青春の沈黙≪1≫ 絶望の果てに、絞首台の先で逢おう

不機嫌そうに返事をした礼矢に対し、母親は正直呆れたような、それでいて礼矢の事を心配してもいるような、複雑そうな表情を向けてきた。
事件の直後から何度か見受けられたその表情は、恐らく礼矢に対しての不信感の表れだろう、と礼矢は思っている。
恐らく母親は、満と仲が良かった礼矢が、満を追いかけるようにして、満と同じ道を辿る事を危惧しているのだ、というのが、礼矢の見解だった。
その見解は、客観的に見れば礼矢から母親への不信感に他ならないのだが、昔から自身を客観視するという行為が苦手を通り越して不可能である礼矢はそれに気付かない。
だが、実際問題として、母親も礼矢への不信感――礼矢が満と同じ道を辿るのではないかという不安を持っていない訳ではないので、礼矢の見解は完全に的外れという訳ではないのが少し悲しい所だろう。
とはいえ、母親はそれ以外の事――例えば、明日から学校に行く礼矢が今までとは違う形の嫌がらせを受けるのではないかという事も心配しているので、礼矢に対し不信感しかないという訳ではないのだが、残念ながら礼矢にそれを感じ取る力は無かった。
辛うじて感じ取れたのは、母親は礼矢に対し転校することを暗に勧めている、という事だけである。

「どうせ担任も変わっちゃうんだから、転校したって同じだと思うけどねぇー。」
「そういう問題じゃねぇし。」

そういう問題ではない、と言いつつも、礼矢はあの日に見た担任教師のみっともない姿をぼんやりと思い返した。
まだ生きている生徒達を見捨てて我先にと逃げ出す後姿の情けなさと、その情けなさから導き出される仮説――あの女教師が満や礼矢を救えなかった理由は、不良生徒達との親しさよりも、いざとなれば生徒など知ったことではないという態度で我先にと逃げ出してしまう本性にあるはずだという事を、礼矢は生涯忘れないだろう。
恐らくあの女教師は、例え満や礼矢の味方を気取って不良生徒達と敵対しようとも、自分に危害が及ぶかもしれないとなった時点で満も礼矢も簡単に捨て置いて保身に走るに違いない、という確信を、礼矢は女教師の情けない後ろ姿に感じたのだ。
尚、礼矢がそれを考えるようになったのはつい最近の事で、あの日はまだそのような余計な事を考えている余裕など無かったのだが、それは大した問題ではないだろう。
とにかく、礼矢が明日から通う事になる学級の担任は、あの女教師ではなかった。
何故ならば、満の起こした惨劇をトラウマにしたらしい女教師の名前と存在は、退職という形で既にあの学校から消え去っているからである。
正直な話、礼矢としては、真っ先に逃げ出しておいて何がトラウマだというのだろうか? 逃げ出せずに、しかし殺されずに、凄惨な赤い泥沼の中で生き残った生徒達の方が余程深いトラウマを負ったのではないのか? と思わない事もないが、そのような不幸の比較に大した意味は無いはずだと考えることと、満や自分のようにあの赤い泥沼の中心に立ちながら正気でいられる人間の方が珍しいのだと思うことでその感情を抑えることにしているのが現状だ。
だが、改めてあの醜態を思い出すと、何処か腹立たしい気がするのは、あの女教師は自分も満も救ってはくれず、救おうともしなかったのだ、という個人的な怨みがある故だろうか。
自分の執念深さに少し嫌気が差してきた礼矢が小さく溜息を吐いた、その直後

「礼矢、お前はあんな馬鹿な事はするなよ。」

聞こえてきたのは、母親の声、ではなく、父親の声だった。
満の行動を、馬鹿な事、と言い切った父親に腹が立ち、礼矢は眉を顰める。

「……その言い方は流石にねぇだろ。」

本当は、満は馬鹿な事などしていない! と、叫びたい気持ちが強く湧いたのだが、礼矢の父親は超の付く合理主義で感情論が全く通じない相手である。
なので、あまり感情的になったところで良い事は無いだろうと思い、礼矢は極力声を荒げないように気を付けながら反論した。
しかし、その反論の中には一番初めに思った事――満は馬鹿な事などしていない、という内容が読み取れる言葉は無い。
何故、礼矢は明確に満の肩を持つことを避けたのか?
礼矢自身はその理由を、この超合理主義者の父親にそのようなことを言ったところで、理解が得られるとは到底思えないので言う気にならなかったから、と結論付けているのだが、もしかするとそれ以外に、礼矢も心の何処かでは、満の行動は社会的には馬鹿としか言いようのない事なのだと分かっていて、それが礼矢に父親が発した満は馬鹿な事をしたという発言への否定の意欲を鈍らせた、という、礼矢自身には気付く事のできない理由もあるのかもしれない。
とにかく、理由がどちらであれ、事実として残るのは、礼矢がハッキリとした反論を慎んだという事だけである。
これはやはり、礼矢の思考の中に満の行動を後ろめたく思う気持ちがある証拠になるだろう。
とはいえ、父親が礼矢の数少ない友人である満を侮辱してきた事は、礼矢にとって許し難く腹立たしい事である、というのも事実である為、礼矢はこの反論で父親が自分の苛立ちを感じ取り、黙ってくれればいいと思っていた。
しかし、現実は常に非情なもので、父親は大きな溜息を吐くと、礼矢の苛立ちなどはどこ吹く風とでも言いたげな様子で、礼矢の反論への反論を述べる。
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