青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

「他にどう言えと言うんだ。嫌いな奴のために人生を棒に振るなんて、馬鹿としか言いようがないじゃないか。」

如何にも涼しげな様子で言い放った父親とは反対に、礼矢は頭が熱くなるような感覚を覚えた。
全身を巡るはずの血液が全て脳内に集まり、血管の内壁を傷付けながら猛スピードで循環しているような、その摩擦熱が示す感情は、苛立ちの上位互換、すなわち怒りである。
礼矢はこの時、父親は母親以上に何も知らず、理解していないのだと確信した。
父親は、満の件は飽く迄も他人事として感じているのかもしれない。
だが、本当は決してそのような事は無く、満と礼矢――殺意を解放した人間と解放しなかった人間の差は極僅かなものである事を、礼矢は知っている。
何故ならば、礼矢と満は、毎日毎日、毎日毎日、毎日毎日、毎日毎日、同じようなタイミングと同じような方法と同じような加減で虐げられていて、その心の底に、暴虐の嗜虐者達に対する重いヘドロのような怨みの念と、そのヘドロを糧に芽吹いた殺意を抱きつつ、毎日を綱渡りのような不安定さをもって歩み続けていた同類なのである。
だから、もしも何かの歯車が少しズレていたなら、あの赤い泥沼の中心で、赤い泥塗れになりつつ笑っていたのは、満ではなく、礼矢、であったかもしれず、或いは礼矢が一度は決意したように、礼矢と満の両方が赤い泥遊びをしていた可能性も十分にあったのだ。
しかし礼矢の父親は、満の抱えた怨みのヘドロと、そこに根付いた殺意を馬鹿な事だと簡単に嘲り、それと同じ感情を抱えた人間など自分の身近にはいないとでも言いたげな言動をとる。
実際には、父親にとって妻に次ぐ身近な存在――息子である礼矢が、満と同じ感情をもって、今も尚綱渡りの日々を過ごしているというのに、父親はその事実から目を背け――否、そもそも、父親はその事実に目を向けず、礼矢がその事実を父親の眼下に突き付けたとしても、それを一瞥しようともしないのだ。
父親の言動は、礼矢の友人である満への否定であると同時に、礼矢自身への否定でもある。
だから礼矢は、普段よりもずっと強く、高く、深く、激しい憤りを感じていたのだが、それでも、礼矢はその憤りを父親にぶつけようとはしなかった。
会話の雲行きが怪しくなってきたことに不安そうな顔をする母親の前で、礼矢は心の底から吐き出したく思った言葉を全て飲み込み、全く別の言葉を発する。

「……そうかよ。親父も可哀想な奴だよな。」
「何が可哀想だって言うんだ。」
「知るかボケ。」

話したところでどうせ理解など少しもしてはくれない癖に、と内心で毒づきながら、礼矢は椅子から立ち上がった。
母親は会話が親子喧嘩に発展しなかったことに安堵の表情を浮かべている。
ボケと言われた父親は、椅子から立ち上がった礼矢が話を打ち切ったと見るや否や、近くにあるテレビで垂れ流されているアメリカと北朝鮮の関係を報道するニュースに釘付けになったと思ったら、母親に対してアメリカへの愚痴をこぼし始めた。
礼矢は、アメリカに脅される北朝鮮や中国の気持ちを考える事はできても、不良生徒達の娯楽のための道具にされる事を苦痛に思う息子やその友人の気持ちは考える事のできない父親に対し、酷い嫌気のようなものが差すのを感じながら、自室へと踏み込む。
そして、リビングと自室を繋ぐドアを閉めたのだが、その音はまるで、母親と父親に対してある程度開かれていた自分の精神の扉が完全に閉まる音のように聞こえた気がして、礼矢は自宅に居ながら独りを実感した。
しかしそれでも、リビングで父親や母親相手に不協和音のような会話、或いは会話のような不協和音を奏でるよりは幾分マシなのだろう、と思う事で、礼矢は独りの実感に耐え、朝を待つ。
それは別に、朝が好きだからではない。
ただ、他にする事が無かっただけである。


翌日。
礼矢は、マスコミの突撃を避けるためにタクシーで送っていく、という父親の提案を跳ね除け、一人で登校していた。
季節は既に十二月上旬に突入しており、気温は肥満体で暑がりの礼矢でも寒さに震えずにはいられない程下がっている。
その為、礼矢より細く寒さに弱い人々はしっかりと防寒着を着用している者が多いが、礼矢はそれでもこれといって目立った防寒着を着用しないので、もともとの肥満体と不細工も相まって、人混みの中でやや目立つ存在になっていた。
だが、礼矢自身はそのような事は知った事ではないとでも言いたげに、以前と同じくスマートフォンに繋いだイヤホンで音楽を聴きながら、特に誰の事を気にする事も無く、俯き加減で歩く。
……否、正確には、誰の事も気にせずという事はないのかもしれない。
何故ならば、礼矢は道路と音楽に意識の殆どを向けながらも、残りの意識で満の事についてぼんやりと考えていたからだ。
それは、今この瞬間に礼矢が歩いている道が、丁度あの惨劇の日の朝に満が礼矢の肩を叩いた辺りで、二人が日々高確率で合流していた場所であった事と無関係ではないだろう。
礼矢は、今まで自分と満がこの道でどのように接していたかを思い返し、自分の脳裏には今も尚、この道の途中で自分の後姿を見付けては嬉しそうな表情を見せながら駆け寄って来る満の姿が鮮明に残っている事を確認する。
それにより、自分はまだ満の事をよく覚えているという確信を持つ事が出来た礼矢の胸には、安堵と呼ぶべき感情が微かに広がった。
だがすぐに、今は鮮明に思い出せるその姿も、いずれは他の大量な情報に圧されて滲むようにぼやけ、罅割れ、やがて消えていくのかもしれないという不安が脳裏を過り、礼矢は溜息を吐く。
吐き出した息は冷たい空気に晒されて、まるで煙草を吸っている大人の吐息の様な濃い白色を見せた。
それを見て、今日は色々と寒い、と思いながら、礼矢はそれまで地面にばかり落としていた視線を上げ、小さめのビルや豪華な住宅の間に見えるであろう高校の校舎を見ようとする。
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