青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「ねぇ、ねぇ! どうしよう……アタシ顔見られたよね? 殺されるのかな?」

この言葉を聞いた瞬間に礼矢が感じた悪寒のような冷たい衝撃は、この言葉を発した女子生徒の感じる礼矢に対して理不尽な恐怖よりも遥かに強いものだったことだろう。
その悪寒はまるで、元々凍てつくように冷たい冬の風が絶対零度まで冷たくなったような感覚だ。
直感が、これ以上は聞くなと告げている。
悪寒と直感は、心臓から徐々に凍り付かせる様な緊張と不安をもって礼矢を苛むが、礼矢はそれでもまだイヤホンのボタンを操作する事ができない。
その為、見かけ上はイヤホンにより蓋がされているが、実際には音楽による耳栓はされていない礼矢の両耳は、女子生徒達の会話を拾い続けてしまう。
そこには知りたくない真実があるという事はとっくに察していたが、それでも礼矢は目を、耳を、精神を、そこから引き離す事ができなかったのだ。
やがて、袖を引っ張られている方の女子生徒が、少し面倒臭そうな様子で口を開く。

「はー、アンタが振り返り過ぎるからいけないんでしょー。つーか、あんなノロマそうなデブに殺されるとか、さすがに無いってー。」
「でもでも、あのデブ不気味だし、あの三年生の知り合いなんでしょ!? 何してくるか分からないじゃん!!」
「なんも無いって。つか、この話聞かれた方がヤバくない? 逆ギレされっかもよー?」
「怖い事言わないでよ!!」

袖を引っ張られている方の女子生徒は、無理矢理良く言えば冷静だが、真っ直ぐ悪く言えば極度の楽観主義と不真面目さが目立つ言動で、袖を引っ張っている女子生徒を揶揄う。
一方、袖を引っ張っている女子生徒は、本気で礼矢に恐れを抱いているようなのだが、礼矢としては、ロクに情報を知らないままでそのような暴論を振りかざす女子生徒の方が恐ろしく感じられて仕方がないというのが正直なところであった。
そう思ってから、先ほどの男子生徒達の会話も思い出して、認識を改める。
あれも、自分――安切 礼矢の事と、その友人――藤咲 満の事を言っていたのだろう、と。
それから、礼矢はイヤホンのコードの途中にあるボタンを操作し、今更になって再び音楽を流し始めたが、礼矢の意識は音楽を上手く捉える事ができなかった。
何故ならば、大音量の音楽よりも大きな存在感をもったノイズのような感情――不快感、否、絶望が、礼矢の意識から音楽を弾き出してしまっているからである。
絶望は礼矢に、あの惨劇があっても尚、男子生徒達や女子生徒達が礼矢という他人に対し蔑称を使えるのは、彼等また彼女等はあの惨劇が自分に関係するような事だとは思っていないからだ、と囁きかける。
そう、礼矢に殺されるのではないかと怯えた様子を見せる女子生徒すら、根本的な所ではあの惨劇を他人事と感じ、自分には起こらないと無意識に確信しているから、礼矢の前で礼矢をデブ男などと表現する事ができるのだ。
本当は、他人事などではないというのに。
満の殺意は、学校に根付いた全ての悪意へ向けられていたのだから、彼等或いは彼女等が他人を蔑称で表現できるような人間である以上、あの惨劇は他人事ではなかった筈なのに。
もし、何かが少しでもズレていたなら、あの男子生徒達も、その女子生徒達も、満に殺されていたか、或いは、この自分に、礼矢に殺されていたかもしれないのに、何故、実際にはそうならなかったのだろうか?
陰鬱な感情が、礼矢の脳内で大きく深く暗く渦を巻く。

だが、それだけだ。
満と違い、自分独りではその渦――殺意に飛び込む事ができない礼矢には、今更その渦と一体化する事――他人事気分の傍観者達を殺す事など、できはしないのである。
そう、あの惨劇を目の当たりにしつつも最終的には他人事のようにやり過ごし、何も変わらぬ日常を生きているのは、彼等や彼女等だけではなく、礼矢も同じなのだ。
その意味において、礼矢は男子生徒達や女子生徒達の他人事気分を責める資格を所有してはいないのである。
他人事気分で野次馬目線の周囲が憎らしい。
しかしそれ以上に、それに対して責めの言葉を放つ資格を持たない自分が怨めしい。
どうしようもない悔しさと無力感を覚えたまま、礼矢は学校の正門を通過した。


昇降口で靴を履き替えた礼矢は、今までよりも少し生徒の数が少ない階段を上り、今までと同様に三階へと向かった。
他の生徒達よりも鈍足な歩みで三階に着くと、礼矢はそのまま真っ直ぐに教室へ向かう事はせず、非常扉の影に身を隠すような位置で立ち止まり、鞄の中から新しいクラス分けの内容が書かれたプリントを取り出す。
そして、昨日も確認した事ではあるが、自分の新しく所属する学級が以前と同じ三年二組である事を改めて確認すると、どこか憂鬱に見える表情を浮かべ、溜息を吐いた。
その表情と吐息には、自宅でプリントを確認した時から抱いている、このクラス分けの結果に対する二極化した感情――かつては満がいた為に良くも悪くも思い出のある三年二組にもう一度所属できる事が嬉しい、という思いと、満が捨て去った三年二組にもう一度所属して普通の高校生生活を送るなど満への裏切りに違いなく、到底許される事ではない為、非常に後ろめたい、という思いがぶつかり合い、最終的に後者が優位になる事で引き起こされた精神的疲労が色濃く滲んでいる。
礼矢は、教室へ足を運ぶ事を明らかに躊躇していた。
しばらくの間は、時間だけが無意味に過ぎていく。
やがて、朝の会の開始が五分後に迫っている事を知らせるチャイムが鳴り始めたが、礼矢はまだ非常扉の影から動かない。
正直、このまま朝の会も授業もサボってしまいたい、という気持ちが礼矢の中に芽生えつつあったのだ。
とはいえ、サボりは悪い事であり、教師に見つかれば直ぐに教室へ強制送還となるであろう事は容易に想像が付くので、それらを考えるとサボるべきではないという事は、礼矢もよく分かっている。
であるから、礼矢には、そろそろ教室へ向かうべきだ、という思いが無かった訳ではない。
しかしその一方で、今までの――満と共に過ごしていた頃の経験から考えて、自分一人が無断欠席のような事をしたところで教師達がそれを気にする事は無いだろう、という確信も存在している事が、礼矢の中で事態をややこしい事にしているのだった。
行かなければならないという義務感と、行きたくないという本音のぶつかり合いは、チャイムが鳴り終わってもなお続く。
礼矢は左手首に巻いた腕時計を見た。
朝の会までの猶予は、後四分と言ったところだ。
後四分、後四分の間此処を動かなければ、授業や朝礼、朝の会や帰りの会に途中から入り込む事が苦手な自分は、その恐怖心から教室に入る事を諦める事になり、サボるという決断を下せるだろう、という考えが礼矢の脳裏を過る。
此処までくれば、礼矢が教室に向かう事と向かわない事、どちらを選んだかは明白に見えるだろう。
33/42ページ