青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

まるで先ほどまでの出来事が嘘か幻であったかのような爽やかな笑顔を貼りつけて、教師に対してそう宣言すると、満は教師が背後を振り向かないのをいい事に、そっと礼矢の手を引いて歩き出した。
礼矢は最初、やはり何が何だか分からなかったが、すぐに、満はこの自分達にとっての地獄から、自分を連れ出そうとしてくれているのだと気付き、満に手を引かれるままに歩きだす。
歩きながら、礼矢はチラリと周囲の様子を窺ったが、着席したままの他の生徒達は幾人かが視線こそこちらに向けているものの、追いかけようとしたり、教師に礼矢も教室を出ようとしている事を報告しようとする生徒はいなかった。
それはまるで、礼矢はこのクラスの一員ではないからいてもいなくてもどうでもいい、むしろいない方がいい、と態度で宣言しているように見えない事もなく、少しだけ寂しく感じられない事もなかったが、悪意をもって呼び止められるよりはマシだろう、と礼矢は一人で納得しておく事にした。
まだ黒板と向き合っている教師に気付かれないようになるべく静かに歩き、満が教室後方の扉の鍵を極力音を立てずに開けてスライド式の扉をゆっくりと開き、二人はあの男子生徒達の騒ぎ声が近くに無い事を確認してから廊下に出る。
そして今度は礼矢が背後になった扉へ振り返り、やはりゆっくりと静かに扉を閉める。
その頃には、他の生徒達の視線はもう教師と黒板に向けられており、礼矢と満を気にする者は誰もいなかった。
それに少しだけ安堵して、礼矢が小さく溜息を吐くと、満も気だるげな溜息を吐く。

「ふぅ……じゃ、いつもの所、行こっか?」
「……あぁ、そうだな……。」

疲れた笑顔の満に、礼矢が疲れた笑顔を見せながら答えると、満はそっと礼矢の手首から手を離して、なるべく足音を立てないようにゆっくりと廊下を歩きだした。
礼矢もそれを追いかけるように静かに歩きだして、二人はコの字型の校舎の角の方へと向かう。
この校舎の二つの角の内側には地下から屋上の出入り口までを貫く階段があり、最上階にある屋上につながる扉の前には小さなスペース、所謂踊り場がある。
屋上は基本的に立ち入り禁止であるからか、屋上につながる扉の前にあるこの踊り場を訪れる者は極めて少ない。
二人はそれを二人だけの密かな溜まり場――否、避難所にしているのだ。

廊下を歩いた時と同じようになるべく足音を立てないようにしながら、二人は自分達の避難所を目指して階段を上る。
階段を上る順番は、満が先で、礼矢が後だ。
本当は、横一列に並んで上ってもいいのだが、肥満体で運動神経が鈍く、体力もあまりない礼矢には、細身で人並みの運動神経と体力を持った満の隣に並んで歩く事は少し難しい事なのである。
その証拠に今も、たった一階分の階段を上っただけで、礼矢の息は切れかけていて、歩行速度は平らな廊下を歩いている時よりも遅くなっているのだから、礼矢は自分が情けなくてしかたがない。
更に、前を歩く満が一人で歩く時よりもずっとゆっくりとした動作で階段を上り、礼矢と距離が開かないように気を使ってくれているという状況も、礼矢がいかに鈍足かを証明しているように感じられて、礼矢をより惨めな気持ちにさせる。
とはいえ、だからといって満が一人でさっさと階段を上り、礼矢と距離を開けてしまうのはそれはそれで嫌な気持ちになる気がするので、礼矢は満のゆっくり歩くという行動に関して不満を言おうとは思わなかった。
それに、満のそれは悪意ではなく善意である事を思えば、不満を言う理由など何処にも無い、という事も、礼矢はきちんと分かっているのだ。

そうして徐々に速度を落としながらも階段を上りきった礼矢と満は二人だけの密かな避難所――最上階にあり屋上への出入り口となるドアがある小さな踊り場に到着した。
礼矢はその頃にはもう息も絶え絶えといった様子で荒い口呼吸を繰り返しており、それを見た満が小さく苦笑する。

「礼矢、大丈夫?」
「だ、大丈夫……だ……。」

口では大丈夫と言ったものの、礼矢は依然荒い口呼吸を繰り返しており、更に手すりにつかまって項垂れているものだから、満は困ったように笑っておく事しかできなかった。
礼矢はその笑みを見る度に、満も心の奥底ではこちらの事を“鈍間なデブ”と思っているのかもしれないと思ってしまう。
だが礼矢は、仮にその想像が、不安が、現実の事だったとしても、それを満に直接言うのは失礼であると思うから、何か言おうとは思わない。
……いや、もしかしたら、礼矢がそれを言わないのは満に失礼だからではなく、その言葉を発端にして自分と満の友人関係が崩れる事が怖いからかもしれない。
本当に怖いのは、満が礼矢を鈍間なデブと思っている可能性よりも、その可能性を考えて満を疑い、それなのに満との友人関係を捨てる事が出来ない自分の無様さだろう。
諦めれば楽と分かっているのに、諦めきれない夢。
誰かと友人でい続けるという事に、表面上は何の興味も無いフリをしながら、その下では自分でも嫌になるほどの執着心を抱いていて、そのくせ他人を深く疑る醜い自分を満に見られる事が、礼矢には何よりも恐ろしいのだ。
礼矢が、それをハッキリと自覚しているかどうかは別にして、であるが。
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