全ての序章『全てはそこから始まる』
とはいえ、それは一瞬の事であり、またほんのわずかな変化であったため、真波とマサナが気付くことは無い。
二人はしばし顔を見合わせた後、お互いに責任がある事に納得したのか、あるいはここで彼に反発する事は合理的ではないと考えたのか、声をそろえて彼に謝る。
「……はーい、ごめんなさーい。」
彼はその謝罪を訊いても尚、しばしの間不機嫌そうな顔をしていたが、やがて小さく溜息を吐くと、その表情を笑顔に作り替えてから言う。
「分かればよろしい。もう走っちゃ駄目だよ?」
彼がそう言って明るく笑って見せると、真波とマサナの表情にも徐々に笑顔が戻っていく。
どうやら、二人は彼の笑顔を見て心底安心したようだ。
おそらく二人は、本当は作り笑顔でしかない彼の笑顔を本心からの笑みだと思い、自分達は許されたと思っているのだろう。
確かに、真波とマサナが廊下を走っていた事に関して、彼はそこまで本気で怒っておらず、寧ろその程度の事は正直どうでもいいとすら思っていたので、この事に関して二人を許さないという事はない。
であるならば、何が彼の笑みを自然体ではなく作り物にしているのかというと、それは、真波やマサナと同い年だというのに二人のような自然な笑みを浮かべず、まるで彼の作り笑顔のような笑みを浮かべる未彩を心配する気持ちである。
彼は、未彩の言動の端々から、未彩が真波やマサナとの関係性について思い悩んでいる事を、なんとなくではあるが感じ取っているのだ。
とはいえ、何度も言うように、彼はこの件に関して何か出来る立場ではない。
彼にできる事は、三人の中に流れる友人関係という楽曲に混ざった僅かな不協和音を聴き取り続ける事だけ。
誰が悪い、では一切解決しないこの問題に、彼は頭を悩ませていた。
「藤咲せんせー? どうかしたの?」
「藤咲先生、具合でも悪い?」
「……えっ?」
未彩の笑みと真波やマサナの笑みの温度差に不協和音を感じ、それに聴き入ってしまったせいか、彼の顔からは徐々に笑顔が剥がれ落ちていたらしい。
真波とマサナの声でハッと現実に引き戻されてみると、二人は彼の顔を下から覗きこんでいた。
その表情は、彼を心配しているとか、彼の何かを疑っていると言うよりは、単に彼の様子を不思議がっているだけのようである。
それを見て彼は、嗚呼自分はこんなにも未彩と真波とマサナの不協和音に気付いているというのに、この二人はこちらの不安や心配には一切気付かないのか、と感じ、残念さと腹立たしさを並行して感じた。
だが、彼がそれを表に出す事はない。
彼はすぐさま笑顔を作りなおして
「あぁ、いや、どうもしないよ?」
と言って見せた。
真波とマサナはまだ何かを不思議に思っているような表情をして顔を見合わせ、それからもう一度彼に視線を向ける。
それはもしかしたら、彼が嘘を吐いているような気がしたのかもしれないし、単に彼の表情変化に追いついていけなかっただけかもしれない。
どちらにしろ、何かを追及されると言い訳をする事があまり得意ではないという自覚を持っている彼は、二人が彼に一連の表情変化の意味を問うより先に口を開いた。
「そんな事より、二人ともとりあえず教室に行きなよ。鞄重いでしょ? 僕も職員会議があるから行かないといけないしね。」
彼がそう言うと、真波とマサナは殊更彼の言動を不思議に思っていそうな顔を見せる。
それは彼の言動や表情変化が真波とマサナの理解の範疇を超えてしまっているからなのだろうが、そうなった原因は彼の変化の激しさにあるのか、それとも真波とマサナの理解力の乏しさにあるのか、それともその両方なのか、それは誰にも分からない。
ともかく、真波とマサナは少し困ったように顔を見合わせたが、やがて理解が追いついた――否、深い理解を放棄して浅い理解だけを完了したようで、爽やかな笑顔にも見える明るい表情に戻って言った。
「まぁ、そうだな! じゃあ、俺達教室に行ってまーす!」
「藤咲先生、また後でねー!」
そして二人はそれぞれ彼の両脇を早足で通り過ぎると、階段を駆け上がり始めた。
バタバタと煩い足音に、振り返った彼が少し呆れたように呟く。
「だから廊下は走らないって……もう、聞いてないか。」
彼が口を閉じた頃には、真波とマサナは踊り場を通り過ぎて次の階段を上り始めていて、彼の普通の声が聞こえる場所にはいなかった。
彼は大きな溜息を吐くと、前方へ向き直って一階の廊下を歩きだした。
廊下には、真波やマサナとは別の生徒たちの姿がちらほら見える。
彼は自分の脇を通り過ぎる生徒一人一人になるべく明るい笑顔で、優しく朝の挨拶をしながら歩く。
正直、それは元があまり明るくなく、活発でも社交的でもない彼にとってかなりの精神的重労働であったが、教師である彼が生徒達を無視する事などできる訳はなく、彼はすれ違う生徒達全てに一言、おはよう、とだけ声をかける。
彼が挨拶をすると、大抵の生徒は未彩のように丁寧な反応か、あるいは真波やマサナのように明るい反応を見せてくれるのだが、ごく一部の生徒はそうもいかないのが現実だった。
二人はしばし顔を見合わせた後、お互いに責任がある事に納得したのか、あるいはここで彼に反発する事は合理的ではないと考えたのか、声をそろえて彼に謝る。
「……はーい、ごめんなさーい。」
彼はその謝罪を訊いても尚、しばしの間不機嫌そうな顔をしていたが、やがて小さく溜息を吐くと、その表情を笑顔に作り替えてから言う。
「分かればよろしい。もう走っちゃ駄目だよ?」
彼がそう言って明るく笑って見せると、真波とマサナの表情にも徐々に笑顔が戻っていく。
どうやら、二人は彼の笑顔を見て心底安心したようだ。
おそらく二人は、本当は作り笑顔でしかない彼の笑顔を本心からの笑みだと思い、自分達は許されたと思っているのだろう。
確かに、真波とマサナが廊下を走っていた事に関して、彼はそこまで本気で怒っておらず、寧ろその程度の事は正直どうでもいいとすら思っていたので、この事に関して二人を許さないという事はない。
であるならば、何が彼の笑みを自然体ではなく作り物にしているのかというと、それは、真波やマサナと同い年だというのに二人のような自然な笑みを浮かべず、まるで彼の作り笑顔のような笑みを浮かべる未彩を心配する気持ちである。
彼は、未彩の言動の端々から、未彩が真波やマサナとの関係性について思い悩んでいる事を、なんとなくではあるが感じ取っているのだ。
とはいえ、何度も言うように、彼はこの件に関して何か出来る立場ではない。
彼にできる事は、三人の中に流れる友人関係という楽曲に混ざった僅かな不協和音を聴き取り続ける事だけ。
誰が悪い、では一切解決しないこの問題に、彼は頭を悩ませていた。
「藤咲せんせー? どうかしたの?」
「藤咲先生、具合でも悪い?」
「……えっ?」
未彩の笑みと真波やマサナの笑みの温度差に不協和音を感じ、それに聴き入ってしまったせいか、彼の顔からは徐々に笑顔が剥がれ落ちていたらしい。
真波とマサナの声でハッと現実に引き戻されてみると、二人は彼の顔を下から覗きこんでいた。
その表情は、彼を心配しているとか、彼の何かを疑っていると言うよりは、単に彼の様子を不思議がっているだけのようである。
それを見て彼は、嗚呼自分はこんなにも未彩と真波とマサナの不協和音に気付いているというのに、この二人はこちらの不安や心配には一切気付かないのか、と感じ、残念さと腹立たしさを並行して感じた。
だが、彼がそれを表に出す事はない。
彼はすぐさま笑顔を作りなおして
「あぁ、いや、どうもしないよ?」
と言って見せた。
真波とマサナはまだ何かを不思議に思っているような表情をして顔を見合わせ、それからもう一度彼に視線を向ける。
それはもしかしたら、彼が嘘を吐いているような気がしたのかもしれないし、単に彼の表情変化に追いついていけなかっただけかもしれない。
どちらにしろ、何かを追及されると言い訳をする事があまり得意ではないという自覚を持っている彼は、二人が彼に一連の表情変化の意味を問うより先に口を開いた。
「そんな事より、二人ともとりあえず教室に行きなよ。鞄重いでしょ? 僕も職員会議があるから行かないといけないしね。」
彼がそう言うと、真波とマサナは殊更彼の言動を不思議に思っていそうな顔を見せる。
それは彼の言動や表情変化が真波とマサナの理解の範疇を超えてしまっているからなのだろうが、そうなった原因は彼の変化の激しさにあるのか、それとも真波とマサナの理解力の乏しさにあるのか、それともその両方なのか、それは誰にも分からない。
ともかく、真波とマサナは少し困ったように顔を見合わせたが、やがて理解が追いついた――否、深い理解を放棄して浅い理解だけを完了したようで、爽やかな笑顔にも見える明るい表情に戻って言った。
「まぁ、そうだな! じゃあ、俺達教室に行ってまーす!」
「藤咲先生、また後でねー!」
そして二人はそれぞれ彼の両脇を早足で通り過ぎると、階段を駆け上がり始めた。
バタバタと煩い足音に、振り返った彼が少し呆れたように呟く。
「だから廊下は走らないって……もう、聞いてないか。」
彼が口を閉じた頃には、真波とマサナは踊り場を通り過ぎて次の階段を上り始めていて、彼の普通の声が聞こえる場所にはいなかった。
彼は大きな溜息を吐くと、前方へ向き直って一階の廊下を歩きだした。
廊下には、真波やマサナとは別の生徒たちの姿がちらほら見える。
彼は自分の脇を通り過ぎる生徒一人一人になるべく明るい笑顔で、優しく朝の挨拶をしながら歩く。
正直、それは元があまり明るくなく、活発でも社交的でもない彼にとってかなりの精神的重労働であったが、教師である彼が生徒達を無視する事などできる訳はなく、彼はすれ違う生徒達全てに一言、おはよう、とだけ声をかける。
彼が挨拶をすると、大抵の生徒は未彩のように丁寧な反応か、あるいは真波やマサナのように明るい反応を見せてくれるのだが、ごく一部の生徒はそうもいかないのが現実だった。