青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

その際、礼矢は気付いた。
礼矢の前方、一・五メートルぐらいの所に、礼矢と同じ高校の制服を着た女子生徒が二人歩いていて、その片方がチラチラと背後を――礼矢を気にして小さく振り向いている。
何かと思って少し驚いた礼矢は彼女等に視線を向けるが、女子生徒は礼矢に見られた事に気付くと慌てて前方に向き直り、隣にいた別の女子生徒と何かを言い合いながら学校へ向けて小さく駆け出していく。
その姿に嫌な予感が過った礼矢は、イヤホンのコードの途中に付いているボタンを操作し、イヤホンから鳴り響く音楽を密かに止めた。
そうして周囲の会話に耳を澄ます礼矢を、他人はどう思うのだろうか。
わざわざ嫌な予感に神経を研ぎ澄ます礼矢を、後悔するに決まっているのに行動に出る愚かな奴だと嘲るのだろうか。
しかし、他人がいくらそのように考えたところで、それは礼矢にとって大した意味を持たない。
何故ならば、耳を澄ます事で何らかの後悔する可能性について、礼矢は考えていなかった訳ではないからである。
むしろ、今までの経験からして聞こえてくる声の十中八九は悪口だと言って間違い無いだろう、という予想と、それを聴けば自分は酷い不快感を覚えるのだろう、という予想を、礼矢は充分にしていた。
そして、親や教師達が度々口にしていた、わざわざ耳を貸さなければいい、聞かなければいい、反応しなければいい、という言葉も思い出し、最初の一瞬はその通りにするべきかもしれないと考えた部分もあり、それが礼矢に音楽の一時停止を僅かに躊躇わせてもいた。
それは、危機回避の為に用意された一種の直感であったかもしれない。
しかし、礼矢は結局その直感に逆らい、音楽を止めた。
やがて、見掛け上はイヤホンで蓋がされているが音楽という防音壁は失っている耳の中に、周囲の会話が届き出す。
周囲は、礼矢は今も音楽を聴いているので自分達の会話には気付いていない、とでも思っているのか、案外大きな声で話し合っていて、例えば、少しチャラそうな男子生徒達の声は、こうだ。

「だからマジヤバいって、あのデブ野郎。」
「うわマジかよ……なんでフツーに学校来れるんだよ……。」
「サイコパスなんじゃねーの?」
「マジで? つまりアレとは類友ってヤツ?」

何となく語彙が少なく、中身が無いように聞こえない事もないその会話の中では、普段から礼矢に対する蔑称として使われる言葉――デブ野郎という言葉と、普段の会話ではあまり聞かない単語――サイコパス、という一言が、どういう理屈かは分からないが何らかの形で繋がって使われていた。
つまり、男子生徒達が話題に挙げるデブ野郎にはサイコパスの性質があるのだろう。
であるならば、人間としてポンコツではあるがサイコパスではない自分の話題では無いはずだ、と考え、礼矢は僅かに緊張を緩めた。
確かに、普段は自分に使われている蔑称が使われている事にはまだ何処か引っかかるものを感じる面もあるが、肥満体の人間など世界規模でみれば案外そこら中に存在しているものだ。
ならば、その中の一部がサイコパスの性質を持っていて、何らかの理由で人目に触れる事になり、男子生徒達の話題に上がる事になっても不思議は無いだろう。
少なくとも、自分はサイコパスではないのだから関係無いはずだ。
関係ない、筈だ。

だが、自分は関係無いという礼矢の推測が当たっていたとするなら、男子生徒達は一体何処の誰の事を話しているというのだろうか?
また、礼矢ではない別の肥満体であり、それと同時にサイコパスでもある人間が何処かにいたとして、それが普通に学校に来られるとは、どういう事なのかもいまいちハッキリとしない。
学校、という事は、その肥満体サイコパスは礼矢が通う学校の中にいるという事だろうか? それとも、ニュース番組或いはニュース番組風味のバラエティ番組が此処とは別の学校にそのような事例がある事を取り上げていたのだろうか?
もし前者であるならば、気にならないと言えば嘘になるので、礼矢はその人物が誰なのか少し考えてみようかと思った。
しかしその一方で、礼矢の頭の中、脳の奥、何処か本能的に恐怖を感じる部分からは、考えるな! という命令が、まるで警鐘のような緊張感を伴って鳴り響いており、それは礼矢の思考回路の働きに躊躇を与えていく。
結果、礼矢は男子生徒達が話題にした肥満体サイコパスについて考える事は止めておこうと決定し、周囲の会話や生活音を自分から再び切り離す為、イヤホンのコードの途中にあるボタンに手を伸ばしかけた。
だが

「あれってやっぱ、あの仲間のデブ男だよね?」

礼矢の指がボタンに触れるか触れないかというタイミングで、またも特定の誰か――肥満体の男性である誰かを指した言葉が聞こえた為、礼矢の指はボタンを押さないままその場で硬直してしまった。
礼矢は、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、そっと手を下ろしながら耳を澄まし、顔の向きは変えないままで視線だけ動かして周囲の様子を観察し、礼矢にとって何処か不穏な会話を始めた人物を探し始める。
そうして暫し神経を研ぎ澄ませていると、礼矢のやや前方を歩いている、二人組の女子生徒達――先ほど礼矢の様子を窺うかの様に何度も振り向いていた女子生徒と、その隣を歩く女子生徒の少し不自然な様子が目についた。
それらは何がどう不自然なのかと言うと、先ほど頻繁に振り向いていた方の女子生徒に落ち着きが無さ過ぎるのである。
先ほど頻繁に振り向かれていた事もあり、もしかしてあの女子生徒は自分に対し何か良くない――ハッキリ言って、悪いと言える感情を持っているのではないかと不安になる礼矢の視線の先で、挙動不審な女子生徒は、隣で平然と歩いているもう一人の女子生徒の服の袖を、何かを訴えるかのような必死さを見せながら頻繁に引っ張っぱりながら、言い放つ。
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