青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

一方、教室後方に机がある生徒達の中には、礼矢の開いた扉の音に反応して後ろへ振り返った者が何人かいて、その中には通学時に通学路で礼矢の事をデブ野郎と呼んでサイコパスだと言っていた男子生徒の片割れもいた。
男子生徒は礼矢を見るとあからさまに嫌そうな表情を浮かべ、嘔吐する時のような仕草を見せながら前に向き直る。
おそらく、吐き気がするほどお前が嫌いだ、とでも言いたいのだろう。
それは正直腹の立つ行為であったが、直接罵声を浴びせられた訳ではない為、礼矢は反応を慎んだ。
それから、自分の席は何処なのかを確認する為に教室を見回す。
するとその途中、おっかなびっくりとでも言うべき様子でこちらを見ている女子生徒と視線がぶつかった。
あれは、先程の男子生徒と同じく通学路で礼矢の事を話題にし、その中で礼矢への恐怖を滲ませていた女子生徒だ。
恐る恐るこちらを観察しているその視線には先程の男子生徒の視線とはまた別の悪意が籠っているような気がして、礼矢は床を見ることで女子生徒から視線を逸らす。
その時、女子生徒もちょうど礼矢と視線が合ってしまった事に気が付いたのか、礼矢が視線を逸らしたタイミングから少し遅れつつも、その表情を恐怖で引き攣らせながら素早く前に向き直った。
結果、礼矢と女子生徒はお互い視線を逸らすに至った訳だが、それでも、礼矢の胸には怒りとは少し別の不快感が溢れ、広がり、ジワジワとその思考を蝕んでいく。

だが、それは何も不思議な事ではない。
何故ならば、女子生徒の視線の中、恐怖の奥底には、先程の男子生徒が見せたものと同じ、あるいはそれ以上に強いかもしれない、礼矢への嫌悪が潜んでいるからだ。
女子生徒が礼矢に対して感じてる感情、恐怖――それは、得体の知れないものに対しての嫌悪感からくる感情であり、男子生徒が見せた嫌悪感と大差は無いのである。
しかも、女子生徒は自分を被害者側になる人間だと勝手に妄信しているのだから余計に質が悪いだろう。
この女子生徒を殺すつもりの一切無い礼矢に対し、得体の知れないものを見る目を向け、自分は礼矢に危害を加えられるのだと妄想して勝手に被害者ぶっている、それを敵意や悪意と呼ばずに何と呼べばいいというのだろうか。
実際、礼矢は女子生徒のそこに微かな苛立ちを覚えていて、であるからその胸に湧く不快感を消し去る事ができなかったのである。
ただ、礼矢のそれはあまり詳細ではなく、別に自分は誰も殺す気など無いというのに勝手な事を想像されるのは不愉快だ、という程度の少し大雑把なものであった。
そう、礼矢は誰も殺す気など無い。
礼矢は、満の様には成れない。
社会にとっては歓迎すべきその事実が、礼矢には酷く重い十字架の様に思えて仕方がない。

「おいお前! いつまでボケっと突っ立ってるんだ! 早く席に着け!」

甲高い、訳ではないのだが、とにかくよく響く体育会系の声が、その十字架の重さに浸る礼矢に投げつけられる。
女子生徒の態度に感じた不快感と、そこから湧き出る罪悪感を押し潰して自分を誤魔化す作業に没頭していた礼矢は、その声でふと現実に引き戻された。
ハッとして顔を上げると、声の主である男性教師の視線と、新しい三年二組の生徒達の殆ど視線が礼矢に向けられていた。
その視線は殆どがとても不機嫌そうで、礼矢は自分の背中が冷や汗に湿るのを感じながら、焦って自分の席を探す。
何処かに席順を示した張り紙がないかと思って教室を見渡すが、それらしき紙は見当たらない。
周囲の視線は一層不機嫌になって、音も無く礼矢を責め立てる。
その視線に微かな既視感を覚えつつも、礼矢は改めて教室を見回し、教室後方の隅に視線を向けた瞬間に、漸くその席の存在に気が付いた。
他の生徒たちの席によって構成された縦四列、横六列の長方形の並びから弾き出されたような位置に、誰も座っていない席がある。
これが自分の新しい席だと直感した礼矢は、少し速足でその席に近づき、机の下の椅子を引き出した。
直後、礼矢が着席した事を確認すると、男性教師は不機嫌そうな顔のまま黒板に向かい、誰かの名前――男性教師自身の名前を書き始め、名前を書き終わると簡単な自己紹介を始める。
その頃には殆どの生徒が男性教師に視線を向けていて、数多くの不機嫌な視線から解放された礼矢は目立たないように小さくではあるが溜息を吐いた。
それから、ややぼんやりとした表情で男性教師の自己紹介を聞く。
正直、礼矢としては男性教師の名字だけ覚える事ができれば十分なので、この自己紹介は退屈な事この上ないのだが、だからと言って手遊びをしていれば怒号が飛んでくるであろう事は目に見えているので、それは一応我慢しておく事にした。
しかし、このような無駄話を聞くよりは、登校中に聴いていた音楽の続きが聞きたい……と、礼矢が考えている間にも、男性教師の自己紹介は佳境に入っていく。
と言っても、礼矢にとって特別面白い話がある訳では無かったので、礼矢はそれも大して身を入れて聞こうとはしなかった。
自己紹介よりも連絡事項に時間を割くべきでは? という疑問は覚えたが、さすがの礼矢もそれを実際に口にするほど馬鹿ではない。

「……と、自己紹介はこの辺でいいな。」

やがて、男性教師は自己紹介を止めた。
それにより、漸く連絡事項の話か、と思った礼矢は少し背筋を伸ばして真っ直ぐ前を向く、が、

「それでだな……連絡の前に、お前達に言っておく事がある。」
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