青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

だが、朝の会まで後三分となったその時だった。
礼矢は、何かに観念したような溜息を吐いて、握っていたプリントを乱暴に四つ折りにし、制服のブレザーの胸ポケットに突っ込むと、やや重い足取りではあるが、三年二組の教室に向けて歩き出したのである。
ただ、その歩みは亀のように鈍間で、礼矢が今も教室へ向かう事を躊躇している事は明白だ。
事実、礼矢の頭の中では、何故か押し殺される事になった本音が今も、サボる事で此処から逃げ出し、今日という日をやり過ごしてしまいたい、という内容を叫び続けていて、その悲鳴は、礼矢が教室に近づく度、礼矢の心臓を徐々に締め上げていく。
しかし、礼矢はそれでも教室へ向かう事をやめようとはしない。
嫌々だという雰囲気を全身から振りまき俯きながら、亀よりも鈍足に見える歩みで、礼矢は教室へ近づいていく。
やがて、朝の会まで残り数十秒となった頃、礼矢は今までと同じ三年二組の教室の前に辿り着いた。
早く席に着かなくては、朝の会が始まってしまう、と思いながら、礼矢は教室後方の扉に右手を伸ばす。
しかし、その指が扉に触れる直前

「おい、お前何してるんだ?」

背後から突然声を掛けられて、驚いた礼矢は思わず右手を引っ込めた。
それから、声の主は誰なのかと思いながら恐る恐る振り返ると、そこには体育会系の見た目をした中年の男性教師が立っていた。
男性教師は何か奇妙なものを見るような目で礼矢を見てきている。
礼矢は、何故そのような訝しげな視線を送られるのか分からず、少々戸惑ったが、この場は何か言わなくてはいけないという気はしたので、とりあえずは自分が此処に立っている訳を説明する事にして、やや遠慮がちに口を開いた。

「あ、いや、俺の教室此処なんで……」

すると、男性教師は殊更奇妙なものを見るような顔を見せながら首を傾げた。
それを見た礼矢は、自分は何かおかしな事を言ったのだろうか? と不安になり始め、視線を男性教師から逸らす。
また、早く教室に入らなければ朝の会が始まってしまうのに、という焦りもあった為、礼矢は若干挙動不審になりかけていた。
そうして表情がやや引き攣っている礼矢に対し、男性教師はやや呆れたような声音で告げる。

「何言ってるんだ? この教室は空き教室だぞ?」
「え? 空き教室?」

男性教師から言われた事に驚いた礼矢は、先ほど開けようとしていた扉にはめ込まれている透明なガラスの窓から教室の内部をそっと覗き込む。
そして、教室の内装の変わり様に驚いた。
まず目に入ったのは、掃除の習慣が無かったことから薄ら黒ずんでいたはずなのに、今はくすみ一つ無い新雪のような白さを見せている壁だ。
そのあまりの白さは恐らく、ペンキを塗り直して得たものなのだろう。
次に、視線をやや下に移すと、給食の時間や掃除の時間に机を移動する度に増えていた黒い跡――机の足先のゴムを引き摺った跡が完全に消えて、光沢さえ発している床が見えた。
これはどうやって得た結果なのか、礼矢には正直分からなかったが、恐らく、床と同様に大掛かりな作業をした結果なのだろうという事は想像できる。
他にも、長い間使われていた為に所々ペンキが剥がれている部分があったはずの木製の棚が新品同様に塗り直されていたり、染みや黄ばみができてまだら模様になっていたはずのカーテンは染み一つ無い新しく真っ白なものに変えられている等、様々な場所が新品同様に改装、或いは清掃されていて、惨劇の前まで感じられていた、少し古ぼけた教室という印象はどこにも見当たらない。
どうやら、三年二組の教室は、礼矢が知らない間に、非常に気合の入ったリフォームが施されていたようだ。
それは確かに、礼矢にとって大きな驚きではあった、が、礼矢が一番驚いた事はそこではなく

「……机、ねぇし……。」

という事であった。
三年二組の教室は、他の教室や廊下よりも格段に気合の入ったリフォームを施していたにもかかわらず、教室として使うための準備――生徒用の机と椅子、及び教卓の設置がされていなかったのである。
唯々、綺麗なだけの、空き教室。
それが、礼矢がいて、満がいた、あの三年二組の教室のなれの果てであった。
その事実を上手く受け止められず、教室の内部に視線を向けたまま呆然と立ち尽くす礼矢に、男性教師が問いかける。

「……もしかして、お前、三年二組の生徒か?」
「……え? あ、はい……。」

男性教師の問いかけで徐々に現実へ引き戻された礼矢は、ワンテンポ遅れて返事をした。
その遅れが気に入らなかったのか、それとも礼矢がある事実を見落としている事に呆れているのか、はたまたただ単に不機嫌なだけなのか、礼矢の返答を聞いた男性教師は小さく溜息を吐く。
それから、目の前の教室の隣にある別の教室を指さしつつ、ややぶっきらぼうな声で言った。

「それなら、向こうの教室だぞ。」

言われた側である礼矢は、戸惑いを隠せない表情のままで男性教師の指が指し示す場所に視線を向ける。
男性教師の指の先にあったのは、惨劇による生徒人数の減少の為に今は存在しない三年三組が、惨劇の前まで使用していた教室だった。
それはつまりどういう事かというと、本来の三年二組の教室は何らかの理由で使用しない事になったので、新しい三年二組の教室は本来空き教室になるはずだった今は無き三年三組の教室を使用する事にしているから、そちらの教室へ行け、という事なのだが、それを上手く理解する事ができなかった礼矢は少し間抜けな表情で、大分間抜けな事を言ってしまう。
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