Re_そばにいて……
しばらくして時刻が午後七時を過ぎた頃、他の社員が続々と帰宅を始めた事から副社長室に転送されてくる書類データの量は減り、すぐに返事をする必要がある書類データが手元に無くなった炎山は、ブルースが促すままにIPC副社長室を出て、IPC本社ビルのエントランスにいた。
時間が遅くなってきた事もあってロビーには人が少なく、他者からの営業マンや取引先の社員の姿は一切ない。
いるのは、本来は客人用として設置しているソファーに座って休憩する帰宅間際のIPC社員と、日中よりも人数が少ない二、三人の受付嬢、そしてやはり日中に比べると人数が少ない警備員、そして、エントランスの奥まった場所にあるエレベーターから降りたばかりの炎山だけだ。
昼間よりずっと人の少ないエントランスを軽く見回しながら、炎山はエレベーター前を離れてエントランス中央にある受付の机に向けて歩き出す。
すると、昼間より人数が少なくなった受付嬢達が、何故か日中より少し早くそれに気が付いて、愛想の良い微笑を浮かべながら炎山に視線を向け一礼し、炎山が机の前に着いて立ち止まると声をかけてきた。
「副社長、何か御用でしょうか?」
「少し、外に出てくる。」
「承知しました、お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「ああ。」
終始愛想のいい柔らかな微笑を浮かべる受付嬢へ、無表情でそっけない声の返事を残し、炎山は受付の机から離れ、透明な防弾ガラスでできた自動ドアのある正面玄関へ向けて歩き出す。
しかし、受付の机からたった三、四歩しか歩かないうちに、炎山は再び立ち止まり、周囲を見渡し始めた。
そして、どうしたのだろう? と言いたげな表情で顔を見合わせる受付嬢達を背にしながら、炎山はエントランスの壁際の一角、社員達の休憩用に安物のソファーやテーブルが設置されている場所に視線を合わせる。
そこには、まだ若さの感じられるスーツ姿の男性社員がいて、PETを持ちながら何かを喋っている姿があった。
もし、それが他社の社員との商談の約束や、自社の社員との業務連絡を淡々と行う通話だったなら、炎山がその姿に目を向けることは無かっただろう。
だが、男性の声は商談や業務連絡に使うそれとは全く別物の、柔らかく楽しげな声だったのだ。
「あぁもしもし? ……。そう、僕だよ。……。これから帰るんだけど、あの子はまだ起きてるかな? ……。そっかぁ、それは嬉しいなぁ。……。よーし、今夜は急いで帰るから、パパとパーティーだ! ……。」
PETに喋りかける男性と受付付近に佇む炎山の間にはそこそこの距離があるので、男性の通話の相手がどんな返事をしているのかまでは炎山には聞こえてこない。
しかし、男性の話す内容から、通話の相手は男性の家族――おそらくは妻だろう――で、他の家族――おそらく、息子か娘――の様子を尋ねているのだろう、という事は容易に想像ができる。
IPC社内にいながら、凛々しいビジネスマンではなく優しい父親の顔をする男性を見て、炎山は僅かに眉をひそめた。
その男性の表情が、社内では唾棄すべきものに感じられたからである。
と言っても、それは飽く迄も炎山が個人的にそう思っただけであり、規則として、社内にいる時はいかなる状況であろうとビジネスマンらしさを失くしてはいけない、と決まっている訳ではない為、炎山にその男性を叱責する事は出来ない。
「炎山様……?」
どうしようもなく理不尽で、どうしようもなく胸を焼き焦がす不快感に苛まれながら立ち尽くしていると、左耳の傍で自分を呼ぶ声が聞こえた。
炎山がハッとして自分の左肩を見ると、そこには小さなホログラムのブルースが立っていて、どこか不安げな表情を浮かべていそうな雰囲気を漂わせている様子が見える。
咄嗟に出そうになる、いつからそこに、という言葉を飲み込んで、炎山はブルースから視線を逸らしながら一言、
「何でもない。」
とだけ言って、再び玄関の自動ドアに向けて歩き出した。
ブルースは、自動ドアに向けて歩く炎山の左肩の上から、炎山が先ほど見ていたものにもう一度視線を向ける。
男性は、まだPETを通じて家族と会話をしているようで、炎山やブルースには視線を向けていなかった。
それを見たブルースは、徐々に自動ドアに近付く炎山の左肩の上で、不快感よりも無力感に苛まれ、そっと胸を押さえる。
ブルースには、あの男性を見ていた炎山の顔に浮かんでいた不快感の正体が、自分には得られないものを当たり前のように持っている者への嫉みの感情である事が容易に感じ取れたのだ。
そして悲しくも、自分にはその暗い感情を解消する事はおろか、和らげる事もできないのだろう、という事も容易に想像がつくのだから、ブルースはただただ無力な自分が嫌になってしまう。
その無力感は、せめて自分が炎山のナビではなく、炎山の兄弟だったなら、同じ立場で同じものを背負って、お互いを慰め合えるというのに、という、あり得る事の無いもしもの考えに逃げ込みたくなるほど強烈であった。
時間が遅くなってきた事もあってロビーには人が少なく、他者からの営業マンや取引先の社員の姿は一切ない。
いるのは、本来は客人用として設置しているソファーに座って休憩する帰宅間際のIPC社員と、日中よりも人数が少ない二、三人の受付嬢、そしてやはり日中に比べると人数が少ない警備員、そして、エントランスの奥まった場所にあるエレベーターから降りたばかりの炎山だけだ。
昼間よりずっと人の少ないエントランスを軽く見回しながら、炎山はエレベーター前を離れてエントランス中央にある受付の机に向けて歩き出す。
すると、昼間より人数が少なくなった受付嬢達が、何故か日中より少し早くそれに気が付いて、愛想の良い微笑を浮かべながら炎山に視線を向け一礼し、炎山が机の前に着いて立ち止まると声をかけてきた。
「副社長、何か御用でしょうか?」
「少し、外に出てくる。」
「承知しました、お気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「ああ。」
終始愛想のいい柔らかな微笑を浮かべる受付嬢へ、無表情でそっけない声の返事を残し、炎山は受付の机から離れ、透明な防弾ガラスでできた自動ドアのある正面玄関へ向けて歩き出す。
しかし、受付の机からたった三、四歩しか歩かないうちに、炎山は再び立ち止まり、周囲を見渡し始めた。
そして、どうしたのだろう? と言いたげな表情で顔を見合わせる受付嬢達を背にしながら、炎山はエントランスの壁際の一角、社員達の休憩用に安物のソファーやテーブルが設置されている場所に視線を合わせる。
そこには、まだ若さの感じられるスーツ姿の男性社員がいて、PETを持ちながら何かを喋っている姿があった。
もし、それが他社の社員との商談の約束や、自社の社員との業務連絡を淡々と行う通話だったなら、炎山がその姿に目を向けることは無かっただろう。
だが、男性の声は商談や業務連絡に使うそれとは全く別物の、柔らかく楽しげな声だったのだ。
「あぁもしもし? ……。そう、僕だよ。……。これから帰るんだけど、あの子はまだ起きてるかな? ……。そっかぁ、それは嬉しいなぁ。……。よーし、今夜は急いで帰るから、パパとパーティーだ! ……。」
PETに喋りかける男性と受付付近に佇む炎山の間にはそこそこの距離があるので、男性の通話の相手がどんな返事をしているのかまでは炎山には聞こえてこない。
しかし、男性の話す内容から、通話の相手は男性の家族――おそらくは妻だろう――で、他の家族――おそらく、息子か娘――の様子を尋ねているのだろう、という事は容易に想像ができる。
IPC社内にいながら、凛々しいビジネスマンではなく優しい父親の顔をする男性を見て、炎山は僅かに眉をひそめた。
その男性の表情が、社内では唾棄すべきものに感じられたからである。
と言っても、それは飽く迄も炎山が個人的にそう思っただけであり、規則として、社内にいる時はいかなる状況であろうとビジネスマンらしさを失くしてはいけない、と決まっている訳ではない為、炎山にその男性を叱責する事は出来ない。
「炎山様……?」
どうしようもなく理不尽で、どうしようもなく胸を焼き焦がす不快感に苛まれながら立ち尽くしていると、左耳の傍で自分を呼ぶ声が聞こえた。
炎山がハッとして自分の左肩を見ると、そこには小さなホログラムのブルースが立っていて、どこか不安げな表情を浮かべていそうな雰囲気を漂わせている様子が見える。
咄嗟に出そうになる、いつからそこに、という言葉を飲み込んで、炎山はブルースから視線を逸らしながら一言、
「何でもない。」
とだけ言って、再び玄関の自動ドアに向けて歩き出した。
ブルースは、自動ドアに向けて歩く炎山の左肩の上から、炎山が先ほど見ていたものにもう一度視線を向ける。
男性は、まだPETを通じて家族と会話をしているようで、炎山やブルースには視線を向けていなかった。
それを見たブルースは、徐々に自動ドアに近付く炎山の左肩の上で、不快感よりも無力感に苛まれ、そっと胸を押さえる。
ブルースには、あの男性を見ていた炎山の顔に浮かんでいた不快感の正体が、自分には得られないものを当たり前のように持っている者への嫉みの感情である事が容易に感じ取れたのだ。
そして悲しくも、自分にはその暗い感情を解消する事はおろか、和らげる事もできないのだろう、という事も容易に想像がつくのだから、ブルースはただただ無力な自分が嫌になってしまう。
その無力感は、せめて自分が炎山のナビではなく、炎山の兄弟だったなら、同じ立場で同じものを背負って、お互いを慰め合えるというのに、という、あり得る事の無いもしもの考えに逃げ込みたくなるほど強烈であった。