鳥籠の錯覚と混濁する想い

「ただいま、桜井。」

すると、それまで誰もいないように見えていた室内で、何かがごそりと動く音がして、部屋の奥のソファーの影の形にゆっくりと、まるで背もたれという土から植物が芽を出すかの様に、人間の上半身と思わしき影が加わった。
どうやら、誰もいないと思っていた室内には実際には誰か、おそらく炎山が呼んだ桜井という人物がいて、ソファーの上で横になっていたらしい。
そしてその桜井という人物は、炎山の声に反応して体を起こし、ソファーに座り直した、という事のようだ。
炎山は、部屋の中の人物に自分の声が届いたことを確信すると、扉のすぐ近くに設置されている、天井の明かりを操作する為のスイッチを右手で簡単に操作し、天井の明かりを点けた。
カチッというスイッチの切り替わる音とほぼ同時に、部屋の中の様子が鮮明に見えるようになる。
そこは、IPCという会社のビルの中にありながら、何処かお伽話の城の中のような現実味に欠けた色合いと装飾に塗れた、普通のリビングと言うには明らかに異様な部屋だった。
部屋の壁は主に薄い桃色に統一されており、ソファーの皮も黒やベージュではなく優しい桃色をしていて、その一方で床に敷かれたカーペットは少し暗いがその分高級感のある赤色をしている。
更に、天井の明かりはただの蛍光灯ではなく、所謂シャンデリアと言える形の物が取り付けてあって、光の色は目の覚めるような青白い光ではなく、どこか温かいややオレンジがかった色をしていた。
それらは、赤いカーペット以外は炎山の趣味と思えるものではない、というのは言うまでもないだろう。
それなら、これは炎山が呼んだ桜井という人物の趣味なのか、というと、それも少し違うというのが実際の所である。
炎山は、先ほどスイッチを操作した右手で軽くドアノブを引いて、扉が勝手に閉まるように差し向けてから、室内に一歩踏み込んだ所で靴を脱いで、それからカーペットの敷かれた領域へと足を踏み出す。
会社のビルの中といえど、居住スペースは二ホン人らしく靴を脱いで入るようにと設計したのは、炎山のちょっとした気遣いでもあった。

炎山はカーペットの敷かれた領域に踏み込むと、迷う事無く部屋の奥のソファーに向かって歩く。
一方ソファーに腰かける人物――おそらく桜井という人物であろうその人は、そんな炎山の足音に気付いていないのか、それとも気づいている上で無視をしているのか、ソファーの中央に腰かけたまま微動だにせず、ただぼんやりとガラスの壁の外を眺めている。
もしかしたら、桜井という人物は炎山の存在を無視していたいのかもしれない。
それは炎山も薄々、否、濃厚に勘付いていた。
だがだからといって、炎山はそれを不快に思ったり、苛立たしく思ったりはしない。
むしろ、それが普通だと、当たり前の事だと思い、僅かな罪悪感すら感じていた。
けれど今、炎山の中にはその罪悪感にすらも打ち勝つような想いがあって、それが炎山の足を前に進ませている。

やがて炎山はソファーのもとへたどり着くと、桜井という人物の右隣にゆっくりと腰かけた。
それに気付いた桜井という人物――紅色の髪と、桃色のミニスカートが特徴的な少女は、あまり顔を動かさずに視線だけで隣に座った炎山を見る。
そして一言、

「……おかえりなさい。」

とだけ、ぼそりと呟いて、またガラスの壁の外の夜景に視線を向けた。
その声にはつらつとした元気は無く、何処までも虚ろで空っぽな雰囲気に、炎山の胸が僅かに痛む。
分かっていた、分かってはいたが、やはり自分ではその心を希望や喜びで満たす事は出来ないのだという悔しさと、そもそもこの少女を空っぽにしてしまったのは自分だという罪悪感が炎山の胸を貫くのだ。
それでも炎山は、その気持ちを誤魔化すように、少しだけぎこちなく、慣れない笑顔を作って少女に話しかけ続ける。

「あのな、桜井、今日は君が欲しがっていたハンドバッグを買ってきたんだ、だから、その、受け取ってくれないか?」

炎山がそう言って左腕に抱えた紙袋を少女に差し出すと、少女はゆっくりと炎山に顔を向け、やがて小さく頷いて紙袋を受け取った。
そう、先ほどのあの買い物は、炎山自身の買い物ではなく、少女へのプレゼントだったのだ。
少女が紙袋を受け取ると、炎山はそれが嬉しかったのか、少しだけ自然に微笑んだ。
一方、少女は特にこれといって特別な表情はしていない。
しいて言うなら無表情としか言えない表情で、少女は紙袋の中のハンドバッグを見つめる。
そしてその場に漂うは沈黙。

「……ねぇ。」

その沈黙を破ったのは意外にも少女の方で、炎山は少し驚きつつ返事をする。

「なんだ?」

すると少女は、紙袋の中のハンドバッグから視線を外し、またガラスの壁の外の夜景に目を向けながら、

「……私、いつ、帰れるの?」

と、訊いてきた。
炎山の胸がドクンッと高鳴る、それはある種の警鐘のような、罪悪感のような、それでいて焦りのような、不快な感覚を帯びていて、炎山は言葉に詰まった。
いや、正確には言葉は喉の奥まで出かかっている。
君の帰る場所はもう此処なんだ、他に何処に行こうと言うんだ、俺の傍が君の居場所だ、などという言葉を、炎山は必死に飲み込んでいた。
何故炎山は思った事をそのまま素直に言わなかったのか、その答えは少女――桜井 メイルが此処にいる背景にある。
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