包むように握っているメイルの両手に重ねる。
そうしてなかなか良い雰囲気になった所で、熱斗はふとホームルーム前に訊きそびれた事を思い出し、メイルに尋ねた。
「あ、ところでさ、メイルちゃん、今日の放課後の事だけど、どっちの家で遊ぶ? もし俺の家なら今からママに頼んでケーキでも焼いてもらおっか?」
今朝交わしたばかりの個人的な遊びの約束、それを少しでもメイルに楽しんでもらおうと、熱斗ははる香にケーキを焼いて待っていてもらう事を提案した。
料理が得意なはる香のことだ、今から連絡しておけば帰る頃には甘く美味しいケーキを用意しておいてくれることだろう。
熱斗の提案に、メイルもその光景を想像して小さく喉を鳴らした。
「そうねー、それは良い考えだわ。じゃあ今日は熱斗の家にしましょ。」
とても楽しみだと言う代わりに手の力を僅かに強めて笑うメイルを見て、熱斗もなんだか、元々楽しみだった遊びの時間が更に楽しみになってくるのを感じた。
嗚呼放課後になって二人で家に着いたらまず何をしよう? やはり最初ははる香の手作りのケーキを食しながらの談笑で、その後はどうしよう、メイルも自分も楽しめるようなゲームはあっただろうか? 色々な想像が熱斗の脳裏を駆け抜けて行く。
そしてメイルがゆっくりと手を離すと、熱斗はすぐに左肩にセットしてあるPETを右手で取り外してアドレス帳を開き、自宅の電話番号を選びだした。
今の内にはる香に連絡を入れて、放課後になる頃にはケーキができているように頼むためである。
熱斗はPETの上に立体画面を表示させてからその画面に映った通話ボタンをタッチする。
するとすぐに回線は自宅の電話に繋がり、数回のコール音の後、立体画面の中央にはる香の顔が映った。
「あら熱斗じゃない、どうしたの?」
はる香は相手が熱斗である事を確認すると、少しだけ驚いたような顔を見せた。
普段は休み時間、つまり学校にいる時間に電話をする事は滅多にないからだろう。
そんなはる香を見て、少し驚かせてしまったかな? と思いつつ、熱斗は用件を伝える。
「あぁうん、今日の放課後はメイルちゃんと一緒に帰るから、ケーキか何か焼いて待っててもらえないかなって思ったんだけど、いい?」
「あらそうなの? じゃあとびっきり美味しいケーキを作って待ってるわね。」
熱斗から要件を訊かされたはる香は何かを喜んでいる様な、自分も楽しみになってきたと言いたげな笑顔でそう答えた。
それを見て熱斗は、そういえば最近はる香の前でもあまり元気な姿を見せていなかった事を思い出し、ほんの少しだけ自嘲したくなるような、しかしホッと安心するような気持ちになる。
はる香の前でも元気で居られない程落ち込んでいた事に関しては何とも恥ずかしくて自嘲したくなったが、ようやくはる香にも元気な姿を見せる事ができた事には安心したのだ。
「ありがとうママ、それじゃあまた後で。」
「えぇ、じゃあ後で。」
隣の席に座るメイルに見守られながら、熱斗は通話を切り、PETを左肩にセットし直した。
そしてメイルへ向き直って、これでOKだなという代わりに軽く右手の親指を立てて見せる。
するとメイルも頷いて同じように右手の親指を立てて見せてくれた。
そんな些細な行動の合致ですら、熱斗は笑いだしたい程の嬉しさを感じて、その表情が緩むのを抑えきれなくなる。
そして熱斗は、更にある提案をした。
「ねぇ、折角此処にいてくれるんだったらさ、二人で何か話してようよ。一人だったら何もできないけど、二人ならそんな事無いだろ?」
一人だったら本当に何もする事など無い、ただ机に伏せているのが精一杯、だけども二人なら、それもメイルと一緒なら、校庭に遊びに行かずとも休み時間を楽しく過ごせるかもしれない。
そう思った熱斗はメイルに休み時間のおしゃべりをしないかと申し出たのだ。
この時熱斗には何故か、断られるかも、とか、目障りだと思われるかも、などの懸念は全く浮かんでこなかった。
実際、それを聞いたメイルはそれまでの笑顔を崩す事無く頷き、
「えぇ、いいわよ!」
と言ってくれたのだから、今回はそれでも全く問題ないと言えない事もないのだが、とにかくこの時熱斗の中からマイナスの感情はその姿を消していた。
メイルが熱斗と共にいる事を自ら望んでくれた事で、熱斗は安心しきっていたのだろう。
ここ数日間、上手く作る事が出来なかった笑顔が自然と零れ、良い意味での昂りが心を支配する。
休み時間に二人で話したいという提案に同意してくれたメイルを見て、熱斗はこれ以上ない歓喜に浸った。
それから約一週間、熱斗とメイルは朝共に登校し、二十分休みと昼休みを共に過ごし、放課後もどちらかの家に集まって同じ時間を過ごすという事を続けた。
そしてその一週間、熱斗はあの暗い暗い闇が支配する空間と、その空間に佇む自分のダークソウルの夢を見る事は無かった。
午前八時少し前の“おはよう“から始まり、午後五時少し後の“また明日”で終わる日々は、熱斗に一定の安心感と幸福、希望を見せていたのだ。
しかし未だに仲間達全員の中への戻り方はつかめておらず、メイルと共に過ごす安定した日々は、デカオややいとや透とはとくに話す事のない日々が続いたという側面も持っている。
だが、それでも熱斗は満足だった。
話相手の数こそ少なく、いや、もはやメイルしかいないに等しかったが、それでもメイルは熱斗と沢山の会話をしてくれた、沢山の会話ができる程傍にいてくれたのだから。
だがそんな日々にも、一つの区切りが訪れる事となる。
それは、熱斗がメイルに己の中の寂しいという感情を露見させてから、約一週間を過ぎたあたりの出来事であった。
時刻は午前七時四十五分、その日の朝も、メイルは熱斗の自宅の前で、玄関のドアが開き熱斗が出てくる事を待っていた。
住宅街は静かで、聞こえてくるのは鳥たちの鳴き声程度しかない。
たまに熱斗の自宅に隣接している家から人が出てくる事があるがそれも多くは無く、メイルは一人ポツンと熱斗が現れる瞬間を待っている。
「熱斗、まだかしら……。」
いつもならそろそろ玄関のドアが開くはずなのに、今日はまだそれが無い、玄関近くにいる気配もない。
そろそろ学校に遅刻してしまう可能性が出てくることを危惧して、メイルは頻繁にPETで時計を見る。
時刻は午前七時四十六分になっていたが、まだ熱斗が現れる気配は無い。
メイルはぽつりと呟く。
「遅いわね、どうしたのかしら……。」
「そうね、どうしたのかしら?」
メイルの独り言に、ロールが肩の上に小さなホログラムで現れて返事をした。
時計の表示は午前七時四十七分になっているが、熱斗の自宅の玄関の扉はまだ開く気配を見せない。
さすがにこれ以上待つと遅刻の可能性が出てくるという事が気になって、メイルはPETの画面と玄関を交互に見つめ、たまにロールと顔を見合わせる。
そして時計の表示は午前七時四十八分になろうとしていて、メイルはもしもこの表示が午前七時五十分になっても熱斗が現れなかったらメールを残して先に学校へ行こうかと考え始めた。
メイルは熱斗の自宅の玄関の扉を見る、けれど扉はまだ開かない。
本当に熱斗はどうしたというのだろう、また遅刻癖が出てきたのだろうか、それとも案外普通に風邪でもひいて動けずにいるのだろうか、そんな事を考えながらメイルがほんの小さな溜息を吐いた、その時だった。
「メイルちゃん、熱斗くんから伝言をあずかってきたよ。」
メイルの肩の上に熱斗のナビであるロックマンが現れ、そんな事を言ってきたのは。
突然の訪問者にメイルは少し驚きながら自分の肩の上を見て、其処にいるのがロックマンである事を確認すると訊き返す。
「伝言?」
メイルが不思議そうな顔で尋ねると、ロックマンは頷いてから、
「うん。熱斗くんったら今日久しぶりに寝坊しちゃって、まだ仕度が終わらないんだ。」
と言って苦笑しながら頭を掻いた。
メイルはその様子から、どうしてそうなったのかは分からないが、今日の熱斗は久しぶりに上手く起きれなかったのだろうという事と、それによりロックマンが苦労したであろうことを想像する。
そう、ここのところ一緒に早くから登校しているから少し忘れていたが、熱斗にとってはこの遅刻ギリギリの時間の方が普段通りであり、午前七時四十五分以前という早い時間に登校する方が珍しいのだという事を思い出して、メイルはロックマンの苦労を察したと言いたげに小さく苦笑した。
そして苦笑しあった後に、ロックマンが再び口を開いて熱斗からの伝言をメイルに伝える。
「だから、『メイルちゃんまで遅刻させちゃうと悪いから今日は先に行ってていいよ』って、熱斗くんから。」
「そう、分かったわ。伝言ありがとう、ロックマン。」
ロックマンから熱斗の伝言を聞いたメイルは、今頃家の中を忙しなく駆けまわっているであろう熱斗の姿を想像して、それが何だがおかしくて小さく笑いながらロックマンに礼を言った。
礼を言われたロックマンは、
「じゃあ僕は熱斗くんの所に戻るね。また後で!」
と言ってメイルの肩の上から姿を消す。
ロックマン自身が言った通り熱斗のPETの中に戻って行ったのだろう、メイルの肩の上にはもうロールしかいない。
メイルは自分の肩の上にいるロールと一度だけ視線を合わせると、なんだか少し懐かしく熱斗らしいトラブルに小さく笑い合い、それまで熱斗の自宅の前で止めていた足を学校の方向に向けて歩きだす。
時刻は、午前七時四十九分だった。
それから約十五分、時刻は午前八時四分から午前八時五分になろうとしていた頃、熱斗の自宅の玄関の扉が慌ただしく開かれ、室内から室外へ、熱斗が勢いよく飛び出してきた。
熱斗は、当たり前だが其処にメイルの姿が無い事を確認して少しだけ、いや大いに残念な気持ちと、起きるのに失敗した自分を恨めしく思う気持ちでいっぱいになりながら目の前の階段を駆け下り、階段を降り切るとそれまで右脇右腕に抱えていたインラインスケートの車輪を靴の底に取り付けて、すぐさま道路を滑走し始めた。
シャーッという高く軽い音を立てて車輪が高速で回る。
熱斗は遅刻をしない為にも、そして早くメイルに会う為にも、滅多にない程の全力で住宅街を駆け抜け、いつもより何分か早いタイムで大通りに出た。
大通りの歩道に出ても熱斗はスピードを緩めず、人混みの間を縫うように駆け抜ける。
その人混みの中に、秋原小学校の生徒と思わしき影はほとんど見当たらず、それが熱斗を更に焦らせた。
途中、ロックマンが、スピードを落として! と言っていたような気がしたが、熱斗はそれを無視して大通りを駆け抜ける。
運良く青のままの信号をいくつか渡り、しばらく走ると熱斗は自分の住んでいる区域とはまた違う住宅街に入る。
此方の住宅街もやはり人影は少なく、買い物に向かい主婦などが一人二人いるかいないかといったレベルであり、秋原小学校の生徒らしき影は無い、声もしない。
いよいよ、遅刻することへの危機感が熱斗を襲い始める。
「ロックマン! ホームルームまで後何分!?」
軽く息を切らせながらも全力疾走を続ける熱斗が問いかけると、ロックマンは熱斗の肩の上に現れて、
「あと八分はあるよ、だからちょっとスピードを落として! 急ぐのは良いけどちょっと危なすぎるよこの速さ!」
と言った。
しかし熱斗はそれに対して返事をせず、スピードを下げるどころか更にスピードを上げようとし始めたではないか。
車輪に負荷がかかり過ぎているのか、シャーッという音に時たま雑音が混ざる。
それに気付いたロックマンが、意味が分からない、なんでそうなるの、と言いたげな顔で焦る。
「熱斗くん! そんなに急がなくても此処からなら三分もあれば学校に着くよ! だから少しスピードを落してってばぁ!」
だが熱斗はそのスピードを緩めることもロックマンに返事をする事も無く住宅街を駆け抜け、普通に走れば三分の所を一分程度しかかけずに学校の前の公園へ到着し、その中央の噴水の前を通過して、そのスピードを保ったまま校庭へ駆けこんだ。
正門の番をしている警備員がその速さに驚いて目を丸くするが、熱斗はそんな事には舞わず昇降口へ駆け込み、そこでようやく車輪の回転を止めた。
そして車輪を靴の底から手早く外すと、家から出た時と同様にそれを右脇に抱えたまま廊下を走り、階段を駆け上り始める。
タッタッタッタッ、という軽い足音と共に階段を駆け上がり、六年生の教室がある階に着くと、熱斗はそのまま廊下を六年A組の教室の前方の入り口に向けて全力で走った。
ホームルームまでの時間はあと五分となっており、熱斗が教室に着く数秒前に予鈴が鳴りだした。
そしてその予鈴を聞きながら、熱斗はようやく六年A組の教室へ到着する。
まだ担任のまり子が教室に来ていない事を確認して、熱斗は顔を伏せて大きく疲れた溜息を吐く、と、そこからふと顔を上げた時、熱斗の視界に“期待と違う光景”が入りこんできた。
「あ、あれ? メイルちゃんは……?」
まり子がいない事を確認した後すぐにメイルの存在を確認したくて自分の机のある方向に目を向けた熱斗は、熱斗の席の隣の席、つまりメイルの席に、メイルがいないという状況に気が付く。
おかしい、メイルは確か自分より先に学校に行ったはずでは、と思い、熱斗はロックマンに問いかける。
「なぁロックマン、メイルちゃんは先に学校に行ったんだよな?」
「え? うん、その筈だよ。」
肩の上に出てきたロックマンの返事を聞きながら、熱斗は教室に入り、とりあえず自分の席へ向かって歩き始めた。
そうして教室中を見まわしながら自分の席に向かっていると、教壇の前を通り抜けた辺りで、それまで死角になっていた部分が視界に入り、熱斗はその死角だった場所の中にメイルの姿を見つける。
しかし、熱斗の表情は晴れない。
熱斗はメイルのいる場所に向かう事無く自分の席に向かい、机の上に鞄を置いて、机の足下に一時的にインラインスケートの車輪を置いた。
そしてそのまま自分の席の椅子を引き、着席する。
それから机の上に無造作に腕を置いて俯く熱斗に、ロックマンが少し困惑した様子で声をかける。
「ねぇ、熱斗くん。メイルちゃんなら教室の後ろの方に――」
しかし熱斗はそれを遮るように無言で左手をロックマンの目の前に翳した。
驚いたロックマンが口を閉じて黙りこむ、それを確認して熱斗は手を下ろす。
そして下ろした腕をまた無造作に机の上に置くと、今度はその上に額を乗せるようにして熱斗は机に伏せてしまった。
どうして、と言いたげな顔でロックマンがその顔を覗きこもうと机の上に降りる。
熱斗は顔を上げたり何かを言ったりしてそれに反応しようとはしない。
困り果てたロックマンは、ふとメイルに助けを求めようかと思って教室の後方――デカオとやいとと一緒になって談笑を楽しんでいるメイルを見た。
何を話しているのかは熱斗の席からではわからないが、三人の表情からして、何か楽しい事を離しているのであろうことは分かる。
そんな三人を見て、ロックマンは、熱斗も自分からあの輪の中に入ればいいのに、と思う。
しかし熱斗は顔を上げる事は無く、椅子から立ち上がる事もなく、ただ時間だけが過ぎて行く。
そして、これはいよいよ重症だと思ったロックマンがメイル達に助けを求めようとしたその時、ホームルーム開始の鐘が鳴って、メイル達はその場で解散し、それぞれの席に戻り始めた。
当然、熱斗の隣にもメイルが戻ってくる。
カタンッと軽い音を立てて、メイルが自分の席の椅子を引き、ゆっくりと腰かけた。
熱斗の指先が少しだけ動く。
「おはよう、熱斗。」
そしてメイルが熱斗に声をかけた時、熱斗はようやく顔を上げ、乱れた髪を整え始めた。
それからメイルへ振り向いて、何処か緊張感が無いような、けれど本心から笑ってるとは言えないような、ぎこちない笑みを見せながら挨拶を返す。
「うん、おはようメイルちゃん……。」