全ての序章『全てはそこから始まる』

「それじゃあ僕、会議があるからそろそろ職員室に戻るね。」

そう言った彼は、こちらの件に関しては若干薄情と言えるかもしれない。
とはいえ、虐めの件と違い、こちらの件では、彼にできる事は本当に、本当に何も無いのだから仕方がないのだ。
それに僅かなもどかしさを感じているせいか、未彩へ振り返った彼の笑顔は何処かぎこちなく、わざとらしい雰囲気があった。
その笑顔のぎこちなさの理由を未彩が知っているかどうかは分からない。
ただ、未彩は無理に彼を引き留めたり、彼のわざとらしい笑顔に不快感を示したりする事は無く、やや曖昧な笑みを見せながら、先ほど机の上に置いた文庫本の上に手を置いて

「はい、分かりました。」

と、物分かりのよさそうな返事をしてきた。
その様子は、貴方が立ち去った後は読書を再開するつもりである、という意思表示に見えるかもしれない。
だが彼は、それが未彩の本当の望みではない事を、入学してから今までの未彩や、未彩の周囲の動向をよく見ていた為に知っている。
しかし、やはりそれに関して彼にできる事は何もないという事も強く理解している為、彼はなるべく笑顔の形を崩さないようにしながら

「じゃあ、また後で!」

と言って未彩に背を向け、教室後方の扉から再び廊下へ出て行く。
廊下に出た彼がすぐに後ろ手で扉を閉めたのは、未彩への罪悪感のようなものがあったからかもしれない。
勿論、彼が教室の扉を閉めた理由はそれだけでなく、単に教室の扉はこまめに閉めるものだと認識しているからという事もあるのだが、それでも、背後に振り返る事なく後ろ手で扉を閉めたのは未彩と視線を合わせ辛かったからだろう。
そして、彼はまるで教室から逃げるようにやや速足で歩き出した。
未彩に対し職員室に戻ると言った手前、職員室に戻らなければいけないと思ったのである。

彼は、一年二組の教室の前を離れると、一年三組の教室の前を通過して、校舎の角にある階段を下り始めた。
階段を下り始めると、先ほど窓から見えた生徒達のものであろう喋り声が少しずつ大きく聞こえるようになってくる。
あと一、二分もすれば、一年二組の教室にも未彩以外の生徒の姿が見え始めるのだろう、と思いながらゆっくりと階段を下っていると、下の階の方から何やらバタバタと騒がしい足音がいくつか聞こえてきた。
それに気付いた彼は一瞬顔をしかめたが、すぐに小さな溜息を吐いて表情を無表情に戻す。
もしも、その時の彼の心の声を聴く事ができたなら、それはおそらく、落ち着け、彼等は無神経であるが悪人ではない、といったセリフが聴こえてきた事だろう。
彼は二階と一階の中間地点にある踊り場に到着すると、一階に続く残りの階段の最上部で立ち止まり、足音の主達を待った。
徐々に大きくなる足音、聞こえ始める会話、ああこれはやはりそういう事だ、と思う彼の脳裏に一瞬浮かんだのは、足音の主達の顔では無く、未彩の陰りのある表情で、彼は再び眉間にシワを寄せた。
しかしそれも一瞬の事で、彼は足音の主達が階段に駆け込んできた様子を見るや否や、大きな声で

「こらっ!! 廊下は走らない!!」

と言って、足音の主達を叱咤した。
足音の主達――天然パーマ気味なのかフワフワとしたショートヘアの女子生徒と、その女子生徒の天然パーマを直したようにすっきりまとまったショートヘアの男子生徒は、自分たちの意識の外側から突然飛んできた叱咤に驚いて、急ブレーキをかけた自動車のようにつんのめりながら急停止する。
それから二人は恐る恐る顔をあげて、階段の上の方に立っている人物が彼である事に気付くと、少し、いや大いにホッとしたように大きな溜息を吐いた。

「はぁー……なんだぁ、藤咲先生かぁー。」
「もー、脅かさないでよーっ!」

自分の胸の辺りを軽く押さえながら安堵して浅く項垂れる男子生徒と、それとは逆に階段の上の方に立つ彼を見上げて反発する女子生徒を見降ろしながら、彼は小さな溜息を吐いた。
この女子生徒と男子生徒は問題児という訳ではないのだが、いかんせん元気過ぎて彼の手には余る部分があるのだ。
彼は、この女子生徒と男子生徒のような、とにかく元気でいつでも走り回ってはしゃぎ回っているような人間の扱いはあまり上手くない方なのである。
ともかく、彼は少し不機嫌そうな顔をしてゆっくりと階段を下りると、女子生徒と男子生徒にもう一度、今度は普段通りの落ちついた声で注意をする。

「真波(まなみ)ちゃんもマサナくんも、元気があるのは良いけど、校舎内では走っちゃ駄目だって、何度も言ってるよね?」

彼がやや厳しい表情でそう言うと、女子生徒――桜木 真波(さくらぎ まなみ)と、男子生徒――旗見 マサナ(はたみ まさな)は、何かの悪戯が見つかった小さな子供の様な表情で顔を見合わせた。
その行動はまるで、責任は自分ではなく相手にあるのに、と視線で言い合っているように見えて、そういった責任のなすり合いが嫌いな彼は、二人を見る視線に僅かな嫌悪感のような冷たい感情を滲ませる。
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