青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「えっ、向こうは三組の教室じゃ……?」

情況を理解しきれていない礼矢の言葉に、男性教師は面倒臭がるように溜息を吐いた。
直後、そのタイミングを見計らったかのように朝の会の開始を知らせるチャイムが鳴り始めて、礼矢は未だ教室に入れていない自分に気付く。
結局、チャイムが鳴る前に教室へ入るという目標を果たせなかった礼矢は、やはり最初からサボってしまうべきであっただろうか? と内心で微かに後悔を感じ始めていた。
同時に、朝の会の途中から教室に入るよりは、今からでもサボってしまいたい、という願望も湧き上がってくる。
しかしだからと言って、すぐ近くにいる教師に背を向けてこの場から逃げ出すという荒業を成す程の無謀な度胸を持っていない礼矢に、その願望を遂げる事は限りなく不可能であった。
とはいえ、それならば結局の所自分は何処へ行けばいいのかという事が分からない礼矢は戸惑い混じりに思い悩むような顔をする事しかできない。
すると、その様子を見かねて、かどうかは分からないが、何にせよ礼矢は状況を把握できていないのだろうと思ったらしい男性教師が、呆れたと言いたげな表情を浮かべつつも口を開いて

「あー……お前やっぱり知らなかったんだな。今年の二組は元三組の教室を使うんだよ。」

と、礼矢にも分かるように現状を教えてくれた。
それにより、礼矢は漸く、自分は以前は三年三組の教室であった教室に行けばいい、という結論を得るに至り、この先何をすればいいか分からない事への不安から、解放された。
しかし、そのように状況を理解してみると、今度はそこまで明確に言われなければ状況を把握できない自分の頭の悪さに対しての何とも言い難い情けなさが込み上げ、穴があったら入りたいぐらいの羞恥が湧き上がる。
どうしようもなく逃げ出したい、という衝動が礼矢を襲った。
とはいえ、今この場であたふたと右往左往したところでどうしようも無く格好悪いだけだ、という事はさすがに想像が付く。
なので、礼矢は極力平静を装いながら、まずは男性教師に礼を言う事にする。

「そ、そう、なんですか、分かりました、ありがとう、ございます。」
「礼はいいから、さっさと行け。朝の会、始めるぞ。」

男性教師は礼矢の状況把握能力の低さに呆れているのか、それとも礼矢の会話力の低さに呆れているのか、或いは両方に呆れているのか、むしろ礼矢の全てに呆れているのか、飽く迄も面倒臭いと言いたげな態度を崩さなかった。
そして、礼矢に背を向けて何処かへ向けて歩き出す。
それらのぶっきらぼうで突き放すような態度に、礼矢は自分が何かしらの失敗――恐らく、会話をスムーズに進める事ができなかったという失敗――をしてしまった事を痛感し、今までで一番逃げ出してしまいたい衝動に駆られる事となった。
しかし、繰り返すようだが、礼矢には教師の目の届く範囲でサボりやその為の逃走を働く様な度胸は一切存在しない。
その為、礼矢は逃走したがる己の精神を抑え込もうと、深呼吸に近い大きな溜息をゆっくりと吐き、ある程度気持ちを落ち着かせてから、三年三組の教室――新しい三年二組の教室に視線を向けた。
すると、そこには、新しい三年二組の教室前方の扉に手を伸ばそうとする先ほどの男性教師の姿が見えて、礼矢は思わず反射的に男性教師に問いかける。

「え? もしかして、今度の担任って……」
「お前、それも知らなかったのか? 俺が、三年二組の新しい担任だよ。」

礼矢が問いを完了させる前に答えた男性教師は、体育会系に多そうな、鈍間な人間を毛嫌いしている人間の目で礼矢を見ていた。
だが、普段ならその嫌悪感を敏感に感じ取りそうな礼矢がそれに関して何かしらの感想を抱く事は無かった。
何故ならば、礼矢の脳裏にはその嫌悪感に満ちた視線よりも、新しい三年二組の担任は以前の三年二組の教員と真逆の人間であるという事の方が強く引っかかっていたからである。
おそらく他の生徒は何でもない事のように受け入れるであろうその変化が、礼矢には酷く大きな意味や意図のあるもののように感じられたのだ。
そう、例えば、以前の女性教師にはどうにもできないような事態――あの惨劇のような事態も、この男性教師ならばある程度は対応できるかもしれない、というような意図が学校や教育委員会にはあるのだろうと、普段は他人の意思を察する事ができない割に、悪意や敵意にだけは敏感に反応できる礼矢は察したのである。

「……ん? なんだお前、何か不満なのか?」

教室の扉の前にいる体育会系の男性教師の後ろに教師学校や教育委員会の意図を感じ取って微かに不愉快そうな表情になっていた礼矢に対し、男性教師が不機嫌そうに問いかける。
それに対して礼矢は、別に不満ではないが、後ろにある意図は正直不快だ、と思っていたが、だからといってそれをこの男性教師に言おうとは思わなかった。
何故ならば、それを言った所で事態は好転しないと感じたからだ。
もっと言うならば、それを言えば事態は自分に不利な方向へと動く、と感じたから、という事もある。
仕方ないので、礼矢は男性教師が自分に書けた疑いを端的に否定する事にした。

「いえ、別に。」

それだけ言うと、礼矢は先ほどの狼狽ぶりが嘘であったかのように落ちついた表情を浮かべ、男性教師から視線を逸らす。
男性教師はまだ何か言いたそうな、或いは怪訝そうな顔をしていたが、礼矢はそれに構おうとはせず、新たな三年二組の教室後方の扉に向けて歩きだした。
そして、どこか納得がいかない様子の男性教師が教室前方の扉を開くのとほぼ同じタイミングで教室後方の扉を開く。
前後ほぼ同時に聞こえた教室の扉が開く音に、教室内の生徒達の多くが何らかの反応を見せる。
一部の生徒達は男性教師が開いた扉の音に反応して前を向いた。
この反応は、教室前方に席がある生徒達に多い。
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