あの子の足元にも影はある

「――……斗、ね……熱……っと、熱斗……」

突如、耳の奥から頭に直接響くようにして声が聞こえてきた。
その聞こえ方は身近な物で例えるならイヤホンを耳にしっかり入れている時の聞こえ方に近く、耳の外の空気を揺らして鳴る音ではない気がする。

「熱斗、熱斗、ねぇ、熱斗、」

そして、最初はチューニングの合わないラジオ放送の様に途切れ途切れで聞き取りにくかったその声は徐々に鮮明に響くようになり、それと同時に目が何かを認識し始める。
しかし、その目に映るのはいつもの使い慣れた家具でも、親友の居るPETでも、朝日の差しこむ窓でも無く、

――黒い……黒い……何も見えない? 違う、確かに見えてる、黒が……なんだ、これ……――

見えているはずなのに見えていないような、まるで全ての光を遮断されたような、永遠の続く闇の様な、すぐそこに迫る重たい空気の様な、黒。
視界として認識したのはただただ一面の黒、黒い黒い世界だった。
それにしてもこの景色、既に何処かで見た事がある気がするのだが、一体いつ何処で見たのだっただろうか? 思い出せない。
少しモヤモヤした気分になりながら、こういう感覚をデジャヴというのだろうか? などと考えていると、それまで名前を呼んでくるだけだった声が、突然違う事を言い出した。

「寂しい。」

どこか淡々として冷たいような抑揚の薄い声で唐突に放たれたネガティブな言葉。
それは声の主が寂しいと言うよりも、熱斗が思っていることを声の主が代弁した言葉の気がして、思わず身体が固くなったような気がした。
とはいってもただ”寂しい”と表現されただけなのだから、声の主が熱斗のことを何処まで知り、熱斗が何に関して寂しいと思っているのかを知った上での発言なのかは分からないし、熱斗が自分の事を言われたと勘違いしているだけの可能性もある。
それでも考えれば考える程緊張が増して、それに伴い身体がこわばる感覚も増して……そういえば、それまで聴覚と視覚しかハッキリしていなかった自分の身体の感覚が全体的にハッキリとしてきている?
右手で左腕をさするなどの現実的な動きの感覚はまだ無いが、理由のハッキリとしない恐怖に全身がこわばる感覚や、冷たいとも温かいとも言えない不気味で不快な空気が身体を包む感覚がいつの間にか生まれている。
頭に直接響く声、その声が告げた”寂しい”の一言、存在感はあるのに自分の意思で動かせない自分の身体、そして永遠と続く闇の様な黒、それら全てが恐怖を煽り、まともな思考を動かす邪魔をする。
どうしてこの手足は動かない? 話しかけてきているのは誰? ”寂しい”とはどういう意味? そもそもここは何処で、自分は何をされている? いつどうして此処に?

「ロックマンは本心まで気付いてくれなかった。」

熱斗の不安と混乱をよそに、声は新たな言葉を発し続ける。

「立ち入らないでほしい? そんなの嘘なのに。」

これは、眠る前のロックマンとの会話の事?
これにより熱斗はさっき声の”寂しい”は自分の気持ちを代弁したつもりなんだと確信し、今度こそ、心臓が凍るかと思った。
どうしてこの声がその会話を知っているのか、ではなく、どうしてこの声は自分がロックマンに対し”立ち入らないでほしい”と思っていた事を知っているのだろう、と。
声は続く。

「本当はその想いの欠片にロックマンが触れた時、嬉しかったんだ。」

ロックマンが不安そうに自分を呼ぶ声が頭の中で響いた気がして、あの表現できない不快感がする澄んだ瞳が見えた気がして、そんな目で見るなという憎悪や怒りのような攻撃的衝動が蘇る。
しかし今度はその直後、どうしてあの時自分はロックマンに頼らなかったのか、という後悔からの自己嫌悪が胸を、頭を、心を突き刺し、声の言葉が自分の本心であるような気が、少しだけしてしまった。
それでもそれを否定したくて、

――違う、嬉しかったなんて嘘だ! 俺が触れられないようにしたんだ、だから俺はそんなこと望んでない!――

そう叫びたいのに、声が出ない。

「触れて欲しかったんだ、その傷に。みんなに抉られた、その傷に。」

壊して隠したはずの想いが、形と色を取り戻していく。
やいとの家の敷地内に作られた秘密基地でゲームに興じる四人の姿。
呼吸が苦しくなる、胸が苦しくなる、こんなもの思い出したくないのに。
やめろ、これ以上言うな、お願いだからやめろ、やめろやめろやめろ! やめてくれ!!
もはや発狂寸前の熱斗は、声を振り払うように心の中で何度も、やめてくれ、もう言うな、思い出させないでくれ! と叫ぶが、

「心配するどころかゲームに没頭して、その上”わざわざ電話しなくても良かったのに”なんて、寂しかったのは俺だけなの? みんなは俺が居なくても平気なの? 俺はこんなに寂しいのに、みんなを必要としてるのに、みんなに俺は必要ないの?」

声は止まらず、記憶を抉り返し、想いの形と色を再生し続ける。
お前を倒すのはこのオレさまだ! と意気込んでいるのがいつものことのガキ大将は、ゲームのコントローラーを気にしていた。
クラスは違うが仲の良い温泉好きの少年は、説明書ばかり見ていた。
お金持ちで頭が良い年下の同級生は、楽しそうに仕事をしていた。
幼馴染で仲良しのおまじないをした少女は、そんな彼らの為に時計を気にしていた。
それを見た自分は、別世界に取り残された気がした。
返信の来ないメール、電話をしなくても良かったという言葉、皆が呼んでいるから電話を切るという行為、それら全てに”お前は必要ない”と言われている気がして苦しくなり、彼らは自分など必要無いのではないかと疑った。
けれど、みんなは大切な友達なんだから疑っちゃ駄目だ、と言い聞かせてその場は耐えたが、でも、

「……寂、しい、よ。」

本音がポツリ、声として簡単に漏れ、暗闇のような一面の黒に融けてゆく。
先ほど叫ぼうとした時には声は全く出なかったはずなのに、と熱斗が気にする事は無かった。
声はまだ続く。

「俺には分かるよ、その気持ち。」

今までは独りごとのように続いていた声が、それは先ほどまでの淡々とした声ではなく何か感情のこもったような声で熱斗の本音に応える形で語りかけてくる。
熱斗には声にこもった感情が何なのかは分からない、けれどそれでも何故かそれを不気味だとか不快だとか、嫌悪感と言えるものが湧いてくる事は一切なく、それどころかこの空間の空気が自分を柔らかく包んでくれているような気さえした。
そして、何処かに浮いている、もしくは水中に居るような感覚の中で目の前に広がる一面の黒、その中に黒とは別の何か、人の様な形がぼんやりと見えたような、アレは誰?

「だから、俺が――」

声はまだ何か言葉を続けたが、その後半で急にノイズがかかったような、電波を受信しきれていないラジオの様な最初の聞こえにくい声に戻ってしまう。
俺が、なんなのだろう? よく聞こえない。
再び黒にまぎれていく人影に、待って、お前は誰? と声に出さずに問い掛けるが、人影は闇の様な黒に紛れて見えなくなり、声は頭に響かなくなって雑音すらもう聞こえない。
一体あの声は誰でどうして自分の想いが分かるのか、そしてだから何をしようというのか、問い掛けたいのに意識がこの空間から剥離されていく。
まるで、夢から覚める直前の様に。



「熱斗くん、朝だよ! 起きて!」

ここがマンションなら隣接する部屋から苦情が気そうだ、と思うぐらい元気なロックマンの声で熱斗はゆっくりと目を覚ました。
光に満ちた世界が広がる。
熱斗の部屋のベランダは普段から雨戸を閉めてはおらず、カーテンもUVカットではあるが遮光ではないため部屋は電気を付ける必要が全くないほど明るい。
光に満ちた世界が広がる。
……酷い違和感。
光に満ちた世界が広がる。
ついさっきまで真っ暗な場所に居た感覚が強く残っているのに、いつもの部屋で光に満ちた世界が広がる。
熱斗はあまりの違和感のせいでしばしの間状況がつかみ切れず、ぼんやりと霧のかかったような思考で必死にそれらの状況を整理し、あの暗く不気味な空間は夢だったんだ、とようやく気付いてゆっくりと身体を起こした。
そしてまだ眠そうな声でロックマンに訊く。

「……ロックマン、今何時?」
「午前七時四分四十九秒だよ。」

これ以上なく普段通りの態度でロックマンが答えた。
壁に掛けた時計を見ると確かに七時四分を指している、ただし秒針はとっくにズレて五十八秒を指している。
あぁ、確かに朝だ、とりあえず起きなければ、とは思うのだが、身体のだるさが抜けずにベッドから降りる気にならない。
少し前のめりな姿勢で壁を見ているような時計を見ているようなドアを見ているような、とにかく何処を見ているのか分からない程ぼんやりとした表情の熱斗を見て、これでは結局遅刻してしまいそうだと思ったロックマンはちょっとした賭けに出る。

「熱斗くん、今日は学校でみんなに抗議するんでしょ! もっと心配してよ、ってね!」

熱斗の目の前に現れて、少し大きな動作を交えながら昨日話した事を思い出させるような発言をしてみた。
多分、今一番効果のある言葉ではあるのだろうが、それはかさぶたのできたばかりの傷から無理矢理かさぶたを引きはがす行為の様な気もして、正直なところロックマンは発言の直後、もう少し別の事を言うべきだったかもしれない、と後悔し、緊張しながら熱斗の反応を待つ。
するとその途端熱斗が勢い良く布団をめくり、ベッドから降りた。

「そうだ、そうだよ! 今日は学校で、みんなに抗議してやるんだった! こりゃ、遅刻はできないぜ!」

先ほどまで眠そうだったのは演技だったのかと疑いたくなる程の変わり様に、ロックマンは少しぎょっとして目を見開いて驚く。
ロックマンの言った内容は、今まで二度寝でもしそうなほど眠そうだった熱斗の意識から眠気をはらうのに十分だった、いやむしろ十分どころではなく二十分すら過ぎたようだ。
多分これで遅刻はしないだろう、という意味では嬉しいのだが、此処まで急激に変わる程それだけが熱斗の原動力になっていると考えると、後が怖い気が少しだけする。
そんなロックマンの不安をよそに、熱斗は自室を飛び出して階段を駆け下り始めた。

「ママー! 朝ご飯できてるー?」
「あら、おはよう熱斗。朝ご飯ならもうできてるわよ、テーブルの方にあるから食べてちょうだい。」

少し煩い足音と共に現れておはようの挨拶も無く訊いてきた熱斗に、動揺すること無く食器洗いを続けながら返事をしたはる香はさすが母親といったところか。
テーブルの上には二人分の朝食があり、今日のメニューはトーストと目玉焼きと少量のサラダ、そして牛乳だ。
皿の大きさや盛られた量に違いは無いので、どちらを食べてもよく、食べなかった方ははる香の分になるのだろう。
二人分という事は父親は前日から科学省に居るのだと分かるのはもはやいつもの事だった。
席に付いて、まだほんのり温かいトーストを齧りながら、熱斗はふと、そう言えばパパが帰ってくる事も少なくなったような……、と考える。
キャッシュデータによるファントムナビの出現、また世界中の多くがデータ化される事件が収まってからしばらくはこの時間に祐一朗が家に居る事も珍しくなくなっていたのだが、あの新型ダークロイドとその背後に居る組織の動きが活発になってから祐一朗はまた頻繁に家を空けて科学省に篭る事が増えていた。
まったく、新型ダークロイドとその背後の組織のせいで自分の生活は滅茶苦茶だ、パパはまた忙しくなるし、みんなとの約束はし難くなるし、今度出現したら絶対に倒してやる、などと少し攻撃的な事を考えながら熱斗は朝食を進める。
テレビも見ずに食器洗いの音だけをBGMにして黙々と食べ進め、最後に牛乳を飲み干す。

「ごちそうさまー。」
「はい、おそまつさまでした。」

食後の挨拶を交わして席を立つ。
結局今日の朝食ははる香とは重ならなかったが、朝は正直それぞれ別の忙しさがあるから仕方が無い。
祐一朗も居たなら洗面台を使用する順番を軽く争うような時間、それが朝だ。
だが今日は祐一朗は家には居ない、だから熱斗は順番を待つことなく洗面台を使うことができた。
歯磨きと洗顔を済ませ、髪を軽く梳かしてから洗面所を飛び出して階段を駆け上がり、もう一度自室へと向かう。
リビングへ下りる時に閉め損ねたドアを引いて部屋の中へ。

それは昨日のあの視界にそっくりで、薄れていた孤独感が急に蘇り胸を刺した、気がした。

そう、新型ダークロイドの敗北したあの日もその前の大量のウイルスとの戦争に近い戦闘の日も皆どこかそっけなかった気がした、だから今日はそれに対して抗議してやるんだ、その為に学校へ行かなければ。
熱斗は軽いとも重いとも言えない少し神妙な足取りで部屋に入り、タンスから普段来ている服を素早く取り出してベッドの上に放り投げ、パジャマのボタンを外し始めた。
昨日の朝も夜も思ったことだが、急げば急ぐほどボタンは外れにくくなる、早く着替えたいという焦りだけが募る。
あぁ、早くみんなに会いたいのに、登校したいのに。

「熱斗くん、もう少し落ち着いて着替えようよ。余計に時間がかかっちゃうよ?」

そんな熱斗の様子を見かねたロックマンが呆れたと言いたげな態度で話しかけてきた。
しかし熱斗がそうなる原因を掘り起こしたのはロックマンなのだから、この言葉に説得力があるかどうかというとかなり微妙なところである。

「うぅ……。」

そのせいもあるのか、それともただ落ち着かないだけなのか、ロックマンの言葉に対して熱斗は不満そうに小さく唸っただけでそれ以上の会話をしようとせず、ボタンを外す作業を続ける。
その若干不誠実な態度に、いつものロックマンなら、ちゃんと返事をしてよ! などと返しているところだが、今回のこの状況の原因の一端を自分が持っていることを分かっているらしく、今回はそれ以上の事は言わなかった。
良いとも悪いとも言い切れない微妙な沈黙が続く。
それでも熱斗はその沈黙の中でボタンを全て外し終え、パジャマを脱いでベッドの上に放り投げた。
パサッと軽い音がする。
それから迷うことなく白いシャツを掴んで袖に手を通し、シャツを着終えると次は黒地に黄色のラインが入った短パンを穿いて、更にその次にオレンジ色で袖のない上着を着る。
最後に黒い靴下を立ったまま片足ずつ履いてから、机の上に置いておいた水色のバンダナを手にとって、熱斗は慌しく自室を出た。
今回もまだPETは部屋に置いたままで、ロックマンはその中から熱斗が階段を駆け降りる少し煩く落ち着きのないバタバタとした足音を聞き、そしてそれが聞こえなくなった頃に溜息を吐いた。
何かが腑に落ちないんだ、とでも言いたいかのように。

着替えから約十分後、バンダナもつけ終えて外出の支度を全て済ませた熱斗はカバンを持って玄関のドアを勢い良く開け、外へ駆けだした。
眩しい日の光が熱斗を出迎える。

「おー……、なんか今日は一段と眩しいような……。」

雲一つない晴天の空から降り注ぐ朝の日差しは眩しく、感心した様な独り言が漏れた。
あまりの眩しさに一瞬、気温の高い一日を覚悟するが、一度立ち止まって落ち着いてみると、幸いなことに気温はそれほど高くはないことに気付く。
寒過ぎず暑過ぎず、運動をするのに丁度いい気温に熱斗は、今日はいつものインラインスケートは使わずに自分の足で走って学校に行こうと決め、いつもの道を走りだした。
いつもの道――住宅街はとても静かで人影も無く、自分の足音と呼吸音だけが聞こえる。
おそらく近所に住むサラリーマンたちは既に出勤した後なのだろう。
それでも少し前の時代なら主婦が皿を洗う音や掃除機をかける音、もしくはテレビの音が聞こえてきたところだが、最近の住宅は防音設備がしっかりしていることが多く、今のところそういったものは聞こえてこない。

「なんかっ、こんなに静かだと、人類全部、滅亡したんじゃないか、って、感じだよな!」
「うーん……そうか、なぁ……?」

熱斗は、走っているせいで少し途切れ気味の声になりながら、静かすぎる住宅街への率直な感想をロックマンに告げてみたが、ロックマンはあまりそう思わないようで、それは何か違う気がする、とでも言いたげなハッキリしない答えを返してきた。
その返事が面白くない熱斗が肩の上のロックマンにチラリと視線を向けてその表情を窺うと、ロックマンは真面目な訂正を入れたい気持ちを抑えている様な苦い作り笑いをしているように見えて、熱斗はそのノリの悪さに少しモヤモヤする。
正直なところ、ロックマンがこの手の話にノってくるとは最初から全く思っていないに等しいが、それでもなんだか少しつまらない。
昨日も思ったことだが、本当にコイツは同世代なのだろうか……。

そんなことを考えながらしばらく走って住宅街を抜け、今度は少し人通りのある道へ出た。
この辺りはそこそこの太さの道路があるだけあって信号機も多く、また住宅街の様に静まり返っていると言うことも無い。
バスで出勤するらしいサラリーマンと思われるスーツを着た男性の姿もぽつぽつとあり、熱斗と同じぐらいの子供の姿も同じように点々と存在している。
その姿に、そういえば今日は遅刻をするような時間ではないんだったと今更ながらに気付いて、歩きながら周囲を見渡す。
皆はもう学校だろうか? このちょっとした人混みの中には居ないのだろうか……?

「熱斗くん? どうしたの?」

いつの間にか走る事をやめて普通に歩き、何かを探すようにキョロキョロと周囲を見回す熱斗の姿に疑問を抱いたロックマンが肩の上から不思議な物を見るような視線と共に訊いてきた。
それは熱斗にとっては突然の事で、驚いて立ち止まると同時に、え? と少し間の抜けた声が漏れた。

「あ、あぁ、その……みんなもこの中に居たりしないかな、って思ったんだけど……」

熱斗は少し気まずそうにロックマンの疑問に答えながらも周囲を見回し続けるが、自分が探しているみんなの姿は確認できない。
遅刻するほどではないとはいえ、少し遅すぎたのかもしれない、そう考えた。
というのは自分を慰めるための建前で、本当は”みんなは俺の事なんて気にしてないのかもしれない”気がして、この人混みの中に独りで取り残された様な気さえして、

「熱斗くん?」

押し寄せる不安に圧倒され、ロックマンへの返答を忘れていた。
名前を呼ぶ声にハッと現実に引き戻された熱斗は、自分がいつの間にか右手を強く握りしめていた事に気付く。
それをゆっくりと解いてから肩を見れば、昨日の夜の様な不安そうなロックマンの顔が。
……居心地が悪い。

「ま、みんなに会うには少し遅かったよな。俺も早く行かないと、折角ちゃんと起きれたのに遅刻だ!」
「熱斗くん……」

妙に明るくふるまったその言葉に対し、ロックマンが何か言おうとしたが、熱斗はそれに構うものかと走りだした。
インラインスケートの時と似たような要領で、人と人の隙間を、何かを振り払うように駆ける。
複数で通勤、登校中の他人の声が異様に煩くて、横一列に並んで歩くサラリーマンや下級生と思われる小さな小さな子供を見ては苛立ちが止まらず、突き飛ばして蹴り飛ばしてしまいたい衝動にかられる、でもそんなことはできない、してはいけないことだということぐらい分かっている、いやそれ以前にこの自分がそんな、ワイリーやリーガルですら考えないであろう事を考えるなんて、どうかしている。
いつもと同じ喜ばしい快晴の、その朝日が、今日の熱斗には何故か酷く眩し過ぎる気がして、あまり遠くを見て眩しい光を直視しないように少し俯いて走り続けた。
当然、肩の上から不安そうで寂しそうに見つめてくるロックマンの顔など、見てはいない。

しばらくの間いくつもの雑音――職場、学校に向かう人間とすれ違ったり、それらを追い抜いたりして走り続けるうちに、熱斗は随分学校に近付いたようで、先ほどよりも少し静かな道に辿り着いた。
最初に考えたリハビリなどという範疇はとっくに超えて、此処まで全力で走ってきた熱斗はさすがに疲れを感じて近くの家の塀に寄りかかり、息を整え始める。
この道は住宅街程狭く入り組んだ道ではないが、先ほどの太い道路に比べれば細くて人通りも少なく、同じ学校の生徒と思われる子供はそれなりに多いが大人や車の交通量は少ないために、意識が何処かへ飛んでしまいそうになるようなひたすら煩い音や声は聞こえてこないのだが、それでもまだ落ち着かない。
車やバス、ビルに取り付けられた大型モニターなどからの騒音が無い分、目の前を歩いて通り過ぎる同い年や少し年下の子供たちの楽しげな声が、会話の内容が分かる程鮮明に聞こえてきてしまい、先ほどよりも性質の悪い苛立ちが頭の中をかき回す。

「ねー、今日のお昼は何して遊ぶ?」
「そうだ! ゆみちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
「校門まで競争だー!」
「あ、待てよケンタ! いきなりズリィぞ!」

既にお昼休みの計画を立て始める少女達、校門までの路で足の速さを競う少年達の明るく元気な声がいくつも目の前を通り過ぎていく、それが異常に気に障る。
自分だって本当ならそうしているはずなんだ、家の近くでメイルと会って、そうと思ったら後ろからデカオが来て”俺のメイルちゃんに近付くんじゃねぇ!”などと言いつつも笑い合って、もう少し進んだ所、そう、丁度この辺りで透に会って合流、最後に学校の近くでやいとが大きく立派で何故かピンク色の車に乗って登校してくる、そしてそこで”おはよう”と挨拶を交わしながら校舎へ向かう、そうなる、そうなるはずだ、そうしてきたはずなのだ。
それなのに今はそうならない悔しさと、楽しげに会話をしながら目の前を横切り続ける同じ小学生達への焼けるような嫉みが、溶岩の様に熱くドロドロと湧き上がり頭の中を焦がし、胸を締め付けて、上手く呼吸が整わない。
このままでは不整脈でも起こして心臓が止まってしまいそうな気さえするほど苦しくて、その息苦しさを落ちつけようと必死に深呼吸を繰り返す熱斗の異様な姿に、しばらく黙っていたロックマンが多少躊躇いながらも口を開く。

「熱斗くん、その……えっと……大、丈夫?」

話しかける対象がしっかりと自分に向けられているロックマンの声に、ハッと現実に引き戻されるかのように思考が途切れ、その一瞬ふっと胸が締め付けられる様な感覚が弱まった。
同時に、息を吸い吐きすることすら一瞬忘れたが、そのおかげで過剰とも言える深呼吸が止まり、数秒後には普通の落ち着いた呼吸に戻る。
まだ少し混乱して状況を呑み込めない頭のままで周囲を見回すと、目の前に映る景色はいつもの通学路と、空からの明るく温かい日差し。
強張っていた顔の筋肉から力が抜けて、何を考えているのか分からないぼんやりとした顔で目の前に広がる景色を見ているように見える熱斗に、ロックマンは何がどうなっているのか分からずに戸惑いながらも言葉をかけ続ける。

「ねぇ、熱斗くん……その、さ……体調が悪いなら、無理しない方が……」

熱斗はふと左肩を見るが、そこにロックマンの姿はない。
何かを遠慮しているのか、それとも恐れているのか、何を考えているのかは分からないが、ロックマンはPETの中から話しかけてきていた。
それは酷い顔を見られない安心と共に、何故か微量の寂しさを呼び込み、先ほどとは似ているようで違う苛立ちが増してくる。

「大丈夫、そんなんじゃねーよっ!」
「あ、熱斗くん……」

つい、無駄な力が入った声でそう言って、熱斗は寄りかかっていた壁から離れ、軽く駆けだした。
元気がある、と言えばそれまでだが、それにしては不機嫌さが前面に出ている口調に、ロックマンは何か言わなければいけないと思うのだが、熱斗が何を怒っているのか、また何が熱斗をそんな状況に追い込んでいるのかが全く分からない。
結果、名前をぽつりと呼んだだけ。
熱斗が何かを苦痛に感じているのにそれを和らげることが全くできず、それどころか余計に苛立たせることしかできない、そんな自分の無力さを静かに悔やむ。
そうしてPETの中で沈黙するロックマンのことを意識から振り払うかのように、熱斗は止まることなく学校へ向かって駆け続けた。

最初の道路ほどではないが少し広い道に出て、そこにある噴水の前を通り過ぎて、また静かな歩道をひた走ると、ようやく校舎とそれを取り囲む併が見えてくる。
家を出た時は遅刻とは無縁の時間に着くと思っていたが、人通りの多い道路と先ほどの休憩で時間をとってしまったらしく、校門の近くに生徒の姿は少なく、ぽつぽつと見える生徒は皆遅刻が目前に迫っていて焦っている様に見える。
あぁ、結局今日も遅刻かもしれない、と思いながら熱斗は走る。

「おっ、急げよ少年! もうすぐホームルームだからな!」

校門を通る時、警備員と思われる中年男性からそんな風に声をかけられたが、熱斗は大した反応をせずに通り過ぎた。



校庭の真ん中を突っ切って、既に人気のない昇降口に駆け込む。
近くの階段を独りで駆け上がって六年生の教室がある階に到着して、熱斗は自分のクラスの教室のドアを勢い良く開けた。
そこではもう担任であるまり子教壇に立ってホームルームを進めていることを覚悟していた、のだが、

「あ、れ……? ロックマン、まだホームルームの時間じゃなかったり、する?」

教壇にまり子の姿は無く教室の中はざわついていて、クラスメイト達は教室の様々な場所で思い思いのことをしている。
教室の前方中央、教卓の真正面の席に居る生徒は静かに本を読んでいて、後方の隅、最後列の窓際の席では数人の生徒が集まって楽しそうにおしゃべりをしている。
熱斗が状況を飲み込めずにボーっと立ち尽くしていると、ロックマンがようやく先ほどの質問にPETの中から答えてきた。

「うん、後四分ぐらいは余裕があるみたいだよ。良かったね、遅刻じゃなくて。」
「マジかよ! ふーっ、良かったぁ……。」

その返答に緊張が解けて、熱斗は大きな溜息を吐いた。
正直、あのラストスパートとも言える全力疾走は何のためだったのか、それがちょっと悔しいところだが、遅刻をしなくて済んだのだから良しとしておいて、熱斗は落ち着いた気持ちで教室の中に足を踏み入れ、片手でドアを閉めると、後方寄りの窓際にある自分の席に向かう。
その自分の席の隣には、昨日通信を入れたメイルの席があって、

「デカオったら、やる気はあるのに操作が雑過ぎていけないのよねぇ~。」
「んだとぉ? 初プレイであれなら上出来だろ? だよなぁ? メイルちゃん。」
「私、それよりも敵のグラフィックが怖くて……ねぇやいとちゃん、アレって、十八歳未満はプレイ禁止、とかじゃないの?」

その席では、昨日通信を入れた時に姿が見えた四人のうち、クラスの同じ三人が、昨日の楽しい思い出を語り合っていた。
その三人だけの楽しそうな会話はまるで昨日の通信画面で、何とも言えないモヤモヤとした、一種の八つ当たりのような、理不尽な怒りのような、とにかく善いものではない思いが少しずつこみ上げてきて、表情が硬くなる。
それなのに熱斗は、自分の席に近付く度に少しずつ聞こえやすくなる三人の会話にわざわざ意識を集中させて、一言も聞き逃すまいと耳を欹ててしまう。
自分の居ない、彼らだけの思い出なんて聞きたくない、けれど、彼らが何をしていたのか、知りたい。

「大丈夫! あれはギリギリで十七歳以上対象のゾーンにあるから、禁止じゃないの。買おうと思えば誰でも買えるのよっ。」
「でもそれって、やっぱり私たちには早いゲームって事よね……やいとちゃん、今度またああいう機会がある時は、もっと怖くないゲームにしてね?」
「オレ様はまたああいうのでも構わないぜ! 今度は絶対高得点出してやるんだからな!」

自分の胸を軽く叩きながらゲームに関しての知識を自慢げに話すやいとと、それに苦笑しながらも楽しそうなメイル、そして大袈裟にガッツポーズをとりながらまた同じように集まって遊ぶことを提案するデカオ。
それはあまりにも完璧に出来上がった仲良しグループの光景で、なんだか席に近寄り辛く、熱斗はあと少しの所で足を止め、立ち尽くした。
表現したくない疎外感が、再び胸を締め付ける。

あんなに完成されたグループの中に、今更、どうやって入ればいい?
どう考えても、関係のない人間が首を突っ込むという図でしか想像できないじゃあないか。

大して遠くない地点で、熱斗がそんな事を考えているなど知らず、三人は会話を続ける。 

「ふふっ、でもあのゲームだと透くんがまた勝っちゃいそうね。」
「そういえば透のヤツ、おとなしい顔して凄かったよなぁ……。」
「透くんにあんな才能があったなんて、驚きよねぇ。」

――あ、透くんの事はちゃんと話すんだ。――

熱斗の耳は他の生徒のおしゃべりも混ざって酷くざわつく教室の中ででも、メイル、やいと、デカオの声を確実に捕らえていて、三人の話題に唯一クラスの違う透のことが挙がったその瞬間も聞き逃しはしなかった。
別に、透のことが話題に挙がろうが挙がるまいが、それで何かが変わると言うことではないのだが、正直少しだけ、話題に挙がらないことを期待していた。
三人はクラスが同じでこの時間にも集まれるからお互いのことを話しているのであって、だから教室に来たことをまだ三人に知られていない自分の話題は出ない。
そしてそれと同じように、元々違うクラスで今は目の前に居ない透のことも話題に挙がらない、自分のことを誰も気にしてくれないのはそういう理由だと期待――望んでいた。
しかしそれを嘲笑うかのように、三人の話題には透のことが挙がり、そしてそれを楽しそうに話す。
この疎外感は、悔しさは、苛立ちは、不安は、そしてそれでもなお三人を気にするこの気持ちは、普通は何と言うのだったか?
そう考えてふと思い出したのは、あの黒く暗く出口の見えない闇の底のような夢で、誰かが言ったあの言葉。

――これが、寂しい、ってヤツ?――

自分と三人が全く別の場所に居るかのような疎外感と、今更話しかけたところであの会話にちゃんと加わることができるのかという不安に脚が竦んで前に進むことをためらう。
しかし、それでもやっぱり自分と話して、自分に構って欲しい渇望が消えてくれない。
どうしよう、どうしたい、どうすればいい? 自分は結局どちらを優先したいのか分からず何もできないまま時間と彼らの会話だけが進む。

苦しい。

「くっそう、今度は透バーサス俺たちのチーム戦にしようぜ!?」

デカオが意気込んで言う”俺たち”の中に自分は、光 熱斗は居ないのだろう。
そう思うと、今すぐその話に割って入ってその会話を成り立たなくしてやりたくなって、でもそんなことはするべきではないと何処かでブレーキがかかって、結果的にどちらにも転べず、いや、何もしない時点で後者に転んでいるのだろうか。
とにかく、どうしようもない悔しさと理不尽な怒り、そして僅かな諦めが熱斗の感情を支配する。
しかし結局、熱斗には友人の楽しい会話をブチ壊せる気力も勢いも無く、実際にできることのはただ両手を手のひらに爪が食い込む程強く握りしめながら三人を睨むことだけ。

「それはちょっと厳し過ぎないかしら?せめて二対二にするのが良いと思うんだけど……」

デカオの提案へ返されたメイルの言葉が、熱斗に更なる追い打ちをかけた。
二対二? 二人と二人? つまり四人?
それはデカオ、メイル、やいと、透の四人でまた集まることを前提としていて、自分はそこに存在しない五人目であることを熱斗に自覚させる。
もしもこれを無理矢理にでも良い方に考えるなら、審判として五人目――熱斗が居る、という考えも出来たかもしれないが、最新のテレビゲームにわざわざ人間の審判など必要なものだろうか。
もはや四人で集まることが皆の前提になっていて、自分はそこから外れた五人目だ、と考えると胸だけでなく頭まで痛くなってきた気がしてくる。
いや、実際には頭痛と言える程の痛みなど全くなくて、ただ、もはや振り払いたい仲間への酷い渇望に思考がグラグラと揺れて、意識すらも手離して倒れてしまいたい程の現実への拒絶を感じ、それがまるで頭痛の様に思えるだけだ。

そうしてどうしようもなく立ち尽くす熱斗をよそに、三人の会話は進む、そして時間も進む。

「熱斗くん? そろそろ先生が来るよ?」

先ほどから、熱斗が着席した様子や教室内を移動した様子が感じられないことを不思議に思ったロックマンが、今度は肩の上に現れて声をかけてきた。
熱斗は通学路に居た時の様にその声で急に現実に引き戻される。

「あ、あぁうん、そうだな……。」

あぁそうだ、とにかくまずは着席しなくては……そう思ってようやく、自分の席に向けて足を踏み出す。
三人はまだ気付かない、どうして気付いてくれない、いやいっそ気付かなくていい、でも気付いてほしいような、嗚呼もう、早くチャイムが鳴って二人は席に戻ってくれ!
ざわめきの中、どうしようもなく荒れた気持ちのまま少しずつ席に近付く、あと少し、あと少しで、

「あ、熱斗。」

当たり前だが、あと二、三歩のところでメイルに気付かれた。
それに追随してデカオとやいとも熱斗に気付き視線を向けてきて、それに対して何故か思わず身体が強張る。
それは一種の恐怖で、普段誰とでも仲良くなれると思われている熱斗は初めて、人の視線とはこんなに怖いものだっただろうか? と、らしくない疑問を抱いた。

「あら、おはよう熱斗。アンタにしては早いじゃないの。」
「よう熱斗!」

やいともデカオもいつものように明るく声をかけてくれるのだが、熱斗は今までの荒んだ想像とのギャップのせいで更に表情が硬くなる。
想定していた仲間外れは無く、彼らの意識の中に光 熱斗が存在している。
これは、自分は割と自然に会話に混ざることができたと考えていいのだろうか?

「え、っと……おはよう。」

そんなことを考えながらぎこちない笑顔で挨拶を返す熱斗に、三人は頭上に疑問符を浮かべたような、何か不思議な物を見るような目を向けてくる。
熱斗にはそれが自分の内面を探ろうとしているような目に見えて非常に恐ろしく、けれどその視線の下に全てさらけ出せば楽になる気もして、しかしやっぱり”そんなことをするのは俺らしくない”という思いが待ったをかけて、ただどうしようもなくぎこちない笑顔を無様だと分かりつつも続けることしかできない。
自分でも皆から見て今の自分は気味が悪いだろうと思いつつ、汚泥のようにドロドロとした感情を隠すためにヘラヘラとしていてぎこちない笑顔を続ける熱斗と、それを不思議そうに見つめる三人と、そんなどうとも言えない微妙な空気に必死に耐えるロックマン。
どうしよう、どうしたらいい? 何を言えばいい? 全く分からない。
次の動作、言葉が全く浮かばず、熱斗はまるで上司にへつらうことしか能の無いヒラ社員のような、どうしようもない笑みのような何かを貼り付けてその場をしのごうとするが、そうすればするほど三人の視線が突き刺さってくる。

――嫌だ、怖い。――

それが、とっさに浮かんだ正直な感想だった。
少しでも気が緩めば足が後ろに下がりそうで、むしろ今すぐ走って逃げだしたい、やめてくれ、そんな目で俺を見ないでくれ! と内心で泣き叫ぶも、内心のことが外部に伝わるはずなど無い。
そうして、自己満足にも似た恐怖に視線が宙を泳ぎ始めた熱斗を、三人は更に不審に思う、という負の無限ループが続く。
しかしそこに来てようやく、そのループを断ち切る行動に出ようとする者が現れた。
不可解な沈黙に耐えられず、ついにメイルが”熱斗、どうしたの?”と訊こうとしたのだが、

「……えっと、熱」

しかし、名前を呼び終わる前にホームルームの開始を知らせるチャイムがその声を聴き取りにくくし、更には教室の中は友人に一時的な別れを告げる声を誘発して教室全体の騒音を高め、メイルの言葉は雑音の中に消えた。
ざわつきの中で訪れる、小さな静寂――五人の間だけの沈黙。
熱斗、ロックマン、メイル、デカオ、やいとの間に先ほどよりも居心地の悪い空気が沈み込んでいき、熱斗が先ほどから感じている緊張のような圧迫感を、今度は全員が感じて黙り込んでしまう。
だが、やがてデカオが何処か神妙な、そして多少珍妙な様子で覚悟を決め、その沈黙を破る。

「じゃ、じゃあ、また昼休みにでも話そうぜ!」

妙に明るい声のそれは、熱斗のぎこちなさが感染してしまったのかと思う程無理矢理で、どうにかしてこの状況を打破しなければいけない使命感に追われているような雰囲気を漂わせていた。
そんな雰囲気で発せられたその言葉は、ホームルームが始まることを口実にした逃走と言えないこともないが、事実ホームルームは始まるのだから間違ってはいない。
また、デカオが率先して声を出したことで圧迫感が緩和されたのか、やいとが続く。

「そうねっ、そうしましょ! 早く席に戻らないと、まり子先生に怒られちゃうわよねっ!」

やいとの声はそれが名案であると主張するかのように大袈裟で、少し上擦っていた。
そしてやいとは、また後で、と軽く手を振りながら小走りでメイルの席を離れ、自分の席に向かう。
その後姿を見た時、熱斗の胸を僅かに刺したものが罪悪感だったのか、それとも孤独、孤立感かだったのか、それは熱斗自身にも分からないが、それでも何か棘の様なものが胸に、いやむしろ思考そのものに刺さったような、現実を拒絶したくなる感覚に襲われたのは確かだった。
自分が三人の穏やかな空気を壊した事実にどうしようもなく呆然としている熱斗をよそに、デカオがやいとと同じようにしてメイルの席を離れる。

多分、それは熱斗の様子が普段と違わなくてもチャイムによってあるていど起こった展開でもあったはずなのだが、今の熱斗にはチャイムのせいではなく自分のせいにしか思えない。
自分が三人の時間を壊した、三人に申し訳ないことをした、そんな罪悪感が胸も頭も痛ませ、ごめんなさいと謝罪すべきかと考えさせる。
しかしその一方で、あの時――入院中、先に退院してしまうことになった炎山と、その為に来たIPC社員達の空気を凍らせた時のような、その光景を喜び嘲笑う思いが罪悪感の影からじわじわと浮かび上がってきて、

――でもさ、お前らが俺を除け者にしてたのがいけないんだから、いい気味だよな。――

口元が微かに吊りあがる。

「熱斗?」
「……熱斗くん?」

デカオとやいとが去ってもなお動こうとしない様子を疑問に思ったメイルと不審に思ったロックマンに呼ばれ、熱斗は現実に引き戻された。
前方で自身の席に座っているメイルを見れば、重いとも軽いとも言えない、純粋に疑問を抱いている顔でどうしたのかと言いたげな視線を投げかけられ、肩の上のロックマンは明らかに何かを疑い探るような視線を向けてきている。
そんな二人の視線、特にロックマンの探るような視線で、熱斗は自分が何を思ったのかを自覚し、急に怖くなってくるのだった。
一体、何がいい気味だというのだろう? 自分が壊した自覚があるのに、相手が、友達が悪いだなんて、おかしい。
もしかしたら自分は笑っていたのだろうか? だからロックマンがこんな、敵の真意を探るような目をしてオペレーターで友達で親友の自分を見てくるのだろうか?
そう考えると、熱斗にとって今の状況は非常に恐ろしく、先ほど優越感をかみしめるように微かな動きを見せていたであろう口は誰とも言えない誰かに救いを求めて何かを言おうと形だけ、音は無いままで動く。

実際のところ、ロックマンのあの視線は、熱斗の微かではあるが異様な笑みを見たからではなく、既に今日の熱斗の様子を不審に思っていたことが此処に来て顕著に現れただけだったのだが、熱斗が今更それを知る術は無く、更に言うなら、例えロックマンが見ていなかったとしても、熱斗が非常に嫌な形で笑った事実は消えない。
どんな顔をすればいいか、何を言えば良いのかが未だ分からず、熱斗はまだ席に付けずその場に立ち尽くしたまま、メイルとロックマンもその何とも言い辛い違和感に戸惑い、着席を勧めることができない。
といっても、本当に戸惑っているのはロックマンだけで、メイルは”不思議に思っている”程度なのだが。
先ほどからずっとどうしようもない空気が続いている教室の一角、しかしそこでようやく教室のドアが音を立てて開き、彼らの事情とは無関係で、この教室では絶対的な存在がその状況を打ち破る。

「はーい、みんな席についてー! ホームルームを始めますよー。」

担任の教師――まり子が教室に入ってきた。

「あ……。」

まり子が教室に入ってきた音と声で熱斗の不可解な思考はふっと一旦途切れた。
また、一分一秒も名残惜しそうに談笑を続けていた他の生徒達もぞろぞろと自分の席に戻りだす。
熱斗も今まで何か言おうとした口を閉じ、黙って自分の席に着いた。
まり子先生が来てくれて本当に助かったとなどと思いながら椅子を引き、メイルやロックマンから視線を逸らすためにしっかりと前を向く。

いつもより真面目にまり子の話を聴いているようにも見える熱斗の様子はメイルから見て非常に不自然で、それは以前のネットセイバーであることを隠していた時のような”他人に言えない何か”を抱えている雰囲気を自ら漂わせている気がする。
そう思うとあの時のように、今度は何を隠してるの? と、訊いてみたくなるのだが、あの時は必要以上に粘り過ぎて足手まといになってしまった部分もあるから、今度はそうはならないようにしたいと思う。
しかしそれでも、熱斗が何か悩んでいるとして、もしも自分にできることがあるなら力になりたいという思いは今も同じ。
後で一度訊いてみようかな、などと考えながら、メイルも教壇に立つまり子に視線を向ける。
それにしても、これも幼馴染の勘なのだろうか? などと考えるとなんとなく、自分は他の人よりも熱斗の近くにいる気がしてきて、それがほんの少しだけ嬉しくなって、無意識に表情が緩む。
それは、先ほどの熱斗よりも綺麗で、周囲の雰囲気も柔らかに出来そうなくらい幸せそうな微笑だった。

一方、その不自然に思われている熱斗はというと、机の上に無造作に置いた自分の両手を重ね、ある衝動に耐えている。
この瞬間も熱斗は視線を教壇に立つまり子に向けているが、所詮それはメイルとロックマンから必死に視線を逸らしているだけでしかない。
もう二人は自分から視線を外してくれただろうか? それともまだ何かを探るように、疑うように、自分を見てきているのだろうか?
もしそうだとしたら、メイルかロックマンにまだ見られているとしたらと考えると怖くてたまらない、心臓が苦しい、これが動悸というものなのか。
どうして友達の視線が怖いのかなどという疑問は既に頭から消え失せているが、それとは別に、二人が見ていない確証が欲しい。
しかしその為にはまり子に向けた視線を彼らに向け直すことが必要であり、もしもメイルまたはロックマンが自分を見ていたとしたら、その先は言うまでもない。
だから見てはいけない、とにかく前を見なければいけない、だが安心できない、確証が、安心が欲しい、二人が自分を見ていない確証を、でももし見ていたら、見ていたら、そして目が合ってしまったら、それは――。

被害妄想にも近い罪の意識が、あるはずのない視線を想像させ続け、更にはその視線に少しずつ敵意を含ませる。
そしてそれが自分が生み出した嘘だと知る術をもたない熱斗は、存在しない視線に怯えながらホームルームを過ごした。
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