あの子の足元にも影はある

「ね……くん……っと……熱斗くん! 朝だよ! 起きて!」

もう何百回繰り返しただろうと思ういつも通りの朝の光景。
熱斗はロックマンの声を聴きながら、ゆっくりと開いたその視界に、現実世界の光に満ちた風景を映した。
先ほどまで見えていた闇はもう何処にも見えない、何処にも感じられない。
そんな光に満ちた世界の中で、熱斗は普段より強い気だるさを感じ、このままもう一度眠りたいと思いながらも、今日は休日ではないのだからそんな事をしている場合ではないと考え直して、ゆっくりと上半身を起こす。

「あ、起きたね。熱斗くん、おはよう!」

ぼんやりとした頭のまま、熱斗はベッドの上で、机の上に置いたPETから聞こえるロックマンの声を聞いた。
ロックマンの声はいつも通り元気で明るく、特に今日は特に明るい気がする、少し空回りな程に。
それは、先ほどまで聞いていた自分であって自分ではない声とは似ても似つかない明るさを湛えている、それに気付いた時、熱斗の全身を一瞬悪寒が駆け抜けた。

――そうだ、俺の中にダークオーラが……。――

陰湿な微笑み、血のように紅い瞳、悪魔の囁きにも似た声と言葉、全てが自分から分離した一部で、それが自分の中に底知れぬ闇として宿っている事と、更にはそれが自分の心の隅にある様々な負の感情の全てを把握している事を自覚して、熱斗は恐怖する。
それらは独りで抱えるには重すぎる事実だったが、だからと言ってこんな事、一体誰に相談できようか?
今までの自分のイメージ、そして功績すらひっくり返しかねない異常事態を、熱斗はまだ当分誰かに告げられそうにはない。

「熱斗くん? どうしたの?」

そんな事を考えてベッドの上で呆然とかたまっていると、それを不思議に思ったロックマンが熱斗に声をかけてきた。
ハッとして声のした方、机の上に視線を向けると、PETの隣に小さなホログラムで現れていたロックマンと視線がぶつかる。
その黄緑色の瞳はあの紅い瞳とは真反対の輝きを宿していて、今の自分はあの紅い瞳のような暗い目をしているのかもしれないと思い込む熱斗は、実際にはそんな事は無いのだが、ロックマンに自分の視線の重暗さを指摘される事が怖くなってロックマンから視線を逸らした。
ロックマンは何か不思議な物を見るような、どうしたのだろう? と言いたげな顔で熱斗を見詰め続ける。
その状況は熱斗には酷く居心地の悪い物で、熱斗はそっとベッドから降りるとロックマンには視線を向けないまま、

「……顔、洗ってくる。」

とだけ言って、少し早く歩いてその場から逃げるように部屋を出る。
机の上でそれを見送るロックマンは、不安ではないが不思議ではあるとでも言うような、少しキョトンとした顔で熱斗の背中を見詰めていた。

部屋を出た熱斗は静かに階段を降り、リビングへと到着した。
部屋の中を見回すと、キッチンには母親のはる香がいて、いつも通りに朝食の準備をしている。
普段の熱斗ならここで、おはよう、と挨拶をする所なのだが、今日はなんとなく、いや、どうにも挨拶がしづらい。
挨拶自体は普段通り簡単におはようと言えばいい、それだけだが、その後、もしも自分が酷く暗い顔をしていたとして、それに気付かれてしまったら、そして指摘されてしまったら、更には失望されてしまったらと思うと、顔を合わすことが怖くて仕方が無い。
熱斗は極力、はる香に自分の表情が見えない角度で歩いて洗面所へ足を進める、が、

「あら熱斗、おはよう。」

やはり完全に気配を消す事は出来なかったのか、はる香の方が熱斗の存在に気付いて挨拶を投げかけてきた。
一瞬両肩がビクリと震え、熱斗は冷や汗が出るような焦りを感じる。
しかし幸いにも熱斗は今、はる香に背を向けて歩いている、だから熱斗は普段なら振り返ったかもしれないこの場面で、そのまま振り返らずに、

「あぁうん、おはようママ。」

と返事をしてから、そのまま洗面所に向かって歩みを再開した。
はる香はそれを不思議もしくは不審に思う事は無かったのか、何も聞いてこない。
一歩一歩、いつも通りのペースでゆっくりと、洗面所に通じる廊下に向けて歩みを進めるうち、熱斗は自分が不審に思われず済んだ事を理解して小さく安堵の息を吐いた。
廊下を歩くスピードは少しだけ普段より早くして、熱斗は洗面所へと足を踏み入れると、すぐに洗面台の鏡を見る。
自分が今どんな顔でどんな表情をしているのか、確かめるためだ。

「……。」

鏡に映る自分の顔は幸い普段通りの形と雰囲気をしていて、目の色もあのダークソウルのような赤ではなく普段通りの茶色をしている。
心の疲労は酷いものだが身体の疲労はそうでもないのか、目の下にやつれた影や隈は無い。
表情こそ緊張しているものの、顔自体はいつもの通り、何の変わりも無い、それを確認して熱斗はもう一度安堵と疲労の溜息を吐いた。
よかった、見た目で解る変化は何も無い、それだけでも今の熱斗にとっては大きな救いであった。
だが、だからと言って、それが熱斗を完全に闇から解放してくれると言う事は、ありはしないのだけれど。
顔つきや表情にこそ出ていないが、きっとアイツ――自分の姿をしたダークオーラは今も自分の中に居る、それを想うだけで熱斗には、先ほどの安堵など簡単に吹き飛んでしまう程の不安と重圧、そして様々な恐怖がのしかかるのであった。
熱斗は起きたばかりだと言うのに酷い緊張感を感じながら鏡を見詰める。

「……顔、洗うか。」

やがてその行為にこれ以上の意味と収穫は無いと感じたのか、熱斗は蛇口のレバーを上げ、ロックマンに向けた言い訳を本当にする為、洗顔を始める。
蛇口から流れ出る冷たい水を両手で汲んで顔にかけた時、熱斗はふと、この水であの闇も流れ落ちてしまえばいいのに、と思うのであった。



冷たい水と共に顔を擦った手を洗い、清潔な白いタオルで顔と手の水気をふき取る。
水気を吸いこんで僅かに重くなったタオルを洗濯物がまとめてある籠に投げ入れると、熱斗は洗面台を後にした。
なるべく普通に、と意識しつつも少し重い足取りで、廊下の中央をリビングへ向けて歩く。
先ほど鏡で自分の顔があの陰湿な笑みを湛えていない事を確認した事で少しは落ち着いたのか、今度ははる香に顔を見られても構わないと思いはするが、その胸の奥が何処か晴れないのは変わり無い。
身体の奥に重りを詰め込まれたようなズッシリとした倦怠感と、同じ身体の奥を小さな針でチクチクと軽く刺され続けるような罪悪感を感じながら、熱斗は廊下を通り抜け、リビングへと足を踏み入れた。
リビングでは、熱斗が洗面所で顔を洗っている間にはる香が朝食の準備を済ませており、丁度はる香自身が席に着いたところである。

「あ、熱斗、朝食できたわよ。」

席に着いたはる香に軽く手招きをされて、熱斗は僅かに躊躇いながらも自分が普段使っている席へ向かい、腰かけた。
熱斗の席は丁度はる香と向かい合うような位置に置かれていて、その配置に熱斗はあるはずの無い悪意――こんな日にわざわざ母親と向かい合わせで無くてもいいじゃないか、一瞬も気を緩めず朝食を摂れと言うのか、という不満を感じる。
それでも一応次の瞬間にはそこに悪意など無い事、そもそもこれは普段通りの行動である事をなんとか自分に認識させ、熱斗は目の前にある綺麗な皿に置かれたトーストを何の調味料も塗らぬまま少し乱暴に齧った。

「あら、熱斗、これでも塗ったら?」

パンそのものの味しかしない淡泊なトーストを苛立たしげに齧る熱斗に気付いて、はる香が普段通りの笑顔で苺のジャムを勧めてきた。
その声を耳に入れた熱斗は、視線をパンやテレビからはる香に向け直す。

「……ありがと。」

そして熱斗は僅かな沈黙を挟んだ後、普段より少しそっけない声で礼を言いながらその苺ジャムの瓶を受け取った。
新品ではないが今日はまだ使っていないのか、蓋はしっかりと閉じられている。
熱斗はそれに理由の無い苛立ちを感じながら蓋を開け、近くにあったバター用のナイフを手にとって瓶の中を覗く。
瓶の中には苺ジャム特有の紅色混じりの赤色が詰め込まれていて、ふと熱斗の脳裏に今朝夢で見たあの紅い血のような色の瞳のイメージが走り抜けた。
思わず、両手がピタリと動きを止める。

「熱斗?」

その挙動不審はほんの一瞬でしかなかったが、血縁者、それも親にしてみれば気付くのは容易い事だったのか、両手が動きを止めた次の瞬間、熱斗ははる香から疑問形混じりの声で名前を呼ばれた。
熱斗はそこで初めて、自分の両手がピタリと動きを止めている事と、意識という名の思考力が何処か遠くへ飛びそうになっていた事に気付く。
何か不思議な物を見るような目で自分を見てくるはる香を見て、熱斗の中に、いけない、普通にしなければ、普通に、普通に、普通? 普通とは何だっただろう? 等という混乱した思いが湧き上がる。
普通、普通、普通なら此処はどうするべきか、散々異常に迷った末に、熱斗はまるで何事も無かったかのように両手の動きを再開し、バターナイフを瓶の中に突っ込んだ。
そのあまり普通ではない行動にはる香は小さく首を傾げたが、熱斗が言いたくないなら……と思ったのか、それ以上何か追及しようとはしなかった。

それを感じとって、熱斗は僅かに落胆しながら大きく安堵する。
まさか、言える訳が無いのだ、自分の中にこの世で最も唾棄すべき感情が別人格――ダークソウルという形をとって居座っているなど、そんな事、母親相手に言える訳が無いのだ。
けれど、その一方で熱斗は、本当は気付いてほしかった気がする、とも思い、僅かに落胆もしている。
ロックマンと対峙した時にも似たような事を何度も思ったが、だとすれば自分が本当に望んでいる展開はどちらなのだろうか、と熱斗は悩む。
全てを覆い隠して無かった事にしたい一方、今すぐ誰かに事の全てを明かして泣きついて助けを乞いたい気もする。
けれど、その助けを乞う相手は何処に居るのか分からないし、助けてもらえる気もあまりしない、それなら黙っていた方がいいかもしれない、けれどそれはそれで苦しい、やはり自分は全てを誰かに明かしたいのかもしれない、けれど誰に? 誰なら受け止めてくれる? それが熱斗には想像できなかった。
それどころか、熱斗にできる想像は、何が悲しいのかどうにも拒絶される展開ばかりで、それなら何もしない方がマシだと思えるものばかりになっている。

瓶の中に突っ込んだバターナイフで少量の苺ジャムを掬い、食べかけのトーストに塗りつける。
塗りつけたジャムは広範囲に伸ばすことでその色を薄いものに変え、あの紅い目とはあまり重ならない色になった。
しかし、いくら広げても、いくら薄くなっても、今トーストに塗られているものが苺ジャムである事実は変わらない。
それと同じように、いくら目を逸らしても、いくら感じないふりをしても、いくら薄めたふりをしても、自分の中に潜む闇が闇で無くなる事は無いのかもしれないと感じ、熱斗は憂鬱な気分になりながら、再びトーストを齧るのであった。

それからしばらく、熱斗とはる香は何の会話も無いまま、ただ黙々と朝食を摂り続けていた。
その沈黙を埋めるかのように、部屋にはテレビから流れるニュース番組の音が響いている。
何処の地方のどの街で通り魔、何処の地方のその街で交通事故、そんなありふれた話を右から左に聞き流しながら、熱斗は朝食を摂り終えて、ゆっくりと席を立った。

「ごちそうさま。」

いつもより元気のないその声にはる香は何か懐疑そうなものを感じたのか、何か不思議な物を見るような目で熱斗を見た。
それに気付いた熱斗は、その不思議な物を見る――観察するような視線がどうにも嫌で、すっとはる香から目を逸らし、背を向けて、自室に向け歩き出す。
それはまるで、一種の逃避だった。

しかし、はる香から逃避した所で、他人の視線が無くなる事は、この20XX年においては非常に稀な事である事を、熱斗は痛感することとなる。
自室へ繋がる階段を上り、開いたままの扉をくぐって自室に入ると、熱斗はまずPETの横に急に現れたロックマンと視線を合わせることとなってしまった。
どうやら熱斗の足音から戻ってくるタイミングを推測し、わざわざ出迎えてくれたらしい。
理由は特にない、というよりも分からないのだが、とにかく他人とあまり目を会わせたくなかった熱斗は、今日に限ってわざわざ出迎えてくれなくてもいいのに、と少し苛立つ。
それを知ってか知らずか、おそらく知らないのだろうが、ロックマンはわざわざ熱斗の視線に自分の視線が正面からぶつかるような角度に顔を上げてくる。

「おかえり、熱斗くん。朝ご飯はもう食べたみたいだね。」
「……あぁ。」

少しだけ微笑みながら真っ直ぐな目で熱斗を見詰めるロックマンに、熱斗は僅かに沈黙した後に短い返事をした。
それからすぐにロックマンに背を向けて、昨日の夜に脱ぎ散らかした衣服を拾って一ヶ所にまとめる。
そしてロックマンに背を向けたまま、パジャマのボタンを一つ一つ外し、先ほど昨日の私服をまとめた場所に脱ぎ捨てた。
その間、熱斗は昨日のホームルーム前と同じようにロックマンの視線が自分から外れている事を祈り、それを確認したがっている自分を抑える事に必死になる。
今背後を向いてはいけない、今背後へ振り返ればロックマンと目があってしまう。
目があった所で何が問題なのか、それは熱斗にも答えられないものであっただろうが、とにかく熱斗は今この瞬間、自分以外の人間から向けられる視線というものに過敏になっていた。
やはり、自分の中に自分であって自分ではない闇の塊があるという事実は熱斗の心に更に暗い影を落としているようだ。

そして熱斗はパジャマの上着を脱ぎ捨てると、上半身が裸のままでクローゼットの前に立ち、今日着る新しいシャツを取り出した。
その時、

「あっ!」

熱斗の横でロックマンが何かを思い出したように声を上げ、それに驚いた熱斗はビクリと両肩を震わせた。
ロックマンは一体何にそんなに驚愕したのか、さすがに気になってロックマンがいるであろう机の上、PETの方へ視線を向けると、そのPETの横に少し気不味そうな表情でロックマンが熱斗の方を見て立っている。
熱斗は白いシャツを着ながらロックマンに問いかけた。

「どうしたんだよ?」

熱斗が問いかけると、ロックマンはやはり気不味そうな顔で頭をポリポリと少し掻いてから、怒らないでね? と前置きをするかのように上目遣いで熱斗を見て、少し申し訳なさそうに答える。

「着替える前に、歯磨きしてくれば? って言えば良かったなぁ……って。」

どんな深刻な事態かと思ったら、大した事の無い用事だった事に、熱斗は酷く脱力したという。



それから熱斗は着替えを済ませた後に再度洗面所に向かい歯磨きを済ませ、自室に戻った際に鞄に必要な勉強道具と筆記用具を詰め込んで、その鞄とPETを片手に自室を出た。
階段を下りる途中でPETを左肩のホルダーに装着し、鞄はリュックとして背負う。
そして熱斗は今度はリビングを通らずにそのまま廊下を通り、玄関へと向けて足を進める。
途中、少しだけ母親の様子が気になってリビングへ振り返ったが、はる香はそんな此方の様子には気付かず洗い物をしている。
だから熱斗は、声をかける事無く前へ向き直り、靴を履いてから玄関の扉に手をかけた。
キィ……と軽い音を立てて扉を開ければ、そこには広い広い外の世界が広がっている。

「眩し……。」

扉を開けて一歩外に出た途端、眩しい朝の日差しが昨日と同じように熱斗を出迎えた。
熱斗は思わず腕で目の前に影を作りながら目を細める。
最近、本当に朝日が眩しい、そんな事を想いながら、熱斗は目の前のやや長い階段をゆっくりと下りはじめた。
住宅街は静かで、自分の足音と呼吸音以外の音は何も聞こえない。

それにしてもどうにも目がこの朝日に慣れてくれない、どうにも視界が眩しくて仕方が無い、と思う熱斗は一度立ち止まって溜息を吐く。
するとその溜息を不思議に思ったのか、ロックマンが肩の上に現れて声をかけてきた。

「熱斗くん、どうしたの?」
「え、あぁ……なんか最近、外が妙に眩しいなって……。」

そう言いながら熱斗は、自分とは違い腕や手で日差しを遮ろうとしないロックマンを不思議に思った。
ネットナビであるロックマンはそういったことへの適応が早いのかもしれないとも考えられるが、それにしたって今日や昨日は眩しいはずなのに、眉一つ動かさないとはどういう事か。
何か理解のできないものを見るような目でロックマンを見ていると、ロックマンは周囲と空を二、三回程見まわした末に、不思議そうに口を開いた。

「そんなに眩しいかなぁ……? 僕には普通に見えるけど……。」

ロックマンのその答えに、熱斗は、えっ、と言葉を詰まらせた。
自分に見える視界は酷く眩しくて身体が焼かれるような錯覚さえ起こしそうだと言うのに、ロックマンはこの程度の日差しは普通だと言う、その認識のずれに、熱斗は形容できない不安を抱く。
一般的に視界が眩しくなると言うと目の病気である白内障を思い浮かべるものだが、熱斗の年齢ではそれは当てはまらないだろう。
では何故今の熱斗には日差しが必要以上に眩しく見えるのか、熱斗に考えられる予想はたった一つだ。
日差しが意味するもの、それ即ちこの世で一番の光、それを嫌うもの、それ即ちこの世界の暗闇、つまり日差しを少しでも嫌がった今の自分は、その素質が、暗いものに傾き始めているのかもしれない。
それに気付いた時、熱斗は日差しに身体を焼かれる感覚とは別の、何かが何処で蠢いて自分を浸食しようとするようなイメージを思い浮かべて小さく震えた。
そして慌ててそれを振り払おうと、熱斗は眩しいと思う日差しをあえて浴びる選び、顔の前にかざした腕を下ろした。
この光で、あの闇が浄化されてしまえばいい、熱斗はそう強く思う。

「そう、だな。そうだよな、そんなに凄く眩しくは無いよな!」

ロックマンの問い返しに必要以上の力を込めてできる限り元気に答える、それが今の熱斗にできる最大の、そして唯一の抵抗であった。
しかしそうして一方の、光と善意と正義を愛する自分を無理矢理強めれば強める程、足下の影は黒さを増していく事に熱斗は気付いているだろうか?
本来自身の闇に対してすべき事は、足掻く様な拒絶ではなく、受け入れたうえでの抑制であることを、熱斗はまだ知らない。

顔の前にかざしていた手を下ろした熱斗は、今が遅刻ギリギリの時間ではない事を確認すると、先ほど止めた足をまた学校に向けて動かし始める。
人気も無く静かな住宅街をゆっくりと落ち着いて歩く、時間が穏やかに過ぎていく、その中で、熱斗は既に学校に着いた時の事を考えていた。

昨日は折角皆と集まる事ができたと言うのに、自分から体調不良を理由にして帰宅してしまった。
しかもその前には、皆を嘲笑うような発言を繰り返し、不審に思われている。
こんな状況で、一体どんな顔で皆と会えばいいと言うのか、熱斗には全く予想もつかないのだ。
とりあえず、今日はなるべく大人しくしておこう、と、熱斗は決意を新たにする。

昨日は走り抜けた道を、今日はゆっくりと余裕を持って歩く。
住宅街を抜けて人通りの多い道に出た時、熱斗はふと、昨日は此処で皆の姿を探したのだったかと思い出し、どうにも苦い気持ちがこみ上げるのを感じた。
れなのに、今日はもしかしたら、という期待が脳裏を過って、熱斗は自分に、今日はもう見ないぞ、と言い聞かせつつも、信号を確認するという口実の下で周囲を見回す。
案の定、周囲にはメイルやデカオ、やいとや透の姿は無い。
あるのは通勤途中のサラリーマンやOL、それから同じ秋原小の生徒ではあると思われるがあの四人とは無関係の下級生達の姿ばかりだ。
正直、そんなものだろうという気は何処かでしていた、していたのだが、もしかしたらという期待を捨てきる事も出来なかった熱斗はそれが酷く残念で、信号を待ちながら小さく溜息を吐く。
よく、奇跡は二度は起きない、などという言葉を聞くが、自分には一度の奇跡も許されていないのだなと思うと、余計に気が沈んだ。
やがて目の前の信号が赤から青に変わり、熱斗は周囲にできている人の波に流されるかのように横断歩道を渡った。

それから更に数分歩くと、今度はまた少し別の住宅街の近くに入る。
此処からは先ほどまで多かった通勤途中のサラリーマンやOLなどは減り、そのほとんどが秋原小学校に通う児童ばかりとなり、ようやく“学校に来た”という実感が強くなってくる。
何人もの下級生や、あまり話をしない同級生が熱斗の脇を通り過ぎていく。
そこから聞こえる声はとても無邪気で明るく、その光は熱斗の足下の影を一層濃いものにする。

――俺もああやってみんなと楽しくいたかっただけなのに……。――

ふと、熱斗の脳裏にそんな思いがよぎった。
昨日から、いやそれよりも前からずっと思っている、皆の輪の中へ帰りたいという気持ちが、友達と共に登校して楽しそうな下級生達を見るたびにその濃さを増していく。
昨日も思ったことだが、本来なら自分だって家を出てすぐの辺りでメイルに会って、更にデカオがお決まりのセリフを吐きながら現れて、今自分が立っている辺りにくると透がひょっこりと現れて、学校に着くとやいとが自動車で登校してくる所に丁度居合わせる事ができて、それから五人で一緒に教室の並ぶ廊下へと歩みを進める、そのはずだ、そのはずなのに、今の自分は一体何がどうなっているのだろう? どうして独りでいるのだろう?
それを考える度、熱斗は何処か悔しくて悲しくて、そして何より寂しい気持ちになって、ただでさえ冷えた気がする身体が余計に冷えていく感覚を覚えるのである。
もしも熱斗が諦めの良い人間、もしくは人間関係に縋らない人間だったなら、ここで“たまには仕方が無い”とか、“今の自分を見られるよりはマシかもしれない”などの言い訳を自分に言い聞かせ、現実をそのまま飲み込む事ができたかもしれない。
しかし熱斗は実際には諦めが悪く、その上人間関係が自分の人生の大部分を占めているタイプであった。
だから、熱斗には今この瞬間の、独り、という状況に納得する術が無い。

ぼんやりとそんな事を考えながら歩き続けると、住宅街を再度抜けてやや広い公園へと出た。
そこにある噴水の前を通り過ぎれば、秋原小学校はすぐそこだ。
熱斗は最後の僅かな希望を抱いて自分が今立っている噴水の前の周囲を仲間たちの姿を探して見まわしたが、見つけられるのは普段は話さない他の学年の生徒ばかりで、メイルやデカオ、透ややいとの姿は影一つ見えてこない。
別に誰が悪いと言う訳ではないのだけれど、何と無くそれが気に入らなくて、熱斗は足下にあった小石を遠くへ向けて軽く蹴った。
そして、学校の正門へ向けて歩みを再開する。



昨日と同じ校庭の真ん中を、今日は走らずゆっくりと歩いて渡る。
時々下級生と思わしき子供が脇を走って通り過ぎていくが熱斗は気にしない、気にする価値は無い。
少しだけ重いと言える足取りで、僅かにふらつくかのように、一定の流れに流されるように歩いて、今日はまだ人気のある昇降口にたどり着いた。
熱斗は、本当にこれが最後だ、と思いつつ皆の中の誰か一人でもそこに居ることを期待して周囲を見回したが、やはりそこに仲間たちの姿は無い。
やっぱり、という落胆を感じながら熱斗は溜息を吐き、近くの階段を六年生の教室がある階に向かって上り始めた。
今日はまだ遅刻ギリギリの時間ではないので一歩ずつ、踏み外さないように、踏みしめるように、ゆっくりと足を進める。
途中で何人か同級生が階段を駆け上がっていく姿が見えたが、熱斗はそれにはあまり興味を示さず、同級生達もそんな熱斗に興味を示すことは無い。
階段をのぼりながら、熱斗はひたすら、この後みんなに会ったら昨日の事をどう弁解すべきか、それとも何も言わないべきなのかを悩み、迷っていた。

六年生の教室がある階まで階段を上りきり、いくつかの教室が立ち並ぶ廊下に出た。
廊下には六年生や五年生など自分と同じ、もしくは一つ違いの学年の生徒の姿ばかりで、一、二年生といった小さな子供の姿は見えない。
それは熱斗に、この中にもしかしたらみんながいるかもしれない、という期待と緊張感を与え、熱斗は心臓が独りでにその脈を強め、速めるのを感じた。
しかしその一方で、みんながいたら何なのだろう、という諦めのような絶望のような、落胆と呼ぶ事の出来るかもしれない感情も湧きあがってきて、熱斗は僅かに眉をひそめた。
もしこの廊下か教室に皆がいたとして、今の自分がその輪の中に簡単に入れるとは思えない、そんな不安が熱斗の胸を締め付ける。
ダークソウルの事はひとまず置いておくにしてもだ、昨日の事は一体どう弁解したらいいのだろう、どう謝罪したらいいのだろう、それが分からなくて、熱斗は神妙な面持ちで小さく溜息を吐いた。
そして、ともかく教室まで行ってみなくては、と、廊下を六年A組の教室に向けて歩きだす。

六年A組の教室の前に着くと、熱斗は静かに先方の扉を開けた。
開いた扉から教室の中を窺うと、早過ぎず遅すぎない時間に到着したのか、教室の中は半分ほどの机に生徒がいて、もう半分はまだ生徒の到着を待っているという状態であることが確認できた。
次に、熱斗は教室に居る面々の中にメイルやデカオ達がいるかどうかを窺う。
一番可能性の高い場所、自分の席の隣のメイルの席を見ると、そこにはやはりメイルやデカオ達がいた。
彼等はメイルの席を中心に集まって、昨日と同じように談笑を交わしている。
熱斗はしばしの間教室の前で、今すぐ自分の席に着く――三人の視界に入るべきか否かを悩み、自分を落ち着ける為とでも言うかのように小さく震えた溜息を吐く。
そして何かを決心したように教室の中に足を踏み入れ、自分の席に向けて歩きだした。
熱斗は今すぐ自分の席に着き、三人の視界に入る事を選んだのだ。
当然、席に近付けば近付くほど三人に熱斗の気配が届くようになる。

「あ、熱斗、おはよう。」

一見、談笑に夢中になって周囲など見えていないかのような三人だったが、それでも自分達に近付く者の存在程度は気にできたのか、席に着いたままのメイルが熱斗の接近に気付き、顔をこちらに向けて挨拶をしてきた。
正直なところ、三人は自分など視界に入れてくれさえしないかもしれないと心配していた熱斗は、メイルの挨拶があまりにも普段通りだった事で逆に一瞬息を詰まらせたが、それならそれで此処もまず普通に、普通に明るくいなければいけないと感じ、できるかぎり微笑んで見せる。

「おはよう、メイルちゃん。」

そして熱斗はメイルに挨拶を返した。
そのやりとりでデカオとやいとも熱斗の存在に気付き、二人は示し合わせたかのようなタイミングで熱斗に顔を向ける。
一気に三つの視線が熱斗に集まるそれは、昨日の放課後の、やいと家の車から降りた後で、秘密基地に着く手前の土地での四人の視線を連想させ、熱斗は少しだけ身体の節々にぎこちない強張りを感じた。
上手くやれば三人の輪の中に入れるかもしれないが、上手くやれなければ輪の中に入れないどころか一生拒絶されるかもしれない、そんな恐怖が熱斗を襲う。
それでも熱斗は、今日はそんなものに負けてたまるか、と、まるでギリギリのところで踏みとどまるように、右手を軽く上げて二人に合図を送りながら挨拶をする。

「デカオとやいとちゃんも、おはよう。」

そう言いながら熱斗はできる限り自然に、スッと自分の席に座った。
鞄を机の横のフックに引っかけて、身体を三人が集まっている方向に向ける。
特に、まだ挨拶をしてくれていないデカオとやいとの方に顔を向けると、二人も何事も無かったかのようにすんなりと挨拶をしてくれた。

「よう、熱斗。」
「おはよう、熱斗。」

笑顔、という程ではないがそこそこ機嫌の良さそうなデカオとやいとを見て、熱斗は、今日は自分もそこそこの調子で輪の中に入れたのだと少しホッとする。
昨日はどうにも上手く返事が出来なくて空気を壊してしまったが、今日はそんな事は無いどころか、デカオとやいとに関しては自分から挨拶ができた、それを実感して熱斗もやっと無理の無い自然な笑みを浮かべる事に成功した。
これならもしかしたら上手く会話に混じれるかもしれない、そう思った熱斗は、昨日の事の謝罪はひとまず置いておき、メイル達が三人の話に戻ってしまう前に彼らへ向けて問いかけた。

「ねぇねぇ、何の話してたの?」

熱斗が訊くと、メイル達三人は笑顔を消した顔を一瞬見合わせた。
それを見て熱斗は、自分は今何かおかしなことを言ってしまったのだろうか、と不安になり、同じく表情から笑顔が消える。
ふと、やはり三人は自分の登場を望んでおらず、今の挨拶は同級生としての建前だったのでは? という不安が熱斗の脳裏を過る。
やはり昨日の事をきちんと謝罪してから話に加わるべきだったのだろうか、と熱斗が人知れず悩んでいると、メイルが少し遠慮がちに口を開いた。

「えっとね、昨日やいとちゃんちでやったゲーム、覚えてる?」
「え? あ、えっと、バイオハンター、だっけ?」

デカオとやいとに向けた顔をメイルに向け直し、熱斗は聞き返した。
熱斗の返答にメイルは小さく頷く。

「それでね、今そのゲームの話をしてたの。だけど……」

殊更言い難いのだが、と言いたげに言葉に詰まったメイルを見て、熱斗は大体の事情を察した。
メイルが言いたい事は大体、今自分達はバイオハンターというゲームの話をしていた、けれど熱斗は昨日の大部分も一昨日もそれに参加していないから聞いていても解らないのではないか、という所だろう。
それは一種の気遣いとも取れるが、その一方で一種の部外者宣言のようにも取れて、熱斗は複雑に気分が落ち込んでいくのを感じる。

「ほら、その、熱斗は一昨日も昨日も居なかったから……ね?」

一昨日も“昨日も”居なかったというメイルの言葉に衝撃を受けて、熱斗はしばし黙りこみ、頷く事さえ出来なくなってしまった。
昨日、誰がいなかったというのかと問いただしたい衝動が熱斗の身体の奥を突き抜け、確かに自分は一昨日の集まりには参加していない、それは間違いなく事実だ、だが、“昨日”の集まりには、完全ではないとは言え出席していたではないか、という反論が喉の奥まで湧きあがる。
言いたい、昨日は少しといえど居たではないか、メイルだってそれを覚えているから自分にゲームのタイトルを覚えているかと聞いたのではないかと反論したい、その思いが指先を小さく震わせて、熱斗はそれがバレてしまわないように指の震えた右手をぎゅっと強く静かに握りしめた。
メイルは遠慮がちに、しかし熱斗から見れば大胆に言葉を続ける。

「だから聞いてもつまらないかなぁーなんて……熱斗?」

メイルの言うそれは答えとしては予想通りではあったのだ、あったのだが、その予想通りが酷く悔しくて、受け入れがたくて、熱斗は僅かに唇を噛む。
確かに聞いていても面白くは無いだろうし、会話に加わる事など出来やしないだろう、そんな事は熱斗自身にも容易に想像ができる。
しかし、それをわざわざ言われると、身体の奥底が締め付けられるように痛むのはどうしてだろうか。
気遣いだと分かっている、悪意は無いと分かっている、それでも熱斗にはそこに何らかの疎外感があるように感じられて、どうにも悔しくなってしまう。
そうして、その疎外感に怯えた意識は現実を捨て、自分の思考回路の中だけに閉じこもろうと、熱斗をマイナスの考えで満たされた渦の中に捕らえる。

その渦の外で、メイルがまた熱斗を呼ぶ。

「熱斗?」 

だが、熱斗にはメイルの声が届いていないのか、反応は無い。
メイルの一言に衝撃を受けた熱斗はいつの間にか、一言も言葉を発せずにただ呆然と目の前を見続けるだけになっていた。

「熱斗?」

メイルはもう一度熱斗に呼びかけた。
しかしやはり反応は無い。
不安になったメイルは今度は声を強めて呼び掛ける。

「ねぇ、熱斗ったら!」

すると、

「……え?」

その声はようやく熱斗の耳からその奥底に届き、現実から剥離しかけた意識を急速に現実へと引き戻した。
ふと、負の連鎖とも言える思案から引き摺りだされた熱斗の視界に、メイルやデカオ、やいとの姿が映る。
彼等の視線は全て熱斗に向けられていた。
熱斗はしばらくの間、何故自分は今三人からこんなにも真っ直ぐに視線を浴びせられているのかが分からず、先ほどとは別の意味で呆然としていたが、数秒もするとメイルの言葉にショックを受けて意識が何処かに飛びかけていたという自分の失態に気付き、何かを恥ずかしがるようにふっと顔を伏せた。

「あ……うん、ごめん。」

顔を伏せた熱斗はそれが何かの恥、失敗、失態であったと言いたげに謝罪し、既に浅く伏せた顔を、もう何も見たくないと言わんばかりに深く伏せて黙りこむ。
メイル達はその謝罪の意図を読み切れず、まるで昨日の秘密基地までの道のりでの会話の時のように顔を見合わせ、熱斗は何を謝っているのだろう? と不思議そうな顔を見せた。
その僅かな沈黙に、熱斗は想像――いや、被害妄想と言えるであろうものを思考回路の隅々まで駆け抜けさせる。
二日連続の失態に、そろそろ皆呆れている頃だ、と熱斗は想う。
この沈黙は、皆が自分に呆れ、相手にしたくない、輪の中に入れたくないと思っている証拠なのだ、そうに違いない、そんな考えが熱斗の脳内でグルグルと回り続ける。
今顔を上げれば仲間たちの冷たい視線と目が合うのではないだろうかと思うと顔を上げるのが怖くて、熱斗は顔を伏せたまま椅子の上でメイルに背を向けた。

「熱斗……?」

メイルの不思議がるような、そして僅かに不安がるような声が聞こえる。
しかしそれでさえ熱斗は、またコイツは何かおかしなことをする気かと思われている、という悪意に変換して受け取ってしまった。
だから熱斗は無言のまま席を立ち、メイル達三人に背を向けると、近くの時計でホームルームまでまだ時間がある事を確認した後、準備運動も予備動作も何も無く走り出し、教室を飛び出してしまった。
後には呆然とするメイル、訳が分からないと言いたげなデカオ、何がどうなっているのかとやや不機嫌になりかけているやいとが残される。

「熱斗、どうしたのかしら……。」

残された三人のうち、メイルがぽつりとつぶやいた。
その表情は熱斗の想像した悪意とは程遠く、メイルはまるで、何らかの苦難に悩む息子を心配する母親のような表情をしている。

「ホントだよなぁ、熱斗のヤツ、どうしちまったんだ?」

メイルの斜め後ろでデカオでデカオが頭を掻きながらメイルの疑問に同意した。
デカオは心配こそしていないようだが疑問には思っているらしく、何かが納得いかないとでも言いたげな少し困った顔をしている。
デカオとメイルが困惑した表情で顔を見合わせると、今度はデカオの隣に立っているやいとが発言した。

「ねぇ、最近の熱斗、ちょっとおかしくない?」

そんな事を云いながらもやいとの表情に嫌悪の色は無く、不思議に思い困惑し、僅かに心配しているような神妙な表情をしている。
そして三人はそれぞれの困惑を抱えた表情で顔を見合わせた。
しかし、この三人の中には全員が欲する答え――熱斗はどうしてしまったというのか、その真相を知るものは誰も居ない。
ただただ困惑に突き落とされて三人は悩む。
そして、

「そうだよなぁ、なんか、俺らと居ても楽しそうじゃないし、しばらく距離でも置いた方がいいのかぁ?」

困惑の中、デカオがなかなか残念そうに溜息を吐きながらぼやいた。
そのぼやきに、多少の迷いを残しながらもやいとがうんうんと頷く。

「そうねー、なんだか今の熱斗にはどう言葉をかけていいのか分からないし、様子を見た方がいいのかもね。」

デカオもやいとも、できる事なら熱斗が一体何に悩みどうしてそうなっているのか知り、助けたいという気持ちが無い訳ではなかった。
しかし、デカオとやいとから見ると、今の熱斗にそれを問いただしたところで教えてもらえそうには無いという気がとても強くしてしまう。
だから二人は本当は深く踏み込んでみたい所をあえて抑え、一時的に距離をとって熱斗の方から打ち明けてくる、もしくは熱斗が自分でその問題を解決する事を待つ方がいいかもしれないと考えたのだ。
二人はお互いの考えが同じである事を確認するように視線を合わせ、一度だけ小さく頷いた。
しかし、そこにメイルが一人だけ別の方向性を示す。

「あのね、私は一度熱斗に直接話を聞いて、私達にできる事があったら何かしてあげた方がいいと思うんだけど……駄目かしら?」

メイルの示した方向性に、デカオとやいとは一瞬驚いたような顔を見せた。
しかし次の瞬間には、明らかにそれに反対である事が分かる浮かない表情を見せ、その中でもやいとがメイルに諭すように語りかける。

「メイルちゃん、気持ちは分かるけど、今の熱斗じゃきっとそんな事出来ないわよ……それに、もし話してくれたとして、それを背負う覚悟がメイルちゃんにはあるの?」

背負う覚悟、と言われ、メイルは少しドキッとするような緊張を感じた。
やいとの、熱斗では無くメイルを心配する視線が、メイルの胸を軽く刺し、その緊張を強める。
先にも言った通り、デカオとやいとも熱斗を救いたい気持ちが無い訳ではなく、自分達にできる事があるならしてもいいと思ってはいる。
しかしやいとには先にも言った諦めと同時に、ある懸念があったのだ。

「何しろあの熱斗が悩んでるのよ? あのいつもお気楽能天気で悩みなんかこれっぽっちも無さそうな熱斗が……正直、あたし怖いのよ、一体何が熱斗を悩ませてるのか、その正体が。」

やいとに両肩を掴まれ、諭すように語られて、メイルは少しだけ悩んだ。
確かに熱斗は普段悩みというものととても遠い所にいて、いつもは悩む側ではなく悩みを解決する側に立っている。
そんな熱斗が明らかに挙動不審になる程に悩むものとは何なのか、言われてみれば確かに得体のしれない恐ろしさを感じない事もない。
けれどメイルは思う、それなら尚更、自分は熱斗の力になりたい、その悩みを一緒に解決して、またいつもの日常に戻りたい……。

「……そうね、ちょっと様子を見た方がいいかもしれないわね。」

メイルは一見、諦めました、という様子を見せてやいとに同意して見せた。
それを見たやいとはメイルが自分の話を理解してくれたと感じ、心配そうな顔を微笑に戻して小さく頷き、メイルの両肩から手を離す。
メイルもやいとを安心させるように微笑んで見せた、が、その内側では先ほどの言葉とは全く真逆の事を考え、緊張している。
メイルはやはり、熱斗に訳を聴く事を諦める事が出来ずにいるのだ。
後で熱斗に声をかけて訳を訊いてみよう、そして自分にできる事があればそれを手伝おう、そんな決意を胸にしながら、メイルはデカオとやいとを交えた雑談へと戻っていった。

一方、三人から逃げるように教室を後にした熱斗は、その後いくつかの教室の前を駆け足で通り抜け、最終的にあまり人の来ない所、すなわち屋上の出入り口付近にたどり着いていた。
走ったことと緊張したせいで乱れた呼吸を必死に整えようと、熱斗は荒い深呼吸を繰り返す。
途中、足の疲れを感じた熱斗は屋上の出入り口の前にある段差に崩れ落ちるように腰かけた。
言うまでもないが段差を含む床は固く、尻に少しだけ尻餅を着いた時のような痛みを感じたが、熱斗はそんな事に長々構っていられる状態ではなかった。

また、またやってしまった、やってしまったのだ、失態を。
それを自覚した時、熱斗の精神状態は今までで一番の極限状態に到達したと言っても過言ではなくなっていた。
走ったせいで脈拍が増えて血圧が上がり、そこへ自分はまた失態を犯してしまったという後悔が拍車をかけて心臓が軋む。
段差に腰かけたまま熱斗は何度も深呼吸を繰り返し、自分の体に“もう走り終わっているのだから落ち着け”と念じるも、効果は出ない。
それどころか呼吸は徐々にその荒さを増し、最初は深かったその呼吸がだんだん浅く、しかし深いという矛盾を孕んだ滅茶苦茶なものになってしまった。
息をしているのに息ができない、そんな感覚が熱斗の身体を襲う。

「熱斗くん、大丈夫? 先生を呼んでこようか?」

そんな熱斗の苦しげな様子を見かねてか、ロックマンがPETの中ではなく熱斗の肩の上に現れて尋ねてきた。
ロックマンも他の三人同様、何故熱斗があんな行動に出たり、今こうして苦しがっていたりするのかは分からない。
だから心理的な点で手の出し様が無いのは同じなのだが、それでも熱斗が身体的に苦しんでいる事を冷たく見離すように見過ごす訳にはいかないのだ。
そしてロックマンから見て今の熱斗は症状としては過呼吸と言える状態に近く、周囲に誰も居ない状況を作るのはあまり良くないと思えたのだ。
しかし、熱斗は無言で荒く呼吸を繰り返すまま首を横に振る。

「えっ、でも……」

助けは要らない、とでも言うかのように何度も何度も首を左右に振る熱斗を見て、ロックマンは戸惑いを隠せなかった。
明らかに苦しそうだというのに、熱斗は何故助けを求めようとしないのか、ロックマンには分からない。

「……じゃあ、わかった。今は呼ばないけど、もししばらくたっても治らなかったり悪化したら呼ぶからね……。」

戸惑いと不安を感じたまま、ロックマンは熱斗を刺激し過ぎないようになるべく静かな声でそう言った。
その声はなんとか熱斗に届いていたようで、熱斗は荒い呼吸を繰り返しながらも今度は首を縦に振る、つまりロックマンの言葉に頷いて見せた。
その反応を見てロックマンは、何の反応も出来ないほどの重症には至っていない事に少しだけ安心する。
そしてロックマンはできるだけ早く熱斗を楽にしてあげようと、静かに語りかけるように言う。

「熱斗くん、ゆっくり、ゆっくり呼吸するんだ。焦らないで、落ち着いて、少しずつでいいから……。」

ロックマンの声に応えるように、熱斗はぐしゃぐしゃになった思考回路の中でなんとか呼吸のペースを落とすことを考え、何も考えずに乱雑な吸い吐きを繰り返すのではなく、吸うと吐くの長さと深さを意識して考え、できるだけゆっくり呼吸をするよう努めた。
すると、熱斗の呼吸は最初の乱雑な吸う吐く吸う吐くの繰り返しではなく、徐々に普通の深呼吸に近付いてきた。
そしてそれに対応するかのように、心臓の軋みも弱くなってくる。
頭の中のじんとした鈍い違和感が抜けて、全身の強張りが解けていく。
気が付くと熱斗の呼吸は通常時の静かなものに戻っていて、全身から力が抜けた熱斗は背後にある壁、屋上の出入り口を管理する扉に寄りかかった。
もう、心臓は軋まない、息もきちんとできている。
代わりに頭がぼうっとして、熱斗は何もかも放り出して此処でこのまま休んでいたい気持ちになった。
勉強も、遊びも、他の何かも、何もしたくない、此処でぐったりとしたまま時間を流したい、と思う。
そうすればもう、さっきの失態も、昨日の失態も、そのほかの色々な事も、何も関係無くなってくれる、そんな気がしたのだ。
しかし、

「……あ、ホームルーム、始まっちゃった。」

それは駄目だと告げるかのように小学校おなじみのチャイムがキンコンカンコンと鳴りだし、それに気付いたロックマンがそれが何を知らせるチャイムなのかをぽつりと口にした。
ロックマンの声はいつもと違って熱斗をせかしている雰囲気はなかったが、それでも熱斗は学校にいる以上はサボる気にはなれず、少し残念そうに溜息を吐きながら、一度は力を抜いた身体にもう一度力を込め、ゆっくりと段差から立ちあがった。
肩の上からロックマンの心配そうな声が聞こえる。

「熱斗くん、もう大丈夫なの?」

嗚呼、普段なら一番に、ホームルームは遅れちゃ駄目だよ! 等と言うであろう人物から心配されるなど、自分はどれほど無様な事態に陥っていたのだろうかと、熱斗は少し情けない気持ちになって、それを振り払おうと両手で自分の頬を軽くたたいた。
そしてロックマンの方を見て、ようやく声での返事をする。

「あぁ、もう大丈夫。行かないと。」

ロックマンはまだ少し心配そうな表情で熱斗を見ていたが、熱斗はそれを無視して階段を下りはじめる。
階段を下りた先、元々人気のない廊下は、ホームルームが開始された事も相まって、人っ子一人見当たらなかった。
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