あの子の足元にも影はある

「それじゃあ、私は研究室に戻るから。あんまり遅くならない内に帰るんだぞ!」

熱斗の頭から手を離した祐一朗はそう言い残すと会議室の出入り口となっている自動ドアへ向けて歩きだし、ドアが開く直前に少しだけ振り返って熱斗とメイルに手を振ってから、開いたドアの向こう、廊下へと足を踏み出した。
祐一朗が数歩廊下を歩いた所で自動ドアのセンサーが人はいなくなった事を確認し、シューという音を立ててゆっくりと扉を閉める。
部屋には、熱斗とメイル、ロックマンとロールだけが残された。
四人が気付かぬうちに時刻は午後四時三十四分を過ぎており、窓の外に広がる空はオレンジ色に染まり始めていて、会議室の中もオレンジ色の光で染められている。
その温かな光の中で、メイルは悩んでいた。

炎山や名人等の無関係の人間も居なくなって、そろそろ最近の熱斗に一体何があったというのか訊くに相応しい状況になってきたとメイルは思っていた。
しかしその一方で、いざ訊こうとすると脳内で朝のやいととの会話が蘇ってきて、それに待ったをかけてしまう。
自分は熱斗の力になりたい、その思いに嘘は無いが、もしもやいとの言う通り、自分には背負いきれない何かが其処に有ったとしたら、訊かない方が良いのではないかという懸念が脳裏を過る。
どうしよう、訊きたいけれど聞きたくない、そんな矛盾した思いがメイルを躊躇わせる。
すると、

「あの、そういえばメイルちゃん、俺に用事があるんだっけ?」

いつの間にか続いていた沈黙を破ったのは、意外にもメイルではなく熱斗だった。
熱斗は熱斗で、メイルが何のために自分に着いてきていたのかが会議前からずっと気になっていて、炎山達がいなくなった今、それを思い切って質問してみる事にしたのだ。
その質問をしながら、熱斗は自分がよく分からない期待をメイルに向けている事に気付き、内心でそっと自嘲する。
メイルが一体どんな用事を自分に持ちかけてくるのか、それは全く分からないが、熱斗はそれが自分を必要としてくれる故のものである事を祈り、期待しているのだ。

自分から話を切り出すことになるだろうと思っていたメイルは熱斗から質問されるという意外な展開に少し戸惑ったが、これはこれでいいチャンスかもしれないと思い、訳を話す事に決めた。
隣にいる熱斗にしっかりと視線を向けると、熱斗もそれに気付いて自分の視線をメイルに向けてくれる。
メイルはその状態のまま一度だけ小さく深呼吸をすると、ようやく訳を話し始めた。

「うん……あのね、熱斗、最近何か悩み事、あるんじゃない?」

単刀直入に放たれたその言葉はどう考えても図星以外の何物でも無くて、熱斗はドキリとして緊張した。
心臓の鼓動が早く強くなる、体中に血液が回る感覚が薄っすらと感じられる、表情が引き攣りそうになる、そしてそれが更なる緊張を呼び、熱斗の表情はいつの間にか何処かぎこちないものになっていた。
そんな熱斗を真っ直ぐ見詰め、やっぱり熱斗は何かを悩んでそれを隠していると確信しながら、メイルは話を続ける。

「ほら、最近の熱斗、なんだかあんまり元気が無さそうじゃない。この前やいとちゃんの家に行った時も早いうちに一人で帰っちゃったし、今日の朝だって……」

自分の中では“失態”という二文字と共に記憶されている過去の言動を掘り返され、熱斗はどうにも恥ずかしく、どうにも苦いものが込み上げてくるのを感じた。
けれど同時に、そんな失態を覚えている程メイルはしっかりと自分を見ていてくれたのだと思うと、何故か少し嬉しくもなる。
どうにも複雑で矛盾だらけの感情に、熱斗は再び内心で微かに、自分は何て滅茶苦茶な事を考えているのだろうかと自嘲した。
その間にもメイルは話を続け、遂にその核心に迫る。

「だからね、その、もし熱斗がよければでいいんだけど、私、相談に乗れないかしら? 何があったのかは分からないけど、もしかしたら私にも何かできる事があるんじゃないかなってずっと思ってて……」

少したどたどしい言葉使いで必死に熱斗への心配を伝えてくるメイルに、熱斗の中の恐怖や不安が少しだけ解けて薄れていく。
自分が失態として記憶している出来ごとでさえメイルはしっかりと見ていてくれて、しかもそれを心配してくれている、メイルの心の中にはちゃんと自分が、光 熱斗がいるのだ、という思いが、熱斗の心の中に広がる。
もしかしたら、もしかしたらメイルなら、少しは話して良いのかもしれない、そんな考えが脳裏を過り始める。

「えっと、迷惑、かしら?」

少し躊躇いがちに訊いてきたメイルを見て、熱斗は急いで首を横に振った。

「そんな事無い! 迷惑だなんてそんな、そんな事絶対に無いよ!」

今まで誰も気にしてくれなかった、誰も気付いてくれなかった、本当は早く踏み込んでほしいのに誰も踏み込んでくれなかったその場所に、ようやく踏み込んでくれたメイルに、迷惑だなどと言えるわけが無い。
しかも、自分にできる事があるかもしれないだなんて、そんなふうに思ってくれていたなんて、と、熱斗は此処しばらくで一番大きな感動を覚える。
今まで皆と自分の間には壁があるのではと感じ続けていた熱斗はその時、その壁が、メイルの所だけ僅かに崩れたような気がした。
そしてその僅かに崩れた壁が、熱斗にある決心をさせる。
それは、

「じゃあさ、メイルちゃん……これから少し、俺の話を、聴いてくれる?」

メイルに、自分が今まで抱え込んできた寂しさ、苦しさ、悲しさ、その大部分を告白してしまう事だった。
メイルの真っ直ぐな気持ちが、メイルが踏み込んだその一歩が、熱斗に自分からも一歩踏み出し相手へ向けて手を伸ばさせる事を選ばせたのだ。
勿論、熱斗は自分が抱えるある種の病――ダークソウルの事まで明かそうとは思っていない、そこまで頼ろうとは思っていない、頼れるとは思っていない。
寂しさや苦しさだって、全て吐きだして良いとは思っておらず、メイルの挙動をよく観察して様子を見ながら少しずつ吐きだそうと思っている。
拒絶されない程度に、重いヤツと思われない程度に、薄っすらと、そうしなければ慰めを得るどころか明らかな軽蔑を受けてしまう、それは分かっている、そして本当はそれが怖い。
それでも熱斗は、自分の傍に来て、その心配を自分に向けてくれた、メイルのその想いに敬意を表すかのように、自分の陰を少しだけ明かす事を選んだのだ。
熱斗の問いかけに、メイルは慎重さをもってゆっくりと頷く。

「えぇ、聴かせてちょうだい。」

メイルの返事に、熱斗は静かに頷き返す。
その時、熱斗は自分の吐息が微かに震えている事に気付き、自分が今酷く緊張している事を思い知らされた。
それを感じながらそっと顔を上げれば、今度はメイルの何処までも真っ直ぐな視線と自分の視線がぶつかって、絡み合って、目を逸らす事が許されない状況になる。
その真っ直ぐな視線は、此方が言葉など発さずとも此方の想いを全て読み取っていそうな程、澄み切った鋭さを湛えていて、熱斗はその瞬間何をどう話すべきなのかが分からなくなってしまった。
伝えたい事はハッキリ言って沢山あるのに、沢山あり過ぎるが故にどれから伝えれば良いか分からない。
最低限は、最低限伝えなくてはいけないものは何だ、そう考えた時、熱斗の脳裏にパッと浮かんだ言葉、それは、

「……俺ね、寂しかったんだ。」

数日前の夢の中、まだ自分の中の闇の力がダークソウルという形をとれずにいた頃、その時不安定なダークソウルが発し、それにつられるように不安定な自分も発していた言葉を、熱斗は初めて自分でもダークソウルでもロックマンでもない相手に向けて発した。
それは正に自分の陰の部分を晒す行為そのもので、熱斗はこの一言だけでメイルが退いて行くには十分だったのではないのかという気がして、そっとメイルの様子を窺う。
メイルは熱斗と同じ茶色の目を僅かに見開いていて、退いているのかどうかは分からないが、少なくとも明らかに驚いた顔をしている。
熱斗はメイルの反応を待った。

「……寂、しい? どうして……?」

メイルは僅かに見開いた目をパチパチと、目の前の物が確かに現実の物で見間違いではない事を確かめるように閉じては開き、また閉じては開いて、驚いた顔のまま熱斗を見詰めながらそう言った。
熱斗はそれを見て聴いて、まぁそういう反応になるだろうな、と薄っすら思う。
正直な所、熱斗が“寂しい”と言った事に実感がわかず戸惑っているのはメイルだけではなく、熱斗自身も同じなのだ。
実の所、熱斗には自分が交友関係に恵まれている人間だという自覚が無い訳ではなく、むしろ常々自分は良い友達をもっていると思っていて、時よりそれに感謝をしているのが日常であったりしている。
だからこそこんな、“寂しい”という、交友関係に恵まれなかった人間が使いそうな言葉を自分が使う事に、熱斗も違和感を拭いきれずにいたのだ。
メイルの、どうして? という言葉が、自分の中に響く。
さて、どうしてだろう? どうして自分は寂しいのだろう?

「さぁ、どうしてだろう……」

その根本的な答えは、熱斗には出す事が出来なかった。
それでも熱斗はふと、自分が今までに寂しいと思って来た時の情景の数々を思い出し、悲しげに目を細める。
頭の裏側で駆け抜けるのはあの日、そう、あの新型ダークロイドに敗北する前から、たった今までの、なんてことは無い日常の、その中の小さな違和感。
炎山が先に退院した時、自分は何故あんなにも怒ってしまったのだろう?
自分が退院して家に帰った時、自分抜きで遊んでいる仲間達を見て、何故あんなにも苦い想いがこみ上げたのだろう?
翌朝学校に着いて、三人で集まっている仲間たちを見つけた時、何故自分はその仲間に入れなかったうえに、それを壊して優越感に浸りかけていたのだろう。
放課後、望み通り皆と集まる事ができたのに、その輪の中に上手く入れず独りで帰る事を選んでしまったのはどうしてだろう?
手を伸ばせば届きそうな所にあるのに、後もう少しで届かない幸福の世界――仲間達のいる場所に焦がれて焦がれて、指先は火傷を負ってしまいそうになっている、その理由は何?
熱斗はそっと視線を伏せて、緊張を誤魔化すように両手を頻繁に組み替えながら話を続ける。

「理由はね、俺にもハッキリは分からないんだ。でも……いつも壁みたいな、隙間みたいな、そういうのを感じてたって言うのは……あるかも。」

そう言って熱斗はメイルの様子を窺うように顔を上げた。
メイルはやはり熱斗と同じ茶色の目をパチクリさせていて、目の前の現実――熱斗が語るその内容を理解しきれていないようである。
メイルは明らかに困惑している、それを感じとった熱斗は寂しげな視線のまま小さく自嘲の笑い声を零した。
そんな熱斗を、メイルは困惑と不安に僅かに揺れる瞳で見詰め、熱斗の言葉の一部を繰り返すように問いかける。

「壁? 隙間……?」

メイルの言葉に、熱斗はゆっくりと浅く頷いた。

「そう……なんだか、一緒に居るようで一緒に居ないような、ずっと、皆が遠くて……」

そう言って熱斗はメイルから視線を外し、会議室と外の空気を隔てる大きな窓に視線を向けた。
そして言葉通り、遠く遠く、橙色に染まった空を見上げる。
其処からは謎の哀愁とでも言うべきか、それともノスタルジーとでも言うべきか、言葉には表現できないような終末的な美が視覚から脳へ、脳から精神へと伝わって、熱斗は小さくぼんやりとした溜息を吐いた。
その様子はメイルにとって初めて見る熱斗の新しい一面であり、メイルは橙色の美しい空よりも、少年らしくない疲れた表情で溜息を吐く熱斗に哀愁を感じた。
そしてその疲れた表情のまま、熱斗はふと気が付いた様にゆっくりとメイルへ視線を戻し、少し無理矢理笑って見せる。
夕暮れの空を見ているうちに、熱斗はふと、自分がメイルやデカオ達に対して酷く失礼な話をしている事に気が付いたのだ。

「ごめんね、こんな話……失礼、だったよな。」

例えどんなに広い距離を自分が感じていたとしても、その距離の先に居る仲間達には悪意など無く、彼等は何時も通り熱斗と接しているつもりの筈だ、それは熱斗もよく知っている。
だから熱斗は、今までこの距離感への焦りを、仲間たちへの信頼で必死に隠そうとしてきた。
けれど今、熱斗はその距離感をメイルに暴露してしまった、仲間たちが自分から離れて言っている気がしていると言ってしまった。
それを自覚する熱斗が、これでメイルとはお終いかもしれないと思いながらそう言うと、メイルは一瞬大きく目を見開いた後、熱斗がビクリと驚くほど大きな音を立てて突然椅子から立ち上がった。
嗚呼、これは本格的に怒らせてしまったか、と思った熱斗は少し自暴自棄気味に視線を床に落とす。
こんな話――仲間を信用できていない証拠の話をしてしまったのだ、平手打ちか拳の一発ぐらい覚悟しなければ、と、熱斗は自嘲気味に目を閉じる。
しかし、危惧した痛みは何時になってもやってこない、それが不思議で、熱斗がそっと目を開いて上を見上げると、其処には僅かに涙に濡れたメイルの顔があった。
どうやら、今度は熱斗が驚く番らしい。

「メ、メイルちゃん? どう、したの……?」

最初のメイルのように軽く目を見開いてそれが現実である事を必死に確認する熱斗がそう問いかけると、メイルは目尻に溜まった涙を服の右袖で拭った後に、その足を熱斗の居る場所に向けて数歩進め、熱斗の目の前に立った。
そして、その行動の意味が分からず先ほどのメイルのように茶色の目をパチクリさせる熱斗を、メイルは優しく、柔らかく、壊れやすい何かを護るように抱きしめた。
突然の抱擁に、状況を理解しきれない熱斗が、えっ、と短い声を漏らす。

「メイルちゃん? どうして……」

熱斗が、どうしてこんな事を、と問いかけようとした時、それまで黙って熱斗を抱きしめていたメイルが口を開く。

「ごめんなさい、気付かなくて……。」

メイルの口から洩れた言葉は罵倒でも叱咤でもなく、悲しげな謝罪だった。
それを聴いた熱斗は更に状況が理解できなくなり、軽い混乱へと落ち込んでいく。
何故今自分はメイルに謝られているのだろう? メイルは何か自分に謝らなければいけないような事をしていただろうか? いやそんな事は無いはずで、むしろ謝らなければいけないのは自分の方の筈で……そんな困惑もあったものの、小さな子供を護るように優しく絡められる腕の中はどこか居心地が良く、熱斗は返事をする代わりに自らメイルへと身体を寄せた。
頭上から、メイルの声が聞こえる。

「今まで寂しい思いをさせてごめんなさい……私はずっと熱斗の傍にいるから……だから……」

それが同情だったのか、それとも友情だったのか、はたまた恋情、更には愛情だったのか、その時の熱斗は考えてもみなかった。
とにかく、その腕の中が心地良くて、その言葉が嬉しくて、これがもしも夢なら永遠にこの夢を見ていたいと思うような、久しぶりに感じた温かさに、熱斗は浸る。
そしてメイルはそんな熱斗を護るように、温めるように、優しく抱擁し続ける。
やがてそれが橙色から薄い青色へとその色を変えた時、メイルは抱擁を解き、熱斗と改めて向き合った。
メイルが見た熱斗の顔からは空が橙色だった時の哀愁は薄れ、とても幸せそうな微笑になっている。
そして熱斗は自分もそっと立ちあがると、メイルに向けて微笑みながら言った。

「ありがとう、メイルちゃん。俺の話を聞いてくれて、そんなことまで言ってくれて……俺、嬉しいよ。」

熱斗がそう言うと、メイルも嬉しそうに微笑んでくれた。
それに熱斗は更なる喜びを感じ、久しぶりにあの新型ダークロイド出現前のような明るい笑顔を浮かべる事ができた。
メイルも安心したように明るさの見える笑みを浮かべる。
そうしてしばらく冷たい沈黙ではなく温かな静寂の中で見詰めあった後、ふと熱斗がまた何かに気が付いた様に窓のを外を見た。
外はもう、薄暗く濃い青色になり始めていて、この会議室も大分暗くなってきている。
それに気付いた熱斗は、会議の前に近くの机に置いた鞄を取り、背負って、メイルへ、

「暗くなってきたし、そろそろ帰ろうか?」

と問いかけた。
メイルは笑顔で頷き、自分の鞄を持ち背負う。
そしてメイルは歩きだす前に熱斗に向けて右手を差し伸べた。
熱斗は一瞬その意味が分からず、なんだろう? と言いたげな顔をしたが、すぐにそれが“手を繋ぎましょう”の意味だと気付いて、そっと自分の左手をメイルの右手に重ねる。
そうして手を繋いだ二人は同じ速度で同じように歩きながら窓とは反対側の自動扉をくぐり、この会議室を後にした。



その日の夜、熱斗はダークソウルのいる夢を見なかった。



そして翌日の朝である。

「熱斗くん! 朝だよ! 起きて!」
「んー。」

いつも通りの自宅、その中の自室の中で目を覚ました熱斗は、不思議とスッキリとした目覚めを迎える事ができた。
ロックマンの声も、遠くから聞こえて徐々に近くなるのではなく、最初からハッキリ聞こえてきて、何度も呼びかけられる前に現実世界の中でしっかりと目を開く事ができた。
見なれた天井をその視界に映した熱斗はすぐにゆっくりと上体を起こし、そのまま天井に向けて両手を伸ばして伸びをする。
すると身体の節々は起きたばかりだというのに気持ちが良い程順調にその稼働域を増やして、脳の覚醒を手伝った。
何故だかわからないが、今日は朝特融の身体の重だるさが無い。

「あ、おはよう熱斗くん。」

そんなこんなでストレートに目を覚ましたせいか、ロックマンも若干機嫌の良さそうな声で挨拶をしてきた気がした。
熱斗が机の上の充電器に置かれたPETに視線を向けると、ロックマンは楽しそうとまではいかないが不機嫌でもなく無表情というよりは少し穏やかな表情でPETの隣に立っている。
おそらく、普段は寝坊ばかりの熱斗が今日はそうなる事は無く、すぐに目を覚ましてくれた事が嬉しいのだろう。
熱斗はそんなロックマンに朝の挨拶をする。

「おはよう、ロックマン。」
「うん、おはよう。今日はなんだか元気そうだね。」

どうやらロックマンから見ても今日の熱斗は普段に比べて調子がよく見えるらしく、ロックマンは熱斗からの朝の挨拶に対してそんな感想を返してきた。
それが何だが嬉しくて、身体の奥が希望に充ち溢れる感覚がして、熱斗はロックマンにごく自然な笑顔を見せた。
それに反応するように、ロックマンも微笑する。
そんな事をしていると、下の階から母親であるはる香の声が聞こえてきた。

「熱斗ー、朝ご飯できたわよー!」

熱斗は、

「はーい!」

と大きな声で返事をすると、掛け布団をめくり、布団の中から脚を出して床に着け、そのままスッと立ち上がった。
その凛とした姿に眠気の二文字は似合わない。
そして熱斗は机の上のロックマンに、

「いってきます!」

と元気に声をかけると、軽い足取りでこの部屋と廊下を繋ぐドアまで進み、そのドアを開けて廊下へと出ていった。
部屋に残されてロックマンには熱斗のトントントントンという軽い足音が聞こえ、部屋を出た熱斗の背後にはロックマンの、いってらっしゃい、という声が残る。
そうして熱斗は階段を速足で駆け下り、廊下を通ってリビングへと入っていく。

リビングへ入ると、はる香は既に自分の席に着席した後で朝食を取りながらニュースを見ており、もう一つの空席には熱斗の分の朝食が準備されていた。
内容は昨日とあまり変わらずトーストと目玉焼きと少量のサラダで、熱斗は着席すると近くに置かれたマーガリンのケースに手を伸ばし、その中身のマーガリンをトーストに少量塗ってからトーストを齧った。
昨日と違って苛立たしげではないその齧り方に、はる香が安心したように微笑んでいる。
そして熱斗はふと、はる香が先ほどから見ているテレビ番組が気になって視線をテレビに向けた。
映っているのは淡泊過ぎず派手すぎないニュース番組で、最近ちまたにあふれている偽造ダークチップの被害を伝えている、それを見て熱斗はある事を思い出す。

そういえば、今日はあのダークソウルの夢を見ていない。

トーストを齧りかけたまま、テレビ画面に視線を向ける熱斗は、それを何故なのだろうかと不思議に思う。
昨日はあんなに粘着質に迫ってきたあのダークソウルなら、今日だって同じように自分に迫ってきてもおかしくない、それなのにそれが無かったという事は、もしかしてダークオーラの影響が自分の身体から消えたのだろうか?
もしそうだとしたら、今日は朝から体が軽いのもなんとなく納得がいくな、と考えながら、熱斗は齧りかけのトーストをしっかりと齧り、テレビから視線を外した。


その後、朝食を摂り終えた熱斗は着替えの前に顔洗いと歯磨きをする事を決めて洗面所に向かった。
洗面所の扉を開け中に入り、扉を閉めてから熱斗が一番に確認したのは鏡、つまり自分の顔である。
昨日、気分がどうしようもなく重かった時も確認した自分の顔、それが今日はどうなっているのか、大きな期待と僅かな不安を込めて熱斗は鏡を覗く。
鏡に映った熱斗の顔は、部品的には昨日となんら変わらなかったが、心なしか疲れや窶れが無く、自分で見ても昨日より元気そうに見える。
それを確認した熱斗は今日も自分は何時も通りで、むしろいつもより元気がある事にホッとしながら、水道の蛇口を捻った。
蛇口から溢れだす水を両手ですくって口元に近付ける、冷たい水は既に覚醒した意識に更なる覚醒を促して、熱斗はなんだか少しだけ爽やかな気分になる。
嗚呼、今日はもしかしたら良い一日になるかもしれない、等という希望的観測すら浮かび上がって、熱斗は口の端が自然と良い形で上がるのを抑えきれなかった。



それから熱斗は洗顔と歯磨きを済ませて一度自室へ戻り、着替えと鞄の準備を済ませるとまたすぐにPETと鞄を持って一階へと降り、そのままはる香に行ってきますの挨拶をしてから玄関を後にした。
扉を開いた途端に飛び込んでくる朝日は、今日はそんなに眩しくない。
玄関の扉をゆっくりと閉めながらそう思った熱斗は、もしかしたら先ほども思ったように本当に自分の中からダークソウルが消え、自分は光の中へと戻れたのではないかとも思い始める。
そして、だとしたら、これはメイルに感謝するべきなのだろうな、と、昨日の事を思い出しながら熱斗は考えた。
昨日のメイルとの会話、温かな抱擁と言葉を思い出し、何だか嬉しさがこみ上げてきた熱斗は小さく楽しげに思い出し笑いを零した。
そしてまだ笑みをかたどろうとしている表情筋をなんとか元に戻して、普段通っている道に視線を向け、目の前の階段をゆっくりと転ばないように降りようとした、その時、

「あれっ?」

熱斗の視界の中、自宅の敷地の端っこに、見なれた後姿が飛び込んできた。
紅色で肩までの長さの外跳ねの髪の毛、青くて袖なしのベスト、肩からのびるは水色のような緑のような不思議な色の袖、桃色のミニスカートに黒のニーソックス。
それは熱斗が先ほど思いだした相手、桜井 メイルそのもので、熱斗は、どうして此処にメイルちゃんが? と疑問に思いながら階段を下りた。
その足音に気付いてなのか、それまで車道の方や道の両端を見ていたメイルがくるりと振り返り、そして片手を軽く上げながら笑みを見せる。
階段を下る熱斗はそれを不思議な光景を目にしたような表情で見詰め、やがて階段を下り終えると一直線にメイルの隣へと駆け寄って、挨拶と共に問いかけた。

「おはようメイルちゃん、どうして此処へ?」

熱斗が問いかけると、メイルはいつもより少し楽しそうに、ちょっとだけ自慢げな笑顔を見せながら、

「一緒に学校に行こうと思って、迎えに来ちゃった。」

と言って、えへへと笑った。
熱斗は、メイルがどうしてそういうふうにしようと思っているのかを当てる事が出来ず困惑し、笑顔ではなく少し戸惑った表情でメイルを見詰める。
確かに、メイルと一緒に登校するというのは昔からよくある光景ではあったし、嬉しくない訳ではない、が、それは熱斗がメイルの家の前を通りかかる時に偶然メイルが家を出てきた場合に起こる事が多く、何故今日のメイルは急に此方の熱斗の自宅の前で待つ程の気合いを入れてそれを行いに来たのか、熱斗には分からない。
だから、嬉しいと言えば嬉しいけれど、不思議と言えば不思議、と言いたげな表情で熱斗がメイルを見ていると、メイルは熱斗のそんな疑問に気付いたのか、少し視線を伏せて自身の背後で腕を組み、僅かに寂しさを感じさせる表情になって、

「ほら、私昨日、“私はずっと熱斗の傍に居る”って言ったでしょ? それを一時の薄っぺらい慰めにしたくなくて……私は本気で熱斗の事を心配したのって分かってほしくて、だから……」

と、今日此処へわざわざ来た訳を熱斗に話した。
そしてメイルは伏せていた視線を上げ、熱斗の目を正面から見詰める。
久しぶりに他人から真っ直ぐに見詰められた事に少し驚いた熱斗は思わず一歩後ろへ下がりそうになるが、それを抑えてメイルの目を見詰め返した。
そしてメイルは僅かに沈黙を挟んだ後、改めて口を開く。
その表情には確固たる意志の力が宿っている。

「だから、今日から私、少しでも多く熱斗の傍に居ようって、決めたの! それが私が此処に来た理由。ね?」

そしてメイルは熱斗に微笑みかけ、右手をそっと熱斗の目の前に差し出した。
熱斗は黙ったままメイルの顔と右手を交互に見る。
これは、昨日のように手を繋ごうという事なのだろうか、と思って熱斗が自分の左手をメイルの隣に立てる方向で差し出し返すと、メイルは嬉しそうに頷いてその手をとりゆっくりと歩きだした。
それに引かれるようにして、熱斗も学校へ向けていつもの通学路を歩きだす。
熱斗は少しの間それに戸惑いを感じていたが、しばらく歩くうちに戸惑いよりも、メイルが自分を気にかけてくれている、メイルの視界には自分がしっかりと映っている、メイルの意識にはちゃんと自分――熱斗の存在がある事の嬉しさが膨らんできて、熱斗は徐々に戸惑いを忘れ、ただ純粋にメイルとの登校を喜ぶ気持ちの方が大きくなっていった。

昨日と一昨日は独り寂しく歩き、またそれを振り払うように駆け抜けた道を、今日はメイルと共に優雅とも思えるほど落ち着いて、歩く。
住宅街は相変わらず静かで、たまに出勤途中のサラリーマンとすれ違う程度の人通りしか無い。
二人はそんな住宅街を歩いて抜け、やがて大通りに出た。
大通りに出ると途端に人通りが増え、出勤途中のサラリーマンやOL、通学中の中高生の姿などが増えてくる。
その中には熱斗やメイルと同じ小学生の姿もちらほら見受けられて、熱斗はやや無意識に、その一方で何処か意識的に、メイルと共に歩きながらも周囲に流れる人混みのその一つ一つを見まわした。
やがてそんな熱斗の行動に、隣で手を繋いでいるメイルが一昨日のロックマンの代わりであるかのように気が付く。

「熱斗、どうしたの?」
「えっ?」

メイルに声を掛けられて、熱斗はそこで初めて自分が知らぬ間にこの人混みの中に他の仲間達――例えばデカオ、あるいはやいと等の姿を探していた事に気が付いた。
昨日一昨日もやっていた事とはいえ、それをロックマンやメイルといった自分以外に気付かれるとどう説明していいものか分からない。
いや、説明自体はできるはずなのだ。
何故なら、一昨日同じように周囲を見回し、それをロックマンに不思議がられた時はその訳を説明できたのだから。
だからメイルにも同じような説明をすればいい、それは分かっている、分かっているのに説明できない、その訳は、

「俺、どうかしてた?」

きっと、それを説明したらメイルに失礼になってしまうのではないかと思ったからだ、と、熱斗は説明を躊躇う自分の心に答えを出した。
昨日と一昨日は自分の近くには誰もいなかったけれど、今日はメイルが隣にいてくれている、だからそれ以上を望むなんて事は、今、隣にいてくれるメイルに失礼ではないか、と熱斗は考える。
だから熱斗は、自分が周囲を見回していた事や、周囲を見回しながら他の仲間の姿を探していた事、それらを全て誤魔化すように、自分は何もしていない、何かしていたとしても無意識だったと言いたげな返事をする。
メイルは、そんな熱斗を僅かに疑うような視線で見たが、しばらくすると、熱斗がそういうならそれでもいいとでも思ったのか、前方に向き直った。
その流れに熱斗はホッと安堵しながらも、少しだけ寂しいもの――もっと気にして、もっと追及してもいいのに、という安堵とは矛盾した感情が湧きあがるのを感じ、メイルの手を握る左手に僅かに力を込めた。
それに気付いたメイルが再び熱斗に視線を向ける。

「熱斗?」

どうしたの? と言いたげなその視線に、熱斗は視線を合わせず、前を向いたままで、

「なんでもなーい。」

とだけ答えた。
メイルはしばらく、何か不思議なものを見るような目で熱斗を見ていたが、やがてやはり熱斗がそれでいいならそれでいい、とでも思ったのか、不思議なものを見るような視線をやめ、前方を向いた。



そうして大して中身のある会話も無いまま、手だけはしっかり繋ぎながら、熱斗とメイルは太い車道に面した大通りを抜け、学校付近の住宅街へと入りこんで行った。
熱斗やメイルの家から少し離れたこの住宅街は、大通りに比べれば静かではあるものの、小学校の近くというだけあって子供の通行量は多い。
それは今日も例外ではなく、何人もの下級生、たまに同級生が熱斗とメイルの脇をすり抜けて秋原小学校へと向かって歩いていく。
嗚呼、そういえば、昨日と一昨日はこの道も一人で歩いたのだったか、と、熱斗は何かのデジャヴでも感じるかのように急激に思いだした。
走って走って息が乱れた一昨日、一昨日よりはマシだったけれども寂しさを痛感した昨日、その記憶が熱斗の脳裏を駆け抜け、その胸に僅かな痛みを残す、が、左手に感じる温かさが、今日はその寂しさとは無縁である事を教えてくれる。
だから、

「メイルちゃん。」
「ん? なぁに、熱斗。」

熱斗はメイルの名を呼び、自然な笑顔を浮かべるとメイルに視線を向けて言う。

「ありがと、一緒に来てくれて。」

熱斗から急に礼を言われたメイルは、一瞬きょとんとして状況を理解するのに時間を要したようだったが、数秒後には熱斗の礼の意味を理解できたのか、自分も微笑んで、

「どういたしまして。」

と言った。
その一言と柔らかな微笑に、昨日まで寂しさに取り殺されそうだった熱斗の胸にはこれ以上ない喜びが広がり、熱斗はそれまでの寂しさが全て癒されていくような温かさを感じる。
本当に、本当にメイルは自分を、熱斗を見てくれているのだ、そう思うと良い意味でどうにかなってしまいそうな胸の高鳴りを感じ、それを隠すように熱斗は前方を向いた。
それでも隠しきれなかった笑顔のその横顔を見て、メイルも今自分は熱斗の為になる事をできているのだと感じ、満足するのである。

やがて二人は住宅街を抜け、いよいよ学校の手前、という所までやってきた。
やや広い公園と、その中央の噴水が見えてくる、この噴水を越えればいよいよ秋原小学校の正門が生徒達を待っている。
そろそろ学校に到着する、それに気付いた時に熱斗は、もう一つの異変に気が付いた。
まるで先ほどの自分のように、メイルが周囲の様子をキョロキョロと窺っている。
先ほどまで真っ直ぐ前方を向いていたメイルが何故急に周囲を気にし始めたのか、それが気になった熱斗はメイルに問いかける。

「メイルちゃん? どうしたの?」

熱斗が問いかけると、メイルは少し困ったような、そしてそれを誤魔化すような顔で熱斗に視線を合わせ、えっと、と何か言い訳でも探すかのように呟く。
それを熱斗が不思議なものを見るような目で見ていると、メイルは散々悩んだ末に少し申し訳なさそうにゴニョゴニョと小声で、

「えっと、学校の中でまで手を繋いでたら変な噂になっちゃうかなぁ、って……」

と言った。
そう言われて、熱斗も、あっ、と何か――そう言えば家の前から今この瞬間まで、ずっと手を繋いでいたのだった、という事実を思い出し、その事実が校内でもたらすかもしれない結果を考え、少しだけ苦い顔をした。
しかし熱斗の苦い顔は、メイルの苦い顔とは少し別の意味を含んでいる。
メイルがそれに気付く様子はなさそうだが。
ともかくそろそろこの仲睦まじい登校のし方も終わりにしなければいけないのかと、熱斗は少し残念に思う。
この手の温かさが自分に寂しくない時間を与えてくれたのだと考えると、それを離してしまうのは寂しさの再発に直結している気がするのだ。
……とはいえ、このまま校内に入って同級生達からからかわれるのはあまり気分の良いものではない。
熱斗はどうするべきかしばらく悩んだ末、

「じゃあ、正門に着いたら離そうか。」

と少し名残惜しそうに言った。
うん、とメイルが同じく少し名残惜しげに頷く。
それを見た熱斗はメイルも自分と同じように名残惜しさ――寂しさを感じているのだと思い、それを埋めたい一心で、

「だけど、」

と続け、

「教室まで一緒に行こうか。」

と言った。
熱斗のその言葉に、メイルは何かハッとしたような視線を向けた後、やはり先ほどのような笑顔になって、

「えぇ、そうしましょ!」

と嬉しそうに答えるのであった。
明るい同意に、熱斗の気分も少しだけ持ち直す。
そして、嗚呼こんなにも快く同意してくれる相手ならば、少しぐらいおかしな噂になっても自分は構わないかもしれない、等という気持ちが湧き上がるのを感じながら、熱斗は同級生とすれ違わない事を願いつつメイルと共に正門へと足を進める。
一歩、また一歩と正門に近付く度、熱斗は自分の中にある、メイルと離れたくないという思いを自覚する。
何故なら、このただ無情に広いだけの世界の中で、今この瞬間熱斗の事を視界に入れてくれているのはメイルだけなのだから。

それでも時間は止まらず、二人の足も止まらず、遂に二人は正門の目前に立った。
熱斗はその瞬間メイルの手から力が抜けるのを感じ、それに僅かな悲しさを感じながら自分もメイルの手を握る左手に込めた力を抜き、結ばれていた紐が自然と解けるかのようにその手を離す。
手が解けたその瞬間、熱斗はそっと左を向き、メイルの表情を窺った。
メイルはその顔に、少し寂しげな淡い微笑を浮かべている。
それを見て、もしかしたらメイルも本当は手を離したくなかったのではないか、と少し自信過剰な事を考えた熱斗は、咄嗟にメイルの名を呼んだ。

「メイルちゃん!」
「え、何?」

いきなりやや大きな声で名前を呼ばれたメイルは少し驚いた様子を見せながら足を止め、自分の右に立つ熱斗に振り向いた。
熱斗もその隣でザッと靴底で砂利の擦れる音を立てながら足を止める。
メイルを呼んだ熱斗と熱斗に呼ばれたメイルの視線が正面からぶつかり合う、その中で、熱斗は名前を呼んだはいいものの何を言うか決めていなかった事を後悔し始めていた。
本当に、咄嗟の判断で名前を呼んでしまっていて、何を話すかまでは決めていなかったのだ。
ただ、今、自分がメイルの近くに居る事、メイルが自分の近くに居る事を実感したくて――と、そこまで考えた熱斗は、それならもっといい方法があるではないかと気付き、メイルに尋ねる。

「あのさ、その……よかったら今日の放課後、一緒に遊ばない? 場所は俺の家かメイルちゃんの家で。どう?」

学校であまり近くに居てはおかしな噂が立ってしまう、それなら学校以外の場所で近くに居れば良いではないか! と考えた熱斗はメイルを放課後の個人的な遊びに誘った。
メイルはそんな熱斗からそういう言葉が出ると思っていなかったのか、もしくは今この瞬間そういう言葉が出てくる事を予想していなかったのか、一瞬僅かに目を見開いた後、しばし考え込むような表情を見せる。
おそらく、今日は他に外せない用事があったかどうかを考えているのだろう。
そんな些細な沈黙が、熱斗の胸を様々な不安で締め付けつつ、大きな期待でその鼓動を速める。
もしも他に用事があって断られたらどうしよう、もしくはまたやいとやデカオが先約としていたらどうしよう、昨日も一緒に居たでしょと言って断られたら、ああでも“あんな事”を言ってくれたメイルならもしかしたらOKの返事を出してくれるかもしれない。
そんな色々なパターンを脳内で想定しつつ激しい緊張の中で熱斗は答えを待つ。

「……そうね、今日は何も無いし、良いわよ、遊びましょ。」

しばらく考え込んだ後のメイルの言葉と笑顔は、幸いにも熱斗の期待にしっかりと寄りそうもので、熱斗はしばし嬉しさのあまり状況が飲み込めずやや呆然とした後に、それが自分の願いが通ったという状況である事を理解して、思わず右腕だけのガッツポーズを決めた。
柄にもなく、という訳ではないが、普段からかわす事が多いであろう友人との放課後の遊びの約束に異常な程の歓喜を示した熱斗を見て、メイルは何か面白い物を見たかのようにクスクスと笑う。

「熱斗、そんなに嬉しい?」

メイルにそう聞かれて、熱斗はハッとして姿勢を元に戻した後、自分の過剰な喜び方が少し恥ずかしくなって視線を地面に落した。
そして地面の上にある自分の足とメイルの足を見詰めながら、過剰な喜び方を悔いつつも未だ喜びを隠しきれないといったあまり落ち着かない様子で言い訳を並べてみる。

「だ、だって久しぶりなんだもん、こんなふうに友達と遊ぶ約束するのって……」

熱斗がそんな言い訳を並べると、メイルは一瞬、えっ? と言いたげなキョトンとした顔になった。
それを見て熱斗は、自分は何かおかしなことを言ったのだろうかと不安に思い、此方も、えっ? と何かを無言で訊き返すような表情になる。
お互い今の言動に何か違和感が拭えないと言いたげな顔で見詰めあった後、メイルが少し笑いながら口を開く。

「久しぶりって、そんなでもないじゃない。昨日だって一昨日だって、約束はしたでしょう? それに、入院前だって一緒に遊んでたじゃない。」

おかしな熱斗ね、と付け加えながら、メイルはクスクスと小さく笑った。
しかし熱斗はそれに対して、あぁそうだな、等と言いながら笑う事はできなかった。
暗い海の中にでも落下するような感覚が熱斗を襲い、目の前の事が認識しきれなくなる。

確かに、日数でいえばそんなに久しぶりではないのかもしれない。
昨日は科学省でといえどメイルと共にいたし、一昨日やその前は途中で帰ってしまったけれど皆の中の一応は入っていた。
けれど、違う。
確かにそれらは約束の中の一つではあるけれど、今自分が言ったような、友達とする遊びの約束とは違うのだ、と、熱斗はひそかに反論を抱く。
昨日はまだ今日に近いかもしれない、けれど、少なくとも一昨日は違う、それだけは断言できると熱斗は思う。
一昨日は、自分が約束を持ちかけたのはメイルだけであって皆ではないし、結局既に約束されていた“自分以外の皆”の約束に追加で入れてもらっただけである。
しかも、追加でついて行ったはいいものの、その一日前の約束に参加をしていなかった事が仇となり、自分はその輪の中に上手く入る事が出来なかった。

だから違う、昨日はまだしも、一昨日は絶対に違う、と、熱斗は明らかにプラスとは言えない方向で、自分が今の約束を“久しぶり”と思った訳を考え、笑顔とは程遠い苦みと不機嫌の混ざった表情でメイルを見た。
その表情に気付いたメイルが小さな笑いを止める。

「……熱斗?」

目の前で何が起こったのか、熱斗は今何を考えてそんな表情をしているのか、それが分からないメイルはキョトンとした表情を浮かべた後、少しだけ心配そうな陰りをその表情に混ぜて熱斗に呼びかけた。
だが熱斗は何も答えようとはせず、ほんのりと薄暗く神妙な表情でメイルを見詰めるのみ。
その沈黙が物語るものはメイルの言葉への反論なのだが、当たり前かもしれないがメイルにはその反論を察する事はできず、メイルができる事はただその心配そうな表情で熱斗の視線を正面から受ける事だけだった。
どうして熱斗は一緒に笑ってくれなかったのだろう、どうして熱斗はこんなに真剣な表情で動きを止めているのだろう、そしてそれが意味するものは何なのだろう、メイルには分からない。
その事を察してか、それとも単に口にせずにはいられなくなっただけなのか、しばらく見つめ合った後に熱斗が僅かにその唇を動かして何かを言おうとした、が、その途端、ホームルーム開始十分前を知らせるチャイムが軽快に鳴りだし、その言葉をかき消した。
メイルがぼそりと、

「あ、チャイム……」

と零して、校舎に取り付けられた時計を見る。
熱斗も、前にもこんな事があったような気がすると思い出し、自分が思っている事をメイルに伝えられなかった事にやや落胆しながらも時計を見た。
時計の針は確かにホームルーム開始の十分前を指している、それを確認して、熱斗は一つ溜息を吐いた後、表情を少し寂しげな笑顔に変えてメイルに言う。

「そろそろ教室に入らないとな、行こう。」

そう言って熱斗は足を止めた時と同じように校庭の砂利でザッと音を立てつつ、校舎のほぼ中央にある昇降口への歩みを再開し、メイルが立っている場所から離れ始めた。
熱斗が歩きだしたのを見て、メイルも焦ってその後ろ姿を追うように歩きだす。
その僅かな距離は手を繋いで歩いていた先ほどまでには無かった、心と心の距離感そのもので、熱斗はメイルと離れてしまった実感に、先に歩きだしてしまった自分の行動を僅かに後悔する。
斜め後ろにメイルの歩く気配、足を音を感じつつ、熱斗は昇降口へ向けて歩く。

視線の先に見えてきた昇降口は、気が付けばもう人が少なく、熱斗以外には二、三人しかその姿を確認できない。
しかも多くは下級生ばかりで、同級生の姿はない。
それを見て熱斗は、嗚呼、これならいっそ、手をつないだまま此処まで来ても良かったな、と、再び後悔するのであった。
背後で、メイルも昇降口に着いた気配がする。
熱斗はそこでようやく背後を振りかえってその存在を目で確認した。
するとメイルもそれに気付いたのか、僅かに、あっ、とでも言いたげな、何かを言いたそうでしかし何かを躊躇っている視線を熱斗へ向ける。
そしてメイルは僅かに開いた熱斗との距離を詰めて熱斗の隣に立つと、急に浅く頭を下げた。
熱斗が、えっ? と言いたげに驚くと、熱斗がそれを疑問として口にする前にメイルが口を開いた。

「ごめんなさい、私、何か気に障る事を言ったみたいで……。」

突然の謝罪に熱斗はかけるべき言葉が見つからず、ただ呆然としてメイルの行動を見守ることしかできなかった。
やがてメイルは不安そうな表情で顔を上げ、正面から熱斗を見詰める、その不安に揺れた目に、熱斗は思う、そんな目をさせたい訳ではない、メイルにはもっと笑顔でいてもらいたい、その方が自分も楽しい、と。
だから熱斗は首を小さく左右に振って、それから少し申し訳なさそうな笑みを見せながら、

「ううん、俺こそ急に黙っちゃってごめん。別に変に気に障ったとかいう訳じゃないから、気にしないで、ね?」

と言った。
本当のところを言ってしまえば、この言葉は大嘘と言わざるをえない所があるが、それでも熱斗はこの時メイルに笑ってほしかったのだ。
だから、本音はまだ自分の中に隠しておくことを決めて、メイルには大丈夫だとよ笑いかける。
するとメイルはそんな熱斗の態度に少しだけ安心したのか、その表情をふっと和らげ、微笑みとまではいかないまでもやや穏やかな表情になって熱斗に視線を向け直した。
それを見て熱斗も一応安心し、ホッと胸を撫で下ろす。
そして熱斗はメイルの肩を軽くポンポンと叩くと、

「じゃあ教室行こっか。」

と言ってまた一足先に歩きだした。
今度はメイルもほとんど遅れず一歩違い程度のタイミングで歩きだす。
そして二人は昇降口を後にし、近くの階段をのぼりはじめた。
目指すはもちろん、六年生の教室が並ぶ階である。
9/15ページ