あの子の足元にも影はある

炎山が退院していったその日の夜、熱斗は夢を見た。
いや、見たと言うよりは聴いたと言った方が正しいのかもしれない。
いつの間にか見えていた景色は上下左右など分からない黒一色。
ここは一体何処なのか、何故自分は此処に居るのか、それらを確認できる要素は全く見当たらず、自分はすでにそれを知っているという事も無い。
小さな部屋の中に居るような閉塞感と、壁など欠片も無い場所に居るような解放感を同時に感じる不気味な空間。
……いや、正直それは空間と呼べるものではないような気もする。
始まりも終わりも分からない閉塞と解放を合わせ持つ黒の中で、耳の奥から脳に響いて浸食するように、誰かの声が熱斗の名前を何度も何度も何度も何度も、繰り返し呼び続ける。

――熱斗……熱斗、熱斗…………熱斗、熱斗、熱斗……ねぇ、――

その声は、いつもの朝のロックマンの声の様に誰かを起こす声に似ていながら、母親が赤子をあやして眠りに引き込む声にも近く、目を覚ました熱斗はその夢を、現実から切り離された場所で起こされるみたいだった、と振り返る。
いつものようにロックマンの声で目を覚ました、現実世界へ帰還したとも言える熱斗を、余分な紫外線がカットされているがとても明るい日の光が照らす。

「熱斗くん、おはよう!」
「……今何時?」

蛍光灯を点けなくても十分に明るい病室の中で、小さな立体映像となってベッドの上に立って熱斗の顔を覗き込むロックマンの表情は昨日の事が嘘であるかのように明るい。
それに対して、眠気こそ去ったものの未だに夢の内容を引きずっている熱斗は、ぼんやりと気だるい声で時刻を訊いた。
だがそんな熱斗の声を聴いても、ロックマンはとても楽しそうにニコニコとした笑顔を崩さず、正直なところ少し気持ち悪い。
何処かバグでも起こしてしまったのだろうか?と心配になってきた熱斗は少し眉間にシワを寄せる。

「今は午前八時二十六分だよ。それでね、今朝お医者さんから連絡があって……今日の午後に退院できるんだって!」
「マジで!?」

退院できると聴いて、熱斗は勢い良く上半身を起こした。
だるさは何処かへ吹き飛んでしまったらしい。
ロックマンは、退院できるって事は体に異常は無かったって事だよね!と喜んでいるが、熱斗はそれよりも学校にいる友人達の輪の中に戻れる事が嬉しくてたまらない。
病院で目を覚ました時から、いや、新型ダークロイドとの戦闘に呼び出されたその瞬間から、ずっと謝りたくて、ずっと寂しくて。
特に、昨日の午後に炎山が退院してしまってからはずっと寂しかった、独りで考え込んでいた、だから、

「よっしゃあああっ!! そうと分かれば今から退院の準備しないと!」
「ちょっと熱斗くん、さすがにちょっと気が早いよ! まずは朝食と歯磨きと洗顔と着替えと……って、ねぇ聞いてる?」

熱斗は飛び降りるような勢いでベッドから降りて、ベッドの隣のテーブルの下に置いてあるカバンを漁り、普段着を取りだしはじめた。
昨日が何かの間違いであった気がするほど元気なその姿に、ロックマンは少し笑いながら安堵の混ざった小さな溜息を吐く。
その間も熱斗はカバンをごそごそと漁っている、が、何を思ったのか急にその手を止めて床から立ち上がった。
あまりにも唐突なそれを、どうしたのだろう?と心配し始めたロックマンの前で、熱斗はPETを手に取って何かをいじり始める。
ベッドの上に立っているロックマンには熱斗がPETで何をしているのか分からない。

「熱斗くん、何してるの?」

若干の不安を抱えながら、なるべく冷静に訊いてみた。

「メールだよ、メール! ほら、入院のきっかけになった新型ダークロイドの出現日に……俺、やいとちゃんの家でみんなと一緒に遊んでただろ? だからその時に一緒にいたみんなには退院する事を伝えてたくてさ。でもほら、今って学校はホームルームとかしてる頃だろ? 本当は電話にしたいんだけど、色々始まってると……だから、メールを送ろう、って。」

そんなに量の重いメールでもないから回線だけで十分だしさ!と答える熱斗は楽しそうに明るく笑っている。

――新型ダークロイドと戦ってそのまま入院だったから、みんなに何も説明できてないんだよなぁ……やっぱ怒られたりするかな?デカオとか特に怒りそうだよなぁ、「ダークロイドなんかに負けんじゃねぇ!」って。そんなデカオを透くんが宥めたりとか、ありそう。メイルちゃんはどうだろう?いつものデカオみたいに強気で怒ってくるかな?……それはどっちかっていうとやいとちゃんがやりそうな気がするよなぁ……「もっとしっかりしなさいよね!ネットセイバーでしょ!?」とか。メイルちゃんは怒るというか、怒ってると思ったら急に泣き出しそうというか、強気なのに弱気なところとかあるから……うん、あんまり考えても自意識過剰っぽくて格好悪いし、とりあえずまずは退院したって事だけ伝えて……放課後に電話してみよう。ワガママを言うと、前回の続きってことでまた遊べたりすると最高なんだけど、どうだろうなぁ……よし、それも電話で訊こう!――

退院できる事が嬉し過ぎて、じっとしていられなくなりそうな高揚が止まらない。
思わず長文のメールを打ちかけてはバックスペースを使う、でもまた長い文章を書きそうになってバックスペースを……そんな行為を何度も何度も、逸る気持ちを少し抑えつつ繰り返して、ようやくある程度シンプルな文を造る。
件名は簡単に『退院決定!』として、本文もなるべく短く、それでも早く会いたい事が伝わるように、

『みんな連絡できなくてごめん、でももう大丈夫だぜ!
検査の結果、退院できることになったんだ。
まだロックマンから聞いただけだからお医者さんからの詳しい話は無いんだけど…退院できるってことは大きな問題はないってことだろうから安心してくれよな!
実際自分で具合が悪いって思う部分とか無いし。
多分明日からまた学校に行けるんじゃないかなって思うから、ヨロシク!
今そっちはホームルームから一時間目ぐらいだと思うから、メールを入れておくよ。』

結局長い気がするのは多分気のせいだろう。
とにかく学校に行く意思があることや、連絡できなかったことを申し訳ないと思っていることを強調してみた。
それにしてもわざわざ「安心してくれよな!」なんて書くのは少し自信過剰だと自分でも思う……けど、これぐらいならいいよな?と、恥ずかしさと期待の混ざったくすぐったい気持ちになりながらも熱斗はメールの送信を実行する。
メールの制作画面は送信画面に切り替わり、二秒ほどで軽快な音と共に送信完了を知らせる画面に切り替わった。
これでメイル、デカオ、やいと、透のPETに今書いたメールが届いたはず。

「これでよし、っと!」

ずっとPETの画面を見るために下に向けていた視線を戻すと白いベッドの上に乱暴に置かれた白いTシャツや黒の半ズボンが視界に入った。
そういえば着替えの準備の途中だったんだと思いだして、PETを机の上に置いてパジャマのボタンを外しはじめる。
ファスナー式の服はすぐに脱げるのに、ボタンの服は面倒だ、焦れば焦るほど外れない。

「熱斗くん、先に歯磨きをした方が良いんじゃない?」

上から三つ目のボタンをようやく外し終えたところでロックマンが提案してくる。

「えぇー? 朝ご飯まだなのに、意味ある? それ。」
「朝ご飯の有無じゃなくて、歯磨きが先の方が服が濡れたりしなくて済むよって話だよ。せっかく綺麗なんだから、あんまり汚れない方がいいでしょ? もしかしたらメイルちゃん達に会うかもしれないし。」

初めは、そんなのどっちでもいいじゃんか、ロックマンはホントに細かいなぁ、と思っていた熱斗だが、メイル達に会うかもしれないと聞いて少し気持ちが変わる。
確かに後で電話もするつもりで、もしかしたら入院前の続きとして皆で遊べたり……なんて事を考えている熱斗は、それならロックマンの意見に沿って服が汚れないようにした方が良いかもしれない、と考え直してボタンを外す手を止めた。
そして着替えなどが入っているカバンとはまた別の小さい手提げカバンと、机に置いたPETを持って病室を出る。
行き先はこの階の入院患者共同の洗面台だ。



それから六時間弱ほど経って時刻は午後二時前後。
一時半頃に母親のはる香と共に病院を後にした熱斗は今、近くのバス停で秋原町方面行のバスを待っている。
このバス停には通院患者を気遣っての事なのか日差しを避けるための簡単な屋根と長椅子があるが、熱斗はその屋根の下ではなくて時刻表が貼られた標識のすぐ近くの屋根が届いていない場所に立っている。
街路樹や電柱が少なく病院以外の多きな建物も少ない場所であるために何にも遮られない真昼の直射日光は眩しい上に若干暑いが、熱斗はそれぐらい許せる程の、むしろ気にならなくなる程の高揚に未だに支配されていて、それらの事よりもバスが来るまで後何分なのかが気になっている。
早く帰ってみんなと会う準備がしたい、放課後になったら電話をしてそれを約束するんだ。
何度も何度もバスが来る方向を見渡すのだが、それらしい車両はまだ見えてこない。

「熱斗くん、バスの到着まであと三分だけなんだから、もう少し落ち着いてよ。」

十数秒ごとに何度も何度もバスの到着を確認する熱斗の様子を見かねて、ロックマンが溜息を吐いた。
背後からは屋根の下にある椅子に座ったはる香の声がする。

「病みあがりなんだから少しは落ち着いてちょうだい。ほら、隣、空いてるわよ。」

はる香も今の熱斗の落ち着きが無い事は気になっているが、それも健康だからこそできる事でこれは熱斗が元気になった証拠ともいえる光景、とも感じているらしくロックマンの様に呆れている様子はなく、むしろ少し楽しげだ。
それでもまだ病みあがりなのは事実であり、子供の落ち着きの無い行動を戒めるのは親の役目なのだと、はる香もロックマンと同じく熱斗に落ち着くように言い、自分の隣を指さす。
しかし熱斗は首を横に振る。

「三分ならもうすぐ来るし、ここで待ってる!」

そう言った直後にも熱斗は車道を覗き込み、バスまだかなぁ……などと呟いた。
肩の上でロックマンが小さく溜息を吐き、はる香もさすがに少し苦い表情を見せる。

「なぁロックマン、あと何分何秒?」
「えっと、一分五十六秒ぐらいだよ。その質問、これで何度目?」
「だってなかなか来ないからさあ、仕方ないだろー?」

なかなか来ないって言うけど、急用がある訳でもないんだから十分にも満たない待ち時間ぐらいはいいじゃない、という言葉をロックマンは飲み込んだ。
熱斗は元々室内で静かにしているタイプでは無いのだから、入院なんてしていたら退院直後に落ち着きが無いのはある程度当たり前かと思って。
その間も熱斗はソワソワと落ち着かないままで、何度も車道を覗き込んでいる。
そしてこれはもはや何度目なのか、ロックマンやはる香も数える気が失せてきた時、車道を覗き込んでいる熱斗があっ!と短く声をあげた。
どうやらバスが来たらしい。

「やっと来たぜ! 長かったなぁ! ママ、バス来たよ! ちゃんと秋原町方面行きだ!」

確かにそろそろバスの到着予定時刻ではあるが、屋根の下の長椅子に腰かけているはる香にはまだバスの姿は見えない。
加えて今の熱斗の落ち着きの無さはいつもの数段上とも言える状態で、はる香は、もしかして外装が同じ別のバスを見間違えたりしてるんじゃないかしら?と感じて立ち上がる事を躊躇する。
しかしロックマンが、熱斗が見た車は確かに秋原町方面行きのバスである事を熱斗の肩の上で確認し、後ろに居るはる香へ振り向いて、大きく頷くという態度でそのことを伝えてきた。
それを見て、本当にバスが来たのだと信じたはる香が立ち上がり始めた瞬間、いきなり熱斗が振り返った。

「ママ早く! 置いて行かれちゃうって!」

振り向いたその表情はまるで、まだ自分がバス停に着いていないのにそこには既にバスが居て、そのバスの扉が今にも閉まってしまいそうで焦っている時のよう。
バスはまだ標識の前には到着してすらいないのに。
一体何をそんなに急いでいるのか、はる香には思い当たる節は見つからない。

「ママ! 早くってば!」

バスが標識の前に止まろうとしている。
はる香は否定も肯定もせず椅子から立ち上がった。
ロックマンが肩の上で少し苦い表情をしながら何度目か分からない溜息を吐いたが、とにかく早く家に帰ってみんなに電話をして一緒に遊ぶ約束をすることで頭から胸まで全ての思考が埋め尽くされている熱斗は気にせず、到着して扉を開けたバスに素早く乗り込んだ。
もしかしたらもう、ロックマンが今の自分の態度に少し飽きれていることなど気付いていないのかもしれない。
もはや料金を徴収するためのパネルにPETをかざしている時間すらもったいないのか、電子マネーを読み取るためのパネルからPETを離すタイミングがいつもより早くなる。
案の定、ブブーッ、とありがちな音が料金の徴収の失敗を知らせる。

「あっ、」
「お客さん、もう一度おねがいします。」

さすがにこの失敗は効いたらしく、熱斗は少し落ち着きを取り戻してさっきより少し長めにPETをパネルにかざした。
今度はありがちな音は鳴らなずに軽快な音がして、運転手も、どうぞ、と車内へ進む事を促してきた。
熱斗は出口となるドアの近くにある椅子に座り、恥ずかしさを誤魔化すように窓の外に視線を向ける。

「急がば回れ、急いでる時程慎重に行動しないと駄目だね、熱斗くん。」

少し面白がっているような、だからさっきから落ち着いてって言ってたんだからね!と言いたげな雰囲気のあるロックマンの言葉が少し耳に痛い。
このバス停には熱斗とはる香しか客が居なかったので、はる香が着席するとバスはすぐに扉を閉じて走り出した。
先ほどの失敗で、確かに少し落ち着いた方が良いかもなぁ、と思った熱斗だが、それでもみんなと会うのが楽しみな事に変わりは無く、窓の外の流れる風景を見る目は本当に風景を見ているのではなく、みんなに会ったらどんな事を話そうかという想像の風景を見ているようで、周囲から見ると何処か遠くを見ているように見えたかもしれない。
勿論バスの乗客の中にそれに気付くぐらい熱斗をまじまじと見ている者は無く、もし見ている者がいたとしても、それはロックマンだけだろう。
はる香は少し後ろの席に座っていて、熱斗がどんな目をして外に視線を向けているのかなど確認できない。
また、ロックマンはそれを見てはいたものの、少し落ち着いて外の風景を見ているのだろうとしか思わなかった。



それからバスに揺られる事三十分程度、バスを降りて歩くこと十分弱、ようやく自宅が近くに見えてきた。
すると退院できた実感が急に強くなり、バスに乗車するときの失敗の影響で薄れていた高揚がたちまち蘇る。
熱斗は急に走り出した。
後ろではる香が何か言っているが、熱斗はそれを大した事ではないだろうと思い、そのまま自宅のドアの前へと走る。
ドアに設置された電子ロックをPETにインストールしてある鍵のデータで解錠し、ドアを手前に引く、が、

「あ、あれ? なんで開かないんだ?」

確かにロックは外したはずなのにドアは開かず、ガタガタと音をたてるだけ。
電子ロックのシステムにウイルスでも入っちゃったのかな…と思って、ちょっと見て来てくれよ、とロックマンに言いかけた時、後ろから小さめの足音と共にはる香の声がした。

「念のために普通の鍵も閉めてあるのよー!」
「えーっ! なんで教えてくれなかったのさー。」

小走りで近付いてきたはる香が小さな鍵穴に鍵を差して回しながらそれに反論する。

「熱斗が聞かないで行っちゃったんでしょ! ママはちゃんと言ったわ、普通のカギも閉まってるわよーって。」

どうやら熱斗が走り出した時に言ったらしい。
バスの時と似たような失敗をしてしまい再び恥ずかしくなってきたところにロックマンが追い打ちをかける。

「さっきも言ったでしょ、急がば回れ、急いでいる時こそ慎重にって、ね!」

二度も同じような失敗をおかしてしまった熱斗は短く唸って沈黙、すなわち撃沈した。
それでもドアを開いて家の中に足を踏み入れると帰ってきた事が嬉しくなり、度重なる失態による何とも言い難い複雑な表情も柔らかな笑顔に変わっていく。
靴を脱いでリビングの奥の方に進む熱斗に、まずは手を洗うようにとはる香が言った。

「終わったらリビングに戻ってきてねー、入院中の荷物の整理をするわよー。」
「はいはい、了解! っと。」

普段は特別意識したりしない洗面台さえも妙に懐かしいのはどうしてだろうか。
大した傷も汚れも無い鏡は熱斗が入院する前と何も変わらない形のまま、入院する前と同じように熱斗の顔を映す。
なんとなく、鏡に向けて少し笑顔を作ってみる。

「……熱斗くん、何やってるの。」
「え、別に何って訳じゃないけど、ロックマンもやったことあったりするだろ? 鏡に向かってカメラ目線! 的な事。」
「僕は無いよ……。とりあえず、手を洗ってママのところに戻ろうか?」

いつの間にか肩の上に居たロックマンはこの行動に予想以上に退いていたらしく、この人何やってるの……と言いたげな視線が少し突き刺さってくる。
とはいうものの、熱斗自身も鏡に向かって笑顔なんてナルシストのする事の代表例だと分かっているが、別にいつもやってる訳じゃなくて、なんとなーくやっただけなんだから、そんなに気持ち悪いって目で見なくても、と内心で少し拗ねた。
それでもとりあえず、手洗いとうがいを済ませて、タオルで手の水気を拭いてからリビングに戻る。
壁に掛けた時計をチラッと見ると時刻は午後二時五十四分で、学校はおそらく六時間目の授業の最中だろう。
六時間目が終わるのはたしか三時前後だったはずだから、三時半ぐらいに電話をすればゆっくり通話をできるはず、それなら先に荷物を片づけてしまおうと思った熱斗は、ソファーに座って荷物を取り出し、目の前の低いテーブルに置いているはる香の所へ歩いた。

「ママ。手、洗ってきたよ。」

熱斗が声をかけると、荷物を衣類、洗面用具、その他に分けていたはる香が振り向く。
そしてテーブルの上の荷物の中から洗面用具とパジャマを手にして、

「あら、じゃあこの歯ブラシとお風呂セットを洗面場に戻して、こっちのパジャマを洗濯機の隣のかごに入れて来てくれるかしら。場所は分かるわよね?」

と言いながらそれらを熱斗に手渡した。
熱斗はそれらを見てちょっと困った顔をする。

「歯ブラシと洗濯物は分かるけど、お風呂セットはどこにしまえば良いのさ?」
「洗面台の下の方に大きな引き出しがあるでしょ? そこに入れてちょうだい。あ、終わったらちゃんと戻ってきてね? 持って行ったけど着なかった服を部屋に持ってってもらうんだから。」
「うん、分かった。」

洗濯物という柔らかく不安定な物の上に置かれた洗面用具を落とさないようにしっかりと持ち直してから、熱斗は再び洗面所へ向かって行った。
少しすると、パタン、と何かの扉を閉める音がして、足音がリビングへと戻ってくる。
しまったよー、などど言いつつ戻ってきた熱斗に、はる香は洗濯する必要が無い服を手渡す。

「他に持ってく荷物ある?」
「いいえ、後はそれだけよ。だから明日に備えて宿題のチェックでもしてきなさい!」

宿題と聞いて、熱斗は物凄く嫌そうな顔をするが、こんなに時間があるのに宿題が終わって無いなんて恥ずかしいでしょ!と言われて渋々はいと返事をして自室へ向かった。
階段を登る途中で、誰に言うでもなく不満を漏らしてみる。

「ちぇっ、入院してたんだからそれぐらい見逃してくれても良いじゃんかぁ。」
「ダーメ。入院してたからこそ最低限の事はやらないと、みんなに置いて行かれちゃうんだからね!」

誰に言うでもなく……とはいうものの、一人の人間に一体のナビが居ることが基本のこの時代は独り言など存在しないに等しく、案の定ロックマンからツッコミという名の否定をされてしまった。
この不満にド真面目で説教癖のあるロックマンが同意してくれるなんて絶対ないだろうと思ってはいたが、実際に否定されると結構ムカッとする。
ナビとはいえ同じ十代前半なのだから、もう少し遊び盛りの気持ちも理解してほしいものだと熱斗は思う。
だってこれでは同い年のナビというより成績重視の厳しいお父さんだろう、実際の父親の方がずっと優しい気がする。
あぁもう、これならあと一日ぐらい入院していても良かった気がしてくる。
……とはいえ、これらは全て所詮はいつもの事なので、

「ハイハイ、わかりましたよーだ。」

熱斗は不満たっぷりのだるそうな声で適当に返事をしながら自室のドアを開いた。
開いたドアの先に広がる自分の部屋は新型ダークロイドが現れた日の早朝から何も変わっていない、前日にそろえなかったノートやプリントを使った宿題を必死に探した形跡さえも。
そう、あの日の前日も新型ダークロイドを指揮する組織によるウイルス騒ぎがあって、何時間も必死にウイルスバスティングをする破目になっていた。
ウイルスだけならまだしも、そのウイルス達から新型ダークチップを無理矢理使われて暴走したガードナビやポリスナビの相手もしなければいけなかったから、一瞬の気の緩みも許されない状況が何時間も続いて、ようやく緊張を解いて帰宅できたのは午前一時ぐらいだったはず。
こんな時間まで起きていることが少ない自分は戦いが終わるころには酷く重い身体を無理矢理動かし続けていたと言っても過言ではない状況だったのに、そんな疲労の色が一切見えない炎山を超人かと思った。
それについてはロックマンが”炎山は大きな会社の副社長だもの、これぐらいは当たり前なんだと思うよ”と言っていた気がする。
そうではない自分はその疲労に耐えられず、夕飯も食べずに寝てしまって、あの朝に急いで時間割を揃えて家を出た。
言うまでも無くギリギリの時間に起きていたから、時間割を揃える事は出来ても必要ないものを片づける余裕はなかった。
それがそのまま残っている、ここに。

PETの中にインストール済みのバトルチップも、インストールせずにチップのまま持っているバトルチップも全て使い果たすかと思うような、持久戦。
でも、一瞬の油断が親友の死と社会への大打撃につながる激しい戦闘。
ただ生き残ること――勝つことだけ考えて、それ以外は一度全て捨てていた、捨てたくないものも、全て、捨てて、

――そうだ、この時も抜けてきたんだ、みんなの輪の中から、俺だけ。――

この時も四人で遊んでいた、そして”仕事だから仕方ないね”と割り切られた。
戦いの後にも、次の日の朝にも音沙汰は無かった。
労われなんて言わない、思ってない、でもどうして何も言ってくれなかったの?
自分が生きるか死ぬかとも言える戦闘をしなければならなかった時、みんなは何を考え、何をしていたの?
俺を気にしてはくれなかったの?
そして何を思いながら翌朝、自分に挨拶をしてきたの?
そしてどうして、隣で昨日の話をしたの?

――俺が居ない、昨日の、楽しい、思い出。――

「……っとくん……熱斗くん?」

散らばったノートやプリントに何処か虚ろな視線を向けたまま立ち尽していた熱斗を、ロックマンの声が現実に引き戻した。
ハッとして周囲を見ると当たり前だがそこはノートやプリントが散らばった自分の部屋だ。
ずっとそれを見ていたはずなのに長い間目の前のもの全てが見えていなかったような気がして、言い表せない不安を感じた熱斗は、床に散らばったプリントを集めて自分が居る場所を確認するかのようにゆっくりと机の上に置いた。
ロックマンが肩の上から心配そうな視線を熱斗に向けている。

「そんな顔で見るなよ、なんにも無いから。」

そう、何も無かったんだ、平穏は良い事なんだ、と自分に言い聞かせて、熱斗は少し笑って見せた。
けれどそれは熱斗らしくない不自然な作り笑顔に過ぎず、ロックマンは本当は質問攻めをしてしまいたい気持ちを抑えているんだと伝えるように不安そうな表情のままで視線だけ逸らした。
そしてお互い居心地の悪い沈黙。

「……あ、もう六時間目終わってる頃だよな!」
「え、あぁ……そうだね。」

先に沈黙を破ったのは熱斗だった。

「さっきメールは入れたけどさ、やっぱり直接電話して退院したって伝えたいと思っててさ……ロックマン、とりあえずメイルちゃんに通話繋いでくれるか? メイルちゃんと話し終わったらデカオに、次はやいとちゃん、その次は透くんで。」

四人が別々の場所で別々の事をしていることを前提とした頼み。
それが確信やいつもの事ではなくて、熱斗自身気付かない願望である事に、一体誰が気付くだろう?
とにかくロックマンは一度PETの中に戻りアドレス帳のファイルを開いてメイルのPETのアドレスを探し、熱斗は何時通信がつながっても良いように左肩からPETを外して右手に持って待つ。
ロックマンはすぐにアドレスを見つけてメイルのPETへ発信を始め、熱斗のPETの上に画面の代わりとなる立体映像の窓が現れる。
窓にはまだ相手の姿は映らず呼び出し音と共に”Wait...”の文字が繰り返し表示されている。
電話と言うのは特別な時で無くてもそれなりに緊張するものだが、今はその緊張を一層強く感じ、全速力で走った後と同じぐらい胸が苦しい、自分でもわかるほど心臓の鼓動が強い。

「まだかな……。」

コールが五回目を迎えた時、熱斗が小さく呟いた。
こんな、病気かと思うほど胸が苦しいのは、あの戦闘で新型ダークロイドがダークオーラを纏いながら転送してきた時以来、ってつまり最近か……などと考えている間にもコールは続く、八回、九回、十回、十一……
十回を超えてもメイルは応答しない、ロールも応答しない。
そろそろ一度止めた方が良いかな? と思ったロックマンが熱斗に、

「熱斗くん、もしかしたらメイルちゃんは今習い事とかで忙し」
「あら? 熱斗じゃない。どうしたの?」

声をかけ始めたその時、メイルが電話に出た。
しかし熱斗は声を出さない。

「なんだぁ? 熱斗じゃないか。」
「あ、熱斗くん、帰ってきてたんだ。」
「今みんなで、うちのガブゴン社から新しく出すバイオハンターの協力プレイに挑戦してるとこなの。バグチェックも兼ねてるから大量で忙しくてねぇー……だから用件は手短にお願いねっ。」

背景はメイルの部屋でも学校でもなく、やいとの家の敷地内に作られた秘密基地――熱斗を含む子供達の遊び場で、映った人間はメイルだけではなくてデカオ、透、やいとも居る。
メイルの部屋でメイルとロールだけが映る事を想定していた熱斗は言葉に詰まる、と言うより……

――俺、ゲームのバグチェックよりも軽い要件扱い……?――

そこにいる仲間たちの様子、挙動一つ一つが熱斗の胸を刺しつくす。

――いや、多分気のせい、気のせいだ、みんながそんな薄情な訳はない、気のせいだ、でも、え、なんで? っていうか用件は手短にって、いや、手短って……もう少し、気にかけてくれたって……っていうよりむしろ”熱斗も来る?”とか言ってくれたっていいよな? みんなと早く会いたくて仕方ないから電話してるんだよ? 俺……。あ、病みあがりだからとかそういう配慮? やだなー、俺そんな配慮必要なほど大怪我して無いし、検査で異常が出なかったから帰ってきたんだぜ? ねぇ、なんでそんな面倒くさそうな顔で見るの? デカオ、なんでゲームのコントローラーの方を気にしてんだよ? メイルちゃん、時計なんて見ないで俺の方みてよ。やいとちゃんも透くんも、ゲームの中での協力方法なんて話し合ってないで……ねぇ? そもそも、みんな何時の間に約束してたんだよ、なぁ、何時? なんで俺だけ知らないの? それこそ俺、入院中寂しくて、早く会いたかったのに……どうして?――

予想と遥かにかけ離れた状況が熱斗を混乱させる。
混乱させるといっても、皆が薄情と言う事は無く、熱斗が過剰な期待をしていたに過ぎない。
それは熱斗にも一応分かっている、が、相手が自分と同じぐらい寂しさを感じている事を想定――期待していた熱斗にとってそれは冷た過ぎて、少し驚いたぐらいの無表情で固まっていた表情が更にぎこちなくなっていく。
それでも、このまま何も言わない訳にはいかない、嫌な顔で電話を切られるのだけは嫌だ。
そうならないために、なんとか笑顔を作って無理矢理言葉を絞り出す。
頬の筋肉がつってしまいそうな気がするが、無視だ。

「ええっと……うん、今日の午後退院してきたんだ。ほら、ホームルームぐらいにメール出したんだけど……行ってない?」
「あ、そういえば来てたわね。ちゃんと読んだわよ。」

メイルがそう答えるとデカオ達が、自分も読んだ、と続く。
熱斗は何も伝わっていなかった訳ではない事に安心するが、読んでたなら一人ぐらい返信が欲しかったなぁー……などとも思う。
しかし、でも朝だったわけだし、そもそも応答できる暇がないと思ったから電話じゃなくてメールにしたんだし……仕方ないよな、とそこだけは前向きに考え直した。
そもそも応答が無い事をを前提としたメールなのだから、そこに文句を言うのは間違っているというのは熱斗も十分に分かっている。
それにしても次の言葉が浮かばない……どうしよう、と迷っていると今度は向こうにいるやいとが画面の先の熱斗に向かって、

「ネットセイバーも大変よねぇ。それで、何か用事?」

――いや、用事って訳じゃない、ただみんなと早く会いたかったから電話しただけで……用事って訳じゃ、訳じゃ……あぁもう、なんでデカオはまたコントローラー弄ってるんだよ、そのポーズを解いたらみんなゲームに戻っちゃうだろ!! ……というか、みんな戻りたそうだよな、ゲームに……。メイルちゃんもチラチラ時計見てるし、透くんは説明書とにらめっこしてるし……やいとちゃんは急かすような目で見てるし……。……なんか、タイミング間違えたかな、俺。――

「……明日から学校だからみんなにはちゃんと伝えておこうと思ったんだ。」
「あら、メールにもあったんだから、わざわざ電話しなくてもよかったのに。」

”ワザワザ 電話ヲ シナクテモ 良カッタ”

かすかな希望――願望も届かなかったと感じた熱斗は、お互いが友達であることを証明する握手の為に差し出した手をソードより数段切れ味のいい刃物で切り裂かれたような気さえした。
ちゃんとメールを読んでそこまで気付いているのに、何故今の自分の気持ちに気付いてくれない? まさか本当に今は迷惑だと言いたいのだろうか……などと嫌な考えが頭の中をぐるぐる回る、回る、回って、刺さって、切り裂いて、潰して、それでも飽き足らずに回って、噛みついて、――。

……勿論メイルにはそんな突き放すような意思は全く、むしろ”ちゃんとメール読んだからね”という意味の方が強かったのだが。

「熱斗?」

それでもそれを悪い意味にしか捉えられず話す事も笑顔でいる事も忘れていた熱斗をメイルが呼ぶ。

「あ、ごめん……うん、そうだね、メールで言ったもんな……。」

既に熱斗の顔はひきつった笑みさえ忘れ、今度は更に声も弱く沈んでいた。
メイルの後ろでやいと達が騒ぎだす。
どうやらゲームを早く進めたいデカオがポーズを解いてしまったらしく、やいとが、もう一度ポーズしなさいよ!!と言ったり、透が、メイルちゃんはまだコントローラー持てないんだから待ちなよ、と言っている。
それらは熱斗にメイルを含む皆との距離を更に感じさせ、息苦しさを増していく。
自分は彼らのゲームの進行の妨げになっている? 自分がいるから彼らは自由に動けない? 自分が今こうして関わっているから、彼らがもめ事を始めた?
それでも彼らは、

――俺が居ないのに、随分楽しそうだな、みんな。――

「あの、熱」
「おーい、メイルちゃ~ん、早く再開しようぜ~!!」

メイルが、何かあったの?と訊こうとした瞬間、その背後からデカオが大きな声でメイルを呼んだ。
それに向けて振り返って、ちょっと待って! と応えてからPETの画面を見ると、そこに映る熱斗の顔は笑顔に戻っている。
どこか不自然に感じるのはどうしてか、メイルには分からないが。

「どうしたの? メイルちゃん。」
「えっ? ううん、みんなが呼んでるから……そろそろ切るわね。また学校で会いましょ。」

それでも熱斗が笑顔に戻っていることで、別に大した事じゃなかったのかも、と思い少し安心したメイルはデカオ達の輪の中に戻る事に決めた。
明日が楽しみね、という意味を込めてメイルが笑いかけると、熱斗も微笑んだまま返事をする。
……メイルの笑顔に、疑念を持ったまま。

「うん、そうだね。……また明日。」

この時、一瞬熱斗の声が暗くなったような気がして不安を感じたのは、メイルではなくロックマンだった。
直後、電話の切れる音がして、立体映像の窓は閉じる。
熱斗はPETを凝視したまま一歩も動かず、PETを肩に戻す様子も無い。
電話をかける前のあの沈黙が再びこの部屋を、熱斗の周囲を支配する。
何か声をかけたいが、大丈夫?なんて訊くのは無神経というより愚問過ぎる、と思ったロックマンが必死に探してようやく見つけた言葉は、

「ほら、長い入院じゃなかったし、みんな熱斗くんはそんな簡単に悪に負けるような弱い子じゃないんだって思ってるんだよ、きっと。元気で強くて頼もしい友達って……その、変に心配しても失礼って時もあるでしょ? きっとそう思ってるんだよ、だから……」

正直これも随分無神経な気もするが、これが今この瞬間のロックマンに思いつくことのできた言葉の中では一番まともなものだった。
だからこそ最後までしっかり言いきって熱斗を元気づけたいのだが、”だから”から先の言葉が思い浮かばない。
すぐに思いついた言葉は”心配いらない”とか”安心して”といった、熱斗が何かを不安に思っている事を前提にした言葉ばかりで、ふさわしくない気がする、というよりそれを使ったら熱斗の心を悪い方向で刺激してしまう気しかしない。
あぁ、いつもお説教の言葉はどんどん出てくるのに、どうしてこういう時に限って言葉が出てこないのだろうかとロックマンが酷く悔やんでいると、

「まっ、そうだよな! 俺は正義の味方なんだから、そんなに簡単に弱ったりしないってみんな分かってるんだよな! 強くて明るい元気で無敵で頼れるスーパーヒーロー、その名はネットセイバー光 熱斗! ……そういうことだろ?」

ロックマンが言葉の続きを決めるよりも先に、熱斗が口を開いた。
自分で言っていて恥ずかしくなる程過剰なの自分への称賛、それは炎山が先に退院した時と同じ本心を誤魔化す態度で、それに全く気付かないほどロックマンは鈍くはない。
更にいうなら、本当に自分を凄いと思い込んで調子に載っている時の熱斗ならば最後に”そういうことだろ?”などと質問するような言い方はせずに”そういうことだから!”などと断言してしまう事をロックマンはよく知っている。
熱斗はこの酷く過剰過ぎる自画自賛を肯定して深い話を避けてほしいのだろう、だから自分に同意を求めているんだ、それなら肯定すればいい。
けれど、それは処置のできる傷口を放置して膿ませてしまう行為ではないだろうか? だとすれば例え否定に近くても肯定以外の答えをするべきだ、でもどんな言葉をかければいい?

「そうだよ、みんな熱斗くんを信頼してるんだ!」

散々悩んだ末に出た何とも頼りない肯定を精一杯の笑みと共に力を込めて放った。
だからといってこの肯定という答えの頼りなさが消えることはなく、本当にこれで良かったのか? という疑念と後悔が頭から離れない。
それでもロックマンが必至である事は熱斗に伝わったようで、熱斗はそんなロックマンに向けて、

「そうだよな! だって俺はスーパーウルトラパーフェクトグレートネットセイバーだもんな!」

と笑いながら左手でブイサインを見せた。
けれど、本当はそんなこと、欠片も思っていない。
そして大事なのはそこではない。

――本当に楽しそう、楽しそう、俺がいなくても……楽しそうだ。――

最後に見たメイルの笑顔が、その後ろから聞こえたデカオ達のはしゃぐ声が、熱斗に向けて”お前は必要無い”と言っているような気がした。
そう考えるとどんどん深い場所に落ちていく、自分が居ないほうが彼らは楽しく過ごせるのではないかと思ってしまう。
いや、そんなことはない、だって自分がいる時も彼らは笑顔で楽しそうだったじゃないか! と、強く否定してみても、それがもし嘘だったら? 俺とは別の誰かを想っての笑顔だったら? 俺を居ないものとして考えていた可能性は? と、否定への否定がすぐに追いついてくる。
それでも、疑っちゃ駄目だ! だってみんな、俺の大切な友達なんだから……信じないと!! と更なる否定を絞り出して這い上がろうと努力する。
でも――

「熱斗ー! 夕飯出来たわよー!!」

一階から聞こえるはる香の声が熱斗を現実に引き戻した。
もうそんな時間なのかと思ってベランダを見ると、確かに空は薄暗くなり、街灯も細い道に設置されたものから順に光りはじめている。
まだ考え足りない事は沢山あるがひとまず一階のリビングに下りよう。

「はーい!! 今行くー!!」

熱斗は一階に向けて大きな声で返事をしてから、部屋のドアを開いた。



夜――午後十時ごろ。
二時間ほど前にシャワーを浴び終わり、その後悪戦苦闘しながらも一時間ほどでどうにか宿題を終わらせ、ついさっき歯磨きも終わった熱斗はそろそろ明日に備えて就寝しようと思い、自室でパジャマに着替えていた。
先にズボンを穿き変えて、次にいつものTシャツを脱いでパジャマをはおり、そのボタンを留める。
一つずつ焦らず正確にボタンを留めていると、今日の朝はこのパジャマのボタンを外すことが酷く面倒だった事をふと思い出した。
退院と聞いて真っ先に皆に会えることを期待して落ち着いていられなくなった結果、ボタンを外す手から正確さが失われ、それがボタンを外すというなんでもない行為を面倒な行為に変えたのだったが……今は、それは所詮なんの意味の無い行為だった様な気がして、疲れたような溜息が洩れる。

「熱斗、くん?」

背後からロックマンの少し不安そうな声がした。
溜息を吐いた事にほぼ無自覚だった熱斗が、なんだろう? と思いながら振り向くと、ロックマンは机の上に置かれたPETの隣からじっと熱斗を見つめている。
その目は熱斗を心配しているのにそれを必死に隠している目に見えて、それは熱斗に表現できない、または表現したくない、例をあげるなら苛立ちに例えられそうな不快感をもたせた。

――何を心配してるんだよ? 何を不安に思ってるんだよ? なぁロックマン、俺はそんな目で見られる覚え、全くないんだ。だから……――

熱斗はロックマンの目を真正面から見ないように、気付かれない程度にほんの少しだけ視線を下に向けてから、

「どうしたんだよ?」

なるべく明るい声で訊き返すと、ロックマンは一瞬だけ驚いた顔をした後に黙ってしまった。
おそらく、熱斗の声が自分の想像よりも明るかったことで、熱斗が元気をなくしていたら使おうと思っていた言葉を言えなくなって黙ることしかできなくなったのだろう。
この様子だと、熱斗の視線の僅かな移動には気づいていない、気付いていたら声が明るくても慰めようと必死になったはずだ。
いつもの熱斗なら、自分から呼んどいてダンマリって何だよ? とか、何しょんぼりしてるんだよ! あ、お化けでも見たのかー? などとからかっているだろうが今日はそんな気分にはなれない様で、こちらも何も話そうとしない。
まだ安心しきらない顔で熱斗を見つめるロックマンと、酷く無表情に近い微弱な笑顔でロックマンの視線に最低限だけ応える熱斗。
自分の作ったこの空気の重さに耐えきれなくなったロックマンはさっきの熱斗よりも分かりやすく目を伏せた。
熱斗は静かに背を向けて、ボタンを留める手を動かす。

……けれど、なんとなく分かっている。
ロックマンが何を心配して、どう不安に感じたから自分をそんな目で見てきたのか、熱斗は分かっている。
分かっているが、否定したかった。

「ロックマン。さっきの事心配してるなら、それは大きなお世話だから。」

目を伏せていたロックマンが驚いて顔を上げる。
熱斗は背を向けたままだ。

「えっ、と……それは……。」
「そりゃあさ、ちょっと残念だったぜ? 普段怪我も少ないから、入院したらなんか……ほら、心配したのよ!とか言ってもらえるのが、ドラマとかアニメとかじゃ王道だろ? だからちょっとそういうの期待してた。」

言い訳臭い事など百も承知だ。
けれど完全な嘘ではない――本音を隠してある言葉なのも確かだ。

「……でもまぁ、そういう展開のある入院ってもっと長くて、骨折してましたーとか、長い長い意識不明でしたーとか、そういうのばっかだよな。つまり俺がしょぼくれてたのは、ドラマチックな展開期待してたからちょっとつまらなかった、ってヤツ。」

本当はもっと深い、けれどそれをロックマンが知る必要はない。
……知られたくない。

「ま、明日学校で”もっと心配しろよ薄情者~!!”とか言えばそれで満足できる話だから、あんまり重く考えないでくれよ、こっちの気分が重くなるっつーの!」

そう、明日学校で話せばいい、それだけだから、ロックマンにはこれ以上考えないでほしい、これ以上立ち入らないでほしい、理不尽な苛立ちをぶつけてしまいそうになるから。
ロックマンが気付いてくれたことに喜んでいる自分がどこかいるのも否定できないが、これ以上はたとえロックマンが相手でも見せてはいけない気がする、まだ見せて良い気がしない。

熱斗自身、今までの自分らしくないと思い、否定したくなる濁った感情。
声こそは明るく陽気にしたつもりだがきっと顔は笑えていない、背を向けたままで良かったと思った。
実際、明るいのは声だけであり顔は全く笑っておらず、それどころか目は何処か遠くにこの現実からの逃げ場を探すかのように虚ろで、もしもそれをロックマンが見たなら、熱斗の濁った感情への追及を今度は本気で始めただろう。
だがそんな表情を知らないロックマンは言い訳にも似た言葉に安心――いや、縋りたかったのだろう、小さく笑って、

「……うん、そうだね。明日一緒にみんなに抗議しちゃおう、もっと心配してよね! ……って。」

ロックマンの声は、不安を秘めながらも少しの希望を見つけたような明るさを持ち始めていた。
深い追及が無かった事に熱斗は安堵する。
少し寂しい気がするのは気のせい。
そんな少しぎこちない会話をしながら、熱斗はパジャマのボタンを全て留め終えた。

「じゃ、明日抗議するためにも今日はもう寝るからな。」
「うん、遅刻しちゃったら抗議の前に反省文かもしれないし、寝よっか。それじゃあ、電気を消すよ。」

パチンと軽い音がして天井に取り付けた蛍光灯の光が消えた。
パソコンもPETの充電以外の機能は停止してディスプレイから光が消え、部屋は近くの物が辛うじて見える程度の暗さになる。
唯一PET画面だけはまだ明るいが、これも熱斗が眠った後にロックマンが消すだろう。
普段ならあまりいい気のしないこの暗闇に、熱斗は何故か安堵し、ロックマンに気付かれない程度に小さく息を吐いた。

……そしてすぐ、そんな自分に疑問を抱く。
どうして今、自分はこの暗さに安心したのだろう? 顔を見られなくて済むからだろうか?
確かにこの暗さなら表情はよく分からないはずだが、本当にそうなのだろうか?
熱斗は自分がこんなモノに安堵した理由を考えようかと少し思ったが、考えたところで大した理由は出ない気がして止めた。
それに安堵でなはく疲労が押し寄せたのかもしれないし、安堵だろうと疲労だろうと、これなら今日はよく眠れるかもしれない、それならいいじゃないか、もう、それで……

「じゃあ、オヤスミ……。」

ベッドに上がり布団に潜り込んでからロックマンに就寝の挨拶をする、そしてそのまま目を閉じる。
背後でロックマンが返事をする声が聞こえた、ということを考えるのもなんだか面倒になってきた。
何も見たくない、何も聞きたくない、考えることを全て放棄してしまいたい、もう面倒だ、全て。
そんなことを”考えながら”熱斗は眠りに落ちていく。
ロックマンがそっと、PETの画面の灯りを消した。
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