鳥籠の錯覚と混濁する想い

だがその一方で、炎山はやはり、そんなものは自分だけが感じるただの錯覚だという事を忘れた訳ではない。
だから、炎山にそれ以上の事はできない。
本当は薄桃色の唇に口付けてみたいし、自分より少しだけ小さな体を抱きしめてもみたいとも思っているが、それはメイルの意に反し過ぎている事――メイルを傷付けるだけの事だと思うと、ギリギリの所で欲望よりも理性が勝った。
メイルはいつか熱斗のもとへと帰っていく、その未来を壊す事ができるほど、炎山は壊れる事ができずにいる。
しかし、だからと言って今すぐにメイルをこの場所から解放するという選択をとれるほどの、いや、そもそもメイルを誘拐などせずに熱斗との幸せを純粋に願う事ができるほどの正常さを保てなかった結果が今だ。
その意味では、自分はもう壊れているのかもしれない、と炎山は考えている。

そして炎山は、二人の自分の声を聴くのだ。
既に最初の一歩は踏み出してしまったのだから、最後まで駆け抜けるように壊れてやれと囁く邪悪な自分と、これ以上の事は何もやってはいけない、せめてここで止まらなければいけないと叫ぶ善良な自分の声を。

炎山はゆっくりと上を向いて、メイルの表情を窺った。
メイルは今この瞬間もガラスの壁の外に視線を向けていて、地上でも天上でもない場所、遠くに広がる地平線を見つめている。
もしかしたらメイルは、此処からでは見えないと分かりつつも、二ホン列島とその中にあるはずの熱斗の姿を探しているのかもしれない、そう思った炎山は二重の意味で胸が痛むのを感じた。
やはりここでも邪悪な自分と善良な自分が言い争っていて、それぞれが別の痛みで炎山を刺している。
メイルに熱斗も他の友人もいない寂しい生活をさせている事への罪悪感と、こんな生活をしても尚メイルは熱斗だけを見つめていて炎山の事を見てはくれないという事実に対する悔しさ、その二つの痛みに耐えながら、炎山は救いを求めるかのようにメイルの右腕にしがみつき、その肩に頬を寄せた。

「どうしたの……?」

炎山にしがみつかれた事に気が付いたメイルが、その視線をガラスの壁の外から炎山へ移しながら問いかけてきた。
炎山はしばしの間沈黙したが、やがて小さく口を開いて、

「……すまない、その、今だけ……今だけ、許してくれ。」

と言った。
その“許してくれ”は何に対しての許してくれだったのか、それはメイルにはもちろん炎山にも分からない。
ただ炎山は、自分が本来許されない事をしているという事だけはどこかで自覚しているのだろう。
そうでなければ“許してくれ”などという言葉が出るはずはない。
許されない、けれど許してほしい、そんな矛盾を抱えた少しだけ苦い表情で、炎山はメイルの腕に縋る。
縋り付かれたメイルは、炎山を見つめたまま何も言わなかった。
許すとも許さないとも違う第三の選択――諦めの色が強く出たその表情に、炎山は何度目か分からない胸の痛みと共に視線を床に落とす、その直後、

「……ゆ……せる……ちに……」

炎山の耳に、メイルの声が微かに聞こえてきた。
炎山は少し驚いて視線を上げ、メイルの顔を見る。
メイルの表情は相変わらず空虚で、視線はガラスの壁の外の遠くを見ているが、炎山は何故か、責めるような視線と哀れむような視線が自分に向けられているような緊張感を感じた。
それは炎山が抱える罪悪感故か、それともメイルが本当に炎山を責めているからなのか、炎山には分からない。
ただ、メイルはもう一度、先ほどと同じぐらい小さな声で、同じ言葉を繰り返す。

「許せる、うちに……私を帰して、ね?」

その言葉は炎山にとって、お前は一生熱斗には勝てない、という言葉とほぼ同意義で、炎山は、そんな事は最初から分かっている、と思いつつも改めてショックを感じずにはいられなかった。
言葉が刺さった胸の奥、流れ出る血は悲しみで、突き上げる痛みは悔しさか。
どれだけ尽くしてもどれだけ傍にいても、メイルの気持ちは熱斗だけを求め続けていて、その視線が炎山に向けられることは無い、それを炎山は改めて思い知った。
ならばどうするべきか、それは普通に考えれば、今すぐにでもメイルを解放して熱斗のもとへ帰らせてやるべきで、炎山もそれは分かっている、分かっているのだが、炎山はその答えを選択肢から消してしまう。
では、炎山は一体どんな選択肢を選んだというのか、それは、メイルの発言に対して炎山が吐いた“嘘”が物語る事となる。
炎山は、メイルの顔から視線を逸らし、ガラスの壁の向こう側を見ながら言った。

「そうだな……許せるうちに、な。」

それは炎山が初めて口にした、メイルを解放する趣旨の言葉で、メイルは少し驚いて炎山を見た。
その表情はまさに、まさかそんな素直な言葉が返ってくるとは思ってもいなかった、と言いたげである。
メイルの両目に、僅かに輝きが戻ったような気がするのは気のせいではなかっただろう。
けれども、先ほども記したように、炎山のこの言葉は所詮“嘘”で、実際には正反対の意味を持っている。
だからメイルはこの先更に数ヶ月の間、この鳥籠のような場所の中で暮らす事を余儀なくされるのだが、それはまた別の場所で記すべき事柄だろう。

ともかく、炎山が自分を解放してくれる方向でものを考え始めたと思ったメイルは少し心に余裕ができたのか、未だにメイルの腕に縋り付いている炎山の肩を左手で優しく撫でた。
メイルは、熱斗がメイルの気持ちに気付かないように炎山の気持ちに気付いていない、という訳ではないのだ。
だからメイルは炎山の言った事――所詮それは嘘なのだが――を信じ、あと少しの間なら、炎山にもう少し優しくしてもいいかと思う。

それが、自分をこの場所に縛り付ける結果になるとは知らずに。

そうしてそれぞれの思惑が重ならないままで二人は寄り添う。
その姿を見ていたのは、地上の夜景と、天上の星々と、今日は光を見せない、まるで炎山の心の中のように暗い月だけだった。


End.
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