全ての序章『全てはそこから始まる』

今も、丁度彼の傍を一人の男子生徒が通り過ぎようとしたので、彼は

「おはよう。」

と挨拶をしたのだが……その男子生徒は、彼に少しだけ視線を向ける、というよりも一瞬だけガンを飛ばすと、そのまま無言で立ち去ってしまった。
こればかりは彼も気分が良くなかったのか、なかなかに不機嫌そうな顔になって立ち止まり、振り返るも、男子生徒は先ほど彼が降りてきた階段へ向けて歩いて行ってしまう。
その後ろ姿を見詰める彼の顔に浮かんでいた表情は、不機嫌以外の言葉で表すなら、恐らく、軽蔑、であったであろう。
一体、彼とこの男子生徒の間に何があったというのか。
ともかく、彼は教師とは思い難い冷たい表情を浮かべながら、しばらくの間男子生徒の後ろ姿を見ていたが、やがて無表情に戻ると職員室へ向けて再び歩き出した。
職員室の近くに来ると、階段付近よりは生徒の数が減り、彼が挨拶をする相手も減ってくる。
彼はほんの少しだけ早足になって、人の気配の少ない廊下を職員室へ向けて真っ直ぐ歩いた。
そうして、彼はようやく職員室の前に到着する。
職員室の扉はピッタリと隙間なく閉じられていたので、もしかしてもう職員会議が始まっているのかと思った彼は腕時計を見るが、職員会議の開始にはまだ二分ほどの猶予があった。
それならこれは単に几帳面な誰かがしっかりと閉めただけか、と思いつつ、彼は扉に手を伸ばす。
だが、彼が扉に触れるよりも先に、自動ドアでも無い扉はガラガラッと音を立てて素早く開き、驚いた彼は一歩後ずさる。

「満(みちる)? そんな所で何をしているんだ?」

彼が後ずさると、彼の身長よりもやや高い所から、随分とハスキーだが若干の女性らしさが残った声がした。
その声をよく知っている彼は、後ずさったまま少し上を向いて、声の主が彼の良く知る人物である事を確認する。

「あ、Search(サーチ)ちゃんかぁ、ちょっと驚いちゃった、あはは。」

彼の視線の先にいたのは、長い黒髪で顔の半分を隠していて、身長177.8センチの彼より若干長身の人物だ。
身長182.5センチ、肩幅が広く胸に膨らみが無いそのスタイルと、彼よりも随分凛々しく整った顔立ちは、ぱっと見ただけでは男性に見えない事もない。
だが、こう見えてこの人物は女性である。
証拠に、彼は彼女をSearchちゃんと呼んだ。
しかし、白いワイシャツに黒いネクタイを締めて、黒いスーツのズボンを穿き、黄土色で丈の長い薄手のコートを着た姿は、どう見ても男性そのものである。
そして不思議な事に、彼女は普通ならば茶色か黒色であるはずのある場所――目の中の虹彩が何故か、血のように紅い色をしていた。
だが、彼にとってそれは気にするほどの事ではないのか、もしくは見慣れた日常のピースの一部なのか、彼がそれを指摘したり不思議がることはない。
それよりも、此処で気にするべきは、先ほどまで作り笑いばかりだった彼が、珍しく自然と笑っている事だろう。
喜びと照れ笑いの混じった顔で彼女――名は、Search=Darkness(サーチ=ダークネス)という――の顔を見上げる彼に、彼女は淡々とした声で告げた。

「会議が始まる、早く中へ入れ。」

そしてSearchは扉を開いたまま職員室の奥へと戻っていく。
彼はしばしの間その様子を不思議そうに見ていたが、やがて、Searchが職員室を出ようとしたのは自分を呼びに行こうとしていたからなのだろう、と気が付くと少し嬉しそうに微笑みながら職員室に踏み入り、背後へ振り返って扉を閉めた。
そして、既に自分の机に戻って着席しているSearchの傍に小走りで駆け寄り、そのほぼ左隣に置いてある椅子に座る。
彼の机は職員室のほぼ中心にあって、尚且つSearchの机の左隣にあるのだ。
着席した彼はまず、自分の左手首の腕時計を見て、職員会議の開始まで後何分かを確認する。
会議の開始までの猶予は、残り一分を切っていた。
彼は時計から視線を逸らし、自らの机の上に置かれた一年二組の出席簿を見て、その拍子を右手で軽く撫でながら、最初から大して乱れていない呼吸を更に整えるかのように小さな溜息を吐く。
それは、気持ちを落ち着けるためというよりも、精神を集中して気を引き締めるための意味合いが強いようで、溜息を吐いた後の彼の表情には、まるで生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているかのような緊張感がある。
そう、此処は彼にとって一種の戦場で、職員会議は戦闘開始の合図のようなものなのだ。

「皆さん、おはようございます。」

やがて、彼やSearchよりもいくらか老け込んだ雰囲気のある男性教師――教頭の声がして、彼はゆっくりと出席簿の表紙から視線を外す。
他の教師達も、それまで行っていた作業を中断し、司会を務める教頭がいる職員室前方へと視線を向け始めた。
彼はそれまで出席簿の表紙を軽くなぞるように撫でていた手を、女性の様に行儀よく合わせた膝に置き、着席したままで身体ごと視線を教頭へと向ける。
その時彼の手から解放された出席簿の黒い表紙には、金色の文字で以下の内容が書かれていた。

『20XX年度 1年2組出席名簿
担任:藤咲 満
副担任:Search=Darkness』

職員室前方、ホワイトボードの前に立ち、意味の無い形式的な前置きを長々と垂れ流す教頭をじっと見ている彼――藤咲 満(ふじさき みちる)の目の奥に潜む感情を知る者は、此処にはまだいない。
全てが暴かれるのは、まだまだ先の事。
これは、全ての始まりに過ぎないのである。


Continued on next Story.
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