あの子の足元にも影はある

突如デンサンシティのビル街に現れた、とても小柄で十歳にも満たない幼女のようなネットナビは、その外見からは考えられないほど強い水属性の攻撃でCF(クロスフュージョン)ロックマンを数メートル先まで突き飛ばした。
背中から近くのビルの外壁に激突して小さなうめき声を漏らしたCFロックマンを、さっきまで自分の立っていた場所の隣に居るCFブルースが動揺と焦りを含んだ声で呼ぶ。

「大丈夫か!? 熱斗!!」
「はっ、あ……だ、大丈夫!」

CFロックマン――熱斗は、衝撃と痛みで乱れた呼吸をなんとか整えてゆっくりと立ち上がった。
それを見てCFブルース――炎山は少しだけホッとしたが、戦況は自分たちが不利なままである事に変わりは無いと気を引き締め直す。
先ほどから続くこの幼女ナビの攻撃は水属性の物が中心で、たまにある無属性などの攻撃よりもそれらの攻撃の方が圧倒的に高い威力を誇っている。
おそらくこのナビは水属性だろう、と炎山は自分のフォルダに入っている電気属性チップでまだ使っていない物を思案する。
確かまだ『エレキソード』と『エレキブレード』を使っていないはず、けれど自分だけで攻撃してはあのナビにまともにダメージを与えられない、どころか反撃を食らう可能性すらあるだろう。

「熱斗、ショット系のチップを使え! できれば電気属性を!」
「わ、わかった!」

熱斗に遠くから狙撃させてナビの集中力を分散させる、そして隙を突いてエレキソードで斬る、それが炎山がとっさに思いついた作戦。
指示を受けた熱斗は、さっきの炎山のように自分のチップフォルダの中身を思い出して、遠距離向きの電気属性チップである『ラビリング3』の使用を決めた。

「ラビリング!」

熱斗の右手にラビリング3の発射装置が装備され、それが幼女ナビに向けられる。
それを見て、先ほどまでは子供らしく年相応の楽しげな笑顔だった幼女ナビは表情を強張らせ、攻撃ではなく回避に集中することを決めた。
幼女ナビは炎山の推測通り水属性で、自分が電気属性の攻撃に弱いことを知っているようだ。

「当たれっ!」

熱斗の右腕から輪のような形をした電気――ラビリングが幼女ナビに向かって飛ぶ。
幼女ナビは素早く真上に飛びあがってそれをかわす、しかし、

「エレキソード!」

ラビリングをかわす為に飛び上がった先へ、右腕に『エレキソード』を装備した炎山が『エリアスチール』を使って現れた。
誰が見ても分かるほど典型的な空中戦。
飛行に関する装備を持たないせいで自由な飛行ができない幼女ナビに、飛行のための装備を備えた炎山がエレキソードを構えて迫る。

「逃がさないぞ! 新型ダークロイド!」

炎山が右腕のエレキソードを振るう。
もはや幼女ナビに勝ち目はないように見えた、それでも、

「わたしを、甘く見ないで!!」

幼女ナビもエレキソードを直接撥ね退けるように右腕を大きく振って致命傷を避ける。
それでもエレキソードの斬撃を避けきる事は出来ず、致命傷を避けるために苦手な属性の攻撃を食らった右腕はまともに動かなくなってしまった。
飛行の出来ない幼女ナビが先に降下を始める。
着地した幼女ナビは右腕を押さえながら苦しそうな顔で地面に膝をついた。

「くっ、う……うぅ、か、考えたね、炎山、お兄ちゃん……熱斗お兄、ちゃんも……お遊戯っ、足り、なかったか、な……っう!」

エレキソードの斬撃を食らった右腕は更なる崩壊を始めていて、数分もすれば肘から下は消えて無くなるだろう。
デリートには至らなかったとはいえ、動きの鈍った幼女ナビを見て、熱斗と炎山は戦況を自分たちに有利な流れに変えられたと確信したが、そんな二人にロックマンとブルースが警告する。

「熱斗くん、油断しないで! この子より強くて嫌な力が近づいてる!」
「不穏な何かががここへ転送して来ようとしています、警戒を!」

その直後、二人と幼女ナビの居るディメンショナルエリアの中の空気が異様なプレッシャーを持ち、熱斗と炎山を襲う。
外部からの衝撃や痛みは無いのに心臓が絞めつけられる、それはまるで、自分が最も嫌って憎んで恐れて避けてきたものを目の前に突き付けられた時の恐怖と憎悪の混ざった圧迫感。
熱斗はあまりの苦しさに呼吸が乱れ、この状態が長く続いたら体が耐えられずに死んでしまいそうな気がしてくる。
炎山も同じ圧迫感に苦しむが、それでもなんとか今回の敵である幼女ナビに視線を合わせ続ける、と、その近くに紫色をしたオーロラのような光……いや、不安定な影が現れている事に気がついた。
二人はこの影の正体を知っている、最近現れた犯罪集団が蔓延させた新種のダークオーラだ。

ダークオーラは簡単に言うとナビ用の麻薬で、それをバトルチップの形式にしたものがダークチップ。
使用すると戦闘能力を飛躍的に向上させる代わりにナビの体と心を蝕んでゆき、一度の使用でも人間の麻薬中毒と同じ『ダークチップ中毒』を引き起こす。
特に精神への浸食は深刻で、最悪の場合使用者の自我を崩壊させてしまう。
以前、ネビュラという組織がこれを開発、散布して多くのナビを中毒に落としたことがあり、後にネオWWW(ワールドスリー)という組織がPET3に対応したダークチップを制作して散布したこともある。
この二つの組織が崩壊してから、しばらくダークオーラ並びにダークチップによる被害を二人が耳にすることは無かったのだが、その沈黙を破った犯罪グループがいる。
それがあの幼女ナビの属すグループだ。

異様なプレッシャーと共に現れたオーロラの様な不安定な影――ダークオーラの中には人影が見える。
やがてダークオーラが風に溶けるように消えると、そこに紫色をメインカラーにした髪が長く背の高い女性型ネットナビが立っていた。
それと同時に、それまで二人を苦しめていた異様なプレッシャーが軽くなり、それまで死の恐怖さえ感じていた熱斗も状況を確認する余裕を取り戻して周囲を見渡し始めた。
どうやらあのプレッシャーの主な原因は女性ナビが纏っていたダークオーラだったらしい。
幼女ナビをかばうように立つ女性ナビの視線は殺気にも似た冷たさを含んでいて、何時攻撃してきてもおかしくはないと考えた二人は、それぞれ標準装備のロックバスターとブルースソードを右腕に装備しつつも攻撃を仕掛けずに相手の出方をうかがう。
女性ナビも二人の様子をうかがっているのか攻撃してこない、と思ったら幼女ナビに右手を差し出した。
その上に見えるのはあのナビが現れた時に見えたものと同じ、不安定な影。
女性ナビの右手にはダークチップがあって幼女ナビに使う気なのだ、と判断した熱斗は、二人に向けて咄嗟にバスターを撃った。
それはどちらのナビにも当たらず近くの壁に当たったようで、砂煙が舞い上がり二体のナビの姿を隠す。
隣から炎山の叱咤が聞こえた。

「馬鹿! 敵の位置が確認できなくなっただろうが!」
「で、でも、ダークチップを使われたらもっと不利になるし、あのナビの心が……」
「前者はともかく後者は今考えるべきではないだろ! 俺たちが倒れたらそれこそ被害が拡大する!」

計算よりも感情で動く、それが熱斗の長所であり短所でもあった。
炎山はなんとなく分かっている、熱斗はダークチップを使われたら困るというよりも、ダークチップを使わせたくないという思いでバスターを撃ったと。
女性ナビが右手を差し伸べたのがもしも仲間のナビ、たとえばサーチマンやロールだったなら炎山も同じ思いで何かしらの攻撃をして阻止しようとしただろうが、そこに居たのはあくまでも自分の敵であるナビ、それもあの女性ナビの仲間。
例え敵でも見殺しにしない、素晴らしい理想だと思いはするが、自分たちが不利な状況でその理想を通すのは多少の無謀を通り越して自殺行為であるし、その理想を優先したために自分たちが奴らをくい止められなかったりしたら……それこそ多くの犠牲者が出る。
炎山の現実的な叱咤に熱斗は何の反論もできず黙ったまま、二体のナビがいるであろう砂煙に視線を戻した。
短時間の会話の間に砂煙は随分落ち着いて、そろそろ二体の姿が見え――ない。

「えっ、いない!?」
「ここよ、光 熱斗。」

砂煙の中に居たはずの片方、女性ナビはいつの間にか熱斗の真後ろに立っていて、振り返った熱斗を衝撃波のような攻撃で前方のビルの壁へ突き飛ばした。
また、熱斗の真後ろに居たということは炎山のすぐ近くに居るということでもあり、炎山も同じ攻撃を食らいそうになったが、熱斗が先に攻撃されていたことで女性ナビの存在に気付けた炎山は高く飛び上がり女性ナビの背後に背を向けて着地したが、

「炎山お兄ちゃんっ、もう一回遊ぼうよ!」
「な、がっ!」

その瞬間目の前に幼女ナビが現れ、水属性の攻撃を叩きこんできた。
いつの間にか女性ナビは炎山の背後から去っていて、幼女ナビの攻撃は熱斗の隣に炎山を叩きつけた。
……しかし、その攻撃の威力自体は別に上がっていない。
若干揺れてぼやける二人の視界に映る幼女ナビは右腕を失っている。
炎山はその点を強く気にすることは無かったが熱斗は疑問に思う、さっき自分のバスターはどちらのナビにも当たらなかったのだから、今頃ダークチップで回復されているのかと思っていたのに、と。

「ごめんね熱斗お兄ちゃん、アレはダミーなの。熱斗お兄ちゃんの気をひくための……。」

熱斗の疑問に気付いたのか、そう言った幼女ナビの顔は申し訳ない事をしたと言うかのようなしょんぼりとした表情を作っているが、内心はいじめっ子のような明るく醜い笑顔を浮かべているのだろう。
女性ナビの右手にあったのはダークチップでもダークオーラでもない、なんの力も持たない空チップとダークオーラの様な形をした立体映像。
女性ナビと幼女ナビはそれで熱斗に何かしらのアクションをさせることができる事を読んでいた。
小さな声で悔しがる熱斗と、その隣で立ち上がろうと試みるが腕にも脚にも力が入らない炎山に、女性ナビが遠くから両手を向け、放たれたのはレーザーのように眩しい大量のショット。
それらは猛スピードでスプレッドガンのように広く大量に二人に降り注ぎ、爆音の中から微かに二人の悲鳴が聞こえる。
だがそのショットの雨が終わる寸前に、それの打撃とは違う何かが熱斗に胸に食い込むような苦しさを与え、二人の悲鳴は炎山だけの悲鳴に変わった。
だがそれはとても短い時間だったために炎山とブルース、はたまたロックマンですら気付くことは無かった。

雨の様な攻撃が終わり、それが巻き起こした砂煙が晴れた頃、そこに幼女ナビと女性ナビの姿は無くなっていて、幼女ナビと共に現れたディメンショナルエリアも消え始めて二人のクロスフュージョンが解除された。
カシャンと軽い音を立てて落ちたPETからはオペレーターを心配するナビの声が聞こえる。

「炎山様、ご無事ですか!?」
「熱斗くん大丈夫!? 熱斗くんっ!!」
「ブ、ブルース……すまない、体中、痛くてっ……誰か、呼んでくれ……。」
「ロック、マン……俺も、力、入ら……な……い……。」

散々攻撃を受けた上に固い壁に叩きつけられ続けた二人の体が受けたダメージは重く、特に熱斗はどこか表情が虚ろで視点が定まらずに意識が朦朧としている。
ロックマンとブルースは二人をすぐに病院へ連れていくべきだと直感し、ブルースは救急隊の手配のために災害救助情報センターの電脳へ向かう。
一方ロックマンは救急隊が到着するまで二人に付き添う事にしてPETの中に残る。
もしも救急隊が到着するまでに二人に何かあった場合それを正確に伝える役目が必要というのも勿論あるが、それを抜きにしても今の二人から自分とブルースの両方が離れるのは避けたいと思ったからだ。

「熱斗くん、炎山、すぐにブルースが助けを呼んでくるから……!」

二人に多くの返事をできる余力などもはや無くて、ロックマンの声に対する返事は何も聞こえない。
それでもロックマンは、頑張って、もう少しだから、と二人を励まそうと言葉をかけ続ける。
炎山は返事こそしなかったもの、その声を聞いて少しだけ安心しながら、戦闘の激しさの爪痕に似合わない綺麗な夕焼けの空をぼんやりと眺めた。
一方、熱斗もロックマンの声が届いていたものの、炎山のように安心はできずにいる。
炎山にはハッキリと届くロックマンの声が、熱斗にはとても遠くから微かに聞こえる音のような届き方をして、徐々に視界も暗く狭くなっていく、意識が薄れていく。

「熱斗くん……?ねぇ、熱斗くん!?炎山っ、熱斗くんが!!」

ロックマンがそれに気付いて焦り出す、炎山が酷く痛む体を引き摺って熱斗の傍へ来る。
――このまま気を失っちゃ、眠っちゃ駄目だ、せめて、救急隊が到着するまででも――。
それでも視界はぼやけて暗くなる、親友の声もライバルの声も遠くなる。

「熱斗……おい、どうしたんだ……熱斗ッ……」

ついに視界は暗転し、ロックマンと炎山の声を聴き取ることはできなくなった。
一瞬の沈黙、聞こえ始めたのは救急車のサイレン。
現場に到着して救急車を下りた救急隊とブルース、そして祐一朗の耳にロックマンの慟哭が響く。

「嫌だよっ……しっかりして!! 熱斗くん!! ねえお願いだから返事をしてよぉおお!! 熱斗くぅううん!! こんなの嫌だああああああああああああ!!」

慟哭などもはやすることもできないボロボロの身体の炎山は救急隊に縋るような視線を向ける。
お願いだ、助けてくれ、と。



翌日の正午ごろ。
熱斗が目を覚まして最初に映ったのは白い天井で、最初に聞こえたのはロックマンの声だった。
既に医者から、命に別状はない、一日二日の内には自然に目を覚ます、と伝えられてはいたのだが、それでも胸が張り裂けそうなほどの不安と心細さを抱えていたロックマンが、よかった!本当によかったよ!と繰り返す声が前より近く聞こえる。
けれど熱斗が目を覚ましてすぐ、まだどこかぼんやりとした頭で一番初めに思ったのは、

「……誰か、呼んで、た……?」

夢を見ていた記憶など一切無いのに、ロックマンの声ではない誰かの声にずっと呼ばれていた気がする……誰の声かは分からないけれど。
とりあえず上半身を起こして周囲を見渡すと視界に映るのは、白く清潔な壁、自分のすぐ左隣には小さなテーブルとその上には青いPET、そのテーブルの更に奥には白いカーテンの付いた小さめの窓、そして右隣りには空いているベッド。
ついでに、自分が着ているのは私服ではなく病院特有の検査用の服で、バンダナも外されている。
ここが病院だということには気付けたが、どうして病院に居るのか思い出せない……そう頭を抱えて考え込んでいるとロックマンがそれを察したのか答えをくれた。

「熱斗くんは昨日、炎山と一緒にこの近くのビル街で新型ダークロイド達と戦って、酷いダメージを受けたんだ。それで炎山と一緒にこの病院に運ばれたんだけど……熱斗くんは救急隊が来る直前に意識を失っちゃったから……覚えてないかな?」
「……最後の方は、覚えてないや……でもそうだ、確かに俺は炎山と一緒に、新型ダークロイドと戦ってた……。」

戦っていた事実は思い出せても、その詳細があまり思い出せずスッキリしない表情の熱斗に、ロックマンが簡潔に、でも丁寧に詳細を教えてくれた。
新型ダークロイド達は逃走したこと、その後ディメンショナルエリアが消えてクロスフュージョンが解けた二人が酷いダメージを負っていたこと、救急隊を呼びに行ったのはブルースであること、その後熱斗が意識を失ったこと。
それから、炎山は意識はハッキリとしていたが体中の激痛に苦しみ、強い鎮痛剤を投与してもらっていたこと。

「隣にあるベッドは炎山が使ってるんだけど、今日は一時間前くらいから院内散歩に行ってるよ。さっきナースステーションに熱斗くんの意識が戻ったことを連絡しておいたから、お医者さんか看護師さんと一緒に戻ってくるんじゃないかな? 炎山も僕と同じぐらい心配してたからね。」
「えぇー? あの炎山がぁー?」

今の炎山なら全く心配してくれないことは無いだろうと思うが、ロックマンと同じほど心配していたというのはさすがに疑わしい。
さすがにそれは無いだろうと熱斗が反論しようとした時、自動ドアの開く音とともにいくつかの足音が病室に入ってきた。
入ってきたのは、医師一名と看護師二名、熱斗の母親のはる香、そして炎山。
ママが来るのはなんとなく分かるけど、炎山も本当に一緒に戻ってくるなんて……と明らかに驚いた顔をして炎山を見ている熱斗を見て、ロックマンがクスクスと笑う。
炎山はそんな二人を見て、何か俺の悪口でも言っていたのかと思い、少し不機嫌な声でロックマンに問う。

「二人ともなんなんだ? 人を見るなり片方は驚いて、片方は笑って。」
「フフフ、ゴメンね。炎山が熱斗くんを僕と同じぐらい心配してた事を教えてあげたんだけど、信じてもらえなくて……炎山ったら、鎮痛剤が効いて自分に余裕ができてから、ずっと熱斗くんを見て溜息ばっかり吐いてて、最後にはブルースに『もうお休みください』って注意されちゃって、」
「あああ! もういいロックマン少し黙れ!」
「それでもずっと溜息吐いて起きてたから、『看護師を呼んでカーテンを閉めていただきましょうか』なんて言われちゃってさ。ほらそこにベッドとベッドの仕切りのカーテンがあるでしょ? 炎山はアレを閉められたくなくて、渋々反対側を向いたんだよー。」

炎山の制止を聞かず、ロックマンは少し悪戯っぽい笑顔でとても楽しそうに話を進めた。
とても恥ずかしそうに焦る炎山の姿から、熱斗はこの話がおそらく本当なのだとうと感じて嬉しくなり、炎山に向けて二コリと笑い、

「炎山。ありがと、心配してくれて。」
「……どう、いたしまして。」
「そうそう今日の院内散歩も、意識の無い熱斗くんを見てるのが辛かったから、が本音だもんね!」

一度は落ち着きかけた炎山が再び取り乱しはじめた。
依然として楽しそうなロックマンをはる香が、それぐらいにしてあげなさい? と注意するが、こちらもなかなか楽しそうな顔をしているので炎山の恥ずかしさは増すばかり。
なんだかこのまま無限ループに突入しそうだ、と思う熱斗に、それまで黙っていた医師が話しかける。

「熱斗くん、体の調子はどうかな? どこか痛いとか、感覚がおかしいとか、あるかい?」
「んー……大丈夫、無いみたいです。」

熱斗は答えながら手の指を何度か動かしてみる。
両手とも結んで開いてを何度か繰り返すが、どの指にも痛みはなく感覚の違和感もない、勿論腕や脚、腹部などを含む胴体にもこれといって異常は感じられない。
炎山は体中の酷い痛みに苦しんだらしいが……自分は運が良かった、もしくは回復力が強かったのだろうと思う。
その様子を見て体調は大丈夫だろうと感じた医師は次も質問に移る。

「じゃあ、ここに来る前のことはどのくらい覚えているかな? できる限り順番に話してみてくれ。」
「えーっと……」

此処に来た原因を順番に話せばいい、それなら新型ダークロイドが出現する少し前から話せばいいハズ。
熱斗は医師に少しだけ時間をもらい、昨日のことを放課後のあたりから思い出して頭の中で整理することにした。

昨日は学校が終わってから、メイルとデカオとやいとと透の四人と一緒に、やいと家の豪邸の庭にある秘密基地で遊んでいた。
久しぶりに五人で集まれたから普段よりも嬉しくて興奮しているような、でも少しだけ緊張して固くなっているような、どこか不自然な自分がいて……それは時間と共に薄れてきたが、その不自然さが無くなった頃にPETのオート電話着信音が響いた。
電話に出ると画面には光 祐一朗――パパが映っていて、その後ろでは名人が慌ただしくキーボードを叩いているのが見えた。
そしてその電話で、新型ダークロイドがディメンショナルエリアと共にデンサンシティのビル街へ出現したから至急向かってほしい、と言われて四人にごめんねと謝って出てきた。
……そういえば、あの四人がこういうことを、仕事だから仕方が無いね、と割り切るようになったのは何時の頃からだろう……。

熱斗は、自分がネットセイバーの仕事で遊びの輪から抜ける事に心底慣れてしまったような四人の顔を思い出して、一瞬考えることが本題から逸れてしまう。
けれどすぐに、今重要なのはそこではなくて此処に来るまでの経緯だと考え直しその先を整理しながら、医師に少しずつ話しだした。

「放課後、友達と遊んでたらPETに通信が入ってパパ……光博士から呼ばれたんです、デンサンシティのビル街にダークロイドが出現したから向かってくれって。それで、現場に行ったら先に炎山が来てて、ダークロイドと戦ってて……俺も一緒に戦ったんですけど……後から来たもう一体のダークロイドに、二人ともやられちゃって……その後は……」

誰が救急隊を呼んだのか、隣に居た炎山の様子はどうだったのか、その時の空は何色だったか……クロスフュージョンが解けた後のことはロックマンから聞いただけで、自分では全く覚えていないと言っても過言ではない。
……なのに、意識を失う前でも回復した後でもない、意識が無い時間に何かがあった気がする。
熱斗はこれを医師に言うべきなのかどうか悩み、少しの沈黙を挟んでから言葉を続けた。

「……覚えてないです。」

意識を失ったり、その付近の記憶が一部抜け落ちたりしているぐらいなのだから、誰かに呼ばれたというのは現実ではなく脳が作り出した錯覚、いや呼ばれただから幻聴と言う方が近いだろうか。
とにかく、意識が無い時間にあった気がする何かは現実の事ではないだろうと思い、医師や皆に告げないことにした。
それに気付かなかった医師は、放課後から戦闘そして敗北に至るまでの経緯をよく説明できた熱斗はおそらく正常だと判断して、看護師二人とはる香に何かを説明しはじめる。
それを見て熱斗はふと思い出す、以前にも他人同士の会話に入れない立場を経験していた気がする、それもわりと最近、と。
しかし、何処で誰と誰のどんな会話に入れなかったのかまでは思い出せない。
医師と看護師とはる香が会話をする姿に少しぼんやりとした視線を向けたまま、何処でこの立場を経験したのかを思い出そうとしていると、すぐ右から炎山に話しかけられた。
少しハッとして振り向くと、炎山は熱斗のいるベッドの横にパイプ椅子を置いてそれに座っている。
表情は一見無表情だが、よくよく見ると話しかけた相手を心配していることが窺える、といっても話しかけられた方はその表情を見ただけでは、彼が自分に対して何かを心配していることに気付くことは滅多にないのだろうが。

「熱斗、何か不安な事でもあるのか?」

普段より少し暖かく、柔らかい声音。
炎山は、熱斗が自分の母親と医師達の会話を見つめているのは先ほどの会話の中で伝えきれなかった不安があるからではないだろうかと心配している。
不安が全く無いと言ったら嘘になる気がするけれども、今はそれでそちらを見ていたわけではない。
熱斗は小さく笑って見せながら静かに首を横に振った。

「ううん、ちょっとポーッとしてただけ。こんな時間に言うのもあれだけど、俺、まだ起きてあんまり時間経ってないしさ。」

窓から差し込む日差しはUVカットのカーテンを通してもまだとても明るい。
また、病室に二つあるベッドのどちらからもよく見える位置に取り付けられた時計は、今が午後十二時を少し過ぎたあたりだと二人に教えてくれる。

「確かに寝坊と言うのもさすがに難しい時間だな。眠気覚ましに院内散歩にでも一緒に行くか? 許可が取れればだが……。飲み物ぐらいは奢ってやる。」
「そうだなぁ、この後もずっとこの部屋でベッドの上っていうのも退屈そうだし、行こっかな。」

ベッドの上や布団の中は疲労や病気で体調がすぐれない時は天国だが、健康な時は正直退屈な場所でもある。
それを退屈だと言い切れる熱斗に安心して炎山も小さく笑い、その会話を聞いているロックマンもさっきとは悪戯っぽい笑顔とは別に小さく笑った。
その二人の温かく明るい雰囲気に安心感を得たのか、ついさっきは笑って見せていただけだった熱斗も今度は自然と笑う。
そこへ、さっきまではる香や看護師と何かを話し合っていた医師が熱斗を呼んだ。

「熱斗くん、これからの事なんだがね、今日はまずこの後は自由時間だ。」
「じゃあ、炎山と一緒に院内散歩、行ってきていいですか?」
「そうだねぇ……今の君ならそれぐらいは許容しても良いだろう、うん。今から明日以降の事を簡単に説明するから、それを聞き終わったら行っていいよ。ただし、体調が悪いと感じたらすぐに此処に戻ること、必要があれば私達医師や看護師たちを呼ぶこと……いいね?」

前半は笑顔で穏やかに、しかし後半は守らなければいけない規則をしっかり教える強さを込めて話した医師に、熱斗は元気良く、ハイ!と返事をする。
それを聞いた医師とはる香と看護師も先ほどの炎山とロックマン同様、熱斗は元気だと安心して微笑んでゆく。
医師に至っては、真っ直ぐ明るくて良い返事だと感心して何度か小さく頷いている。
明日以降の事、つまり退院までの流れの説明はその穏やかで温かく明るい雰囲気のなかで行われた。

「まず明日の午前、熱斗くんにはいくつか検査を受けてもらう。今は回復しているけど最初は意識不明だったぐらいだからね、念には念を入れて。ちなみに炎山くんも受けているよ、今日の午前中に。それでその検査で異常が見つからなければ明々後日に退院だ。」
「明々後日って……そんなに早くていいんですか?」
「うん、熱斗くんも炎山くんも骨折とかの大きな傷は無いし、こういう説明とかで会話をしてみる限り脳にも異常はなさそうだからねぇ。後は機械での検査で異常が出なければ日常生活に戻ってもらって平気だよ。」

説明を受けた熱斗はそれがかなり早い退院の気がして少し驚いた。
大怪我をした訳ではない、という意味では当たり前の気がするが、入院とやはり重く長いイメージが抜けず、素人目にも、本当にそれで大丈夫なのだろうか?と多少不安になる。
しかし、自分は昨日友人達の輪を途中で抜けてしまってそのまま此処に入院したのだと意識するとそんなものはどうでも良くなって、正直今すぐにでも退院したくなり、数秒前には早い退院と思ったこの一週間に満たない入院をやっぱり長いと感じる。
早く退院して昨日のことを謝って、また一緒に遊ぶ約束をしたい、そしてその約束を守りたい。
説明を聴く間ずっと、熱斗は明日の検査で異常が出ないことばかりを祈る。

「――……という訳だから、まずは明日の検査をきちんと受ける事だよ。質問や今のうちに話しておきたいことはあるかい??」
「えっと、今は無いです。」
「ふむ、だいたい分かってもらえたようだね。じゃあ熱斗くん、また明日の検査の時に。ではお母様、私は一度戻りますので……失礼いたします。」

医師は熱斗との話を終えるとその母親であるはる香に一礼、また熱斗の回復を知り一緒に病室に戻ってそのそばで話を聞いていた炎山にも一礼してから出入口の扉へと歩き出す。
二名の看護師も今自分が此処でする事は無いと分かっているらしく、熱斗とはる香と炎山に一礼すると医師の後を追うように病室を後にした。
人が減って少し静かになった気がする病室で、熱斗の母親のはる香が最初に口を開く。

「目が覚めてよかったわ……私も心配したのよ? あ、それでね、昨日数日分の着替えを持ってきてたの。そこのテーブルの足下を見てちょうだい。」

熱斗がベッドの隣の小さなテーブルの足下を見ると、テーブルの下に隠すように布製のカバンが置いてある。
そのカバンはわりと簡単な作りだが、そのおかげで中身は沢山入りそう、というかすでに色々な物が入れられているようでしっかりとした立体感をもっている。

「ほら、そこに手提げカバンがあるでしょう? その中に着替えと必要そうなものを入れておいたから……もし何か足りないものがあったら電話ちょうだいね。」

熱斗と炎山とロックマンに聞こえたはる香の声はいつもの明るさと元気が薄れていて、少し疲れた声に聞こえた。
自分の息子が意識不明とも言える状態になっていたのだから無理もない。
熱斗は心配と面倒をかけた事に少し罪悪感がして、早く退院して安心させてあげたいと思う、安心してほしいと思う。
そんな思いが表面に出て少し表情が陰る熱斗に今度は炎山が話しかけてくる。

「許可も取れたことだ、行くか? 院内散歩。」

少し重い空気に耐えきれなかったのは分からないでもないが、身内がいる時にそこから連れ出す発言をするとは、炎山にしては珍しくタイミングを計りきれていない。
それは炎山本人も自覚はしているようで、熱斗とはる香の返答を緊張した面持ちで待っている。
熱斗も正直なところこの空気に気まずさに似た居心地の悪さを感じていて、それから解放されるためにも炎山と一緒に院内散歩に行きたいと思うのだが、自分を心配してくれている身内、それも母親の元を離れていいのかと考えると、はいともいいえとも答えられない。
自分としては行きたいけれど、無理にママから離れる気はないんだ、どうしたらいい?という質問の意味も込めて、少しためらいながらゆっくりとはる香に視線を向け直すと、はる香は優しく微笑んで言ってくれた。

「ずっとベッドの上じゃ体が逆に弱るものね。いってらっしゃい。」

この時はる香が何を思ってその返答にたどり着いたのかは熱斗にも炎山にも分からない。
家族との時間も大切だと思うけれど友人との時間も大切にしてほしいと思うからかもしれないし、二人とは別の視点から空気の重さを感じていたからかもしれないし、もしかしたらどちらでもない他の事かもしれない。
とにかく、はる香は熱斗が炎山と一緒に院内散歩に行くことを許可してくれた。
熱斗はベッドから降りて近くのスリッパを履き、小さなテーブルの上からロックマンのいる青いPETを手に取り服のポケットに入れる。

「ママ、ありがとう。いってきます。」

炎山を追って病室を出る前に一度振り返ってそう言うと、視線の先のはる香は何も言わずに小さく手を振ってくれた。
病室を出ると、病室と同じぐらい綺麗に清掃されている廊下に出た。
熱斗と炎山の使っている病室はこの廊下の一番奥にあって自然の光が入りにくいが、天井に付けられた蛍光灯のしっかりとした灯りのおかげで薄暗くはない。
まっすぐのびている廊下をしばらく進むとこの階のナースステーションが見えてきた。
その正面には見晴らしのいい大きな窓があり、ナースステーションの前を通る間は昼間の日差しが少し眩しい。

「もう少し先にいくとエレベーターがあって、そこから一階に下りれば売店や自動販売機がある。ちなみに階段はエレベーターよりも先だ。」

隣を歩く炎山が度々立ち止まって院内の施設の説明をしてくれる。
この病院がどこの病院なのかさえ知らない熱斗にとってそれはとても助かることだが、そのせいで一階の売店に着くまでに普通より長い時間がかかってしまった。
一々立ち止まらなければ早いのに……と思うが、これも自分が望んだ散歩の一部だと思うとそんなに悪い気はしない。
どうせ入院中は勉強も遊びもネットセイバーの呼び出しも無いのだから、同じ状態の友人とゆっくりと過ごすのも良いかもしれない、友人とゆっくり過ごすのも……

「なんか、久しぶり。」

売店や食堂のある一階の中庭。
公園にあるようなベンチに座り、炎山に買ってもらったオレンジジュースのペットボトルを右手に持ちながら熱斗が呟いた。
隣に座って缶コーヒーを飲んでいる炎山が、何がだ? と訊く。
元々は炎山や特定の誰かに向けて言った訳ではなくて思っていたことがつい口に出てしまっただけだったために、その問いに対して熱斗の方が一瞬、へ? と間抜けな返事をしてしまう。

「いや、ほら、最近、新型ダークロイドとの戦闘とか、新型ダークチップの取り締まりとかで忙しかったから……こうして誰か、友達と一緒にそういうのあんまり考えないで過ごすのって久しぶりだなぁ、って……。」

思い返せばいつもヒヤヒヤしていた気がする。
新型ダークロイドが現れるようになってからは特にそうだ。
ネットセイバーであること以外は普通の小学生と同じ、むしろ今の小学生にしては珍しく習い事が立て込むなどの忙しさが無い自分は誰かと遊びの約束をするのは簡単だった。
問題はその後、遊んでいる最中に敵が現れたら……特にネットナビが現実世界に現れたなんて時はまず間違いなく自分に連絡が来る、現場に急行してくれと。
だから遊んでいる時にはいつも、後何時間は通信が入りませんように、と思っていた、安心して遊べなかった。
そしてその祈りが通じたのかPETが鳴らない日もあったが、最近は鳴る日の方が格段に多くて……それから――。

「熱斗?」

ハッとして炎山に視線を向けると、炎山だけでなくブルースまでもがその肩の上から心配そうにこちらを見ていて、自分の肩にはロックマンが。

「あ……ごめんごめん、そういえばいつ頃からアイツらの活動が活発になってきたんだっけって考えただけで……だからそんな心配そうな顔すんなよ、どこか調子が悪いとかじゃないから。炎山どころかブルースにまで心配してもらえるなんて、なかなか貴重な体験だけどな!」
「フンッ、キサマが暗いと炎山様のお気持ちまで暗くなるから心配しただけだ。」
「ほほーう、これが噂のツンデレってやつか!」
「違うっ!!」

ブルースのことだから、炎山の気持ちまで暗くなることを心配したというのは間違いではないのだろう。
けれど、なんだかんだで熱斗のことを心配していたのも確かなようで、熱斗からの挑発にも似ているからかいに反論する姿に普段のクールな面影は薄い。
そんなことだからロックマンにまでどこか温かい……というよりも生温かい目で見られてしまい、ブルースは少し拗ねたようにしてPETの中に戻っていった。

その後も熱斗は炎山と一緒に院内を見て回り、病室に戻るとはる香はすでに帰宅した後で、ベッドの横の小さなテーブルに置かれていたメモには「また明日来るわね。何かあったら遠慮なく電話してちょうだい。 ママより」と書かれていた。
病実に戻ってからも時間の流れは穏やか、というよりも静かで。
夕食を済ませ、自由時間が過ぎて、就寝時刻が来て、やがて――



入院三日目の午前十一時半ごろ、検査を受け終わって病室に戻ってきた熱斗は、まるで映像の一時停止のように動けなくなった。
ベッドに座ってPETを操作しながらブルースと何か話している炎山の着ている服がパジャマや検査用の服ではなく私服になっていて、足下には入院のための荷物がつめられているであろう大きなカバンが置いてある。
理由はなんとなく想像がつく、自分だって明日は今の炎山と同じように私服を着て、カバンに荷物をまとめながらロックマンや母親と共にこれからの事を話し合っているはずだから、それと同じ事をしているだけだと分かる。
それでも、炎山が自分より早くそうしてしまう事を信じたくない熱斗は訊いた。

「炎山、何してんの?」

炎山は振り向いて答えた。

「今日の午後に退院が決まったから、その準備をな。」

なんで?という一言を、熱斗は必死にこらえた。

それ――炎山の退院は、べつに予想外ではなく、むしろ予想の範囲内で、そして喜ぶべき事だと分かっている、わかっているのだが、それでも熱斗は信じていた何かに裏切られたような気分に突き落とされた。
しばらくは複雑な事を考えずに友人と過ごすことができると思い嬉しくなった、その矢先に、対象である友人が自分より先に此処を去ってしまう事実に、どうしようもない不満が湧きあがってくる。
せっかく学校もネットセイバーのことも気にしないで友達と遊べると思ったのに、寂しい。
あんなに心配してくれたのだから、どうせなら自分と同じ日に退院してくれてもいいじゃないか、何故先に退院してしまうのか、などと沢山の不満が頭の中に浮かんでくるが、それらは正当な言葉ではなくてただのワガママでしかないことぐらい、熱斗にも十分理解できている。
友人――炎山に悪気は無く、そもそも炎山はしばらく熱斗と一緒に居るというような約束をした訳ではないのだから責められる理由など一切ない。
熱斗が、しばらくは一緒に居られると勝手に思い込んでいた、それだけ。
だから、止めどなく湧き上がり流れ出す不満を必死に抑えて、熱斗は笑顔を作る。

「そっか、退院かー……俺が入院してる間、ニホンを頼んだぜ!」

あまり真面目に、退院おめでとう、なんて言ってしまったらまともに笑う事が出来ない気がして、今は思わない自信過剰なことを言ってみた。
二重の意味で本心ではない事を言ったせいで少し、下手な演技のような棒読みの声とわざとらしい笑顔なってしまった気がしてそれがバレていないかどうか不安になるが、幸いにも炎山はそう感じなかったようで、

「バーカ、退院したら出番は無いと思ってろ。」

笑いながらそう返されて、ようやく緊張が解けた。
わざとらしい笑顔と、その裏に隠した善人が持つにしては醜悪な思いにも気付かれなくて安心した、そのはずなのにまだ、どこかが少し締め付けられている気がするのは、それこそ気のせいにしておこう。
熱斗は出入り口を離れ、炎山に背を向けて窓の外を見るように自分のベッドに座った。

……のはいいものの、炎山が今何をしているのか、何時頃に退院なのか、付き添いの人は来るのか、などが気になって、後ろに振り向き声を掛けたくてしかたない。
けれど何故か、振り向いてはいけない、そんな質問をしてはいけない、とも感じてしまい振り向けなくて声を掛けることもできない。
しかしやっぱり会話がしたい、けれど声をかけてはいけない気がして……炎山の方から何か話しかけてもらえないだろうかと思うも、炎山はブルースと仕事に関する話をしている最中で、熱斗にもロックマンにも話しかけてくれないどころか、こちらから話しかけても「今は忙しい」の一言で終わらされてしまう気がする。
仕事の話の最中に話しかけるのは悪いなんてことぐらい分かってはいるのだが、今日の午後のどこかで炎山は退院してしまうのだと思うと、友人が居なくなってしまうのだと思うと――……。

もちろん炎山が退院してもロックマンは傍に居るのだから熱斗は完全に一人ぼっちになってしまう訳ではない。
特にロックマンはナビの中でも感情表現がかなり豊かな方に入るのだから、機械と話しているとは感じないどころか、人と話す感覚に限りなく近いだろう、しかし、それでもロックマンは飽くまでも『ネットナビ』であって『人間』ではない。
だから、ロックマンがいることで誰も居ないと感じることは無くなるかもしれないが、人が居ないと感じることまでは無くならない。
けれど、それだけなら熱斗が実際に寂しいなどと思う事は無く、直接同じ世界で遊べる友人がいないことに退屈する程度のはず、ロックマンがいれば寂しいなんて思わない、なら今はどうして?
話しかけたい、話しかけられない、話しかけてほしい、でも話しかけてもらえない……あと何時間で炎山は退院するのだろう?
その時はこの病室の自動ドアが開くのか、それともまるでいつも自分がされる呼び出しの様に炎山のPETが鳴って……嫌だ、ドアに開いてほしくない、PETに鳴ってほしくない。
モヤモヤした気分で、視線は窓の外に向けて、意識は耳と共に炎山とブルースの会話に向けている状態で既に二十分は過ぎた。
無駄に続く沈黙に嫌気がさして、そろそろ一度ぐらい気にしてくれたっていいじゃないか! と思ったところで炎山がそれに気付いてくれる訳など無くて、熱斗はさすがに一度自分から声をかけようかと考え始める。
そもそも話したいと思っているのは熱斗なのだから、その方法が一番なのは誰が見ても言うまでも無く、熱斗自身も分かっていない訳ではないはずなのだが、今日はどうしてそれができないのか。
結局、一度自分から声をかけようと思ってから更に数分が過ぎてしまって、壁に掛けてある時計を見ると正午まで後数十秒。
午後の何時に退院なのか知らないが、午後になったらそれこそ向こうから話しかけてくれる確率なんてゼロに等しくなってしまうだろう。
一か八か、例え数秒であっても午後にならない内に自分から話しかけようと、熱斗は緊張しながら少し深く息を吸って炎山を呼ぼうとした、のだが、

「副社長、お迎えにあがりました。」
「ゲホッ、ゴホッ……」
「ああ、ご苦労。って……熱斗、お前はどうしてそんなに思い切り咳き込んでいるんだ?」

声を出す直前に、炎山の秘書か部下と思われるスーツ姿の男性二人が病室に入ってきて、それに驚いた熱斗は酷く咳き込むことしかできなかった。
それに至るまでの事情を全く知らない炎山に、突然盛大に咳き込む熱斗の姿はギャグ漫画によくあるワンシーンにしか見えなかったことだろう。
炎山は少しきょとんとした表情で、コイツは何がしたいのだか……と言いたげな、呆れたような視線を熱斗に向けてくる。
その冷めた視線が、酷く気に障った。

「か、関係無いだろ!? 早く退院すればいいじゃんか!」

先ほどまでの激しい葛藤で独り、周囲の知らないところで気持ちが昂っていた熱斗に、炎山の冷めたような視線は非常に居心地が悪く、冷静さを失った熱斗はそう吐き捨てて炎山とその迎えのIPC社員たちに背を向けた。
そして沈黙する。
炎山やIPC社員達、そしてそれぞれのPETの中のロックマンとブルースも、何が起こったのか分からず言葉が出ない。
そんな凍りついた空気を喜ぶように、熱斗の脳内に一瞬、ざまぁみろ、と相手を嘲笑う言葉が浮かぶ。

しかしその直後、それは冷たい沈黙の中で酷い後悔に変化した。
何がざまぁみろなんだ、炎山は何も悪くないのに、どうして怒鳴ってしまったんだ。
熱斗は此処に至ってようやく、炎山は自分がが先ほどからの数十分間で何を考えていたか全く知らないことと、そもそも炎山は何か悪い事をした訳ではないことを思い出した。
炎山には何も非は無いのだからこんな態度は不快以外の何物でもない、自己中心的と言われても反論できない、炎山に嫌われてしまうかもしれない……。
沈黙はまだ続いている。

「……何を怒っているのか知らんが、俺に非は無い、とだけ言っておこう。お前も早く退院して光博士たちを安心させてやれ。」

その重く冷たい沈黙を最初に破ったのは炎山だった。
炎山は先ほどの熱斗よりも遥かに冷静だったが、それでも熱斗の言動に不快感が生じたのは間違いなく、その声音には熱斗の態度への嫌悪感が混ざっている。
それは例えるなら細くて小さい縫い針で、刺さった時に痛いと感じることは確実でも抜いてしまえば大した傷は残らない、そんな微かな物だったはずなのだが、熱斗は縫い針の刺し傷に似合わない大量の血――罪悪感を流す。

――待って、ごめん、違うんだ、ちょっと寂しくて、ついムキになっちゃっただけなんだよ!――

そう言って炎山を引き止めたいのは山々なのだが、もはやそんなふうに許しを請うことこそ許されない気がして、どうすればいいのか分からない。
そして熱斗は浅く俯いて動くこともできずに黙りこんだ。
炎山はそんな熱斗をしばらくじっと見つめていたが、それでも口を開かず身動きさえしない様子にこれ以上待っても熱斗は何も言わないと判断し、部下と思われる男性二人に行くぞと一言声をかけて共に病室を出て行く。
少しずつドアに向かう複数の足音に、早く出て行けと拒絶を感じる一方、やはりまだ行かないでと言いたい願望が押し寄せて、胸が苦しい。
やがて足音が全て部屋を出て、病実のドアが完全に閉まると、既に十分感じている罪悪感の上に、何かが終わってしまったような脱力感と、何かを失ったような虚無が追加された。
先ほどよりも深く俯いて――うなだれて黙りこむ熱斗を心配して、ロックマンがPETの中から小さく静かな声で不安そうに話しかけてくる。

「熱斗くん……いいの?」
「いいんだよ! これが正解!」

乱暴に吐き捨てた此処最近で一番大きな嘘、その迫力に押されてロックマンが身体をこわばらせる。
正直なところ、熱斗はあの自分の態度を正解だなどとはもはや全く思っていないのだが、そんなことを認めるのは嫌で、ロックマンの問いかけに答えるフリをして誰よりも自分に言い聞かせる、俺は間違ってなんてない、と。
けれど実際には自分が間違ったなんてとっくに分かっていて、炎山は炎山がするべき事をしただけであることも、それに対して自分が正当性の無い癇癪を起しただけだということも分かっている。
自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違っている、自分が正しい、自分が間違って――。

何度も何度も自分を正当化しては責め、責めては正当化して、また責めてを繰り返す熱斗はロックマンの事を気にかける余裕を失っていて、いつの間にか肩の上に現れてこちらをとても心配した様子で悲しそうに見つめてくるロックマンの視線には気付かない。
熱斗はベッドに倒れるように横になって枕に顔をうずめた、と思ったら急にとび起きて病室を歩き回り始めた、と思ったらまたベッドの上に座って、と思ったらまた倒れるように横になって――。
それを繰り返す姿は第三者から見たらとても奇妙なものだろう。
しばらく何も言わないでそっとしておこうと思っていたロックマンもさすがに、落ちつくようにと声をかけるべきかと悩む。

だが、ロックマンがその結論を出す前に、熱斗の方がベッドに横になってから動きを止めた。
落ちついてくれたことには少しだけホッとしたが、熱斗を奇行に走らせた何かはまだ全てが終わった訳ではないような気がするロックマンは緊張しながら熱斗を呼ぶ。

「えっと、熱斗くん?」

大丈夫?とか、落ちついた?などと言うと、その張り詰めた神経を逆なでしてしまう気がして、ロックマンはとりあえず名前を呼ぶだけにした。
不安そうで心配そうでおっかなびっくりなその声は、ある答えが出たことで落ちついた熱斗にしっかりと届き、熱斗はゆっくりと上半身を起こしてベッドの上に座り直してから、自分を心配そうに見つめてくるロックマンの視線に自分の視線を合わせる。
熱斗が落ち着いた、とロックマンはようやく胸を撫で下ろしたが、その事実に一番安心しているのは熱斗自身だったことをロックマンはまだ知らない。

「ごめんな、ロックマン。もう大丈夫だから。」

上手く笑いきれていないその場しのぎの微笑と弱々しい声が、二人以外の誰もいない病室の”寂しさ”を引き立てた。
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