あの子の足元にも影はある
その後熱斗は、学校にはいたのにホームルームに遅刻するという少し不思議な形の遅刻をする事となった。
無論、担任のまり子は生徒の状態を把握する為に、一体何があってそうなったのかと熱斗に訊いたが、熱斗は手洗いに行っていたら遅くなってしまったという嘘を吐きながら笑ってみせて、まり子にそれを信じさせた。
幸い、本当の訳を一部とはいえ知っている三人はその嘘に反論しようとはしなかった。
其処からはまるで何事もなかったかのようにホームルームが始まり、熱斗は困っている事など何も無いと言う代わりに真っ直ぐまり子に視線を向けていた。
その横でメイルが熱斗にチラチラと視線を向け、何時悩みの訳を訊こうかと悩んでいた事を、熱斗は知らないし、知ろうともしなかった。
同時に、熱斗がそのなんでも無さそうな態度の裏側で、教室に入った瞬間から周囲の視線に恐怖を覚えていた事を、メイルは知らない。
そしてそのまま時間は流れ、気付けば一度目の休み時間が訪れていた。
熱斗は昨日同様外に出る気力が出ず、筆記用具やノートを鞄の中に仕舞うと席を立つ事はなく、そのまま自分の机の上に両腕を置き、その上に顔を伏せた。
腕と机が作る僅かな隙間、その中で熱斗はようやく必死に貼りつけていた無表情という仮面を外し、盛大に長い溜息を吐く。
本当に、本当に怖かったのだ。
まず、教室に入ったその瞬間、当たり前ではあるがまり子を含むクラス全員の視線が自分に向けられた時は、逃げてしまおうかと思う程だった。
その後も前方の席からチラチラと送られる興味本位の視線が痛くて、何度視線をまり子から机の上に移動させようかと考えたものだ、と熱斗は朝の事を振り返る。
今まで何でもなかった、遅刻した自分を笑う視線が、何故か今日は酷く怖くて、熱斗は必要以上に自分の精神力が消耗していくのをずっと感じていたのだ。
それでも一時間目の中盤から二時間目になる頃には自分へ振り返る視線も無くなり、少しはマシになったなと熱斗は思う。
腕に額をつけるように机に伏せたまま、熱斗はこのまま目を閉じて次の授業まで寝ていようかと考えた。
とにかく怖くて、その分疲れてしまったその疲れが、休み時間という解放感と同時に一気に襲ってきたのだ。
それに、このまま目を開けて顔を上げた所で、また昨日のように大した事でも無い事に苛立ってしまう気がしなくもない。
それならいっそ全てを遮断した方が、と考えた時、熱斗の脳裏に正に全てを遮断したあの世界のイメージが駆け抜けた。
誰が何をしてきた訳でもないのに悪寒のような震えが全身を駆け抜ける、その不安の意味を、熱斗はやっと思い出した。
――駄目だ、眠ったらまた、アイツに会うかも……。――
永遠の黒、何処までも闇だけが続き、他の全てを遮断したようなその夢を思い出し、熱斗は眠る事を諦め、ゆっくりと顔を上げ、周囲を見回した。
教室の中を見回すと、そこには昨日とは違う生徒が数人、自分の席に着いてそれぞれしたい事をしている。
昨日騒いでいた煩い女子達はいない、迷惑をかけてしまった男子達も居ない、その事に安心した熱斗は視線を机の上に戻して小さな溜息を吐く。
とりあえず今日はこのまま静かにしていよう、そう思った熱斗がもう一度顔を伏せようと腕を机に置いた時、
「熱斗。」
ふと聞こえた自分を呼ぶ声に気付いて、熱斗は伏せかけた顔をすっと上げて周囲を見回した。
そして教室の前方の扉の場所に視線を向けた時、そこに見なれた少女がいる事に気付く。
――今俺を呼んだのって、メイルちゃん?――
突然自分を呼んだその声は確かに男子のものではなく女子のものだったと感じていたが、それがメイルだとまでは予想していなかった、そんな熱斗が少し驚いたような顔でメイルを見ていると、メイルは教室の前方の扉をくぐり抜け熱斗の席へと少しずつ近寄ってきた。
教卓を通り過ぎた辺りでメイルが熱斗に再度声をかける。
「熱斗、突然ごめんね。」
「え、あぁ、別に良いよ。」
突然の訪問に確かに熱斗は驚いていたが、不思議と恐怖は感じなかったので普通に返事をする事ができた。
そんなありふれた事実に少しだけほっとして、熱斗は自嘲混じりに小さく笑う。
メイルは教卓を過ぎるとそのまま熱斗の席に近付き、その隣の自分の席に着席した。
それを半分は不思議に、もう半分は普通に思いながら、今度は熱斗がメイルに問いかける。
「んで、何の用事?」
熱斗が問いかけるとメイルは少し躊躇うような視線を自身の足下に落した。
熱斗はそれの意味が分からなくて何か不思議な物を見るような顔でメイルを見る。
メイルはしばしの間そのまま動かなかったが、やがて言いたい事がまとまったのか、足下に落していた視線を熱斗に向けた。
熱斗の視線とメイルの視線が正面からぶつかる、その事実に熱斗は多少驚き、自然と僅かな緊張を感じる。
一体メイルは何を言おうとしているのだろう、そんなに躊躇うような内容なのだろうか? そう考えると少しだけ怖くて、この妙な沈黙が早く終わる事を熱斗は祈る。
そして次の瞬間、メイルは何かを覚悟したように口を開いた。
だが、
「あの、今日の放課後、空いてるかしら?」
それは恐ろしさの欠片も無い言葉で、本来なら重い覚悟などいる筈のない質問で、何か恐ろしい事を言われるのではないかと身構えていた熱斗は、その質問の普遍性に一瞬戸惑い、
「えっ?」
と、やや間抜けな声を漏らした。
そうして正に意表を突かれたと言いたげに呆然とする熱斗へ、メイルはやはり躊躇いと緊張を含んだ声でもう一度、
「だから、今日の放課後、空いてるかしら? ……って。」
と繰り返した。
その普遍的な言葉の為にメイルが何故緊張しているのかを読み切れなかった熱斗は、その言葉の意味を真っ直ぐ受け止めきれずやや戸惑う。
メイルはいきなりどうしたというのか、何故自分はいきなりそんな事を訊かれているのか、熱斗には分からない。
しかし、そんな戸惑いの奥で、熱斗はその問いかけの後に続くであろう言葉を無意識に予想し、無意識のうちに僅かな期待を抱き始めていた。
それが表層意識へと届いた時、熱斗は、例えこの後に何があっても少しは時間が取れるという事にしないといけないと感じ、少し緊張しながら答える。
「えっと、今日は科学省に行く用事があるんだけど……そこでもよければ、その後なら。」
そう、実際の所、今日は空いていると表現できる日ではなくて、むしろ用事があると表現せざるをえない日なのだが、それでも熱斗はメイルが続けてくれるであろう言葉を期待して、今日を空いている日だと表現した。
熱斗の答えを聴いて少し考え込むようなしぐさを見せたメイルに、完全に空いている日でなければ断られてしまうだろうかという不安が熱斗の胸を過る。
そして不安は徐々にその形を変え、そもそも遊びの誘いとは限らないではないのではないか、という懸念を生みだし、更には、自分が遊びに誘われる訳など今更無いのでは、という諦めに変わる。
そうすると何故メイルはこちらの予定を訊いてきたのか、それは不明になってしまうが、熱斗は内心、期待を諦めで必死に塗りつぶし始める。
期待した後の失望が一番怖い、一番痛い、一番苦しい、それを熱斗は無意識の内に解っていたのかもしれない。
そうして半ばあきらめながらメイルの返答を待っていると、メイルは何かを一人で納得して何度か頷いた後、熱斗に向き直って答えをだした。
「じゃあそこでいいわ、一緒に行っていいかしら?」
「……えっ? あ、あぁ、うん、分かったよ。」
此方を覗きこむようにして小さく首をかしげながら問いかけ返してきたメイルに、今日は結局断られるのだろうなと思っていた熱斗は一瞬返事ができなかった。
そして状況を飲み込んだ後に慌てて肯定の返事をすると、メイルはほんのり微笑して小さく頷いてくる。
その微笑はまるで何かに安心したからの微笑みに見えて、熱斗は頭上に疑問符を浮かべたような、何か意外な物を見るような表情でメイルを見つめ返すことしかできなくなる。
そうしてお互い無言で、それぞれ別の思惑を抱えながら見つめ合っていると、メイルの方が先に何かに気が付いたように、あっ、と声をもらしながら視線を逸らした。
熱斗はそれを少し残念に思いながらメイルへ尋ねる。
「どうしたの?」
するとメイルは席を立ち、椅子を机の下に仕舞いながら答えた。
「私やいとちゃん達との遊びから抜け出して来てたの、そろそろ戻らなきゃ。」
「あ、そう……。」
その時、メイルの答えに短い返事しか返せなかった熱斗の、その返事の声が僅かに元気を失っていた事には、メイルは気付かなかったようだ。
そしてメイルは机の下に椅子を仕舞い終えると、熱斗に軽く手を振って見せ、
「また後でね。」
と言ってその手を下ろしてから席を離れ、教壇の前を通り過ぎて、前方の扉から教室の外に出ていってしまった。
一人取り残された熱斗に、再び静寂が舞い戻る。
その静寂の中で熱斗は、今の一連の会話を脳内で改めて整理し始めた。
突然名前を呼ばれて何かと思ったら其処にはメイルがいて、言われた事は“今日の放課後、空いてるかしら?”だった。
その後自分が、科学省に行く用事があるがその後なら空いていると言うと、メイルは一緒に行っていいかと訊いてきた。
これはつまり、メイルの方から熱斗を遊びに誘ってくれたと考えていいのかもしれない。
メイルが自分を遊びに誘ってくれた、そう考えるとどこか身体の奥で何かが不思議な力を持つような、少しワクワクと浮ついた気分になって、熱斗は久しぶりに自分は独りではないのかもしれない、皆の意識の中にしっかりと存在しているのかもしれないという実感を持った。
とはいっても、今回声をかけてきてくれたのはメイルだけであるし、そのメイルも数十秒前にはやいと達との遊びの途中だったからと言って何処かへ行ってしまった。
それは多分校庭なのだろうと思った熱斗は静かに席を立ち、窓際へと歩み寄ると、窓から校庭を見降ろす。
すると思った通り、校庭の真ん中あたりにメイルとやいと、更にはデカオと透の姿があった。
ふと、冷たい空気が自分の中を吹き抜けるような感覚が走る。
校庭を見降ろす際に偶然手をついた冷たい窓ガラスはまるで自分とメイル達を分ける壁の様。
壁の外、陽の光のあたる場所で自由に駆け回るメイル達を見て、熱斗は自分が陽のあたらぬ場所の中で徐々に凍えていくイメージを脳内に浮かべる。
手を着いたガラスは依然冷たく、熱斗の手から僅かに体温を奪う、それに気がついた熱斗は、このガラスが実は固い氷で自分の手も凍らせようとしているのだというイメージを脳内に過らせた。
冷たい。
その感覚が嫌になって、熱斗はガラスの窓から手を離す。
「熱斗くんは、外にはいかないの?」
手を離してからもぼんやりと外を眺めていると、突如左肩の上から少年の声がそう言った。
どうやらロックマンが熱斗の様子を気にして現実世界を見に来ていたようだ。
熱斗は僅かに顔を左に向けてそれを確認すると、ゆっくりと視線を窓の外に戻しながら呟くように答えた。
「俺は……いいよ……。」
どうしてかは分からないが、今の熱斗には自分があの陽のあたる場所で元気に駆け回る姿を想像する事が出来ず、また、元気に駆け回りながら友達と少しの言葉を交わす様子も想像できなかった。
それどころか、今すぐこの教室を出て階段を駆け下り、昇降口から外に出て、自分も仲間に入れて欲しいと頼む姿すら現実的に想像できない。
それに、そんな事よりも、今日は何もせず静かに過ごしたいという思いが勝って、熱斗は窓ガラスに背を向けると自分の席へと戻り、離席時と同じように静かに着席し、机の上に腕を置くとその上に額を乗せて顔を伏せる。
それから三時間目開始のチャイムが鳴るまで、熱斗は一度も顔を上げはしなかった。
そして放課後、熱斗は普段のように筆記用具やノートを鞄に入れ、帰り支度を整えていた。
と、そこへ、その隣の席で熱斗と同じく帰り支度を整えているメイルが声をかけてくる。
「熱斗、科学省へは直接行くの?」
メイルからの問いかけに、熱斗は、昨日とは逆の展開だな、と思いながら答える。
「あぁ、このまま学校から直接だけど、そっちは平気?」
「えぇ、大丈夫よ。」
熱斗よりも一足早く帰り支度を終えたメイルは、鞄を背負い微笑みながらそう答えた。
それを見て熱斗は、早く帰り支度を済ませなければメイルに迷惑がかかるかもしれない、と焦る。
それは、無視意識の内に置いてけぼりの恐怖を感じていたからかもしれない。
そうして熱斗が焦ると、その姿を見るメイルは着席したままクスクスと笑って、
「そんなに急がなくてもいいわよ。」
と言った。
しかし熱斗はそれを真に受けて手の動きを緩めるような事はせず、急いでノートと筆記用具を鞄に押し込むと鞄のファスナーを閉め、席を立って鞄を背負う。
「よしっ、準備完了!」
そして帰り支度が済んだ事を少し大袈裟な言い方でメイルに伝えると、それを見たメイルも追いかけるように席を立ち、椅子を机の下に仕舞う。
熱斗もそれを見習って椅子を机の下に仕舞った。
「じゃあ、行きましょっか。」
その声に反応して、熱斗は小さく一度頷く。
そして、今日は自分が案内役だと言わんばかりに先に歩きだし、教室の前方の扉を目指した。
背後にはしっかりメイルの足音が聞こえる。
熱斗はこの足音から離れすぎないように気をつけて歩こうと思い、歩く速さを普段よりも少しだけ遅いものにした。
そして、自分の足音、教室のざわつき、それらに混じって聞こえるメイルの足音に耳を澄ます。
背後に足音を感じながら教室を出て、廊下を進む。
廊下は声によるざわつきは教室程ではなかったものの、代わりに足音が教室よりも多く、熱斗はメイルの足音が捕らえにくくなる事に若干の不満と不安を感じた。
もしこのまま、背後と前方の関係のままはぐれてしまったらどうしよう、そう思うと今すぐにでも後ろを振り向いてメイルの存在を確認したくなる。
しかし、後ろを振り向いてメイルを確認できたとして、そこで、どうしたの? などということを聞かれたら、熱斗はそれに答える術を持っていない。
それを思うとどうにも後ろを向く事に緊張感が伴って、この足音さえ聞こえているなら大丈夫なのではないかと思いたくなってくる。
どうしよう、一度振り向いて様子を見てみようか、それともとりあえず昇降口までは我慢しておこうか、どちらにするべきなのかと熱斗が悩みながら歩いていると、メイルが急にその足音を速めて熱斗の背後から熱斗の隣へと自分の立ち位置を変えてきた。
それに気付いた熱斗が、あぁ良かった、ちゃんと居てくれた、と思ったそれとほぼ同時に、メイルは口を開く。
「ねぇ、科学省に行くって事は、また新しい脅威への対策会議?」
それはメイルにとっては大した事のない普通の会話で普通の一言であっただろうが、熱斗にとっては様々な事を思い出すのに十分すぎる言葉であった。
新しい脅威――新型ダークロイドと新型ダークチップ、そしてそれをバラ撒く新しいテロ組織、この三つには熱斗も散々苦労をかけられている。
だから、
「うん、そうだよ。」
メイルの問いに短く答えながら、熱斗はふとその新たな脅威についての今までの記憶とそれに伴う様々な感情を思い出し始めた。
あのキャッシュデータの暴走事件以来、しばらくの間は平和という静寂が保たれていたこの国にいきなり訪れた新たな驚異――新型ダークロイドによる国内襲撃に、熱斗は様々な理由で憤りを感じているのだ。
この国の電脳世界の平和を守る者として、その平和を破られたことへの怒りは勿論だが、個人的に怒りたい事も沢山ある。
キャッシュデータの暴走の終息後、しばらく安定した日々を過ごしていた父親の祐一朗はまた忙しく科学省の中を駆け回るようになり、自分は昼夜を問わず状況も問わず戦いに引きずり出されるようになってしまった。
オマケに戦い以外にも新型ダークチップの取り締まり及び注意喚起といった行動にも多く出動させられ、心身共に疲れきっていつもの生活に戻ってみれば友人たちとの繋がりは希薄になっているという始末だ。
本当に、本当にいい迷惑だと熱斗は思う。
「……熱斗?」
メイルの問いに答えた後にしばし黙って考え込みながら歩いていた、そんな熱斗を不審に思ったのか、メイルが急に熱斗の名を呼んできた。
その声で熱斗の意識は急激に現実に引き戻され、熱斗は少し驚きながら声のした方向、自分の隣で自分と同じように歩くメイルを見た。
熱斗がメイルの表情を見てみれば、メイルは何かを不安に思っているような、あまり明るくない表情をしている。
何故メイルがそんな表情をしているのか分からない熱斗は訊いた。
「えっ、と……どうしたの?」
するとメイルは今度は少しだけ怒っている様な、けれどやはり何処か不安そうな、そんな不思議な表情になって、
「どうしたの、じゃないわよ。熱斗こそどうしたの?」
と言う。
自分こそどうしたのかとはどう言う意味だろうかと熱斗は疑問に思い、小さく首をかしげる。
するとメイルは今度はその表情に僅かな悲しみを混ぜて立ち止まった。
それに僅かに遅れて熱斗も立ち止まり、後ろを振り返る。
振り返ってメイルを見ると、メイルはやはり不安そうで悲しそうな顔をして熱斗を見詰めているのである。
そしてメイルは言った。
「熱斗、ずっと難しそうな顔してるじゃない。だから私、心配で……。」
その言葉で熱斗は初めて、自分の表情が普段よりも数段硬いものになっていて、今この瞬間もメイルが心配する程度に硬く暗い表情を浮かべていたのだと知った。
今まで自覚のなかった症状を指摘されて、熱斗は驚くと同時に僅かな恐怖を感じる。
それは自分の異変を見抜いたメイルの観察眼への恐怖なのか、それとも自分の異変そのものへの恐怖なのか、熱斗には解らなかったが。
とにかく、表情が硬い事を指摘された熱斗は、訳の分からない恐怖は一旦頭の隅に追いやる事にして、今このあまり良いとは言えない重い空気を解消することに勤める事に決めた。
表情が硬いなら、逆に柔らかい表情を作ればいいだけだ、と、熱斗は笑える気分ではないという本音を押し殺してどうにか口の端を軽く吊りあげ、目を細めて微笑を作って見せた。
「そっか、ごめんね、心配かけて。……大丈夫だから。」
しかしそれはメイルに、やはり最近の熱斗は何かがおかしい、と確信させただけで、重い空気の解消には至らなかった。
メイルはそれなりに表情を戻しているつもりなのかもしれないが、それでもやはり納得がいっていなさそうな顔をしていて、熱斗はどうしたものかと頭を掻く。
そしてどうすればいいのか悩んだ末に、熱斗は数歩だけ黙って足を進め、それからメイルへ振り返って言う。
「とりあえず行こうよ、ね?」
熱斗にそう声をかけられて、メイルはまだ何処か納得がいっていない顔をしながらも小さく頷いた。
そしてメイルは熱斗を追うように歩きだす。
それを確認して熱斗も、今度は顔が見られないように、最初に一列に並んで歩いていた時と同じように、メイルの数歩前を歩き続ける。
六年生の教室がある廊下を抜け、一階へとつながる階段を降りる。
階段を下りるとその先には昇降口があって、熱斗はメイルより数歩早く昇降口から校庭へと足を踏み出した。
真上より少しだけ斜めに傾いた日差しはやはり眩しくて、熱斗は一瞬だけ目を細めたが、やがて朝にも思った事――この陽の光で自分の闇が浄化されれば良いのにと思った事を思い出して、閉じかけた目を無理矢理開いた。
しかしそれはやはり眩しくて、熱斗は目を細める代わりに顔を浅く伏せる。
後ろから、メイルが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「熱斗? どうしたの?」
わざわざ駆け寄って距離を縮めてきたメイルを見て、熱斗は今の自分はどうにも珍妙な様子に見えるのだろうなと思い、自嘲する。
そうだ、この程度の日差しが眩しいなんて、自分はおかしいのだ、そう思うとどうにもおかしな笑いがこみあげてきて、熱斗は小さく笑った。
メイルはそれを不思議な物を見るような、そして少し心配する様な視線で見詰め、やがて小さく笑う熱斗の肩に手を置いた。
「熱斗、ねぇ、何がそんなにおかしいの?」
そうだ、おかしいのだ、今の自分はどうにもこうにも酷くおかしい、おかしいから笑う、他人もそうするであろうように、自分で。
そうして熱斗はメイルの前だというのに自分の複雑に絡み合った思考に囚われていき、周囲がどうなっているのか、どうやって自分を見ているのか、それらを意識から切り離してしまうのだ。
そんな熱斗の様子を見て、メイルは不安を募らせ、PETの中のロックマンもメイル以上の不安と恐怖を感じる。
何がそんなにおかしいのか分からないメイルはその不安をそのまま熱斗にぶつけた。
掴んだ肩を大きく揺らし、さっきよりも大きな声で熱斗に呼びかける。
「熱斗! ねぇ熱斗ってば!!」
「っはは……はは……え?」
その呼びかけでようやく、熱斗は意識を現実に引き戻された。
ハッとして周囲を見ると、メイルが自分の左肩を強く掴んで先ほどのように不安そうな顔をしていて、その手の上ではロックマンが同じように不安そうな顔をして熱斗の顔を覗きこんでいる。
今自分は何をしていたというのか、それに気付いた熱斗は慌てて顔を上げ、その拍子にメイルの手が熱斗の肩から離れる。
顔を上げた熱斗は何かに怯えたようにその身を硬直させつつメイルに向き直った。
何か、何か言わなくては。
「え、と……」
しかし熱斗の口から出てきた言葉はその二文字だけで、それ以上の事は何も浮かびあがらせる事は出来なかった。
メイルとロックマンの心配そうな視線が熱斗を縛りあげる。
本当に、何でもいいから何か言わなくてはいけない、そう思って熱斗は焦る。
「その……科学省、行こっか。」
そして熱斗はやっとの思いでそれだけをメイルとロックマンに告げると、メイルの不安そうな視線から逃げるようにメイルに背を向けて、校門に向かって校庭の真ん中を歩き始めた。
背後のメイルが、肩の上のロックマンが、一体どういう顔で自分を見てきているのか、熱斗はもう知りたくない、だから熱斗は後ろを振り返らずに歩く。
しばらくの間自分の傍からする足音は自分のもの一つだけになっていたが、やがて熱斗が校庭の中央に差し掛かったあたりで背後に自分を追い掛けてくるような足音――メイルの足音を感じた。
熱斗は少しだけ、本当にメイルが追いかけてきてくれたのかどうかが気になって、僅かに後ろに振り向いた。
振り向いた先の視界の端に、見なれた幼馴染が走ってくる姿が見える。
どうやらメイルはこんな状況でもちゃんと熱斗の後をついてきてくれたらしい。
それを知って、熱斗はほんの少しだけ、何故か安堵を感じていた。
やがてメイルは熱斗に追いつき、その足音を熱斗のすぐ背後で鳴らすようになっていた。
先ほどと違って隣に立って歩こうとはしないのはメイルなりに心配と不安を感じ、遠慮しているという事なのだろうか。
熱斗はそれに、おそらく硬くて暗い表情になっているであろう今の自分の顔を見られなくて済むという安心感を感じるが、それと同時に、メイルと自分の間に何か冷たい壁のようなものが出来てしまったような孤立感――寂しさも感じていた。
真反対の感情が一度に湧きあがるのは何故なのか、考えれば考える程、自分が真に望む事はどちらなのか分からなくなって、熱斗はどうにも複雑なその感覚を、自分は何て我が儘になってしまったのだろうかと感じ、恥じる。
そして新たな会話の無いまま、熱斗とメイルは縦一列に並んで歩いて校門を出て、メトロ駅を目指して歩きだすのであった。
それからしばらく、熱斗とメイルは何の会話も無いままに住宅街を歩き、大通りを通り、メトロの駅に入り、メトロに乗り、科学省近辺の駅でメトロを降り、そこから徒歩で科学省へと歩いていた。
そして科学省へ着くと受付に向かい、光 熱斗とその友人である事を受付嬢に説明して館内に入る。
今回の会議で使う会議室はこの建物の中でも高い位置の窓際にある会議室であるため、熱斗とメイルは受付を通過するとエレベーターに向かって歩き出した。
その頃には、熱斗の表情もなんとか普通程度には柔らかいものになっていたが、やはりその顔に笑みは全く浮かんでいない。
時よりその表情を垣間見ては心配をつのらせるメイルを横目に、熱斗はエレベーターの前に立ちそのボタンを押した。
そしてエレベーターに乗り込んで数十秒後、目的の階でエレベーターから降りた熱斗とメイルは会議室に向けて長い通路を歩き始めた。
通路の壁の片方はガラスの窓がいくつもあって、そこから午後の西日が深く差し込んでいる。
その眩しさに、熱斗は若干目を細め、窓のある壁よりも窓の無い壁に顔を向けるようにして歩いた。
会議室への入り口があるのも丁度窓の無い壁の方である為、それをメイルが不審に思う事はない。
静かな廊下に、熱斗とメイルのコツコツという足音だけが響く。
しばらく無言のまま歩いていると、会議室の扉が見えてきた。
熱斗はようやく背後にいるメイルにしっかりと振り向いて、
「じゃ、入ろっか。」
と言って扉の前に立った。
そしてメイルも頷いてその隣に立った時、自動ドアになっている二枚の扉は熱斗とメイルの存在を感知して自動的に開き、熱斗とメイルの目の前に会議室の中の光景を見せた。
いくつもの長い机が綺麗に整列するように並べられている会議室の中には、既に炎山、ライカ、祐一朗、名人、真辺の五人が着席して待機している。
熱斗とメイルが会議室の中に足を踏み入れると、始めに炎山がそれに気付いてドアの方へと振り向く。
「遅かったな、熱斗。桜井も一緒か。」
会議室奥、窓際の最前列に座った炎山は、それだけを言うと視線を手持ちの資料に戻し、資料の黙読を再開した。
熱斗はそれを見て、もう少し何かかける言葉はないのかと少し不満に思い、薄っすらと不満げな表情を見せる。
そんな熱斗とその隣に立つメイルに、今度は真辺が自分の席を立ち、何か資料と思われるプリントを何枚か持ったまま近付いてきて、そのまま二人に声をかけてきた。
「こんにちは、熱斗くん、メイルちゃん。今日はメイルちゃんも会議に参加するのかしら?」
「えっと……」
真辺の問いかけに、会議に参加するかどうかまでは考えていなかったメイルは少し言葉を詰まらせた。
横にいる熱斗もメイルが会議に参加するかどうかまでは聞いていなかったので、どう返答するべきか分からず黙ったままだ。
すると今度は炎山やライカとは違う場所、前方のスクリーンの前に置かれたコンピューター付きの机の前に座っていた祐一朗が席を立ち、熱斗とメイルと真辺の元へやってくる。
その手には真辺と同じく資料と思われるプリントが何枚か握られていた。
そして祐一朗はその中の数枚をメイルへと丁寧に差し出すと、
「はい、これが今日の資料。メイルちゃんも参加して構わないよ。もしかしたら君がまたクロスフュージョンする機会もあるかもしれないからね。」
と言って来た為、メイルはその資料を受け取って会議に参加することになった。
隣にいる熱斗には真辺が同様の資料を手渡してくる。
熱斗はその資料を受け取った。
資料を受け取った熱斗は真辺や祐一朗に促されるよりも早く会議室の中に進み、数多くの空席の内の一つに腰かけた。
それはこの会議室にあるいくつもの席の中でも会議室の中央に近かったが、たった数人で行われる会議にしてはやや後列の部分で、最前列の炎山とは二列の隙間が空いている。
少し遅れて熱斗を追い掛けてきたメイルはその席順を不思議に思い、
「熱斗、もっと前に座ったらどう?」
と熱斗に尋ねる。
だが熱斗は首を小さく横に振り、それ以上の移動を拒んだ。
確かに熱斗も、この人数での会議ならもっと前列、それこそ最前列に並ぶ事が普通であろうことは知っている。
だがしかし、今日の熱斗はどうにも皆に混ざって最前列に座る気にはなれなかったのだ。
特に、炎山がいる辺りには座りたくないと思う。
一体どうして自分はそんな事を考えているのか、それは熱斗自身にも分からないが、とにかく熱斗は前列に座る事を拒んだ。
メイルはそれをしばし不思議そうに見つめていたが、やがて諦めたのかそれとも熱斗の意思を尊重する気にでもなったのか、熱斗の隣の席を引き出し、その席に座った。
熱斗はそれを少し意外そうな表情で見詰める。
「別にメイルちゃんは前に行ってもいいんだよ?」
自分に前列に座らないかと持ちかけたという事は、メイル自身が前列に座りたいという事だろう、と思っていた熱斗はメイルが自分の隣に座った事が意外でそう問いかけた。
するとメイルはこれまた意外そうな顔を一瞬見せた後に、小さく微笑んで、
「いいの、私は熱斗に用事があってきた訳で、会議はオマケだもの。熱斗がそこに座るなら、私もここに座るわ。」
と言った。
その、熱斗に用事がある、という言葉に熱斗は少しドキリとし、何かを期待する様な高揚感と胸の高鳴りを感じた。
用事というのが何なのかは熱斗には分からない、しかしメイルは熱斗に用事があると言ってくれた、これは今メイルの中に自分の存在があると考えてもいいのではないか、そんな期待が脳裏を過る。
一方で、まだそう決まった訳ではない、まだ分からないのだから変に期待をするな、という自分の声も聞こえた気がしたが、それでも熱斗はメイルの言う用事に期待を寄せる事を止める事は出来ない。
まだ会議は始まっていないというのに、早く会議が終わればいいという気持ちが湧きあがって、熱斗は落ち着きを失いそうになるところを必死にこらえた。
熱斗とメイルが着席したのを確認して、祐一朗は再びスクリーンの前の机の前にある椅子に腰かけ、真辺も先ほど座っていた席に戻っていった。
そして祐一朗がスクリーンと机のパソコンの電源を入れ、会議の開始を宣言する。
「えー、これから最近出現している新型ダークロイド、及び新型ダークチップへの対策会議を始めます。まずは手元の資料を見てほしいんだけど……」
祐一朗の行う司会に沿って、熱斗は手元の資料に目を通した。
資料にはこれまでに出現した新型ダークロイドの名前と姿、ダークチップによる一般ナビの被害件数とその分布が載っている。
新型ダークロイド、そして新型ダークチップ、それはどちらも熱斗が昼夜を問わず街を駆け回って闘わなければいけなくなった元凶であり、熱斗は改めてその二つに憤りを感じた。
この二つさえいなければ、自分は今頃メイル、デカオ、やいと、透の四人と一緒に何も気にする事無くただただ楽しく遊んでいられたというのに、と。
熱斗がそんな事に考えを巡らせている間にも会議は進み、祐一朗は言葉を続ける。
「彼等が一体どんな徒党を組み、どうしてこのネットワーク、ひいては現実社会を攻撃するのかはまだ分かっていない。ただ、ディメンショナルエリア等の高度な科学力を有していることからして、裏に人間がいる可能性はとても高いだろう。」
つまりこの組織はネビュラ型――トップや一部上層部に人間を置き、その下は全てネットナビ(新型ダークロイド)で固めた組織なのかと熱斗は考える。
闇の力を使っている点やダークチップを製造、散布している点を考えてもその可能性は極めて高い、が、一体どんな人間がトップを務めているというのか、それはまだこのネット警察では分かっていない。
何処の誰だか知らないが、この誰かさえ何もしていなかったら自分の生活は今と大きく違ったのではないかと思うと、自然と悔しくなってきて、熱斗は膝の上に置いた左手をぎゅっと強く握りしめた。
祐一朗による説明はまだ続く。
「今まで狙われたのは官庁街、ビル街等、大きな施設、またはライフラインに関わる施設が密集している場所ばかりだ。それから――」
そうそう、この間自分が入院する破目になった襲撃も割と大きなビル街だったな、と熱斗は思い出し、一人内心でうんうんと頷いた。
あの時は遊びの最中に引きずり出された上に酷い惨敗を喫してしまい、二重の意味で悔しかった事も思い出す。
もし今度あの新型ダークロイドが街に現れたら、今度こそは全力で打倒してやるのだ、と熱斗は決意を新たにした。
そうしてここまではいたって冷静に会議の内容を聴いていた熱斗だったが、祐一朗の次の言葉に重大な出来事を思い出し、困惑することとなる。
「一体どのようにして流通しているのかはまだ不明だが、新型ダークチップによる被害も問題だ。」
膝の上に乗せた手が、ピクリと動いて反応した。
祐一朗は話を続ける。
「科学省やネット警察でもダークチップは使わないようにと前々から注意喚起しているのだが、一部のチップは普通のチップに偽装されて出回っているらしく、知らない間にダークチップ中毒になったナビの報告が絶えない。」
ダークチップ中毒、その言葉に熱斗は今も自分の中にいるであろうあのダークソウルの事を思い出し始める。
そうだ、理由は分からないが、自分も今はこのダークチップ、もしくはその中に凝縮されるダークオーラの被害者なのだと思いだした熱斗は、途端にその恐怖を思い出した。
血のように真っ赤な瞳、全てを嘲笑うかのように吊りあがった口元、そして自分の心の暗部をいとも容易く指摘して自身をその暗部そのものだと言ったその姿、全てを思い出し、熱斗は僅かに身震いする。
だがそんな事には気付かない祐一朗はそのまま会議を進めた。
「炎山くん、先日の報告いいかな?」
祐一朗に指名されて、炎山がその場で立ちあがる。
「はい。これは先日の事なのですが、ダークチップ中毒に陥り自分のダークソウルに呑まれて暴走していたナビを、インターネットシティで一体捕縛しました。」
ダークソウル、という言葉に熱斗は更に強い反応を自分の心の中だけで感じた。
まるで何かに耐えるように、膝の上に置いた左手で膝の皮膚に爪を立てる、そんな熱斗が抱いていたものは強い恐怖と罪悪感だった。
もしかして、自分もそのナビのように徐々に汚染されておかしくなっていくのだろうか、という恐怖、そして、自分はそういったもの達から皆を護る為にいるというのに、まさか自分にもそれに匹敵する部分があり、それが形を持っていたなど、という罪悪感が熱斗の胸を締め上げ尽していく。
息が、苦しい。
「オペレーターを取り調べた所、彼は偽造ダークチップの被害者で、自分の意思でダークチップを使った訳ではありませんでした。」
炎山からの報告に、自分の意思ではないという点でいえば自分も同じ、一体何時何処でどのようにしてどうしてダークオーラなどに感染してしまったのだろうか、と熱斗は悩む。
そして今この瞬間もあのダークソウルは自分の目を、意識を、記憶を通してこの会議を覗き見ているのかと思うと一段と怖くなって、熱斗はこの事を告白すべきかどうかを考え始めた。
もしも自分ではなく炎山やライカが感染していたとしたら自分はどう思うか、それを考えると、今自分がしなければいけない事はこの闇の塊の存在を告白することだろうと熱斗は考える。
熱斗がそんな事を考えている間にも会議は進み、炎山の報告も進む。
「このまま偽造ダークチップの流通経路を掴む事ができなければ、これからもこういった無自覚の被害者は増え続ける事でしょう。」
「シャーロでも極少数ではありますが偽造ダークチップの被害を確認しています。」
炎山のまとめに続いて、ライカから海外事情の報告が入った。
新型ダークチップの脅威はどうやら国内だけにとどまっていないらしい。
益々甚大さが増すその被害状況を聴いて、熱斗は今此処で言わずして何処でいうのかと思い、誰に何を言う事も無く急に立ち上がった。
ガタッという椅子が動く音に気付いて、炎山、ライカ、祐一朗、真辺、メイル、名人が一斉に熱斗を見る。
「熱斗? どうかしたのか?」
しかし、祐一朗の問いかけに熱斗は答えられなかった。
何故なら、熱斗は最初に立ちあがった時に向けられた多くの視線によって新たな恐怖を感じ始めていたからである。
仲間達から向けられる視線、視線、視線、視線、視線、視線、その前で自分の闇を、自分の陰を公表するなど、一体誰ができようものか。
熱斗もこの時、立ちあがってみたはいいもののその視線に怯み、更には、もしもあのダークソウルが本当に自分の心の陰そのものなのだとしたら、それを公表した時自分は一体どれだけの軽蔑を受ける事になるのかと思い、口を開く事を躊躇ってしまったのだ。
立ちあがったはいいものの、何も言おうとしない熱斗に祐一朗は不思議な物を見るような視線を送る。
名人や真辺、更にはメイル、炎山、ライカも同じ視線を送ったが、熱斗にはそれが既に自分を責め立てているように見え始めていた。
「熱斗、どうした?」
ライカの問いかけが聞こえる、けれど熱斗は返事をしない、返事を出来ない。
「おい、熱斗?」
炎山の声も聞こえた、けれど熱斗は返事が出来ない。
「熱斗? ねぇ熱斗どうしたの?」
そんなメイルの声が聞こえてきた時、熱斗はやっとの思いで口を開いた。
ただし、
「……いや、何でもない。」
それは自分の闇の塊を告白するという当初の目的とはずいぶん違った言葉で、熱斗はそのまま席に着き直した。
それ以降ややうつむいて石のように押し黙ってしまう熱斗を見て、祐一朗達は不思議な物を見たような顔を見せるが、何も無いならそれでもいいかと思ったのか、再び会議に戻っていく。
「それで――」
それ以降の内容を、熱斗はほとんど覚えていない。
それからどれくらいの時間が経っただろう、熱斗にとっては長いようで短いようでやはり長いようなよく分からない時間が流れ、ようやく会議は終わろうとしていた。
司会の祐一朗が会議の終了を告げる。
「――それではこれで会議を終了します。皆、お疲れ様。」
最後に祐一朗が労いの意味を込めてニコリと優しく微笑む。
炎山やライカ、真辺や名人は一礼してから席を立った。
熱斗とメイルはまだ席を立たない。
「では私はネット警察本部に戻りますので、」
前方右手から、真辺が名人にそう伝える声が聞こえる。
前方左手からは、炎山とライカの会話が聞こえる。
「炎山、お前はこの後どうするんだ?」
「俺は会社の仕事があるんでな、IPCに戻る。ライカ、お前は?」
「俺は少しこの事件の資料を読み込んでおきたい。資料室に行こうと思う。」
そんな会話をしながら炎山とライカは共に歩みを進め、会議室を後にし、その姿を自動ドアの向こうに消していった。
それに続くように真辺と名人も自動ドアに向かって歩き出し、その足を開いた自動ドアの向こうへと進め、廊下を歩きだす。
会議室には自然と祐一朗と熱斗とメイルだけが残る。
熱斗が、ようやく終わった、と思って疲れた溜息をついた時、祐一朗が熱斗とメイルに近付いてきて尋ねた。
「熱斗、メイルちゃん、お疲れ様。この後二人はどうするんだい?」
祐一朗の問いにメイルはやはり上手く答えられず、此処は自分が答えるべきだと思った熱斗が口を開く。
「俺達はもうちょっと此処で休んでいくよ。パパは?」
「私は研究室に戻って新型ダークチップの解析作業に当たるつもりだ。今回の新型ダークチップのダークオーラは前のネビュラやネオWWWのものとは少し違うみたいだからね、有効なワクチンチップの開発の為に調査が必要なんだ。」
祐一朗の口からダークチップとダークオーラの事を聞かされて、一度は浮き始めていた気持ちが再度沈んでいく。
熱斗は口には出さず心の中だけで、パパ、俺も今そのダークオーラに感染してるみたいなんだ……と告げる。
一人で抱えるには重すぎて、けれど誰かに伝えるにも重すぎる事実を、熱斗は自分の心の中だけに仕舞いこんで、それでも尚どこかで誰かに伝わる事を祈っていた。
そんな熱斗の思いを知ってか知らずか、それは分からないが、祐一朗は熱斗にこんな質問を投げかけてくる。
「ところで熱斗、さっき会議中に立ったのは結局何だったんだい?」
「えっ……。」
もう終わったことだと思っていた事を再度質問されて、熱斗は言葉に詰まった。
自分の中にいる闇の塊――ダークソウル、それを明かそうかと思って立ちあがったのが先ほどの事だったが、熱斗の気持ちは今はもうそれを明かさない方向で定まっているのだ。
それなのに祐一朗から先ほどの事は何だったのかと質問されて、熱斗はこの期にダークソウルの事を話してしまうべきかどうか再び悩む。
多分、自分ではなく炎山やライカが感染していたら自分はどう思うか、どうして欲しいかと考えてみれば、自分だったらすぐに明かしてほしい、独りで悩まないでほしいと思うであろうことはなんとなくわかるのだ。
だから、それを考えれば今此処ででもいいから、この自分の中の闇の塊の事を祐一朗に話すべきであろう事は分かる。
けれど、いざ自分の中に闇の塊があると考えると、それはそれだけで酷く恐ろしく、どうにも信じたくない事で、誰かに話すなどもってのほかに思えてしまうのだ。
もし自分の息子の中にダークソウルという闇の塊が潜んでいると知ったら、父は軽蔑するのだろうか。
その軽蔑がダークソウルと同じぐらい怖くて、それならこれは独りで解決すべきではないかと熱斗は思う。
それに、希望だって無い訳ではない。
以前人間で初めてのダークチップ中毒に陥った岬刑事は、ダークチップの服用さえ無くなれば自然に治ると診断されていたではないか。
熱斗は、答えを決めた。
「……なんでもないよ、ちょっと資料で分かりにくい所があって、訊こうと思って立ったんだけど、立った途端に理解出来て言う事が無くなっちゃっただけ。」
そう言って笑って見せる熱斗を、祐一朗はしばし僅かに疑うような視線で見ていたが、やがてそれ以上の追及は無駄と考えたのか、それとも熱斗を信じる事に決めたのか、その視線を柔らかい視線に変えた。
それに安心して熱斗は内心ほっと溜息を吐く。
その時熱斗はふと、そういえば最近嘘を吐く回数が増えたな、という事に気がついて、僅かに気分が沈むのであった。
そんな熱斗の頭を軽く撫でながら、祐一朗は言う。
「そうか、それならいいんだが、困った事があったら何時でも言うんだぞ?」
熱斗は僅かな間、その言葉に答える事が出来なかった。
「……うん、分かった。」
僅かに微笑んで肯定の返事を出しながら、熱斗はそれを今日の最大の嘘だと思った。
本当にそれを分かるなら、分かったと言うなら、了解したと言うなら、今すぐにでも言葉を変えて、自分の中の闇の塊の事を祐一朗に伝えるべきだと、熱斗は知っている。
けれど熱斗はそれを隠し、困った事があったら何時でも言えという祐一朗の言葉に反した行動を取っている、だから、この“分かった”という返事は今日の最大の嘘だ。
いつも自分に素直に有りたいと思った、ずるい嘘は吐きたくないと思った、そんな純粋な自分に“この嘘吐き”と責めたてられて、熱斗は僅かに頭痛のような違和感を覚える。
それでも幸か不幸か、それは分からないが、祐一朗は熱斗の隠している事に気付く気配を見せない。
無論、担任のまり子は生徒の状態を把握する為に、一体何があってそうなったのかと熱斗に訊いたが、熱斗は手洗いに行っていたら遅くなってしまったという嘘を吐きながら笑ってみせて、まり子にそれを信じさせた。
幸い、本当の訳を一部とはいえ知っている三人はその嘘に反論しようとはしなかった。
其処からはまるで何事もなかったかのようにホームルームが始まり、熱斗は困っている事など何も無いと言う代わりに真っ直ぐまり子に視線を向けていた。
その横でメイルが熱斗にチラチラと視線を向け、何時悩みの訳を訊こうかと悩んでいた事を、熱斗は知らないし、知ろうともしなかった。
同時に、熱斗がそのなんでも無さそうな態度の裏側で、教室に入った瞬間から周囲の視線に恐怖を覚えていた事を、メイルは知らない。
そしてそのまま時間は流れ、気付けば一度目の休み時間が訪れていた。
熱斗は昨日同様外に出る気力が出ず、筆記用具やノートを鞄の中に仕舞うと席を立つ事はなく、そのまま自分の机の上に両腕を置き、その上に顔を伏せた。
腕と机が作る僅かな隙間、その中で熱斗はようやく必死に貼りつけていた無表情という仮面を外し、盛大に長い溜息を吐く。
本当に、本当に怖かったのだ。
まず、教室に入ったその瞬間、当たり前ではあるがまり子を含むクラス全員の視線が自分に向けられた時は、逃げてしまおうかと思う程だった。
その後も前方の席からチラチラと送られる興味本位の視線が痛くて、何度視線をまり子から机の上に移動させようかと考えたものだ、と熱斗は朝の事を振り返る。
今まで何でもなかった、遅刻した自分を笑う視線が、何故か今日は酷く怖くて、熱斗は必要以上に自分の精神力が消耗していくのをずっと感じていたのだ。
それでも一時間目の中盤から二時間目になる頃には自分へ振り返る視線も無くなり、少しはマシになったなと熱斗は思う。
腕に額をつけるように机に伏せたまま、熱斗はこのまま目を閉じて次の授業まで寝ていようかと考えた。
とにかく怖くて、その分疲れてしまったその疲れが、休み時間という解放感と同時に一気に襲ってきたのだ。
それに、このまま目を開けて顔を上げた所で、また昨日のように大した事でも無い事に苛立ってしまう気がしなくもない。
それならいっそ全てを遮断した方が、と考えた時、熱斗の脳裏に正に全てを遮断したあの世界のイメージが駆け抜けた。
誰が何をしてきた訳でもないのに悪寒のような震えが全身を駆け抜ける、その不安の意味を、熱斗はやっと思い出した。
――駄目だ、眠ったらまた、アイツに会うかも……。――
永遠の黒、何処までも闇だけが続き、他の全てを遮断したようなその夢を思い出し、熱斗は眠る事を諦め、ゆっくりと顔を上げ、周囲を見回した。
教室の中を見回すと、そこには昨日とは違う生徒が数人、自分の席に着いてそれぞれしたい事をしている。
昨日騒いでいた煩い女子達はいない、迷惑をかけてしまった男子達も居ない、その事に安心した熱斗は視線を机の上に戻して小さな溜息を吐く。
とりあえず今日はこのまま静かにしていよう、そう思った熱斗がもう一度顔を伏せようと腕を机に置いた時、
「熱斗。」
ふと聞こえた自分を呼ぶ声に気付いて、熱斗は伏せかけた顔をすっと上げて周囲を見回した。
そして教室の前方の扉の場所に視線を向けた時、そこに見なれた少女がいる事に気付く。
――今俺を呼んだのって、メイルちゃん?――
突然自分を呼んだその声は確かに男子のものではなく女子のものだったと感じていたが、それがメイルだとまでは予想していなかった、そんな熱斗が少し驚いたような顔でメイルを見ていると、メイルは教室の前方の扉をくぐり抜け熱斗の席へと少しずつ近寄ってきた。
教卓を通り過ぎた辺りでメイルが熱斗に再度声をかける。
「熱斗、突然ごめんね。」
「え、あぁ、別に良いよ。」
突然の訪問に確かに熱斗は驚いていたが、不思議と恐怖は感じなかったので普通に返事をする事ができた。
そんなありふれた事実に少しだけほっとして、熱斗は自嘲混じりに小さく笑う。
メイルは教卓を過ぎるとそのまま熱斗の席に近付き、その隣の自分の席に着席した。
それを半分は不思議に、もう半分は普通に思いながら、今度は熱斗がメイルに問いかける。
「んで、何の用事?」
熱斗が問いかけるとメイルは少し躊躇うような視線を自身の足下に落した。
熱斗はそれの意味が分からなくて何か不思議な物を見るような顔でメイルを見る。
メイルはしばしの間そのまま動かなかったが、やがて言いたい事がまとまったのか、足下に落していた視線を熱斗に向けた。
熱斗の視線とメイルの視線が正面からぶつかる、その事実に熱斗は多少驚き、自然と僅かな緊張を感じる。
一体メイルは何を言おうとしているのだろう、そんなに躊躇うような内容なのだろうか? そう考えると少しだけ怖くて、この妙な沈黙が早く終わる事を熱斗は祈る。
そして次の瞬間、メイルは何かを覚悟したように口を開いた。
だが、
「あの、今日の放課後、空いてるかしら?」
それは恐ろしさの欠片も無い言葉で、本来なら重い覚悟などいる筈のない質問で、何か恐ろしい事を言われるのではないかと身構えていた熱斗は、その質問の普遍性に一瞬戸惑い、
「えっ?」
と、やや間抜けな声を漏らした。
そうして正に意表を突かれたと言いたげに呆然とする熱斗へ、メイルはやはり躊躇いと緊張を含んだ声でもう一度、
「だから、今日の放課後、空いてるかしら? ……って。」
と繰り返した。
その普遍的な言葉の為にメイルが何故緊張しているのかを読み切れなかった熱斗は、その言葉の意味を真っ直ぐ受け止めきれずやや戸惑う。
メイルはいきなりどうしたというのか、何故自分はいきなりそんな事を訊かれているのか、熱斗には分からない。
しかし、そんな戸惑いの奥で、熱斗はその問いかけの後に続くであろう言葉を無意識に予想し、無意識のうちに僅かな期待を抱き始めていた。
それが表層意識へと届いた時、熱斗は、例えこの後に何があっても少しは時間が取れるという事にしないといけないと感じ、少し緊張しながら答える。
「えっと、今日は科学省に行く用事があるんだけど……そこでもよければ、その後なら。」
そう、実際の所、今日は空いていると表現できる日ではなくて、むしろ用事があると表現せざるをえない日なのだが、それでも熱斗はメイルが続けてくれるであろう言葉を期待して、今日を空いている日だと表現した。
熱斗の答えを聴いて少し考え込むようなしぐさを見せたメイルに、完全に空いている日でなければ断られてしまうだろうかという不安が熱斗の胸を過る。
そして不安は徐々にその形を変え、そもそも遊びの誘いとは限らないではないのではないか、という懸念を生みだし、更には、自分が遊びに誘われる訳など今更無いのでは、という諦めに変わる。
そうすると何故メイルはこちらの予定を訊いてきたのか、それは不明になってしまうが、熱斗は内心、期待を諦めで必死に塗りつぶし始める。
期待した後の失望が一番怖い、一番痛い、一番苦しい、それを熱斗は無意識の内に解っていたのかもしれない。
そうして半ばあきらめながらメイルの返答を待っていると、メイルは何かを一人で納得して何度か頷いた後、熱斗に向き直って答えをだした。
「じゃあそこでいいわ、一緒に行っていいかしら?」
「……えっ? あ、あぁ、うん、分かったよ。」
此方を覗きこむようにして小さく首をかしげながら問いかけ返してきたメイルに、今日は結局断られるのだろうなと思っていた熱斗は一瞬返事ができなかった。
そして状況を飲み込んだ後に慌てて肯定の返事をすると、メイルはほんのり微笑して小さく頷いてくる。
その微笑はまるで何かに安心したからの微笑みに見えて、熱斗は頭上に疑問符を浮かべたような、何か意外な物を見るような表情でメイルを見つめ返すことしかできなくなる。
そうしてお互い無言で、それぞれ別の思惑を抱えながら見つめ合っていると、メイルの方が先に何かに気が付いたように、あっ、と声をもらしながら視線を逸らした。
熱斗はそれを少し残念に思いながらメイルへ尋ねる。
「どうしたの?」
するとメイルは席を立ち、椅子を机の下に仕舞いながら答えた。
「私やいとちゃん達との遊びから抜け出して来てたの、そろそろ戻らなきゃ。」
「あ、そう……。」
その時、メイルの答えに短い返事しか返せなかった熱斗の、その返事の声が僅かに元気を失っていた事には、メイルは気付かなかったようだ。
そしてメイルは机の下に椅子を仕舞い終えると、熱斗に軽く手を振って見せ、
「また後でね。」
と言ってその手を下ろしてから席を離れ、教壇の前を通り過ぎて、前方の扉から教室の外に出ていってしまった。
一人取り残された熱斗に、再び静寂が舞い戻る。
その静寂の中で熱斗は、今の一連の会話を脳内で改めて整理し始めた。
突然名前を呼ばれて何かと思ったら其処にはメイルがいて、言われた事は“今日の放課後、空いてるかしら?”だった。
その後自分が、科学省に行く用事があるがその後なら空いていると言うと、メイルは一緒に行っていいかと訊いてきた。
これはつまり、メイルの方から熱斗を遊びに誘ってくれたと考えていいのかもしれない。
メイルが自分を遊びに誘ってくれた、そう考えるとどこか身体の奥で何かが不思議な力を持つような、少しワクワクと浮ついた気分になって、熱斗は久しぶりに自分は独りではないのかもしれない、皆の意識の中にしっかりと存在しているのかもしれないという実感を持った。
とはいっても、今回声をかけてきてくれたのはメイルだけであるし、そのメイルも数十秒前にはやいと達との遊びの途中だったからと言って何処かへ行ってしまった。
それは多分校庭なのだろうと思った熱斗は静かに席を立ち、窓際へと歩み寄ると、窓から校庭を見降ろす。
すると思った通り、校庭の真ん中あたりにメイルとやいと、更にはデカオと透の姿があった。
ふと、冷たい空気が自分の中を吹き抜けるような感覚が走る。
校庭を見降ろす際に偶然手をついた冷たい窓ガラスはまるで自分とメイル達を分ける壁の様。
壁の外、陽の光のあたる場所で自由に駆け回るメイル達を見て、熱斗は自分が陽のあたらぬ場所の中で徐々に凍えていくイメージを脳内に浮かべる。
手を着いたガラスは依然冷たく、熱斗の手から僅かに体温を奪う、それに気がついた熱斗は、このガラスが実は固い氷で自分の手も凍らせようとしているのだというイメージを脳内に過らせた。
冷たい。
その感覚が嫌になって、熱斗はガラスの窓から手を離す。
「熱斗くんは、外にはいかないの?」
手を離してからもぼんやりと外を眺めていると、突如左肩の上から少年の声がそう言った。
どうやらロックマンが熱斗の様子を気にして現実世界を見に来ていたようだ。
熱斗は僅かに顔を左に向けてそれを確認すると、ゆっくりと視線を窓の外に戻しながら呟くように答えた。
「俺は……いいよ……。」
どうしてかは分からないが、今の熱斗には自分があの陽のあたる場所で元気に駆け回る姿を想像する事が出来ず、また、元気に駆け回りながら友達と少しの言葉を交わす様子も想像できなかった。
それどころか、今すぐこの教室を出て階段を駆け下り、昇降口から外に出て、自分も仲間に入れて欲しいと頼む姿すら現実的に想像できない。
それに、そんな事よりも、今日は何もせず静かに過ごしたいという思いが勝って、熱斗は窓ガラスに背を向けると自分の席へと戻り、離席時と同じように静かに着席し、机の上に腕を置くとその上に額を乗せて顔を伏せる。
それから三時間目開始のチャイムが鳴るまで、熱斗は一度も顔を上げはしなかった。
そして放課後、熱斗は普段のように筆記用具やノートを鞄に入れ、帰り支度を整えていた。
と、そこへ、その隣の席で熱斗と同じく帰り支度を整えているメイルが声をかけてくる。
「熱斗、科学省へは直接行くの?」
メイルからの問いかけに、熱斗は、昨日とは逆の展開だな、と思いながら答える。
「あぁ、このまま学校から直接だけど、そっちは平気?」
「えぇ、大丈夫よ。」
熱斗よりも一足早く帰り支度を終えたメイルは、鞄を背負い微笑みながらそう答えた。
それを見て熱斗は、早く帰り支度を済ませなければメイルに迷惑がかかるかもしれない、と焦る。
それは、無視意識の内に置いてけぼりの恐怖を感じていたからかもしれない。
そうして熱斗が焦ると、その姿を見るメイルは着席したままクスクスと笑って、
「そんなに急がなくてもいいわよ。」
と言った。
しかし熱斗はそれを真に受けて手の動きを緩めるような事はせず、急いでノートと筆記用具を鞄に押し込むと鞄のファスナーを閉め、席を立って鞄を背負う。
「よしっ、準備完了!」
そして帰り支度が済んだ事を少し大袈裟な言い方でメイルに伝えると、それを見たメイルも追いかけるように席を立ち、椅子を机の下に仕舞う。
熱斗もそれを見習って椅子を机の下に仕舞った。
「じゃあ、行きましょっか。」
その声に反応して、熱斗は小さく一度頷く。
そして、今日は自分が案内役だと言わんばかりに先に歩きだし、教室の前方の扉を目指した。
背後にはしっかりメイルの足音が聞こえる。
熱斗はこの足音から離れすぎないように気をつけて歩こうと思い、歩く速さを普段よりも少しだけ遅いものにした。
そして、自分の足音、教室のざわつき、それらに混じって聞こえるメイルの足音に耳を澄ます。
背後に足音を感じながら教室を出て、廊下を進む。
廊下は声によるざわつきは教室程ではなかったものの、代わりに足音が教室よりも多く、熱斗はメイルの足音が捕らえにくくなる事に若干の不満と不安を感じた。
もしこのまま、背後と前方の関係のままはぐれてしまったらどうしよう、そう思うと今すぐにでも後ろを振り向いてメイルの存在を確認したくなる。
しかし、後ろを振り向いてメイルを確認できたとして、そこで、どうしたの? などということを聞かれたら、熱斗はそれに答える術を持っていない。
それを思うとどうにも後ろを向く事に緊張感が伴って、この足音さえ聞こえているなら大丈夫なのではないかと思いたくなってくる。
どうしよう、一度振り向いて様子を見てみようか、それともとりあえず昇降口までは我慢しておこうか、どちらにするべきなのかと熱斗が悩みながら歩いていると、メイルが急にその足音を速めて熱斗の背後から熱斗の隣へと自分の立ち位置を変えてきた。
それに気付いた熱斗が、あぁ良かった、ちゃんと居てくれた、と思ったそれとほぼ同時に、メイルは口を開く。
「ねぇ、科学省に行くって事は、また新しい脅威への対策会議?」
それはメイルにとっては大した事のない普通の会話で普通の一言であっただろうが、熱斗にとっては様々な事を思い出すのに十分すぎる言葉であった。
新しい脅威――新型ダークロイドと新型ダークチップ、そしてそれをバラ撒く新しいテロ組織、この三つには熱斗も散々苦労をかけられている。
だから、
「うん、そうだよ。」
メイルの問いに短く答えながら、熱斗はふとその新たな脅威についての今までの記憶とそれに伴う様々な感情を思い出し始めた。
あのキャッシュデータの暴走事件以来、しばらくの間は平和という静寂が保たれていたこの国にいきなり訪れた新たな驚異――新型ダークロイドによる国内襲撃に、熱斗は様々な理由で憤りを感じているのだ。
この国の電脳世界の平和を守る者として、その平和を破られたことへの怒りは勿論だが、個人的に怒りたい事も沢山ある。
キャッシュデータの暴走の終息後、しばらく安定した日々を過ごしていた父親の祐一朗はまた忙しく科学省の中を駆け回るようになり、自分は昼夜を問わず状況も問わず戦いに引きずり出されるようになってしまった。
オマケに戦い以外にも新型ダークチップの取り締まり及び注意喚起といった行動にも多く出動させられ、心身共に疲れきっていつもの生活に戻ってみれば友人たちとの繋がりは希薄になっているという始末だ。
本当に、本当にいい迷惑だと熱斗は思う。
「……熱斗?」
メイルの問いに答えた後にしばし黙って考え込みながら歩いていた、そんな熱斗を不審に思ったのか、メイルが急に熱斗の名を呼んできた。
その声で熱斗の意識は急激に現実に引き戻され、熱斗は少し驚きながら声のした方向、自分の隣で自分と同じように歩くメイルを見た。
熱斗がメイルの表情を見てみれば、メイルは何かを不安に思っているような、あまり明るくない表情をしている。
何故メイルがそんな表情をしているのか分からない熱斗は訊いた。
「えっ、と……どうしたの?」
するとメイルは今度は少しだけ怒っている様な、けれどやはり何処か不安そうな、そんな不思議な表情になって、
「どうしたの、じゃないわよ。熱斗こそどうしたの?」
と言う。
自分こそどうしたのかとはどう言う意味だろうかと熱斗は疑問に思い、小さく首をかしげる。
するとメイルは今度はその表情に僅かな悲しみを混ぜて立ち止まった。
それに僅かに遅れて熱斗も立ち止まり、後ろを振り返る。
振り返ってメイルを見ると、メイルはやはり不安そうで悲しそうな顔をして熱斗を見詰めているのである。
そしてメイルは言った。
「熱斗、ずっと難しそうな顔してるじゃない。だから私、心配で……。」
その言葉で熱斗は初めて、自分の表情が普段よりも数段硬いものになっていて、今この瞬間もメイルが心配する程度に硬く暗い表情を浮かべていたのだと知った。
今まで自覚のなかった症状を指摘されて、熱斗は驚くと同時に僅かな恐怖を感じる。
それは自分の異変を見抜いたメイルの観察眼への恐怖なのか、それとも自分の異変そのものへの恐怖なのか、熱斗には解らなかったが。
とにかく、表情が硬い事を指摘された熱斗は、訳の分からない恐怖は一旦頭の隅に追いやる事にして、今このあまり良いとは言えない重い空気を解消することに勤める事に決めた。
表情が硬いなら、逆に柔らかい表情を作ればいいだけだ、と、熱斗は笑える気分ではないという本音を押し殺してどうにか口の端を軽く吊りあげ、目を細めて微笑を作って見せた。
「そっか、ごめんね、心配かけて。……大丈夫だから。」
しかしそれはメイルに、やはり最近の熱斗は何かがおかしい、と確信させただけで、重い空気の解消には至らなかった。
メイルはそれなりに表情を戻しているつもりなのかもしれないが、それでもやはり納得がいっていなさそうな顔をしていて、熱斗はどうしたものかと頭を掻く。
そしてどうすればいいのか悩んだ末に、熱斗は数歩だけ黙って足を進め、それからメイルへ振り返って言う。
「とりあえず行こうよ、ね?」
熱斗にそう声をかけられて、メイルはまだ何処か納得がいっていない顔をしながらも小さく頷いた。
そしてメイルは熱斗を追うように歩きだす。
それを確認して熱斗も、今度は顔が見られないように、最初に一列に並んで歩いていた時と同じように、メイルの数歩前を歩き続ける。
六年生の教室がある廊下を抜け、一階へとつながる階段を降りる。
階段を下りるとその先には昇降口があって、熱斗はメイルより数歩早く昇降口から校庭へと足を踏み出した。
真上より少しだけ斜めに傾いた日差しはやはり眩しくて、熱斗は一瞬だけ目を細めたが、やがて朝にも思った事――この陽の光で自分の闇が浄化されれば良いのにと思った事を思い出して、閉じかけた目を無理矢理開いた。
しかしそれはやはり眩しくて、熱斗は目を細める代わりに顔を浅く伏せる。
後ろから、メイルが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「熱斗? どうしたの?」
わざわざ駆け寄って距離を縮めてきたメイルを見て、熱斗は今の自分はどうにも珍妙な様子に見えるのだろうなと思い、自嘲する。
そうだ、この程度の日差しが眩しいなんて、自分はおかしいのだ、そう思うとどうにもおかしな笑いがこみあげてきて、熱斗は小さく笑った。
メイルはそれを不思議な物を見るような、そして少し心配する様な視線で見詰め、やがて小さく笑う熱斗の肩に手を置いた。
「熱斗、ねぇ、何がそんなにおかしいの?」
そうだ、おかしいのだ、今の自分はどうにもこうにも酷くおかしい、おかしいから笑う、他人もそうするであろうように、自分で。
そうして熱斗はメイルの前だというのに自分の複雑に絡み合った思考に囚われていき、周囲がどうなっているのか、どうやって自分を見ているのか、それらを意識から切り離してしまうのだ。
そんな熱斗の様子を見て、メイルは不安を募らせ、PETの中のロックマンもメイル以上の不安と恐怖を感じる。
何がそんなにおかしいのか分からないメイルはその不安をそのまま熱斗にぶつけた。
掴んだ肩を大きく揺らし、さっきよりも大きな声で熱斗に呼びかける。
「熱斗! ねぇ熱斗ってば!!」
「っはは……はは……え?」
その呼びかけでようやく、熱斗は意識を現実に引き戻された。
ハッとして周囲を見ると、メイルが自分の左肩を強く掴んで先ほどのように不安そうな顔をしていて、その手の上ではロックマンが同じように不安そうな顔をして熱斗の顔を覗きこんでいる。
今自分は何をしていたというのか、それに気付いた熱斗は慌てて顔を上げ、その拍子にメイルの手が熱斗の肩から離れる。
顔を上げた熱斗は何かに怯えたようにその身を硬直させつつメイルに向き直った。
何か、何か言わなくては。
「え、と……」
しかし熱斗の口から出てきた言葉はその二文字だけで、それ以上の事は何も浮かびあがらせる事は出来なかった。
メイルとロックマンの心配そうな視線が熱斗を縛りあげる。
本当に、何でもいいから何か言わなくてはいけない、そう思って熱斗は焦る。
「その……科学省、行こっか。」
そして熱斗はやっとの思いでそれだけをメイルとロックマンに告げると、メイルの不安そうな視線から逃げるようにメイルに背を向けて、校門に向かって校庭の真ん中を歩き始めた。
背後のメイルが、肩の上のロックマンが、一体どういう顔で自分を見てきているのか、熱斗はもう知りたくない、だから熱斗は後ろを振り返らずに歩く。
しばらくの間自分の傍からする足音は自分のもの一つだけになっていたが、やがて熱斗が校庭の中央に差し掛かったあたりで背後に自分を追い掛けてくるような足音――メイルの足音を感じた。
熱斗は少しだけ、本当にメイルが追いかけてきてくれたのかどうかが気になって、僅かに後ろに振り向いた。
振り向いた先の視界の端に、見なれた幼馴染が走ってくる姿が見える。
どうやらメイルはこんな状況でもちゃんと熱斗の後をついてきてくれたらしい。
それを知って、熱斗はほんの少しだけ、何故か安堵を感じていた。
やがてメイルは熱斗に追いつき、その足音を熱斗のすぐ背後で鳴らすようになっていた。
先ほどと違って隣に立って歩こうとはしないのはメイルなりに心配と不安を感じ、遠慮しているという事なのだろうか。
熱斗はそれに、おそらく硬くて暗い表情になっているであろう今の自分の顔を見られなくて済むという安心感を感じるが、それと同時に、メイルと自分の間に何か冷たい壁のようなものが出来てしまったような孤立感――寂しさも感じていた。
真反対の感情が一度に湧きあがるのは何故なのか、考えれば考える程、自分が真に望む事はどちらなのか分からなくなって、熱斗はどうにも複雑なその感覚を、自分は何て我が儘になってしまったのだろうかと感じ、恥じる。
そして新たな会話の無いまま、熱斗とメイルは縦一列に並んで歩いて校門を出て、メトロ駅を目指して歩きだすのであった。
それからしばらく、熱斗とメイルは何の会話も無いままに住宅街を歩き、大通りを通り、メトロの駅に入り、メトロに乗り、科学省近辺の駅でメトロを降り、そこから徒歩で科学省へと歩いていた。
そして科学省へ着くと受付に向かい、光 熱斗とその友人である事を受付嬢に説明して館内に入る。
今回の会議で使う会議室はこの建物の中でも高い位置の窓際にある会議室であるため、熱斗とメイルは受付を通過するとエレベーターに向かって歩き出した。
その頃には、熱斗の表情もなんとか普通程度には柔らかいものになっていたが、やはりその顔に笑みは全く浮かんでいない。
時よりその表情を垣間見ては心配をつのらせるメイルを横目に、熱斗はエレベーターの前に立ちそのボタンを押した。
そしてエレベーターに乗り込んで数十秒後、目的の階でエレベーターから降りた熱斗とメイルは会議室に向けて長い通路を歩き始めた。
通路の壁の片方はガラスの窓がいくつもあって、そこから午後の西日が深く差し込んでいる。
その眩しさに、熱斗は若干目を細め、窓のある壁よりも窓の無い壁に顔を向けるようにして歩いた。
会議室への入り口があるのも丁度窓の無い壁の方である為、それをメイルが不審に思う事はない。
静かな廊下に、熱斗とメイルのコツコツという足音だけが響く。
しばらく無言のまま歩いていると、会議室の扉が見えてきた。
熱斗はようやく背後にいるメイルにしっかりと振り向いて、
「じゃ、入ろっか。」
と言って扉の前に立った。
そしてメイルも頷いてその隣に立った時、自動ドアになっている二枚の扉は熱斗とメイルの存在を感知して自動的に開き、熱斗とメイルの目の前に会議室の中の光景を見せた。
いくつもの長い机が綺麗に整列するように並べられている会議室の中には、既に炎山、ライカ、祐一朗、名人、真辺の五人が着席して待機している。
熱斗とメイルが会議室の中に足を踏み入れると、始めに炎山がそれに気付いてドアの方へと振り向く。
「遅かったな、熱斗。桜井も一緒か。」
会議室奥、窓際の最前列に座った炎山は、それだけを言うと視線を手持ちの資料に戻し、資料の黙読を再開した。
熱斗はそれを見て、もう少し何かかける言葉はないのかと少し不満に思い、薄っすらと不満げな表情を見せる。
そんな熱斗とその隣に立つメイルに、今度は真辺が自分の席を立ち、何か資料と思われるプリントを何枚か持ったまま近付いてきて、そのまま二人に声をかけてきた。
「こんにちは、熱斗くん、メイルちゃん。今日はメイルちゃんも会議に参加するのかしら?」
「えっと……」
真辺の問いかけに、会議に参加するかどうかまでは考えていなかったメイルは少し言葉を詰まらせた。
横にいる熱斗もメイルが会議に参加するかどうかまでは聞いていなかったので、どう返答するべきか分からず黙ったままだ。
すると今度は炎山やライカとは違う場所、前方のスクリーンの前に置かれたコンピューター付きの机の前に座っていた祐一朗が席を立ち、熱斗とメイルと真辺の元へやってくる。
その手には真辺と同じく資料と思われるプリントが何枚か握られていた。
そして祐一朗はその中の数枚をメイルへと丁寧に差し出すと、
「はい、これが今日の資料。メイルちゃんも参加して構わないよ。もしかしたら君がまたクロスフュージョンする機会もあるかもしれないからね。」
と言って来た為、メイルはその資料を受け取って会議に参加することになった。
隣にいる熱斗には真辺が同様の資料を手渡してくる。
熱斗はその資料を受け取った。
資料を受け取った熱斗は真辺や祐一朗に促されるよりも早く会議室の中に進み、数多くの空席の内の一つに腰かけた。
それはこの会議室にあるいくつもの席の中でも会議室の中央に近かったが、たった数人で行われる会議にしてはやや後列の部分で、最前列の炎山とは二列の隙間が空いている。
少し遅れて熱斗を追い掛けてきたメイルはその席順を不思議に思い、
「熱斗、もっと前に座ったらどう?」
と熱斗に尋ねる。
だが熱斗は首を小さく横に振り、それ以上の移動を拒んだ。
確かに熱斗も、この人数での会議ならもっと前列、それこそ最前列に並ぶ事が普通であろうことは知っている。
だがしかし、今日の熱斗はどうにも皆に混ざって最前列に座る気にはなれなかったのだ。
特に、炎山がいる辺りには座りたくないと思う。
一体どうして自分はそんな事を考えているのか、それは熱斗自身にも分からないが、とにかく熱斗は前列に座る事を拒んだ。
メイルはそれをしばし不思議そうに見つめていたが、やがて諦めたのかそれとも熱斗の意思を尊重する気にでもなったのか、熱斗の隣の席を引き出し、その席に座った。
熱斗はそれを少し意外そうな表情で見詰める。
「別にメイルちゃんは前に行ってもいいんだよ?」
自分に前列に座らないかと持ちかけたという事は、メイル自身が前列に座りたいという事だろう、と思っていた熱斗はメイルが自分の隣に座った事が意外でそう問いかけた。
するとメイルはこれまた意外そうな顔を一瞬見せた後に、小さく微笑んで、
「いいの、私は熱斗に用事があってきた訳で、会議はオマケだもの。熱斗がそこに座るなら、私もここに座るわ。」
と言った。
その、熱斗に用事がある、という言葉に熱斗は少しドキリとし、何かを期待する様な高揚感と胸の高鳴りを感じた。
用事というのが何なのかは熱斗には分からない、しかしメイルは熱斗に用事があると言ってくれた、これは今メイルの中に自分の存在があると考えてもいいのではないか、そんな期待が脳裏を過る。
一方で、まだそう決まった訳ではない、まだ分からないのだから変に期待をするな、という自分の声も聞こえた気がしたが、それでも熱斗はメイルの言う用事に期待を寄せる事を止める事は出来ない。
まだ会議は始まっていないというのに、早く会議が終わればいいという気持ちが湧きあがって、熱斗は落ち着きを失いそうになるところを必死にこらえた。
熱斗とメイルが着席したのを確認して、祐一朗は再びスクリーンの前の机の前にある椅子に腰かけ、真辺も先ほど座っていた席に戻っていった。
そして祐一朗がスクリーンと机のパソコンの電源を入れ、会議の開始を宣言する。
「えー、これから最近出現している新型ダークロイド、及び新型ダークチップへの対策会議を始めます。まずは手元の資料を見てほしいんだけど……」
祐一朗の行う司会に沿って、熱斗は手元の資料に目を通した。
資料にはこれまでに出現した新型ダークロイドの名前と姿、ダークチップによる一般ナビの被害件数とその分布が載っている。
新型ダークロイド、そして新型ダークチップ、それはどちらも熱斗が昼夜を問わず街を駆け回って闘わなければいけなくなった元凶であり、熱斗は改めてその二つに憤りを感じた。
この二つさえいなければ、自分は今頃メイル、デカオ、やいと、透の四人と一緒に何も気にする事無くただただ楽しく遊んでいられたというのに、と。
熱斗がそんな事に考えを巡らせている間にも会議は進み、祐一朗は言葉を続ける。
「彼等が一体どんな徒党を組み、どうしてこのネットワーク、ひいては現実社会を攻撃するのかはまだ分かっていない。ただ、ディメンショナルエリア等の高度な科学力を有していることからして、裏に人間がいる可能性はとても高いだろう。」
つまりこの組織はネビュラ型――トップや一部上層部に人間を置き、その下は全てネットナビ(新型ダークロイド)で固めた組織なのかと熱斗は考える。
闇の力を使っている点やダークチップを製造、散布している点を考えてもその可能性は極めて高い、が、一体どんな人間がトップを務めているというのか、それはまだこのネット警察では分かっていない。
何処の誰だか知らないが、この誰かさえ何もしていなかったら自分の生活は今と大きく違ったのではないかと思うと、自然と悔しくなってきて、熱斗は膝の上に置いた左手をぎゅっと強く握りしめた。
祐一朗による説明はまだ続く。
「今まで狙われたのは官庁街、ビル街等、大きな施設、またはライフラインに関わる施設が密集している場所ばかりだ。それから――」
そうそう、この間自分が入院する破目になった襲撃も割と大きなビル街だったな、と熱斗は思い出し、一人内心でうんうんと頷いた。
あの時は遊びの最中に引きずり出された上に酷い惨敗を喫してしまい、二重の意味で悔しかった事も思い出す。
もし今度あの新型ダークロイドが街に現れたら、今度こそは全力で打倒してやるのだ、と熱斗は決意を新たにした。
そうしてここまではいたって冷静に会議の内容を聴いていた熱斗だったが、祐一朗の次の言葉に重大な出来事を思い出し、困惑することとなる。
「一体どのようにして流通しているのかはまだ不明だが、新型ダークチップによる被害も問題だ。」
膝の上に乗せた手が、ピクリと動いて反応した。
祐一朗は話を続ける。
「科学省やネット警察でもダークチップは使わないようにと前々から注意喚起しているのだが、一部のチップは普通のチップに偽装されて出回っているらしく、知らない間にダークチップ中毒になったナビの報告が絶えない。」
ダークチップ中毒、その言葉に熱斗は今も自分の中にいるであろうあのダークソウルの事を思い出し始める。
そうだ、理由は分からないが、自分も今はこのダークチップ、もしくはその中に凝縮されるダークオーラの被害者なのだと思いだした熱斗は、途端にその恐怖を思い出した。
血のように真っ赤な瞳、全てを嘲笑うかのように吊りあがった口元、そして自分の心の暗部をいとも容易く指摘して自身をその暗部そのものだと言ったその姿、全てを思い出し、熱斗は僅かに身震いする。
だがそんな事には気付かない祐一朗はそのまま会議を進めた。
「炎山くん、先日の報告いいかな?」
祐一朗に指名されて、炎山がその場で立ちあがる。
「はい。これは先日の事なのですが、ダークチップ中毒に陥り自分のダークソウルに呑まれて暴走していたナビを、インターネットシティで一体捕縛しました。」
ダークソウル、という言葉に熱斗は更に強い反応を自分の心の中だけで感じた。
まるで何かに耐えるように、膝の上に置いた左手で膝の皮膚に爪を立てる、そんな熱斗が抱いていたものは強い恐怖と罪悪感だった。
もしかして、自分もそのナビのように徐々に汚染されておかしくなっていくのだろうか、という恐怖、そして、自分はそういったもの達から皆を護る為にいるというのに、まさか自分にもそれに匹敵する部分があり、それが形を持っていたなど、という罪悪感が熱斗の胸を締め上げ尽していく。
息が、苦しい。
「オペレーターを取り調べた所、彼は偽造ダークチップの被害者で、自分の意思でダークチップを使った訳ではありませんでした。」
炎山からの報告に、自分の意思ではないという点でいえば自分も同じ、一体何時何処でどのようにしてどうしてダークオーラなどに感染してしまったのだろうか、と熱斗は悩む。
そして今この瞬間もあのダークソウルは自分の目を、意識を、記憶を通してこの会議を覗き見ているのかと思うと一段と怖くなって、熱斗はこの事を告白すべきかどうかを考え始めた。
もしも自分ではなく炎山やライカが感染していたとしたら自分はどう思うか、それを考えると、今自分がしなければいけない事はこの闇の塊の存在を告白することだろうと熱斗は考える。
熱斗がそんな事を考えている間にも会議は進み、炎山の報告も進む。
「このまま偽造ダークチップの流通経路を掴む事ができなければ、これからもこういった無自覚の被害者は増え続ける事でしょう。」
「シャーロでも極少数ではありますが偽造ダークチップの被害を確認しています。」
炎山のまとめに続いて、ライカから海外事情の報告が入った。
新型ダークチップの脅威はどうやら国内だけにとどまっていないらしい。
益々甚大さが増すその被害状況を聴いて、熱斗は今此処で言わずして何処でいうのかと思い、誰に何を言う事も無く急に立ち上がった。
ガタッという椅子が動く音に気付いて、炎山、ライカ、祐一朗、真辺、メイル、名人が一斉に熱斗を見る。
「熱斗? どうかしたのか?」
しかし、祐一朗の問いかけに熱斗は答えられなかった。
何故なら、熱斗は最初に立ちあがった時に向けられた多くの視線によって新たな恐怖を感じ始めていたからである。
仲間達から向けられる視線、視線、視線、視線、視線、視線、その前で自分の闇を、自分の陰を公表するなど、一体誰ができようものか。
熱斗もこの時、立ちあがってみたはいいもののその視線に怯み、更には、もしもあのダークソウルが本当に自分の心の陰そのものなのだとしたら、それを公表した時自分は一体どれだけの軽蔑を受ける事になるのかと思い、口を開く事を躊躇ってしまったのだ。
立ちあがったはいいものの、何も言おうとしない熱斗に祐一朗は不思議な物を見るような視線を送る。
名人や真辺、更にはメイル、炎山、ライカも同じ視線を送ったが、熱斗にはそれが既に自分を責め立てているように見え始めていた。
「熱斗、どうした?」
ライカの問いかけが聞こえる、けれど熱斗は返事をしない、返事を出来ない。
「おい、熱斗?」
炎山の声も聞こえた、けれど熱斗は返事が出来ない。
「熱斗? ねぇ熱斗どうしたの?」
そんなメイルの声が聞こえてきた時、熱斗はやっとの思いで口を開いた。
ただし、
「……いや、何でもない。」
それは自分の闇の塊を告白するという当初の目的とはずいぶん違った言葉で、熱斗はそのまま席に着き直した。
それ以降ややうつむいて石のように押し黙ってしまう熱斗を見て、祐一朗達は不思議な物を見たような顔を見せるが、何も無いならそれでもいいかと思ったのか、再び会議に戻っていく。
「それで――」
それ以降の内容を、熱斗はほとんど覚えていない。
それからどれくらいの時間が経っただろう、熱斗にとっては長いようで短いようでやはり長いようなよく分からない時間が流れ、ようやく会議は終わろうとしていた。
司会の祐一朗が会議の終了を告げる。
「――それではこれで会議を終了します。皆、お疲れ様。」
最後に祐一朗が労いの意味を込めてニコリと優しく微笑む。
炎山やライカ、真辺や名人は一礼してから席を立った。
熱斗とメイルはまだ席を立たない。
「では私はネット警察本部に戻りますので、」
前方右手から、真辺が名人にそう伝える声が聞こえる。
前方左手からは、炎山とライカの会話が聞こえる。
「炎山、お前はこの後どうするんだ?」
「俺は会社の仕事があるんでな、IPCに戻る。ライカ、お前は?」
「俺は少しこの事件の資料を読み込んでおきたい。資料室に行こうと思う。」
そんな会話をしながら炎山とライカは共に歩みを進め、会議室を後にし、その姿を自動ドアの向こうに消していった。
それに続くように真辺と名人も自動ドアに向かって歩き出し、その足を開いた自動ドアの向こうへと進め、廊下を歩きだす。
会議室には自然と祐一朗と熱斗とメイルだけが残る。
熱斗が、ようやく終わった、と思って疲れた溜息をついた時、祐一朗が熱斗とメイルに近付いてきて尋ねた。
「熱斗、メイルちゃん、お疲れ様。この後二人はどうするんだい?」
祐一朗の問いにメイルはやはり上手く答えられず、此処は自分が答えるべきだと思った熱斗が口を開く。
「俺達はもうちょっと此処で休んでいくよ。パパは?」
「私は研究室に戻って新型ダークチップの解析作業に当たるつもりだ。今回の新型ダークチップのダークオーラは前のネビュラやネオWWWのものとは少し違うみたいだからね、有効なワクチンチップの開発の為に調査が必要なんだ。」
祐一朗の口からダークチップとダークオーラの事を聞かされて、一度は浮き始めていた気持ちが再度沈んでいく。
熱斗は口には出さず心の中だけで、パパ、俺も今そのダークオーラに感染してるみたいなんだ……と告げる。
一人で抱えるには重すぎて、けれど誰かに伝えるにも重すぎる事実を、熱斗は自分の心の中だけに仕舞いこんで、それでも尚どこかで誰かに伝わる事を祈っていた。
そんな熱斗の思いを知ってか知らずか、それは分からないが、祐一朗は熱斗にこんな質問を投げかけてくる。
「ところで熱斗、さっき会議中に立ったのは結局何だったんだい?」
「えっ……。」
もう終わったことだと思っていた事を再度質問されて、熱斗は言葉に詰まった。
自分の中にいる闇の塊――ダークソウル、それを明かそうかと思って立ちあがったのが先ほどの事だったが、熱斗の気持ちは今はもうそれを明かさない方向で定まっているのだ。
それなのに祐一朗から先ほどの事は何だったのかと質問されて、熱斗はこの期にダークソウルの事を話してしまうべきかどうか再び悩む。
多分、自分ではなく炎山やライカが感染していたら自分はどう思うか、どうして欲しいかと考えてみれば、自分だったらすぐに明かしてほしい、独りで悩まないでほしいと思うであろうことはなんとなくわかるのだ。
だから、それを考えれば今此処ででもいいから、この自分の中の闇の塊の事を祐一朗に話すべきであろう事は分かる。
けれど、いざ自分の中に闇の塊があると考えると、それはそれだけで酷く恐ろしく、どうにも信じたくない事で、誰かに話すなどもってのほかに思えてしまうのだ。
もし自分の息子の中にダークソウルという闇の塊が潜んでいると知ったら、父は軽蔑するのだろうか。
その軽蔑がダークソウルと同じぐらい怖くて、それならこれは独りで解決すべきではないかと熱斗は思う。
それに、希望だって無い訳ではない。
以前人間で初めてのダークチップ中毒に陥った岬刑事は、ダークチップの服用さえ無くなれば自然に治ると診断されていたではないか。
熱斗は、答えを決めた。
「……なんでもないよ、ちょっと資料で分かりにくい所があって、訊こうと思って立ったんだけど、立った途端に理解出来て言う事が無くなっちゃっただけ。」
そう言って笑って見せる熱斗を、祐一朗はしばし僅かに疑うような視線で見ていたが、やがてそれ以上の追及は無駄と考えたのか、それとも熱斗を信じる事に決めたのか、その視線を柔らかい視線に変えた。
それに安心して熱斗は内心ほっと溜息を吐く。
その時熱斗はふと、そういえば最近嘘を吐く回数が増えたな、という事に気がついて、僅かに気分が沈むのであった。
そんな熱斗の頭を軽く撫でながら、祐一朗は言う。
「そうか、それならいいんだが、困った事があったら何時でも言うんだぞ?」
熱斗は僅かな間、その言葉に答える事が出来なかった。
「……うん、分かった。」
僅かに微笑んで肯定の返事を出しながら、熱斗はそれを今日の最大の嘘だと思った。
本当にそれを分かるなら、分かったと言うなら、了解したと言うなら、今すぐにでも言葉を変えて、自分の中の闇の塊の事を祐一朗に伝えるべきだと、熱斗は知っている。
けれど熱斗はそれを隠し、困った事があったら何時でも言えという祐一朗の言葉に反した行動を取っている、だから、この“分かった”という返事は今日の最大の嘘だ。
いつも自分に素直に有りたいと思った、ずるい嘘は吐きたくないと思った、そんな純粋な自分に“この嘘吐き”と責めたてられて、熱斗は僅かに頭痛のような違和感を覚える。
それでも幸か不幸か、それは分からないが、祐一朗は熱斗の隠している事に気付く気配を見せない。