Re_そばにいて……

「副社長、新しいコーヒーをお持ちしました。」

副社長室のすぐ隣にあり、副社長室から直通となっている、簡易的な台所の設置された部屋――給湯室の扉が、コンコンッ、と軽くノックされてから開き、普段から炎山の傍で働いている秘書二人の内の片方が、副社長室に入ってきた。
秘書は両手でトレーを抱えていて、そのトレーの上には淹れたてのブラックコーヒーを注いだ白いマグカップが置かれている。
炎山はディスプレイを見る目と、チェックした報告書や企画書の不備の指摘や、詳細の要求をする為の更なる書類データ作りをする手を休め、秘書の方へと顔を向けた。

「あぁ、ありがとう。」

炎山は秘書へ軽く礼を言ったが、その顔に笑顔は無く、ほぼ無表情と言って差し支えが無い表情をしていた。
秘書はトレーに乗せていたマグカップを机の上に置いて、無表情の炎山とは反対にニコッと微笑んでから給湯室へ引き返していく。
その後ろ姿が給湯室に消える前に、炎山はそれから視線を外し、机の上に置かれたマグカップに手を伸ばしてその取っ手を掴み、自分の口元へ運ぶ。
それからほんの少しマグカップを傾けて、中に注がれた温かいブラックコーヒーを少しずつ飲み始めた。
その時の炎山は、まるで味の無い水でも飲んでいるかのように相変わらずの無表情であったが、そこにほんの僅かな休息の気配を感じ取ったブルースは、少しだけ勇気を出して思い切った行動を取る。
炎山がマグカップを口から離す前に、リンクPET-EXの機能であるネットナビの縮小ホログラム表示を使い、机の上に小さなホログラムとなって姿を現したのだ。

「ん? どうした、ブルース。」

ブルースが机の上に現れた事に気が付いて、コーヒーを飲む事をやめた炎山が問いかける。
その淡々とした様子を見て、ブルースは自分がしようとしている事に関して一瞬だけ躊躇を感じた。
所詮、ブルースは炎山の部下であり、その関係は決して対等ではない。
だから、部下である自分が上司である炎山に、仕事以外で何か提案するなど、何処か押しつけがましく、無礼な事に思えたのだ。
しかし、例えその様な上下関係や主従関係があるとはいえど、幾つもの死線を共に潜り抜けてきた自分と炎山の間には、ロックマンと熱斗にも似た絆があるはずで、自分の想いは炎山に伝わるはずだと信じなければそれは炎山を信じていない事にもなる、と考える事でブルースは自分を奮い立たせ、口を開く。

「炎山様、少し外出いたしませんか?」

ブルースの提案に、炎山は少し驚いた顔をした。
いつもは滅多に意見などしてこないブルースが、仕事と全く関係ない意見を自分にしてきた事が意外だったのだ。
しかしその驚きも一瞬の事で、炎山はすぐにブルースの提案の意味を理解すると大きな溜息を吐く。

「はぁ……今はそんな暇は無いだろう。仕事はまだまだ山積みなんだぞ。」

非常に面倒臭げな反応を見せた炎山に、ブルースは再び躊躇し、口を閉ざす。
やはり自分が自分だけで動いた所で炎山に良い影響を及ぼす事など不可能なのだろうか?
そう思うと、今は何も言わずに仕事を手伝い続ける事だけが最善の行動のように思えて、ブルースは書類データのチェックに戻ろうかと思う。
炎山も、ブルースが黙った様子を見ると、コーヒーの残るマグカップを机の上に置き、ディスプレイに視線を向け直してキーボードに両手を伸ばす。
だが、その両手がキーボードに触れる前に、ブルースは再び口を開いた。

「ですが、長時間のパソコン作業はお身体に障ります。気分転換も兼ねて外に行きましょう。」

此処で意見を引き下げる事は最善の策ではなく、逃げの策である。
だから、炎山の為を思うならば此処は退いてはならない。
そう思ったブルースがそう言うと、炎山はキーボードに近付けていた手を止め、僅かな驚きを隠せていない顔で再びブルースに視線を向けた。
それを見詰め返すブルースの目はいつも通り黒いサングラスに隠れているため、炎山にはその目がどんな表情でこちらを見詰めているのか確かめる事は出来ない。
だが、ブルースが半端な気持ちで外出を提案している訳ではない事は炎山にも伝わっていき、炎山はブルースが何故そこまで自分に外出を勧めてくるのか、その理由に興味を持ち始めていた。
だから炎山は、少し思案する様子を見せた後、指先を軽くキーボードに乗せながら言う。

「……分かった、キリの良い所で外に出よう。」

そう答えた炎山の声は相変わらず平坦で、感情の波が感じられなかった。
だがそれでもブルースは、炎山が自分の提案を受け入れてくれた事が嬉しくて、炎山と自分の間の可能性をまた一つ見つける事ができた気がして、思わず声を弾ませる。

「ご理解いただき、感謝します。」

普段より少し喜怒哀楽の喜――喜びの感情が感じられる声で感謝を述べながら、深々と頭を下げたブルースを、炎山はしばしの間不思議なものを見るような目で見ていた。
炎山としては、ブルースの妙に活き活きとして積極的な態度は、不思議な事もあるものだ、という観点から興味を惹かれないものではない。
しかし、今の炎山にとって大事なのは、そんなブルースの様子を観察する事よりも、年末が迫っている事も相まって普段以上に次々と舞い込んでくる大量の仕事を片づける事である。
だから炎山は、ブルースが深々と下げた頭を上げる前に、視線をパソコンのディスプレイへ向け直す。
その為、その数秒後にようやく頭を上げたブルースの視界に映った炎山は既に仕事へと舞い戻っており、まるで何かに取り憑かれた――否、縛り付けられたようにディスプレイと無表情で睨み合っていて、もはやブルースの事を見てはいなかった。
炎山にとって仕事はどれだけ大切なもので、他者に対して誇れる要素の一つなのか、それをしっかりと理解しているブルースは、そこに文句を言おうとは思わない。
ただ、ブルースや秘書達と軽い雑談を交わす余裕も無くなるほど仕事に打ち込んでいるその姿を見ると、勇ましさと同時に何処か痛ましさを感じ、胸が詰まる思いを感じるのだ。

――一刻も早く、休憩を取れるようにしなければ。――

そう思ったブルースは、再び炎山に声をかける事はせず静かにディスプレイの電脳の中に戻り、自分が任されている書類データの解析を再開した。
2/9ページ